その猫は茶トラで、「小生」と自称し、人に媚びを売らなければ懐こうともしない、妙に世故に長けた、極めて真率な牡猫であった。生まれは定かでなく、まだ幼猫の頃に人の手から手へと渡り続けてとある庶民の家庭へと辿り着いた。

 一家は姓を『千川』と云い、牡猫は『楽京』という名が付けられた。

 一家の子供たちからは「らっきょ」と呼ばれては弄くり回されているが、餌を与えてくれる奥方は動物が嫌いなのかあまり相手をしようとしない。楽京にとって楽な人間とは奥方のことだけを言い、その他の家族は疎ましい存在でしかなかった。


(小生、猫ではありますが、猫じゃらしや羽根の玩具などを目の前で振られましても興奮できないのであります。むしろ目障りであり、運動を促されても億劫でしかないのであります。お構いなさるな。小生、水と餌と空気と日光さえあれば満足なのです)


 日がな一日、日なたぼっこをして過ごす。悠々自適。日々是好日。野生を知らず、たとえ狭い世界で飼い殺されようとも、この生活が続く限り楽京は幸せであった。

 四季は巡り、やがて楽京にも変化が訪れる。

 奥方には「これだから茶トラは」と根拠の無い誹謗をぶつけられ、子供たちからは「デブネコブタ」と渾名されるほどに、見事に肥え太っていった。

 最近、体が重い。ソファや椅子の上に一度の跳躍では飛び乗れなくなっていた。活動範囲が極端に狭まっている。軽快さを失った楽京はますます動かなくなり、しかし痩せる気の無い飼い猫は、弄り甲斐も無いせいか、近頃では奥方だけでなく、子供たちからも完全に見放されていた。


(小生、水と餌と空気と日光さえあれば満足でありました。しかし、たった今気づいたのですが、これではただの置物ではありませんか。生きているとはとても言えません。動けない、動かないのは小生の不徳でありましょうが、ただじっとしているのは辛いのであります。退屈であります。退屈は敵であります)


 そこで楽京は、暇つぶしに、これまでほとんど無視してきた個体に焦点を当ててみた。彼は初めからこの家に居て、むしろ誰よりも存在感を放っていたように思う。

 千川家の長。奥方の夫であり、子供たちの父――名を『千川兆介』と云った。

 課長という役職に就き、そこそこの社会的立場を確立している彼だが、奥方からは見下され、子供たちからはさらに見下され、猫にも見下されてきた可哀相な人間。今やその人間と、不本意ではあるが、同格にまで格下げされた飼い猫は、新しい身の置き方を模索するため、また慰めも兼ねて、哀れな主人を観察することにした。


(小生の髭がひくひく動く。この男、どうにも興味深い。他の人間と何かが違う?)


 主人はどこかおかしい。壁に向かって独り言を呟くのはいつものことだが、ありとあらゆる挙動不審には何やら一貫した理由があるようだと楽京は見抜いていた。

 それが特別かどうかなど猫である楽京には知る由もなかったが、果たして、楽京は主人のとんでもない秘密をそうとは知らず知ってしまっていたのである。

 ただの薄毛に悩む中高年と思うなかれ。

 千川課長はなんと超能力者であったのだ。



昼食事情によくある風景


 主人は時々、何の脈絡もなく小生にいろいろと話しかけてくださいます。主人の話し相手が小生しかおらず、小生もまた暇を持て余していますので丁度良い。ああ、奥方の白い目つきはお気になさらずに。いつものことではありませんか。四六時中、家に籠もって留守を預かる小生にとって、主人が話す街談巷説は大変興味深く、特に主人の身に起きた佳話や異聞が面白い。超能力を駆使した話もまたさらに。

 どれ、今宵も無聊の慰めに一席拝聴しようではありませんか。


 主人曰く、真の企業戦士は食事にも深いこだわりを持つという。


 飼い猫である小生にはいまいちピンとこないことでありますが、日々戦場を生き抜くサラリーマンにとって昼の飯時は数少ない至福のひとときであるらしい。

 オフィス街とは、当然オフィスビルが立ち並ぶ経済活動の中心地であるわけですが、同時に、サラリーマンをターゲットにした商店の激戦区でもあるのです。

 早い・安い・美味いを標榜する店が密集する中で、どこで腹を満たすか、その選択如何によって午後の仕事にも影響を及ぼします。しかも、ただ腹を満たせば良いというものではありません。いつも贔屓にしている店にばかり通うのは味気なく、その日そのとき食いたい物を、気分や体調を考慮した上で、最適と見做したお店で頂くことこそ本当の至福と言えるのです。小生にも身に覚えがあります。奥方よ、偶には別のキャットフードもお願いしたい。

 店選びが最初にして最大の関門。店構えから質、価格、味を予測し、客の入り具合を吟味し、食事を終えた先客の表情から満足度を窺い、総合的な判断を下した後に利用するか否かを決めるのです。もちろん貴重な昼休みの時間を、たとえ一分であろうとも削るわけにいきません。判断は迅速に行う必要があります。真剣勝負でありました。そして、それこそが昼食の醍醐味であり、共感を覚えない者は真の企業戦士たり得ないのであります。

 最近、主人が働くオフィス街界隈の飲食店で、どうやら食い逃げの被害が相次いでいるようです。真の企業戦士からすれば不貞の輩で許し難い存在。もちろん被害に遭った商店も堪ったものではありません。

 んん? いや、しかし、少しお待ち頂きたい。食い逃げ犯にも食い逃げ犯なりの矜持とこだわりがあるのだろうと、小生は愚考いたします。それは企業戦士が昼食に懸ける熱意に近い。食い逃げ犯もまた、その日そのとき食いたい物を、気分や体調、食い逃げしやすい立地と環境と天候までを考慮した上で店を選んでいるのだと、猫の分際で共感するのです。……奥方よ、晩のおかずがちょいちょい無くなるのは己の所行ではありません。断じて。

 そう、これもまた真剣勝負でありました。

 腹を満たし、心も満たし、さらに食い逃げに成功したとき、本当の至福は得られるのであります。


*   *   *


 私の名前は千川兆介。

 手鏡を覗き込み、静かに深く溜め息を吐く。

 年々、頭の毛が薄くなっている気がする。

 四十を超えた辺りからそれらしい気配を感じ始め、なるべく意識しないようにと気を遣い、育毛剤に手を出すことも厭いやり過ごしてきたのだが、今やそれも後悔している。育毛剤には早々に手を付けるべきだった。特に湿度の高い今日のような雨の日は、髪の毛が水分を含んでぺちゃんこになってしまい、普段ふんわりとボリュームを増すように仕上げていたヘアスタイルが崩れて真の姿がお目見えし、なんとも寂しい気分になる。禿げから目を逸らし、禿げゆく自身を想像さえしなかったかつての自分を呪ってやりたい。

「でも、育毛剤は高いからなあ……」

 安月給の上、妻に財布を握られているので、育毛剤のような消耗品を買うのは厳しい。四十歳というと九年前か――上の娘が小学三年生、次女はまだ保育園に通っていたっけ。先々の養育費を考えていたら贅沢を言っていられなかった時期である。

 我が子と頭髪を秤にかけて我が子を選んだと思えば、うんまあ、格好は付くか。

 などと心の中で自分を慰めていると、

「千川課長、今日はお弁当じゃないんですか?」

 部下の小川に話しかけられた。

 手鏡と、周辺にあった書類や文房具を順繰りに机の引き出しに仕舞いながら、私は彼に力無く笑いかけた。

「あ、うん、今朝は慌てていてね、お弁当を買いそびれちゃったんだ。良い機会だし、久しぶりに外食でもしてみようかな」

 だから身嗜みを整えていたわけだが、たかが外食に何を気合入れる必要があるのかと、小川の冷めた視線がそう言っている気がした。

 恥ずかしいところを見られてしまった。

「では、お茶はいりませんね」

 小川はそう言うと給湯室に向かった。いつもならコンビニ弁当を広げる私のために湯呑みを運んでくれる。無愛想な男だが、気配りのできる出来た部下だ。

 オフィスにはあとふたり女子社員が残っている。私の属する総務課の人員は四人で、彼女らは昼休みになるとさっさといなくなり、大抵は私と小川のふたりきりになる。今日は雨だからだろうか、彼女らはコンビニ弁当を用意していた。普段からオフィスに引き籠もっている私とは真逆であった。

「行ってきます」

 傘を差して会社を出た。傘に雨粒が当たった瞬間、雨の勢いに驚かされた。見た目以上に雨脚が強かった。なるほど、女子社員たちが外に出たがらないのも納得である。朝はそれほどでもなかったのだが、この天候は些か憂鬱だ。そうでなくても雨の日は、髪の毛のこともあるが、良くないことが起こりそうで嫌なのだ。

 私は、ズボンの裾が濡れるのを嫌がりつつ、表通りを駅方面に向けて歩き出した。駅前には飲食店が数多く営業し、バラエティも豊富だ。昼時だからか、そちらに流れる背広姿がやたら目に付いた。

 通行人の顔を流し見ながら昼食のことを考える。やはり早い・安い・美味いがベストであろう。一番重要なポイントは安さである。これだけは妥協が許されない。今日の昼食も、できればワンコイン以内に収めたいところ。

 私の月の小遣いは一万円(昼食代含む)である。この金額で二十年近くもやりくりしてきたのだから、今後下げられることはあっても上がることはないだろう。毎回昼食に三〇〇円から五〇〇円、月々八〇〇〇円から九〇〇〇円は掛かっている。余り分を雑費に回しているのだが、よくもこれまで過ごしてこられたと自分でも感心する。

 世のお父さん方は皆同じような思いをしていることと思っているのだが、さてどうだろう。妻は自宅で昨晩の残りを頂いているそうなので実質昼食代は〇円であるらしい。妻には頭が上がらない。

 それに引き替え、飼い猫の楽京は大食いだから、彼の食費を抑えたいところだ。その分をこちらに回すことができれば……、なんてね。ペットに当たるなんて情けないことはあまりしたくない。節約くらい自分でしないと。

