十五年前。ある夕焼けの綺麗な日。僕は妖怪の親分と一つの約束をした――。



 古い記憶から顔を上げると同時に、電車内に放送が響き渡った。

『間もなく、往間町、往間町』

 トンネルを抜けた途端、日差しにきらめく海と、それに沿う町並みが眼に飛び込んできた。豊かな自然に囲まれた、懐かしい故郷の景色につい微笑みながら、座りっぱなしだった座席から立ち上がって、立ちくらみがするほど思いっきり伸びをする。

 早い時間に出発したというのにもう正午を軽く過ぎた時間だ。到着予定時間をすでに三十分もオーバーしている。

 重たいボストンバッグを担ぎ直して、まばらな降車客にぶつからないよう小さな駅舎の隅を歩きながら、僕はSNSでひっきりなしに送られてくる惜別のメッセージに眼を落とす。

 ――『橋口健護、無事故郷に到着! みんなありがとう! また会う日まで!』

 僕はそのメッセージを一瞬ためらってから、高校生活を共にした仲間たちへ向けて一斉送信した。

 きっとまた会える。その想いと共にスマホをバッグに突っ込んで顔を上げた途端。

「うわぁっ!?」

 駅の出口に身構えていた一つ目小僧と眼が合った。

「……な、何だ作り物か」

 観光客向けなのだろう。首に『往間町へようこそ!』と書かれた札を下げているだけのオブジェだった。僕の反応を見た女の子がクスクス笑いながらすれ違っていく。

 照れ隠しの苦笑を浮かべて、僕は改めて駅舎を抜けた。

 そこから見る町の景色は何とも殺風景――だったはずなのに。

「へぇー……。随分変わったなぁ!」

 僕の帰郷を歓迎するように、春風に乗って微かな潮の香りが鼻をくすぐる。

 往間町。太平洋を一望出来る海沿いにある、人口一万五千人程の田舎町だ。

 まだ小学校に上がる前、僕はこの町に住んでいた。

 当時はろくにコンビニもなくて、ひたすら民家と畑が続いているばかりの不便な町だったような気がするけど、今眼の前に広がる景色からは、少なくとも記憶にある寂れた田舎町という印象は覚えない。

 かつて何もなかった駅前は今、テーマパーク風の公園を思わせる広場に様変わりしていた。立ち並ぶ真新しい建物には随所に『和』の意匠が凝らされていて、年代問わず観光客が行き交っている。

 数年前から町おこしが本格的に始まり、地元の文化をふんだんに生かした道の駅が完成して人気を博しているとは聞いていたけど、これほどとは思わなかった。

「えーっと、この辺で待ち合わせのはずなんだけど……遅れちゃったからな」

 友人たちとの別れの挨拶に時間がかかって、電車を二本も乗り過ごしたせいだ。

 しばらく迎えに来てくれるはずの人を捜して、キョロキョロと道の駅の風景を眺めて歩き回っていると。

「……何だこれ?」

 広場の真ん中辺りに立っていたのは二頭身にデフォルメされた、何とも愛嬌のある鬼の銅像だった。眉だけはきりっと吊り上がっているけど眼はつぶらで、くるくるパーマの中央からこぢんまりした角が一本生えている。片手はトゲ付き金棒を杖のように立て、腰回りにだけ縞々の布を巻いてあるが、どう見てもステテコを穿いた小さい子供にしか見えない。

 銅像が立っている台には『この地を守る鬼の妖怪』と簡単な紹介が載っていた。

「はははは、ずいぶん可愛くなったなぁ親分」

 つい噴き出しながら、僕はゆっくりと、町の外れにある小さな山を見上げた。

 鬼門山。青空の下、今も町に寄り添うようにそびえる思い出深いその山に、僕は手をかざす。

 ……今でも、そこにいるんだろう。

「おーい、健護くーん! ごめーん、お待たせー!」

 その時、眼の前に停まった一台の軽自動車から、艶やかな黒のロングヘアを躍らせつつ、若くて綺麗な女性が降りてきた。

「あ、悠美さん! お久しぶりです! 遅れちゃってすいませんでした!」

「こっちこそー。遅くなるって連絡聞いて、ゆっくりお茶飲んでたら私の方が遅刻しちゃったよー。ごめんね、許して?」

 遅れたのはこっちなのだから許すも何もないのだけれど、ふにゃっ、とした気の抜けるような笑みと、胸の前で手刀を切る軽い動作を前にすると、細かいことはどうでもよくなってしまった。

