私、天保院京花には俗に言う第六感が備わっている。

 だけど実際は、人よりもほんのちょっとだけ、


 目がおかしくて、

 耳が変で、

 鼻が異常で、

 舌が特殊で、

 肌が異様なだけである。


 これが原因で、私は幽霊と呼ばれるモノたちを数多く目撃し、彼らの声を耳にし、存在しない異臭を嗅ぎ取り、流れてもいない血を舐め取り、かつてあった感触を掬い取る。――そうして接触したが最後、幽霊は自分たちを知覚できる人間を放ってはおかず、大小さまざまな理由から積極的に干渉してくるのだ。

 本当に無遠慮で、自分勝手で、したたかで、可愛げのない、はた迷惑な物共だわ。

 だから嫌いよ、アナタたちが。

 かつて『人間』だった見えざる物共には畏敬も恐怖もありはしない。

 ただ煩わしいだけ。

 かかずらうだけで損をする、私にとってはその程度の存在。

 でも、心霊体験を通じて触れる理にも意義はある。常人には知りえない人の世の裏表を、私は思い知ることができたのだから。すなわち、


 幽霊よりも何よりも『人間』がもっとも煩わしい。




 七月にも拘わらず、その夜は底冷えするような冷たい風が吹いていた。

 アロハシャツの隙間から入り込んだ微風がするりと肌を撫でていく。指先で全身の体毛に触れていくような感触。寒さよりも気色悪さが際立った。生きた風だった。生き物のように蠢き、纏わりつき、黴の臭いを振り撒いた。男は鼻を鳴らし、不愉快そうに顔を歪めて大股で歩いていく。腐った板間をわざと軋ませるように乱暴に館の中を巡った。

「おぅい。もういいじゃねえか。なあ? 出て来いよぅ」

 似合わない猫撫で声で呼びかける。そこに隠しきれない苛立ちが含まれていた。

 巷では『幽霊館』と呼ばれているこの館に入ってから、すでに十分が経過していた。館内は、人が隠れるには絶好の広さで、客室や屋根裏部屋など小部屋の数は十を優に超え、全部を見て回るのはかなり骨が折れる。加えて廃墟に似つかわしく倒れた調度品や崩れた壁が足の踏み場を隠し歩きにくくしていた。館中が精神的にも肉体的にも探索を断念させようと迫ってくるようで不快だった。それはまるで、一つの意志だ。男に向けた怨念だ。館そのものが男を糾弾していた。

 ――馬鹿馬鹿しい。不気味だの、恐ろしいだのという感情は弱い人間のみが抱えるものである。たとえ館に本当に意志があり、奴らの怨念が渦巻いているのだとしても、実体の無いモノに何ができるというのか。

 そう自分に言い聞かせる。弱気を見せればつけ込まれる。力関係を改めて思い知らせるべく、男はなおも肩を怒らせて廊下を歩いた。

「いい加減にせぇよ。今ならまだ許してやる。はよ出てこんかい」

 罠に嵌ったことに気づかないまま、館の中を歩き回る。

「ここだとなあ、いくら悲鳴上げてもなあ、泣き叫んでもなあ、誰にも聞こえんぞ? だぁれも助けに来ちゃくれんぞ? 何されたってなあ、誰にもバレねえんだぞ? 殺されたってなあ、文句言えねんぞお! わかってんのか、ああん!?」

 怒鳴り声は二階にまで響いた。壁を蹴破り、転がる花瓶を出鱈目に投げつけた。音による脅迫。格闘家のような体格に厳つい面つきをした男が放つ荒々しさは在るだけで暴力だ。男もそれを自覚していた。隠れ潜む獲物は今頃震え上がっているに違いなかった。

 ここ『幽霊館』は元は資産家の持ち家だった。遥か昔に主人を含めた大量の死者を出し、以来買い手も付かずに荒れ放題で放置されてきた。事件は、怪談の温床としてこれ以上ないほどにうまく嵌った。曰く、主人の霊が夜な夜な館内を徘徊して回っているだの、殺された者たちが常に怨嗟の声を上げているだの――作り話は尽きない。

 男はこれまで何度もこの館を訪れたが、徘徊する霊など見たことがないし、怨嗟の声を聞いたこともなかった。無いモノを恐がれる神経がわからない。

 ただ、それが心霊的なモノの影響かどうか知らないが、ここに来ると気分が昂揚した。人気の無い暗がりと荒廃した臭いは、覚せい剤を使用したときの感覚を思い起こさせた。視覚と聴覚と嗅覚が頭から抜け出してそれぞれが好き勝手に映像と音と臭いを拾い集めてくる感覚。神経が研ぎ澄まされるのだ。一秒が十秒にも百秒にも感じることがあれば、数分居たつもりが数時間経っていたなんてこともあった。おそらく館中に染み付いた血の臭いと暴力の爪痕が男の神経を昂ぶらせるのだ。

 だから、危機感も欠如する。

 この館とは相性がいい、と誤解する。

 館はずっと男に狙いを定めていた。これまで無事だったのは条件が整わなかったためだ。粗野で短絡的だが危険に対してのみ異常に嗅覚が働くこの男を確実に葬るために、息を殺すかのようにじっと機を窺っていた。

 今宵こそが審判のときである。

 一階ロビーに戻ってきた。男は完全に苛ついていた。一階の探索はまだ半分もできていない。この上さらに二階と屋根裏まで探索せねばならぬのか。獲物を徐々に追い詰めていくのは楽しいが、このような隠れんぼは時間の無駄でしかなかった。いずれ見つけて八つ裂きにするのだから、そこに至るまでの過程は程良く短い方がいい。長く焦らされても怒りしか湧いてこない。

「ざけんなコラァ! ぶっ殺すぞ! 出て来いやラァ!」

 機は熟した。

 逆上した男の背後、玄関からぬっと影が姿を現した。床を踏んで軋ませ、男の方へと近づいていく。しかし、男は影の存在に気づかない。怒号を上げて出て来いとしきりに叫んでいる。影はすでに男の目の前に回り込んでいた。男の目には映っていない。影の手にはナイフが閃き、ゆっくりと男の胸部へと伸びていく。

「あ、がぁ、だ、誰だ!?」

 男は驚愕した。背後に誰か居る。目の前の影ではなく、後ろから首を絞めてくる何者かに素性を問う。「テメエか!? ようやく出て来やがったな!」両手を振り回し、足で闇雲に床を蹴った。背後の何かにぶつかる気配はない。男は迫り来るナイフに一切気づくことなく息苦しそうに首元を掻き毟る。

「は、はな、せ」

 呼吸ができない。顔は真っ赤に染まり、眼球が瞼から押し出されそう。間もなく男は窒息死を迎える。影はそれを嫌った。無防備なその胸にナイフをさくりと突き入れた。

「は、え?」

 ようやく、男は影を認識した。探していた獲物はすぐそこに居た。だが、胸に生えたナイフに気づいたときにはもう意識は途切れていた。間もなく男は絶命し、影は静かにその亡骸を見下ろした。

 やがて虚空を見上げた。それまで男を苦しめていた気配はすでに霧散していた。影は確信する。アレは自分に味方してくれている。「あとふたり……」呟くと、冷たい風が破れた窓から猛烈に吹き込んできた。館が呼応している。影を鼓舞しているのか、はたまた非難しているのか、わからない。だが、たとえ館に見限られようとも影の報復は終わらない。

 あとふたり。

 奴ラヲ逃ガシテナルモノカ――。



 翌晩、隣県から肝試しにやって来たカップルが、玄関から入ってすぐのロビーに人が倒れているのを発見した。慌てて通報し、駆けつけた警官が死体を確認したところ、ナイフで刺殺された被害者の身元はすぐに判明した。

 杜村鳶雄、五十六歳。

『幽霊館』が資産家の持ち家だった頃、その当時、この豪奢な館は近隣住民からは『杜村邸』と呼ばれていた。

 鳶雄はかつてこの館に暮らしていた杜村家の跡取り息子であった。


*   *   *


 七月二十五日――。


 千千良町の南部。閑静な住宅街の一角にその館はあった。

 街に違和感なく溶け込んでいるが、その西洋風建築をぐるりと囲む鉄柵は重厚感を、外庭に並ぶオリーブやアカシアの瑞々しい木々は高級感を見る者に与え、加えて門扉は三メートルを超えており、物理的にも精神的にも庶民の侵入を拒んでいた。しかしそれも今や昔の話、所有者が去り数十年放置された館は、不法侵入不法投棄が日常的に行われ、破壊と腐敗が進んで廃墟と化した。鉄柵は赤錆びてかつての重厚感は見る影も無く、瑞々しかった木々もまた枯れ果てており、みすぼらしさしか残っていない。

