感心したように藤野が言った。

「それで沼に引きずりこむから河童ちゃんか。へー。最初ね、仰見書房の人たちがあなたのことを河童とか河童ちゃんって呼んでたから、『なに!?』って思ってたのよね」

「仰見書房は外部からだとちょっと堅いイメージありますしね。わたしも入社するまでそう思ってたんですけど、実はけっこう緩いんですよ」

 そう口にして、わらべは慌てて弁解した。

「し、仕事はちゃんとやりますっ。そっちの方は堅いですからっ」

「もちろん期待してるわ」

 藤野がにっこりと笑う。いかにも仕事ができる女の人といった表情だな、とわらべは思った。さすが元楠木社装幀室の室長だ。それに気さくそうな人でよかった。

「でも、ごめんね。合併で上の方もけっこうバタついてるの。他部署もね。どっちにやり方を合わせるんだって言ってさ」

 仰見書房と楠木社、二つの大手出版社が合併し仰木社が誕生した。仰見書房の装幀室だったこの場所は、そのまま仰木社の装幀室として使われることとなり、新たに元楠木社の社員六名が加わった。

 今日が初の顔合わせ。藤野は装幀室の副室長として配属されてきた。

「一応、仰木社としての業務フローはあるんだけど、現場を知らない人たちが作ってるからちょっと役に立ちそうにないのよね。はっきり言って、あれを使うぐらいならなんにも決まってない方がマシなぐらい」

「そんなにひどいんですか?」

「うちの業務範囲だと、たとえば一番最初に使う紙を決めろとか?」

「え? なんですか、それ。デザイン決める前にどうやって紙を決めるんですか?」

「知らないわ。先に予算が知りたいとかそんな理由でしょ。結局、デザイン決めなきゃ、紙が決められないんだから同じだしね。でも、一事が万事その調子。まったく使い物にならないわけ」

 上の事情はよく知らなかったが、どうやらわらべが思っていた以上にゴタゴタしているらしい。

「で、文句を言ったら、だったら装幀室同士で相談して代案出せって丸投げ。代案もなにも、まだ合併前だったのにどうしろっていうのかしらね。そもそも通常業務もあるし、そんな暇なかったわ」

「それでしばらく二人一組で仕事しようって話になったんですか」

「そっちの方が手っ取り早いでしょ。どうせマニュアル通りにいくような仕事じゃないし、とりあえず四ヶ月ぐらい一緒にやってみれば問題点も洗い出せるんじゃない」

 合併に伴い、装幀室では元仰見書房と元楠木社の社員をそれぞれ組ませて、お互いの仕事のやり方を把握させることとなっていた。室内では社員たちがそれぞれ組むことになる相手との挨拶や、今後についての打ち合わせを行っている。

 わらべは藤野と組むことになるのだろう。ピンと背筋を伸ばし、彼女は頭を下げた。

「よろしくお願いしますっ! まだ装幀家としては経験も浅くご迷惑をおかけするかもしれませんが、本が好きな気持ちでは誰にも負けませんっ!」

 すると、藤野は一瞬きょとんとした。しかし、すぐにまた笑顔を浮かべる。

「仰見書房さんの若手は元気があっていいわ。それに素直そうだし」

「ええと……」

「ああ、ごめんね、本河さんの相手は私じゃないのよ」

「あれ? じゃ、どなたですか?」

 ざっと室内を見回すものの、あぶれている社員はいなさそうだ。

「ちょっとね。今日は遅出なのよ」

 今日が初顔合わせなのはずいぶん前から決まっていた。それで遅出になるということはよっぽどの事情があったのだろう。

「ごめんね、待たせちゃって。もうすぐ来る頃なんだけど」

「あ、いえ。なにかあったときはお互い様ですから。休まないで出社するなんて、責任感がある人なんですね」

「あー……」

 藤野は気まずそうに頭に手をやった。

「言いづらいんだけど、昨日残業だっただけなのよ」

「え?」

 どういう意味なのか、わらべはまったく理解できなかった。

「深夜まで残ってらしたとかですか?」

 すると、ますます藤野は申し訳なさそうな表情を浮かべた。

「二時間残業させたから、二時間遅く来るのよね……」

 わらべはますます疑問を覚えた。

「楠木社さんでは、そういうことができるんですか?」

「……本河さんは巻島と組むことになるから説明しとくわね」

 一緒に仕事をする相手は巻島というのか。どうも不吉な前置きをされたような気がするが、「はい」とわらべは相槌を打った。

「あいつ、残業は絶対拒否するのよね。どうしても昨日の内に終わらせなきゃいけないって言ったら、その分、今日遅出をするってこうよ。遅出って言っても、間違いなく定時に帰るわ」

