2回表


 資金源である麻薬密輸を取り仕切る乃万組若頭・岸原は、ここ最近の組の現状に頭を悩ませていた。

 先日、フリーの運び屋であるトラック運転手が、麻薬取締部に逮捕されたのだ。普段のルートを使って北九州まで運ぶ予定だった覚せい剤5キロが押収され、乃万組は大事な商品と足を同時に失った。末端価格にして約三億円の損失だ。

 それにしても、疑問が残る。なぜマトリは、乃万組の密輸ルートを突き止めることができたのだろうか?

 考えられる可能性は、ひとつ。――どこからか、情報が漏れている。

 組の関係者の中に、捜査機関へ取引情報を流している裏切り者がいる。由々しき事態だ。このまま見過ごせば、また損失を被ることになりかねない。

「ここ数か月の間に、俺たちの商売に加わった人間をリストアップしろ。末端の売人も含めて、全員だ」

 春吉にある組事務所に部下たちを集め、岸原がそう命じると、彼らは力強く頷いた。

「あの、岸原さん」その中のひとりが、不意に声をあげた。「中国人の件ですが」

 頭の痛い問題が、もうひとつある。

 在日中国人の麻薬売人グループが、ここ最近、乃万組のシマで勝手に商売しているのだ。先日、中洲で薬を売り捌いている中国人メンバーを見つけ、乃万組の構成員数人が取り囲み、痛めつけるという一件があった。ここが誰の縄張りかを思い知らせるために。二度と痛い目に遭いたくなければ手を引け、と。

「例の殺しも、もしかしたら、中国人の仕業なんじゃないでしょうか?」

 例の殺し――今月中旬、乃万組の構成員二人と麻薬の売人が、何者かによって殺された事件のことだ。

「サツの話じゃ、死体は逆さ吊りにされて晒されていたらしいです。これは日本人の仕業じゃねえ。外国人のマフィアのやり口に似てる」

 部下の言う通り、海外の犯罪組織にはわざと死体を弄び、人目に晒して見せしめにする連中もいるという。

 もしかしたら、今回の殺人事件は中国人グループの仕業ではないだろうか。リンチの報復のために、奴らが乃万組の仲間を殺したのではないか――というのが、この部下の考えだった。

 たしかに、その可能性はゼロとはいえない。もし中国人グループが殺人という形で挑発してきたのであれば、それなりの対応をしなければならない。

「どうします、岸原さん」

 部下たちの視線が自分に集まった。

 やることはひとつ。まずは、事実確認だ。

「中洲周辺の見回りを増やせ。中国人を見つけたら、捕まえて連れてこい」

 と、岸原は部下に告げた。

 殺人事件の犯人が中国人だろうとそうでなかろうと、いずれにせよ、奴らにいつまでもでかい顔をさせたままではいられなかった。

「痛めつけて、吐かせてやろうじゃないか」



 その数時間後、岸原の元に部下から報告が入った。中洲にあるクラブでコカインを売り捌いていた中国人の男を見つけ、拉致したとのことだった。売人グループのメンバーで、まだ若い男だった。

 岸原は乃万組が所有するテナントビルへと向かった。その二階から四階までは音楽スタジオになっていて、バンドマンの若者たちが楽器の練習に励んでいる。その中の四階にある一室は、乃万組の拷問部屋だった。

 部屋の中央に椅子を設け、そこに中国人の男を座らせて縛り付けた。防音設備の整ったこの部屋なら、いくら相手を痛めつけようと問題ない。誰かに見られることもないし、叫び声が漏れて警察を呼ばれることもない。

 今からこの中国人を拷問し、情報を吐かせるわけだが、岸原は自分の手はいっさい汚さず、その道のプロを雇うことにした。

 福岡に拷問・尋問を専門とする輩がいると、噂で聞いたことがあった。岸原は情報屋からその男を紹介され、今回の仕事を依頼した。

「――アンタが、乃万組の岸原サンか?」

 約束の時間になると、その拷問師はスタジオに現れた。

 外国人のようだが、日本語は流暢だった。大きな体をした男で、肌は浅黒く、腕には墨が入れてある。いかにも裏社会の人間らしい風貌ではあるが、愛想は悪くなかった。

 岸原はさっそく男に注文した。「うちの組の連中を殺して逆さ吊りにしたのがこいつらの仕業かどうか、訊き出してもらいたい。それから、情報を絞れるだけ搾りとってくれ」

「オーケイ」

 拷問師は小型レコーダーのスイッチを入れ、にやりと笑う。

「んじゃ、さっそく始めるか」ゆっくりと中国人に歩み寄り、声をかけた。「よろしくな」

 男を見上げた中国人の顔に、恐怖の色が浮かんだ。



2回裏


 アレハンドロ・ロドリゲス――通称『アレックス』は、若いが腕のいい殺し屋だった。

 2メートル近い巨体と黒い肌をもつドミニカーノ。頭にはドレッドのロングヘアを携え、無造作に結んでいる。色の薄いサングラスから透けて見える両眼は、その視線だけで人を射殺せそうなほど鋭く、黒いタンクトップから剥き出しになった両腕は、素手で簡単に人間の首をへし折ってしまいそうなほど逞しい。人を殺すためだけに生まれてきたようなその容姿に、麻薬カルテルのギャングたちは誰もが震え上がった。