 そんな旧杜村邸で殺人事件が発生した。発覚から一夜明け、現在午後十二時半。蝉の声が廃棄物の山に染み入る中、警察による現場検証が行われていた。

 現場保存に駆り出された交番勤務員は、長時間立ちっ放しなのか疲労の色が顔に出ていた。桐生竜弥が警察手帳を提示してもその横顔に変化はない。目は虚ろで覇気がなく、今にも座り込みそうなほど無気力に感じられた。一瞬気を取られたところに、「早くしないか」と先輩刑事である蛇山警部から急かされた。竜弥は規制テープを潜ると慌てて蛇山に駆け寄った。

「元気ないっすね。みんな」

「この暑さだ、仕方あるまい。それにこの場所にも問題がある。放置された廃墟は大概ゴミ廃棄場と化す。この暑気の中、異臭とも戦わなければならないのだから、自ずと士気は下がる」

「確かに結構臭うっすね。こんなトコで長時間立たされりゃあんな顔にもなるか」

 腐敗した魚よりも酷い悪臭だ。生臭いだけではない、生理的に受け付けられない腐乱臭も混じっている。何の臭いかなんて考えるまでもない。

「君も顔には気をつけたまえよ。鑑識は夜が明けない内からここに詰めている。今来たばかりの捜査員が顔を顰めていたらどう思うか」

 確かにそうだ、と竜弥は頷いた。今は遺体も搬送し終えたが、臨場して検死に当たった検視官はさらなる異臭と闘っていたはずである。後から召集された一課の人間がこの程度の異臭で顔色を変えていたら笑われる。いや、それ以上に怒りを買いそうだ。

 遺体があったロビーには捜査員が数名居るだけであった。検視官や鑑識は検証を終えてあらかた引き払ってしまったようだ。

「昨晩からずっとだもんな。もう手掛かりになりそうなもん落ちてないっすよね」

「さて。何しろゴミ屋敷だ。それに、若者が好き勝手出入りしていたとも聞く」

「加えてこの広さっすよ。屋敷の間取り図見ましたけど、上は屋根裏部屋から下には地下室まであるんですって。まったく金持ちって奴ァどうしてこう」

「今回の事件に関係ある物証だけを抜き出せというのは現段階では不可能だろう」

 庭や床に落ちているタバコの吸い殻を全部拾い集めるわけにもいかない。こういう現場での捜査が一番面倒だった。何が手掛かりになるかわからない。

「だが、死因に関してだけ言えばすでに特定されている。検案書によるとナイフで胸を一突きされたのが致命傷となり、即死だったそうだ。死亡推定時刻は、おおよそ、一昨日の午後八時から十二時の間。司法解剖はする予定だが、いつになるかわからない」

「まあ、誰が見たって異常死っすからね。検視だけで十分っちゃ十分でしょ」

 予算と医師の不足で司法解剖が行われないケースが多々あった。明らかに刑事事件だとわかるものについては順次行われるが、遺体を搬送してから数日は待たなければならない。それまでは目撃情報の収集や被害者の身辺調査が捜査員の主な仕事となる。

 遺体があったとされる床に目印の跡が残っていた。杜村鳶雄はこの場で仰向けに倒れていた。竜弥は合掌し、蛇山は帽子を取って黙祷した。

「落ちぶれたものだ。元は資産家の跡取りだったというのに」

「俺、実は杜村のオッサンとちょいと顔見知りだったんすよ。だもんで、この『幽霊館』が元はオッサンの住まいだったって聞いたときはちょっと驚きました」

「幽霊館? 何だ、それは。有名なのか?」

「あれ、知りませんか? ああ、蛇山さんって地元違いましたっけ。ココっていつからあるか知りませんけど、俺がガキん頃から幽霊が出るって噂があったんです。まあ有名でしたよ。心霊スポットってことで全国から冷やかし連中がよく集まってたし、近所の学校でも定番の怪談として流行ってました。子供の霊が騒いでいるだの女主人の霊が徘徊しているだのと、内容は若干違いますけど、まあありがちな奴が二つ三つ。あ、聴きます? 納涼大会でも開きますか?」

「要らんよ。馬鹿馬鹿しい。私はね、そういったオカルトが大嫌いだ」

 蛇山は不快そうに吐き捨てた。そうして、二階へと続く階段を見上げた。

「この館にはよくないモノが憑いているのだそうだ。三十年前の事件以来、館が廃墟となった後もずっと現存していられたのはそれが原因らしい。何でも、取り壊そうとするたびに関係者が不幸に見舞われるというんだ」

 売りに出された当時、仲介に当たった不動産会社の社長、買い付けを入れた資産家、リフォーム業者、重機を入れた建築会社社員、その他諸々、杜村邸に関わった者は例外なく不幸な目に遭った。事故、病気、金銭トラブル。売買契約や工事はその都度取り止めとなり、次第に呪われた家として忌避されていくことになる。

「警察も例外じゃない。昨夜ここに入った鑑識から聞いた話では、二階に上がることさえできなかったそうだ」

「何でまた?」

「捜査員数名が重傷を負った。床を踏み抜いての骨折や、突如崩れた柱の下敷きになって指を切断したり、内臓を破裂させた者まで出たそうだ。軽傷まで合わせたら十人以上が怪我をしたことになる。たった一晩でだ。こうなっては家捜しするのも難しい」

 竜弥もまた階段を見上げた。この上には良くないモノがおり、部外者の侵入を拒んでいるというのか。――まさか本当に幽霊が? 不吉な気配に思わずぞくぞくした。

「じゃあ仮に、上に犯人の手掛かりがあっても探せないってことすよね? もしかしたら犯人が潜伏している可能性だって」

「そうだが、その場合は犯人とて無事では済まないだろう。ってのが、調査を先送りにした理由でもある。上に手掛かりはないと看做した。まったくふざけた話だ。怠慢だ」

「ますます怪談めいてきましたね。ところで、三十年前の事件ってのは何すか?」

「怪談の中身は知っているのにそのきっかけとなった事件を知らんのか?」

 蛇山は「怠慢だ。怠慢だ」と竜弥を詰ると、思い出すように訥々と語った。

 杜村家は近所で評判の資産家であり、町の名士でもあった。一代で財を成した成金であるが、農家の出で庶民派だったことから町の人間からは親しまれてきた。しかし、杜村家の当主は短命で、四十の若さで他界してしまう。残された奥方は遺産を相続し、一人息子とひっそりと暮らし始めた。今からおよそ五十年前のことである。

「その奥方の名前が時子だ。杜村時子。そして息子が一昨日の晩に殺された鳶雄だ。ふたりは親ひとり子ひとりで支えあいながらこの館で生きてきたわけだ。三十年前までな」

 杜村時子はふたりで住むには広すぎる杜村邸の一部を近隣住民に解放した。保育士を雇い入れ、子供を預かる保育所を開設したのだ。趣味で絵本の読み聞かせを行い、手作りのおやつも出していた。母親たちからは大層有り難がられたという。

 今でこそ見る影はないが、当時の館内は外観ほど瀟洒でなく庶民的な内装でとても落ち着いていた。時子は音楽にも嗜みがありピアノを弾いて子供たちを歌で遊ばせた。賑やかな昼下がり、天窓から差し込む優しい陽の光が杜村邸の平穏を物語った。

 約二十年もの間続いた保育所はしかし、凄惨な事件が引き金となって幕を閉じる。

 杜村時子は、おやつに出したミルクに農薬を混入させると、預かった子供たちを巻き込んで無理心中を図ったのである。杜村時子と十三人の児童が死に、運良く一命を取り留めた児童のひとりもまた後遺症による障害を残した。この『毒入りミルク事件』は報道されるや瞬く間に日本全土を震撼させ世論を沸かせた。

「なぜ時子夫人は服毒自殺を図ったのか。今となっては謎のままだ」

「そうか! だから怪談に出てくる幽霊が子供と女主人だったのか! 知らなかったなあ。で、鳶雄のオッサンはその事件が起こったとき何してたんすか?」

「鳶雄は当時二十六歳。放蕩してはすぐに問題を起こしていた。時子夫人とはほとんど絶縁状態だったらしく、事件前後は余所の県に居たそうだ。当然、遺産や保険金はすべて鳶雄に相続された」

「それはそれで怪しいっすね。そんで鳶雄のオッサンはこの忌まわしい場所で殺された、と。何か因縁めいたものを感じませんか? 本当は自殺なんかじゃなく、オッサンが毒を盛った犯人で、生き残った児童が復讐したのかも」

 蛇山は呆れたように首を振った。

「因縁を感じるのは勝手だが、私はこの二つの事件は無関係だと思うね。『毒入りミルク事件』から三十年が経っている。その間、鳶雄は変わらずこの町に住んでいたんだ。宿怨を晴らすにしても期間が開きすぎてやしないか」

「それもそうか。まあでも、その児童は気になります」

「もちろん捜査対象だ。君、行ってみるか?」

 投げやりな口調で問われた。竜弥のような新米を試すくらいだ、蛇山が今回の事件とは無関係だと断じた以上、そこへの聞き込みに収穫は期待できないと踏んでいる。そればかりか、三十年前の事件を蒸し返して被害者の反感を煽るという嫌な役回りを引き受ける形でもあった。

「行きます! もちろんっす!」

 しかし、竜弥は意気揚々と捜査への意欲を見せた。

「鳶雄のオッサンには何度か優しくしてもらったことがあるんすよ。まだ学生だった頃の話っすけど。何か裏であくどいことやってんのは薄々気づいてましたけど、俺にとっちゃただの面白いオッサンだったんです。仇討ってやりたいっす」

「そうか。その正義感は良いことだ。励むといい」

 蛇山は無感情に言った。冷徹、という言葉が竜弥の脳裏に過った。それは署内における蛇山への人物評でもあった。

 蛇山は今年で四十五歳になる。捜査一課一筋で凶悪事件と闘ってきた叩き上げの敏腕刑事だ。冷静沈着でここぞというときの勘が鋭く、切れる、という表現が彼にはとてもよく嵌った。部署内での信頼も厚く、何を考えているのかわからないと恐れられることもあるが、正義感が強いことだけは皆が認めていた。竜弥にとっても理想とする刑事像である。

 そんな蛇山だが腕時計を確認した途端、珍しく顔を顰めた。

「そろそろご令嬢が到着する。桐生君、行くぞ」

「は? ご令嬢?」

 場にそぐわない単語に竜弥も顔を顰めた。もちろん竜弥にはその単語の意味するところもわかっていない。――何だ? ご令嬢って? 令状の聞き間違いか?