 会社の飲み会代はなるべく小遣いから捻出するように努力している。偶に家計から出してもらうときがあるのだが、そのときの妻の顔は見られたものではなかった。次回は小遣いだけで頑張ろうと思えるほどに。

 もしや私は妻に巧いことコントロールされているのではなかろうか。最近とみに思うのだ、自分は恐妻家なのかしらんと。気づいていないのは私だけかもしれない。

「はあ……」

 そんなことを考えていると気分は鬱々としてきた。通りを行くサラリーマンたちの足取りもどことなく重そうだ。誰もが昼食事情に頭を悩ませているようである。

 大して意識してこなかったが、オフィス街というものはなかなか異様な世界だと思う。多くの企業が旗を掲げて人事と銭勘定の限りを尽くしている。通りに溢れかえるスーツの波はあたかも血液の如く街中を循環し、取引先という器官を巡って経済を流動させているのだ。名刺と社交辞令の交換が示すように、企業人たちは「個」を必要としない。自社の看板と対外向けの役職のみが重要で、口にする話題も顧客の気を引くとっておきが一つでもあれば上々だった。

 昔は踵をどれだけすり減らしたかが武勲となったが、いつまでも続く不景気のせいで業績はなかなか振るわず、今では充足感よりも倦怠感が蔓延って、いつしか人々は溜め息も上手くなった。局地的に景気の好い企業があるおかげでなんとか均衡を保っているが、先行き不安はどの業界にとっても永遠の命題であり、国レベルでの景気回復が見込まれない限り、すべての企業戦士に溌剌とした表情が戻ることはない。

「大変だなあ。恐ろしい世界だよ、本当に」

 などと他人事として捉えている私は本当に駄目な人間なんだと思う。

 社内では課長と呼ばれているものの、実体は所謂「名ばかり管理職」だった。名前だけでも管理職であるため残業手当が付かないところがミソだ。歳も歳なので自動的に役職に就かされたような格好で、同期の中では出世コースから外された落ちこぼれである。

 小川が成長すればいずれは課長職を譲って課長級に降格し、行く行くは退職推奨リストに掲載されることになるのだろう。入社当時から仕事に対し気概が足りなかったので、当然の帰結であると納得している。……妻や娘たちには申し訳ない限りだが。

「……あたたたた、胃が痛くなってきちゃった」

 妻の顔が脳裏を過るたびに胃が収縮してしまう。

 いけない。段々食欲が無くなってきた。この上、節約に頭を悩ませなければならないと思うと虚しくなる。傘の数が増えた。雨脚も若干強くなった気がする。駅前では背広がごった返してあまねく飲食店の席取り合戦を展開しているはず。想像しただけでなんとも煩わしく、踵を返して会社に逃げ帰りたくなったが、昼食を抜くわけにもいかない。

 どうしたものか。ベルトコンベアの如く流れゆく傘の群れから外れたい一心で、私の視界が前方から真横に移された。偶々目に付いた小路には、オフィス街にありながら発展を遂げるよりも前に建っていたと思しき民家が軒を連ね、タイムスリップをしたかのような下町の情景がこぢんまりと延びていた。

 雨に濡れるのれんが目に付いた。『天昇』という文字と店構えから老舗のラーメン屋だとわかった。こんなところに店があったのか。通勤で毎日通りがかるのに今の今まで気づかなかった。

「……ラーメンか」

 逡巡。一杯あたりワンコイン以内に収まる可能性は低い。トッピング無しのオーソドックスなメニューとしての「ラーメン」の大体の相場は五五〇円だ。それでもきっと安い方。久しく食べていないのでわからないけれど、それより安いということはあるまい。

 もう一度呟く。

「……ラーメンか」

 食べたいなあ。

 偶には羽目を外してみるのもいいのではないか。値段のことは気にせずに、食べたい物も我慢せずに、頑張ってきた自分へのご褒美だと思って、贅沢をしてもいいのではないか。

 タイミング良く『天昇』からひとりの男性が出てきた。よほど味が良かったのかほくほくした表情で咥えた爪楊枝を煙草のように揺らしている。なんと幸せそうな面つきだろう。私は導かれるかのように『天昇』ののれんを潜っていた。

「ぃらっしゃいませぃ!」

 ラーメン屋独特の匂いが立ち込める店内は、さほど広くない。カウンター席が八つ、二名席のテーブルが壁際に二つあるだけだった。壁や床は薄く黄ばんでいて歴史の長さを物語っているが、壁に張り出されたメニューの札だけがなぜか真新しい。入ってすぐの場所にレジカウンターがあり、券売機はなかった。調理場では老夫婦が黙々と作業をこなしている。客は男性客が三人しかおらず、駅前では当然の混雑とは無縁であった。

 客は、奥のテーブル席にふたり、入り口に近いカウンター席にひとり座っている。

 私は傘を畳みながら壁のメニュー札をざっと確認した。……やはりラーメン一杯の値段はワンコインに収まらなかった。

『らーめん 五八〇円』

 定めた昼食代の上限よりも八〇円も超えている。いや、しかし、覚悟の上だったはずだ。そうだろう、兆介? いいじゃないか。今日一日くらい贅沢をしてやろうじゃないか。

 明日は三〇〇円に抑えよう。

「ラーメンを」

「おぅい。ラーメン一丁!」

 店主の濁声が響く。声に似つかわしく顔も厳つい。いかにも職人といった雰囲気で、不作法を働くと怒られそうである。

 目の前の空いている席に腰を落ち着けた。傘の柄をカウンターの天板に引っかけ、お冷やを注ぎに席を立つ。ちょうど真後ろにあるウォータークーラーにコップをセットしてタッチボタンに触れると、力加減を間違えたのか思いのほか長く押しすぎてしまい、溢れんばかりになみなみと冷水を注いでしまった。捨てるのは勿体ないし、立ち飲みするのは行儀が悪い。両手で掴んでぷるぷる震えながら溢さぬよう慎重に席へと運ぶ。

「そーっと、そーっと……」

 恥ずかしながら、私は一つのことに集中し出すとほかが疎かになりがちだった。不器用で、要領が悪いのだ。コップの水にばかり気を取られてしまい、案の定、足元をすっかりお留守にしてしまった。

 ガン、と椅子を蹴っていた。その拍子に引っかけていた傘が床に落ち、そちらに目を向けた振動で、今度はコップの水を溢して手を濡らした。慌ててカウンターに置かれたティッシュ箱に手を伸ばすものの、またもや椅子を蹴っ飛ばし、一つ椅子を挟んだ隣席に座っている男性の、立てかけてあった紺色の傘にぶつけて倒してしまう。

 じろり、と男性に睨まれる。私と同年代くらいで恰幅が良く、自信が全身から漲っていた。エリートサラリーマンという感じがして、それだけで圧倒されてしまう。生まれてこの方ぱっとしない生き方をしてきた身としては、関わり合いになりたくないタイプである。

 私は愛想笑いを浮かべつつ「すんません。や、すんません」と平身低頭、腰を屈めに屈めて紺色の傘を拾いに行く。男性は「ふん」と鼻を鳴らしただけで特に文句は言われなかった。

 恐い。私は虚弱体質で、昔から体の大きな連中にはよく虐められたものである。不意に学生時代のいじめっ子のことを思い出し、なんとも惨めな気持ちになった。

 紺色の傘の柄は木製で、縦長に細い切れ目が入っていた。変わったデザインだなと思ったのが誤りだった。触れた瞬間、それが『傷』であったことを悟った。

 あ、まずい。

 そう思ったときには遅かった。私の脳内に情報が流れ込んでくる。まるで見てきたかのような光景が映画のように映し出され、瞬きの間に、私の記憶野を焼き尽くす。


*   *   *


 外は雨が降っていた。

 畳んで立てかけられた紺色の傘は、雨粒を滴らせて床に水を染み込ませている。

 恰幅の良い男は名前を池田と言い、椅子にどっしりと座っていた。傘の視点――下方から覗き込まれた池田の顔つきは、獲物を狙う鷲のように鋭い緊張感を漂わせている。

 池田が箸を置く。

 そこは定食屋で、空けた皿にはトンカツの衣くずと千切りキャベツの青が点々と付着しており、気持ちの良い食べっぷりであっという間に完食したことは傘を通じてありありと伝わった。

 池田が席を立つ。

 伝票は席に置いたままだ。出入り口に人がいないことを見計らい、ほかの客が食べるのに夢中で池田を意識しない間隙を窺って、店員がレジ付近にいないことを確認し――否、レジに駆けつけるタイミングを外し――傘は、まだ手にしない。

 外は雨が降っていた。

 帰り支度をしていると思わせない程度の繊細な動きで準備を終わらせる。

 紺色の傘は一部始終を見ている。

 慌てず急がず、しかし機敏に、池田は傘を手にしてレジに向かう。

 レジを素通りする。

 出入り口の扉に手を掛けたとき、「お客さん!」店員に見つかった。池田はすかさず扉を開け放つと外へと飛び出した。紺色の傘は柄の部分を扉板にぶつけられ、鋭い一本線の傷を付けた。

 池田は走る。目の前には大通りを行くサラリーマンの大群がひしめいた。皆傘を差し、ただでさえ窮屈な人混みをさらに息苦しいものに変えていた。

 紺色の傘が展開された。誰も彼も背広姿で似た色合いの傘を差しているため、池田の姿はすぐさま人混みの中に溶け込んだ。その手際の良さから常習であろうことが窺える。食い逃げに成功した池田の顔にはにやついた笑みが張り付いた。

 傘の柄は、その傷は、至近距離から池田の様子を鮮明に記録した。


 以上が、傘の柄に出来た『傷』の因果の記憶。

 食い逃げ常習犯池田の犯行の手口であった。


*   *   *


 唐突だが、私こと千川兆介は「感応透視能力」を持つ超能力者である。

 サイコメトリーとは物体に含有された思念体――情報を読み取る能力のことだ。手や目に触れた物質や空間の〝記憶〟を呼び起こし、対象物にまつわる過去の出来事を追体験したかのように把握することができる能力である。過去の現場で何が起こったのかを探り当てる特殊能力で、海外では実際に考古学の調査や犯罪捜査など幅広く活用されている。

