スポーツタイプの赤い車が、警察車両のひしめく駐車場に颯爽とやってきた。

 ツードアのセダンだった。色は成熟した薔薇の花を太陽に透かしたような赤。その情熱的な色は『アイラギ・レッド』という名で八年前に特許を得た特別な色である。

 その車が止まったのは、マンションの住人用駐車場だった。

 赤い車からふたりの男が出てくる。運転席からライトグレーのスーツの男が、助手席からは背の高いハイネックコートの男がそれぞれ地面に足をつけた。

 すると報道陣が一斉に押し寄せ、ふたりの姿は瞬く間にストロボカメラの強烈なフラッシュの中に消えてしまった。

 その光景を十四階の窓から見下ろしていた今井千春は、不愉快を顔に貼りつけて部屋の中に視線を戻した。後ろで縛ったセミロングの髪が揺れる。

「あいつらがきた。急いでエレベーターを止めて」

 今井がいうと、他の捜査官たちは駆け足で廊下に向かい、二台あるエレベーターの緊急停止ボタンを押した。

「これでもう捜査を邪魔される心配はないわね」今井は勝ち誇った笑みを浮かべる。

 ところが次の瞬間、今井を除くすべての捜査官たちは顔を強張らせていた。

「後ろに……」捜査官のひとりが指を差してそういった。

 振り返った今井が、ギョッと目を見張った。

 窓の外にはサングラスをかけた男の笑顔があった。澄み渡る青空を背景に、並びのよい白い歯をこれでもかと見せつけるような笑顔で、男は窓を優しくノックした。

「開けてくれないか?」

 低くて重みのある男の声は、分厚い窓の外からでもはっきりと聞こえるものだった。

 驚きのあまり今井が動けずにいると、ティアドロップ型のサングラスの内側で、形のよい男の眉がハの字に曲がった。

「今井君、この窓を開けてくれ。いくらボクでもこの高さから落ちたら即死だよ」

 はっはっは、と男が笑ったそのときだった。男は笑い声とともに、後ろに倒れるようにして捜査官たちの視界から消えたのである。

「嘘でしょ!」今井は慌てて窓を開けた。下を見ると、すぐそこに悪戯な笑みを浮かべる男の顔があった。

「冗談だよ」男は窓枠に手をかけ、飛ぶように部屋に入った。「さて、鏡はどこかな?」

「あなたのすぐ右よ」

 今井が吐き捨てるように答えると、男は鏡に顔を向けて、片方の眉をクイッと上げた。何を隠そう、その仕草が逢木恭平のトレードマークである。逢木はサングラスを外し、ジャケットの内ポケットに差した。

「これは上等な鏡だ。傷や埃ひとつないところからして、買ったばかりのようだね」

 逢木は大きな姿見の前に立つと、白いチーフが収まる胸ポケットから櫛を一本取り出し、整髪料のつやが光る黒い髪を整えはじめた。

 毛量の多い髪の下には完璧な形の額がある。そこに男らしい眉が走り、その中央から伸びる高い鼻には意志の強さが感じられる。丸みのある大きな目にどこか幼さが残っていて、目の縁は長いまつ毛で覆われている。

 表情豊かなその目で鏡を見つめながら、逢木はいう。

「今井君、キミは今こう考えているね。現場に足を踏み入れたのなら、真っ先に遺体を確認するのが捜査のセオリーのはずなのに、自分の身だしなみを気にするなんてどうかしてる。やはりこの男は最低の自己愛性人格障害者のナルシスト野郎で、事件の捜査には向いていないと」

「正解。よくわかったわね」

「キミの顔にそう書いてあるからね」

 逢木は櫛をしまい、男らしい顎をやや上に向けて、スーツのVゾーンを整えはじめる。

 高級感漂うライトグレーのジャケットの内側には、サックスブルーのシャツとネイビーのソリッドタイ。完璧なネクタイの結び目と、その下に現れた笑窪は、逢木が日頃からスーツを着こなす何よりの証拠だった。

「身だしなみは重要だよ。なぜなら非言語会話において、身だしなみはその人を推し量る最も重要なヒントだからね。もちろん遺体にもこの理論があてはまる。身だしなみがすべてを語るのさ」

 逢木はジャケットのしわを取り、ワイシャツの袖を直す。

 太い腕回りと引き締まった尻。逢木の体を包むジャストサイズのスーツには、厚みのある筋肉の存在が透けて見えていた。

「たとえば今井君、キミの仕事着は黒のライダースジャケットに白のTシャツだ。穿いている黒のスキニーはストレッチ素材の動きやすい作りで、足元はかかとの低い柔らかな革靴。捜査一課といえども、他の刑事はみなスーツだ。つまるところ、キミは人とは違うように見られたい、特別視されたい欲求があるといえる。だがファッションにこだわっているとは思われたくない。だから髪はいつだって〝おばさん結び〟を貫いている。にもかかわらず、前髪の分け目は頻繁に変えていることから、キミが複雑な女心の持ち主だとわかる。髪の艶から日夜手入れを欠かさないこと、肌の状態から栄養を考えた食事をしていることもね」