 この人は三枝木悠美さん。今年からこの近くの大学に入る僕に、この町で暮らしながら通学しないかと誘ってくれた、僕のはとこに当たる人だ。

「帰ってくるのは十五年ぶりになるんだっけ? どう? 新しく出来た道の駅。『あやかし膝元』っていうんだよ。なかなか立派でしょー?」

「すっかり綺麗になってて驚きました。妖怪で町おこしなんて誰が考え付いたんですかね」

 木陰や枝の上。屋根の上や、自動販売機の隙間など、色々な所に『妖怪』を模して造られた可愛らしいオブジェが飾られている。

 この往間町は古くから妖怪の逸話が数多く残り、現代になっても目撃証言や、実際に会ったという話がよくあるという。そこに眼を付けた町人たちが、妖怪に会える町という名目で町おこしの売りにしたのだそうだ。

 世間の流行の波というものにも上手く乗れたらしく、注目の田舎町として人気が出てきたらしい。まさに妖怪が再興した町である。

「折角だし、お店の中も見てく? 妖怪の資料館とかもあるよ?」

「……いやー、遠慮しときます。オカルトって実はちょっと苦手で、あはは」

 この時代、そういうものが見える。と他人にバレるのはあまり宜しくない。

 だから基本的にはオカルトが苦手というのが僕のスタイルだ。

「あれ、そうだっけ? じゃあ先に家まで行こっか。乗って乗って?」

 荷台にバッグを積んでから、僕は助手席へと乗り込んだ。

「それじゃ改めまして往間町にようこそ! 新生活、楽しめるといいね。入学式の前日に引っ越してくるって聞いた時はちょっとびっくりしたけど」

 春休みも終了寸前。大学の入学式は何と明日だ。夏休みの宿題を溜め込んだ八月末のような超過密スケジュールである。

「すみません、ギリギリまでお世話になった人たちと一緒にいたくて……。色々面倒かけると思いますけど、よろしくお願いします! えーっと……それで、お手伝いの件なんですけど」

「うん、生活が落ち着いてからでいいんだけどね? 前に話した通り、健護くんにうちの保育園のお手伝いをしてほしいの」

 悠美さんはこの町で保育士をしていて、僕が大学生活を送る傍らで、時間のある時に子供たちと遊んであげてほしいという。

 この町で暮らさないかと誘ってもらった時、思うところがあって僕は一度断った。

 けれど、あれこれ交渉するうちに出てきた――この町で子供と触れ合う仕事が出来るという一点が、僕の心を捉えたのだ。

「もちろん、約束ですからね。精一杯やらせてもらいます!」

 長らく町を空けていた、よそ者同然の大学生が、いきなり子供の世話役なんて務めて大丈夫なのかな、と心配していたけど、悠美さんによればすでに話は通してあり、子供の親御さんたちにも概ね好意的に受け入れられているらしい。流石の人望だ。