 このとき、物語はすでにして佳境に入っていた。

 桐生竜弥は事件の始まりにして終幕を迎える、ある出会いを果たすことになる。



 館の玄関を出て、門扉まで戻る。見張りに立つ交番勤務員に会釈しつつ敷地から出た。一歩外に出ただけで空気が替わった気がした。旧杜村邸の敷地内も蒸すような暑さだったが、冷気のようなものも漂っていた。外にはそれがない。からっとした清々しい暑さだった。日本特有の湿度の高いじめっとした暑気でありながらそう思えるのだから、どれほど『幽霊館』が異界であったかわかろうというものだ。

「一体誰が来るんすか? 蛇山さんのお知り合い?」

「顔見知り程度だがね。立場上付き合わざるを得んのだよ」

 蛇山がしきりに周囲を見回している。旧杜村邸が広大な敷地の中にあるので気づきにくいが、ここは住宅街の只中だった。俯瞰すれば、もちろん周囲には民家の屋根が無数に見えるはず。往来には人や車が行き交っている。ごく普通の町の景色であった。

 そこに異様な影が現れた。

「来た。時間通りだ。こういうとき、あの格好は遠目にも気づきやすいから助かる」

 竜弥は逆光を遮るように手を翳して、見た。陽炎が立ち込めるアスファルトの上に一体の人影が揺らめいている。それは段々とこちらに近づき、姿形がはっきりとわかっても「んん?」常人には理解し難いモノであった。

 人影は蛇山の前で立ち止まると、軽く会釈したようだった。蛇山も応えて頷く。

「ご足労お掛けしました」

「いいえ。お付き合いくださり恐縮です。改めまして、ごきげんよう。蛇山警部」

 人影が喋った。静かな中にも凛とした力強さが宿った声。鈴の音のように美しくもあったが、どこか哀しげな響きを有していたのが印象的だった。

 ふと、人影は竜弥を窺ったようだったが、特に何も言ってこなかった。

「それで、今回視せて頂くモノはどちらにおありなのかしら?」

「……実際に居るかどうかは私の目にはわかりません。遺体があったのは建物の中です。遺体はすでに搬送しておりますが、……それでもまだ居るものなのですか?」

「ええ。異常死なのでしょう? それも殺人。でしたら、高い確率でまだ居ますわ。案内してください。すぐに終わらせますので」

 歩き出す人影を蛇山が片手を上げて押し留めた。

「その前に、私の部下を紹介させてください。貴女のことはまだ説明していないのです」

 人影はあからさまに面倒臭そうな雰囲気を漂わせた。

「こちら桐生竜弥巡査です。一課に配属されてまだ日は浅いが、将来有望です。今後も会う機会があるでしょうし、顔だけでも覚えて頂けたらと」

 定型的な挨拶で、あまり紹介の意味を為していないようにも思われたが、上司からの紹介なので体裁を整えるべく敬礼した。

「桐生竜弥巡査です。よろしくお願いします」

 頭を下げる。しかし、人影は竜弥の方に体を向けることなく、澄ましていた。

 何だ、こいつ……。竜弥は少しだけ苛立った。

 先ほどから執拗に『人影』と表現しているのにはもちろん理由がある。その人物は全身を真っ黒い洋服で纏っているのだ。手首まで隠れる長袖の黒のワンピースドレス、黒のロングブーツ、両手に嵌めたレースの手袋も黒で、頭に被ったトークハットも黒。おまけにトークハットから垂れたベールは顔の上半分を覆っており、徹底して肌色を隠していた。見えている肌色部分は口元と首回りだけ。文字通り、まるで影。人の形をした影絵が立体となって歩いているように見えるのだ。

 声と口調、そして体格から人影が女性であることはわかっていたが、近づくとその顔がベール越しに薄っすら透けて見えて、思いのほか若いことに気づいた。端整で綺麗な顔立ちをしている。しかし、全体的にあどけなさを残してもいた。背もそれほど高くないし、歳は十代半ばくらいと予測できるが、彼女から漂う貫禄めいた雰囲気が邪魔をして、正確な年齢を推し量るのが難しい。

 人影から挨拶が返されないことを悟った蛇山は、代わりに竜弥に紹介した。

「こちらは天保院家の末女、天保院京花さんだ。君も天保院の名前くらい聞いたことがあるだろう」

「てんぽう……いん、って確かあのお山のお金持ちじゃ!?」

 慌てて背後に聳える山を指で指す。蛇山が頷くと、竜弥は「マジかよ」唖然とした。

 竜弥が指し示したのは、千千良町北部に聳える稜線の丁度真ん中、裳子山の中腹に建てられた一軒の西洋風屋敷である。千千良町のどこからでも眺めることができ、また逆に千千良町の隅々まで一望できるその屋敷こそ、巨大グループ企業の創業者一族『天保院家』の住まいであった。

 天保院家の歴史は古い。元は華族で、遡ればかつては豪族の一つとしても知られていた。政財界に大きな影響力があるのはもちろんのこと、現代まで地元に根を張り続けた天保院家は地域発展のためにいくつかの産業を興して町を潤わせ、学校を建てて教育にも力を注いだ。千千良町の実質的な支配者とも言えるが、天保院家は地域に貢献するだけで権力を振りかざしたことは一度としてなかった。永きに亘るその繁栄は、家格に捉われず臨機応変に近代化を受け入れ、保守的でない家督相続に拠ると言われている。すなわち婿養子である。当代、先代、先々代と婿養子が家督を継いでいるのだ。いつの時代からか定かでないが、血ではなく名を後世に残すことを選んだ天保院家は、逆説的に家名に執着しなくなった。事業が成功すれば姓ではなく個人の力量をこそ誇り、あえて旧姓を名乗って代表に納まることもあった。なので、多くの町興しに天保院家が絡んでいることを町民のほとんどが気づいていない。産業も教育機関も外的要因で自ずと成ったものと思っている。

 竜弥にしても高い場所に住みたがるいけ好かない富豪という認識でしかなかった。

「ご令嬢ってのはそういうことっすか。しっかし、何でまた……」

 京花の異様な出で立ちを改めて見遣る。これではまるで喪服だ。殺人現場に富豪の娘が冷やかしに現れたということなのか。それはちょっと悪趣味すぎやしないか。

「彼女には不思議な力があるのだよ。何と幽霊が視える」

「ゆ、幽霊!?」

「霊視というのだそうだよ。遺体があった場所には被害者の霊がしばらく居憑くらしく、その霊に触れると死んだときの状況がわかるというんだ」

「マジすか!? じゃあ、そいつを殺した奴もわかるんすか!?」

「犯人まではわからんらしいが」

 窺うと、京花は特に反応を示さなかった。蛇山はふんと鼻を鳴らした。

「私も何度か立ち会ったことがある。こういった事件が起きると直接現場まで駆けつけてくださってね、まったく頭が下がる。本部の上の方からはよろしく頼むと仰せつかっているので、桐生君もご令嬢の邪魔だけはしないように。わかったね?」

 それはどう聞いても嫌味であった。蛇山は令嬢のお遊びにも天保院家にへつらう上層部のお偉方にも憤慨していた。冷徹で知られる蛇山がこうまで怒れるのだから、その霊視とやらもよほどお粗末なものなのだろう。喪服はつまりコスプレか。悪趣味もここまで極まればもう呆れるほかない。

 京花は聞き捨てならぬとばかりに蛇山に噛み付いた。

「ご令嬢って呼ばれるの、嫌いだわ。直してくださらない?」

「これは失礼しました。天保院さん」

「今後はお気をつけくださいませ」

 気にするところってそこかよ――と、強く突っ込みを入れたかったが、蛇山と京花が放つ緊張感に圧されて何も言えなかった。居心地悪いぜ、この組み合わせ。

 蛇山が中に案内しようとしたとき、向こう角から少年が「おおーい!」大声を張り上げて走ってきた。竜弥と蛇山が怪訝そうに振り返る中、京花だけは無視して敷地の中に入ろうとした。