「鋭い観察眼だこと」今井はうんざりとした様子でかぶりを振った。「ところで、大事なものを忘れてるんじゃない?」

「大事なもの?」逢木はハッと目を見開いた。「そうだった。アノン、入っていいぞ」

「かしこまりマシタ」

 その声は窓の外から聞こえた。それは声というよりも音声に近い機械的な響きがあった。声の主が大きな白い手で窓枠をつかむと、その瞬間、壁が割れる音が鳴り、窓の周囲に無数の亀裂が走った。

「アノン、出力を落とせ。事件現場を壊す気か」

 もう一本の白い手が窓枠をつかむと、壁の亀裂はさらに広がった。

「彼、このままだと落ちちゃうんじゃないの?」

 顔をゆがめる今井に、逢木が笑い飛ばしていう。

「アノンなら大丈夫さ。この高さから落ちても体の一部がへこむくらいだ。下にいるマスコミは何人か犠牲になるかもしれないけどね」

「それはだめよ!」今井は駆け出し、窓の外に顔を出した。「みんなこっちに来て! 彼を引っ張りあげるのよ!」

 捜査官たちが急いで窓へ駆け寄ると、その背後で逢木がほくそ笑んだ。

「アノン、もういいぞ」

 逢木のひと声で、アノンと呼ばれる黒ずくめの男はいとも軽々と捜査官たちの頭上を飛び越えた。着地の音はなかった。アノンは静かに姿勢を伸ばし、鏡で黒い帽子のつばに触れた。

 襟を立てたラムウールのハイネックコートに、つばのしっかりした中折れ帽。その間に覗くアノンの顔は完璧な美貌を誇っていた。ハチミツ色の瞳は潤いを宿し、眉間から鼻先にかけての線はやすりで磨かれたようにすべらかで、コートの襟で隠れた口元には謎めいたにおいがする。アノンの上背は一八〇センチを優に超えているため、その唇を見た者は彼の主を除いて誰もいない。服装と体格は男性的だが、顔立ちと瞳は女性的で、さらに目の下から伸びた数本の線と、温度のない白い肌は機械的だった。

 その不思議なアンバランスさは、アノンが人間ではなく、人工知能を搭載した人型ロボットであるということを意味している。

「意地悪ね」今井は細めた目を逢木に向けた。

「意地悪なのはそっちだろう。エレベーターを止めて、ボクたちを捜査に加えないようにしたくせに」

「どうやってここまで上ってきたのよ。ここは地上三十五メートルなのよ」

「この建物の構造は鉄筋コンクリートだったから、アノンの両肘と両膝、それから、手首と爪先に埋め込んだ電磁石で壁に貼りついて、ヤモリのようによじ登ったのさ。もちろんボクは彼の肩に乗って楽をさせてもらったよ。これぞ発明の成せる技。発明というものはこういうときのためにあるからね」

「じゃあ次は空を飛んできて」

「それは実にユニークなアイデアだ」逢木は大袈裟に目を剥いて見せた。「しかし、愚かさを露呈する余計なひと言でもあったね。なぜならこの国の空を自由に飛ぶことは法律で許されていないからだ。まあ、政府なんて買収してしまえば何てことはないんだけど、そんなところに金をかけたところで、この国の経済は豊かにはならないしね。というわけで、そのアイデアは却下。ボツだ」

「逢木恭平って意外とケチなのね」そういって今井はせせら笑った。「本当に大金持ちなら、事件を早急に解決するために私財を惜しまず使うと思ったんだけど。あ、もしかしてアノン君が空を飛べるように改造する技術がないのかしら」

「技術はとっくに完成している」逢木は胸を張った。

「じゃあ飛んでくればいいのに」今井は首を傾げる。

「いっぱしの女刑事が〝人間世界遺産〟のボクにアドバイスとは恐れ入ったよ」

「会議室ではあなたが上でも、事件現場では私が上よ。そっちこそわきまえなさい」

 逢木と今井はにらみ合った。ふたりの目には鋭い光がこもっていた。だが、ふたりの体の距離はパーソナルスペースと呼ばれる四十五センチ以内に収まっている。

 するとそこでアノンがいった。

「ワタシの前でイチャイチャしないで下サイ」

「してない!」逢木と今井は声を重ねてそういった。

 ふたりは同じ目でアノンをにらみつけたが、すぐに顔を見合わせた。片眉をぐっと上げた逢木と、眉間に深いしわを刻む今井。そしていつもの無表情でアノンは続ける。

「恭平サン、月に一度の『アイラギ・コンツェルン』中央会議を抜け出してここまで来たのですから推理に集中するべきデス。これ以上部下の方々に迷惑をかけるのは、世界一リッチでハンサムでスタイリッシュな男性がすることではありマセン」

「確かにその通りだ」逢木は感心するようにうなずいた。「さて、遺体はどこかな?」

 今井はため息まじりにいう。「こっちよ、大富豪とアンドロイドのおふたりさん」



 現場となったマンションの一室は天井の高い3LDKだったが、殺された被害者は立派な洋室のリビングが似合わない、顔に幼さの残る二十六歳の若者だった。

 男はリビングにある革のソファで死んでいた。見開いた目と首には無数の血管が浮き出ていた。全身には火傷のような発疹と、かきむしった傷から血がにじんでいた。爪には目視できるほど大きな皮膚片が挟まっている。

