進学のため京都に移り住んで、初めての秋が来た。夏の強烈だった日差しは和らいで、街路樹のプラタナスは黄色くなった葉をさやさやと揺らしている。

 大学の後期が始まったばかりで頭も体もまだ休息を求めているような、十月初めの土曜日の朝。

 直史は右手に白い子うさぎを抱え、左手にはきのこを入れる予定のトートバッグを提げ、京都大学に沿って延びる東大路を歩いていた。

「お兄ちゃん、あっちに生えてるよ、きのこ!」

 双子の妹のまどかが早足になり、街路樹のプラタナスに近づいていく。

「あ、ほんとだ」

 幹の根元に近い部分から、しめじを大きくしたような茶色っぽいきのこが束になって生えていた。

「うまそうだな、直史」

 右の手のひらの上で、白い子うさぎ――ククリ姫が小声で言った。

 京都大学近辺では、初夏から秋においしいヤナギマツタケが採れる――という友人からの情報を昨夜まどかに教えたところ、「よし、お兄ちゃん。明日のご飯はきのこだ!」と即座に土曜日の予定が決まってしまったのだった。

「ちゃんと確認しろよ。毒きのこで死んだら笑えないからな」

「そうなったら新聞の見出しは『食いしんぼう兄妹、京大前のきのこで死亡』だね。韻を踏んでるからラップの歌詞になるかも」

「歌詞も新聞記事も駄目だ。ちゃんと確認」

「はーい」

 まどかは背負っていたデイパックからタブレット端末を出した。

「間違いないよ、お兄ちゃん。ヤナギマツタケ!」

 表示された日本きのこ学会のサイトを、まどかは読み上げる。

「『香りは穏やかでくせはなく、様々な料理に合う』……『柄のシャキシャキした食感を楽しむ料理にすると、エノキタケとは異なる個性が光る』だって……。どうしよう、すごくおいしそう」

「今確認するのはそこじゃない、外見の特徴だ。えーと『自然界では傘の直径5~15センチ、柄の長さも10センチ前後』。うん、合ってる」

「きのこって、街中でも採れるんだね」

 まどかが幹からヤナギマツタケをもいだ。全部は採らず一部を残しておくのは、故郷の金沢で山野草を採った時に両親から学んだことだ。

「いい匂い」

 ヤナギマツタケを一本顔に寄せて、まどかは恍惚としている。

「まどか、うらも嗅ぎたい」

 ククリ姫がふかふかした前足を挙げて催促する。白山の女神であるククリ姫は、自分のことをうらと呼ぶ。故郷である石川県の、白山地域の古い言葉だ。

「どうぞー。採れたてだよー」

 まどかの手元に鼻を近づけ、ククリ姫は目を細めてヤナギマツタケの芳香を嗅いだ。

「一口かじってもいいだろうか?」

「やめろよ、いくら神様でも生のきのこは良くない」

「駄目か、直史」

「椎茸だってみんなよく食べてるけど、生だと危険なんだってさ」

「ほう……」

 うさぎに化けた白山の女神がきのこを食べたがっても、直史はもはや驚かない。

 あやかしを物語に書くことで生命力を与える、語り手に任命されて半年。

 自分も、挿絵を担当するまどかも、奇妙な状況には慣れてきている。下宿にはたびたびあやかしが来訪し、彼らの想いを聞き取ってブログに掲載したあやかし物語は、すでに十二編となっている。

「もっと野生のきのこに詳しかったら、いろいろ採って食べられるのになあ」

「お兄ちゃん、信介君に聞けばいいじゃない。ヤナギマツタケの生えてる場所を教わったんだから」

「いや、この件は信介もまた聞きなんだってさ。もとはガッさんが学部の先輩から聞いて、それを信介に教えたわけ」

 大塚信介は同じ私立大学の国文科に通う同級生で、ガッさんこと衣笠は信介の高校時代からの友人で京都大学に通っている。

「京都大学では昔から菌類研究の伝統があるから、細々ときのこ道が伝わってるらしいんだけどな。ガッさんの先輩は、きのこ道の人じゃあないらしい」

「何お兄ちゃん、きのこ道って」

「茶道や剣道の『道』。野生の茸を採って食べる道」

 信介に聞いた話では、他にも「きのこ道楽」「きのこ極道」など、きのこマニアを表す言葉はいくつかあるらしい。

「ふーん……。学外の人でも入門できるの?」

「サークルを作ってるわけじゃないらしいよ。それぞれ勝手に、きのこ道を究めてるっぽい」

 隣のプラタナスにもヤナギマツタケを見つけてせっせとトートバッグに収めていると、後ろから声をかけられた。

「お久しぶりでございます」

 渋い声の、山高帽にコートを身に着けた男性。

 厚着をしていたが、大きな口と丸い目ですぐに分かった。夏に出会って、まどかと一緒に絵物語に書いた河童だ。泉鏡花の作品では、『貝の穴に河童の居る事』に書かれている。

「ほんとに久しぶりじゃないか!」

 直史とまどかは男性に駆け寄り、ククリ姫は手の上で元気に前足を振る。

「元気だったか?」

「ええ、ええ。ククリ姫。あなた様が山野の双子をご紹介くださったおかげで、河童の一族郎党、秋になっても風邪知らずでございます」

「良かったねえ。『河童一族がんばれ』ってコメントも、最近ついたんだよ?」

 まどかがタブレット端末を操作して、直史と二人で更新しているブログを開いた。

 タイトルは『ふたごの京都妖怪ごはん日記』。直史があやかしたちを物語に書き、まどかが挿絵をつけて掲載する。こうしてあやかしたちの命を長らえさせるのが、ククリ姫から任命された「語り手」の仕事だ。