 とはいえ、もちろんオカルトの分野でもあるため、汎用性に乏しく真偽にしても結果が出て初めて証明されるものなので、大概が眉唾物である。テレビのバラエティ番組がこの手のペテン師を数多く輩出したことも胡散臭さに拍車を掛けた一因であろう。本物はいるかもしれないし、いないかもしれない。言い張っているだけの輩がほとんどである。

 私は超能力者である。

 しかし、そのことを一番信じていないのは私自身である。言い張る以前に私は自分が特別な存在だなどとはどうしても思えなかったのだ。

 サイコメトリーはあらゆる場面で発動したが、発動に関して唯一共通する条件がある。それは対象物に付いた『傷』に触れること。この能力は『傷』にのみ反応し、その因果を読み取ってしまうというはた迷惑な代物なのだ。手に触れてしまった『傷』を問答無用で理解してしまう。

 初めてこの能力に気づいたのは、私が小学生の頃のことだった。お下がりの机や鞄から見たこともない光景が溢れ出し、それを兄姉に尋ねると実際に過去に起こった出来事だったことが証明され、当初は頭がおかしくなったものかと疑った。

 流れ込んでくる思念体はその『傷』が付いた経緯、原因、そしてその後の結果までを教えてくれた。『傷』だけに限定されたサイコメトリー。しかも、その対象物は人でも物質でも動植物でも何にでも有効であった。

 例外として、自分の体に付いた『傷』だけは触れても発動しないのだが。

 子供の頃はこの能力に悩まされたものだが、次第に慣れたのか、あるいは能力が弱まっただけなのか、日常生活の中で知らず付いたような他愛のない傷には触れても能力は発動しなくなった。やはり子供の頃の妄想の産物にすぎなかったのだろう。そう思うことにして、超能力者でも何でもない私は過度な期待を持つことなく、四十九年間を平穏無事に生きてきた。これからも平々凡々と生きていけたらいいと思うし、そう願う。

 だがしかし、四十九年もの間生きてきてなお、想像も付かないような思念体を含む『傷』と巡り合うことが、偶にある。そういうときこそ能力は活き活きと発動し、私は視たくもない『傷』の因果を視せつけられるのだ。

『傷』限定のサイコメトリーだなんて、不吉なことこの上ない。

 いつかは心臓に悪いような出来事――例えば傷害事件にまつわるような記憶を視てしまうのではないかといつも冷や冷やしている。ならば、そんな能力なんて無いと否定していた方が心は穏やかに過ごせるはずだ。

 私こと、千川兆介は超能力者である。

 しかし、そのことを一番に否定したいのは、何を隠そうこの私だ。


「たはあ……」

 深く深く息を吐く。やってしまった感が胸いっぱいに広がった。

 いま視えた光景が傘の柄に付いた『傷』から流れ込んできたものであることは、すぐにわかった。どうやらサイコメトリーは、私にとって耐性に乏しい思念体をより強く読み取ってしまう傾向にあるようだ。日常的に出来た『傷』に反応しなくなったのはやはり慣れで、非日常的な因果で生み出された『傷』は想像の埒外にあるために知識が欲してしまうのだろう。未体験ゆえに追体験することで経験を補うのだ。慣れとは理解だ。理解が勝れば二度と同じような『傷』の因果を視ることはなくなるはずだ。

 いやはや、それにしても、食い逃げの際に出来た傷にどんな理解を示せというのか。

 そんなもの想像できるわけがないだろう。

「ももも申し訳ないです。はい」

 恰幅の良い男――池田氏とは目線を合わせずに、紺色の傘を先ほどと同じようにして立てかける。殿の御前の武士も斯くやという所作で、面を伏せたまま一歩二歩と後退し、自分の席に着いてカウンターの天板を俯き加減にじっと見つめる。

 どうしよう。

 食い逃げの常習犯が横にいる。

 私は、そうと決まったわけではないのに、池田氏がこの店でも食い逃げをするものと断定した。紺色の傘の『傷』が視せた〝記憶〟は、その傷が付いたときと似た環境下にあったからこそより強烈に引き起こされたものだ。思念体とは場に漂う空気や持ち主の激情から構成されており、池田氏の情緒が揺らげば『傷』の疼きも増幅するのだ。『天昇』で食い逃げする意志が、結果的に私の能力までも誘発した形である。

 こっそりと池田氏を窺う。むすっとした顔で新聞を広げていた。そこに犯罪を行う前の緊張感や昂揚感らしきものは感じられなかった。慣れているのか。それとも、逃げ切る自信があるからなのか。判然としなくて落ち着かない。

 ……いや、今日はそんなことしないかもしれないじゃないか。決めつけは良くない。というか、食い逃げされようがされまいが私には関係の無いことだ。

「はあ、はあ、はあ、はあ……」

 がちがちと奥歯を鳴らし、喘ぐように爪を噛む。私は緊張していた。知ってはいけない事柄を、不可抗力とはいえ能力でこっそり覗き見てしまうと、小心者ゆえ罪悪感に押し潰されそうになる。今回の場合、それが犯罪なのだからもうどうしていいのやらわからない。冷水を飲み干し、おかわりを注いで、再び天板と睨めっこする。脂汗が泉の如く湧いて出る。

 どうする。

 どうする。

 もしも彼が食い逃げをしたとして、私は咄嗟に彼を捕まえることができるだろうか。

 無理だ。

 不可能だ。

 考えるまでもない。

 体格差からして一目瞭然ではないか。自慢じゃないが腕っ節には自信がない。理不尽な暴力に晒されたとき、どのようにして逃げを打つか智力を巡らせることに関してだけは一家言あるけども。正面切って蛮勇を奮った例は生涯一度としてなく、痛い思いをするくらいなら相手の靴を舐めるのも厭わない、そんな男なんだぞ私は!

 天板に向かってぶつぶつ呟く。池田氏や店主はそんな私を訝しげな視線で見つめている。

 そうとも。何も正面からぶつかっていこうだなんて考えなくてもいいんだ!

 食い逃げをするとわかっていて、なぜみすみす放っておくのか。事が起こった後のことを考えるから暴力沙汰に発展するのだ。ならば未然に防ぐ手もあろう。そうとも。私が小粋に自然にジョークも交えつつ「食い逃げ被害について」店主に話題を振って、警戒を促してやればいい。それは池田氏に対しての警告にも繋がるはずだ。――私は君が犯人であると気づいている。馬鹿な真似はやめることだな……、なんてことを視線で訴えればドラマに出てくるニヒルな探偵っぽくて素敵じゃないか。

 方針が固まり珍しく武者震いを起こしていると、「ぉ待ちどう!」店主の濁声に心臓が跳ね上がった。池田氏の目の前にラーメンが差し出されていた。

「お、おお……っ」

 私は驚愕に目を見開いた。なんと、ラーメンの上には特大チャーシューが五枚も載っていたのである。弾かれたようにメニュー札を見上げる。「らーめん 五八〇円」の隣に燦然と輝く『チャーシューめん』の値段に開いた口が塞がらない。

 馬鹿な! 八五〇円だとお!?

 池田氏が厚切りチャーシューを一枚口に頬張った。もりもりと食べるその様はなんとも食欲をそそられた。こちとら予算を八〇円オーバーしただけで身を削る思いだったというのに、それを八五〇円! しかも食い逃げする気でいるのだ。許し難い。

 しかし次の瞬間、さらなる衝撃が私を襲う。

「はい、焼きめしに餃子ね!」

 気が遠くなった。この男は! あろうことかこの男は! チャーシュー麺だけでは飽きたらず、二品も追加注文していたのだ! セットメニューでないところがまた非道を極めていた。もはや確認するのも恐ろしいが、メニュー札を再度見上げる。

『焼きめし 四五〇円』

『餃子 一五〇円』

 いけない。頭の中が沸騰しそうだ。合計金額を弾き出したとき、あまりの昼食代格差に目眩を起こす。

 ……み、三日分じゃないか。私の昼食代三日分を踏み倒すつもりでいるのだ。このような悪逆無道をどうして許せようか。私は心に決めた。

 絶対に払わせてやる。

 興奮のあまり涙が出た。ティッシュで洟をかみ、目元を拭った。目を赤く腫らす私を見て、来店時から今までの短い時間に一体どんなドラマがあったのかと、店主は想像もできずに混乱している。

「……はい。ラーメン」

 店主がおずおずと差し出したラーメンは、海鮮出汁をベースにしたスープで黄金色に輝いていた。なんとも美味しそうである。ありがたく頂戴しようと割り箸に手を伸ばした。

「大将、ごちそうさん。相変わらず美味いねえ!」

「お粗末さまです」

 テーブル席のふたり組が食後の一服に煙草を咥えた。常連客らしく、すべて調理が終わり一息吐いた店主にそのまま話しかけていた。

「知ってるかい、大将? この辺りで食い逃げが横行してるって話」

 がたり、と音がした。

 動揺して水を溢したのは私である。「大丈夫かい、お客さん」と店主にタオルを放られたが、私はあわあわと挙動不審になるだけで水浸しのカウンターを拭くことができなかった。見かねた店主の奥さんが慌てて駆けつけて私の代わりに拭いてくれた。

 池田氏は何事も無かったように平然と箸を動かしている。一口餃子を三つまとめて口の中に詰め込んだ。

「この辺りって?」

「いろいろですよ。防犯カメラが無さそうな個人経営のお店を狙ってるって話で」

 図らずも食い逃げの話題が持ち上がっている。

 私はこの流れに乗れとばかりにカウンターに身を乗り出そうとしたのだが、水を注ぎ足してくれた奥さんと目が合って萎縮してしまう。「やあ、すみません」

「食い逃げねえ。大方、どこぞのホームレスがやらかしてんでしょう」

「ああ、被害額は大したことないらしいよ。でもねえ、ちょっと卑しいよねえ。ほんの数百円くらい払えないもんかねえ」

「いやいや、この不景気だ。ホームレスの稼ぎだって下がっているのかもしれないよ」

「明日は我が身だよ。いつ企業が倒れるか知れない。笑っていられないね」

「そんときゃウチの店に来なさい。皿洗いしてくれりゃあ見逃してやらんでもない」

 そう言って笑い合う。他愛のない世間話の範疇だからだろうか、食い逃げが身近にあることを彼らは想像だにしていなかった。

 目を覚まさせないと。いるのだ。すぐそばに。食い逃げ犯は貴方たちの目と鼻の先で焼きめしを頬張っているぞ。くう、焼きめしの焦げ目の辺りが実に美味そうだ。

「そういや、先月ウチの会社に営業に来た何とかってコピー機の会社あったろ?」

「ああ、潰れたって話でしょ。聞いてますよ」

 ふたり組は「企業が倒れる」から連想して別の話題を口にし始めた。私がもたついている隙に食い逃げ犯が彼らの意識から遠ざかる。ぐずぐずしてはいられない。この機を逃すな。元来お喋りが苦手な私であるが、腹の底から勇気を振り絞って、言おう言おうと唇を痙攣させながら、タイミングを推し量った。ふたり組は煙草の灰をぽんぽんと灰皿に落とし、店主もふたりの話題に口を挟むまいと洗い物に着手しようと袖をまくり上げ、――ここだ!