「これで四人目か」逢木が眉を寄せる。

「ええ、残念ながらね」と今井がいう。「私たちがもっと優秀なら、彼は犠牲にならずに済んだのに」

「検索――日本の警察の事件解決率」

「検索完了。八十八パーセントデス」

 アノンが、逢木の言葉に反応した。彼は頭の先から足の指まで機械で作られた逢木恭平の最高傑作であり、その思考は常にネットワークと繋がっている。

 逢木は片眉を上げて話を続けた。

「そう、キミたち日本の警察官は実に優秀だ。そんなキミたちが解決できない事件があるとすれば、その理由は何だと考えられる?」

「単純に、犯人が私たちより一枚上手だからよ」今井は答えた。

「それは違う。警察が解決できない難解かつ不可解な事件は、そのすべてにある特殊な事情が関わっているからさ」

「そこから先は聞きたくない」

「安心したまえ。本題に入るのはもう少しあとさ」今井の険しい眼差しを、逢木は包み込むような笑みで受け入れた。「解析――被害者の血液」

「解析開始」

 アノンは遺体の皮膚、ちょうど皮がむけて出血した部分に人差し指を置いた。彼の体は、頭のてっぺんから足の先までコロイダル・シルバーでコーティングされている。これは顕微鏡でも見えない小さな銀の粒子によって、全身に強い抗菌処理を施されているということである。すなわちアノンは、完全に無菌で清潔な体の持ち主であるといえる。また、その体のいたるところには、逢木が作った様々な仕掛けが施されている。そのひとつがマルチスキャナーである。液体、固体、気体、三態の情報を瞬時に読み取ることができる。

「解析完了。被害者の血中に複数の金属の存在が認められマス」

「これは連続殺人なのよ。彼は四人目の被害者。一週間前の犯行では、遺体からアルミニウム、金、イリジウム、レニウムが検出されてるわ」

「今回はそれにポロニウムが加わっていマス」

 アノンがいうと、逢木が口元に手をやった。「ポロニウムだと?」

「教えてアノン君、ポロニウムって何?」今井が訊ねる。

「検索完了。ポロニウムとは、強い放射能を有する物質デス。とても危険で、近年では主に暗殺のために使われているといわれてマス」

「暗殺の道具? それならポロニウムだけで事足りるんじゃない?」

「その通りだ」と逢木がいう。「ポロニウムが手に入るなら殺しに重金属を使う必要はない。だがこれは重要な手がかりだ。ポロニウムは自然界にも存在するが、ウラン鉱から特殊な方法でわずかな量を抽出するしかない。人工的な生産方法もあるが、どちらも一般人には不可能な技術だ。保存方法も難しく普通に手に入る代物じゃない」

「要するに犯人は絞られたってわけね」

「そういうことになる。しかしだ――」

「犯行がエスカレートしてる」今井が逢木の言葉を継いだ。「つまり、これからも殺し続けるという犯人からのメッセージと読み取れるわけね」

 逢木は片眉をあげると、もったいぶるように時間をかけて唇を横に広げた。

「何よ」と今井が目を細める。

「ボクと組んで成長したか」

「父親みたいな目はやめて」

 逢木は嬉しそうな微笑みを遺体に向けた。

 苦しみながら死んだ男の顔は、今にも叫び出しそうだった。

 逢木は見開いたその目をじっと覗き込む。

「この犯人は、犯行を重ねていくうちに成長しているのかもしれない。過去三度の犯行で自信をつけた。自分は絶対に捕まらないと確信さえしているだろう。だが、残念なことに、向こうはボクが捜査に加わったことを知らない」

「自信家ね」と今井が笑う。

「当然だ。ボクを誰だと思っている」

「逢木恭平。警察の上層部を買収して捜査に首を突っ込んできた金満サイコ野郎」

「ひどいいわれようだな」

「だってあなた、この犯人が例のアレだって信じてるんでしょ?」

「そうだとも」逢木は楽しげな笑みを浮かべる。「この犯人こそまさしくそうに違いない。だからこそボクは知りたいんだ。犯人は誰なのか、動機は何なのか、そしてどうやって殺したのか。さて、まずは動機から犯人像を割り出そう」

