そのお寺は、鈴虫の鳴き声で満たされていた。

 美しく染まった紅葉の中、リーンリーン、リーンリーン、リーンリーンと、合唱するように鈴虫の声が響き渡る。

 女の子は言った。

「ここが、願いを叶えてくれるお寺なの?」

「うむ、そうである」

 隣の、言葉を喋る黒猫がそう答えた。

「ここが願いを一つだけ叶えてくれるというお寺。始まりにして終わりの場所なのである」

「願いかぁ。猫ちゃんには、願いはないの?」

「吾輩の?」

「うん、そう」

「そうであるな。吾輩の願いは――」


『ひとり旅の神様 古木誠一郎』



プロローグ



 いよいよその時が来たのだと感じていた。

 三年前のあの時にかけられた願いが、形となる時。

 吾輩は暗闇の中で、ゆっくりと息を吐いた。

『願い』の内容は分かっている。

〝そふぁ〟とやらの上で打ち上げられた魚のように眠っている女。疲れ切った身体と心で、会社とやらに行っても、いいことはないであろう。むしろ今あの者に必要なのは癒しと休息だ。まずは〝しゅっきん〟とやらを阻止しなければなるまい。そして、頃合いを見て縁を結ぶ。少々乱暴な手段になるかもしれないが、そこは『願い』のためには仕方あるまい。

「……」

 だって。

 吾輩はこういう形でしか、恩を返すことができないのだから。

 吾輩は、ずっとそこにいた。

 真昼の月のように、そこにあった。

 あの日から、ずっと傍に。




 第一話『梅雨明けの鎌倉と、猫神様』



 今日もまた、残業だった。

 ついていない時期というのは、とことんついていないものなのだ。

 そう私、神崎結子は思う。

 きっと不運というのは寂しがりで、一人でいることに耐えられずに、次から次へと仲間を呼ぶものなのだろう。でもそれがよりにもよって誕生日にまで来なくてもいいのにとも、心の底から思う。

 思えば朝から、よくない流れだった。

 目が覚めたら、目覚まし時計が止まっていた。学生時代から使っている愛着のある置き時計。電池切れじゃなくて、壊れているようだった。文字盤に映る悪夢のような時間に絶叫を上げながら十五分で支度をすませて転がるように家を出てみれば、駅では電車が遅延していた。構外まではみ出るような行列にため息を吐き、おとなしく最後尾に並ぶ。人波にもみくちゃにされながらホームまで降りるのに、いつもの五倍の時間がかかった。

 さんざんな思いでようやく会社に辿り着いてみれば、待っていたのは上司の怒声だった。

 禿げ上がった頭をふりかけのような増毛剤で隠している四十代の副編集長は、「学生じゃねぇんだから目覚ましを二つ以上用意しておくのは当たり前だろうが! それに連絡の一つくらい入れろ! そんなんだからいつまで経ってもお前はダメなんだよ!」と怒鳴り散らした。男の人の怒鳴り声は苦手だ。突き放されたような虚脱感を感じてしまう。もうこの時点で、この日はダメな予感がしていた。

 案の定、それからもロクなことがなかった。

 沈んだ気分でデスクに座ると、新人の三波が作ったばかりのラフの上に盛大にお茶をこぼしてくれた。半日かけて作ったラフがダメになり、その作り直しで午前中が潰れた。気分を変えようと昼食は会社の近くにある馴染みの喫茶店『Dieu de voyager seul』に入ってみたら、そこの店長と些細なことで喧嘩をして何も食べずに席を立つことになった。午後は午後で遅れた分の仕事でてんてこまい。当然のごとく残業もついてきた。今月に入って早くも五度目の残業。ああもう、踏んだり蹴ったりだ。