「ほら、お兄ちゃんの書いた話……『河童一族の冬ごもり』。河童の一族が洞穴に入って湯豆腐を食べてるところ、挿絵を描いてて楽しかったなあ」

「そういや、お礼にもらったキュウリと茄子、漬け物にしてもうまかったよ」

 あまりに大量だったので、ぬか漬け用のぬか床まで河童に作ってもらったのだった。二人暮らしとはいえ、学生の下宿とは思えない装備だ。

「おお、キュウリ。ワタクシがまた京都に来た理由もそれでございます」

「どうしたんだ?」

「京都では秋に、大きくなりすぎたキュウリを『へぼきゅう』または『おばけキュウリ』と呼んで、うまい料理にするそうですな」

「えっ、知らなかった」

「わたしも知らないっ。教えて教えて。ダイエットになりそう」

 まどかが河童に詰め寄る。コートの袖をつかまれて、河童は弱り顔になる。

「へぼきゅうの皮をむいて、出汁でさっと煮て、葛粉でとろみをつけるのです。おろしショウガをちょいと載せますので、体を冷やしすぎず良い案配。『へぼきゅうの葛引き』などと呼ばれる料理ですな」

「へえ、作ってみたいな、それ」

「京都の野菜は柔らかさが身上と、しばしば聞いております。京都でへぼきゅうを手に入れて、一族みなで食べようと思いまして」

「なるほど」

「しかしそのへぼきゅう、普通のスーパーだの百貨店だのでは売っておらぬのではないか、と心配になってきたところでございます」

 河童がますます弱り顔になる。

「規格外品ってことになるもんなあ。大きすぎるキュウリって」

 直史も弱ってしまう。

 まどかが河童のコートから手を離した。

「河童さん、上賀茂神社や深泥池のそばで売ってるかもしれないよ?」

「妹ぎみ、何ゆえに?」

「あのへんのバス通りでね、野菜の自動販売機を見たことあるんだ。近所の農家の人が、採れたばっかりの野菜を売ってる。不揃いの賀茂トマトとかね」

「おお、では、へぼきゅうも?」

「あるかもしれないよ。農協もあるから、へぼきゅうを売ってる場所を教えてもらえるかも」

「やや、これはいいことを聞きました」

「詳しいのだな、まどか」

 ククリ姫が毛の生えた前足をぽっふ、ぽっふと打ち合わせて拍手した。

「同じ専門学校の子と上賀茂神社に行った時、見かけたんだよ。あっちもうちの近所みたいな、手づくり市があるから」

 下宿の近くにある岡崎公園では、週末に露店の並ぶ手づくり市が催されている。

「上賀茂にもあるなんて知らなかったなあ。何か面白いものあった?」

「パンと雑貨がいい感じだったよ。あと、わたしも友だちと合同でお店出しちゃった」

「えっ、教えろよ、見に行ったのに」

「ふふふ、初陣に家族の加勢は無用」

 なぜかまどかは格好をつけている。

「まどか、戦国武将の真似だったら時代考証に無理があるぞ。あの人たちは普通、家族総出で合戦に臨むんだからな? 真田家が関ヶ原の戦いで分裂したのだって、東軍と西軍、どっちに味方しても家名が残るようにって策略だし」

「チェックが細かいよお兄ちゃん」

「信介が歴史小説家志望だから、うつったんだよ。で、何売ったんだ? 高校の時みたいに、ほのぼのした学園物の四コマ漫画とか?」

 そういう同人誌を作っていたらしいので、試しに聞いてみた。本人は「お父さんとお母さんには内緒だからねっ」と言い張り、作った本は直史にも頑として見せてくれないのだが。

