ずっと伝えたいことがある。

 それは好きということに似ているけれど、もっと自己中心的で、非道徳的で。

 だから、口にすることができないでいる。



 お茶の粉がお湯に溶ける匂いがする。私はそれに気づかないフリをして、カウンターの頬杖を崩さない。開いた文庫本の文字が、半分も目に入らなくなっていた。

 棚には所狭しと、茶葉の筒が並べられている。緑茶に紅茶、夏には麦茶も置く。

 表の黄緑色の屋根には『茶』と書いてあるだけだ。お客さんが入ってくるところにほとんど出会さないけど商売替えしないで今に至るあたり、なんとかなっているのかもしれない。

 その狭い店内はなるほど確かにお茶の匂いでいっぱいなのだった。

 冬枯れの季節、締めきっているはずの店にどこからか隙間風が入り込む。町中に建つお茶屋は古くからの伝統を守りつつ軋んでいた。向かい側の病院は周りの建物から養分でも吸い取るように、独り大きくなっていく。そして吸われた方は当然、枯れるように色褪せていく。

 でもその淡い雰囲気と独特の匂いが混じると、不思議に落ち着きを覚えるのだった。

 休日は親類の店でバイトの真似事をしている。時給は本当にわずかだ。

 なぜそんなことをしていると誰かに聞かれたら、暇だからと言い訳する。

 少しでも貯金しておこうと言い訳する。

 でも本格的に働くのは辛いからと言い訳する。

 目的は別にあった。

 その気配を感じて、顔を上げる。

 艶やかな栗色の髪の先端が、真っ先に目に入った。

「お茶飲む?」

「あ、はい」

 頬杖から顎を離して返事する。おいでというように小さく手招きしてから奥に消えた。慌てて立ち上がろうとして膝を打った。下唇を噛んで痛みに耐えてから、奥に向かう。

 今顔を見せたのは、私の叔母だ。父の妹に当たる。歳は四十近い。

 少なくとも私は美人であると思っている。

 諸処の仕草や物腰からは、憧憬を覚える程度の知性も感じさせた。

 物の雑多に置かれた狭い廊下を抜けて奥の部屋に入る。ガラス戸を開けると、ヒーターの熱風が出迎えた。すぐに戸を閉じる。中ではこたつに座る叔母が、湯飲みから上がる湯気に息を吹きかけていた。

 薄い唇は乾燥して少しひび割れている。俯き、目もとに浮かぶ影が微かな気疲れを描く。湯気のように白い肌は部屋の温度に応じて紅潮し、色合いの地味なニットを首もとまで厚く着込んでいる。寒がりの傾向があると最近知った。

 そして、その瞳。

「………………………………………」

 肌や髪の艶は二十代後半ぐらいが適切ではないかと思ってしまう。光の加減のせいではなく、暗がりで見ても叔母は実年齢を感じさせない。それでいて年齢相応の落ち着きも備えて、歳の近い母と比較しても随分違うものだった。

 この叔母のことが、昔から気になって仕方ない。

 そこには多分たくさんの理由がある。

 家には叔母と私しかいない。店もほっぽっている形になるけど、経営者であるはずの叔母が気に留める様子はなかった。こたつ机を挟んで、向かい合うようにして座る。部屋の隅には叔母がベッド代わりに使っている古めのソファがあり、片づけていない毛布が広がっている。更にその上には、表紙の折れた旅行雑誌や地域情報誌が散らばっていた。

「はいどうぞ」

 叔母が湯飲みを差し出してくる。飛騨牛と書いてあるごつごつした手触りの湯飲みだ。

「ありがとう」

 受け取って、軽く口をつける。強い熱が舌と唇に迫った。

 その後からやってくる味わいに、少し驚く。

「紅茶だ」

 和風の陶器の湯飲みだったので緑茶のイメージが先行していた。

「紅茶が……」

 叔母がなにか言おうとする。けれど、途中で動きが止まった。

 目は開いて、半笑いを浮かべるように見えた。

「あの?」

「まあいいか」

 叔母が目を逸らす。その仕草を見て、ハッとなる。

 叔母の左目は動き、しかし右目はそれに付き合わない。

 取り残されたように、関係のない方向を向いていた。

 目立たなくても、顔の動きが伴わないとそうして違和感が表に出る。

 目を伏せたくなるような。

 もっと強く見つめていたいような。

 痛みがあり、けれどそれに近づこうとしてしまう矛盾した欲求。

 たとえば赤ん坊が意図せず人を殺したらどうなるのだろう?