 残業を終えて会社を出る頃には、時刻は午後十時を回っていた。

 帰りにコンビニに寄ってみたところ、自分へのお祝いに買おうと思っていたお気に入りのチーズケーキは新商品に変わってしまっているし、今日の夕飯は絶対にカルビ弁当だと思っていたのに目の前で最後の一個が売り切れた。失意のまま海苔弁当を手にレジに向かえば会計時に財布の中身をぶちまけて小銭を散乱させてしまい、並んでいる客から冷たい目で見られた。

 泣きそうになりながら帰り道をとぼとぼと歩いていると、狙い澄ましたかのように黒猫がすっと前を横切っていった。

 家に帰り着いた時には、もう限界だった。

 コーポの鍵を開けると、ほとんど投げ捨てるように服を脱いで、ソファに倒れこむ。肘掛けのところに置いてあった、いつからそのままだったか分からない読みかけの文庫本がパサリと床に落ちる。

「疲れた……」

 柔らかなクッションの感触だけが、この世の救いだった。ああ、もうここから一歩たりとも動きたくない。というか寝返りすら打ちたくない。

 このままでいいんだろうか。

 ふと思う。

 業界では大手に挙げられる出版社である今の会社に入って三年目。毎日毎日忙しいばかりで、何もかもがうまくいかない。本当は文芸誌の編集部を志望していたのに、配属された先は小さなタウン誌を作る編集部だった。期待していたような心弾むクリエイティブな仕事はそこにはなく、振られるものといえば資料の準備やコピー、簡単な誌面の構成ばかり。企画は任せてもらえず、上司にはいまだに毎日のように怒鳴られている。同期の仲間たちはみんな志望した配属先で活き活きとやっているのに、私はくすぶったままだ。その煽りでプライベートもぱっとせず、誕生日を祝ってくれる相手すらいない。ついでに恋人もいない。

 このままじゃ判を押したような退屈な毎日を送って、残業をして、家に帰って倒れるように寝てまた翌日を迎える生活を繰り返していくうちに、しわくちゃのおばあちゃんになってしまう。

 そんなのは、いや。絶対に、いや!

 でもどうしたらいいのか。

 何をどうしたら今の状況が好転するのか、さっぱり分からない。神様にでも祈ればいいの?

 とりあえず落ち込んでいてもお腹は空くので、ソファから起きて海苔弁当を食べることにした。もそもそと、割り箸を動かしながら冷たいご飯を飲みこむ。好物の磯辺揚げには、付属のソースがついていなかった。心の底から悲しかった。

 味気ない夕食を終えて、シャワーを浴びる。ここまでのついていない流れからすれば給湯器が壊れてお湯が出ないくらいはあるかもしれないと身構えていたところ、そんなことはなかった。ただ、シャンプーが切れていたため、いつだったか出張で泊まった先のビジネスホテルでアメニティとしてもらってきたものを使った。なぜか男性用だった。

「髪がゴワゴワする……」

 バスタオルで髪を拭きながら浴室から出てくると、リビングでは、飼っているインコちゃんが何も悩みなどなさそうな顔で「ピィ」と鳴いていた。このインコちゃんだが、ずっとインコだと思っていたところ、実は文鳥だったことが先日発覚した。いつ喋るかいつ喋るかと楽しみにしていたのに、それはいつまで経っても「ピピィ」としか言わないはずだ。

「お前が幸せを呼ぶ青い鳥だったらいいのになあ」

「ピィ」

「それか、恩返しをしてくれる鶴みたいに、人間になって家事をしてくれたりしないかなあ」

「ピピィ」

 そう話しかけながらインコちゃん、もとい文鳥ちゃんの水を取り替える。

 その間も、インコちゃんは「ピピピィ」と無邪気な声で鳴いていた。うーん、インコちゃんは本当に悩みがなさそうでいいなあ、と思いながら、私は再びソファに戻ると、床に落ちてしまっていた読みかけの文庫に手を伸ばした。