 麻薬カルテルというのは、麻薬の生産から流通、密売までのネットワークに関わるすべての集団を総括した言葉であり、メキシコにはいくつものカルテルが存在している。

 その中のひとつ、ベラクルス・カルテルは、メキシコ合衆国ベラクルス州を拠点に活動している麻薬カルテルで、アレックスはその専属の殺し屋だった。組織のボスであるラミロ・サンチェスの右腕であり、麻薬ギャングの間では“Verdugo de Veracurz”という通り名で呼ばれていた。ドン・ラミロに「Mátalo」と命じられれば、子どもだろうが女だろうが容赦なく首を刎ねるような、血も涙もない男だと聞いていた。

 その噂に違わず、アレックスは非情な男だった。


『……まさか、お前が裏切り者だったとはなぁ』

 アレックスが低い声で言った。その分厚い唇には、キューバ産の葉巻が挟まっている。

『うまく密売人に化けたもんだ。感心するぜ、リチャード』

 アレックスはにやりと笑うと、リカルドの浅黒い肌に葉巻の火を押し付けた。

 火傷による激痛に、リカルドは声にならない悲鳴をあげた。肉の焼ける嫌な臭いが漂ってくる。

 組織に捉えられたリカルドが連れられたのは、ベラクルス州にある彼らが所有するホテルの一室だった。両手両足を縛られ、まるで解剖されるヒキガエルのような体勢でベッドに縛りつけられたリカルドを、アレックスは無表情のまま淡々と痛めつけていく。全身をナイフで切りつけ、葉巻を肌に押し付け、散々弱らせておきながら、自白剤まで飲ませる徹底ぶりだった。

『お前、名前は何ていうんだ?』

 アレックスの質問に、リカルドは『リチャード・ルイス』と弱々しく答えた。その瞬間、相手の大きな拳が腹にめり込んだ。容赦なく殴りつけられ、リカルドは噎せ返った。

『んなこたぁ知ってる。俺は本名を訊いてんだ』

 アレックスのその太い腕には、アルファベットのSの形を模したマークが刻み込まれている。ボスの側近メンバーは皆、同じタトゥを入れていた。サンチェスの頭文字――ドン・ラミロに忠誠を誓った証だ。

『指の数を減らされたくなけりゃ、さっさと答えろ』

 はじめは頑なに口を閉ざしていたリカルドも、長時間にわたるアレックスの拷問には敵わなかった。恐怖が上回り、薬も効きはじめ、理性が簡単に崩れ去っていく。

『……リカルド』

 どうせ殺されるのだ。黙っておく理由もない。そんな考えが浮かんだ途端に、口が軽くなったような気がした。

『オーケイ。いい子だ、リコ』顎鬚を摩りながら、アレックスは質問を続ける。『フルネームは?』

『……リカルド・聖也・オルテガ』

『セイヤ? 日系か?』

 熱に浮かされたような、ぼんやりとした口調で、リカルドは答えた。『……母親が、日本人だ』

『所属は? 連邦警察か? 軍か?』

 首を振り、リカルドは『DEA』と呟く。

 Drug Enforcement Administration――アメリカ麻薬捜査局の略称である。

 リカルドが自身の正体を明かした、そのときだった。ホテルの部屋のドアが勢いよく開き、部下を引き連れたラミロ・サンチェスが現れた。

 血まみれになったリカルドの肌を見遣ると、今日も派手なスーツに身を包んだベラクルスの麻薬王は『なかなかいい格好だな、リチャード』と嗤った。

 リカルドは顔をしかめ、無言のままラミロ・サンチェスを睨み返した。なにかを言い返す気力はなかった。

『どうだ、アレックス。吐いたか?』

『はい』ボスの質問に、アレックスが頷く。『こいつ、DEAの人間らしいです』

『ほう、米国人か』

 リカルドはアメリカ麻薬取締局に所属する捜査官だ。現在はベラクルス・カルテルの運び屋に扮し、潜入捜査を行っていた。

 ――ところが、正体がバレた。

 昨夜遅く、自宅に帰宅したリカルドの前に、ドン・ラミロに命令された手下数人が現れ、いきなり襲い掛かってきた。暴行され、気絶させられ、目が覚めたときにはこの有様だった。ホテルに監禁されたリカルドを次に待っていたのが、処刑人アレックスの拷問だ。