「ふふん、惜しいね、お兄ちゃん。もう十八歳のわたしじゃないよ」

 十八禁の漫画、という言葉が思い浮かんでしまい、まさかなあ、と思う。確かに自分たちはこの十月初めに十九歳の誕生日を迎えたのだが。

「いったい何を作ったんだ、まどか」

「フォトブックだよ」

 まどかがデイパックから取り出したのは、文庫サイズの薄い本だった。寺や神社、鴨川べりの写真が表紙を飾っている。

「漫画の舞台になった場所を写真に撮って、文章もつけて、業者さんにネットで送るとちっちゃな本にしてくれるの。一冊から印刷OK」

「そういう会社があるのか! 見せて」

 良かった、怪しい本ではなかった、とも思う。

 タイトルは『子熊がご案内・漫画好きの京都さんぽ』。

 開いてみると、漫画の舞台となった場所に熊の小さなぬいぐるみを置いて撮影するという体裁の京都市内ガイドブックであった。

「何で子熊なんだ?」

「わたしや友だちが名所で自撮りしたら、ただのアルバムだもん。子熊が案内するって構成にしたら、人に見せる本なんだーっ、て雰囲気になるでしょ?」

「さすが未来のカフェ店主」

「『恐ろしい子!』……って、褒めてくれてもよくってよ?」

「何だその小芝居?」

「名作漫画の台詞。ほんとにお兄ちゃん、この方面うといよね」

「これは手間がかかっておりますねえ」

 河童がフォトブックの頁をめくりながら頷く。

「えっ、分かります?」

 まどかは上機嫌でフォトブックを返してもらい、胸に抱きしめた。

「ところでお三方とも、朝から東大路でいかなる御用を?」

「きのこ狩りだよ。東大路でヤナギマツタケが採れるって、大学の友だちに教わって」

 トートバッグの中身を見せる。

 河童は「ふうーむ、良き香り」と鼻の穴をふくらませた。

「ああ、きのこといえば、べにたけ明神様が難儀しておられる様子でございますよ」

「誰だ、べにたけ明神様って?」

「その人もあやかしなんだよね?」

 直史たちにとって初めて聞く名前であった。

「きのこの精を統括するお方でございます。大層威厳のあるお方で」

 ククリ姫はよく知っているようで、「うむうむ」と相づちを打った。

「うらはこの百年ほど会っておらんが……どうかしたのか、難儀とは」

「火炎そっくりの、触れるだけで重い病を引き起こす恐ろしい毒きのこが、この西日本で増えはじめておるそうです。そのきのこにしてみれば西日本は新天地。思いのほか相性が良かったようで、爆発的に増える恐れがある。それを制御するのに力が要るとのこと」

「うむ、人や動物にも難儀な……」

 ククリ姫は前足を口元に当て、思案するような格好をした。

「現在べにたけ明神様は、本拠地である滋賀県の菌神社にお鎮まりになって、英気を養っておると聞き及びました」

 いちごジャムのように真っ赤なククリ姫の目がきらりと光る。

「英気を養うのは大事なことだが……われらが語り手に頼っても良いのではないか。あやかしの生命力を強めてくれるからな」

 われらが語り手、という呼び方がくすぐったい。もちろん直史としては、まどかと一緒に力を貸してやるつもりだ。

「おれたちも手伝えるって、べにたけ明神様に伝えられないかな」

「うん、毒きのこが増えたら大変だもん」

 まどかも力強く同意する。

「あっ、でも報酬はヤナギマツタケ以外がいいな。こうやって近所で採れるから」

「ええ、重々、ワタクシが伝えましょう。へぼきゅうを買ったその帰りに、菌神社に寄りましょうぞ」

「おお。助かるぞ河童」

 ククリ姫が直史の手の上でお辞儀をする。

「何の何の。帰り道の途中でございます。琵琶湖で鮒でも獲ってかじりながら、旅路の美味といたしましょう。ではごきげんよう」

 慇懃に帽子を取って礼をすると、河童は東へと歩き去っていった。

 鮒を獲って丸かじりとはいかにもあやかしらしいが、人里での様子はきっちりした紳士なのだった。


 プラタナスの根元を一本一本確かめ、ヤナギマツタケを採りながら東大路を北へ上がっていく。

 百万遍と呼ばれる、東大路と今出川通の交わる交差点が近づいてきた時に直史はようやく気づいた。

 ヤナギマツタケが、多すぎる。スーパーマーケットで売っているシメジで言えば四パック分はある。

「多すぎるぞ、これ。今頃気づいたけど」

 膨らんだトートバッグを直史が持ち上げてみせると、まどかも「あっ」と失態を犯したような顔をした。

「全部採り切らないように、ってとこだけ気をつけてた……。どうしようお兄ちゃん」

「冷凍したらいいんじゃないか」

「そっか、椎茸やシメジを買った時と同じだね」

「大きめの冷蔵庫を買ってもらって、良かったよな」

「わたしたちが料理するって分かってたからだよ、お父さんもお母さんも」

 二人で手分けして料理するようになって、もう十年近くになる。両親は家業の和食器店の経営で多忙なので自然とそうなったのだが、こうして二人揃って同じ街に進学してみると非常にハウスキーピングが楽だ。