「……遅刻を黙認しろってことですか?」

 こくりと藤野はうなずいた。

「いつもそう」

「ええっ? よくクビになりませんね」

「まあね。あれで腕が悪かったら、少なくとも別の部署に飛ばしてやるんだけど、残念ながら営業部からの信頼は厚くてね」

「どうしてですか?」

「あいつが装幀を手がけた本、売れるのよねぇ。楠木社のベストセラーの半数は巻島がデザインした本だもの」

 藤野はまるで愚痴を言うようだった。

「すごいことだと思いますけど、あんまり嬉しそうじゃないんですね」

「本河さんって、本が好きでしょ」

「それはまあ、好きじゃなきゃこの仕事はできませんし」

「私も同意見。でも、あいつは違うのよね。仕事はできるけど、本は嫌いなわけ」

 本が嫌いな装幀家なんているのか、とわらべは思う。もちろん、仕事である以上は好きなことばかりができるわけではない。かといって本が嫌いでは続けるのはしんどいだろう。なにせ毎日のようにゲラを読まなければ務まらない仕事だ。

「河童、どこだ?」

 自分を呼ぶ声を聞き、わらべは振り向く。装幀室の入り口に三田がいた。書類の束を抱えている。

「はーい、こっちですっ!」

 わらべが手を上げると、三田は近くまでやってきた。

「どの部署も人が増えてごちゃごちゃしてるな」

「編集部もこんな感じですか?」

「もっと酷い」

 三田は苦笑しながら言い、藤野の方を見る。

「あ、紹介しますね。元楠木社の藤野さんです」

 すると、藤野は頭を下げた。

「副室長の藤野です。よろしくね」

「第二編集部の三田です。こちらこそ、よろしくお願いします」

 二人は和やかに笑う。

「本河さんに用事かしら?」

「ええ。一件、新しい装幀を依頼しようと思ってます。これから打ち合わせしたいんだが、大丈夫か?」

 三田がわらべに訊く。

「ええと、わたしは大丈夫なんですけど、まだ一緒に仕事をする巻島さんっていう人が来てないみたいで……」

「ああ、例の二人一組だな。じゃ、他をあたった方がいいか?」

「いえ、問題ないわ。もうすぐ巻島も来るでしょうし。来たら、そっちに行くように言っとくから、先に打ち合わせを始めてちょうだい」

 そう藤野が言った。

「でしたら、第四会議室でやってますから、そう伝えてください」

「わかったわ」

「じゃ、行くか」

 うなずき、わらべは三田と一緒に装幀室を後にした。エレベーターに乗り、四階へ向かう。四階はフロア全部が打ち合わせ用の会議室になっている。二人は第四会議室に入った。中にあるのは椅子と机、ゴミ箱ぐらいだ。