 法律とかの問題ではなく、赤ん坊が成長して人格が固まり、まったく身に覚えのない過去を知らされてどう向き合うべきなのか。なにかを償わなければいけないのだろうか?

 こんなことを考えている私は、別に人殺しではない。

 だからそこまで大それた話ではない。

 でもそれに少し近いものを、私は背負っている。

 私はこの叔母の右目を奪った。

 らしい。

 私が一歳と二ヶ月かそこらのときの話だ。だから当たり前だけどなにも覚えていない。私と遊んでくれていた叔母の目に玩具の少しだけ尖った部分が突き刺さり、右目の機能を失ったとずっと後で聞いた。その際の手術で黒目が小さくなったので、叔母は義眼を入れている。

 正面から見ていてもどちらの目が義眼なのかと思うくらい、普段の見分けはつかない。叔母も生活には大して支障がないようだった。三日に一度は外して洗わないといけないのが面倒くさいと以前に言っていたけど、それ以上の文句を直接ぶつけられたことはない。

 非難されても困る。でも、叔母は私を責めていいはずの立場だった。

 叔母は、私のことをどう思っているのだろう。

「これ前に飲んだけど、銘柄覚えてる?」

「え? えっと……分かんないです」

「だよね」

 叔母も正解は期待していなかったらしく、軽く流された。そして、音が沈む。

 ヒーターの稼働する音が部屋を静かに満たす。時折、窓が風に揺れた。

 暖かい部屋にあるからか、紅茶はなかなか冷めない。ゆっくりと舌を濡らすように飲む。

 そうしながら時々、叔母に目をやる。叔母は湯飲みを覗くようにして、ぼうっとしていた。

 叔母と私は、あまり喋らない。いや会話はあるけど弾まない。

 少し話すと叔母は口もとを穏やかに閉じてしまうのだ。

 そうすると私も自然、黙って叔母を見つめるほかない。

 以前の叔母はもう少し口数も多かったらしい。しかし例の怪我以来、一層穏やかになってしまったそうだ。それまではなんというか、くだらない冗談を言っては独りだけ楽しむというか……父に言わせると、人前では穏和な性格だったけれど、一人きりになると布団が吹っ飛んだぐらいのレベルのダジャレを思いついたらその場で口にしては笑っているような性格だったらしい。想像もつかない。

 あと、独りだと笑い方が『げっひゃっひゃっひゃ』みたいな感じだったとも聞く。

 そこは変わってよかったんじゃないかと思う。

 いや実はまだ直っていないかもしれないけど。

 どちらにしてもそれを口にする資格は、恐らく私にない。

「みかん好き?」

 いきなり目が合って、いきなり尋ねられて驚く。

「好きですけど」

 答えながら机の上に目をやる。みかんの影も形もない。

「そう。……でもここにはないわ」

「はぁ」

「みかんが……まあいいや」

 またなにか言おうとして、穏やかに目を伏せた。口の端がわずかに笑っているように見える。

「………………………………………」

 まさかみかんがみっつかんない、みっかんないとか……そんなはずはないだろうと思った。

 思った。

 そんなこんながあって、紅茶を飲んだら「今日はもう帰っていいよ」と言われた。

「え、用事ですか?」

「ううん、別に。暗くなる前に帰らせないと兄がうるさいの」

「ああ……そうですね」

 窓に目を向ける。冬の寒さに似つかわしいような曇天の鼠色が景色を占めていた。日が沈むのは追い立てられるように早くなる。今年も一月残っていない。

 冬は叔母といられる時間が減るのだなと知る。

 働き始めたのは夏休みを過ぎてからだった。

 荷物を持って外に出ると、叔母が見送りに来た。中との温度差のせいか、外の風に吹かれて軽く身震いする。その動きに合わせて揺れる髪を、目が自然に追っていた。

「今日も助かったよ」

「座っていただけですけどね」

「それぐらいでいい。忙しいと申し訳ないもの」

 給料安いし、と叔母が小さく笑う。確かに、とても他の人を雇える金額ではない。

 叔母は、私がここに来ることをどう感じているのだろう。

 面と向かって聞いたことはまだない。

「じゃあね。また来週」

「はい」

 頷いて、自転車を動かそうとする。と、そこで右側をすり抜けていく別の自転車に、叔母が大げさに仰け反った。ともすればそのまま転んでしまいそうになるくらいで、すり抜けた方がぶつけたのかと思ってか振り向くぐらいだった。