 すると逢木は遺体のまわりをゆっくりと歩いて回った。コツコツと小気味のいい靴の音を響かせながら逢木はいう。「検索――被害者たちの共通点」

「検索完了。被害者は四人とも男性。既婚者で幼い子供がいマス」

 阿吽の呼吸でアノンが答える。彼の口から検索結果が告げられるまで、一秒もかかってはいなかった。すると今井がきつい視線をふたりに注いだ。

「警察官の目の前で堂々とハッキングしないでくれない?」

「ボクたちには情報へのアクセス権がある。文句があるなら上層部にいうんだな」

「無駄でしょ。誰かさんが上層部を買収済みなんだから」

「キミが物わかりのいい捜査官で助かるよ」逢木は嬉しそうに片眉を上げた。「アノン、他に共通点は見られないか?」

「DNAタイプや血液型、家族構成、交友関係、ネット上における活動などにも共通点は見られませんデシタ。シカシ、強いて挙げれば一点だけ共通点が見られマス」

「何だ」

「被害者は全員、恋人の妊娠をキッカケに将来の夢を諦めていマス」

 アノンがいうと、逢木は「なるほど」と深くうなずいた。

 今井は「よくあることでしょ」と首を横に振る。「人は将来の夢を諦めて現実の道を歩むものなんだから」

「ひとり目は弁護士、ふたり目はパイロット、三人目は医者、ソシテ四人目の彼は映画俳優の夢をそれぞれ諦めたあとに殺されていマス」

「それは実に興味深いね」逢木は遺体を見下ろしながら歩き続ける。「今井君、子供のころのキミの将来の夢は何だった?」

「捜査とは関係ないでしょ」

「一度気になると頭から離れない性質でね。検索――今井千春の子供のころの夢」

「検索完了。花屋さんになるのが夢だと書かれた作文が、今井氏の小学校の卒業文集に掲載されていマシタ」

「で? それが何?」今井は平然といった。「途中で警察官になりたいって夢に切り替えたのよ。そう考えれば、別に私は夢を諦めたわけじゃないでしょ」

「そのキッカケも知りたくなるね」逢木はニヤリと笑う。

「口が裂けても教えないわ」今井はキッパリと答えた。

「残念だ。ところで被害者の名前は?」

「吉田公貴よ」

「検索――吉田公貴について」

「検索完了」とアノンがいう。「吉田公貴は今年で二十六歳になった元舞台俳優デス。高校卒業後、八年間で七つの芝居に出演した経歴がありマス。どれも配役には恵まれてマセン。生計はアルバイトをして立てていたようデスガ、三か月前にひとつ年下の恋人と結婚されてマス。銀行口座には父親からの多額の入金記録が目立ちマス」

「金も仕事もない役者が結婚か。子供ができた以外には考えられないな」

「金と仕事があっても結婚しない人もいるのにね」

 今井がポツリというと、逢木は同じ声のトーンでつぶやいた。

「そう自分を責めるのはよくないぞ」

 今井は突き刺すように逢木をにらんだ。

 逢木は何食わぬ顔で話し続ける。

「しかしそのおかげで犯人の動機がわかった」逢木は何食わぬ顔で話し続ける。「諸君、こうは考えられないか? 吉田公貴は才能のない役者で平均以下の男だった。事件の犯人はこの男をよく知った人物で、彼を自分より下に見ていた。しかし、あるとき吉田公貴は人生最大の幸運を手にする。それは恋人の妊娠だった。犯人はこの男の出来婚を笑い飛ばしたが、彼が親から援助を受け、恵まれた生活を送りはじめたことが許せなかった。ふつふつと沸き立った怒りは、やがてマグマのようにすべてを焼き尽くすほど強大になっていった。そして犯人は凶行に及んだ。それは人体に有害な物質を、ターゲットに気づかれずに忍び込ませることだった。そしてその方法とは――」

「ストップ!」今井が大声でいった。

 逢木はつまらなそうに顔をしかめ、「検索――この状況に相応しい偉人の名言」

「検索完了。引用しマス――〝想像力は知識より重要だ。知識は有限だが、想像力は世界をも飲み込む〟」

「いい言葉だね。ボクの言葉かい?」

「アルバート・アインシュタイン氏デス」

「それはおかしい。ボクも同じ考えなのに」逢木は意外そうに片眉をあげた。

「自分を偉人扱いするなんてどうかしてるわ」今井が長々とため息をつく。

「ボクは偉人だ。歴史の教科書に太字で名前が載る。だからこそいわせて欲しい」

「だからこそいわない方がいいのよ。せっかくの名誉に傷がついてもいいわけ?」

「名誉なんてどうでもいい。ボクはこの犯人こそ真の超能力者だと確信している」

 逢木のその言葉が、今井に不快な頭痛をもたらした。他の捜査官たちもまた、顔をしかめたり呆れ返ったりしている。その一方で逢木は、まるで新しいおもちゃを手に入れた子供のように笑っていた。

「それで偉人さん。その超能力者を捕まえるために警察は何をすればいいわけ?」

 今井が訊ねると、逢木はその満足そうな顔をアノンに向けた。

「検索――都内でウラン鉱を保有する大学および研究機関」

「検索完了。都内に四十二件見つかりマシタ」

「その四十二件に関わりのある人物で、ウラン鉱からポロニウムを抽出する技術と、ウラン鉱を厳重に管理することができる人物が犯人だ。教授か学生か……とにかく、強烈な怒りを胸に秘めているやつが犯人だろう」

「四十二か所の研究機関に捜査官を派遣するわ」

「念のためにそうしてくれ」

「念のため? 犯人がどこにいるか、あなたはわかってるの?」

「まあね。どうやら、今日中に超能力者を捕まえられそうだよ」

 逢木が片眉を上げると、捜査官たちの携帯が同時に鳴り出した。

 それは一斉送信で送られたアノンからのメッセージだった。捜査官たちは怪訝そうに携帯を見る。受信したメッセージには、『逢木新聞WEB版』の一ページが貼り付けられていた。そしてそれは、とある大学院の教授が原子テレポーテーションに成功したという記事だった。



