第一章 あなたは運命の人じゃなかった


 海を一望できる公園内には、家族連れやカップル、友人同士の明るい声音が溢れ返っている。はしゃぐ人たちを横目に歩いていた三上慶介の足元に、緑色のゴムボールが転がってきた。慶介はボールを拾い上げると、すいませーんと手を上げている小学生くらいの男の子に向かって、山なりに投げ返した。ボールはノーバウンドで少年の元に戻った。礼を言う少年に向かって軽く手を上げ、再び歩き始める。

 三月の最終週。朝はまだ肌寒かったが、太陽が照らす昼間は頬を撫でる風が心地よく、潮の香りを吸い込みながら歩いていると、それだけで心が洗われるようだった。

 間もなく公園を出るというところで、待ち合わせ場所の喫茶店が見えてきた。真っ白な外壁に大きな青い看板が掲げられている外観は、周囲の煌めく海とも相まって、映画のワンシーンを切り取ったかのように美麗だった。

 木製の白いドアを開けて喫茶店へ入る。店内をざっと見回すが、亜子の姿は見当たらない。女子大生風の店員がやってきて、好きな席へ座るように勧める。慶介はお気に入りの席である、窓際の椅子へ腰を下ろした。あとからもう一人来るんでと店員に言い、少し迷ってアイスコーヒーを注文した。

 時刻は十時五十分。席は八割ほど埋まっていて、大半は恋人同士と思われる男女だった。一人で座っているのは慶介だけだったが、もう少しすればこの席も彼らの仲間に加わることになる。

 先ほどの店員がテーブルの上にアイスコーヒーを置いた。そういえばこの女の子、初めて見る顔だなと思いながら、ガムシロップを入れてストローで掻き混ぜる。今日はどこに遊びに行こうかなどと、いくつかの場所を思い浮かべながら、窓の外に視線を向けてアイスコーヒーを飲む。

 とりあえず一時間ほどドライブして、亜子が最近ハマっているというパスタ屋で昼食を取ろうか。腹を満たしたあとはボウリングでもして、街ブラしながら互いの買い物に付き合う。そのあとは日が落ちる前に亜子の部屋に行って――。

 彼女の服を脱がすイメージをした時、公園の中を歩いてくる亜子の姿が見えた。グレーのフレアワンピースという恰好。遠目に見ても、亜子の存在感は際立っていた。それは決して慶介の贔屓目ではないだろう。すれ違う男はよく亜子に視線を向けたり振り返ったりしているし、たった今も、二人連れの男がすれ違った亜子を振り返っていた。紛れもなく、美人の証。恋人は自分の所有物ではないが、あんな光景を何度も目の当たりにしていると、慶介の鼻は自然と高くなるのだった。

 亜子の姿が段々と近付いてくる。見る度にいつも思うことだが、ショートボブが本当に似合っている。彼女以上にあの髪型が似合う女性は、そういないだろう。亜子が日本一かもしれない。

 ふと、彼女が肩に掛けている茶色のミニショルダーバッグが目に留まった。ここ数ヵ月、会う時はいつも、彼がプレゼントした白のショルダーバッグを使っていたはずだが……。しかし別に気にすることではない。今日の服に似合うのが、白ではなく茶色のバッグだったということだろう。

 慶介と亜子の視線が交わった。慶介は軽く手を上げてにこりと微笑む。

 亜子は軽く頷いて、ドアの方へと歩いて行く。

「?」

 亜子の表情を見た慶介の頭に、疑問符が浮かんだ。

 どうしたのだろう? 亜子の表情、凄く冷たいというか……あんな表情、初めて見たかもしれない。いつもの彼女なら、慶介が笑えば眩しいくらいの笑顔を返してくれるのに……。

 亜子が慶介の元へ歩いてきて、対面の席へ座った。

 やはり、何かおかしいと思った。いつもであれば、亜子の方から何かしら言葉を掛けて席に座るのに、今は無言のまま着席した。表情は暗い。

 顔色が優れないけど体調でも悪いの?