 子供たちの遊び相手を務めながらの大学生活。なかなか骨が折れそうな毎日になりそうだけど、きっと骨を折るだけの何かが見つかると僕は思っている。

 駅前から離れるにつれて町の景色はすっかり僕がよく知る往間町の地味な町並みへと変わっていき、やがて懐かしい木造の二階建ての家が見えてきた。

 十五年前、僕が婆ちゃんと二人で住んでいた家だ。

「はーい到着。ここが今日から君のお家。元々は……君のお婆ちゃんの家だよね?」

 その時の記憶はないけれど、僕の両親は幼い頃に、この町で起きた土砂災害に巻き込まれて命を落としている。それ以来、僕は婆ちゃんに引き取られてこの家で育てられた。

 爺ちゃんについては何も知らないけど、婆ちゃんも語らなかったから、きっと子供に聞かせるような物語はなかったんだろう。

 その代わり、この家にはいつも沢山の妖怪の姿があった――。

 婆ちゃんは若い頃に保育士をしていたらしく、よく町の妖怪たちの話を聞いては、それを紙芝居にして、子供に読み聞かせを行ったりしていた。

 その評判を聞いてこの家を訪れた妖怪たちも、まだ小さかった僕と遊んでくれたりして、ここにはいつも優しい誰かがいた。

 楽しい思い出が沢山詰まった実家。けれど、結局小学校に上がるより前に、僕はこの町を引っ越すことになり、それっきり僕は一度もこの町を訪れていない。

 だから僕がこの家の敷居をまたぐのは、本当に十五年ぶりだ。

 かつては背伸びして開けていた引き戸の取っ手を見下ろしながら、僕は小さく、

「……ただいま」

 気恥ずかしさを覚えながら、その戸を開いた。

「おかえりー健護くん。お婆ちゃんも天国で喜んでるね、きっと」

 婆ちゃんが使っていた部屋の襖はぴったりと閉じられている。いつだって僕が帰ってくると、顔のしわを笑顔で更に深くして出迎えてくれたものだ。

 でも、当然だけど誰も顔を出さなかった。その肩透かしのような静けさが、もう婆ちゃんはいないのだということを強く実感させた。

「健護くんのお婆ちゃんが亡くなってから、この家はうちの家族がずっと管理してたの。古いけど取り壊すのは勿体ないからあちこち手を入れたけど、ほとんど昔のまんまだよ。生活に必要なものも大体揃ってるから自由に使ってね」

 今日から僕は、ここで一人暮らしをしながら隣町の大学に通うことになる。大学までは電車で二駅。通学時間も三十分程度で、もちろん家賃もゼロ。一人暮らしの大学生には何ともありがたい環境だ。

 昔も自分の部屋だった二階の小さい部屋に荷物を置いて、静けさに一息つく。ずっとセピア色だった思い出に、じんわりと色がついていくような奇妙な感覚があった。

「悠美さん、その……本当にありがとうございます。この家を守ってくれて」

 リビングに降りて、まずは悠美さんにお礼をする。胸に残る思い出は沢山あるけど、こうして戻って来なければ二度と思い出せないものもあったはずだ。

「いいんだよー。元々君の家なんだし、気にしない気にしない。家主が成長して戻ってきてくれて、この家も嬉しいよきっと」

 気さくにそう笑って、悠美さんは渋めの緑茶を淹れてくれた。純粋無垢な子供たちと触れ合う仕事をしているせいか、この人と話していると気持ちが落ち着く。

「ねえ健護くん。まだ日も高いし、お婆ちゃんのお墓参りに行ってきたら? 折角またこの町で暮らすんだから、元気な姿を見せてあげればお婆ちゃんも喜ぶんじゃない? ひょっとしたら――古い友達にばったり会えるかもしれないしさ」

 細くて綺麗な指を組んだ悠美さんが、小首を傾げて微笑みながら僕に促した。

 口に含んだ緑茶が、少し苦みを増した気がした。

「あ、あーそうですね! 久しぶりですし。顔見せてこないとダメですね!」

 僕は手を振る悠美さんに留守を任せて、ぎこちない笑顔で一人町に出た。



 結局、教えてもらった墓地には向かわず、ところどころ記憶と違う町並みを眺めながら、僕は何よりも先に確かめたい場所を目指した。

 地味な景色の中に、城のようなショッピングモールが我が物顔で建っていたり、新築のマンションの前で引っ越しのトラックが停まっていたりと、時代に追いつかれつつある町の中を彷徨いながら、僕は町外れまでやってきた。