「どんな奴が来るんだろうな?」

 椅子に腰かけながら、三田が言った。

「わたしと一緒に仕事する人ですか?」

「ああ、なにか訊いたか?」

「楠木社のベストセラーの半分はその人が装幀をデザインした本って言ってました」

「へえ。すごいじゃないか。良かったな」

 三田は声を弾ませた。装幀のデザインは売り上げを左右する。仕事ができると聞けば、そういう反応になるだろう。

「でも、本が嫌いなんですって」

 そう言うと、三田の表情が訝しげになった。

「仕事はできるけど、本は嫌いってことか?」

「うーん、どうなんでしょうね?」

「……まあ、仕事をしっかりやるんなら、好き嫌いに口を出しても仕方がないけどな」

 そうは言うものの、三田はしかめっ面だった。

「とにかく、始めるか」

 三田が資料を差し出す。著者や作品のタイトルなどが記載されているものだ。

「今回の著者は大沼実。時代小説を一○年やってるベテランだが、河童は確か一緒に仕事するのは初めてだったな?」

「はい、でも大沼先生の著作はいくつか読んだことありますよ。無名なのが信じられないぐらい面白いですよね」

「そうだな。そろそろ芽が出てもおかしくない頃だ。今回の作品も気合いが入ってる」

 三田が嬉しそうに語る。きっと良い作品に仕上がったのだろう。

「タイトルは『新撰組列伝』。名前の通り、新撰組を題材にしている」

「どんなお話なんですか?」

「大沼先生の作品は昔の生活をリアルに描写するのが持ち味でな。まあ、読んだことあるなら知ってると思うが。斬ったはったの話というよりは、平民や商人、職人たちの日々の暮らしを丁寧に描いた人情味のある物語が多い。前作の『武士道』も武士が主人公だが、基本的にはその方向だ。気に入ってくれているファンも多いんだが、少し地味と言えば地味だ。だから、今回はちょっと変えようと思ってな。実は大沼先生に来るファンレターでちょくちょく剣戟の描写が良いといった感想があった」

「あ、すごいですよね。わたしが昔読んだ本だと、団子屋さんが主人公のなんですけど……?」

「『居眠り団子』か?」

「それですそれです。武士同士の戦いに巻き込まれた団子屋さんが、脅えながらその様子を見てるってシーンなのに、それっきりしか出てこない武士の戦いがすっごく臨場感があって興奮しました」

「河童と同じように思った読者も多かったんだろうな。作風が作風だから、剣戟はあってもいつもほんのちょっとなんだけど、やっぱりファンレターにはそのことが書かれてるからな。今回はそれを生かす方向性を提案して、そしたら、とにかく斬って斬って斬りまくる話を書いてくださった」

「へー、じゃ、がらっと作風を変えるんですね。でも、男の人ってそういうの好きですよね?」

「だな。理屈はいいから、格好いい斬り合いが見たいって読者もかなりいる。とはいえ、普段の大沼先生らしさも十分に出てるぞ。新撰組が徐々に内部から崩壊していくストーリーなんだが、隊士それぞれの心情がまたよく描けててな。なぜ斬るのか、というところに焦点が当たっていて、しっかり人情話で落としてある。面白いぞ」

「えー、早く読みたいです」

 仕事とはわかっているものの、わらべはワクワクした気持ちを抑えることができなかった。新しい本の装幀を手がけるときはいつもそうだが、好きな作家の作品ともなれば普段以上にやる気が出てくる。

「まあ、僕があれこれ言っても仕方ない」

 三田がわらべにゲラを渡す。

「まずは読んでもらって作品のイメージをすり合わせよう」

「はいっ」

 わらべがゲラを手にすると、ドアをノックする音が聞こえた。三田と顔を見合わせる。巻島が来たのだろう。

「どうぞ」

 三田がそう声をかける。ドアが開き、入ってきたのは二○代後半ぐらいの男だ。髪を短く切り揃え、一見すると爽やかな風貌をしている。身につけたテーラードジャケットやジーンズ、白シャツもくたびれた様子はなく、パリッとしていた。

「……巻島さんですか?」

 わらべが尋ねる。

「ああ」

 巻島は挨拶もせずに、わらべの隣に座った。目の前に置いてあった資料を自分の側に寄せると、持参したノートを開く。資料に目を落とし、ペンを走らせ始めた。呆気にとられて二人がその様子を見ていると、彼はふいに顔を上げた。