『……DEAといえば』ドン・ラミロが思い出したように口を開く。『昔、グアダマハラのギャングが、DEAの捜査官を誘拐した事件を知ってるか?』

 知らないわけがない。DEAに入った者には必ず聞かされる話だ。麻薬ギャングの逆恨みを買った優秀なDEA捜査官が拉致され、拷問され、性的暴行を加えられた挙句に撲殺されたという、1980年代に起こった忌々しい事件。捜査官の遺体が発見されたのは、誘拐から一か月後のことだった。手足を縛られ、身に着けているのは下着だけ、という無残な姿で道端に捨てられていた。

『全身を殴られて、直腸には棒がブチ込まれていたらしいぜ。リチャード、お前もブチ込まれてみるか? アレックスはゲイのサディストだからな、そういうのは得意だろうよ』

 悪趣味な言葉に、リカルドは苛立ちを覚えた。と同時に、恐怖に支配され、体が震えてくる。

 DEAという捜査機関は、卑劣で残忍な麻薬組織を相手にしている分、任務における危険も計り知れないものだった。殉職率もFBIの比ではないだろう。危険な職務だということは理解していた。任務中に命を落とすことだってあるだろうと、覚悟はしていた。

 それでも、怖くてたまらなくなる。

 こいつらは人間じゃない。ドン・ラミロもアレックスも、心をもたない非道な悪魔どもだ。人の頭部を切り落として玩具にするような連中なのだ。普通の人間じゃ想像もできない残酷な仕打ちを、彼らは平気でやってのける。

 特に、裏切り者に対しては、麻薬組織の連中はよりいっそう容赦がない。これから自分がなにをされるのか、どんな酷い目に遭わされるのか。想像するだけで、今すぐ自分で舌を噛みちぎりたい気分にさせられた。

『いいか、アレックス。他に仲間が潜ってないか吐かせろ。後はどうしようと構わない。犯そうがバラそうが、好きにしていい。殺したら、舌と首を切り落とせ。胴体はその辺の空き地に捨てろ。首はDEAの本部にでも送り返してやれ』

 残酷なラミロの命令にも、アレックスは涼しい顔で頷く。『了解』

 その後、ドン・ラミロと手下たちは部屋を出ていった。

 残されたのは、リカルドとアレックスのみ。再び部屋の中が静まり返る。

『仲間はいない……潜ってるのは、俺だけだ』リカルドは処刑人を睨み、か細い声で告げた。『もし他に捜査官がいたとしても、俺に知らされるはずがない』

 アレックスは頷いた。『だろうな』

『さっさと殺せよ』

 苦しめられるくらいなら、いっそのこと、早く死んだ方がマシだ。

 一拍置いて、アレックスは『そうか』と呟いた。

 ナイフを握り直し、動く。

『だったら、そうさせてもらう。俺も暇じゃないんでな』

 ベッドのスプリングが大きく軋んだ。アレックスの巨体が、リカルドに覆いかぶさってくる。

『――アディオス、捜査官』

 アレックスがナイフを振り下ろした。



 ――そこで、リカルドは目を覚ました。

 はっとして起き上がり、乱れた呼吸を整える。

 リカルドがいるのは、ベラクルスのホテルではなかった。福岡にある隠れ家のアパートだ。

 そうだ、と思い出す。自宅に戻り、仮眠をしようとベッドに横になったのだった。いつの間にか眠ってしまっていた。

「…………夢、か」

 汗で湿った黒髪を掻き上げ、息を吐き出す。

「……相変わらず、嫌な夢だな」

 リカルドは小さく呟いた。

 当時の光景が、鮮明に頭の中に蘇る。暴力と汚職が蔓延る中米メキシコの街。日常茶飯事となった殺人や誘拐、警察や敵対組織との市街戦。街のいたるところに転がる無残な死体。

 十万人以上の死者を出した麻薬戦争――その渦中にいた当時の日々を思い返し、リカルドは深いため息をついた。メキシコのカルテルに潜入していたあの頃の記憶は、今でもこうして悪夢となって、リカルドの心を蝕み続けている。

 汗でびしょ濡れになったTシャツを脱ぎ捨てた。引き締まった小麦色の肌には、三十か所にも及ぶ傷痕が残っている。

 恐怖の余韻で、まだ掌が震えていた。喉がひどく渇いている。リカルドはベッドから起き上がり、キッチンへ向かった。冷蔵庫を開け、ペットボトルを取り出す。よく冷えたミネラルウォーターを喉に流し込んだ。