「ちちち違いまひゅよ!」

 裏返った声が店内に響き渡った。

 もちろん私の声だ。

 突如奇声を上げた禿げ親父に、池田氏以外の四対の視線が弾かれたように向けられた。池田氏はそれでもラーメンを啜るのをやめない。店主が「えっと……」困り果てたというふうに禿げ親父、もとい私に、次いで常連ふたりに目を遣って、最後に奥さんに視線をくれてから、再び私に顔を向けて代表して尋ねた。

「どうかしましたかい? 何が違うってんですかい?」

 ラーメンの味に文句でも付けようってのかい――喧嘩腰の口調はそう言っているようにも聞こえる。まだラーメンに口を付けてさえいないから味に文句もへったくれもないのだが、皆に見られて狼狽している私にはその意図するところがすぐには伝わらなかった。

 ただ傾聴を促すことには成功した。

「あ、あああ、あの、あの、ホームレスがですねえ、食い逃げなんかじゃないのです!」

 惜しむらくは、興奮して舌が回らず主張したいことが何一つ伝わらなかったことである。だがしかし、喉元に詰まったすべてを吐き出せた私はあまりの清々しさに「ふへ」笑みを浮かべた。昔からやればできる子のはず、と母から憐れまれてきたが、その言は正しかったのだ。達成感を覚えて陶酔し、池田氏にドヤ顔を向けた。

 必ず一四五〇円支払わせてあげますからね! 池田さんとやら!

 池田氏はレンゲに掬ったスープを啜る。私を見ようともしない。

「ホームレス、……食い逃げ? ああ、さっきの話ですか?」

 あの禿げ親父は何を言っているんだ、と皆が首を傾げている中で、ふたり組の片割れが、私が言わんとしたことを親切にも汲み取ってくれた。店主ももう一方の男も、ああ、と思い至ったものの、結局私が何を言いたかったのかまではわからなかったようだ。

「で、何? ホームレスが食い逃げしたって?」

「いや、そうじゃないって言ったみたいですよ? そうでしょ、小父さん?」

 よく見れば片割れの男はかなり若い。まだ社会人三年目くらいじゃなかろうか。ハキハキしているし、身なりもしっかりしている。若かりし頃、私もあんなだったら人生違っていただろうになあ、と思わず恥ずかしい思い出を回顧する。

 社会の若者に幸あれ。

「あのう、小父さん? 聞いてる?」

「わ、はい? な、何でしょう?」

「いや、だからさ。さっき、何て言ったの? ホームレスが食い逃げしたんじゃないって、そう言ったの?」

 私はこくこく頷く。店主とふたり組はその心を問うつもりで私をじっと見つめていたのだが、勘の鈍い私は「何でしょうか?」逆に訊ねてしまった。

「いや、何でしょうか、じゃねえよ。いきなり割って入ってきといてそりゃないでしょうよ。食い逃げしたのがホームレスじゃないって、お宅知ってるの?」

「はあ」

 知っている。というか、さっき視てきたばかりだ。

 事ここに至ってなぜ自分に注目が集まっているのか理解した。池田氏への牽制にばかり意識を向けていたせいで説明を疎かにしてしまっていた。言われっぱなしでは確かに据わりも悪く落ち着かないのだろうが、しかし、どう説明したものか今さらになって悩む。

 まさか、超能力で知りました、なんて言えないし。

「あ、わかった! あれだ! 貧乏学生だ! どうだい、正解だろう?」クイズと思ったのか、男は得意そうに言った。「ホームレスに友達がいて庇っているのかなあ」と小声で口にしたのは若者の方だ。

 どちらも外れていたので、そこだけはきっぱり否定する。


「ああ、いえ。犯人は大企業の社長か重役だと思います」


 池田氏の箸が止まった。

「――嘘こけ。そんな人が食い逃げなんてするもんかい。倒産しかかった企業の社長ならともかく……、いや、それもあり得ないな。守るもんがあるうちはそんな軽はずみなことなんてできん。そうだろ?」

 そのとおり。だから、池田氏の場合は例外中の例外だ。

 たとえ理に反していても事実は事実である。ホームレスや貧乏学生の方がらしいというのはわかるけれど、それとこれとは話が別なのだ。

 紺色の傘がべらぼうに高いことは触れた瞬間にわかった。『傷』は記憶ばかりでなく、持ち主の愛着具合までなら読み取れた。詳細までは知らないが、海外ブランドのオーダーメイド品であるのは間違いない。金持ちの道楽かと思えばそれだけでなく、仕事の上でもまずは見た目から交渉の取っかかりを得る努力をしているのだろう。顧客の気を引くとっておきはいくつあっても困らない。

 雨の日ならではの話題作り。そこまでする以上、平凡なサラリーマンではなかろう。

 よく見ればスーツも高級品だし、鞄だって、ちょっとした『傷』にさえ触れられれば、たぶん確証も得られるのだろうけど、見た限り安物じゃない。

 また、私と同年代だとするならば、それだけの出来る男がこの歳まで平社員に収まっているはずもなく、十中八九要職に就いている。

 他人を妬み嫉み生きてきた私の目は誤魔化されない。

「小父さんのそれって当てずっぽう? でも、さっきの勢いはすごかったよね。違いまひゅ! って」

 若者が思い出して笑う。

「あんだけ強く否定するんだから実は犯人を知ってたりして」

「あ、いやあ……」

 隣を指差して「この人です!」と言えればどれほど楽か。しかし、証拠は無いし、池田氏は恐いし、できそうにない。

 若者は面白がって私に質問を重ねた。

「じゃさ、どうして社長や重役の人が食い逃げなんてするの? お金持ってるんだし、地位もあるから、普通しないでしょ?」

「そ、そそ、そう、そうですねえ。何ででしょうかねえ?」

 こればかりは憶測で語るしかない。

 私は考え得る限り最も可能性のある推理を口にする。


「ジンクス、でしょうか。あ、あ、雨の日に限定していますから、たぶんそう」


 今度こそ、池田氏は顔を上げた。

「ジンクスぅ~? なんだいそりゃ?」

「もしかしてあれですか? 食い逃げに成功したら仕事も上手くいくっていう縁起担ぎみたいな? そりゃ失敗したら警察沙汰ですから上手くいくも何もなくなりますけど」

 私とて理解できないがしかし、池田氏の思考はそうなのだ。

「……た、偶には羽目を外したくなるんでしょう。中毒みたいなものです」

 金も地位もあるくせにセコイ詐欺行為を繰り返すのはスリルを味わいたいからだ。そこにギャンブル性を見出し、リターンにはタダ飯以外にも「食い逃げに成功した強運」が付随され、今後の仕事の吉凶を占うのである。

 しかし、それを日常的に行っていたら有り難みも面白味もない。

 雨の日に限定するのは、もちろん逃走しやすいというのもあるが、気分的にも運の有る無しを占う儀式的状況に適しているからだろう。ゆえにジンクスだ。

 湿度が高くてままならないヘアスタイルを気遣うように。

 池田氏もまた雨の日には特別な思い入れがあるようだ。

 ありありと思い出す、傘の中、人混みに紛れたときの安堵と不遜に塗れた笑みを。

「話にならんな。そりゃ無理があるよ。そもそも社長なんかが食い逃げするかね」

「ですね。いやでも、面白かったですよ。なかなか穿った推理でした。うん。何を主張したかったのか最後までわかりませんでしたけど」

 ふたり組は一気に興味が失せたように体の向きを戻した。店主が物言いたげに私を眺める傍らで、私は戦いを終えたことを悟り脱力した。

 言うべきは言えた。池田氏にはこの上ない牽制球となったはずだ。

 池田氏が食い逃げ犯だとわかっているからこそできる推理なので、本人にさえ伝わればそれでいい。他人にいくら説明したところで証拠が無いでは納得すまい。気の触れた禿げ親父が注目を集めて悦に浸りたいばかりに与太を飛ばした、そのように思って引いてくれるなら面倒が無いだけ上首尾だ。少し惨めな気はするが。

 これだけ盛り上がれば池田氏もよもや犯罪に走るまい。

 結局、池田氏は食べるのに夢中で最後までこちらを見ようとしなかった。

 私はようやく割り箸を割った。麺も些か伸びてしまった、せっかく五八〇円も払うのに勿体ないことをしたものだ。猫舌なので冷めている分には食べやすいが。

 しかしながら、まあ、それに見合うだけの達成感を得られたのだから良しとしよう。

 私は、やればできる子のはず、と言わしめたことを誇りに思う。



 今まさに麺を口に入れようとしたときである。

「どうして雨の日限定だとわかったんですかい?」

 店主にそう問われ、すぐには意味がわからなかった。ぽかんと口を開けたまま、店主を見る。

「ジンクスにしたって別に雨の日じゃなくてもいいと思いますがね。何かこだわりでもあるんで?」

「えっと、いや……、ええ?」

 なんだろう、質問というよりは詰問の態を為している気がする。そんなもん直接本人に訊けと言いたいが、隣を指差して犯人だと糾弾すればますます私に不審の目が向けられそうだ。……ますます、とは何だ。違和感を覚えたとき、私は店主だけでなく、ふたり組までもがこちらに怪訝な目つきを向けていることに気づいた。まるで食い逃げ犯を監視するかのような視線。まさか。まさかとは思うが確信する。

 なんと! 私が疑われている!?