「どうした? 打ち合わせ中だろ。続けてくれ」

「あ、ああ……」

 戸惑いながらも、三田は気を取り直したように言った。

「まあ、その前に自己紹介ぐらいはしておくか。第二編集部の三田だ。これから何度も顔を合わすことになると思うが、よろしくな」

 続いてわらべも自己紹介する。

「装幀室の本河わらべです。今日から一緒にお仕事をすることになりました。ご迷惑をおかけするかもしれませんが、よろしくお願いします」

「巻島宗也だ」

 それだけ言い、巻島はすぐに視線を資料に戻した。わらべが困ったように三田を見ると、彼は苦笑いを浮かべる。

「じゃ、最初から説明するが、今回の著者は――」

「けっこう」

 ぴしゃりと巻島は言い放つ。

「この資料に載ってることなら今見ている。他のことは本河に訊く。打ち合わせの続きから始めてくれればいい」

「まあ、そういうことなら……」

 最初から説明するぐらい大した時間はかからない。ずいぶんと合理主義のようだとわらべは思った。

「それじゃ、これを」

 三田はゲラを差し出す。

「とにかく読んでもらって、お互いに作品のイメージをすり合わせよう」

「けっこう」

 なにがだろう、とわらべは疑問に思う。

「あのゴミ箱はシュレッダー行きか?」

 巻島が入り口のゴミ箱を顎で指す。

「ええと、はい。会議室にあるものはそうですけど……」

 すっと巻島が立ち上がる。どうしたんだろうと思っていると、彼はそのままゴミ箱の方へ歩いていき、ゲラを捨てた。

「おいっ!」

 すぐさま三田が怒声を発した。

「なにをしているっ?」

 厳しく叱責されているにもかかわらず、巻島は涼しい顔をしている。

「いきなりどうした? あのゴミ箱はシュレッダーに行くんだろ。それとも、ゲラを捨てる場所が別にあったか?」

「そういう問題じゃないっ! 喧嘩を売ってるのか!?」

「なるほど」

 合点がいったように巻島が言う。

「けっこうだと言ったが?」

「なにがけっこうだ。仕事を舐めてるのか?」

 すると、うんざりしたように巻島がため息をつく。

「ゲラは読まない主義だ」

 三田が立ち上がり、激昂したように机に手を叩きつける。

「ふざけるなっ! 楠木社ではどうだったか知らないが、そんな手抜きを許すと思うなよっ!」

 わらべは目を点にした。普段、温厚な三田がここまで怒ったところを見たことがない。一方、当の巻島はそしらぬ顔だ。

「ゲラを読まなくても装幀は作れる。読むのは編集に任せる。イメージさえもらえればそれでいい」

「任せる? それでいい? そんなことでまともな仕事ができると思ってるのか?」

「古い根性論だな。俺が言いたいのは、ゲラを読む無駄を省くということだ。その分の時間を装幀に回したい」

「小説の中身も知らずにどうやって装幀のデザインをする気だ?」

「ゲラは編集が飽きるほど読んでいるだろう。俺たちはチームで仕事をする。お前が読んだものを俺が読むのは無駄だ」

「口頭で伝えられるのは大雑把なイメージだけだ。作品の細かな機微は読んでみなければわからない。一手間を惜しむことで失うものはお前が考えるよりもずっと大きいぞ」

 作品の一文字一文字にさえ気を配る三田らしい意見だった。わらべもそれが正しいと思っている。その本に相応しい装幀をつけるのが装幀家の仕事だ。内容を知らなければ、そもそも相応しいかどうかすらわからない。

 だが、巻島の意見は違った。

「具体的に言ってみろ。どこがどう違う?」

「なに?」

「ゲラを読んだときとゲラを読まないときでデザインが変わるとでも思ってるのか?」

「当たり前だ。ゲラを読んでいなければ、沖田総司が背中から切られ、羽織の誠の文字が一部欠けたシーンがあることがわからない。羽織をモチーフにするなら、これを装幀に取り入れる考えも浮かぶ。当然デザインは変わるに決まっているだろう」

 巻島は三田の意見を鼻で笑い飛ばした。

「なにがおかしいっ!?」

「お前が具体的に言えるなら、その通りにデザインできるってことだ。ゲラを読まなくてもな」

 三田が押し黙る。確かに巻島の言う通りだ。

「……大事にしたいのは具体的な部分じゃない。作品の醸し出す雰囲気や、読まないとわからない感動だ。それは僕の言葉じゃ伝えられない。著者の言葉に実際に触れて、初めてわかるものがあるんだ」