 スマホがメッセージの着信を告げる音で目が覚めた。

 どうやら寝てしまっていたらしい。

 メッセージは、未樹からだった。

 藤原未樹は高校の頃からの付き合いで、今でも交流のある数少ない友だちの一人だ。

 メッセージの内容は、何のことはない近況報告だった。

 彼女は今、北海道をひとり旅しているとのことだ。未樹は自由業だから、時間に融通がきくのだろう。昔から旅行が趣味で、時間があればあちこちを飛び回っていた。添付されていた写真にある笑顔はものすごく楽しそうで、今の私にはまぶしくて正視できないほどだった。自撮りだろうか。ちなみに私の誕生日のことはすっかり忘れているみたいだった。

「ひとり旅、かあ……」

 今の私には夢のまた夢の話だ。

 それは、目の前の現実を全部忘れてどこかに行ってしまいたいと思うこともある。何もかもを放り出して逃げ出してしまいたい時もある。でもそう望むことは、夜空に輝く星に辿り着きたいと願うようなものなのだ。星は遠くから眺めているからこそ美しい。いざそこに着いてしまったら、徹夜明けの乾いたお肌のようにカサカサとした灰色の地表が待っているだけだ。本当にそうしようとは思わない。

 とはいえ、その単語はやけに気になった。

『ひとり旅』。

 その響きがやけに魅力的に聞こえたのだ。

 気がついたら、ネットで検索していた。

『ひとり旅』『女子、ひとり、旅行』『旅、行く、女一人』。

 適当にキーワードを打ち込むと、普通に様々なページが出てくる。ひとり旅を専門にした旅行会社なんてものもあるようだ。ふうん、女子が一人で旅行するなんていうのは珍しいのかと思ったけど、そういったことはなくて、けっこうメジャーなんだな。

 そんなことを考えながらページをスクロールさせていく。

 その中で、ふとあるページが目に留まった。


『ひとり旅の神様』


 そう書かれたホームページ。

 どこかのお寺なのか、わらじを履いたお地蔵様の写真が貼り付けられた画像が背景になっている。どうしてだろう。そのお地蔵様の温かで柔らかな表情に、どうしてか惹き付けられてやまなかった。何だか妙に懐かしい心地がした。

 ここってどこなんだろう? どうしてこんなに気になるんだろう? このサイトのことが気になった。入り口はここだろうか。旅への誘いと書かれたアイコンをクリックしてみる。すると今度は、さっきまでとは違う青紫の紫陽花に囲まれた景色が、画面いっぱいに広がった。

「わあ……」

 今の時期のお勧めスポットである『鎌倉』の風景らしい。

 このページのキャッチフレーズなのだろうか、『ひとり旅は人生を彩る、最高の守り神』と書かれている。

 見てみると、他にも心惹かれる地名がたくさんあった。

『横浜』『房総半島』『金沢』『川越』『京都』『八丈島』『小樽』『石垣島』。

 どれも魅力的で、私の心を惹き付ける。

 さらに色々とページを見て回ろうとして、

「……って、こんなことしてる場合じゃない!」

 ふと我に返る。明日は朝一で編集会議が入っている。いつもよりも早く家を出なければならないし、そのための資料を用意しなければならない。のんびりとネットサーフィンをしている時間などないのだ。

 慌ててブラウザを閉じてエクセルを立ち上げる。

 窓の外から、ニャーという猫の鳴き声が聞こえたような気がした。




 結局、ほとんど寝ることはできなかった。

 顔に潤いシートを貼ったままエクセルと格闘して、ようやく資料をまとめ終えたのが午前四時。そこからそれをメールで上司に送った後にUSBメモリに保存して、その他の雑事を片付けた頃には、うっすらと窓の外が白み始めていた。ああもう、睡眠不足はお肌の大敵なのに。

 一時間だけ仮眠を取って、お気に入りのパンプスを履いて家を出る。このパンプスは、今の会社に就職が決まった時にお祝いに買ったものだ。お店で一目惚れしたちょっとお高いブランド物で、気持ちが挫けそうな時にはこれを履いていくことにしている。うん、これがあれば私、まだやっていける。がんばれる。