「おおーい! 待ってよ、京花ァーっ! 京花ってばーっ!」

「京花って、天保院さんのことっすよね? 呼んでますけど?」

「……」

 京花は観念したように立ち止まった。

 少年は息を弾ませて京花の前までやって来ると、苦笑いを浮かべた。

「置いて行くなんて酷いよ。待っててくれてもいいのにさ」

「貴方が勝手について来たんじゃない。私、頼んでないわ」

「つれないなあ。でも、珍しくやる気だね。何かあったの?」

「ヒトリには関係ないことよ。邪魔だから、もう帰って」

「帰らないよ。切子さんに頼まれてるからね。終わったら一緒に帰ろう」

「ヒトリ?」

 京花と少年の会話を聞いていた竜弥がその名前に反応した。正面に回り込んで少年をよく観察すると、竜弥は「あっ!?」声を上げた。

「ヒトリ! やっぱりそうだ! おまえ、葦原人理だろ!? ヒトリなんて名前そうそう無いもんな! 間違いねえよ! ほら、覚えてないか!? 俺だよ、俺! 桐生竜弥! 昔、よく遊んでやったろ! 思い出せよ! ほら! ほら! ほら!」

 少年の襟首を掴んで前後に揺さぶった。少年は目を瞬かせて、

「もしかして、たっちゃん?」

「おうよ! 久しぶりだな! マジで何年ぶりだよこいつ!」

 少年の首に腕を回し、髪の毛をわしゃわしゃと掻き回した。「ちょ、やめてよ!」少年は嫌がる素振りを見せながらも楽しげに笑った。

「たっちゃん、何でこんなトコに?」

「俺ァいま警察官だからよ。ココには捜査で来てんだ。おまえこそ何やってんだ?」

「僕は京花の付き添いだよ。事件現場に来るのなんて初めてだからなんか緊張するよね。ええっ!? たっちゃんが警察官!? だ、大丈夫なの!?」

「時間差で驚いてんじゃねえぞ。相変わらずの天然ぶりだな、ヒトリは。マジで懐かしいな。元気でやってたか?」

「うん。おかげさまで。もう虐められたりしてないよ」

「そっか。なら、よかった」

 蛇山が咳払いをした。竜弥は決まり悪そうに人理を放した。

「あ、すんません。こいつ、知り合いだったもんで、つい」

「天保院さん、こちらの方は? 私は初めてお会いするが?」

「部外者です。気になさらないでください。すぐに追い返します」

「そんなっ!? 京花ってば酷いよ!」

 意外な相関関係が発覚し、それぞれが好き勝手に主張し始めたので、いよいよ収拾が付かなくなりそうである。年長者である蛇山がひとまず取りまとめた。

「天保院さん、我々も捜査の時間が惜しい、早速で申し訳ないが霊視を行って頂きたい。桐生君、そちらの少年とは顔見知りのようだからここで相手をしてあげなさい。天保院さんが部外者だと言う以上現場に立ち入らせるわけにいかないからな」

「私もそれで構いません。行きましょう、蛇山警部」

 采配に素直に従った京花はすぐさま規制テープを潜って敷地の中に入っていく。後に続く蛇山に「一歩も中に入れるんじゃないぞ」と念を押され、竜弥は何度も頷いた。蛇山は、ただでさえ京花に対して良い印象を持っていないというのに、さらに人理の登場で場の緊張感が完全に吹き飛んでしまったので酷く頭に来ていた。普段の鉄面皮が嘘のような怒り顔に竜弥は身が竦む思いであった。

 ただひとり、人理だけが状況を把握しきれずにいた。

「あれ? 僕は入っちゃいけないのかな?」

「ったりめえだろ。何聞いてたんだ? 部外者なんだろ?」

「僕、京花とは親戚なんだ。だから僕は付き添いさ」

「それを部外者っていうんだよ。事件の部外者な。おまえ、ここが殺人現場だって知らないのか?」

「もちろん知ってる。京花が呼ばれたんならそれ以外ないでしょ。京花の霊能力は本物だからね。事件解決に毎回役立っているって聞くし」

 どうだかな、竜弥は内心で思った。

 人理の言うように、仮に彼女の能力が本物で、毎回霊視とやらで事件解決に繋がる手掛かりを掴んでいるのだとしても、捜査本部が素直にその情報を鵜呑みにするとは思えない。おそらく、上の顔を立てて一考の価値アリとでも調査報告に記入して終わりにするはずだ。過去に何度も立ち会っているという蛇山のあのおざなりな態度からしても重宝されているとは言い難い。

 本人がどう思っているのか知らないが、良い様に担ぎ上げられている京花にも少しばかり同情した。あのキャラ作りが趣味なら自業自得でしかないけれど。

 意外にも人理は大人しく待っていた。中に入りたいと駄々を捏ねられるかと思ったのだが、付き合いがあった昔ほどガキではなくなったらしい。

 改めて人理を見下ろした。『幽霊館』を物珍しげに眺めるその横顔は小学生時代の面影を残しつつも、少しだけ男らしい面構えになってきた。以前は女のような顔をして、離れて見ると完全に女にしか見えなかったのに。背も低いし体つきも華奢だったからなおさらだ。今はあの頃より少しだけマシになった程度だけれども、成長が見られたのは感慨深い。

「ヒトリ、おまえ今いくつ?」

「十七。高校二年だよ」

 最後に会ったときから四年も経っていた。

「あの子は?」

「京花? 京花も同い年だよ。まだ十六歳だけど、今年で十七になる」

 若い。竜弥もまだ二十二歳で若い方だが、十代と二十代の境にはとてつもない壁があると感じた。学生と社会人の違いも大きい。ちょっと前までこいつら側に居たのにな、とにわかに感傷的になってしまう。

「普段からあんな格好してんのか?」

 京花のことを言ったつもりだったのが、人理は誤解して首を横に振った。

「嫌だな。僕はもうあんなひらひらした物着たりしないよ。昔の話だよ」

 思わず「そっか」と呟いた。

 昔を思い出す。葦原人理と初めて出会ったのは竜弥が高校生のときだった。放課後に悪友たちといつも屯しているゲームセンターに向かっている道すがらに、建物の陰で小学生の集団が騒いでいるのを見掛けた。よく見れば、数人の男子が寄って集ってスカートを穿いた同年代の女子を虐めていた。それも悪口を言ったり物を盗ったりしてからかうような可愛いものではなく、男子のひとりが馬乗りになって顔面を殴りつけ、他は手足を蹴りつけるといった集団暴行だった。「何だありゃ? 女子に対してえげつねえ」「止めた方がいいか? つか、あれウチの弟だ」連れの兄弟が居たこともあってすぐさま止めに入った竜弥たちだったが、後から女子の正体を聞かされて愕然とした。

 その女子こそが葦原人理だった。見た目にも完全に女子にしか見えなかったが、性別はちゃんとした男だった。虐めの延長で女装させられたわけではなく、性同一性障害といったデリケートな問題を抱えているわけでもない。なのに、普段から女装をして小学校に通っているというのだ。

「それにこいつ嘘吐きなんだ。みんなこいつのこと気持ち悪いって言ってる」

 虐める側が悪いのは当然だが、今回の場合虐められた人理にも問題はあると思った。理由はわからないが女装していれば目を付けられるのは当然であり、嘘を吐いてクラスメイトを騙していれば反感を買われても仕方がない。

「嘘じゃ、ないよ……。僕は、本当に、本当に――」

 視えていたんだ……、と絞り出すように口にした。

 人理と連れの弟からそれぞれ事情を聞きだした後、虐め禁止令を課して解散させた。

 竜弥はそれからなんとなく人理を気に掛けるようになる。放課後見掛ければ遊びに連れて行ったり、家に呼んで漫画で覚えた格闘技を教えたりした。問題行動が目立つ人理だが、根は素直で明るい性格だった。竜弥は弟分として人理を可愛がり、それは人理が小学校を卒業するまで続いた。

 中学に上がればさすがに人理も男子制服を着用しなければならず、問題を起こすことはなくなった。竜弥も高校卒業後の進路を考えねばならない時期に差し掛かったので、自然とふたりが会う機会は減っていった。

 完全に会わなくなってから実に四年ぶりの再会である。

「ま、お互い千千良から出てねえんだから、偶然すれ違うこともあるわな」

「だね。でも、今後はもっと会う機会が増えるかも。たっちゃんが警察官ならこういう現場で、こうやってさ」

「……おまえ、あの子の霊能力信じてんの?」

 すると、人理はキョトンとした顔で竜弥を見上げた。いかにも竜弥の方が素っ頓狂なことを口にしたかのような間であった。その瞬間、竜弥は人理が京花の霊能力に絶対の信頼を寄せていることを悟った。