「ねえ、あれ信介君じゃない?」

 まどかが歩きながら、ばね仕掛けのように背筋を伸ばす。視線の先に中肉中背の、グレーのダッフルコートを着た青年がいる。

「ほんとだ。おーい」

 直史はククリ姫をしっかり抱え直して、プラタナスのそばに立つ信介に駆け寄った。

「あー、直やん! おはよー!」

 信介は細い両目の脇に笑いじわを寄せて、こちらに手を振った。

「まどかさんと、うさちゃんも、おはよー」

 くんにゃりと目尻を下げ、信介はククリ姫のふさふさした額を撫でる。

 半年のつきあいだが、語り手の仕事やククリ姫の正体については内緒のままだ。

「直やん、今日はつけてるかい」

「うん、今日は両足合わせて四キロだ」

 直史は一方の足を上げながら裾をまくりあげて、重さ二キロのアンクルウェイトを見せた。あまりに大きいので、足首だけでなくすねの下半分まである。

「鎧だっ! ほぼ鎧! ソルジャーかよ、直やん」

 信介が爆笑する。筋トレ好きに関しては既にばれているのだった。

「お兄ちゃん、河原町あたりでそのポーズやったら他人の振りするからね」

「やらないって」

 おしゃれなスポットは四条河原町周辺で、少々変わった行動をとっても目立たないのは京都大学周辺。この半年で直史もまどかも京都の土地柄をつかんできている。

「信介も採りに来たのか、ヤナギマツタケ」

「うん、うちは北の方だからさ、東大路の反対側からきのこを採りながら歩いてきたとこ。京大より北側でも採れたよ」

「家の人、喜ぶだろ?」

「うーん、母さんに『食べたいなら自分で料理してね』って言われたけどな。京都の高校に編入してから、割と放任主義になった」

「頑張れ自宅生。フライパンで焼くだけでもきっとおいしいから、な?」

「じゃあ、焼いてパスタとからめてみる」

「お、うまそう。どんだけ採ったんだ?」

 直史は胸から提げているまどか手づくりのポーチにククリ姫をそっと収め、信介の持っている紙袋を何の気なしに覗きこんだ。

「信介もたくさん採ったなあ。おれたちと同じくらい」

「多いよね、やっぱり」

「うん。うちは半分くらい、冷凍しようかと思ってる」

「冷凍もいいけど、ちょっといつもの図書館にお裾分けしたいかな」

「ああ、私立の。高校の時から常連なんだっけ」

 募集していないにも関わらずアルバイトを志願して断られた、という話を、出会って間もない頃に聞いた。よほど馴染んだ場所なのだろう。

「今日もあそこで小説書く予定だからさ、きのこ要りませんかって館長さんに聞いてみようかなって……あっ、しまった、手」

 信介は、自分の両手を表、裏と引っくり返した。

「きのこ採りで手が汚れてるから、やっぱり一回帰るよ」

「信介君、これ使う?」

 まどかがデイパックから出したのは、袋入りのウエットティッシュだった。

「あっ、ありがとう! 助かる」

「どういたしましてー」

「まどか、おれにも。さっき爪にまで土が入り込んじゃった」

「だからこの前、そろそろ爪切れって言ったじゃん。そういう人にはこれ」

 手渡してきたのは猫のイラストがついた丸っこいキーホルダー、と思ったら携帯用の爪切りであった。

「普通のキーホルダーかと思った」

「清水寺のお土産屋さんで、安かったから。切った爪と使ったウェットティッシュは、こっちに入れてね」

 と、ジッパー付きのポリ袋までデイパックから出してきた。

「色々持ってるなあ、まどか」

「まどかさん、マザーグースの女の子よりすごい」

 にこにこと手を拭きながら信介が言った。

 何のことだろう、と直史はまどかと顔を見合わせる。

「信介、どの女の子? マザーグースって、歌だよな?」

 イギリスなどで伝承されている英語の童謡の一群をそう呼ぶらしい。

 子どもの頃、まどかと一緒に読んだ絵本にも『ハンプティダンプティ』や『ロンドン橋落ちた』などが出てきた覚えがある。

「直やん、あの歌だよ。子犬の尻尾がどうとかいう……どんなタイトルだっけ」

 信介が思い出す前に、まどかが「分かった!」と手を挙げた。

「『男の子って何でできてる?』って歌でしょ」

「あ、正解正解。男の子はカエルとカタツムリと子犬の尻尾、その他もろもろからできてて、女の子は……」

「お砂糖とスパイス、その他のいろんな素敵な物でできてる!」

 まどかが楽しげに諳んじた。

「そうそれ。その歌で言う、素敵な物でできた女の子よりすごい」

「信介、珍しい褒め方するなあ」

「マザーグースは北原白秋が翻訳してるから、国文科的にはオッケーだよ」

 そういう基準でいいのか、と直史は思ったが、まどかは嬉しそうにウェットティッシュや爪切りを片づけている。

「例の図書館って、受付の女の子が可愛いって言ってなかったか?」

 特に意味もなく直史が聞くと、

「そうなんだよ直やんっ」

 と力強い返事が返ってきた。

「歳は俺たちと同じぐらいで、小柄できりっとしてて、紅茶を持ってきてくれる時の笑顔がすごく可愛い。あっ、利用料がいる代わりに紅茶かコーヒーを無料で一杯飲めるんだけどね」