 駅へと続く道には、青々とした街路樹が歩道に影を落としていた。照り付ける朝日は肌にジリジリと突き刺さってくる。もう夏は近い。

 この時間だというのに、駅にはけっこうな数の人たちがいた。ほとんどがスーツ姿のサラリーマンだが、皆申し合わせたかのように黙々と下を向いて歩いている。その流れに身を任せて構内へと進んでいく。

 その途中でふと通りかかった駅の鏡を見て、そこに映る自分の姿にため息が出た。そこには睡眠不足で疲れ果てた顔をした二十五歳女子がいた。ひどい。もうこれはゾンビと言っても過言じゃない。

「はあ……」

 こんなんじゃなかったのにな、と思う。

 第二希望で入った今の会社。それでも入社したばかりの頃は毎日が充実していた。第一希望でなくても念願の出版業界に入れたことには違いなかったし、自立したかっこいい働くオンナとして生きていくんだと、希望に満ち溢れていた。

 それが今ではどうだろう。

 上司の叱責に曖昧な笑みで答えながらだれにでもできるような作業を繰り返して、新人のフォローに追われ、残業が惰性となってしまっている。日々の忙しさに振り回されて、ステップアップを考える余裕すらない。ついでに休みもお金もない。

 これが、思い描いていたかっこいい働くオンナの姿だったのだろうか。

 やっぱり私にはこの業界は向いていないのだろうか。……父親に、そう言われたみたいに。

 はぁ、と思わず二度目のため息が出た。ため息は吐く度に幸せが一つ逃げていくとは言われているけれど、出てしまうものはどうしようもない。いっそため息の代わりに新しい企画のアイデアでも出てくればいいのに。

 そんなことを考えながら、疲れた足でホームへと向かおうとしたその時だった。

 ふと足もとを、黒い何かが横切ったような気がした。

 猫!? 慌てて避けようと横に飛び上がる。その瞬間、ドン、と後ろから歩いてきた中年の男性がぶつかった。バランスを崩してふらりとよろける。その弾みでたたらを踏み、直後に足もとで何かが折れるようなバキッという音が響いた。嫌な予感がしてそっちに視線を向けると、そこには見たくない光景があった。

 パンプスのヒールが、折れていた。

 それはもう、何か恨みでもあるのかというくらいにポッキリと。

「……あ……」

 その瞬間、私の中でも、何かが折れたような気がした。

 何だかもう、何もかもがどうでもよくなった。

 張り詰めていた緊張が切れ、頭の中が真っ白になって、何も考えられなくなった。

 茫然自失といった状態で折れたヒールを拾い、ふらふらと亡者のようにホームへと向かう。滑りこんできた電車に乗り込み、たまたま空いていたシートに座る。やがて会社のある駅名がアナウンスで告げられて、たくさんの乗客が吐き出されるように降りていくのを、私は魂の抜けた顔でぼんやりと見つめていた。そのままドアは閉じられ、ゆっくりとホームが遠ざかっていく。

 電池が切れてしまったかのように、どうしても、席から立ち上がる気力が湧いてこなかった。



 バッグを膝の上に乗せたまま、いまだ放心した面持ちで電車の独特のリズムに揺られる。

 ちらりと腕時計に視線を遣る。時間的には今すぐに引き返せば間に合うギリギリだ。だけどヒールの折れたパンプスが視界に入る。今さらもう、会社に向かう気にはなれなかった。

 顔を上げると、窓の外にはビルに混じって公園などの広々としたスペースが目につくようになっていた。緑が多くなっているのは、都心から離れていっているからだろう。

 ……どうしよう……

 今さらながらに自分の行動に後悔の念が湧き上がってくる。

 気付いたら会社のある駅を乗り過ごしてしまっていたなんて、これって完全に逃避だよね。ドラマとかで時々見る、帰宅拒否のおじさんがふらりと自宅とはぜんぜん関係のない駅に降りてしまうのと同じようなやつだ。

 まさかそんな行動を、自分がとってしまうなんて……

 今からでも遅刻の連絡を入れて会社に行くべき……? 社用のスマホを握りしめながら考える。だけどそんなことをしたらまた大声で怒鳴られる。きっとここぞとばかりに責められる。そう思っただけで胃がキリキリと痛んだ。様々な最悪の想像が頭から溢れてきて、それは坂道を転がる雪だるまのようにドンドンと大きく膨れ上がっていき……

 ……ああ、もうどうしたらいいのよ、私のバカバカ……!