 そう訊こうとした時、店員がやってきて亜子に注文を訊ねた。亜子はアイスティーを注文した。店員が去ると、慶介は改めて口を開いた。

「顔色が優れないけど、体調でも悪いの?」

 慶介の問いに、亜子は首を横に振った。

「体調が悪いわけじゃないの」

「そう。それならいいけど……」

 一分もしない内に、先ほどの店員がアイスティーをテーブルの上に置いた。亜子はガムシロップを入れて一口飲んだあと、慶介の目をじっと見つめてきた。

 まるで別人に見つめられているみたいだと慶介は思った。その瞳は、とても冷たく感じる。

 亜子と付き合い始めて約二年。こんな空気を感じるのは初めてのことだった。明るい女性を絵に描いたような性格の亜子がこんな目をするなんて、本当にいったい何があったのだろう。

 それは訊けばわかる。単純明快。しかし何となく、訊き辛い雰囲気が漂っていた。ねえ、様子が変だけど何かあったの? たったそれだけの言葉を発せられない圧力が慶介に掛かっていた。

 亜子が視線を逸らし、アイスティーを飲む。それから一つ息を吐いて、左手で右手の甲を擦るように触ると、再び慶介に視線を合わせて、ゆっくりと口を開いた。

「言うべきことは纏まってるけど、どういう風に切り出そうか、その一点だけ迷ってたの。でも、こういうのは単刀直入に切り出した方がいいのよね。回りくどい言い方をしても、結局行き着く先は同じなんだから」

 その言葉は、慶介に向けられたものというよりは、亜子が自分自身に言い聞かせているように聞こえた。

 亜子が息を吸い込み、そして大きく吐き出す。決意を固めたような色が、その表情に宿った。

「慶介、私と別れて」

 亜子の口から発せられた言葉の意味が瞬時には理解できず、慶介は彼女の顔をじっと見つめ続けた。亜子はその視線を流すことなく、しっかりと受け止めて見つめ返している。ただしその瞳には、今まで彼に向けられていた愛情の一欠けらも見当たらなかった。

「え? 今、何て?」

 亜子は先ほどと同じように大きく息を吐いて、

「もう慶介と一緒にいたくないから、別れて欲しい。いいよね?」

《別れて欲しい》の六文字が、ぐるぐると脳内で回転したり反転したりして動き続けている。

 やがて慶介は、彼女が発した言葉の意味を理解する。

 瞬間、頭の中が真っ白になった。

 慶介は亜子の瞳を覗き込むように、前屈みになる。

「別れるって、俺と別れるってこと?」

「そう」

「な、何で?」

「だから、もう一緒にいたくないから」

「俺のこと、嫌いになったってこと?」

「嫌いになったというよりは、愛情がなくなったと言った方がいいかな」

「でも、何で、そんな急に……」

 靄が晴れるように、真っ白になっていた頭の中が少しずつ正常へと戻っていく。事の重大さを理解した心臓は、早鐘を打ち出していた。

「別に昨日今日、いきなり愛情がゼロになったわけじゃないわ。時間の経過とともに、徐々に慶介への愛が薄れていったの。そのことに、慶介が気付かなかっただけ」

「俺が、気付かなかっただけ?」

「そう」

「俺が鈍感だった?」

「あまりそういう言葉は使いたくないけど、そういうことになる」

「亜子を注意深く見ていれば、別れを予感させる何かが見えたってことか?」

「そうね。きちんと見ていれば、最近の私がいつもとは違うとわかったはず」

 最近の亜子……。そう言われて、慶介はここ一、二ヵ月の亜子の様子を思い返す。彼女が慶介を疎ましく思っているような言動があっただろうか。別れを予感させるような出来事が果たしてあっただろうか。

 今の慶介の精神状態が平静だとは言えないので、断言はしかねたが、別れを切り出されるような彼女の言動や出来事は何一つ思い当たらなかった。今日より以前、最後に会った三月十三日の朝だけを切り取っても、特に心に引っ掛かるものは浮かんでこなかった。その前日の十二日には、セックスもしている。亜子に嫌々抱かれている様子はなかった。そもそも、その時点で慶介への愛が冷めていたのであれば、身体を求められても拒否するのではないか。