 はあ、と巻島はこれみよがしにため息をついた。

「話にならない。自分の言葉にできないようなあやふやなものをデザインしろと? ゲラは魔法の設計図かなにかか?」

 すると、三田は怒り心頭といった様子で巻島を睨みつけた。

「偉そうな口は、せめてゲラぐらい読んでから叩くんだなっ! さっきから、仕事をしたくないと言い訳しているようにしか聞こえないっ!」

「それはこっちの台詞だ」

 巻島は椅子に座ると、ふんぞり返るようにして三田を睨み返した。

「編集なら、俺の装幀に文句をつけろ。デザインも知らない素人がいちいちやり方に口を出すな」

 あっという間に二人は殴り合いを始めそうなほど険悪になってしまう。わらべは慌てて間に入った。

「お、落ち着きましょうっ! お仕事、お仕事ですよ。喧嘩腰の態度はよくありませんよ。三田さん、まずは座りましょう。ね」

 とりなすようにわらべは二人に目で訴える。すると、三田は不服そうにしながらも椅子に座り腕組みをした。一方の巻島もあてつけるようにして足を組む。

「や、やだなぁ。そういう大人気ないのやめましょうよっ」

 わらべが場を和ませようと笑顔で言うも、二人は互いにそっぽを向いたままだ。なんとか話を建設的な方向へ持っていかなければいつまで経ってもこのままだろう。恐る恐る彼女は口を開いた。

「……とりあえず、ですね。仕事のやり方をすり合わせるための二人一組ですから、騙されたと思って一度やってみるのはどうなんでしょう……?」

「良い考えだ」

 あっさりと巻島が同意する。

「本当ですか?」

「こうしよう。お前がゲラを読んでデザインする。俺がゲラを読まずにデザインする。二案の内、どっちがいいかを三田に決めてもらう」

「え……っ? な、なんでそんな勝負するみたいになるんですかっ?」

「編集も二案あった方が助かるはずだ。俺の装幀が気に入らないなら、選ばなければいい。ゲラを読んだ方がいいのかどうかもはっきりする。どうだ?」

 巻島が自信を覗かせながら三田に訊いた。

「いいだろう。それで持ってきてみろ」

「ちょ、ちょっと三田さんっ。わたし、そんなのできませんよ」

「河童はいつも通り仕事をすればいいだけだ。それで勝てる」

「そういうことじゃなくてですね……」

 勝てば巻島と気まずくなりそうだし、負ければ三田の機嫌を損ねかねない。どっちにしても最低だ。

「他の方法ってなにかありませんか?」

 巻島はそれを完全に無視し、思案するようにノートになにかを書いている。

「著者はいつも打ち合わせに来ないのか?」

「ああ。遠方に住んでいるのもあって大沼さんは大抵来ない。ただ羽織をモチーフにしたいとは言っていたので、そのイメージを尊重できればと思っている」

「新撰組の羽織か?」

「そうだ」

 すると、巻島は俯き加減に考え込み、「どうかな?」と呟いた。

「……どうかな、というのは?」

「いや、まだわからない。予算はどうなってる?」

「資料の最後に記載してある。ベテランだが、無名の作家だから初版部数は多くない。あまり贅沢はするな。まあ、その辺りは楠木社と大して変わらないはずだ」

 表向きは何事もなかったかのように、けれども視線の火花をバチバチと散らしながら二人は打ち合わせを再開する。わらべはなんとも言えない居心地の悪さを感じた。



 打ち合わせ後、三人は一緒に上階へ向かう。六階でエレベーターが止まり、ドアが開く。装幀室に向かおうとした巻島は、わらべがエレベーターに乗ったままなのに気がつき、不思議そうに振り向いた。