 まったく気づいていなかったらしい。理由は明白だった、叔母の右側を走っていたからだ。

「びっくりした」

「……そう、ですね」

 姿勢を戻した叔母が左目を細める。それからすぐに前髪を上げていつも通りの顔に戻る。

 もう一度似たような挨拶して、今度こそ自転車のペダルをこぎ始めた。

 走り出すとすぐに、喉と鼻の奥まで冷気に擦られるように乾いた。でも叔母と飲んだ紅茶を思い出すと、奥歯のあたりから少し暖かい唾が滲むようだった。

 帰路を走りながら、考える。

 私が叔母に対して感じるものはなんだろうと、常々考えている。

 記憶の片隅にも残らない過失への負い目?

 それとも、なんというか。もっと、前向きというか。

 ……好意だろうか。

 複雑で幅広で、視界に収まりきらないからなんとも言いきることができない。そのように正体は不明ながら重く大きなものが心を占めて、叔母の存在を常に意識させるのだった。

 家に帰って夜も更けて、風呂上がり。

 髪を乾かす途中、鏡の前で、右目を手で覆う。

 正面の私は問題なく見える。左の瞳だけがきろきろと所在なく動いている。

 じっとしていれば不便はない。でも、目を失うというのは見る側だけの問題ではなく、『見られる』方にも色々あるんじゃないかと思う。詳しくないけれど、それでも想像は広がる。

 十四年前、私は叔母の人生に干渉した。

 覚えていないけれど、大きなことだ。

 私はそれを、償わなければいけないのだろうか?



 叔母は未婚だ。結婚歴もないというし、良い関係の人がここを訪ねてくる様子もない。私以外の人間の足跡はこのお茶屋になかった。客もいないのでさっぱりしている。よくない。

 叔母のそうした生き方はもしかすると、右目を失ったことが関係しているのかもしれない。話し合ったこともないけれど、そう思ってしまう。

 私は、叔母の人生に食い込んだ棘のようなものかもしれなかった。

 週末は叔母の店に通うようにしている。家からは少し遠いけど、そうせざるを得ない。

「試験近いんじゃないの?」

 叔母に心配された。淡々としているので、聞いてみただけというのも否めない。

「ここで勉強しますから」

 カウンターの上で鞄をひっくり返して、筆記用具と参考書を置く。

「ならいいね」

 いいのだろうか。実際、家にいるよりここの方が余分なものもなくて集中できそうだった。

 私が店番をしている間、叔母は奥に引っ込んでいる。なにをしているのだろうと奥に覗きに行くと大抵、ソファの上に転がって雑誌を読んでいる。臙脂色のソファは叔母のお気に入りだ。

 そしてそのまま昼寝に移る。叔母の寝息は落ち着きを通り越してか細い。本当に眠っているのか判別がつきづらく、お陰で悪戯の一つも……それはいいとして。

 暢気だなと思う。平日は毎日、休日も時々働きに向かううちの父親とは大違いだ。

 人生って色々な生き方があるらしい。

 そういうのも勉強の一つだろうと思った。ついでに好き放題にノートを広げてお勉強する。

 でもこの日は珍しく、お客さんが来た。

 着物を着た……多分小学生と思う、小さな女の子が店を訪ねてきた。着慣れているらしく、青い派手な柄の着物を苦にしない歩き方だった。自転車の鍵を回してちゃりちゃり鳴らしている。お客さんの前でこれはまずいだろうと、勉強道具を纏めて引っさげる。

「ちーっす。あれ、子供いたっけ?」

 女の子が軽快に挨拶してから、私を見て首を傾げる。子供……私が? 叔母のか。

 年齢差を考えるとあながち、あり得ないことでもなかった。

「違うよ、兄の子」

 叔母が出てくる。サンダルを履いて、「注文したやつ?」と女の子に確認を取った。

「仕事押しつけられた。暇そうだから取ってこいってさ」

 酷いよと女の子が大人ぶるように肩をすくめた。叔母は「大変だねぇ」と適当に相づちを打ちながら、店の奥より段ボールを持ってくる。女の子が持つには少し大きいサイズだった。

「お父さんにもよろしくね。えぇと、お父さんどっちだっけ。又三郎か郷四郎か」

「あたしは郷四郎」

「そうそうシロー」

 叔母からそれを受け取った女の子は店の前に止めていた自転車の籠に突っ込んだ後、すいすいと走っていった。代金は先払いだったのか、やり取りはない。私とカウンターの出番はなかった。