 それとも、二週間前の時点では、まだ彼への愛情が残っていたのだろうか。

「いつ別れようって決めたの?」

 亜子は視線をテーブルの上に落とし、

「はっきり別れようって決めたのは最近だけど、だいぶ前から心は離れ始めてた」

「だいぶ前から……」

 亜子に対する自身の言動を振り返っても、具体的に何が悪く、どこがダメだったのか、見当は付かなかった。先ほどからずっと、慶介にはわからないことが続いている。

「正直言って、なぜ別れ話をされてるのか、全くわからない。心当たりがないというか……具体的に、俺のどこが悪くてダメだったんだ?」

 亜子は口を開く前にアイスティーを飲んだ。それから少し考える顔付きになって、慶介の疑問に答え始めた。

「私たち、付き合い始めて二年くらい経つけど、慶介が遊びに連れて行くところって、毎回同じだよね。最初の内はそれでもよかったけど、同じようなデートコースが続くと、あぁ、この人は私を楽しませる努力をしてくれない人なんだなって思うようになるの。本当に私のことを愛してくれてる人なら、遊びに連れて行く場所も色々と工夫をするはずだし、努力の跡を見せてくれるはず。だけど慶介にはそれが微塵も感じられなかった。お酒を飲むお店にしても、いつもおじさんが多い居酒屋ばかり。なぜそんなお店にばかり私を連れて行くのかはわかってる。昔、私が、仕事帰りのサラリーマンで溢れ返っているような居酒屋で飲むのが好きって言ったからよね。でもね、だからって、毎回そんなところで飲みたくはないの。たまにはムードのあるお洒落なバーで飲みたい時だってある。でもこの二年間、ただの一度も、慶介はそんなお店に連れて行ってはくれなかった。――愛情が冷めた原因は他にもあるわ。電話やメールは、いつも私の方からするばかりで、慶介の方から電話なんて滅多に掛かってこない。私はお喋り好きで、どちらかというと慶介は聞き役。だからこれも最初の内は問題なかったんだけど、次第に何で慶介の方から電話やメールをしてくれないんだろう、もしかして私愛されてないのかなって思うようになっていった。こんなことを言うと、男の人は言ってくれないとわからないって思うだろうけど、こちらからすると、言わなくても察してよってことになる。きちんと相手を見ていれば、そういうことには気付くはずなの。――これが、私の心が慶介から離れていった理由」

 亜子は淡々と話し続けたあと、一息吐いてこう締めた。

「だからもう慶介とは一緒にいられない。私と別れて」

 話を聞き終えた慶介の肉体は鉛のように重くなり、気を張らないと本当にそのまま沈んでいきそうだった。

 なぜ亜子が別れを切り出しているのか、ずっとわからない状態だったが、こうやって亜子の口からその理由が語られてみると、よく理解できた。確かに慶介は全てに於いてマンネリだったかもしれない。亜子の言ったとおり、彼女が最初にココが好きだ、コレが好みだと言ったら、それ以降は新たに訊くことなくずっと同じ選択肢を選び続けていた。恋人を楽しませる努力を怠ったと言われても、否定することはできない。

 ただ、一つだけ、はっきりと否定したいところがあった。

「マンネリの件に関しては何も反論できないけど、俺が亜子を愛してないんじゃないかってところだけは否定したい。俺は亜子を愛してるよ。……今、こういう状況になっても」

 亜子は首を横に振って、

「慶介がどう思っているかは、私の気持ちに関係ないの。大事なのは、慶介の言動に対して、私が何を感じたのか。結果として、私の気持ちは慶介から離れた。それが全てなの」

「それは……」

 口を開くが、言葉にならない。慶介は下唇を噛んだ。

 亜子が窓の外に視線を移す。その横顔は、彼に早く別れを了承して欲しいと言っている風に見えた。

 胸が締め付けられていく。慶介は痛む胸を右手で押さえ、軽く目を瞑った。

 別れたくない。

 思いがそのまま口を衝いて出ていた。

「俺は、別れたくない」

 恋人に別れを切り出された男が、別れたくないと返答して拒否する。

 とてもみっともないものだと思う。原因は自分にあって、彼女の方が別れたいと言っているのだから、最後くらい男らしく散った方がいい。他人事なら、きっとそう言うだろう。

 ただ、亜子に対する愛情は全く薄れていない。亜子はゼロになってしまったのかもしれないが、慶介の方は、二年前からずっと百パーセントのままだ。この状態で別れを受け入れることは不可能だった。

 慶介の返事を聞いた亜子が、顔を正面に戻した。瞳に宿っていた冷たい色が、色濃くなった気がした。

「別れたくないって言われても困る。私はもう慶介と一緒にいたくないって思ってるんだよ。そんな私にどうしろって言うの? 好きじゃなくてもいいから、隣にずっといろとでも言うの?」

 慶介は歯を食い縛り、今ここで言える最善の言葉を探す。亜子を繋ぎ止められる言葉を。亜子の中のゼロがイチになる言葉を。慶介は懸命に探し続ける。

「時間を、くれないか。やり直す時間を……」

 亜子は突き放すような感じで首を横に振った。

「もう、終わったの。どれだけ時間を掛けても、元通りになることはない。わかって」

「……俺、二年前に亜子のことを好きになってから、その気持ちはずっと変わらないんだ。だから、諦め切れないよ」

 亜子は呆れたような溜息を吐いて、

「さっきも言ったけど、諦めるとか、諦められないとか、慶介の気持ちは関係ないの。大事なのは、別れたいと言ってる私の気持ちなんだから。今の私は、慶介のことを顔も見たくないくらい嫌ってるんじゃなく、愛情がない状態なの。でもこのままだと、顔も見たくないし声も聞きたくないってところまで嫌いになっちゃう。お願いだから私をそんな気持ちにさせないで」