「すみません。ちょっと編集部に用事があるので先に行っててください。すぐに戻りますから」

「そうか」

 巻島が背中を見せると、エレベーターのドアが閉まり、再び動き始めた。

「どうしたんだ?」

 三田が訊く。わらべはじとっと彼を睨んだ。

「どうしたんだ、じゃありませんよ。そりゃゲラを捨てられてわたしだって腹が立ちましたけど、初対面であんな喧嘩腰になったんじゃ仕事になりません」

 渋い表情で三田は押し黙った。

「……河童に言われるんじゃ相当だな」

 わらべはムッとした。

「どういう意味ですか、それ。わたしが短気って意味ですか?」

「いやいや、そういう意味じゃない。悪かった」

 八階にエレベーターが停まり、ドアが開く。二人はそのまま第二編集部へ向かった。

「わたしに謝っても仕方ありませんし。今日、らしくないんじゃありませんか」

「そうかな?」

「そうですよ。いつもの三田さんだったら、優しく諭すぐらいです。あんなに怒ってるところは初めてみましたし」

 そう言うと、三田は苦笑する。

「そんなにだったか?」

「そんなにでしたよ。巻島さんは苦手なタイプなんですか?」

「そういうんじゃない」

「じゃ、どうしたんですか?」

 第二編集部のフロアに入る。三田が白状するまで戻らないと言わんばかりに、わらべは彼の横にぴたりとついていった。

「ちょっと疲れてるのかもな。編集部も合併で色々大変だし」

「なら、いいんですけど……。じゃ、あの勝負の話はなかったことにしてもらえますよね?」

「悪い。ちょっと次の打ち合わせが入ってるから」

 三田は逃げるように早足で自席へ戻っていった。

「……やっぱり、なんかおかしい」

 それとも一度喧嘩をした手前、引っ込みがつかないだけなのだろうか? どちらにせよ、今日は無理そうだ。また日を改めて打診してみることにしよう。

 わらべは第二編集部を出て、またエレベーターに乗る。一度七階で降りて、書庫に寄った。仰見書房から出版された著書が保管されている。もちろん全部ではないが、比較的新しいものは揃っている。彼女はそこから、大沼実の著作六冊を取り出した。以前の装幀がどんなものだったかをチェックするためだ。場合によっては内容も確認する。

 書庫を後にして、今度は六階へ。装幀室に戻ってくると、巻島が真剣な表情でパソコンを睨んでいるのが見えた。彼の席はわらべの隣だ。ゲラを読まないということは、早速デザイン案でも練っているのだろうか。後ろから、画面を覗いてみた。綺麗な女の子とその名前がずらりと並んでいる。画面上部に『クラブ胡蝶』と書いてあった。どう見たってキャバクラだ。

「やはり六本木か……いや、どうかな?」

 ぶつぶつと呟きながら、巻島はノートにペンを走らせている。

「ど、どうかなじゃありませんよ。なにしてるんですかっ!?」

 そう声を上げると、巻島は振り向いた。なにも後ろめたいことはないというような表情をしている。

「見てわからないか? キャバクラを調べてる」

「会社のパソコンですよっ!?」

「だめか? 会社のパソコンでキャバクラを調べたら」

「そりゃキャバクラが題材の小説だったら、調べてもいいですけど。新撰組ですよ、新撰組。キャバクラ関係ないじゃないですか」

「頭の固い奴だな」

 あまりの言い草にわらべは開いた口が塞がらなかった。

「まあいい。打ち合わせするか」

 巻島はキャバクラの画面を閉じて、わらべの方を向く。

「その前にどうしてあんなことしたんですか?」

 訊きながら、彼女は持ってきた本を机に置く。

「どのことだ?」

「ゲラのことですよ。読まないのはいいとして――ほんとはよくないですけど、百歩譲っていいとして、なにも捨てることはなかったんじゃないですか? 三田さん怒っちゃったじゃないですか」