 あれからもう九年が経った。リカルドは今もDEAの潜入捜査官として、カルテル撲滅のために働いている。

 近年、中南米のカルテルがアジアに進出する動きが活発になってきている。そのため、DEAはアジア諸国に捜査官を潜伏させ、組織の動向を見張らせていた。九年前の一件で顔と名前が割れてしまったため、メキシコでの潜入捜査が厳しくなったリカルドも、こうして遠い東洋の地に派遣されることとなった。福岡での任務は、日本人のハーフであるリカルドにとっては適役だった。

 リカルドは現在、末端の売人として麻薬組織の商売に潜り込み、谷久院を始めとする売人たちや組織関係者から情報を収集している。場合によっては、取引の日時や薬物の保管場所、輸送ルートなどの情報を訊き出し、福岡の各捜査機関に通達することもある。

『どうやら、乃万組の関係者に、犬が潜り込んでるらしい』

 谷久院が言っていた『犬』というのは、まさに自分のことだ。リカルドが流した情報のおかげで、件のトラック運転手は逮捕された。

『乃万組は今、躍起になって裏切り者を探してる。見つけ次第、始末するだろう』

 谷久院の言葉を思い返し、再び不安に駆られる。

 ――また、正体がバレてしまうのではないか。

 捜査官という身分が組織に知られ、九年前と同じように、また痛めつけられるのではないだろうか。それは、リカルドがずっと懸念していたことだった。昔のトラウマが呼び起こされ、再び全身が小刻みに震えはじめる。心を落ち着けようと、リカルドは自分の体を掻き抱いた。

「……そろそろ潮時か」

 乃万組が自分の存在に気付き、疑いを抱くのも時間の問題だ。深追いはよくない。この辺りで潜入捜査から撤退した方が身のためだろう。そんな考えが頭を過る。

 そのときだった。仕事用の携帯電話が鳴った。リカルドは通話ボタンを押し、端末を耳に当てた。「はい」

『――リコ、俺だ』

「……ゴンザレスか」

 電話の相手は、ワシントン本部にいるDEAの同僚・ゴンザレス捜査官だった。同じヒスパニック系の男で、彼もリカルドと同様、過去にメキシコカルテル一掃の任務に就いていたこともある。

『どうだ、なにか新しい動きはあったか?』

「いつも通りだ。今日は、乃万組が仕入れた覚せい剤を100グラム買いとった」

 ゴンザレス捜査官には、こうして定期的に状況を報告している。

『そうか』

「ただ」と、リカルドは付け加えた。「乃万組が俺を疑いはじめているようだ。そろそろ手を引こうと思う。今後は距離を置いて奴らの動向を見張ることにするよ」

『ああ、そうだな。それがいい。無茶はするな』

「わかってる」

『ボスも、お前を本部に戻すつもりでいる。そろそろアメリカが恋しいだろ?』

「まあな」

『もうすぐ帰れるぞ。俺が代役に名乗り出ておいたんだ。学生時代に留学したことがあるから、日本語はそれなりにわかる』

 願ってもないことだった。「それは助かるが……いいのか?」

『このままじゃ、俺は中国の僻地に飛ばされちまいそうなんだ。中国の駐在捜査官が人手不足らしくて』

「デカい国だからな」リカルドは一笑した。

 中国は麻薬の生産大国だ。いくつもの組織が暗躍している。そのため、派遣されている捜査官の数も多い。

『中国語も喋れねえし、中華料理も苦手だ。どうせなら日本で仕事したいね』

「そういうことなら、喜んで譲るよ」

 いくつか言葉を交わしてから、リカルドは電話を切った。



 後任が来るまでの仕事を全うしようと、さっそくリカルドは車に乗り込み、乃万組の事務所へと向かった。組事務所周辺を見渡せる場所にあるコインパーキングに車を停め、車内から張り込みを続ける。

 九年前の一件のせいで潜入捜査に対して消極的になっていることは、自分でも気付いてはいた。昔はもっと大胆に組織の深部へ切り込んでいく度胸と無鉄砲さがあったが、痛い目をみてからはそうはいかなくなった。慎重になったのか、臆病になったのか。いずれにせよ、麻薬関係者と直接接触せずに済むというだけで、かなり気は楽になった。

 張り込みを開始して一時間ほどが経った頃、事務所に動きがあった。若頭の岸原を含めた数人の男たちが、黒塗りの車に乗り込もうとしている。

「やけに慌ただしいな……なにかあったのか?」

 すばやく駐車料金の支払いを済ませ、リカルドは車を発進させた。気付かれないよう細心の注意を払いながら、慎重に尾行を続ける。

 車は十数分ほど国道を走り、あるテナントビルの前に停まった。黒服の男たちがビルのエレベーターへと乗り込んでいく。リカルドも近くの路肩に駐車し、彼らのあとを追った。エレベーターの表示を確認したところ、四階で停止していた。