 刃物のように亜子の言葉は慶介に刺さり続ける。亜子を見つめていた視線が、弱々しく下がっていく。そんな状態になってなお、この状況を打破できる言葉がないか探し続けたが、光が射すような文字が頭に浮かんでくることはなかった。視界の端で、亜子が千円札をテーブルの上に置くのが見えた。

「私、これから約束があるから」

 慶介は反射的に顔を上げた。

 二人の視線が交わる。

 亜子の瞳には、慶介に対する思いが、僅かばかりも見られなかった。赤の他人に向けるような色が浮かんでいるだけ。

 もうどうにもならないのだと、慶介は悟った。

 亜子がすっと立ち上がる。

 慶介の脳裏に、昔の映像が流れ込んできた。

 初めて亜子と会った時、初対面の感じがしなかった。旧知の仲のような、そんな感覚。付き合い始めてから、そのことを亜子に話すと、私もそんな感じがしていたと言ってくれた。この関係はずっと続くような気がすると慶介が言うと、亜子も同じ気持ちだったようで、彼のことを運命の人に感じると言ってくれた。

「昔、付き合い始めた頃、言ってくれたよな。俺のこと、運命の人だと思うって……」

 亜子を引き留めようとか、情に訴えようとか、そういう意図を持った言葉ではなかった。ただ自然と思いが口から洩れていた。

 亜子は今日慶介の前に現れた時から一貫してそうであるように、その冷たい表情を崩すことなく口を開いた。

「あなたは運命の人じゃなかった。今までありがとう。さようなら」

 くるりと背中を向けて去って行く亜子の後ろ姿を、慶介は後悔の思いに包まれてじっと見つめるしかなかった。耳の奥では、さようならの言葉が寂しく響き続けている。


 亜子が店を出て行ってから、どのくらい経っただろうか。店内の壁時計を見ると、針は十一時三十五分を指していた。身体を動かすのも怠かったが、このままここに残るのも憚られたので、支払いを済ませて店を出た。車を停めてあるコインパーキングには、公園の中を突っ切って行った方が早かったが、慶介は公園には入らず真っ直ぐに進み続けた。そちらに何かがあるわけではない。方向転換をするのも億劫なほど、今の彼は惰性で動いていた。

 極めて緩慢な速度で前進しながら、慶介は亜子との思い出を振り返っていた。どの場面の亜子を切り取っても、彼女は常に白い歯を見せて笑っている。先ほど見せていたような冷たい目や、慶介に対して不信感を抱いている表情の亜子は、どこにも存在しなかった。

 尤も、それは亜子に言わせれば、彼が鈍感だっただけということになるのだろう。

 しかし、こういう状況になってもまだ、慶介は釈然としない気持ちが残っていた。先ほどは、いきなりの別れ話で頭が混乱してしまい、上手く反論できなかったが、慶介の知る亜子という女性は、『言わなくても察して欲しい』というタイプの女性ではなく、『思ったことをはっきりと相手に告げる女性』だった。デートがマンネリになっていると思えば、いつもとは違う場所に連れて行って欲しいと言うはずだし、たまにはお洒落なバーで飲みたいと言うはずなのだ。その点に関しては、絶対の自信があった。たとえばこの見方を亜子の友人に話せば、百パーセント同意を得られるはずだ。

 では、なぜ、彼女はあんなことを言ったのか。

 ……わからない。全く何も見えなかった。

 交差点に差し掛かった時、進行方向の青信号が点滅し始めた。走れば渡り切れたが、今の慶介に走る気力はない。横断歩道の信号が赤に変わったところで足を止めた。それから少しして、ピンク色のセーターを着た五歳くらいの女の子が慶介の横に立った。

 もう何度目かわからない溜息が出てくる。彼女への思いが強く深かった分、喪失した反動が大きい。前触れのない別れだったから、尚更。

 ポケットからスマホを取り出す。十一時四十五分と表示されているロック画面を解除し、電話帳の亜子の欄に合わせる。

 電話を掛ける勇気は、ない。仮に電話したところで、先ほどの亜子の態度を見る限り、きっと出てはくれないだろう。どうやっても、元鞘に収まらないということは理解できている。それでも彼女への思いは依然として残っているから、こんな風に未練たらしい行動を取ってしまう。この喪失感がいつまで続くのか、自分でもわからない。わかっているのは、すぐには立ち直れないということだけ。