「たっちゃんは信じてないの?」

 下手に突けば機嫌を損ねるかもしれない。こんなことで言い合いするのも馬鹿馬鹿しいので、なるべく言葉を選んで弁解した。

「いや、完全に信用してねえわけじゃねえんだ。俺もちょっとはそういうの視えっから」

「え?」

「あんま人に言ったことねんだけどよ、変なモンなら視たことある。屋上から飛び降りた女がいつまで経っても地面に落っこちずに宙に浮いていたり、旅行先のホテルでたくさんの兵隊が夜中に廊下を行進してたり、そんなんなら視ることが偶にある」

 嘘ではない。嘘ではないが、それが夢なのか現実なのか自信はなかった。それらを視るときは必ず金縛りに遭い、一時動けなくなるのだ。もしかしたらその瞬間意識を失っていて夢を見ていただけなのではないかと今でも疑っている。

 人理は無邪気な笑みを浮かべた。

「な、何だよ?」

「ううん。そっか。たっちゃんには視えるんだ。でもね、本物はもっとすごいよ。京花は群を抜いている。京花の霊障はね、視えちゃうとちょっとトラウマ物なんだ」

「霊障? って、なんだそりゃ? トラウマもんだと?」

「霊感が無い人にはただ突っ立ってるだけにしか見えないんだ。でも、視える人にはもうね……。視てくるといいよ。僕も一度だけ視たことあるけど、そのとき僕はショックのあまり気を失った。でも、たっちゃんならもしかしたら耐えられるかも」

「お、脅かすなよ。マジかよ。……へえ」

 まずい。ちと興味が湧いてきた。いま、館の中では何が行われているのか。行って確かめてみたい。

「……」

「行ってきなよ。僕、ここから動かないから。京花の付き添いだもの、京花が帰ってくるまで大人しく待ってるしかないし」

 門扉から玄関まではアプローチを渡って一直線だ。たとえ人理が館内に入ろうとしてもすぐに気づくし止められる。

 蛇山が嫌っているのであまり表には出せないが、竜弥はかなりのオカルト好きだった。ホラー映画はよく観るし、怪談のトークショーにも開催があれば出掛けている。『幽霊館』に霊感少女が現れた、そのシチュエーションだけで実はもう気分は昂揚していたのだ。

「しょうがねえな。そこまで言われちゃあよ。ヒトリ、ここから動くなよ!」

「うん。行ってらっしゃい。頑張ってね。気を強く持ってね」

 やれやれと面倒臭そうにしつつ足早にアプローチを渡っていく。物陰からこっそり覗けば蛇山に気づかれることはないだろう。玄関の手前まで来ると竜弥は身を屈めた。

 壊れたドアの隙間からそっとロビーを窺った。



 蛇山が事件の概要を説明していた。杜村鳶雄の素性、死因と殺害状況、発見に至るまでの経緯を聞いた京花は二階に続く階段に目を遣った。

「二階部分は調べてないのかしら?」

「……捜査員数名が怪我をした。そっちは後回しになりますな」

「でしょうね。こちらを睨み下ろしてますもの」

「誰が?」

「幽霊。少女の形をしています。過去に、よほど陰惨な殺され方をしたのでしょうね」

 蛇山は顔を険しくしただけで何も言い返さなかった。

 竜弥も階段を見上げた。玄関の外からだと角度が浅く、二階部分までは見えなかった。

「過去に、ですか。では、二階に上がれないことと今回の杜村鳶雄殺害には因果関係は無いということですか?」

「さあ。どうでしょう。廻り廻ってといった遠因も考えられます。何せ、ここは旧杜村邸。そこに居憑いた幽霊ですもの。主人が恨みを買っていてもおかしくありません」

「疑い出せば何でも黒に見えるものです。いいでしょう。上の階については後回しだ」

「行かない方がよろしいと思いますけど。お仕事ですものね、頑張ってください」

 気持ちがまるで籠もっていない励ましは嫌味にも聞こえた。蛇山はもはや慣れてしまったのか、苛立ちをいちいち顔に出さなくなった。見ている竜弥だけがハラハラした。

 京花が動く。杜村鳶雄の遺体があった場所の前まで近づいた。

「これより霊障を行います。霊障の最中は大変見苦しい姿をお見せすることになるかもしれませんが、ご容赦ください」

「構いませんよ。私にはいつも突っ立っているだけにしか見えん」

「では、参ります」

 京花は手を伸ばし、虚空にある何かを掴む動作をした。

 その瞬間、京花の体が激しく仰け反った。ブリッジしそうな勢いで背を反らし、「が、が、があ……」苦悶の声を上げながら全身が痙攣し始めた。明らかな異常行動に竜弥は屈めていた腰を思わず浮かした。しかし、間近で見ている蛇山はそれが見えていないかのように平然としている。

「あ、がぁ、だ、誰だ!?」

 野太い男の声が京花の口から出た。京花の体が垂直に戻ると、今度は縦方向に不自然に伸びていく。いや、伸びているのではなく、浮いていた。たった数センチだが、京花の体はたしかに宙に浮いている。京花は獣のような雄叫びを上げて喉を掻き毟る。その弾みで被っていたトークハットが床に落ち、初めて素顔を晒した。しかし、そこにあったのは可憐な娘の顔ではなく、眼球が半分ほども飛び出した苦しみに喘いだ表情だった。

「は、はな、せ」

 じたばたと全身で暴れるが一向に戒めを解くことができず、いよいよ事切れるかと思われたそのとき、京花は愕然と目の前を凝視した。

「は、え?」

 意外なものを見たという顔。それまでの苦しみが嘘だったかのように呆然としている。

「何で……おまえが?」

 胸元から血が噴き出る。口端からも血が零れ落ち、京花はそのまま尻餅をついて、発見された当時の杜村鳶雄の遺体と同じ体勢になって動かなくなった。

 竜弥は信じられないとばかりに目を擦った。人がひとり目の前で死んでしまった。その凄惨な光景に、あまりのリアリティに、「う、うえええぇえ」その場で嘔吐した。一体何が起こっていたのか?

「終わりましたわ。霊障は成功しました」

 取り澄ました京花の声に、竜弥は慌てて顔を上げた。

 ロビーには蛇山と京花の姿があった。蛇山は訝しげに京花を眺め、京花は虚空を掴んだ状態のまま立ち尽くしていた。床に落ちたはずのトークハットはいつの間にか頭に戻っていて京花の素顔を隠していた。喉を引っ掻いた傷も、抉られた胸も、吐血の跡も、何もかも無くなっていた。そんな馬鹿なと思った。竜弥の足元には昼飯の具が混じった胃液が広がっており、脳裏には先ほど見た光景が焼き付いている。あれが幻であるはずがない。

 今のが、霊障……?

「それで、何かわかりましたか?」

「これは人間の手による純粋な殺人です。呪い殺されたわけじゃありません」

「そんなことはわかっています。我々はオカルト殺人など期待しておりません」

「あら。てっきり、はっきりさせたいのはそこなのだと思ってましたわ。失礼しました。そうですね、わかったことと言えば背後に居る誰かを意識するあまり、目の前に突き出されたナイフに刺されるまで気づかなかった、ということくらいかしら」

 蛇山は値踏みするように京花を見つめた。殺害状況を鑑みたとき、どうして鳶雄は無抵抗に刺されてしまったのか、これまで謎とされてきた。ふたり掛かりであれば体躯の大きい鳶雄相手でも正面からの刺殺が可能だろうが、どう遺体を漁っても加害者一人分の痕跡しか見つからなかった。ふたり掛かりではないはずだ。であればなぜ、鳶雄は刺されるまで正面に居た人間に気づかなかったのか。あるいは、隙を見せたのか。

 京花の言う「背後に居る誰か」は殺害状況を裏付ける重要なファクターたり得た。しかし、蛇山は認めたくないのか「いや、いや」しきりに首を横に振った。

「遺体の喉元に引っ掻き傷がありませんか? 先ほど聞かされた説明の中には出てきませんでしたが」

「っ、あった。事件に関係ないものと思い言い忘れていた。だが、あれは首元が痒かったからではないのか? この辺りは藪蚊が多い。喉だけじゃなく全身蚊に刺されていた」

「さあ。全身が痒かったかどうかまではわかりません。ですが、殺される直前まで背後を気にしながら喉を掻き毟ってましたから、少々不自然に思っただけです。もしかしたら背後から首を絞められたのかもしれませんね。それで痕になったとか」

「いや、それはない。扼殺ではないものの手で首を強く絞められた痕ならば、引っ掻き傷とは似ても似つかない」

 ふたりの会話を聞くうちに竜弥はだんだんと理解した。京花が見せたのはおそらく鳶雄が死ぬ間際に陥った状況の再現なのだ。『死の体現』と呼ぶ方が妥当かもしれない。

 霊障とは、心霊的症状を意味する。代表的な例の一つに金縛りがある。他にもポルターガイスト現象やラップ音など。人体に影響するもので強いものには憑依があり、取り憑かれた者は病気や事故に遭いやすくなり、最悪死に至ることさえある。つまり、霊が生きた人間に起こす障りを霊障と呼び、それには多くの種類が存在した。