 このビルの四階は、音楽スタジオだ。

「……スタジオなんかに、何の用だ?」リカルドは首を傾げた。まさか、ここに麻薬を保管しているのだろうか。

 しばらくして、四階で止まっていたエレベーターが、再び動きはじめた。岸原たちが戻ってきたのかもしれない。エレベーターが一階に降りてくる。リカルドは近くの非常階段に身を隠し、その場のようすを窺った。

 エレベーターのドアが開く。男がひとり乗っていた。岸原でも、乃万組の構成員でもない。――外国人だ。スキンヘッドの強面で、大柄の男。その太い左腕には、シンプルなデザインのタトゥが刻まれている。

 それを見て、リカルドははっと息を呑んだ。

「あのタトゥは――」

 嫌というほど見覚えがあった。

「今の男、まさか……」

 外国人の男はビルを出て、博多方面へと歩いていく。

 岸原たちを諦め、リカルドはその男を尾行することにした。


     *


 中国人の拷問が済んだところで、マルティネスは依頼主に連絡を入れた。痛めつけられた男は、音楽スタジオの真ん中でぐったりと横たわっている。

 その十数分後、依頼主である乃万組若頭の岸原が、部下を数人引き連れてやってきた。「どうだ? 訊き出せたか?」

「まあな」中国人の証言を書き留めたメモを読み上げながら、マルティネスは報告をはじめる。「まず、ヤクの取引中に三人が殺された例の事件は、こいつらとは無関係らしい」


「本当か?」

「ああ。『あれは俺たちの仕業じゃない』って言ってたぜ。誰も殺してないし、殺したとしても逆さ吊りにするようなことはない、ってさ」

 マルティネスはさらに報告を続ける。

「こいつらのアジトは、中洲にある雀荘だ。一階に中華料理屋があるビルだとよ。薬もそこに保管してる。最近は外国人から商品を捌くよう頼まれてるらしいが、相手が何者かはこいつらも聞かされてないようだ」

「外国人か……」岸原は呟き、続きを促した。「他には?」

「あんたへの恨みつらみも言ってたぜ。『こんなことをしてただで済むと思うな。絶対に報復してやる。俺の仲間が、お前を殺しにくるだろう。殺し屋を雇って、乃万組全員ブッ殺してやるからな』って」

 岸原は拷問された男を見下ろし、「へえ、そりゃあ楽しみだ」とにやついた。

 中国人の男が、岸原からマルティネスへと視線を移す。

「……ガオミー、ヂョ」

 マルティネスを睨みつけながら、男はなにかを呟いていた。

「なんだって?」

「ガイスー……ヘイグイ」

 あいにく中国語はわからない。たいしたことは言っていないだろうが、マルティネスは念のために男の発言を書き留めた。

 一通り報告が終わると、

「今回の報酬だ、受け取ってくれ」と、岸原は約束の金額である五万円に加え、もう一枚、万札を渡してきた。

「気前がいいな」

「警察にいつも払ってる税金に比べたら、安いもんだよ」

 マルティネスは受け取らなかった。「せっかくだが、五万で十分だ」

「良心的な拷問師さんだな。気に入った。贔屓にさせてもらうよ」

「よろしく頼むぜ」

 マルティネスはスタジオを退出し、エレベーターに乗り込んだ。



 それから、マルティネスは地下鉄に乗り、博多方面へと向かった。博多駅で電車を降り、馬場探偵事務所を目指す。JR博多駅の筑紫口を出て、しばらく進んだ先にあるビルの三階。ドアの鍵は、開いていた。

「よう、邪魔するぜ」

 声をかけながら中に入ると、事務所には男がひとりいた。草野球のチームメイトで、この事務所の住人でもある、林憲明だ。

「……なんだ、マルか」林はテレビを観ているところだった。こちらを向き、立ち上がる。「どうした? 何か用か?」

「ちょっと、お前に頼みがあってな」

「俺に? 珍しいな。まあ、座れよ」

 促され、応接用の椅子に腰を下ろす。林が向かい合わせに座ったところで、マルティネスは事情を説明した。

「実は、ある中国人の拷問を依頼されたんだが、そいつが最後に中国語で何か言ってたんだ。一応、調べとこうと思ってよ。お前に訳してもらえたら助かるんだが」中国人の発言を書き留めたメモを取り出し、読み上げる。「ガオミーヂョ、ガイスー、ヘイグイ……わかるか?」