 横にいた女の子が歩き出した。横断歩道の信号が青に変わったことを知る。

 慶介も前進しようとした時、凄まじい衝撃音が右の方から聞こえてきた。直後、複数の悲鳴。

 視線をそちらに向けると、大型のトラックが、停車している車を弾き飛ばしながら猛スピードでこちらの方に向かってきていた。運転手はハンドルに突っ伏しているように見える。

 慶介の視線は、暴走トラックの進行方向へと向けられた。

 ピンク色のセーターを着た女の子が、横断歩道の真ん中で立ち止まって、トラックの方を見ている。

 考えるより早く慶介は女の子に向かって走り出していた。

「逃げろ!」

 慶介は絶叫したが、女の子が動く様子はない。

 悲鳴とトラックの暴走音が響く中、慶介は女の子を抱き締めて、そのまま前方に倒れ込んだ。

 空気を切り裂くように、トラックが突っ込んでくるのを肌で感じた。

 轢かれる。そう覚悟した時、脳裏に浮かんできたのは笑顔の亜子だった。

 直後、慶介の身体を衝撃が襲い、意識は断ち切られた。


第二章 もう二度と失いたくない


 何かが鳴っている音で、慶介は目を開けた。そのうるさい音が目覚まし時計の物だと気付くのに、少し時間が掛かった。上体を起こし、ベッドの宮棚に置いてある目覚まし時計を止めた。目を擦りながら、いつもはすぐに目覚まし時計の音だと気付くのに、なぜ今日は時間が掛かったのだろうということを考えた。昨日の晩、酒でも飲み過ぎたのだろうか。

 ベッドから下りて立ち上がった時、何かを忘れているような感覚に包まれた。何だろう、この違和感。

 慶介は首を傾げて、室内を見回す。

 特に変なところはない。自分で言うのも何だが、整理整頓された綺麗な部屋だ。

「あれ?」

 思わず疑問の声が洩れる。

「何か……おかしいぞ」

 そう呟き、慶介は壁の一点を見つめて熟考する。

 確実に、何かがおかしい。だが、いったい何が変なのか、その正体が掴めない。片鱗さえ、見えてこない。しかし絶対に、何かおかしなことが自分の身に降り掛かっている。感覚でわかった。

「俺は、昨日、何をしていた?」

 声に出して自問自答する。昨日何をしていたかわかれば、この違和感の正体に大きく近づけるように思えた。

 脳を刺激し、記憶を甦らせることに専心する。

 昨日は……会社に行って……いや、違う気がする。昨日は仕事をした感じがしない。ということは、昨日は休日だったということになるか。日曜日なら、亜子とデートをしたということになるだろう。ああ、そうだ。確か昨日は海が見える喫茶店で亜子と待ち合わせをして、それから……。

「あっ!」

 亜子の顔が脳裏に浮かんできた瞬間、慶介は違和感の正体に気付いた。

 そうだ。思い出した。昨日、亜子に振られたのだ。何の前触れもなく、突然別れを切り出されて、それで……。

 違和感の正体を掴んだかに思えたが、今度はまた別の違和感に包まれる。

 いや、待てよ。振られたのは、昨日なのか? 亜子に振られたあと、喫茶店を出て……そのあとは? 家に帰り着くまでの記憶が全くないぞ……。

 ふっと、慶介の脳裏に、少女の顔が浮かんできた。ピンク色のセーターを着た小さな女の子。どこかで見た顔だなと思った瞬間、慶介は総毛立った。

「ああっ! そうだ! トラックだ! 暴走トラックが突っ込んできたから、俺は女の子を助けようとして、それで……」

 慶介は両手で頭を抱えて、必死に思い出そうとする。あのあと、いったい何が起こった?

 確か……女の子を抱きかかえた直後、強い衝撃に襲われたのだ。あれは恐らく、トラックが彼の身体にぶつかった衝撃だろう。ということは……つまり……。

 慶介は頭を抱えていた両腕を下ろし、手をまじまじと見る。右手の甲に、ナイフで切られたような、七センチほどの切り傷が付いている。これはトラックに衝突された時にできた傷なのだろうか? しかしあれだけの大型トラック、ましてあの凶暴なスピードで撥ねられたら、普通はこの程度の怪我では済まないだろう。次に慶介は服を脱ぎ、腹や背中、両足を注視する。どこにも傷らしきものは付いていない。慶介は足早に洗面所に行き、鏡を見る。顔のどこにも傷は付いていなかった。慎重に頭部全体を触ってみるが、痛みは全くなかった。