 頭を抱えたままブンブンと振る。徹夜明けのやつれた顔とヒールの折れたパンプスとも相まって、周りから見たら完全に危ない人だ。幸い乗客はかなり少なくなっていたから通報されたりはしなかったけれど。

 しばし自己嫌悪と後悔に悶えていて、その時、ふとドアの上にある路線図が目に入った。

 そこにある駅名が飛びこんでくる。


『鎌倉』


「あ……」

 それが視界に入ってきたのはほんの偶然だ。他の駅よりも少しだけ大きな文字で書かれているから目についたのだと思う。でも何だか、その名前がやけに引力を伴って見えた。

 ……鎌倉ってあれだよね、確か大仏があるんだったっけ? あとは確か、鶴岡八幡宮? があったような気がする。ええと、大きな神社……? いまだどこか夢の中にいるような頭でそんなことを考える。と、そこで思い至った。有名な神社があるってことは、そこにお参りをすれば霊験あらたかな御利益があるかもしれない。もしかしたら今の状況を変えてくれるほどの、大きな御利益が。

 そんな結論に至ったその時の私の心理状態はかなりギリギリだったのだろう。たぶん徹夜明けのおかしなテンションが相当に影響していたに違いない。でもその時には、それが文字通り福音のように思えたのだ。

 次の瞬間、私の心の中ではこう声を上げていた。

 ――よし、今日は鎌倉に行こう。それで鶴岡八幡宮にお参りしよう!

 そうだ 京都、行こう、ならぬ、そうだ 鎌倉、行こう、である。

 それはひどくいいアイデアのように思えた。〝ひとり旅〟、という昨晩見た言葉が頭に浮かぶ。うん、そうだ、もうこうなったら今日はちょっとしたひとり旅だと思って、一日リフレッシュしよう。鎌倉を満喫して、おいしいご飯を食べて帰ろう! 細かいことは着いてから考えればいい。うん。

 そう決めて、顔を上げた。昔から私にはこういった変な思い切りの良さががあった。ある一定以上追い詰められると、それまでは考えられなかった突拍子もない決断をしてしまう。一度決断をしたら、もう迷わない。とにかく真っ直ぐに突き進む。心の中のスイッチがバチッとオンになる感覚、と私はそれを表現している。それはまあ、良くも悪くも、なのだけれど。

 社用のスマホの電源を切って、そのままバッグの奥の奥にまでぎゅうっと押し込む。それだけで少し心が軽くなったような気がした。

 電車の窓からは、鮮やかな緑の山々が見えた。

 こうして、私の初めての〝ひとり旅〟が始まった。



 大船駅で湘南新宿ラインから横須賀線に乗り換えて、二駅。

 鎌倉は都心から電車で僅か一時間ほどのところにあった。

 改札を出るとまず目に飛びこんできたのは、駅前のロータリーの向こうにある赤い鳥居だった。駅前にこんな鳥居があるなんて、初めて見た。それだけで何だか少しだけ胸がワクワクしてくる。その先には商店街へと続く通りのようなものが見える。

 ここが鎌倉かあ。

 きょろきょろと辺りを見回しながら鳥居へと近づく。確かに、テレビなどで言われていた通り情緒のありそうな街並みだ。

 とはいえひとまずはこのヒールの折れたパンプスを何とかしなければ。これでは歩くのが難儀すぎる。どうしようかと辺りを見回していたところ、近くを歩いていたおばあちゃんが「あらあら、大変。そこのスーパーの中に靴屋さんがあるわよ」と親切に教えてくれた。ううん、街並みだけでなくて住む人の心根も雅びやかだ。お礼を言って教えてもらった靴屋で動きやすいスニーカーを買う。うん、これで大丈夫だ。