「ああ」やはり、林には通じるようだ。「告密者、該死、黑鬼――だな」

「どういう意味なんだ?」

「告密者は『告げ口屋』って意味だ。該死は『くたばれ』とか『死ね』、黑鬼は英語でいうところの『ニガー』だな。差別用語だよ」

 つまり、すべて自分への悪口だったというわけか。

「……もう数発殴っときゃよかったぜ」

 あの中国人め、とマルティネスは眉をひそめた。言葉が通じないからといって、好き勝手に罵りやがって。

「ありがとな、林。助かった。お礼に飯でも奢るぜ」と言ったところで、マルティネスはふと思い出した。「――そういや、マーロウはどうした? 出掛けてんのか?」

「マーロウ?」林が首を傾げる。

「フィリップ・マーロウ。私立探偵だよ。チャンドラーくらい読め」

 マルティネスが苦笑しながら「馬場はどこ行ったんだ?」と問い直すと、林の顔つきが変わった。

 むっと顔をしかめ、

「……知らねえよ、あんな奴」

 と、吐き捨てるように言う。棘のある声色だった。

「おいおい、何かあったのか?」

「別に」

 別に、という顔ではない。わかりやすい男だ。馬場と喧嘩でもしたのだろうか。

「ラーメン奢ってやるから、機嫌直せよ」

 中国語を訳してくれた礼も兼ねて、マルティネスは林を連れ、中洲へと向かった。


     *


 部屋が散らかっていた。だから掃除した。ただ、それだけのことだ。今日に限らず、よくあることだった。これまでだって何度もあった。

 それなのに――馬場はなぜか、怒っていた。

『なんてことしてくれたとよ!』

 博多弁の怒声が事務所に響き渡った。

『はあ?』わけがわからず、林は首を傾げる。『なんだよ、急に。なにキレてんだよ』

 ただ掃除しただけじゃないか。何なんだ、いったい。

 呆気にとられていると、『勝手なことして!』と馬場はさらに怒鳴りつけてきた。

『おい、ちょっと待てよ』さすがにここまで言われて黙っておくわけにはいかない。林は眉をひそめて反論した。『勝手なことってなんだよ。俺はわざわざ部屋の掃除をしてやったん――』

『勝手に人のモンば捨てて! 馬鹿やないと!』

 馬場の怒りは治まらない。唾を飛ばす勢いで声を荒らげている。

『あんな汚ねえボール、別に捨てたっていいだろうが!』林も負けじと声を張りあげて言い返した。

『いいわけなかろうが! あのボールは、――』

 急に、馬場の言葉が止まった。

 その場がしんと静まり返る。

『……あのボールは、なんだよ』林は相手に向き直り、じっと睨みつけた。『言えよ』

 馬場は黙り込んでいた。答えなかった。ただ『もうよか』と不機嫌そうな声で呟くだけで、林に背を向けた。苛立ったようすで事務所を出て、勢いよくドアを閉め、大きな足音を立てながら去っていった。

 ――というのが、昨夜の出来事である。



「――なにが『もうよか』だよ! 意味わかんねえっ!」

 ガンッ、と音を立ててグラスの底を叩きつけ、林は声を張った。

 マルティネスと一緒に訪れた中洲の屋台『源ちゃん』にて、福岡名物の豚骨ラーメンを食べながら、林は昨夜の一件について皆に説明した。隣の席に座ったマルティネスが「まあまあ、落ち着けよ」と宥め、目の前では店の大将である源造が「そげん怒りなさんな」と嗜めている。

 屋台には榎田も来ていた。林の話を聞きながら、「馬場さんがそこまで怒るなんて珍しいよねえ」と首を傾げている。

「そうかぁ? いっつも怒ってるじゃねえか。この前の試合だって、めちゃくちゃキレてたし。俺がエラーしたときは、いっつもガミガミうるせえ」

「まあ、そうなんだけどさ」

 馬場は普段はおっとりとした温厚な男だが、スイッチが入ると急変する。意外と激情家だ。野球が絡むと、特に。試合中にちょっとミスをしただけで、何度怒鳴られたことか。過去を振り返り、いっそう苛立ちが募る。「他の奴にはなにも言わねえのに、俺にばっかりキレやがって……むかつくんだよ、あいつ」