 今も昔も町を見守る鬼門山のふもと。今ではすっかり整備されて、子供用の遊具が立ち並ぶ公園になっている。登山道もちゃんと整備されたようだ。

 一時間もかからずに頂上まで登れるような山だけど、これだけ人の手が加わっていながら、山全体から滲み出る神秘的な凄みは薄れていない。

 少しだけ山道を上がった所にある、町を一望できる密かな見晴台。お気に入りだったこの場所は、今でもほとんど当時のまま残されていた。

「良かった。ここはそのまんまだ」

 かつて自分の特等席だった、背もたれのある椅子のような大きな岩に腰かけて町を見下ろす。

「……ただいま。ラショウ丸」

 かつて慕った鬼の親分の名を、誰に向けることもなく風に乗せる。あの頃は僕がここにいれば、すぐに気付いて迎えに来てくれたっけ。

『おう、ケン坊! 待たせたな!』――。そう笑って、力強く声をかけてくれた。

 だけど今、耳元で歌う春風以外に僕に声をかける奴はいない。

 ……遠いあの日。ここで夕暮れの町並みを見下ろしながら、僕は親分と一つの約束を交わした。どれだけの時間が経っても、それだけはきっと忘れることはないだろう。

 たとえ、もう会えないのだとしても。

 少しだけ寂しさを滲ませた笑みで立ち上がる。もうここに来ることはないかもしれないと思った、まさにその瞬間だった。

「――おい、そこオイラの場所だぞ!」

 消えかけた蝋燭の火も再び弾けるような、威勢のいい声が耳に届いた。

「え?」

 振り向くと、野球帽を被った五歳くらいの子供が、きりっと眉を吊り上げて僕を睨んでいた。玩具のプラスチックバットを杖のように立て、力強い炎のように爛々と輝く赤い瞳がこちらを見据えている。