 慶介は右手の甲に視線を落とす。

 自分は、トラックには撥ねられなかったのだろうか……。

 いや、身体に感じた衝撃は夢や錯覚ではない。間違いなく、自分は、暴走トラックに撥ねられたはずだ。

 それが事実だとすると、奇跡的にこの程度の傷で済んだということになる。あの怒り狂ったようなスピードで突っ込んできたトラックに撥ねられても無事だったなんて、正に奇跡だ。

 慶介がほぼ無傷ということは、あの女の子の命も助かったのだろうか。そうであることを願うが……。

 と、そこでまた新たな疑問が生まれた。

 トラックに撥ねられたあと、その直後から現在に至るまで、自分はどこで何をしていたのだろう。意識を失って病院に運ばれたのだろうか。普通に考えれば、そういうことになるだろう。表面上は異常がないように見えても、脳に損傷がないか調べるはず。しかしそれなら、目覚める場所は病室でないとおかしいのではないか。なぜ今、自室にいるのだ。事故に遭ったあと、どういうルートを辿ったにしても、自宅に帰って来るまでの記憶はない。あの交差点で、記憶はぷっつりと切れている。

 くしゃみが二発続けて出た。目覚めてからずっと奇妙な感覚に包まれていて、更に思考を深いところまで潜らせていたので今の今まで感じなかったが、やたらと肌寒いことに気付いた。三月とは思えない寒さだ。よく見ると、自分の吐く息も白かった。

 不思議に思いながら窓際まで行き、カーテンを開けた。

 慶介は目を疑った。

 家々や木々、道路の一面が真っ白に染まっている。今は三月の下旬だぞ。何でこの時期に雪が……異常気象じゃないか。慶介はテーブルの上のリモコンを取り、テレビの電源を入れた。

「さあ、時刻は七時三十分になりました。こちらをご覧ください。神社の鳥居にも雪が積もっています。夜まで残っているかもしれませんので、参拝の際は足元に十分ご注意ください。それでは、宮司の三嶋さんにお話をお伺いしたいと思います。どうも、朝早いところすみません」

 テレビ画面は、慶介が毎朝チャンネルを合わせているニュース番組が映し出されている。いつもはスタジオでニュースを読んでいる女性アナウンサーが、珍しく外でインタビューを行っている。

 寄せては返す波のように、また強い違和感が慶介を襲ってきた。

 三月の下旬に、これだけの雪が降ったことに対して、何も説明がないのはなぜだ。もうそのニュースはやり切ったので、別のコーナーに移ったということなのだろうか。この宮司へのインタビューも変な感じだった。具体的に何がおかしいのかと言われると……すぐに説明はできないが……雰囲気が変な感じだった。

 その慶介の疑問は、次の女性アナウンサーの言葉で判明する。

「今年一年、良いこと悪いこと、皆さん様々な出来事があったと思いますが、新しい一年を迎えるに当たって、この由緒ある神社で初詣をなさってはいかがでしょうか。私も、今年は本当に色々ありました。私は来年厄年なので、いつも以上に神様にお祈りを捧げようと思っております」

 思わず慶介はテレビの前に屈み込んでいた。

 違和感の正体が判明した。

 このテレビの中に流れている雰囲気、年末によく観る光景なのだ。

 そして実際、今女性アナウンサーがそれらしいことを話した。今年一年とか、初詣とか。三月であるこの時期に、それらの言葉を口にするのは違和感がある。

 慶介は再びリモコンを取り、《番組説明》のボタンを押した。

 画面に出てきた数字を見て、絶句した。

 番組説明の上部に、《十二月三十一日》と出ている。二度、三度と強く瞼を瞑ったが、その数字が変わることはない。

「そんなバカな……だって……昨日まで三月だったんだぞ……何でいきなり九ヵ月も時間が進んでるんだ……」

 慶介は次々にチャンネルを切り替える。しかし画面に映し出されるのは、大晦日の中継としてお馴染みの光景ばかりだった。

 慶介は混乱の渦に呑み込まれる。

 ただでさえ、トラックに撥ねられてからの記憶がないのに、そこから九ヵ月も月日が経過しているなんて、誰だって頭がこんがらがる。

 慶介は右手で頭を強く押さえ、少しでも混乱を和らげようとする。

 この際、空白の九ヵ月間は無視することにしよう。どの道、今すぐ答えは出ないのだから。三月二十六日の日曜日、彼はトラックに撥ねられてそのまま九ヵ月間意識を失い、大晦日である今日、目を覚ました。これなら、辻褄は合う。