「それはほら、馬場さんにとってキミは子ど――弟みたいなものだからさ」

「……今、子どもって言いかけたよな?」林は榎田の顔をじろりと睨んだ。誰が子どもだ。馬場の方がよっぽどガキじゃねえか、と心の中で悪態をつく。

 マルティネスが一笑した。「ま、気にすんなって。馬場のことだ。怒ってたことなんか忘れて、へらっとしてすぐ帰って来るさ」

「あいつのそういうところが、また腹立つんだよ」

 林はふんと鼻を鳴らし、

「なあ、ジイさん」仕事中の源造に声をかけた。「何か依頼が入ったら、あいつじゃなくて俺に回してくれよ」

 馬場の仕事を全部掻っ攫ってやる。無職になればいいんだ、あんな奴。

 林のささやかな嫌がらせに、源造は「はいはい、わかったわかった」と呆れたような声で応えた。

 しばらくしてから、ラーメンを平らげたマルティネスが腰を上げた。「んじゃ、俺はそろそろ帰るわ」

「あ、ボクも」と、榎田も続く。

「源さん、これで林の分も払っといてくれ」と、マルティネスが万札を取り出した。

「あ、ボクの分も」

「……お前は自分で払えよ」

 ちゃっかり便乗しようとする榎田を横目で睨みつけながらも、マルティネスは三人分の飯代を支払っていた。

「マル、ご馳走さん。ありがとな」

 奢ってくれた気のいい大男に礼を告げると、マルティネスは「深酒すんなよ」と笑って林の頭を軽く叩いた。

 二人が店を去ってから、

「ジイさん、ビールもう一杯」

 と、林は源造に注文した。

「もう水にしときんしゃい」

「やだね。飲まなきゃやってらんねえよ」

 親父染みたことを言いながら、酒を催促する。

 渋々おかわりを注いだ源造に、林は再び愚痴をこぼした。「……なあ、おかしいと思わねえか? 俺は掃除をしてやったんだぞ? 普通は『ありがとう』って感謝するところだろ? なのに、馬鹿呼ばわりだぜ? 感謝されるどころか、怒鳴り散らされてさ……あー、くそ、思い出したらまた腹が立ってきた」

「なんで、馬場はそげん腹かいたっちゃろうねえ?」

「知るかよ」

 事情もわからないまま、一方的に怒られたのだから。

 苛々しながらビールを呷る林に、

「……おい、林」気になったのか、源造が尋ねた。「それって、どげなボールやったと?」

「ただのきったねえボールだよ。ほら、これだ」

 と言って、林はポケットに入れていた硬球を取り出した。

 源造が目を丸くする。「なんね、捨てたっちゃなかったとね」

「捨てたつもりだったんだよ」

 捨てようとして、ゴミ箱に投げた。ところが、狙いを外してしまい、ボールはゴミ箱の中には入らなかった。そのままコロコロと床を転がり、ベッドの隙間に入り込んでしまったのだ。

 捨てたはずが、実際には捨てていなかった。林がそのことに気付いたのは、馬場が怒って事務所を飛び出していった後だった。わざわざ追いかけて返してやる気にはなれなかった。

「はよ返してやらんね。あいつの大事なもんなっちゃろ」と源造は呆れている。

「大事なものなら、大事だって、そう言えばいいじゃねえか。なのにあいつ、はっきり言わねえし……」

 馬場はあのとき、なにかを言いかけていた。だが、すんでで思い止まり、言わないことを選んだのだ。そのことがまた、林の苛立ちに拍車をかけていた。

「馬場が自分のことを滅多に話さんのは、今に始まったことやなかろうが」

 はっ、と林は鼻で笑う。「秘密主義ってか」

 なにを隠しているのかは知らないが、それなりに信頼されているだろうという自負は、思い改めた方がよさそうだ。

「そうやなか」源造がため息混じりに言った。「……あいつにもいろいろある。そのいろいろにお前らが巻き込まれんよう、あいつは黙っとるったい」

「どういう意味だよ」林はむっとした。「なんだよ、そのいろいろって」

「あとは本人に訊き」と言って、源造がボールを手渡す。「これ持って、はよ断りば言うてきんしゃい」

「はあ? なんで俺が謝らなきゃいけねえんだ」

「お前が大人になってやらんね、林」

「俺は大人だ。ガキなのはあっちの方だろ」

「相手を許してやる器量も、男には必要ばい」と言って、源造は片目をつぶった。

 人生の大先輩に優しく諭され、林はむすっとした顔で口を尖らせる。「……土下座して謝るまでは絶対許さねえ。ボールも返してやんねえ」

 駄目だこりゃあ、と源造はため息をついた。

「……今頃、どこほっつき歩いとるっちゃろうねえ、あの男は」

 馬場に思いを馳せる源造を、林は「さあな」と一蹴した。


     *


 中洲にある【10thousand】は、今年で十五周年になる老舗のナイトクラブだ。店内には大音量で激しい音楽が鳴り響き、フロアでは若者がDJに煽られ飛び跳ねるようにして踊っている。