 足ならしをして改めてスマホのマップで確認する。鶴岡八幡宮があるのは、今さっき見たあの鳥居があるのとは別の方向のようだ。どうやらあっちは『小町通り』という商店街の入り口であるらしい。こちらも有名らしいから帰りがけに寄ってみよう。

 マップの指示に従って大通りに出ると、駅前にあったものよりもさらに大きな鳥居に迎えられた。わ、これはほんとに大きい。柱の大きさが大人二、三人でようやく抱えられるくらいだ。ネットで検索して調べたところによると、これは『二の鳥居』というらしい。

 首が痛くなるほどの高さを見上げながらくぐって、その先に続く道を歩く。『段葛』と呼ばれるこの道の両側には、街路樹が緑のカーテンのように植えられていて、その両脇には道路を挟んで色々なお店が並んでいる。さっき見えた白い外壁のお店は、あの有名な『鳩サブレー』を売っている本店であるとか。そっか、『鳩サブレー』って鎌倉が発祥の地だったんだ。

 そのまま『段葛』を進んでいくと、やがてまた大きな鳥居が見えてくる。先ほどの鳥居が『二の鳥居』であるのに対して、こちらは『三の鳥居』であるらしい。二と三があるってことは一もあるのだろうか。ここをくぐれば、もう鶴岡八幡宮の敷地内だ。

「わあ……」

 鶴岡八幡宮は広かった。

 神社というからもっとこぢんまりとしたものを想像していたけれど、まったくそんなことはなかった。ほとんど自然公園のような広大さだ。池もあれば森のようなものもあり、喫茶店さえもある。

 宮内にはいくつか見所はあるみたいだったけれど、ひとまずは一番上の本宮を目指すことにした。

 宮内はさすがに有名観光地だけあって参拝客の数は多かった。特に外国人観光客の姿が目につく。あちこちから聞こえてくる様々な言葉の波の間をすり抜けながら、小川にかかった太鼓橋の脇を通り抜け、鎌倉幕府の三代将軍源実朝が暗殺された時に、犯人である公暁が隠れていたという大銀杏――残念ながら何年か前に台風で折れてしまったらしい――を横目に通り過ぎ、さらに階段を上っていく。

 その先に、本宮があった。

「あ……」

 見上げるような大きさの立派な拝殿。鮮やかな朱塗りの壁と、細やかな装飾がされた柱や屋根が視界に飛びこんでくる。そこにいるだけで身が引き締まるような凜とした空気が伝わってきて、私はその場に立ち尽くした。

 すごい。テレビや写真などでは見たことがあったが、こうして自分の目で直に見るのとでは、迫力が違った。生で見る興奮というのか、画面越しでは味わうことのできない感動がひしひしと胸の奥に響いてくる。

 こういうのって、なんかいいなあ……

 ふとそう思った。

 そういえば、こうやって神社をゆっくりと見ることなんて、なかった気がする。

 神社って何だか空気が静謐というか、時間の流れ方が他の場所とは違う。穏やかでゆったりとしていて、まるできれいな水の中にいるかのようだ。心が洗われるとはこういうことを言うのかもしれない。

「神様、どうかいいことがありますように。会社をさぼってしまったけど、どうか大事になりませんように。それからええと、プライベートでも何かいい出会いがありますように……」

 奮発して千円札を財布から取り出して、お賽銭箱にそっと滑りこませる。そして目をつむって参拝しようとして、神社は柏手なしだったか二礼二拍手一礼だったかが分からなくなった。ええと、どっちだっけ……? いっぱしの社会人としてそれはどうなんだろうと思いつつも、分からないものはどうしようもないので、ひとまず多い方がいいだろうということでプラス一して三礼三拍手二礼を選択した。