 しかしテレビから流れてくる誰かの声で、その推測は根底から覆され、粉々に砕かれた。

「二○一六年も、残すところあと十四時間ですが、私が今年一番印象に残っているのは、やはりリオ五輪ですかね。あの日本男子四百メートルリレーの衝撃は今も忘れられません」

 慶介の混乱は、一瞬にして真っ白なものへと変わった。三十秒前後、ただじっとテレビを一点に見つめ続けた。

 やがて我に返った慶介は、ぽつりと呟く。

「二○一六年? 何を言ってるんだ? 今年は二○一七年だろう。間違えてるぞ」

 慶介がテレビ画面越しに間違いを正すが、他の誰もそのアナウンサーの発言を正そうとしない。聞こえなかったのか、それとも聞き流したのか……。

「四年後の東京五輪では、金メダルを狙えると思っていますので、是非頑張ってください。応援しています」

 また間違えてると、慶介は心の中で突っ込む。四年後じゃなくて三年後だろう、と。今は二○一七年の大晦日なのだから。しかしまたしても、誰も数字の間違いを指摘しなかった。この男は番組の中で一番年長なので、誰も突っ込めないのだろうか。それにしても、なぜ去年の五輪の話をしているのだろう。それも不思議だった。

 画面が切り替わり、コマーシャルが流れ始める。画面に映った文字と流れる音声を見聞きして、慶介は驚きの声を上げた。

「二○一六年も当店をご愛顧いただき、ありがとうございました。感謝を籠めて、今日は全品半額セールを実施! 開店は九時。品切れ必至。皆さんお急ぎくださーい!」

 慶介の腕には鳥肌が立ち、右頬が軽く引き攣り始めていた。

 生放送での発言なら間違いはあるだろうが、この手のコマーシャルで年数を間違えるなんて、普通は有り得ない。

 さっきのアナウンサーも、そしてこのコマーシャルも、間違ってないとしたら……。

 慶介は少し震える手でリモコンを取り、もう一度《番組説明》を押した。

 先ほどは日付しか見なかったが、視線を左に動かし、西暦を確認する。

 二○一六年の数字が、慶介の目に映り込んでいる。

 愕然とした慶介の手から、リモコンが滑り落ちた。

 慶介は過去の記憶を探る。

 意識を失う前、自分が生きていた世界は、間違いなく二○一七年だったと言えるか、自分に問う。即座にイエスと答える。確かに自分は二○一七年の世界を生きていた。最後の記憶は、三月二十六日。

 しかし今、最後の記憶から数えて、三ヵ月前の世界に自分はいる。

 トラックに轢かれた衝撃で意識を失い、目が覚めたら月日が九ヵ月進んでいた。これは有り得る。不思議でもなんでもない。反対に、時間が三ヵ月前に戻るなんて現象は、起こり得ないはずだ。時間は前にしか進まない。過去に戻るなんて……そんなこと……だって、それって、タイムリープと言われるものじゃないか。

 誰かに助けを求めた方がいいのではないかという思いが生まれたが、誰に何を言えばいい? 自分は三ヵ月先の世界からタイムリープしてきたんだと話して、それを誰が信用するというのだ。別の意味で病院に連れて行かれるのがオチだ。

 では、これからどうする? 自分は何をすればいい? 何をどうすれば、元の世界に戻れる?

 慶介は洗面所に行き、冷たい水で顔を洗った。頬を思い切り抓ったあと、リビングに戻る。テレビ画面に映し出される数字は二○一六年のまま。夢を見ているわけでも、錯覚でもない。自分は三ヵ月前の世界に戻っているのだと理解した。

 宮棚に置いてあるスマホが目に留まり、ベッドに腰掛けて手に取った。

 待ち受け画面を見て、その名前が自然と口を衝いて出る。

「亜子……」

 青く煌めく海をバックに、亜子が弾ける笑顔で写っている。

 意識を失う前の光景が甦ってくる。初めて見聞きした亜子の冷たい表情と声音。耳の奥に残っている、全てを突き放すような、さようならの声。あれも現実に起こったことなのだ。決して夢ではない。

 慶介の中にふつふつと湧き上がってくる思い。

 今、慶介が呼吸をしているこの世界は、以前暮らしていた世界と全く同じなのだろうか。それとも、パラレルワールド的な、同じように見えて実際には違う世界なのだろうか。

 もし前者であれば、現在の亜子は慶介に対してどういう思いを抱いているのだろう。

 亜子が別れを告げた時の話を思い出す。彼女は、複数の理由によって、徐々に慶介への愛情が失われていったと話した。この大晦日の時点では、愛情はどの程度残っているのだろうか。現時点で別れを決めていないのなら、やり直すチャンスは残されているということになる。