 それまで無名だった日本人の教授が、未だかつて誰も成功しえなかった原子テレポーテーションを成し遂げたというニュースは、世界中の科学者を大いに興奮させた。

 量子とは、粒子と呼ばれるとても小さな情報のひとつである。

 そしてその量子を、距離や空間を問わず、まったく別の場所に、同時に発生させる技術を量子テレポーテーションという。

 また、量子よりも大きいものを原子といい、その上に分子が続く。

 たとえば炭素(C)や水素(H)は原子に分類され、人間や宇宙さえも原子の集合体となる。さらに、原子が特定の原子と結びつくと分子となり、二酸化炭素(CO2)や水(H2O)が分子に分類される。

 量子テレポーテーションの成功例は複数あるが、原子のテレポーテーションに成功したという例は世界でも初めてのことだった。

 車の中でアノンが淡々と語ると、後部座席の今井は困ったように頭をかいた。

「ごめんアノン君。まったく理解できない」

「イイエ、ワタシの説明能力が低いのが原因デス」

 アノンがいうと、逢木は鼻を鳴らしてステアリングを切った。

 三人を乗せた赤い車は、片側四車線の広い通りを走っていた。

 昼下がりの陽射しを浴びて、車体は燃えるように赤く輝いている。

「アノンがいいたいのは、原子テレポーテーションを使えば、一瞬で毒物を体内に移動させることが可能だということさ」

「その技術が殺人に悪用されたということ?」

「原子テレポーテーションの技術が本当に存在するならね」

「まだ話の先が見えないんだけど」今井は首を傾げた。

「要するに、犯人はテレポーテーションの超能力者なんだ。つい最近まで科学技術では量子のテレポーテーションがやっとだったというのに、ある日突然、量子よりも大きな原子のテレポーテーションに成功するなんてあり得ないという話さ。このボクでさえ未成功だというのに」

「ただの嫉妬じゃない」

「違う」逢木は声を低くしていった。「科学は積み重ねの世界なんだ。どんな発明も失敗に失敗を重ねて最後に成功する。それまで無名だった平凡な科学者が、ある日突然天才にも実現できなかった偉業を成し遂げるなんてことはまず起こり得ない。科学者が有名になるのは実験に成功したときじゃない。実験に失敗し続けてもなお、果敢に挑戦し続けているときなんだ。大嘘をつくか、超能力でも使わない限り、この偉業を成し遂げることは不可能だ」

 逢木はドアミラーに目を向ける。サングラスの内側で目尻にしわを刻むと、彼は道を譲ってくれた後ろの車にハザードランプで礼を伝えた。

 すると今井は難しい顔でいった。

「ねえ、できればスポーツでたとえてもらえないかしら。陸上だとわかりやすいんだけど。私、中学から大学までずっと陸上部だったの」

「キミは想像以上のバカなんだな」

 逢木は大袈裟に笑うと、今井はむっと表情を曇らせた。

「私はバカじゃない。勉強が苦手だっただけ」

「アノン、教えてやれ」

「この出来事は、それまで無名だった選手が、あるとき人類最速の八秒台を叩き出してオリンピックの金メダルを獲得するほどの出来事デス」

「無名の選手が八秒台? あり得ないでしょ!」

 目を見開いてそういった今井に、逢木はそっと微笑みかける。

「ようやくボクの気持ちがわかったようだね」

 やがて三人を乗せた車は大学の正門をくぐった。

 背の高い並木の間から、キラキラと輝く太陽の光と整備された広い遊歩道が見えた。

 駐車場に車を停めると、逢木は一番に運転席を降りた。

「おやおや、天才科学者が直々にお出迎えとは嬉しいね」

 そこには丸眼鏡の肥えた男がいた。シミだらけの白衣の下にはシワだらけのスーツ。輪郭がぼやけるほどの髭を蓄えた、熊のような男だった。

「とんでもございません。あの逢木恭平が私を訪ねてくるなんて光栄です。それに、実験に成功したのは水素の原子だけですから。実験はまだまだこれからですよ」

 正立大学大学院・物理学部物理学科の教授・木島哲治は黄色い歯をニカっと見せた。

 逢木は満面の笑みで右手を差し出した。

 木島は鼻にしわを寄せて、申し訳なさそうに頭を下げる。「すみません。実験の途中でしくじってしまいまして」

 木島は両手に白い手袋をはめていた。手首には包帯の結び目が見える。

「それはお大事に」

 逢木がいうと、木島は彼の後ろに立つふたりに目を向けた。

「あれがアノンですか。なかなかハンサムなロボットですね」

 アノンは静かに頭を下げた。木島は気をよくして顎を上げる。

「おや、そちらの女性はどなたですか? 秘書には見えませんが」

「刑事の今井君だ。ボクの警護を担当している」

 今井はつまらなそうに会釈すると、木島は人差し指で眼鏡を押し上げた。

「電話でおっしゃられた通り、うちの学科の院生から研究生までひとり残らず集めておきました。では、教室に案内いたします」

 木島に連れられて三人は大学の校舎を歩いた。

 裕福な学生の多い私立大学の校舎は、新築のように隅々まで清潔感に満ちていた。

 煌びやかな光沢がどこまでも続く廊下を歩く中で、最も学生たちの注目を集めたのはアノンだった。理系の分野で数多くの実績を誇る正立大学の学生たちは、人間とまったく同じリズムで、スムーズに二足歩行で歩くロボットに興味津々だった。