「よし、これで大丈夫かな」

 誠意を尽くせば神様だって分かってくれるはずだ。何といっても神様だし。

 そんな風に何とか参拝を終えて、本宮を後にする。ひとまず目的であった神頼みは完了したことだし、あとは辺りの景色でも眺めながらのんびりと下りよう。そう思って来た時と同じ長い階段を通って、開けたスペースに差しかかった時のことだった。


 ――結子。


「あれ?」

 ふと、だれかに名前を呼ばれたような気がした。辺りを見回すけれど、それらしき人はだれもいない。気のせいだったかな……と視線を戻そうとすると、参道を外れた木々の奥に何かが目に入った。ちらっと見えただけだけど、今のって……? 気になって、何かに誘われるように参道を外れそっちへと向かう。

 下草をかき分けて進んだ先にあったそれは、古びた小さなお社だった。本宮と比べると月とスッポンほどの小さなもので、端的に言ってしまえばぼろい。狛犬の代わりに猫のような石造りの像が、ちょこんと鎮座している。

 そのチャーミングな造形に思わず頬が緩んでしまう。さっき参道から見えたのはこれだったのだ。子供の頃から、私はけっこうな猫好きだったりする。今のマンションでは飼えないため諦めているが、いずれは絶対に愛らしいニャンコちゃんをお迎えしようと思っている。なので我慢できず、撫でようと思わずその頭に手をやった。

 それが、いけなかった。

 バキッ……!

「え……?」

 そんな不穏な音が響き渡る。

 何かが折れるような感触。そのまま狛犬ならぬ狛猫の頭がスライドして、ゴトリという音とともに地面に落ちた。

 首が、見事にもげていた。

「…………う、わー……」

 思わずそんな変な声が出た。

 ど、どどどどうしよう。

 これってあれだよね、器物損壊! しかも誤魔化しようのない現行犯だ。慌てて地面に落ちた首を戻そうと試みてみるものの、重たい上に完全にもげてしまっていてどうにもならない。ああこれ私一人じゃ無理、絶対に無理! だけどだれかを呼ぼうと思ったけれど辺りには人の姿はまったく見当たらない。え、ええと、こういう時ってどこに連絡したらいいんだろう? 一一〇番は違うし、一一九番はもっと違う。便利屋さん、とか……? ああもう、ほんとについてない……

 ともあれだれか関係者を呼んで来なければ。本宮の方へ行けばだれかいるかもしれない。そう考えて元来た道を戻ろうとした私の背中に、声がかけられた。

「――待てい。そのまま行くつもりではなかろうな」



 静寂の中に凜と響く、鈴を鳴らしたような声だった。

 このお社の管理人さんか神主さんだろうか。人がいてよかったと思う反面、やっぱり怒られるのかな……と心許ない気持ちになる。とはいえ備品を壊してしまったことは事実であるため、素直に謝ろうと声がした方へと顔を向ける。

「……あれ?」

 だけどその先にはだれもいなかった。

 目を遣った先には今にも崩れ落ちそうなお社と首がもげた狛猫があるだけである。ただいつからそこにいたのか、毛並みのいい黒猫が一匹、境内の下で目を光らせていた。あれ、空耳……?

 首を傾けていると、黒猫がお社の下からするりと滑るように出てきて、つぶらな瞳で私の方を見上げた。

「よもや吾輩のかわいい狛猫を無惨に破壊しておきながら、そのまま逐電するなどということがまかり通るとは思っておらぬだろうな」

「……おかしいな。猫から声が聞こえるんだけど、だれか隠れて喋ってる?」

「だれもおらぬぞ。吾輩は神であるのだから、言葉くらい喋ることができて当然であろう」

「……」

「……」

「……」

「吾輩は神様なのであるぞ。願いを成就する〝根々古様〟に仕え、旅を司る神である」

「……」

「……」

「吾輩……」

「うむ」

「……は猫である?」

「違う!」

 すぐに強い否定の言葉が返ってきた。ご丁寧に前足で突っ込みを入れていて、その反応の早さはとてもどこかに人が隠れていて何か細工をしているようには思えない。

 ということはつまり、これは本当に目の前の黒猫が喋っているということであって……

 ……

 ……どうしよう。

 これはもう重症だ。猫が喋っているように聞こえるなんて、もう末期症状もいいところだろう。今日一日羽を伸ばしてリフレッシュしようなどと思っていたけれど、これはもはや即座に病院に駆け込んだ方がいいレベルなのかもしれない。