 そういえば、食い逃げの話題が上がったとき、すかさず異論を唱えたのは私で、しかもそれがかなり強引な横槍だったものだから、当初から訝しがられていたようだ。その上、まるで誘導するかのように犯人像を固めていった私は、自分から疑いの目を逸らそうと躍起になっていたと見られてもおかしくないのだ。いやいやさすがに私とて見た目がホームレスだなどと自虐するつもりはないが、店主たちはそのように受け取ったらしい。

 そして、極めつけは「雨の日に限定している」と言い切ったことにあった。

 それはつまり、犯人にしか知り得ない事実ということで……。

 私は自分が犯した失態に気づき、顔を青ざめさせた。

「さっさと食わんと、麺、伸び切っちまいますよ」

 私はおずおずと麺を啜る。容疑を掛けられ監視された状況下に於いて食べるラーメンに、味などあろうはずがない。無味乾燥のまま五八〇円を平らげる。途中から食欲なんて無かったのだが、残すと店主に怒られそうだったので頑張った。なぜ頑張らねばならんのだ。

 池田氏は私がラーメンをちゅるちゅる啜っている間に帰ってしまった。きちんとお代を支払って。結局、何事も起こらなかったわけである。

 一四五〇円を支払ってがっつりと昼食を味わい尽くした池田氏。

 対して私は肩身の狭い思いをしながら味もわからず五八〇円を胃に収めた。

 こうして振り返ると、私は得た物よりも失った物の方が大きかったように思う。

 教訓。あらゆる意味において、贅沢は敵だ。



 一悶着は会計時にも起こった。

 財布を会社に忘れてきてしまったのである。

 店主が目を光らせている正面で、携帯電話で部下に連絡を入れる。

「あ、あ、小川君? いま、会社? 会社に居るのかい? あの、あのね、僕の机の引き出しに黒い財布入ってない? あ、いやあ、鏡じゃなくて。――ある!? ああ、良かった。……あのね。も、申し訳ないのだけれどもそれを今すぐ届けてもらえないかな? ラーメン屋さんに。あ、うん。ごめ、ごめんね? ほんと、ごめんね」


 甚だ遺憾だが、小川には今度何か奢ってやらねばなるまい。


*   *   *


 最初に無銭飲食したときは、仕事のことで頭がいっぱいで、会計するのも忘れてレジを素通りしていた。後になって気がつき慌てて支払いに戻ったのだが、そのとき食い逃げがやたら簡単に行えることに気づいてしまった。

 池田は大手企業の常務取締役である。金も地位もある。ここまで上り詰めるのに大変な苦労があった。

 だからというわけではないが、たかだか一食分の会計をちょろまかしても構わないのではないか、そう考えた。たとえ店員に見つかり咎められたとしてもついうっかり忘れてしまったと言えば許されるのではないか、そう考えた。

 最初の無銭飲食で成功した日は雨が降っていた。一歩大通りに入り傘を開けば、すぐにも通行人に紛れ込める。今まで思いもしなかったから気づかなかったが、そうか、背広を着て傘を開けばどんな人間も有象無象の一部になるのだ。貴賤も貧富も関係ない。すべてまとめてサラリーマンだ。我が強すぎて凝り固まっていた価値観にすきま風が吹き抜けたような感覚に陥る。池田は自らを解放する術を食い逃げに見出してしまった。

 食い逃げに成功すると公私ともに順風となった。偶然ではない、きっと程良い緊張感がエネルギーに変換され、無意識に環境を改善しているのだ。三度目を終えたときにはもう、この犯罪にのめり込んでいることを自覚した。

『――偶には羽目を外したくなるんでしょう。中毒みたいなものです』

 言い当てられて、どきりとした。

 おそらく『天昇』でも食い逃げが成功していたら、自分はこのスリルと魔性に完全に取り憑かれていたはずだ。そして、いつかは失敗して警察に捕まり地位も名誉も失う羽目になる。恐ろしい。ちょっと考えればわかりそうなことじゃないか。もうこんなことはやめにしよう。無銭飲食を働いた三軒の店にも謝罪しに行こうと決めた。

 紺色の傘は五万円もする高級品だった。

 そんな傘を差す人間が、大企業の重役が、よもや食い逃げの真っ最中だとは誰も思うまい、そう心のどこかで驕っていた。コンビニの安傘であったなら、あるいは間違いを起こさずに済んだかもしれない。

『天昇』を出ると雨は上がっていた。

 固まっていた黒雲は散り散りに。間もなく雲間から日差しが差し込みそうな空模様。

 もう傘を差す必要はない。


(了)



帰宅途中によくある風景


 主人曰く、『行きはよいよい、帰りは恐い』。


 有名な童謡の一節であります。これは天神様へのお礼参りの往復を指しているわけですが、しかし、帰り道に恐怖を感じるのは何も歌詞にあるようなお参りに限った話ではありません。そう、会社帰りにも言えるのです。

 いい大人が何を恐がることがある。そう言いたいお気持ちはごもっとも。

 しかし、これは無理からぬこと。老いが進み、肉体は衰え、皺の数も増えてきて、もう自分が若くないことを悟ると、若かったうちはそうでもなかったことが急に恐いと感じ始めるものなのです。

 小生ら猫にも言えることですが、若いうちは比較的恐いもの知らずであります。親の庇護の下、何にだってなれると希望を持ち、世界のすべてが自分を中心に回っていると錯覚しています。充実していればしているほど我は強くなる一方で、それが集団で固まろうものなら恐いものなど皆無に等しくなりましょう。非行少年がわかりやすい。いつの時代も、人も猫も、世に憚るのは不良と呼ばれた彼らなのです。

 何者にも成れていないということは、背負っているものが少ないということ。社会的立場や責任などに頓着しない向こう見ずさが、しばしば彼らを感情に走らせます。失うものが無ければ平気で無茶もできる。たとえそれが犯罪であろうとも遊び半分でやってしまえるのが若者の特性。いや、特権でありましょうか。若さゆえの過ちと言えば何もかもが許されるわけではありますまいが、彼らは意図的にそれらを免罪符にしているのです。哀れ、その無茶をこなして迷惑を被るのはいつも周囲の大人たちでありました。親はもちろんのこと、学校の教師や地域の自警団、果ては警察官までが非行少年の指導に苦労を強いられております。

 とはいえ、彼らは日本の未来への財産。かつて子供だった大人たちは、昔の自分を見るかのような寛大さで彼らの更生に努めるのであります。いやはや、小生にも「なめ猫」と恐れられた時代があった故、若い衆を見るにつけ、気恥ずかしくなる気持ち、よぅくわかります。

 時代は移ろい、世代は変わり……。かつて恐いもの知らずだった子供たちは中高年と呼ばれるようになり、それなりに社会的立場と責任を背負って生きるようになりました。今ではもう昔のような無茶はできないし、そんな元気ももちろんありません。ただ日々を平穏に慎ましやかに生きていければそれでいいのです。

「あの頃とは違うのだ。あの頃に欲したような危険が伴う刺激なんてもう要らない」

 昔のことは棚に上げ、我が子も近所の子供たちも頼むから問題を起こしてくれるな、と切に願うばかりです。いまや向こう見ずな若さが何より恐い。

 行きはよいよい、帰りは怖い。

 中高年サラリーマンの夜道の一人歩きは極力避けるべきであります。いくら糞の役にも立たない超能力をお持ちとはいえ、油断大敵、主人も十分お気をつけくださいませ。若さゆえの過ちがいつ牙をむくかわかりませぬ故。

 すなわち、オヤジ狩りであります。


*   *   *


 私、千川兆介の朝はいつも憂鬱である。

「お、お、……重いっ。毎朝毎朝、このおデブちゃんめ」

 飼い猫の楽京に乗られた重みで目が覚めたなら、まずは枕カバーを確認する。抜け毛のチェックだ。私はとても寝相が良く、端から見れば死んだかのように身動ぎ一つしないらしい。当然頭の位置も寝入った瞬間から大して移動しないので、抜け毛があっても枕から溢れ落ちることはなかった。つまり、目視のみで抜け毛を数えられるのだ。掛け布団を捲って隅々まで探索せずとも把握できたものが実数となる。見落としは端から考慮しない。

「ひぃ、ふぅ、みぃ」

 楽京と並んで座り、一緒になって抜け毛を数える。

 このとき私はなぜか正座になる。癖だった。おそらく恐縮することで抜け毛さまのお怒りを鎮め脱毛を極力減らせるのではないか、そんないじましい考えが無意識のうちに現れているからだろう。……ふっ、何を言っているのだろうな、私は。

「にじゅう……いち、か」

 これを多いと取るか少ないと取るか、微妙なところだ。人間なら誰しも一晩のうちに二十本くらいなら普通に抜けるらしい。一日平均五十~百本は抜けると言うし、そう考えればこの二十一本の抜け毛たちは抜けるべくして抜けた必要な犠牲であったというわけだ。悲しむことはない。天寿を全うした尊い命だ、ただただ感謝の念を抱きつつ一本一本丁重に弔って差し上げなければ。

「あなた、何やってるの?」

 振り向けば妻がいた。楽京が侵入したときに開いたわずかな襖の隙間から、我が麗しの妻が覗き込んでいた。今朝も可憐なエプロン姿を披露してくれている。朝食の支度をし、熟睡する私を優しく起こしてくれるのは新婚当時から欠かさない妻の習慣である。それだけでも私は果報者だ。良き妻を貰ったものだとしみじみ思う。

「何拝んでるの? 気持ち悪いわね」

 だが妻は、合掌する私を薄気味悪いものを見たかのような引き顔で眺めていた。良き妻ではあるが、この私の、中高年男性の毛髪に関する憂いを察してくれないところにはやや不満を感じる。気持ち悪いとは随分な言い草ではないか。抜け毛さまがお怒りにならなければよいのだが。

 せめて無礼な物言いだけは撤回させようと体の向きを変えた。

「あの、あのね」

「寝惚けてないでさっさと起きて。会社に遅れるわよ」

 ぴしゃりと襖を閉じられる。布団の上で、私は正座の姿勢のまま取り残された。

「……よっこいしょ」

 起きることにしよう。会社に遅れるのだけはまずい。まさしく後ろ髪引かれる思いだが、頭皮から離れた彼らにいつまでも未練を抱えていてはならない。私は今後を共に生きる残された者たちにだけ愛情を注ごうと、心を鬼にした。……許せ、おまえたち! 願わくは、我が頭皮に再び生え変わらんことを……!