「いやあ、逢木さんが本当に警察の捜査に協力してるなんて驚きです」木島は、逢木の顔色をチラチラと気にしながらそういった。「テレビの情報しか知らないのですが、逢木さんが捜査に協力してる事件というのは、例の連続毒殺事件ですよね?」

「協力?」今井は首を傾げる。「彼は警察の上層部を買収して捜査に首を突っ込んできた自己中心的なサイコ野郎ですよ」

「このボクが買収だって? その証拠はあるのかい?」逢木は片眉を上げる。

「サイコ野郎は否定しないのね」今井は冷笑をひとつこぼした。

 木島は苦笑いで訊ねる。「捜査ということは、犯人がこの大学にいるというわけですか?」

「ああ。しかも犯人は超能力者だ」

「超能力者が存在するんですか?」

「ああ、超能力者は必ず存在する」

 逢木が断言すると、木島は途端に表情を輝かせた。

 その顔を、意外そうに見ていた今井がいう。

「普通はあり得ないと否定したり、バカな話だと笑い飛ばしたりするものじゃない?」

「逢木恭平があるといえば、超能力は存在するんだ」

 そう答えたのは逢木恭平本人だった。

 今井は肩をすくめ、木島は楽しげに笑った。

 しばらくすると、廊下の奥に観音開きの重厚な扉が見えた。その手前にはモップで床を磨く清掃員の姿があった。まだ口元にニキビの赤みのある若者だった。

 逢木がすぐ横を通り過ぎると、清掃員は声を震わせた。

「あ、逢木恭平、さん……」

 清掃員は濃いブルーの作業着を着ていた。肩幅が狭く、華奢で頼りない印象があった。小ぶりな頭に青い帽子を深々と被っている。

「ごきげんよう。サインでもしようか?」

 足を止めた逢木が訊ねると、清掃員は小さくうなずいて尻のポケットからメモ帳を取り出した。逢木はお気に入りの銀の万年筆でそのメモ帳にサッとサインをした。

 メモ帳はひどく汚れていて古紙のにおいがした。パラパラとページをめくると、そこにはくすんだ文字や数字がびっしりと書き記されていた。

「キミも科学に興味が?」

 逢木が訊ねると、清掃員は消え入りそうな声で答えた。

「ここで働いてると、色んな講義が自然と耳に入ってきて……内容はよくわかりませんけど、役に立つのかなと思い、何となくメモしていました……」

「なるほどね」逢木はメモ帳を清掃員に返した。

 清掃員は汚れた手でメモ帳を受け取った。黒ずんだ爪は、痛々しいひび割れが走っていた。すると逢木はいった。

「今からボクの特別講義が始まるから、キミも一緒にくるといい」

「いいんですか?」

「ボクがいいといえばいいんだ。そうだね?」

 逢木がニコリと笑いかけると、木島はひどく不快そうな顔で扉のハンドルを引いた。

「え、ええ。逢木さんがいうなら……」

 扉が開き、逢木たちは教室の中へと足を踏み入れる。そこは大きな階段教室になっていた。アーチ状の天井には照明機器が設置されていて、教壇の上には立派な大型モニターまであった。

 逢木の登場に、教室内を埋め尽くす三百人近い学生たちが歓声をあげた。

 清掃員を扉のそばに残して、逢木たちは壇上に上がった。

 熱を帯びたざわめきが、瞬く間に教室を満たした。

 ところが、逢木が後ろで手を組み、片眉をあげたいつもの表情で学生たちを眺めていると、教室内は次第に落ち着きを取り戻し、最後にはしんと静まり返った。

 そしてようやく逢木が口を開く。

「今日ここに来たのは他でもない。キミたちの素晴らしい頭脳をボクに貸して欲しいんだ。ボクが殺人事件の捜査に加わっていることは、当然知っているね?」

 逢木は情熱的な目をしていた。その目はまるで革命家のようなギラつきを放ち、独裁者のように力強く、鷹のようにすべてを見渡していた。

 学生たちは再びガヤガヤと騒ぎ出した。彼らは興奮と憧れが混ざり合い、希望に満ちた若者らしい顔をしていた。

 一方、逢木の後方に立つ今井は、疑問の目で隣のアノンを見た。

「どういうつもりかしら?」

「ワタシにもわかりマセン」

 アノンは作り物の瞳で、逢木の広い背中をただ見つめている。

「犯人はすでに四人殺している」逢木はいった。「これまでは重金属だけを使った毒殺だったが、今回は新たにポロニウムという放射線物質の使用が確認された。キミたちも知っての通り、重金属もポロニウムも同じく遅行性の劇毒だ。ターゲットの体をゆっくりと蝕んでいくため、本来なら被害者は自分の体に起こる異変に気づくはずだった。しかし、被害者たちに病院に行った形跡はなく、近親者さえもその異変に気づかなかったという。そこで疑問が生じる。犯人はいったいどうやって毒を被害者の体内に忍び込ませたのだろうか。被害者の共通点は四つ――みな密室で殺されたということ、二十六歳から三十一歳の若い男だということ、恋人に子供ができたのを機に夢を諦めたということ、そして最後に、結婚したことで、親からの支援を受けてゆとりのある暮らしを始めたということ」