 自転車に乗るのか、あの格好で。服を車輪に巻き込みそうなものだけど、器用だな。

「家の都合でああいう服着ているらしいよ」

 叔母が教えてくれる。

「へぇ。あんな格好させられて家のおつかいなんて、小学生なのに大変ですね」

「いやあれ高校生よ」

「えっ」

「しかも高三」

「年上っ」

「まあ家のおつかいなのは確かだけど」

「エライなっ」

 冷静さを失ってよく分からない反応になってしまった。

 筆記用具をカウンターの上に戻してから、頬骨を触る。

「子供か……」

「似てないと思うけどね」

 娘には無理がある、と叔母が軽く笑う。確かに、私と叔母は大きく違う。

 視線の間に下りた髪の具合を見比べても、随分と質が違うものだった。

 私の髪は少し紫がかっているように見える。母の髪質をそのまま受け継いでいる。

 でもなぁ、と素直に認められないものがあった。

「そうかな」

 耳にかかった髪を弄りながら呟くと、叔母が意外そうに左目を丸くした。

「似ている方がいいの?」

 どうだろう、と自分の発言を遅れて考える。叔母と似ていて……似ていれば、少し叔母に近づけるような、そんな気はする。そういう意味なのか問題なのか、自分でもよく分からないけど。ただそれをそのまま伝えることは、とても恥ずかしいことだとは分かっていた。

 だから、適当な理由を代わりに表立たせる。

「いやええっと……叔母さん、美人だし」

 こんなこと言っていいのだろうかと、大いに焦った。手のひらと背中がむず痒い。

 それでも表面上は平静に努めようと意識して、叔母から目を逸らさない。

「わたしが?」

 叔母の左目は義眼のように動じず、私を穏やかに見下ろす。

「そう見える?」

「……まぁ、私には」

 最後は言葉が擦り潰れるようにか細くなってしまった。背中がぞわぞわする。

「ふぅん」

 叔母の反応は一々短くて、判断に困る。

「言われて悪い気はしないけど」

 無表情なので、いい気もしていないように見える。こちらの焦りなんて気にもかけないように淡々として図りかねる。と、その叔母の動きが止まる。突っ立ったままぼぅっと、真っ直ぐ遠くを見つめている。

 視線の先を追ってみてもありふれた商品棚しかない。はてはてと首を傾げる。

「あの?」

「美人か、そうか……」

 ぶつぶつ独り言を残して、叔母が奥に消えていった。去り際、ひくっと肩が上がったように見えた。

 大して目に入ってこないので意味はないけど、少しの間参考書と睨めっこする。そして時計を確認してから、音を立てないようにして奥に向かう。洗面所の方に気配がしたので覗いてみると、叔母がにーっと鏡の前で頬を緩めていた。顎に指を添えてご満悦って感じだった。

「………………………………………」

 気づかれない内に、こそこそと表へ戻った。頬杖をつき、それから、目を瞑る。

 美人である。

 そしてかわいい人でもあるんだなあ、と気恥ずかしさに似たものが滾る。

 マフラーもないのに、俯いた口もとが暖かい。

 人との間で温められた空気というものは、心地良い。



「はい」

 しばらく経って、叔母が勉強の休憩にとお茶を煎れてくれた。いたっていつも通りで、鏡の前ではしゃいでいた姿はまったく表に残っていない。凄い人だ、と密かに感心した。

「ありがとうございます」

 湯飲みを受け取る。この前と同じやつだけど、中身は緑茶のようだった。

 しかし仮にもお店なのに、こんな堂々とカウンターを占拠していていいのだろうか。ここで働き出してからレジを叩いた覚えがほとんどない。埃でもうっすら積もっていないだろうか。

「じゃ、勉強がんばってね」

 廊下から身体を出していた叔母が引っ込もうとする。「あ」と、思わず声が出た。

「なにかあった?」

 叔母が止まる。動きに合わせて下りた長い髪を邪魔そうに手で跳ねた。

 叔母の髪は昔から長かった。髪の短い叔母は想像がつかない。

「あ、いや……」

 目が泳ぐ。別段、用事があったわけではない。

 ただいつもはお茶を飲むとき、奥で二人の時間がある。大して話すこともなく、楽しいかというと微妙なところだけど、そういう時間を求めて自分がここに来ているのは感じていた。