 不服を訴えると、巻島は何食わぬ調子で言った。

「あれぐらいやり合えば編集部で噂になるだろ?」

「そりゃなりますよ。あんな大声出したら、隣の会議室にも絶対聞こえましたし。今頃巻島さんの悪評が飛び交ってるかもしれませんよ」

「それが狙いだ。編集全員にいちいちゲラを読まない理由を説明するより、一度やり合うだけの方が効率的でいい」

 うまくいったというような調子で巻島は言う。わらべは唖然とするしかない。

「……そんな理由で三田さんを怒らせたんですか?」

「どうせわかり合えないなら、なまじ期待を持たせるより、最初にはっきり言ってやった方が諦めもつく」

「どうして、そこまでしてゲラを読みたくないんですか?」

「お前、さっきから不満そうだな」

 そう返され、わらべは一瞬言葉に詰まる。

「……だって、ゲラを読まずにどうやって本文組みを考えるんですか?」

 本文組みは、本の一行あたりの文字数や一ページあたりの行数、字間、行間、書体などを指定することだ。つまり、本の中身のデザインを行うのである。

「いくつかフォーマットがあるからそれに合わせる」

「だめですよ、そんなんじゃっ。本文組みで本を開いたときの印象って全然変わるじゃないですかっ!」

 反射的にわらべは言い咎めていた。そんな勢いで反論されるとは思っていなかったのか、巻島はぽかんとしている。

「……そんなに違うか?」

 ノートのページをめくる巻島の前に、わらべはぬっと顔を出す。

「違いますよ。だって、難しい学術書なのに字や行の間がすっごく空いてて、文字も丸っこかったらどうします? 大したこと書いてなさそうって思うじゃないですか。そういうときはやっぱり、字は小さくきっちり詰めてページを文字で埋め尽くして、しっかりと安定感のある書体にしてあげないと読む気になりません。逆に文学性が高い本だけど、活字に慣れてない人にも読ませたいっていう場合は今言ったみたいな余白の多い紙面にして、簡単に読めそうっていう気持ちにさせてあげた方がいいですし。とにかく本を開いたときの印象が内容にぴったりじゃないと、読者に余計なストレスがかかっちゃいますから」

「本の方向性ぐらい読まなくても編集に訊けばいい」

「じゃ、適当に本文組みをして、行頭に一文字だけ文字が残ったらどうするんですか?」

 わらべの言うことが理解できなかったのか、巻島は沈黙した。

「それのなにが問題だ?」

「なにが問題? なにが問題って言いましたか、今?」

 彼女にとっては、とても信じられない質問だった。

「言ったが……」

 わらべは自分の机の上に山積みになっている本を一冊取り出し、パラパラとめくる。目当てのページを見つけると、それを巻島に突きつけた。

「はい、よーく見てください。この行頭に一文字だけ残った文章。ここも、ここも、ここも、一ページに三箇所もあるんですよ。気持ち悪いですよねっ?」

 豹変したわらべに意表を突かれたのか、巻島はたじろいでいる。そんなことは気にも留めず、更に彼女は続けた。

「でも、これを直そうと思っても、本の内容によって字が詰まってた方が良かったりそうじゃなかったりしますよね。そしたら、文字数を減らして調節するのか増やして調節するのか、読まないとわかりませんよね?」

「それを気持ち悪いと感じるのはお前の主観だろ。俺は気にならない」

 あっけなく言い切られ、わらべはムッとした。

「それは鈍感だからですっ!」

「好みの問題だ。そんなことは著者か編集が指定すればいい。こだわりのある作家なら本文の組みを勝手に変えれば怒るぞ」

「でも、無頓着な人だっていますからっ。そこはわたしたちががんばってあげないと」

「著者がこれでいいと決めたものをわざわざ変えるのか? 装幀家の仕事じゃないな」

「本のデザインが装幀家の仕事なんですから、本文も含めてブックデザインですよ」

 理解できないといった風に巻島は首を捻る。

「三田にも言ったが、俺たちはチームで仕事をしている。著者や編集がやるべきことを、代わりにやってやる義理はない」

「じゃ、紙選びはどうするんですか? 明るい色の紙にするか暗い色の紙にするか、それだけでも本を開いたときの印象が全然違いますよね。ちゃんとその本に合った紙を選んであげないと、せっかくの内容が台無しになります」