 あれ、何だろう。ついさっき、よく似た何かを見たような。

「あ、ああ、ごめんね! すぐに帰るから」

 実は眼が合った瞬間、稲妻に打たれたような強烈な予感に震えすら感じた僕だったけれど、そんなはずないと気持ちを抑えて、すぐにその場を後にしようとする。

 町の子だろう。昔の僕がそうだったように、ここがお気に入りの場所に違いない。大人が立ち入るのは野暮な場所だったんだ。

 片方だけほっぺたを膨らませている負けん気の強そうなチビッ子に微笑んで、僕は足早に立ち去ろうとする。

 しかしその時。風に乗って、僕の名を呼ぶ声が響いた。

「あ、健護! やっと見つけた、ここにいたんだ!」

 不意に、聞き覚えのない女の子の声が聞こえた。眼を瞬かせた僕の前に、一匹の三毛猫がひょいっと身を躍らせる。

 一見、毛艶のいいどこにでもいそうな小柄な三毛猫だ。

 尻尾が二本妖しく揺れていることを除けば。

「ほいっ、と」

 ころんと体を回した三毛猫はどこから出たのか分からない薄煙に包まれると、次の瞬間、煙の中から浴衣のような薄手の着物を着た少女の姿で立ち上がった。

 妖怪だ。僕を知っているようだけど、見覚えが……。

 驚きで眼を白黒させながら言葉を失った僕の横で、傍らのチビッ子が声を上げた。

「あ、タマキ!」

 この子が眼の前の妖怪と知己であるらしいことにも驚いたけど、それ以上に。

「タマキ……? え? あ、あの、タマキ?」

 僕はその名前に憶えがあった。状況に一拍置くように、少女は一瞬だけ笑みを見せてから、まず傍らのチビッ子へと歩み寄った。

「もー、コショウ丸! お客さんが来るから屋敷で待ってなさいって言ったのに!」

「だって! 家にいても町は平和になんないじゃんか!」

 耳に届いたその名前に、僕の鼓動は静かに速度を上げていく。

「コ、ショウ丸……?」

 呆然とする僕を横に、コショウ丸と呼ばれたチビッ子と並んだ少女は、改めて僕に向き直ると、少しだけ恥ずかしそうに頬を染めて微笑んだ。

「久しぶりだね、健護。迎えに来たよ」

「え? こいつが父ちゃんの言ってたケン坊なのか?」

 激変した状況に理解が追いつかず、僕は呆然としたまま、旧知の『ネコマタ』の丸い瞳を見つめ返した。



 出会いと再会から数分。僕らは山奥へと続く石段を上がっていた。

 ちら、と後ろのコショウ丸をうかがう。そのほっぺたには赤くつねられた跡が残っている。そしてどういうわけか、僕の頬にも同じくつねられた跡が残っていた。

「ほら男ども! しゃっしゃと来なさい!」

 前を行くタマキは明らかに不機嫌だ。どうしてものの数分で、散歩の途中で親に叱られた子供のようなザマになっているのかというと、話は数分前に戻る。

「久しぶりだね、健護。迎えに来たよ。あたしのこと覚えてる?」

 タマキは昔と変わらない晴れやかな笑顔で、はきはきとよく通る声を上げて僕に近づいてきた。琥珀色の澄んだ丸い瞳には懐かしい友人と再会した喜びと、長い時を経ての再会に対する若干の不安が混じっているように見える。

 正確に答えをいうなら、僕はタマキのことは覚えていたけれど、彼女のことは覚えていなかった。

「あ、ああ、うん、もちろん……覚えてるよタマキ。昔よく一緒に遊んだよね……」

「良かった! あたしもずっと忘れてなかったよ健護! また会えて嬉しい! 本当に帰ってきてくれたんだ! 嬉しい、本当に嬉しいよ!」

 僕の答えに安心したのか、タマキは人懐っこい猫のように飛びついてきて、嬉しそうに眼を潤ませたまま、僕の手を取って勢いよく上下に振った。

 整った目鼻立ち、女性らしさを主張しながらも小柄な体、握られた手からはプニプニした肉球のような柔らかさが伝わってくるし、親愛に溢れた微笑みからは魅力にあふれた美しさすら感じた。

「あ、いや、ちょ、ちょっと待って! ちょいタンマ! タマキ、ごめんっ!」

「ん? なぁに?」

 僕の危険察知能力が、言うな、と警鐘を鳴らしている。けど衝撃と困惑と、ある種の納得が、正直なその一言を風に乗せてしまった。

「いや、その……ずっと……君のこと男だと思ってたんだ……」

「にゃ?」

 小さい頃、毎日野山を走り回って遊んだ闊達な友達だった。あの頃は女らしい格好なんてしてなかったし、まして名前がタマキで、当時つけられていたあだ名はよりによってタマキンである。男だと思うのは仕方ないじゃないか。

 なんて言ったら僕は死ぬんだろう。

「……だ、ははははははっ!」

 沈黙を破ったのはタマキの後ろにいるコショウ丸だった。高らかに響く笑い声とは裏腹に、僕の鼻先まで近付いていたタマキの瞳から光が急速に失せていく。

「あ、えーっと……ひ、久しぶり? いや、は、初めまして?」

「こんにゃろうどもがーっ!」

 と叫んで、さっきまでとは違う涙で瞳を潤ませたタマキにコショウ丸共々ほっぺたをつねられて――今に至る。

「あ、あのー、タマキさん? 一体何の用があって……」

「いいから来て、話があるの。そ・れ・と、あたしの名前は『玉』に『姫』と書いて『玉姫』ですから、お忘れなく」

「あ、はい、すいません。女の子らしい素敵なお名前だと思います……」

 肩を怒らせて物騒な足音と共に石段を昇っていくタマキの後ろで、やや距離を置いてついてくるコショウ丸に目配せして、こそっと耳打ちする。

「あのお兄ちゃん、おこりんぼだね」

「へへへっ。あ……ふんっ」

 一瞬、にやっと口元を緩めたコショウ丸は、すぐ我に返った様子で腕組みすると、ぷいっとそっぽを向いてしまった。

 ――似ている。コショウ丸と呼ばれたこの子は、やっぱり、もしかしなくても。

「聞・こ・え・ま・し・た・け・ど?」

 頭に生えた猫耳をぴょこぴょこさせながら壮絶な笑顔で振り返るタマキから、コショウ丸と並んで視線を逸らし、かすれた口笛で誤魔化した。

「よいしょっと。健護、こっち。入って入って」

 石段を上がった先。ひっそりとした山中の一角に建っていたのは、重厚な外見のお屋敷だった。入り口に飾られた般若の面が来訪者を威嚇し、門には『鬼頭組』と力強い書体で書かれた札が掲げられている。