 だから、つい、呼び止めてしまった。

 でも最初に思ったとおり用事なんかない。さぁどうしよう。

「そうですねー……」

「なんで今考えてるの?」

 叔母が軽く笑うように肩を揺らす。その動きと指先に目が向き、思ったことを口にする。

「肌が若い感じに見えるなって」

「さっきからどうしたの」

 そう言いつつ、この叔母は今内心で小躍りでもしているのだろうか。

 考えると、淡泊な叔母の反応さえ愉快というか、微笑ましく思える。

「そっちは心が幼いからだって親戚に言われたことあるよ」

 引き返すのを止めて、叔母が廊下に座り込む。暖房の届かない廊下の冷気がこちらへとやってきて、温度差に肌が少し震えた。時折届く隙間風の出所はこちら側にあるのだと気づく。

 古い家なので行き届かない場所が多い、とは叔母の談だ。

「つまりわたしは心身共に幼稚らしい」

「そんなこと、」

「合ってる」

 叔母があっさりと認めてしまう。開いたままの私の口が、間抜けに思えた。

「人は案外、周りのことがよく見えているわけだ」

「……んー」

 納得しかねる、という私の反応を見てか叔母が補足する。

「幼いっていうのは態度じゃないよ。そういうのはいくらでもごまかせる。子供だって大人ぶれる。見定めるべきは価値観なの」

「……幼い価値観?」

「じゃないかなと思っている」

「どんなのですか?」

「秘密」

 はぐらかした叔母が脇の参考書を摘み上げる。適当に開いたページを覗いて、「懐かしい」と呟いた。

「地面の下を掘り返して見つけたような気分だ」

 そんな大げさな、と笑いそうになる。たかだか、えぇと、叔母にとっては二十数年前の話だ。私が生まれていないじゃないか。自分が生まれる前にも世界があったというのは、鍵穴を覗き込んでその真っ暗な向こうになにかを見つけようとするように、想像に苦労する。

「どんな学生だったんですか?」

「勉強ばかりしていた」

「はあ」

 嘘くさかった。

「あと旅に出てみたいとも考えていた」

「そーですか」

 つまり、変わっていたということだろう。今と同じくらい。

 呆れながら少し笑っていると、急にそれが来て冷や汗が背中に浮かぶ。

 叔母がページの端を見るときだけ、右に大きく首を傾けた。そのなんてことない仕草が、しかし私にとっては爪で心の表面を引っかかれるようだった。自覚していない負い目のようなもの。その痛みに、この叔母が他の親類縁者とは大きく異なる存在であると意識させられる。

 様々な意味と価値を持って、避けて通れないものなのだ。

「叔母さん」

 ん、と叔母が参考書を下ろして私を見る。見つめられた場所が石になるように硬化する。

 喉と肩の自由が利かない。

 それでも、ずるずると這うように、声は喉を越えていく。

「右目の、こと、なんですけど」

 浮かんでいた汗が一気に、蒸発するように熱を帯びる。

 かーっと、背中が熱く、痒く、いてもたってもいられなくなる。

 こんなこと、こんな状況で聞いていいのかという疑問はあった。

 じゃあいつどんな段取りで聞けばいいのか?

 答えはない気もした。

 私が俯きながらそんな風に話を切り出したので、叔母も大体を察したらしい。

「えぇー……」

 珍しく、困ったように前髪を掻き上げる。どこか幼さを帯びた反応と口ぶりだった。

 閉じた参考書をカウンターに置く。

「なに、知ってたの?」

 学校の先生に鋭く怒られるようで、萎縮してしまう。

「父から聞きました」

「別に教えなくてもいいのに」

 叔母は尚も困惑するように、或いは面倒くさいものを押しつけられたように息を吐く。

「まあ知っていてもいいんだけど、それで?」

 叔母は怒っている様子もなく、いつも通りに淡い。口調も表情も、なにもかも。

 掠れているようにさえ思えた。

「そのときのこと、覚えてますか?」

「そりゃあよく覚えているよ。あんたのほっぺを引っ張って遊んでいたときだもの」

 こんな風に、と叔母が私の頬を摘む。叔母の指は思いの外、すべすべだった。

 そうして、過去が再現されて。

 情景の重なりと共に記憶が蘇る、なんてこともなく。

 叔母の伸ばした腕と目の端に映る白い指を、じっと眺めていた。

「私は覚えてません」

 そう告げることで初めて、叔母と正面から向き合っているような気分になった。

「そりゃあそうでしょ」

 しかし叔母の方は大して気にも留めていないようで、私のほっぺたをむにむにしている。

 親指の爪が伸びているのか、時々当たった。

「でもそっちはあまり懐かしいって感じがしない。この教科書とはまた違うね」

 不思議だ、と叔母が感じたものを吟味するように目を瞑る。教科書じゃないんだけど、と思いつつもこの状況で指摘することではなかった。隙あれば目と心は逸れて逃げそうになる。