「へえ。一回どんなとこか見てみたいな、そこ」

「良かったら途中まで一緒に行く? ここから今出川通を東に行った、吉田山の向かいだからさ」

「ああ、分かる、分かる。大して遠回りになるわけじゃないから、一緒に行くよ」

 道路が格子状になった京都の街はどこに何があるか把握しやすく、地理に関する話も通じやすい。

「まどかはどうする?」

「うーん、行ってみたいんだけど、今日は無理……」

 まどかは首を振った。もしや『受付の女の子』に嫉妬しているのかと直史は思ったが、無念そうな表情を見ると何か別の理由がありそうだ。

「用事でもあるのか?」

「きのこでキッシュ作るから、時間かかりそうなんだよね。市バスで早めに帰る」

「キッシュ? そんな難しそうなもん作ってくれるのか!」

「授業のおさらいもかねて、だよ」

 手を差し出され、阿吽の呼吸でヤナギマツタケの入ったトートバッグを渡す。

「お兄ちゃん、キッシュに合わせる料理考えておいてよねっ」

「おう、まかせろ!」

「まどかさん、またねー。キッシュがんばってねー」

「うん、こんがり焼くよっ」

 百万遍の交差点で東と南に分かれながら、大きな声で言葉を交わす。学生街では珍しくない光景だ。

 たとえば祇園の巽橋のように静かな界隈でこれをやったら、さぞかし舞妓や商店主に迷惑がられるだろう。もしかしたら、やんわりと「いけず」を言われるかもしれない。一口に京都と言っても色々な顔があるのだ、と思うと、直史はあらためてこの土地が慕わしくなった。