 京花は自ら霊障に罹りにいった。霊の苦しみを自ら追体験することで死の間際の記憶を読み取るのである。実際に視えていた竜弥には京花の言っていることが本当だと信じられる。あれはやっぱり幻なんかじゃなかった。

 だからこそ、京花の言葉足らずの報告が我慢ならなかった。

「首を手で絞められたとかそんなレベルじゃなかっただろ! アンタ、宙に浮いてたじゃないか!」

 ロビーに入って京花を指差した。蛇山は目を細め「あの少年はどうした?」と訊いてきたが、そんなものは後回しだ。

「あれは首を絞められたまま持ち上げられたんだ! 杜村のオッサンは百八十近い長身だった! そんな奴を持ち上げられるなんて、それより背が高い人物で、その上ガタイが相当いい男じゃないと無理だ! 蛇山さん! 犯人、っつーか後ろから襲った共犯者はプロレスラー並に屈強な男のはずっすよ!」

 一瞬呆気に取られた蛇山だったが、すぐに気を取り直した。

「聞いていたのか。なら、さっきも言ったはずだ。そこまで大柄な人間が、宙に浮くほど首を絞めたのならその痕が付く。必ずだ。杜村の体重は百キロ近くある。自重でより強く絞まるはずだから扼頸の痕はさらに濃くなるはずだ。遺体にそれがあったか?」

「う……」

 そういえば、京花が体現してみせた宙吊り状態は瞬間的なものではなかった。少なくとも数十秒間は浮かんでいた。扼殺には至らなくてもそれだけの時間絞められていたのなら指の形の痣くらい付いていなければおかしい。

「それに何だね。宙に浮いたとか何とか。何の話をしているんだ?」

「え? だって、さっき天保院さんが……」

 言いながら気づいた。蛇山には視えていなかったのだ。本人も言っていたではないか、いつも突っ立っているだけにしか見えない、と。

 霊感が強い人間にしか京花の霊障は視えないようだ。

「えっと、……あ、そうだ! そこにオッサンの幽霊が居るんだろ!? だったら直接誰が犯人か訊けないか!? そうすりゃ一発で事件は解決だ!」

 京花は竜弥の乱入が気に入らなかったのか、明後日の方向を向いている。「無理です」一応答えてくれたが、その声は一層冷たかった。

「だって、会話になりませんもの。幽霊は妄執にのみ縛られています。言いたいこと、伝えたいことしか残しません。こちらの言動に反応するのは稀なんです。事件の当事者や親密な関係にあった人物を連れて来たらあるいは反応を示してくれるかもしれませんが、特定の質問に対して的確に応じるというようなことはまずありえません」

 割と詳細に説明してくれたものの、つまりこれ以上私に頼ってくれるなと拒絶していることに気づく。蛇山が京花を信用していないように、京花もまた警察に対してそこまでの義理はないようだ。

「私の役目はここまでのようですね。それでは失礼させていただきます」

「桐生君、表まで出てお見送りして差し上げなさい」

「ここで構いませんわ」

「天保院家のご令嬢をお見送りもしないで帰したと知れたら問題です。ここは私を助けると思ってどうか」

「……」

 牽制し合うふたりに挟まれて、狼狽える。やがて京花がロビーを出て行き、追いかけようとする竜弥に蛇山が言った。

「悪戯に現場を引っ掻き回されては堪らん。敷地内に残さずにきちんと送り出すんだ」

 帰るまで見張れと命じられる。あまりいい気持ちはしないが、それも捜査の上では必要なことなのだと弁えて、急いで京花の後を追った。



 再び門扉の前まで戻ると、そこに人理の姿はなかった。

「あいつ、どこ行ったんだ? 動かないって言ってたのに」

「先に帰ります。ヒトリを見掛けたらお伝えください」

「いいのか? ヒトリの奴、アンタにべったりだったじゃないか」

 京花は小さく溜息を吐いた。

「犬じゃないのだから手綱が無くても一人で帰ってこれるでしょう。あまり私の手を煩わしてほしくないわね」

 日傘を差した。日傘まで真っ黒で、ここまで徹底していると炎天に焼かれやしないかと心配になってくる。

「貴方、視えるのね」

 唐突に、訊かれた。その声は批難めいて聞こえた。

 何を、とは訊き返さなかった。ロビーで、霊障の内容を口にしたとき、京花は目を合わせてくれなかった。どうやら、霊障を視られたことが屈辱だったようだ。

「体、大丈夫なのか?」

 問い返すと、京花は驚いたように肩を震わせた。

「……死ぬほど痛いわ。実際に致命傷を体験するのですからね。でも、外傷は付かないの。アレは心を傷つけるだけの呪い。心を、死に顔を、赤の他人に見られるだなんて……」

 ベール越しにもわかるほど強烈な殺意を湛えた眼光を向けてきた。たしかにあんな凄惨な姿を見られるのは嫌かもしれないが、京花もそれを承知の上で行ったのだから竜弥だけを責めるのはどう考えても理不尽だ。……言わないけれど。

「お、送ろうか?」

 今度は不思議そうな顔をされた。何かおかしなことを言っただろうか。

「私の霊障を視てそんなことを言うなんて、変わった人ね。普通は気味悪がるものよ」

 そう言われれば……そうか? 気味が悪いとはなぜか思わなかったが。

「それとも、そういう態度も職務のうちなのかしら? 警察官って大変なのね」

「あ? 警官とかそんなの関係ねえよ。よくわかんねえけど、アンタ、辛そうだからさ」

「ふうん?」

 どこか窺うように小首を傾げると、蛇山さんとは違うのね、と呟いた。

「でも、要らないわ。代わりと言ってはなんだけど、お礼に忠告だけしてあげる。今日のことは忘れなさい」

 不意に京花の指先が竜弥の喉元に触れた。人差し指がつつと喉をそっと撫でていく。

「私の霊障で知り得たことは杜村鳶雄殺しの犯人を捜す上で大した手掛かりにはならないわ。いいこと? 全部忘れなさい。私の霊障が視えるということはそれだけで悪い物を惹き付けやすい体質ということなの。深入りすれば厄介なことにも巻き込まれかねない。貴方だけじゃない、貴方の周りも不幸になる。運気ってね、そういった些細なことで変わるものなの」

 京花が踵を返しつつ流し目で竜弥を見た。指先が離れ、突き放すような視線がやがて途切れたとき、竜弥はその場で腰が抜けた。

「ごきげんよう」

 黒い影が去っていく。竜弥の額には冷や汗がびっしりと浮かんでいた。

 彼女に触れられている間、ずっと背筋が凍っていた。怖気は怖気でも、蠱惑的な気配に緊張するあの感覚に近かった。生理的に嫌悪感を催す昆虫なのに、蝶の美しさには思わず魅入ってしまう――喩えるならそんな感じだろうか。

 近づきたくない、魅惑――。そう、魔性だ。

 気味が悪いとかそういうレベルじゃない、不吉そのものだ。関わってはならないと第六感が警鐘を鳴らしている。

「何だよ、くそ。気をつけろって言われても気をつけようがねえじゃねえか」

 運気を持ち出されてはどうしようもない。警察の仕事を全うするだけだ。

 そうだ。腰を抜かしている場合じゃない。人理はどこだ。余所に行ったのならいいが、竜弥が目を離した隙に館に入られたとなれば蛇山から大目玉を喰うことになる。急いで敷地内を探さないと。中に居てくれるなよ、そう願いつつ再び規制テープを潜った。

 そういえば、警備に当たっていた交番勤務員の姿がいつの間にか消えていた。


 葦原人理は旧杜村邸の裏庭に居た。正面の庭よりも若干手狭で、比較的荒らされていないものの背の高い雑草が好き放題に生え茂っており、より圧迫感を覚えた。かろうじて地面に見えるアプローチを辿って行った先には蔵のような倉庫があり、人理はアプローチから外れた砂利が敷き詰められた地面に尻餅をついていた。

 呆然とした様子で目の前の赤錆びた鉄扉を眺めていた。

「おまえ、何やってんだ?」

「えっと……。あ、あれ? たっちゃん?」

「勝手に歩き回んなよな。ここは事件現場なんだぜ。俺が上司にどやされちまう」

「ごめん。誰かに呼ばれた気がしたんだ。そしたらこの扉の向こうから音がして」

 扉を指差す。館内への出入り口だったが、間取り的に台所の勝手口ではなかった。コンクリートで固められたたたき部分が地面より二段も下がっていることからして、もしかしたら地下室への扉かもしれない。

「この中に誰か居るってのか?」

「わからないよ。音がしただけだし、勘違いかもしれないけれど」

 まさか本当に犯人が館内に潜伏しているのだろうか。慎重に鉄扉に張り付いた。ドアノブは硬くて回せない。肩を預けて押してみるがビクともしない。逆に、ドアノブを引いてみても駄目だった。全然開きそうにない。