 この町の妖怪たちを取り仕切るヤクザ一家・鬼頭組。町の人たちは単に古き良き義侠たちの集まりとして認知しているけれど、ここが町の妖怪たちの総本山だ。

 猛々しい鬼の屏風が飾られた和室に通されて、お茶を淹れてくると言って出ていったタマキの背を見送る。

 コショウ丸は僕と二人きりになった途端に縁側に飛び出していった。気付かれない程度に障子を開いてこっちをうかがっているようだけど、逆光に気付かず全身のシルエットがはっきり障子に映りこんでいるのが何とも可愛らしい。

 お盆に湯呑を乗せて戻ってきたタマキに、気になっていたことを尋ねる。

「ねえタマキ、あの子……まさか」

「うん、親分の息子さんだよ」

 にこっ、と笑って僕の前に湯呑を置きながらタマキが言った。

「鬼頭組十四代目頭領。歴代最強コショウ丸! ……になるのが夢なんだよね?」

「うっさいタマキ! オイラは本当になるんだ! 人間の力なんか借りなくたって平気なんだからな!」

「そういうことは一度でも役目を果たしてから言いなさーい」

 そっと障子を開けて叫んだコショウ丸が、またそっと障子の向こうに消えていく。

「あの通り、頑張り屋さんなんだけど、まだちょーっと頼りなくて」

「そっか……ラショウ丸に子供が……」

 帰って来てから時の流れを突きつけられるような出来事ばかりだ。けど、今もこちらを覗き込んでいる小さなシルエットが、さっきよりずっと身近で大切なもののように思えてきた。

「えーっと、それで話って? ラショウ丸は? 他のみんなはいないの?」

 再会と出会いの充足感と、まさかもう一度訪れるとは思っていなかった場所に通された緊張感。同時に、僕は同じくらいの空虚感も感じていた。

 日中にも拘らず屋敷の中に他の妖怪の気配がない。ラショウ丸がいればいつだって他の妖怪たちが一緒にいて、賑やかな空間になるはずなのに。

「親分ならいないよ。用事があって町を留守にしてるの」

「いない? いないって……」

 町の守護神たるラショウ丸の不在。その端的な事実は、町に大きな風穴が開いているかのような不安感を僕に与えた。

「健護、本当はゆっくり話がしたいんだけど……聞いて。力を貸してほしいの」

 前のめりになったタマキは真剣な表情で、この町に起きている、ある異変について語り始めた。



 そもそもにおいてこの往間町は、ずっと昔から霊的なものが際立って集まりやすい土地だったそうだ。細かい部分はうろ覚えだけど、これについては僕も幼い頃にラショウ丸から聞いた覚えがある。

『この町は、俺らみたいな妖怪や、霊的なもんが自然と引き寄せられてくる土地なんだ。目に見えなくてもそこにある……人間でいうところの、魂みてーなもんが自然の中には沢山あってな。そういうもんが集まり過ぎると、自然のバランスが崩れて色々と良くねえことが起きるんだ。そういうことが起こらねえように、或いは起きちまった時のために、俺たちがここで構えてるってわけだ』

 遊び疲れた夕暮れの帰り道の中、ラショウ丸には色々なことを教えてもらった。当時から全てを理解出来ていたわけではないけれど、不思議と町や妖怪の知識に関しては、僕は今でもよく覚えている。

「健護も知ってるよね? 霊的なエネルギー……『霊気』が集まる場所では、妖怪が生まれやすくなるって。この町は昔から霊的に凄く不安定で、元々沢山の霊気が集まりやすい場所なの」