 そして、おはよう。残された者たちよ。今日も格好良く整えてやるからな。

 洗面所に入る。洗面台の前に立ち、私はいつもするように収納棚の定位置に置かれたマイブラシに手を伸ばした。

 楽京が、にゃあ、と鳴く。今朝は珍しく私の足下に絡みついてきた。いつもなら朝食に向かってまっしぐらなのに。

「何だい? 僕の顔に何かついてる? 痛っ、足を引っ掻くのやめて!」

 そのとき、ふと鏡が視界に入った。私は驚きのあまり思わず二度見してしまった。

 私の顔が映っている。昨日と何ら変わらない薄毛の中年男がぽかんと口を開けていた。そうだ、私は驚いたとき口を半開きにする癖がある。アホ面を晒した私はいつもどおりであるが、しかし頭部がいつもと違っていた。

 髪の毛の量が、じゃない。

 一箇所だけ不自然な膨らみがあったのだ。

 そこにそっと触れてみる。――痛いっ!? こ、これって、もしや。

「タンコブが出来てんじゃないの!?」

 おでこのところにぷっくりと大きなたんこぶがあった。

 全然気づかなかった。いつの間に出来たのか。頭を打った覚えもない。

 一体、いつから。

「――はて。そういえば、昨晩はどうやって家まで帰ってきたんだっけ?」



 私こと、千川兆介は「感応透視能力」を持つ超能力者である。

 物体に付いた『傷』に触れることで、その『傷』が出来た経緯、原因、そして結果を追体験したかのように把握することができた。有機物や無機物、動植物だろうと人体だろうと関係無く、『傷』であればそれにまつわる〝記憶〟を読み取れるという、そんな何の足しにもならない超能力を備えているのだ。不本意ながら。

 なぜ『傷』だけに限定されているのかわからないが、この能力のおかげで私は何度も見たくもない映像を視せられてきた。『傷』が出来る経緯なんて大概が痛そうな接触事故である。たとえ物に付いた『傷』であろうと、それが出来たときの衝撃――痛みは人体に付くものと変わらない。追体験する私は毎度毎度肝を冷やしている。

 無意識に発動してしまうところもまたこの能力の意地の悪いところであった。私は自分の能力にさえ振り回され、おちょくられているのだ。まったく、宿主を馬鹿にしおって。発動してほしいときに発動したことなんて今の今まで一度もないくせに。

 そう。いざ視たいと思ったときに限ってこの能力は発動してくれなかった。それどころか、どうやら余計な副作用まで与えてくれていた。

 私は、私の体に出来た『傷』の〝記憶〟を綺麗さっぱり忘れてしまうのだ。



「参った。まるで思い出せない」

 たんこぶが出来た経緯がすっぱり消えている。これはちょっとした恐怖だ。泥酔して記憶が飛んだことのある人にならこの気持ちもわかるのだろうか。私の場合、酒を飲んでいなくても『傷』さえ付けば記憶が飛んじゃうのだけれども。

 たんこぶが出来たことで前後の記憶がなくなっていた。

 まあ、逆に考えれば、思い出せない時間帯にこのたんこぶをこさえたということになるが。まったく、他人の『傷』には敏感なのに。不便な能力である。

「おまえもそう思うだろう?」

 楽京に問うも、私の顔を眺めるのにも飽きたのか、のっそりとリビングに向かった。

「ふふ……」

 さて、昨日一日を振り返ってみよう。ふむ。会社に居る間にあった出来事は問題なく思い出せる。部下の小川に悪意なく嫌みを言われ、女子社員には何やら小馬鹿にされたように笑われた。――ああ、思い出したらムカムカしてきた。そうそう、こんな気持ちで終わりまで業務をこなし、午後七時頃に退勤し、帰宅ラッシュの電車に嫌々乗ったのだっけ。

 記憶が怪しいのは、我が家の最寄り駅に降り立った辺りからだ。ノイズに掻き乱されるようにはっきりしない。何かがあった気がする。ただ石に躓いて転んで頭をぶつけただけとは思えない。私は確かにマヌケであるが、この能力はそんなつまらないことで発動したりしないはずだ。

 何か、私がショッキングに思う出来事があったのだ。

 記憶から消し去りたいと願うほどの『傷をこさえた原因』が――。

「ちょっと! 兆介! さっさとご飯食べてよ、もう! テーブル片付けらんないじゃない! って、何でまだ着替えてないのよ!?」

 妻が怒鳴り込んできた。まだ毛髪さえ整えていない私に舌打ちし、「ほんとグズなんだから!」とても感情の籠もった罵倒を言い放った。そのときの妻の顔ときたら。一緒になって十九年余り、悟り切っている私は涼やかな心で受け流す。

「ご、ごめんなさい」

 怒れる妻を前にすれば額のたんこぶなんて些事にも等しい。急いで支度せねば。

 今日もまた、髪を満足にセットできずに出社する羽目になりそうだ。

 しかしまあ、何があったか知らないが、たんこぶが出来た場所が額であったのは不幸中の幸いであろう。側頭部や後頭部のまだ毛が十分生え残っている場所であったら、髪にどんな悪影響があったか知れない。まだ運が良い方だ、そう思うことにしよう。

 などと、悠長に毛髪の心配ばかりしている場合ではなかった。事はもっと死活的であったことを、私は家を出る直前に思い知らされるのである。

 洗面を終え、朝食を緑茶で流し込むように頂戴し、背広に袖を通したときである。ふと小さな違和感を覚えると共に、電流が走ったかのように悪寒が背中を駆け抜けた。

 背広の左内側のポケットに、あるべき膨らみが無かったのである。

「――無い。……無い、無い? 無い!?」

 スーツのポケットを手当たり次第漁った。背広もズボンも脱いで逆さまに振ってみた。鞄の中身も床に全部ぶちまけた。しかし、出てきた物は定期入れと皺が寄ったレシートと仕事道具に関連書類ばかり。何度も何度も掻き分けて探してみたが、やはり無い。

 肝心の財布が無い。

 一月分のお小遣い(昼食代含む)が入った財布が。

 ど、ど、どこにも無い!?

「……おおお」

 なんということだ。一番失ってはならない物を失くしてしまうなんて。

 カード入れは別にあり、運転免許証や保険証、クレジットカードなどは無事である。だが、私の生命線である現金が! お小遣いが! 失われてしまった! いや、先月分の昼食代を切り詰めて貯めたなけなしのヘソクリも入っていたのだ、被害は一月分のお小遣いだけに収まらない。私の血と汗と涙の結晶でもあったのだ。それを失くしてしまうなどと……!

「僕のバカ、バカ、バカ」

 こつこつと頭を叩く。触れたら痛い額のたんこぶは避けて。

 そして、さめざめ泣いた。

「なぜこんなことに……」

 きっと、失われた記憶と関連している。

 額にたんこぶをこさえたその出来事が、私が財布を手放すというあり得ない事態を招いたのだ。私がショッキングに思うことが条件ならばそれで間違いなかろう。

 昨夜、何があったのか。

 一体、どうして財布を失くしたのか。

 私は、どんな地獄を見たというのか。

 そのとき、背後で「いやああああっ!?」という、まるで黒い害虫を見つけたかのような金切り声が轟いた。振り返ると、そこには起き出してきた下の娘が居た。

「お母さん! お父さんが玄関でパンツ一丁になってるーっ! もうやだーっ!」

 下の娘は今にも泣きそうな悲鳴を上げて台所へ飛んでいった。……もう嫌だと泣き出したいのはむしろお父さんの方だ。「兆介ぇえ!」ほら、やっぱり。この上、妻に説教までされなければならないなんて。泣きっ面に蜂である。

 財布を見つけ出さねば――。

 妻に怒られながら、私はメラメラと闘志を燃やした。



 妻には財布を失くしたことを秘密にした。火に油を注ぐことになりかねないからだ。それに、財布まで管理下に置かれてしまう恐れもあった。そんなのは御免だ。私に死ねと言うのか。いや、彼女なら嬉々として言うだろう。愛情の深さ故に。

 というわけで、自力で探す。警察に届け出ても意味は無い。私の物であることを証明する手掛かりがあの財布には入っていないし、仮に財布が届けられ、のちに私の物であると照合できたとしても、万が一自宅に連絡が行けば財布を紛失したことを妻に知られかねないからだ。そのような危ない橋を渡るくらいなら、次のお小遣いを貰うまで昼食抜きで過ごした方がマシである。

 行き掛けは時間が無かったので丁寧に探すことができなかった。

 仕事中は上の空。加えて、昼食を抜いたものだからずっとお腹は鳴りっぱなし。恥ずかしい。情けない。逃げ出したい。いつも以上に部下たちの私を見る目に侮蔑が籠もっている気がした。被害妄想かもしれないが、小川の素っ気ない態度も普段より拍車が掛かって見えた。胸が痛い。

 財布さえ見つかれば――。私は威厳さえ取り戻せるような気がした。

 就業時間が過ぎ、残業を終えた私は飛び出すように会社を出た。

 住まいがある町に降り立った私は、一応駅舎の案内所で財布が届けられていないことを確認した後、家路の路上を探索した。隅から隅まで見て歩いた。普段歩かないところまで丹念に。郊外ゆえに外灯の数が少なく、路上はとても暗い。自然と前のめりになる。腰を屈めすぎてもはや四足歩行の態であったが、構わない。外聞を気にしている場合ではないのだ。恥なら生まれたときから掻いている。今さら取り繕うものなどありはしない。