「こりゃ無理だ。もう何年も開けてませんって感じだぜ」

「鍵が掛かってるのかな?」

「鍵以前の問題だ。ドア全体が錆び付いててラッチは引っ込まねえし、蝶番も完全に固まってやがる。ドアとして機能してねえよ、コレ」

 館内間取り図では、地下室はたしか物置だったはず。館内からは通じておらず、中に入るにはこの扉を開けるしかない。

「ヒトリの気のせいだな。中に入りたければドアごと引っ剥がさないと」

「そっか。なら、いいんだ」

 人理は立ち上がると、キョロキョロと辺りを見渡した。

「京花は?」

「さっき帰ったぜ。置いていかれたな」

「そっか。大人しく待ってなかった僕が悪いんだ。京花はマイペースだから」

 人理に聞きたいことがあった。天保院京花についてだ。彼女の能力を信用していいものかどうか見極める必要がある。もしも信頼性があるのなら、彼女が霊障中に発した言葉の一つが重要な意味を帯びてくるから。

 犯人の手掛かりになるかもしれなかった。

「なあ、ヒトリ、今晩さ――」

 四年ぶりの再会で、互いに積もる話もあるはずだ。



 公営団地のアパートの一室が桐生家の住まいである。

 竜弥は実家暮らしだ。母子家庭で、下に小学五年生の妹・茉依がいる。母は小さな出版社の雑誌編集の仕事に携わっており、竜弥が就職したのを機に、会社に詰めて明け方近くまで帰ってこなくなる日が多くなった。そのときだけ竜弥が妹の保護者代わりになっていた。

「せめてマエちゃんが高校生になるまでアンタも面倒見てやって」

 母に頼まれずとも当面は実家を出るつもりはない。中高とあまり素行のよろしくない青春を送ってきた手前、柄ではないが、少しでも母の負担を減らしたいなどという殊勝なことを考えていた。元々正義感は強い方なので今の生活は割と心地よい。

 人理を伴って帰宅すると、居間の座卓で夏休みの宿題をしていた茉依がこちらを二度見して、人理に気づくとピョンピョン飛び上がった。

「あーっ! ヒトリ君だ! ヒトリ君だよね!? うわあ、すごい! ヒトリ君だ!」

「こんばんは、マエちゃん。久しぶり。大きくなったね」

「うわあ、うわあ、ヒトリ君だ! ヒトリ君だ!」

「うるせえな。見りゃわかんだろ。――っと、そうじゃねえな。マエ、よく覚えてたな。よし。遅くなっちまったけど飯にすっからテーブル片付けな。三人で飯食うぞ」

「うん! わかった! ヒトリ君、ここ座って座って!」

 茉依はとても嬉しがった。人理が竜弥の家に遊びに来ていたとき、茉依はまだ六歳かそこらで、女装をしていた人理が珍しかったのかよく周りをうろちょろしていた。人懐っこい性格の茉依は仲良くなった人のことは決して忘れない。

 スーパーで買った惣菜を皿に盛り付けてテーブルに並べる。人理は客分よろしく茉依が指定した位置に大人しく座っていた。

 キッチン台の横で、茉依が茶碗に白飯を山のように盛っている。竜弥は苦笑した。

「おまえ、そんなに食うのか? 太んぞ」

「違うよお! コレ、お兄ちゃんの! あと、ヒトリ君の!」

「あいつはそんなに食わねえと思うぞ? 見た目華奢だし」

 しかし、いざ食事が始まると、人理は冗談みたいに山盛りにした白飯をぺろりと平らげた。竜弥は唖然とし、茉依は「おーっ」と惜しみない拍手を送る。どうやら痩せの大食いであるらしい。

「しっかし、本当に久しぶりだよな。ドコの学校通ってんだ?」

「千千良工業だよ。野球が強いトコ」

「って、俺の母校じゃねえか。何だよ、後輩じゃん。いま夏休みか? 部活は?」

「部活はしてないよ。バイトあるし。京花の手伝いもあるから」

 それだ。天保院京花の霊能力についても訊きたいが、人理と彼女の関係も気になる。

「ねーねー、ヒトリ君はもうスカート穿かないの?」

 茉依に出鼻を挫かれた。人理は困ったように笑った。

「うん。もう穿かなくてよくなった。親の言いつけだったんだ。変わってるよね」

「言いつけって……。言いたかないが、それ、児童虐待になるぞ」

「昔は仕方がなかったんだ。それに、もうその人は居ないから、文句の言いようもない」

 にわかに沈黙が流れた。話題を振った茉依は焦ったように人理の茶碗を奪い取ると「おかわり持ってくる!」キッチンに飛び込んだ。これ以上食わせる気か、あいつ。

「悪いな。余計なこと言った」

「こっちこそ気を遣わせちゃったね。マエちゃん、いい子だね」

「訊きたいことがある。天保院京花のことだ。あの子の霊障について知りたい」

 人理は目を瞬かせると、薄っすらと笑みを浮かべた。

「そっか。たっちゃんには視えたんだね」

 どことなく哀しげに見えたのは気のせいだろうか。

「いいよ。僕に答えられることなら。何が知りたいの?」

「……そうだな。とりあえず、彼女の霊能力が本物か否か」

「え? だって、視たんでしょ?」

「視た。けど、熱中症で頭がどうかしていたんじゃないかと言われれば、そんな気もする。それくらい、あれは衝撃的過ぎた。人が異常死するトコなんて初めて見たからな」

 いま思い出しても吐き気がする。実際の死じゃなく霊感が視せたものだからなのか、脳髄に映像を直接送り込まれたかのように細部まで思い出せるのだ。気を抜くと、京花が苦悶を上げて死んでいく様が繰り返し脳内で再生されてしまう。

「本物かどうかなんてたっちゃんが信じるかどうかだからなあ。僕にできるのは、僕が信じた理由を説明するくらいだよ」

「それでいいよ。おまえは何で彼女の能力を信じられるんだ」

 人理は視線を上げて遠くを見つめた。

「同じモノが視えたからだよ。僕がまだ女装していた頃にね、京花は僕にしか視えないモノを視えると言った」

 ――あそこに居る女の人がヒトリのお母さん? 綺麗な人ね。

「あの言葉でどれだけ救われたかわからない。僕のことをわかってくれるのは彼女だけだった。だから僕は京花の味方なんだ」

 優しい顔つきだった。遠くに飛ばした視線の先には、竜弥の知らない人理と京花の過去が見えているのだろう。なぜだか面白くなかった。

「そんで、おまえもあの子の霊障を視たことあるっつったよな? あれってどんだけ正確なんだ? マジで死に際を再現してんのか? 言った台詞や浮かべた表情は本物か?」

「それを証明するのは難しいよ。あくまで再現なんだから。実際のと見比べてみないと」

 それもそうだ。被害者が死の直前にどう立ち回ったかについては、遺体の状態から科学的に立てた憶測と照らし合わせることである程度正否を証明できるが、口にした台詞まで再現せしめたかどうかなどわかりようもない。

「何で……おまえが?」と、京花はあのとき男の声でそう言った。この台詞が事実なら、杜村鳶雄は知人に殺されたことになる。さらに犯人は鳶雄にとって意外な人物だった。

 何で……おまえが?

 恨みを買った覚えはない、とでも言いたげな声音。容疑者を絞り込む上で貴重な手掛かりだ。

「――それを忘れろとかって、意味わかんねえよ。そっちが勝手にやったくせによ」

 思わず不満が口を突いて出た。京花だって自分が霊障中に喋った台詞くらい覚えていると思うのだが、それを蛇山に報告しなかったのも腹立たしい。どうせ視えやしまいと高を括っていたのだ。

「あの女、絶対性格悪いぞ。ヒトリよ、あの女とだけはやめとけ」

「ええ? たっちゃん、京花と何かあったの? あと、やめとけって何のこと?」

 忠告はするが、告げ口は男らしくないので言わない。会話が一旦途切れたところで、茉依が山盛りの白飯と煮えたぎった味噌汁を持ってきた。遅いと思ったらわざわざ温め直していたのか。そして、人理は嫌な顔一つせずにそれらを再び平らげた。

「マエちゃんは将来いいお嫁さんになれるね」

「えへへへへへへへへへへへへへ」

 不気味なくらい照れて笑う茉依を見ながら、天保院京花よりもウチの妹の方がお似合いだよな、とよくわからないことを考えた。


 三人で食器を片付けていると、茉依が窺うように上目遣いを向けてきた。

「お兄ちゃん、隣の小母ちゃんに聞いたんだけど、『幽霊館』で事件があったって本当?」

 思わず舌打ちする。近所で起きた殺人事件だ、いつまでも隠しておけるものではないし、噂が出回るのも早いのは仕方がない。しかし、わざわざ小学生の女子に知らせなくてもよいではないか。隣のババアめ。