 今出川通を東に進んでゆくと、如意ヶ嶽の大文字がだんだんと大きくなってくる。

 近づきすぎて「大」の字の下部が山の中腹に隠れてしまったあたりで、信介は一軒の洋館を指さした。

「ここだよ、直やん。あと二、三分で開館」

 まるで明治時代のような、煉瓦造りの洋館であった。

 全体は赤い煉瓦が中心だが、装飾として白い煉瓦が帯状に配置されている。二階にアーチ形の大きな窓がはまっているのとは反対に、一階の窓は小さい。

 ――せっかく南向きなのにもったいない。

 と思った後で、陽光から本を守るためだろうかと気づく。

 金属製の門扉を見れば、『からくさ図書館』と看板が掛かっていた。

「まどかが好きそうだな、おしゃれな洋館とか言って。なっ」

 ジャケットの合わせ目から顔を覗かせたククリ姫の額を撫でる。

「うさぎ連れてたら図書館に入れないからさ、今日はもう見るだけでいいよ」

「そっか。じゃあ直やん、ここで」

 直史が歩き去ろうとした時、玄関の扉が開いた。

 身長百八十センチを超えていそうな、均整の取れた体つきの青年が顔を出す。

 額にかかる黒髪や眼鏡、黒いエプロンを見て、直史は何となく「大学院生がアルバイトしてるのかな」と思った。

「あっ、館長さん。おはようございます」

 二十代後半と思しきその青年が『館長』と呼ばれたので、直史は驚いた。

「おはようございます、大塚君……と、お友だちですか?」

 狭い駐輪場を歩いてきた青年は、片隅にある用具入れを開けて箒と塵取りを出した。

 直史とククリ姫に「おはようございます」と挨拶してくれたので、直史も同じように挨拶を返す。

「同じ学科の友だちなんです。東大路でヤナギマツタケを採ってたら偶然会ったんですよー」

「山野です。今度、うさぎと一緒じゃない時に寄らせていただこうかと思って」

「それはそれは。ぜひまた」

 館長が相好を崩した時、再び玄関が開いた。

 栗色の髪を秋風になびかせた、ワンピース姿の少女が立っていた。

「滋野さん、おはようっ」

 信介の声が弾む。ああなるほど、この子が可愛い助手か、と直史は納得した。

「おはよう。窓からうさぎさんが見えたから……」

 吊り気味の大きな目がこちらを向く。笑いかけられて、直史はどうしていいか分からないまま微笑み返した。

「あっ、そうだ、館長さんと滋野さん、ヤナギマツタケ半分要りませんか? 東大路で採れるってガッさんから聞いて、採ったばっかりなんですけど」

 信介が紙袋を持ち上げてみせると、館長と呼ばれた青年は「大塚君」と縁無し眼鏡の位置を直した。

「君がまだ大学一回生なので、あえてうるさく忠告しますが」

「はい?」

「天然のきのこには、毒きのこと紛らわしいものがいくつもあります」

 館長が門扉の鍵を開ける。栗色の髪の少女はいつの間にか、箒と塵取りで門前の掃除を始めていた。

「そういうものを人に贈る場合は、トラブルの可能性も忘れてはいけませんよ?」

「はい……」

 直史も初めてその点に気づいた。館長は、気づかずに毒きのこを渡してしまうリスクを指摘しているのだった。

「全然、思いつきませんでした」

 しょげた様子でうつむく信介から、館長は丁寧な所作で紙袋を受け取った。中身を覗きこんだ後、にっこり笑いながら言う。

「ただ、ヤナギマツタケの見分け方は私もよく知っています。本物ですよ」

 信介は、明るい表情で顔を上げた。

「ありがたくいただきますね、大塚君。おすすめの料理は何ですか?」

「直やん、おすすめ何?」

 けろりとした顔で信介が振り向く。少女が声を出さずに微笑むのが視界に入った。

「……これは椎茸の食べ方ですけど、一日だけ傘の裏側を日に当てるとうまみが出るらしいです。傘の裏側がちょっとだけ干物になるから」

「いいですね。うちの事務室でも何か簡単な物を作れそうです」

「直やん、その干し方どこで教わったんだ?」

「実家の食器屋に出入りしてた調理師さん」

「いいなあ」

 館長に注意されたことなど何でもない風に、信介は軽い足取りで敷地内に入る。直史も「じゃ、執筆頑張れ」と言って歩きだす。

「またどうぞ。金曜日以外は夜の零時まで開いてますので」

 館長はククリ姫に視線を向け、今、したかな――という程度の軽いウインクをした。