「うん。だけど霊気は集まり過ぎると自然界のバランスが崩れて、色んな災害や怪奇現象が起こったりもする……だったよね?」

「そう、放置しておくのは危険なの。だから鬼頭組と一緒に、集まった霊気を祓う力を持った『巫女』さんが、代々町を守っていたことは知ってる?」

「霊気を祓う巫女さん? それは……知らない。町にそんな人がいるの?」

 それについては全く覚えがなかった。

「あたしたち鬼頭組は代々、その霊気を祓える巫女さんと協力して町を守っていたの。霊気による異変が起きる前に、巫女さんが集まり過ぎた霊気を祓う。巫女さんの手に余るような事態になった時、初めてあたしたちが動いてきたんだよ」

 なるほど、確かに納得できた部分もある。不安定な往間町の霊気を祓い、脅威となる前にそれを鎮める巫女さんと、事が起こった時に解決に当たる鬼頭組。

 人と妖怪が手を携えて町の脅威に立ち向かってきた、ということなんだろう。

「だけど……。健護は町の真ん中に小さい神社があったの覚えてる?」

「あぁ、よく一緒に遊んだよね。婆ちゃんともよくお参りに行ったし覚えてるよ」

「健護が引っ越した後の話なんだけど……ある巫女さんが町に霊気が集まるのを防ぐために、その神社を中心に大きな結界を張ったの」

「結界?」

 また神秘的な話になってきた。けど、嫌いな話じゃない。

「その結界は強力で、町はずっと平和だったんだけど……つい最近、その神社が取り壊されちゃったの。町おこしの関係で、開発が急ぎ足で進んでたらしくて……。気付いた時には工事のごたごたの中で、結界の核だった御神体が紛失しちゃってて、今言った町の結界が消えちゃったの。……ごめんね健護……」

 痛恨の極みだと、ぎゅっと着物の裾を握りながらタマキがそう告げた。何故か今にも泣きだしそうなタマキの表情に、僕は慌てて明るい言葉を投げかける。

「い、いや、僕に謝られても困るし、そういう事情なら仕方ないじゃん! タマキのせいじゃないんだから落ち込むことないって! えっと……とにかく結界がなくなって、町にまた霊気が集まってきてるってことなのかな? その結界は張り直したりは出来ないものなの? その巫女さんをまた頼ればいいんじゃない?」

「……う、うん。その巫女さん、結界を張る時に力を使い過ぎちゃって、今はゆっくり休んでるの。だから、もう頼れなくて……」

 不自然に眼を泳がせながら、タマキはそう言った。とにかく、もう一度巫女さんを頼るということは出来ないらしい。

「だから今、親分たちが動いてるの。親分は新しい結界の核になる、強力な御神体を探しにあちこちを巡ってる。今の時代で手に入るのはどれも貴重な物だから、親分の伝手を頼りにするしかなくて……」

「なるほどね、だから組の中に誰もいないんだ。ラショウ丸のお供に……」

「それもあるけど……聞いて。本題はここからなの」

 僕が町を去った後の、この町の物語に引き込まれながら、僕はこれまで以上に真剣な表情を浮かべるタマキの言葉に耳を傾ける。

「結界が消えて町に霊気が充満したせいで、今町のあちこちで新しい妖怪が生まれてる。それも長い間結界が効いてたせいか、無邪気な子供の姿で生まれてくるの」

「こ、子供の妖怪が町で生まれてる?」

 少しずつ、話の行く先が見えてきた気がした。

「チビ妖怪は人間と妖怪の常識も知らないし、力の制御も出来ないから、放っておいたら危ないの。だからあたしたちが保護を任されてるんだけど……結界が消えたせいで町の外から性質の悪い妖怪が入ってきたら危ないから、組のみんなは町の外周の警備に出てる。けどそのせいでチビ妖怪を捕まえる人手が全然足りなくて……」