 そこで逢木は一度だけ強く手を叩いた。

「それでは、日本人らしく挙手・指名・発言のルールで行こう」

 すると大勢の学生が、自分を見てくれといわんばかりに一斉に高々と手を挙げた。

 逢木は感心するような笑みを浮かべ、ひとりの男子学生を指名した。

 その学生は嬉しそうに立ち上がり、緊張で声を震わせた。

「衣類に毒を塗ったとは考えられませんか?」

「素晴らしい意見だ」逢木はいった。「その回答は刑事の今井君に任せるとしよう」

 刑事という言葉に、学生たちはよりいっそう表情を輝かせた。

 突然話を振られた今井は、気まずそうに一歩前に出た。

「確かに鋭い意見かもしれないわね。だけど、当時妊娠中だった妻たちは、被害者の体に湿疹やかぶれなどは見られなかったと証言してるわ。体調不良さえ訴えることもなかったみたい。証拠として押収した被害者の衣類からも毒物は検出されなかった」

「では次。そこの眼鏡の女性」逢木は女子学生を指名した。

「犯人は、高濃度の毒を被害者の体に注射したのでは?」

 再び今井が口を開く。

「司法解剖の結果、おへそにも爪の間にも注射のあとはなかった」

「次は、そこのカチューシャの女性」

 逢木が別の女子学生を指名し、その女が声を大きくしていう。

「水道管に細工したのでは?」

「それなら被害者の妻にも毒の影響があるはず。お腹の子供にもね。だけど母子ともに健康で被害の痕跡は見られなかったわ」

 今井の答え方はどこか責めるように冷たく、学生たちは次々と手を下ろしていった。

「では、次は木島教授に意見を出してもらおうか」

 そういって逢木が振り返ると、木島はあたふたと慌てた。

「わ、私は特に思いつきません」

「そうか。それは残念だね」そういって逢木はおもむろに手を挙げる。

 今井は嫌そうな顔で逢木を指さした。

「はい、そこの眉毛がよく動く納税が趣味の方」

 逢木が片方の眉をくいっと上げると、学生たちの歓声が沸いた。

「ではボクからもひとつ。被害者たちは夢を諦めたことで強いストレスに苛まれたと考えられる。人は蓄積したストレスを発散するためにあらゆる娯楽に手を出す。ジムで汗を流したりランニングに出かけたりする健全な発散方法もあれば、過食、飲酒、煙草、あるいは違法薬物などの不健全な発散法もある。被害者をストレスという共通点でくくったとき、彼らがストレスのはけ口としていたあらゆる嗜みの中に毒物は検出されていないのかい?」

「ええ、まったくね」今井は少しのためらいもなくいい切った。「被害者の自宅や職場や車の中にある物は何もかもすべて鑑識が調べたわ。お酒の空き瓶や煙草の吸い殻を求めてゴミ処理場まで走ったり、毎日のように被害者が買っていたお菓子や缶コーヒーをコンビニの陳列棚からその工場まで徹底的に調べたりもした。それだけじゃないわ。公園やスポーツジム、パチンコ店の水道管と排水溝、育毛剤、サプリメントまでくまなくね」

「素晴らしい」

 そういって逢木は両手を広げると、逢木の頭上の大型モニターに四人の被害者たちの顔写真が表示された。

 今度はアノンが右手を挙げた。学生たちがさらに盛り上がる。

「アノン、キミも何か意見が?」

「ハイ。つい三秒前に彼らの顔写真を比較した結果、通常より発達した咬筋の存在が見られマシタ。強いストレスによって、日常的に歯を食いしばってしまっているのが原因デス。そこで医療記録を検索したところ、ここ数年にわたり、四人ともそれぞれ歯科医にかかっていることがわかりマシタ」

「それも調べた」今井はそういうと、被害者たちが通院していた四つの歯科医院の名前を次々と挙げてアノンを黙らせた。「アノン君はこう考えたんでしょ。顎関節症になるほど噛みしめるんだから、歯の表面のエナメル質が割れてそこから毒が染み込んだんじゃないかって。もしくは歯の詰め物に毒が仕込んであったか」

「その通りデス」

 今井は余裕たっぷりな顔つきで肩をすくめる。

「ふたりとも、素人にしてはたいへん素晴らしい意見なのは認めるわ。だけど、あまり警察をなめないでね」

「どうだい? 日本の警察は実に優秀だろう?」

 そういって逢木はひとり拍手をしはじめると、学生たちも手を叩き出し、その拍手はやがてスタンディングオベーションのように激しくなった。

 称賛の音が盛大に鳴り響く中、今井は気まずそうに顔を伏せ、「意地悪」と逢木にいった。逢木は笑顔のまま片方の眉を上げるだけ。

 するとそのとき、ある男子学生が叫ぶようにいった。

「犯人は超能力者だ!」

 拍手が止み、学生たちはその学生に顔を向ける。逢木はその視線を頼りに、その男子学生を見つけるのだった。彼はどこにでもいる、地味で無害そうな青年だった。体は、ややふくよかで、小さめのシャツを着ていた。パッツリと膨れた顔には黒縁の眼鏡をかけていて、柄が頭の肉に食い込んでいる。