 でもここまで踏み込んだのだから、いっそ、もう一歩。

 息を吸う。蔓延するお茶の香りが、少しだけ気を紛らせた。

「私のこと、恨んでいますか?」

 叔母が口を閉じる。少し経って、私の頬から手を離す。

 叔母が二度、右目の側を指で叩いた。ノックするように、軽快に。

「恨んでいるって言ったらどうするの?」

 一拍置いて、うそぶいた。

「償います」

 叔母が目を細めた。睨まれているようで、腰が引ける。

 まるでこちらに、大した罪の意識がないことを見透かすようで。

「どうやって?」

「それは……なんでもして……」

 声に自信がないのが分かる。具体的なものが伴わないからだった。

「なんでもか……じゃあ恨んだ方が得かな」

 叔母が努めて和やかにそんなことを言う。

「ずっと恨んでいることにしよう」

 お茶をすすりながら、なんてことないように宣言されてしまった。しかも私のお茶だ。

「あー右目に染みるわー」

 軽薄に嫌みを放つ。冗談めかしているので笑えばいいのだろうか、と思いながらも到底、当事者としてはお付き合いできない。曲がった指と共に困惑していると「染みるかっ」と叔母がいきなり独り勢いよく否定した。え、え、え、となっていると叔母がじと、と半目を向けてきた。洗濯機にでも押し込まれたように変化が目まぐるしい。

「あんたさ」

「はいっ」

「……髪綺麗ね」

 譜でもめくるように、耳の横に下りた髪を指で梳いてきた。

 ちろちろちろ、と叔母の二本の指が虫の触角みたいに動く。

「あ、ありがとう……ございます?」

「うん」

 ずずず、とまた私のお茶をすする。

 なんだそれ。今ここで言う必要あるのか? と疑問が膨れあがって、ついていけない。

「それ、大事なことですか?」

 失明した右目と並ぶくらいに。

「もちろん」

 叔母は迷いなく認めた。もう冗談めかす風ですらない。

 これが叔母の言う、『幼い価値観』というやつなのだろうか。

 変人なだけとしか思えない。

「とてもね」

「は……」

 念まで押されて、もう黙って俯いているしかなかった。



 その日、バイトが終わって外に出てから、迷ったけど謝っておいた。

「変な話をしてすみませんでした」

 小さく頭を下げると、叔母がまた、困ったように頭を掻く。

「変というか……」

「あ、変って言い方も失礼で……大事な話ではあるんですけど」

「そうじゃなくて……別にいいけど」

 風に持って行かれそうな髪を叔母が押さえて、息を吐く。

「いいのだ」

「はい?」

「きっとこういうのも、なにか意味のあることなんだろう」

 そう言って叔母は納得するように、車道へと目を向けた。やってきた車は病院の駐車場に入っていく。病院の立体駐車場の壁には縦に大きな隙間があり、間から植物の蔓がはみ出ていた。

 意図したものか、勝手に生えだしたものなのかは知らない。

 季節の影響を受けて、末端が枯れ出している。

 その隙間を埋める枝葉が風に吹かれて、手を振るように上下に動いた。

 前はあんなに外まで出ていただろうか。植物からすればきっと短い、けれど時間の流れを感じる。自転車を用意しながら、大きく深呼吸して、叔母を一瞥する。

 私は恐らく、今日、始めてしまった。

 特に助走もなく、準備運動もしないで、そっと走り出した。

 一度動き出したものを止めるぐらいなら、見届けよう。

「ここって水曜休みなんですよね」

 お茶屋の屋根を見上げて確認する。

「うん」

「じゃあ、あの……学校の試験が終わってから、なんですけど」

 うん? と叔母が小首を傾げる。まるで予想もついていないという顔だ。

 そりゃあそうでしょ。

 さっきの叔母の言葉をなぞりながら、意を決する。

 自転車のハンドルを叩いて、顔を上げた。

「一緒に、出かけませんか」