 下宿へと歩きながら、直史は胸元のククリ姫にこそっと呟いた。

「あの館長さん、さっきウインクしてたぞ。よほどうさぎが好きなんじゃないか」

「いや。あれはおそらく、うらへの合図だと思う」

「何の?」

「お互い、この現世の存在ではないと分かっている。そういう合図だ」

「へ……?」

「あの男だけではない。一緒にいた娘も、人とは気配が違う」

「人じゃなくて……あやかしとか、神様、とか?」

「はっきりとは分からぬ。だが、たちの悪いものではなさそうだ」

 ククリ姫は、もうこの話は終わりだとばかりに目を閉じ、眠りはじめた。



 帰宅すると、まどかはパイ生地をオーブンで焼いているところだった。

 テーブルには、もう炒めた具材が皿に盛られている。

「お兄ちゃん、お帰りー」

「ただいま」

「キッシュの具はヤナギマツタケと山科茄子とベーコンと玉ねぎだよ」

「おう。豪華だなー、今日の昼ご飯」

「ほんとは粉とバターから生地を作りたいんだけどね。お昼ご飯じゃなくておやつの時間になっちゃうから、冷凍のパイシート使っちゃった」

「充分、充分」

「お兄ちゃん、何作るの?」

「夏の京野菜で色々。もう出荷とか販売とか終わるところだから」

「食べ納めだねえ。夏野菜卒業式だ」

「また来年入学するけどな」

 直史は眠っているククリ姫を胸元からそっと出して、ソファに寝かせた。

 アンクルウェイトを外して手を洗い、エプロンを着ける。

 今から作るのは、ひと夏の間に試した調理法のうち、ベストだと自認している料理ばかりだ。

 河童が言っていたへぼきゅうではないが、皮が薄めのキュウリは油揚げと合わせて葛粉入りの冷たい吸い物に。

 賀茂トマトはすりおろして冷製スープに。

 丸く大きな賀茂茄子は輪切りにして焼き、味噌田楽に。

 もし作っている途中でククリ姫が目覚めたら、何か味見をしたがるだろう……と思っていると、案の定、ト、トという足音が背後から近づいてきた。

 直史はトマトをすりおろしながら、足元に寄ってきた白い子うさぎに声をかけた。

「ククリ姫、味見したいのか?」

「うむ」

 いちごジャムのような目を輝かせて、ククリ姫は言った。ふっくりした鼻面をうごめかしながら、調理台を見上げてくる。

「賀茂トマトをすりおろすと良い匂いがするのだな。直史、一口くれるだろうか」

「いいけど、これは冷やした方がうまいと思う」

「うらは、冷やしていないトマトも好きだぞ?」

「これはおろしてから冷やして、水気を切ったヨーグルトとオリーブオイルをひとさじずつ載っけて、簡単な冷たいスープにするんだよ。赤・白・黄色で三色の」

「むむ」

「つまみ食いより、そっちの方がうまそうだろ?」

「うまそうだが、おろしたての方が栄養たっぷりらしいぞ、直史」

 ククリ姫は後ろ足で立って、前足で直史のすねをトントンとたたいた。

「やめろ、くすぐったい。神様にビタミンもミネラルも関係ないだろ」

 ククリ姫は「ふふん」と笑う。

「直史も金沢にいた頃、母親の作っている料理をつまみ食いしたがっただろう。まどかから聞いたぞ」

「えっ?」

 聞き返した直史に、ククリ姫は得意げに細いひげを動かしてみせる。

「小学生の時に揚げたてのトウモロコシのかき揚げをつまみ食いして、唇をやけどしたそうだな?」

「まどか……余計なことを」

 直史はおろしかけのトマトを握ったまま振り返った。

 まどかはすでにテーブルの上の調理器具を片付けている。オーブンではキッシュが焼けている最中だ。

「お兄ちゃんだってつまみ食いしたがるんだから、おろしたてのトマトぐらいあげればいいじゃない。あと、わたしにも」

「お前も食べるのかよ」

「美肌には、ビタミンとミネラルがとっても大事。栄養学の授業で先生が言ってた」

 まどかは力強く言い切った。

「大根おろしなんて、十五分経ったらビタミンCが半分になるらしいよ、お兄ちゃん」

「分かった、分かった」

 直史は味見用のおちょこにおろしトマトを注ぐと、しゃがんでククリ姫に手渡した。

「ほら」

「うむ。いただこう」

 ククリ姫は、両前足でおちょこを持って、ちびちびと飲みはじめた。げっし類は硬い野菜をかじるのが好きなんじゃないのかなあ……と直史は思ったが、本物のうさぎとは勝手が違うのだろう。