「やっぱりそうなんだ! それってオバケの仕業かな!? 本当に居るのかな!?」

「さあな」

「ヒトリ君はオバケ居ると思うよね!? ね!? ね!?」

「うん。居てほしいよね」

「ほらあ! お兄ちゃん、ヒトリ君は居るって! 居るんだよ! オバケ! すごいのが! こんなやつ!」

 両手をパーに広げて突き出した。どんな奴だよ、それ。欠片も怖くねえぞ。

 わかってはいたが、茉依がかなりワクワクしている。こうなるから知られたくなかったんだ。竜弥の影響か、昔から好奇心旺盛で男子ばりにご近所を探検していた茉依である、殺人事件が起きた『幽霊館』に冒険心が疼かないはずがない。竜弥も警察じゃなく一般人で、事件が他人事だったなら、同じようにワクワクしていたかもしれない。

 残念ながら、兄は刑事で被害者も顔見知りなのである。野次馬に来られても困る。

「オバケなんて居ねえから絶対くんなよ。ガキが集団で来られたら一番厄介なんだ。うるせえし、追っ払うのも面倒だしよ」

「わっかんないよー? マエ、すっごい役に立っちゃうかもよー? ほらあ、アニメでやってるじゃん。子供探偵団っていうの。すっごい推理しちゃうよー」

「要らねえよ。つか、そういうノリがウザイってんだよ」

 茉依がふざけて体当たりしてくる。それをひたすら無視していたら、横で人理が嬉しそうに眺めていた。いつものことだったので考えもしなかったが、兄妹でじゃれ合っている姿を見られるのは無性に恥ずかしかった。

 食器を全部収納棚に片付け終えたタイミングで、茉依が得意顔で言った。

「それじゃあ、お兄ちゃんも知らないような『幽霊館』の秘密を特別に教えてあげよっかなあ! 事件解決の手掛かりにしていいよ!」

 傾聴せよ、と言わんばかりだ。人理が来たからか、今夜はやけにはしゃいでいる。

 仕方ない。付き合ってやるか。楽しい気分にわざわざ水を差すこともあるまい。竜弥と人理は茉依の正面に座った。「で? 秘密ってのは何だ?」

「あそこがなぜ『幽霊館』と呼ばれているか知っていますか? 実はですね、」

「幽霊の目撃談があるんだろ? 子供の霊やら女の霊やら」

「でも、廃墟って大体幽霊屋敷って呼ばれるよね。『幽霊館』っていうのは確かに不自然かもしれない」

「聞ーいーてーくーだーさーいーっ。勝手に喋らないでください! いいですかー? 実はあの建物では昔、本当に除霊の儀式を行ったことがあるのです!」

「は? いきなり話が飛んでるぞ。何言ってんだ?」

「もう! 今から話すんだから邪魔しない! お兄ちゃん、シャラップ!」

 まったく。舌足らずが格好付けようとするから余計に空回るのだ。――と、注意したところですぐに説明が上手くなるわけでもないので、もう好きにやらせておく。

「コホン。えー、昔々、そのときはあまり有名じゃなかった『幽霊館』に、ある一人の霊能力者さんが除霊にやって来たのです。テレビを引き連れてぇ――」

 あまり要領を得ない説明でわかりにくかったが、内容は概ねこういうことだった。

 三十年前、千千良町の旧杜村邸で起きた『毒入りミルク事件』は、全国に大々的に報じられたので多くの人が知るところとなったが、廃墟と化した邸宅がそのまま心霊スポットになったわけではなかった。館に関わった人間が次々に不幸に見舞われたことについても町内で気味悪がられた程度で収まった。有名になったのは、十年ほど前、霊能力者タレントの初ノ宮行幸を売り出すべく企画されたテレビ特番がきっかけだった。

 テレビ局は旧杜村邸で大掛かりなロケを決行。お笑い芸人に肝試しをさせた後に、初ノ宮行幸による本格的な除霊を撮影し、真夏の特番で放映した。その際、テレビ局側がキャッチーさを求めて付けた名称が「千千良町の『幽霊館』」なのだそうだ。

 当時十六歳の眉目秀麗な少年による除霊儀式は薄ら寒くも美しくテレビ映えしたので、お茶の間に大いに受けた。以来、夏の風物詩として毎年心霊特番が組まれるようになり、初ノ宮行幸自身もまた霊能力者の肩書きだけに収まらず役者・歌手・作家とマルチに活躍の場を広げ、今や国民的アイドルとしての地位を築いている。

 初ノ宮行幸の人気が高まるにつれて、彼がテレビで最初に除霊を行った旧杜村邸の知名度も上がり、いつしか『幽霊館』という名称だけが一人歩きを始めた。

「その心霊特番なら観たことあるな。そういやマエ、前に歌番組観ながらユッキーユッキーってうるさいくらい騒いでたよな。ああいうのがタイプなんか?」

「ん!? ん!? ち、違うもん! そんなんじゃないもん! へ、変なこと言わないでよ、お兄ちゃんのバカチン!」

 顔を真っ赤にして怒鳴った。人理に聞かれて恥ずかしかったようだ。

「そういや、『幽霊館』って言われ出したのって俺が中学に上がった頃だったっけ。小学生ンときは何て言ってたっけなあ。オバケ屋敷とか、魔女の家とか呼んでた気がすんな」

「あれ? ということは、もうあそこには幽霊は居ないってこと? 除霊されたんなら」

 人理が訊くと、茉依は気を取り直して言った。

「それがね、そのときはきちんと除霊されたみたいなんだけど、何年か経ってからまたあそこで事件が起きたんだって」

 一拍置いて、声のトーンを落とした。

「これね、マエが千千良小学校に入学する前の、一コ前の卒業生に実際に起きたお話なんだけど。ある女の子が『幽霊館』で神隠しにあったんだって。オマジナイの最中に」

「おまじない?」

「うん。『幽霊館』に入ってする、願いが叶うオマジナイだよ。ひとりきりでしないといけない儀式なんだ」

「おいこら。あそこは立ち入り禁止だぞ。門扉だって施錠してあるだろ?」

 もっとも、不法侵入が日常的に横行している場所に施錠も何もないのだが。実際、頻繁に壊されてるし。小学生ならちっこい体でどこからでも侵入できそうだ。

「ふふん。敷地の裏っかわの塀に穴が空いてて、そこから中に入れるんだよ。お兄ちゃん、知らなかったの?」

 くすくす笑われる。……知らなかった。それは良いことを聞いた。おそらく警察も気づいていないことだった。明日、早速穴を塞がないと。ガキ共が侵入してきちまう。

 その後、オマジナイの具体的な内容を聞かされたが、竜弥は興味が湧かなかった。それはお百度参りのようなよくある類の願掛けで、若干怪談風にアレンジされている。

「それで、そのオマジナイってのをした暁には願いが叶うってか。ありきたりだな」

「でもね、実際にオマジナイをした女の子はそれきりお家に帰ってこなかったの。『幽霊館』に食べられてあの世に連れて行かれちゃったんだって。それ以来、あそこには女の子の幽霊が彷徨っていて、やって来る人たちをむしゃむしゃぼりぼり骨まで全部食べちゃうのだ! があっ!」

「五点。おまえの脅しは恐くない」

「むー」

 油断するとすぐにじゃれ合ってしまう兄妹をよそに、人理が何やら考え込んでいた。

「マエちゃんが小学校に上がったときに入れ違いに卒業したのって、僕の代なんだ。行方不明になった子なんて居たっけなあ」

 思い出そうとうんうん唸っている。人理には悪いが、思い出すのは多分無理だろう。小学六年生のとき人理はクラスで虐めを受けていた。放課後は竜弥が面倒を見てやっていたのだ、虐めてきたりそれを無視したりした元同級生たちを、いちいち気に掛けている余裕はなかったはずだ。

 それに、噂なんてものは大抵がデマである。

「他にソレしたことある奴いないのか?」

 茉依に訊くと、残念そうに首を振った。

「興味はあるんだけど、みんな恐がっちゃってしないの。たぶん試したことある人は居ないと思うよ。マエの友達も好きな人と結ばれたいからオマジナイしようとしたんだけど、やっぱり恐いから無理って」

「それがいい。マエも変な気起こすんじゃねえぞ。あそこで実際に人が死んでるんだ。不謹慎だからな」

 茉依ははっきりしない返事で誤魔化すと、今度は幽霊の有無を人理と論じ始めた。……こいつ、近々『幽霊館』に忍び込むつもりだな。竜弥は溜め息を吐いて天井を仰いだ。

「マエはね、オバケって居ると思うんだ! だって、夜に家の中がギシギシって音鳴るし。あれ、絶対オバケの仕業だよ! 間違いない!」

「マエちゃんは幽霊が恐くないの?」

「恐い! でも楽しい!」

 幽霊は居るのか居ないのか――か。天井に見つけた染みの形が一瞬人の顔に見えた。

 偶然だろうけれど。『幽霊館』の二階には少女の霊が居るのだと、天保院京花はたしかそんなことを言っていた。