「あー、娘の同級生に知られるのはまずいかなあ」

 それが原因で学校で虐められたりしたら可哀相だな。しかし、許せよ娘たち。お父さんは生きるか死ぬかの瀬戸際に居るのだ。道端で這いつくばるのも仕方ないのだ。

 ヤモリのようにうねうねと路上を這っていると、突然パチンと脳が刺激された。

 その視界に見覚えがある気がしたのだ。

 もちろん私は、普段は路上で這いつくばるような真似はしないので、この低姿勢から見上げる景色に見覚えあるはずがない。あるとすれば、転んで見上げたときだけだ。つまり、いま正にしている姿勢が、昨夜の状況を再現していた。

 目の前には電柱がある。

 ここにおでこをぶつけたらしい。

「解せぬ」

 つい時代劇口調になってしまったが、それというのも私が大の池波正太郎ファンであることに起因しており、いやそれはともかくとして、少々納得いかない状況にぶち当たった。

 昨日の私はどうやらこの辺りで躓くなりして盛大に転び、正面にあったこの電柱に額をぶつけてたんこぶをこさえ、記憶を飛ばした。そういうことらしい。

 解せないのは電柱が立っている場所である。この道は一方通行の車道で、歩道は片側にしかなく、問題の電柱は反対側の民家の塀に沿った車道の中にはみ出す形で立っているのだ。つまり、昨夜の私はガードレールを乗り越えて、背後からやって来るかもしれない車を気にも留めずに電柱にアタックしたということになる。馬鹿な。いくら私でも、いや、私だからこそ、そんな大胆な真似ができようはずがない。まずガードレールを乗り越えようという発想がない。だって車は恐いもの。自分のことだ。断言できる。そんじょそこらの小心者と一緒にするな。

 しかし、ここで間違いなさそうだった。

 自分が信じられない。車道に飛び出すような子にだけは育てまいとしていた母をついに裏切ってしまったようだ。大人しいだけが取り柄だったのに。この年でやんちゃなことをしでかしただなんて、世間様にも顔向けできない。まさかまだ取り繕うべき外聞が残っていたとは驚きだ。私は自分を恥ずかしく思う。

「車道を歩くなんて不良のやることだよ」

 私は不良と呼ばれる人種が大の苦手だ。あんなふうにはなるまいと反面教師にしてきたのに。それとも、実は憧れの裏返しだったのだろうか。

 そうなのだとしたら、まったく、私もまだまだ若い。

「あのー」

 外灯の明かりが届かぬ暗闇に居た誰かが声を掛けてきた。私はその接近に気づかなかったので大いに驚いたが、相手も電柱に抱きつく中年を怪訝そうに眺めていた。

「あ、やっぱり。昨日のオッサンだ」

 若い少年だった。高校生くらいだろうか。今時の若者らしいファッションで、やや尖った感じだ。アメリカンスタイルというのかな。だらしなく着崩して、ジャラジャラと鎖みたいなのをいっぱいぶら下げるのがオシャレなのだ。前に観たテレビでそう言っていた。

「何やってんの、それ。もしかして電柱上ろうとしてんの? パネエ! マジウケる! このおっさんマジキモッ! 昨日も盛大に自爆してたし、チョーウケる!」

「……」

 そして、この手のスタイルの少年は、非行に走っている傾向にあるという。

 よくわからないテンションでよくわからない若者言葉を用いているが、しかし馬鹿にされていることだけはわかった。

「あー、笑った。見つかってよかった。みんなに知らせよ」

 少年が携帯電話を取り出した。

「!?」

 その瞬間、私はすべてを悟った。そして、一目散に駆け出していた。

 これはすなわち世に言う『オヤジ狩り』なのだ。

「ひぃいいいえええええぇぇぇぇええええええ!?」

「あ、待てよオッサン!?」

 待つわけがない。捕まれば死ぬよりも辛い目に遭わされることを私はよく知っている。仲間を呼ばれる前に隠れなければ。死に物狂いでアスファルトを蹴った。

 オヤジ狩りのターゲットは善良なおっさんだ。内容はお金目当てだったり、憂さ晴らしだったり、少女の色香を使った美人局だったりとバラエティに富んでいるが、要はか弱いおっさんをいたぶって楽しもうという野蛮なお遊びなのである。

 奴らは常に群れで動いて獲物を追跡し、囲んでいく。それはあたかもオオカミの狩りのようであり、草食系で単独行動を取りやすいおっさんのまさに天敵であった。

 逃げねば。

「待てっつってんだろ! 止まれってば! またこのパターンかよ!?」

 少年が慌てて後を追ってくる。ノロマな私では若者の足に敵うはずもなく、間もなく追いつかれることだろう。しかしである、私もただ闇雲に逃げ惑っているわけではない。秘策があるのだ。

 実は、いつ『オヤジ狩り』に遭ってもいいようにと何度もシミュレーションしていたのである。もし若者に追われることがあったなら、私は初めから自力で逃げ切ろうなどという無謀なことは考えていなかった。そのときは民家に逃げ込むか、民家が無ければ大声で助けを求める手段を取ろうと決めていた。他力本願こそが私を救う唯一の方法である。

 ついにイメトレの成果を試すときがやって来た。

 いざ、口元に両手を添えて、閑静な住宅街に呼びかけた。

「だ、だれか、たしゅけ、たしゅけえええ……っ!」

 まずい。口が乾いて舌が回らない。それに、いざとなると他人の民家に飛び込むことに抵抗がある。知らない人の敷地に勝手に入るなんて泥棒と一緒じゃないか!

 その上、闇雲に走ったせいで自宅から遠ざかってしまった。どこだここは!? 見覚えないぞ!?

 次第に足は重くなり、息も上がり、結局つんのめって倒れてしまった。

 少年は追いつくと、軽く息を切らしながら煩わしそうに私の後ろ襟を掴んだ。

「ふざけやがって。マジでぶち殺してやろうかな、こいつ。オラ、立てよオッサン。うおっ!?」

「うにゃああああ!」

 私は暴れた。四肢を投げ出し、赤ん坊がぐずるようにして激しく暴れた。この方法は、以前、次女に悪戯された楽京が必死に抵抗している姿からヒントを得ている。

 さあ、殺せ。殺すがいい。やれるものならやってみろ。だが、ただでは死なんぞ。目一杯抗ってやる。こうして駄々っ子よろしく寝転がっていれば、立たされたり殴られたりする心配はないし、安全だ。

 少年は私の動きに意表を突かれたのか、一歩後退った。おおっ、まさか怯んだのか!? もしかして、生まれて初めて喧嘩に勝てちゃう!?

「キモッ! ンだよ、こいつ。イカレてんのか?」

 一度は距離を取ったものの、少年は再び接近し、嫌がりながらも私を無理やり立たせようとする。

「うにゃ、うにゃ、うにゃああ!」

 らっきょよ! 私に力を貸してくれ!

「いい加減にしろ! 大の大人がダセエことしてんな!」

 今度は襟首を掴まれ引き起こされた。殴られる――、咄嗟に顔面をガードした。すると、眼前で交差させた手が誤って少年の頬を叩いていた。「テメッ」青筋を浮かべる少年。「ひぃい」青ざめる私。

 少年が怒りを爆発させるその瞬間、私の意識に濁流が押し寄せた。ごちゃごちゃに絡まる記憶の渦。能力が発動したのだと気づいたときにはもう、私の脳内には少年の頬にある『傷』の詳細が映像と共にインプットされてしまった。

 少年は、山際両という名の中学生だった。


*   *   *


 頬に傷が出来るまでの経緯が暴かれた。

 それにはまず少年の背景を描く必要がある。

 山際両は勉強が嫌いなごく一般的な中学三年生である。近頃は無理やり通わされた塾をサボりがちで、毎晩のように母親と口論になった。

「いま勉強しておかないと後で絶対後悔するわよ!」

 母親は熱心な教育者というわけではないのだが、前の三者面談で担任に脅されて以来勉強しろとうるさくなった。両は家に居るのに嫌気が差し、ゲームセンターに入り浸っては夜遊びするようになる。

 そして昨日の晩のこと、ついに父親が口を出してきた。母さんに心配を掛けさせるんじゃない、と説教を垂れ、如何に勉学が社会に出てから大事であるかをくどくど語った。

「――だからな、いま勉強しておかないと立派な大人になれないんだぞ」

 疲れ切った顔、よれよれのスーツ、ほとんどボーナスが出ない会社でやりがいのない仕事をただこなしているだけのつまらない大人。アンタだって一生懸命勉強して大学出て、それなのに今の仕事に就いているんだろ? 満足していないことくらい見ていればわかるよ。どこが立派な大人だっつーの。勉強したってアンタみたいにしかなれないのなら、今を充実させた方が遥かにマシだろうよ。後で後悔しないようにな。

「テメエにだけは言われたくねえんだよ! 俺はテメエみてえにはならねえぞ!」

 そう啖呵を切ると、初めて父親に殴られた。

 それから取っ組み合いの喧嘩になったが、呆気なくねじ伏せられた。

 頬に出来た『傷』が一部始終を眺めている。


 両は家を飛び出した。悔しくて堪らない。あんなにダサい大人にさえ勝てない自分があまりにも滑稽で、死にたくなった。自販機で買ったジュースが口内の傷口に染みた。ちくしょう。ムシャクシャする。憂さ晴らしにまたゲーセン行くか。でも、遊ぶ気分じゃないし、小遣いもそんなに残ってない。ったく、本当に情けねえ。あの父親の稼ぎじゃこんなもんだよな。