 確かに、人間でも野良猫を捕まえるのは難しい。どこに出てくるか分からないとなれば、猶更数が揃わなければ厳しいだろう。

「人を頼るにしても、今の時代妖怪が見える人なんてそうそういないし、チビ妖怪も警戒心が強くて、力の強い妖怪が近付くと逃げちゃうの。そんな時、悠美から健護がこの近くの大学に入学するって話を聞いて……」

 声のトーンを落とし、恐る恐るといった様子でタマキがこっちを見つめる。

「悠美さんと、仲いいの?」

「うん。悠美は保育士で、あたしも人間の子供たちと遊んだりするから、それでよく話すようになって……それで、健護さえ良かったらまたこの町で、って……」

 尚も言いにくそうに、とぎれとぎれに言葉と視線をこちらに向けるタマキの姿に、僕は今回の事態の全貌を察した。

 僕がこの町に帰ってくることになったのは、不思議な巡りあわせなんかじゃなかったんだ。

「生まれたチビ妖怪はみんな一人ぼっちで町を彷徨ってる。だけど健護がいてくれれば助けられる子が沢山いると思うの! ……都合のいいお願いだってことは分かってる。だけど、頼れる人が他にいないの! 健護、あたしたちに力を貸して!」

 澄んだ願いを秘めた真剣な眼差しが僕に刺さる。相変わらずだ。昔からタマキは自分以外の誰かのために本気になれる奴だった。

 それにタマキの表情を見れば、あの時の出来事まで全て分かった上でのお願いだということは嫌でも分かる。

 一人ぼっちで町を彷徨う子供の妖怪、か――。

「……そんな話聞かされたら、放っておけるわけないだろ」

「健護、それじゃあ……」

「うん。非常事態みたいだし、細かいことは抜き! 僕で良ければいくらでも――」

 と、笑ってタマキの想いに応えようとした。その時。

「――ちょっと待ったーっ!」

 両手で豪快に障子を開け放ち、逆光に照らされたコショウ丸が、口をとがらせ、腕を組みながら部屋に割って入ってきた。

「タマキ! 町のチビ妖怪を捕まえる役目を父ちゃんに任されたのはオイラだ! オイラが一人で何とかするっていつも言ってるだろ! 何でこんな奴頼るんだよ!」

 コショウ丸が僕を「こんな奴」呼ばわりしながら眉間にしわを寄せた。

「だーかーら、あんた一人じゃ無理だって言ってるの! これまで全然チビ妖怪見つけられてないじゃない。あんたじゃ頼りないの!」

 納得いかないように唸ってから、コショウ丸は僕に指を突き付けた。

「むー……オイラ、お前なんかの力は絶対借りないからな!」

 そう宣言して、コショウ丸はどたばたと縁側を走って行く。

 去り際の、奥歯を噛みしめた悔しそうな横顔に、僕は不意の焦燥に駆られた。

「ちょっ、タマキ! 何てこと言うのさ! 追いかけよう!」

「大丈夫、放っといたっていつも遅くまで町中走り回って帰ってくるんだから。よく知らない健護の前で格好つけたかっただけ……」

「何言ってんのさ! あの子、ラショウ丸に町の留守を任されたんだろ!? なのに、いきなり知らない奴にその役目を横取りされると思ったらショックに決まってるだろ!」

 僕は縁側に飛び出して、初めてその名を呼んだ。

「コショウ丸!」

 しかし、もう辺りにあの小さな鬼の子の姿はなかった。

「タマキ、あの子がよく行く場所は!?」

「えっ!? えーっと、公園とか、保育園とか、お小遣い持たせてないからショッピングモールには行かないと思うけど……そ、そんなに慌てなくても」

「ダメだよ追いかけなきゃ! 大人に期待されてないなんて誤解させちゃったら、そんなの一人ぼっちより寂しいだろ!」

 僕の眼差しを受けて、温度差に戸惑いを覚えている様子だったタマキも、はっとしたように顔つきを変えた。

「……そう、だね。あたし誤解させちゃったのかも……うん。一緒に捜そう!」

 こうして僕たちは十五年ぶりに肩を並べて、春の陽気の中を駆け出した。

 あの頃のように、鬼の背中を追いかけながら。