 そもそも、ククリ姫の本来の姿は十代半ばの少女だ。うさぎに変化しているのは、人間界における体力の消耗を抑えるためらしい。

「まどか、持ってって」

「ありがと」

 まどかには、おちょこよりも大きな煎茶碗でおろしトマトを分けてやる。実家が金沢の和食器店なので、この一軒家は学生の下宿にしてはやたらと食器が多いのだった。

 くいっと飲み干してから、まどかは「甘いねー、賀茂トマト」と食材を褒めた。

「なめらかだよね。皮のざらっとした舌触りが全然ないよね」

「だろ?」

 直史は得意になった。自分でもスプーンで一口すくって飲んでから、おろしトマトの入ったボウルにラップをかけ、冷蔵庫にしまう。

「前に普通のくし形切りでサラダにした時、おろしてみようと思ったんだ」

 この夏に何度も京野菜を食べ、甘く柔らかな賀茂トマトはおろして食べるとうまいに違いない、と直史は予想したのだが、どうやら大当たりのようだ。

 ポーン、と玄関の呼び鈴が鳴る。

「あ、クロハさんじゃない? そろそろ鞍馬山から帰ってくる頃だよ、確か」

 まどかがキッシュ用の円い生地に卵液を流しこみながら言った。

「そういや、そんなこと言ってたな」

 直史は廊下に出て玄関のドアを開けた。まどかの予想通り、渋い風合いの着物に身を包んだ女性が立っていた。鞍馬山のカラス天狗にしてククリ姫の側仕え、クロハだ。

「クロハ、お帰り。里帰りどうだった?」

「賑やかでしたよ、親戚同士の集まりで……お疲れ様」

 クロハは直史の着けているエプロンを見て、微笑んだ。

「少ないですけれど、里帰りのお土産です」

 人間と同じような口上を言って、風呂敷包みを渡してきた。

「できれば明後日までにお召し上がりくださいまし」

「あっ、ありがとう。わざわざ」

「直史さんとまどかさんには、お世話になっておりますもの。ククリ姫はどちらに?」

 聞き終える前に、ククリ姫がトタトタと廊下を跳ねてくる。

「クロハ、ご苦労」

「まあまあ、ククリ姫。お口に赤いものが」

 クロハは懐紙を出してしゃがみ込み、子うさぎの口元についていたおろしトマトを拭いてやっている。

 女執事、というまどかによる評を直史は思い出した。

「べにたけ明神が難儀しているそうだぞ、クロハ」

「まあ、いかなる難事で」

「毒きのこが西へ勢力を伸ばしておるが、思いの外強力で制御できぬそうだ。秋のへぼきゅうを求めに来た、河童が教えてくれた」

「捨ておけぬ問題ですわねえ」

 クロハが憂い顔になった。

「おれとまどかが手助けしたがってるって、伝言を河童が伝えてくれるってさ。滋賀県の神社で英気を養ってるらしいから」

「ああ、くさびら神社ですわね」

 ククリ姫を一方の手に抱いて、クロハは慣れた所作で廊下に上がる。

「昼ご飯を作ってる最中だから、食べていったら」

「でしたら、お言葉に甘えて……あら、芳しいこと!」

 ダイニングキッチンに足を踏み入れたクロハは、まどかに笑いかけた。

「ヤナギマツタケと山科茄子の香りですわね? まどかさん」

 オーブンで焼かれているキッシュには、確かに山科茄子も入っている。賀茂トマトと同じく京野菜の一種だ。

「すごい、クロハさん。そこまで分かる?」

「鞍馬のお山で生まれたカラス天狗ですもの、それは分かります」

 クロハが椅子に座る。胸元からククリ姫が跳ねたかと思うと、赤い振袖がふわりと宙に舞った。流れる黒髪の間から、大きな瞳が覗く。

「ククリ姫、人の姿になっても大丈夫でございますか?」

「平気だ、クロハ。さっきもらった賀茂トマトが効いた」

 十代半ばの少女の姿になって、ククリ姫はオーブンの前に寄っていく。

「まどか、いつ焼き上がる?」

「これはねえ、あと十五分くらい」

「楽しみだ」

 二人は並んでオーブンを覗きこんでいる。

 炒めて入れたベーコンや玉ねぎの香りも漂ってきて、直史は陶然となる。腹が鳴りそうだ。

「そうだ、母さんが送ってくれたお茶、飲もうか。加賀ほうじ茶」

 自分の胃を慰めるためにも、直史は提案した。

「お茶請けがいると思いまーす」

 まどかがビシッと手を挙げる。

「さてはお前も腹が減っているな。クロハ、お土産開けてもいい?」

「どうぞどうぞ。加賀ほうじ茶に合うでしょうねえ」

 クロハが自信ありげに言うので、直史は「何だ?」と思いつつ風呂敷包みを開いた。

 いつか棒寿司をくれた時と同じような竹皮の包みを開けると、まどかが「きゃあっ」と声を上げた。

 あたたかな薄茶色の、素朴な棹菓子。蒸した栗の実と同じ色合いだ。

「これ、栗ようかんに似てるけど……寒天はぜんぜん使わずに、採れたての栗ばっかりで作ってますよね? 質感がほっくりしてるっ!」

 まどかの言葉を聞いているうちに、口の中に唾液が湧いてくる。やはりこの妹は唾液腺破壊兵器だ。

「ご名答ですよ、まどかさん。蒸した丹波の栗と、お砂糖と、ほんのちょっとの葛粉だけで練り固めた、この時季だけの栗の棹菓子」

「ああっ、ありがとうクロハさんっ」

 まどかに肩を揺さぶられて、直史の視界がガクガクと揺れる。

「何でおれを揺らすんだ。耳から脳が出るだろ」

「あ、ごめん」

 まどかは即座に手を離した。

「そんなことより、秋っていいねえ。栗、サンマ、リンゴ、柿、いちじく……」

 浮かれた足取りでまどかは棚を開け、加賀ほうじ茶の袋を取り出した。お茶を淹れてくれるらしい。

「今日は豪勢ですのね?」

 クロハはオーブンと、コンロに載っている鍋を見比べた。

「もう秋だからさ、夏の京野菜を今のうちに食べておこうと思って」

「まあ、それで先ほどククリ姫が、賀茂トマトが効いた、と」

「すりおろして冷蔵庫で冷やしてるよ……さて、どの菓子皿にしようかな」

 直史は食器棚を開けて、クロハの手土産に合いそうな器を探しはじめた。

 金沢で和食器ギャラリーを営む両親は、下宿する子どもたちのために在庫の食器をたくさん分けてくれた。ありがたくもあり、親元を離れてからも器を見る目を磨けと言われているようで若干重たく感じる時もある。

「栗の棹菓子は素朴な色だからなー……」

 赤くあざやかな、漆塗りの丸い菓子皿が良さそうだ。人数分取り出して、ダイニングテーブルに並べる。

「赤い皿見てまた思い出したけど、べにたけ明神はきのこの精のまとめ役、ってどういうことだよ?」

「殖えすぎぬよう、減りすぎぬよう、他の生物を脅かしすぎぬよう、調整する役だ」

 ククリ姫がおごそかに言う。

 あの世とこの世をくくる白山のククリ姫としては、相手の役目の重大さがよく分かるのかもしれない。

「野山で死んだ生き物が土に還るのは、きのこの精のおかげでもある。きのこは命の循環を担っているのだ」

 十五歳ほどの少女の姿でそんな話をすると、まるで生物の授業の復習をしているようだ。

「そっか、きのこって菌類だから」

 つまりはカビの仲間だから動物の死体を分解するというわけだ。

 直史は「ちょっと待ってて」と隣の六畳間に入った。

「どうしたの、お兄ちゃん」

「泉鏡花が書いたきのこの話、うちにもあったはず」

 本棚に並ぶ古びた『子どもの鏡花シリーズ』から『茸の舞姫』を出す。百年前に語り手の役を担った文豪・泉鏡花の作品を子ども用に翻案したものだ。

「確か、ものすごくえぐい話だから子ども向けはソフトになってるんだよな」

 呟きつつ、ふすまを開けてダイニングキッチンに戻る。

「まどか、お手本あったぞ。お菓子食べてから読もう」

「ラジャー!」

 まどかが元気に返事をして、加賀ほうじ茶を急須から茶碗に注ぎはじめる。

 直史は包丁を取り出した。

「厚さは一センチくらいかな……」

 栗の棹菓子を包丁で切ると、切り口がほっくりと粉を吹いた。

「クロハ、これ、ほんとに蒸した栗そのまんまだ!」

 感謝をこめて直史が言うと、クロハは口元を袖で隠して笑った。

「いつも頑張っている語り手に、福利厚生ですわ。それより、包丁を持ってはしゃいでは危のうございますよ」

「はい」

 信介と同じように、基本的なことで注意されてしまった。

 まだまだ大人には遠い、と思いながらも、秋の味覚が嬉しくて仕方なかった。