 亜子とやり直したいと、強く思った。

 亜子は、マンネリを嫌がっていた。電話やメールを慶介が積極的にしないことも、愛情低下の一因だと言っていた。だったら今度は、以前の自分と違う行動を取ればいいのだ。亜子に指摘された悪いところを改善し、彼女の理想とする男を演じる。そうすれば、愛と信頼を取り戻せるはず。

 希望が湧いてきた。

 問題は、この世界が本当に、慶介が暮らしていた世界と同じなのかということ。

 亜子と話せば、すぐにわかる。

 微かに震える手を動かし、亜子の電話番号を表示させた。

 本来なら、元の世界に戻れるように行動すべきかもしれない。しかし慶介にとって亜子は、元の世界に戻ること以上に大切な存在だった。元の世界に戻ったところで、亜子とやり直すことはできない。しかしこの世界には、そのチャンスがあるかもしれない。だったら、そちらを最優先に行動したい。それが慶介の率直な思いだった。

 慶介は指をスライドさせて亜子に電話を掛けた。

 タイムリープしたことを理解した時以上に、心臓の鼓動は荒く脈打っている。

 コール音が四回に達した直後、電話が繋がった。

「はいはーい。おはよー、慶介。どうしたの? 待ち合わせは十一時でしょう?」

 明るく響く亜子の声が聞こえてきた瞬間、慶介は思わず涙ぐんでいた。この耳に心地よい声音こそが、慶介の知っている本来の亜子だった。

「あれ? もしもーし。慶介の声が聞こえてこないよ」

 慶介は震えを抑えるために深呼吸し、愛しい人の名前を口にする。

「……亜子」

「おー、やっと聞こえてきた。もしかして、寝起き?」

「……うん。さっき目が覚めた」

「え、何、起きると同時に私に電話を掛けてきたってわけなの?」

「……そういうこと」

「ちょっと、慶介、どれだけ私のこと好きなのよ」

「……世界で一番」

「もう、しょうがないなぁ。あとで思いっ切り抱き締めていいわよ」

「……そうさせてもらうよ」

 言葉を交わす度に、一刻も早く会いたいという気持ちが膨らんでいく。

「なあ、待ち合わせ時間、少し早くできないかな?」

「え? うん、別にいいけど。十時とか?」

「うん。十時に」

「了解。でも、何で早く会うの?」

「一秒でも早く会いたいから」

 嘘偽りのない思いだった。

 電話の向こうから、くすくすと笑う声が聞こえてきた。

「何か、いつもと感じが違うね。何か企んでない?」

 企みという単語が妙におかしく、横腹を突かれたようなくすぐったさを覚えて、慶介は少し笑い声を上げた。

「何も企んでないよ。本心から出た言葉だから」

 数秒の沈黙のあと、

「わかった。それじゃあ、おめかしに時間が掛かるから、一度電話切るね」

「俺はすっぴんでもいいと思うけど」

「それは無理」

 亜子は笑い声を上げながら、それじゃまたあとでねと言って電話を切った。

 ほんの三分間だったが、慶介は心から満たされていた。懐かしい場所に帰ってきたような、ノスタルジックな感覚に包まれている。

 やはり自分にとって亜子は必要な女性なのだと再認識した。

 もうあんな思いをするのはごめんだ。今度こそ離さないようにしないといけない。

 慶介はクローゼットの前に立ち、着替えを始める。

 別れの理由に服装がダサいというのはなかったが、これからはもっとお洒落にも気を遣おうと思った。髪型を変えてイメチェンしてみるのもいいかもしれない。着替え終えたあと、洗面所で髭を剃って髪型を整える。準備完了。まだ出発には早かったが、待ち合わせ場所に行くことにした。居ても立ってもいられないというやつだ。

 リビングに戻ってテレビを消そうとした時、事故の映像が映し出されていた。

 この映像は、見た記憶があった。高速道路で二十台以上が巻き込まれる玉突き事故。最終的に八人が亡くなったはずだ。

 やはりここは以前過ごした世界なのだ。今日から三月二十六日まで、慶介が覚えているものに限れば、いつどこで何が起こるのか言い当てることができる。期間限定ではあるが、その気になれば的中率百パーセントの占い師を演じることもできるし、ギャンブルで大金を稼ぐことだってできるわけだ。

 しかし金や名声には、一切関心はない。欲しいのは、亜子だけだ。

 慶介はテレビを消すと、必要な物を持って自宅を出た。