 とりあえず目の前の現実が信じられなかったので、触り心地のよさそうなそのお腹をもふもふしてみた。

「こ、こら、何をするか! 吾輩は神様なのであって……にゃふ~ん」

「……」

「や、やめるのだ……! そ、そこはでりけーとなポイントで、人間が触れることができるようなところでは……にゃう~ん」

「…………」

「……ごろごろごろごろごろごろ……」

 ……さて。

 しばらく至福の時間を堪能したところで、現実に戻ろう。

「……それで、神様って、ほんとなの?」

「はあはあはあ……だ、だからそう言っておるだろう」

 妙に色っぽい感じで身をよじらせて黒猫がそう答える。確かにこれで神様でなかったら、ただの妖怪か化け猫だ。もうそのことは仕方がないから受け入れるとしても、だ。

「その、神様がどうして私に……?」

「どうしても何も、お主は吾輩の狛猫を見事に壊してくれたであろう」

「! ご、ごめんなさい! 悪気はなかったんです!」

 そうだった。

 慌てて頭を下げる。

「悪気はない、のう。咎人はだれでもそう言うものだ」

 ジロリと黒猫が私を睨む。

「と、咎人って、そ、それは確かに壊したのは私だけど……」

「吾輩はしかと見ておったぞ。お主がその羅刹のような馬鹿力で吾輩のかわいらしい狛猫ちゃんを壊すのを。あれだけ見事に破壊しておいて言い逃れはできまい。さてどうしたものかのう」

 ヒゲの位置を直しながら、黒猫がじいっと見上げてくる。その目の奥が虹色の光彩を放っていた。

「ど、どうしたらいいの……?」

「ふむ……」

 何かを考え込むような素振りを見せる。

 ややあって、黒猫はこう口にした。

「そうだな。だったらお主には少し手伝ってもらおうか」

「え?」

 何だか雲行きの怪しい話になってきた。

「手伝うって、何を……?」

「なに、簡単だ。吾輩は旅の神であると言ったな? その勤めの一つとして、各地の猫神に文を届ける役割を担っておるのだ。お主にはそれを手伝ってもらいたい」

 じっと私の目を見ながらそう言ってくる。

「難しいことではない。吾輩の代わりに現地まで行って届けてくれればいいだけである。お主のその足でな。これまでは、この狛猫に乗って移動していたのだが、お主が壊してしまったからのう……」

「う、そ、それは……」

 ちらちらと首がもげた狛猫に視線を遣る黒猫に、言葉が出なくなる。

 もう、逃げ道はなかった。

 私は観念した。

「分かりました、協力します……」

「うむ、当然の返答であるな」

 黒猫が満足そうにうなずく。ものすごいドヤ顔だった。

「それで、えっと」

「むう?」

「あ、そういえば、きみ、名前は何ていうの?」

「名前? 特にそのようなものはない」

「ほんとに、名前はまだない、状態なんだね」

 とはいっても名無しのままじゃ色々やりづらい。

 私はこう提案した。

「じゃあさ、ニャン太でどう? 昔から猫を飼いたいと思ってて、実現したらこの名前にしようと思ってたの」

 子供の頃に読み聞かせてもらった、好きな本に出て来た猫の名前だ。

「構わぬ。好きに呼ぶがいい」

 猫神様――ニャン太はそう言って、ぐーっと背中を伸ばしたのだった。