「紙が暗かろうが明るかろうが、気にするような読者は殆どいない。それで内容が台無しになるというのは誇張があるな」

「殆どいないってことは少しはいるってことじゃないですか。その読者のためにも、わたしたちは手を抜いちゃいけないと思いますよ」

 ノートにペンを走らせながら、巻島はそっけなく言う。

「いくらでも時間と金をかけられるならそうしろ。だが、そうじゃない。殆ど誰も気にしないところにこだわるより、もっと重要なところに力を入れるべきだ」

 本の中身が重要じゃないなんて、わらべには到底承伏できないことだった。

「いや……まあ、いいか」

 思い直したように巻島が呟く。

「なにがですか?」

「どうしてもこだわるっていうなら、本文に限ってはお前がやればいい。俺の装幀に決まってもな」

「……そういう話じゃないんですけど。それに本文だけわたしのデザインになってもいいんですか? 他の部分との兼ね合いもありますよね?」

「別に俺はなんでもいい。二人一組でやるなら、作業は分担した方が効率的だ。どうせ装幀は俺のデザインが使われるしな。お前が本文に力を入れてもデメリットはない」

 ずいぶん自信家なんだな、とわらべは思う。それに本当に本文が重要じゃないと考えているようだった。

「それは、じゃ、そうしますけど。巻島さんがさっき言ってた、もっと重要なところってなんですか?」

「ジャケットだ」

 一瞬なんのことかわからなかった。

「……ええと、カバーですよね?」

「英語のカバーは表紙の意味だ。ジャケットが正しい」

「でも、一般的にはカバーって言いますし、それに出版社でもジャケットなんて言ってる人殆どいませんよ」

「〝コープロ〟はやったことないのか?」

「……ないですけど、知ってはいますよ。国際共同出版のことですよね? 確か、ええと、デザインやレイアウトは共通データで、テキストだけ各言語に翻訳したものを同時に製本するっていう?」

「海外から届くデータには本体の表紙がカバー、日本でいうカバーはジャケットと表記されている。コープロの作業工程をやるときには正しくジャケットと言わないと意味が通じないことになる」

 言っていることはわかるが、コープロをやるわけじゃないのだからカバーでいいのではないかと思った。

「ジャケットが正しいからジャケットにしろってことですか?」

「別にどっちでもいい」

 なら、なんでわざわざそんなことを言い出したのだろう。わらべの疑問が顔に出ていたか、巻島が説明した。

「うっかり習慣で間違えたくないから俺はジャケットを使うというだけだ。お前は好きにしろ」

 そういうことか。

「巻島さんもいちいちつっかかるわけじゃないんですね」

 ほっとして思わず本音が漏れる。慌てて弁解した。

「あ、悪い意味じゃありませんよ。ほ、褒めてますっ!」

「どっちでもいいが、もう少し考えてから喋れ」

 それはもっともな話なので、わらべは身を小さくした。

「……すみません」

「で、どうする?」

 唐突にそう訊かれて、わらべはきょとんとした。

「ジャケットだ。著者のイメージは新撰組の羽織だそうだが、それでいくのか。それとも他のイメージがあるのか?」

「ええと……」

 わらべは返答に困ってしまう。

「なんにせよ順当にいけばイラストだろうが、問題はどのイラストレーターに依頼するかだな。まあ、勝算があるなら写真も悪くないが……いや、どうかな?」

 わらべに訊いているのか、それとも自問しているのか、どちらともとれるような言い方で巻島は話していく。

「二案デザインするとはいえ、予算が潤沢にあるわけでもないしな。別々のイラストレーターに依頼するのは難しい。その辺りは足並みを揃える必要がある」

「あの、巻島さん? わたし、まだゲラを読んでませんから、イメージもなにもありませんよ」

 そう言うと、巻島は真顔になった。

「そうだったな。いつ終わる?」

「今日中には」

「なら、明日だな」

 彼はノートを閉じ、わらべの持ってきた本を指さした。

「それ、なんだ?」

「大沼先生の著作ですけど、読みますか?」

「ああ」

「え?」

「どうした?」

 言ってみただけなのに、まさか読むとは思わなかった。

「ええと……じゃ、これを」

 一冊手渡すと、すぐに巻島は本を開く。

「……それ読むなら、ゲラを読んだ方がいいんじゃないですか?」

「あとがきだけだ」

 巻島が開いているのは後ろの方のページだった。過去の著作のあとがきを読んでいったいどうするつもりなのだろうか? 彼の考えはさっぱりわからないが、ともかく、わらべはゲラを読むことにする。