「発言は挙手をして、指名されてからというルールだったはずだが?」

 逢木が片眉をあげてそういうと、男は「ハッ!」と嘲笑った。

「今さらルールなんて関係ないだろ。だって逢木恭平、あんたは超能力者が犯人だと思ってるんだろ?」

「キミはボクのことをよくわかっているようだ」

 逢木は口を横に広げた。男はさらに大声でいった。

「だからいわれるんだよ。あんたの時代は終わったってね」

 男の言葉に、学生たちはひどく不快そうにした。黙ってろよ、などと野次が飛ぶが、男は構わずに話し続けた。

「一年前、突然超能力を信じるようになったあんたは、発明家として、企業家としての栄光を放り出して、奇人変人として世間の笑いものになることを選んだ。俺たちの中にはあんたに憧れて科学者の道を選んだやつが大勢いる。なんたって逢木恭平は、若くして発明の才能を発揮し、莫大な富を築いて、『アイラギ・コーポレーション』を設立して、多くの関連会社を起ち上げて、そのすべての分野で成功を収めた大天才なんだからな。そんな偉人が、オカルトの存在、つまり超能力を信じ込んで、その研究に没頭してることに俺たちがどれだけ失望したかわかってるのか? 今の逢木恭平は、霊界と本気で交信しようとしたグラハム・ベルと同じだ。偉大な先輩にひと言いわせてくれ。あんた、頭おかしくなったのか?」

 男が話し終えると、教室は不穏な静寂に包まれた。

 だが不思議なことに、そのとき表情に余裕をたたえていたのは逢木の方だった。

 うんうん、と頭を揺すって話を聞いていた逢木は、澄んだ瞳で男を見つめた。

「ところで、キミの名前は?」

 逢木の問いかけに、男は沈黙を貫いた。

 逢木は仕方ないとため息をつき、ひと言だけこういった。

「アノン」

「顔写真を大学のデータベースに照らし合わせたトコロ、彼は高久修平という物理学部の研究生だと判明しマシタ。歳は二十七歳。写真と比べて体重の増加が見られマス」

「ありがとう、アノン。キミは実に優秀だ」逢木は優しく微笑んだ。「では高久君、教えてくれないか。キミは最近太ったみたいだが、その理由は?」

 高久は再び黙り込むと、同じように逢木はいった。

「アノン」

「クレジットカードの利用記録カラ、ここ一週間で大量のアルコールを購入していることがわかりマシタ。ほとんどがビールデス」

「そのポッコリお腹はビール腹か!」

 逢木が驚いたようにいうと、学生たちはゲラゲラと笑った。

 高久は顔を真っ赤にし、悔しそうに打ち震えた。

「大勢の前で俺を笑いものにして楽しいか。こんなの弱いものいじめだ」

「弱いものいじめに聞こえたなら謝るよ。ただいわせて欲しい。一連の事件の被害者は、本来の夢を諦めたことを深く悩んでいた若者たちなんだ。そこでひとつ質問がある。キミには酒を飲む理由があった。違うかい?」

 逢木が訊ねる。高久は答えない。

「アノン」と逢木が三度いう。

「高久氏の携帯記録から恋人の妊娠が。役所のデータベースから婚姻届の提出記録が認められマシタ」

「つまりキミは、古くからの夢を捨て、新しい家族を選ぶ決断をしたというわけだ」

 すると高久は立ち上がり、座席の狭い通路を逃げるように進んだ。彼にぶつかった学生たちは迷惑そうに顔をしかめ、高久に心ない言葉を浴びせた。

 それでも高久は足を止めなかった。階段通路に出ると、駆け足で出口のドアまで駆けあがる。途中で階段につまずき、学生たちは大笑いする。一方、逢木はひとり必死に叫んでいた。

「待つんだ! ボクはキミを責めてるわけじゃない! これは警告なんだ! なぜならキミは犯人の絶好のターゲットだから――」

 高久はふと足を止めた。ドアは彼のすぐ前にあった。

 そのとき異変に気づいていたのは、逢木ただひとりだった。

「アノン、すぐに救急車を呼べ!」

 逢木がいうと、高久は教壇の方へ振り返った。

 その顔は真っ赤に染まっていた。唇は青ざめ、首には血管が浮いている。それは毒殺された四人の被害者たちとまったく同じ顔だった。

 高久は自分の首を絞めるような格好でその場に倒れた。前のめりに倒れた先には階段が続いていた。彼の体は段差を転がり、学生たちが悲鳴をあげた。

 教壇から飛び降りた逢木は、階段通路を上って倒れた高久のもとへと駆けつけると、ジャケットの胸ポケットからペン型の注射器を抜き出し、その片側を高久の首に突き刺した。

「何をしたの?」逢木のあとを追ってきた今井が訊ねた。

「これは重金属中毒の治療薬だよ。万が一のために用意しておいたんだ」

 高久は白目を剥いていたが、薬が体内を駆けまわると苦しそうに息を吹き返した。

 今井は強い口調でその場を動かないよう学生たちに警告する。

 怯え、戸惑い、混乱する学生たちに目を向けたまま、アノンは平然といった。

「学生たちの情報を集め終わりマシタ。救急車の到着まであと五分デス」

 逢木は高久の体を抱きかかえたまま、席に座る大勢の学生たちに目を向けた。