 くそ、くそ、くそ、くそ。

 頬に出来た『傷』が一部始終を眺めている。

 両が歩く道の先に帰宅途中のサラリーマンが居た。禿げていて、父親よりも一回り歳がいっていそう。小さい体格に猫背で動かす足も頼りない。見るからに弱そうだ。

「おい、オッサン。ちょっとお小遣いくんない?」

 どうにでもなれ、という気持ちも少なからずあった。事件の一つでも起こして両親に意趣返しするのも悪くない。内申とか進路とか、知ったことか。

 オッサンの肩に触れたとき、オッサンは奇声を発して駆け出した。ガードレールを乗り越え、ねずみ花火みたいに無軌道に走り回って、電柱に衝突した。

 呆気に取られている間にも、オッサンは再び起き上がるとまたもや奇声を上げて駆けていった。可笑しくなった。思わず、頬の痛みも忘れてしまった。

「何だありゃ! 変なオッサン!」

 ひとしきり笑った後、足元に財布が落ちているのに気がついた。


*   *   *


「ぶはあっ」

 引き摺りこまれた水中からようやく顔を出せた気分だった。ほんの一秒にも満たない時間だったろうが、私は少年の数日間を丸ごと把握してしまっていた。

 まさか、この少年にこんな事情があったとは。

「……」

 黙って立ち上がる。私の迫力に圧されたのか、少年は数歩後退った。

「な、何だよ、急に。やんのかよ?」

 私の娘たちとさほど変わらない年の子供。そう考えると、非行少年とひとくくりにして恐れるものではない気がした。

 当たり前だが少年にも両親が居て、子供らしく反抗期を全力で過ごしているのだ。将来への不安があった、現状への不満があった。捻くれたとしてどうして少年を責めることができようか。親子ですれ違うのはとても哀しいこと。頼りたくても素直になれず、憎まれ口をついつい叩いてしまう。その気持ちはよくわかる。少年は、本当はどうしてよいのかわからないのだろう。出口の見えない恐怖に付き纏われ、だから非行に走ることで自分をアッピールしたのだ。救いを求めたのだ。

 私もひとりの親として、少年と少年の父親の気持ちが痛いほどよくわかった。

 私だって娘を想うと何が正解かわからなくなる。

 いま、この少年も迷っているのだ。

 ならば、寛大な気持ちで少年の行いを許してやり、正しい道に導いてあげることこそが大人の責務ではないだろうか。

「ふひっ」

 しかし、……しかしである。

 そんなことはどうでもいいのだ。

「きぃいさまの仕業かァアア!? 返せ! 私の六五〇〇円を返せぇ!」

 私にとっての一大事は他人の親子喧嘩よりも財布の中身だ!

 返せ! 私の全財産を返せぇええ!

「うにゃああああ!」

 私は飛びかかった。蛮勇を奮い、財布を奪還せんと少年に襲いかかった。

 目測を誤り、少年の正面で着地した私は、反撃を恐れて咄嗟に亀のように縮こまった。

「うにゃああああ!」

 ごめんなさい! 蹴らないで! 実は喧嘩なんてしたことないんです!

 しばらく頭を抱えて身構えていたが、一向に少年からの暴行はなかった。代わりに、呆れた声が降ってきた。

「さっきから何がしたいんだっつーの。……ほらよ」

 地面にポトリと黒い財布が落とされた。……これは、わ、私の財布だ! 慌てて両手で掴み取り、中身を確かめる。ひぃ、ふぅ、みぃ、の、――六五二二円。ちゃんとある。戻ってきた! 私のカワイイ財布ちゃん!

「昨日落としたろ。警察に届けようと思ったけど、身分証明書みたいなの一つも入ってなかったから直接手渡した方が早いかと思ってさ、待ち伏せしてたんだ」

「おお、おお……」

 そうだったのか。なんていい子なんだ。最初はオヤジ狩りするつもりだったのだろうけど、根は優しい子だったんだな。うんうん、おじさん疑って悪かったよ。でも、もう一度金額の確認をしておこう。見落としがあったらまずいからね。――六五二二円。うん。やっぱりある。盗られてない。いい子だ。

「財布渡すだけなのにマジ疲れた。あーあ、これで六五〇円って割に合わないよな。ま、いいや。面白いもん見れたし。はい」

 少年が片手を差し出してきた。握手でもしたいのかしらん。しかし、この状況で握手もなかろう。私は首を傾げた。

「いやいや、惚けんなよ。一割だろ。財布拾ってやったんだから報酬くれよ」

「……なんと」

 驚いた。まさかこんな手を使ってくるとは。最近の若者はやはり油断ならない。

 一割……、一割か……。昼食代の上限より一五〇円も多い、一割。むむむ……。

 そ、そうだな。全額返ってきたことを思えば六五〇円くらいわけないか。

 私は千円札を握り締めた。

「ぐ、んぎぎぎぎぎ」

 駄目だ! 少年の掌の上に来ると、どうしても指が開いてくれない。だって、六五〇円だぞ!? 中学生には過ぎた小遣いだろうに。

 それに、この少年がきちんと三五〇円を返してくれるかわからないじゃないか!?

「ンだよ。親切に届けてやったっつーのによ。一割くらいで大袈裟なんだよ。重く考えすぎなんだっつーの」

「サラリーマンが汗水垂らして稼いだ金だよ! 軽いわけないじゃないの!?」

「……」

 だがまあ、少年の言うことももっともだな。親切には親切で返さないといけない。母にいつも言われてきたことじゃないか。私は親不孝な真似だけはしたくなかった。

 寛大になろうじゃないか。

 六五〇円と言わずに一〇〇〇円くらいあげろよ、兆介。

「………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………ひ、拾ってくれて、あ、ありが、」

「もういいよ」

 少年が片手を引っ込めた。「こっちが哀しくなってきた」そう言って、切なそうな顔をした。どうしたことだろう。まさかここにきて大人を相手にしていることに怖じ気づいたのか。ふふん。そういうことなら仕方ない。まったく、子供らしくて可愛いじゃないか。私は急いで千円札を財布に戻した。

「用も済んだし、もう行くわ」

「あ、うん。お気をつけて。――あ、お父さんと仲良くね」

「は?」

 しまった。先ほどの記憶に引っ張られてつい余計なことを口走ってしまった。

 誤魔化すように。

「わ、私にも娘が居てね。ちゅ、中三のね。最近、あまり会話してなくて寂しくて。そういう思いはよそのお父さんには味わってほしくないなあ、なんてね。ほら、お父さんっていつも家族のために頑張って働いているんだし。だから、わかってあげてほしいなあって」

 早口で捲し立てながら、まさしく娘に言い聞かせたい台詞になった。

 お父さんは少ない小遣いで頑張っているんだぞ。

 だから、あまり邪険にしないで。

「大きなお世話だ!」

 そして、少年は歩き出す。

 彼の家とは反対方向に。

 一体どこに向かっているのやら。

 まあいいか。財布も無事に戻ってきたことだし、昨日の失われた記憶についても解明できた。

 私は晴れ晴れとした気持ちで家路に着こうとして――。

「ちょ、ちょっと君、待って! ここどこかな!? 駅までの道を教えて!」

 少年には終始呆れられながらも、私の小さな戦いはこうして幕を閉じた。



 翌々日、今日も今日とて爽やかな朝を迎えた。あの晩以来、どうしたわけか毛髪の具合も快調で、抜け毛さまにおきましては出立する割合も減ってきている。

 心なしか妻の機嫌も良いようで、罵倒される頻度も少なくなった。

 楽京にも世話になった。おかずの白身魚をちょっとだけ分けてあげよう。ふふっ、美味しそうに頬張って、可愛い奴め。

 ああ、幸せだなあ。こんな慎ましやかな日常をこそ私は求めていたのだ。

 この調子なら、きっと娘も私を邪険にしないでくれるだろう。

「ごちそうさま。行ってきます」

 娘は食器を流し台に自ら運び込むと、洗い物をしている妻にだけそう言ってさっさとリビングを出て行った。

 私の顔を見ようともせずに。

「あの子、学校でからかわれたらしいわよ」

「何!? イジメか!?」

「違う。はーっ、兆介みたいな恥ずかしい父親を持って可哀相ね」

 よくわからないが。

 私は下の娘に邪険にされなくなった代わりに、一週間以上無視され続けた。


*   *   *


 おっさんと別れた後、両は通っている塾に向かった。

 玄関の前で待つこと一時間、授業を終えた生徒たちが出てきた。

 その中に級友たちの姿もあった。

「あれ、リョウ? サボったんじゃないの? つか、サボっといて何で来たの?」

「そうだよ! あと、授業中に電話してくんなよ! 出れるわけないじゃん!」

「メール打ったろ?」

「同じだよ、バカ! 『面白いオッサンがいる! 全員集合!』じゃねえっての! 行けるかよ! せめて写メ送れよな!」

「いいぜ、今度直に見せてやるよ。絶対笑うから!」

 今さら思い出したけど、昔、あのオッサンを見たことがある。小学校のときの運動会で、一際異彩を放って子供たちの笑いの種にされていた。そして、同じ学区に住んでいる姉妹が妙に恥ずかしがっていたのを覚えている。妹の方は、クラスは違うが同級生だった。

「あれって、千川んちの父ちゃんだよな。明日、学校で訊いてみよ」

 おまえの父ちゃんヤモリのモノマネ上手いよな――、って。

 届けた財布の一割もくれなかったケチな大人には、これくらいしても罰は当たらないだろう。せいぜい、父娘関係がギクシャクすればいいさ。

 仲間たちと連れ立って夜道を歩く。その中のひとりが遠慮がちに言った。

「明日実力テストがあるけど。……まあ、リョウが来たくないなら来なくてもいいんじゃね?」

 気の置けない彼らには両の事情もそれとなく教えている。

「……塾って授業料高いんだよな」

「は? 何だって?」

「明日からちゃんと通うって言ったんだよ」

 別に両親への感謝の気持ちとか罪悪感だとか、そんなんじゃない。父親が汗水垂らして働くなんて当たり前じゃん。いちいち感動なんかするかっての。

 将来への不安も現状への不満も何も解決できていない。

 勉強したって、どうせ大嫌いな父親みたいにしかなれないんだ。

 でも、

「勉強はさ、やっぱりちゃんとしといた方が良いよな」

 だって、ほら。あのオッサンみたいにはなりたくないじゃん?


(了)