 そのバーカウンターの片隅で、馬場はジーマの瓶を呷っていた。

 この店に来るのは久しぶりだった。二十歳そこそこの頃はよく通い、朝まで飲み明かすことも多かったが、今ではもうすっかり足も遠退いている。

 しばらく来ていない間に、クラブの客層もずいぶん変わったようだ。アジア系から黒人まで、外国人の姿が多く見られた。奥のVIPルームには、明らかにカタギでない人間が出入りしている。男性用トイレの中では、麻薬の売人が若者に白い粉を売りつけていた。

 昔はここまで物騒ではなかった。ジーマの瓶を傾け、「世も末やねえ」と馬場はひとり呟いた。

 ちょうど、ラテンハウス系の曲が店内に流れはじめたときだった。

「――ねえ」

 不意に、女の声がした。

「一杯、奢ってくれない?」

 そういえば、若い頃はこうして女に声をかけられることも多かった。「俺もまだまだいけるやんか」と、心の中でほくそ笑む。

 どれどれ、と話しかけてきた女を横目で見遣った馬場は、目を丸くして「あっ」と声をあげた。

 よく知っている女だった。

「小百合さん!」

 ショートヘアで長身、この場に似つかわしくない上品な出で立ちをした彼女は、暗殺稼業の同業者だ。そして、昔の恋人でもある。

「なんしょうとよ、こんなところで」

 海外から戻ってきていたのか。

「仕事よ。依頼人と会ってたの」と、小百合はVIPルームの方向を指差した。「あなたこそ、珍しいじゃない」

「久しぶりに来てみたくなったと」

 小百合もバーテンに同じものを注文した。開けたばかりのジーマで乾杯し、話を続ける。

「……ねえ、小百合さん。お願いがあるっちゃけどさぁ」

「なに?」

「今日、泊めてくれん?」

 お願い、と顔の前で両手を合わせたが、小百合は一蹴した。「嫌」

「えー、そんなぁ……」

「遊び回ってないで、自分の家に帰りなさいよ。もういい歳なんだから」

 手厳しい言葉に、馬場は苦笑を浮かべる。「……それが、ちょっと帰り辛くてね」

「あら?」小百合が薄く笑い、顔を覗き込んできた。「もしかして、あの男の子と喧嘩でもしたの?」

 簡単に言い当てられ、馬場はぐっと黙り込む。

「それで行く当てがなくて、柄にもなくこんな店でお酒を飲みながら、時間を潰してるわけね」

「……小百合さんは何でもお見通しやねえ」

 相変わらず鋭い女だ。馬場は肩をすくめた。

「それで、喧嘩の原因は?」と訊かれ、馬場は事の一部始終を話した。

 小百合は呆れたようにため息を吐き、「さっさと謝ってきなさいよ」と言う。

「いや」と馬場は首を振る。「俺もここは引けんばい」

 大切な思い出の品を勝手に捨てられたのだ。簡単に自分から折れるわけにはいかない。

 小百合は「九州男児は頑固で困るわね」と苦笑している。

「男は思い出を大事にする生き物なとよ」

「いつまでも思い出ばかりに拘ってると、もっと大事なものを失うわよ」

 彼女の言葉は、いつも胸をちくりと刺してくる。「まあ、そうかもしれんねえ」と馬場は呟いた。

「あ、そうだわ」

 ジーマの瓶を一気に呷り、小百合が思いついたように言った。

「暇してるみたいだし、あなたに仕事を頼もうかしら」


     *


 源造の屋台をあとにした榎田は、マルティネスとともに夜の中洲の街を歩いていた。【10thousand】という名のクラブが入っているビルの前を通り過ぎ、人気のない細い路地を進んでいく。

 歩きながら、榎田はマルティネスに尋ねた。「乃万組の依頼はどうだった?」

 拷問のプロを探していた乃万組の岸原にマルティネスを紹介したのは、榎田だった。

「ああ、楽な仕事だったぜ」

「詳しく聞かせてよ」と榎田は促した。拷問師である彼は、自分にとって重要な情報源のひとつだ。

 マルティネスが口を開く。「なんでも、乃万組のヤクザ二人と、フリーの売人が殺された事件があったらしくてよ。その犯人が、乃万組と揉めてる中国人グループの仕業じゃないかって、岸原たちは疑ってたんだが、どうやら中国人はシロみたいだ」

「……その事件、ボク犯人知ってるかも」

「マジかよ」マルティネスが声を弾ませた。

「うん。たしかに中国人の仕業じゃないよ」

「じゃあ、犯人は誰なんだ?」

「殺人ピエロ」

「はあ?」

 なんだって、とマルティネスが訊いた、その瞬間だった。

「――動くな」

 突然、背後から鋭い声をかけられた。

 榎田とマルティネスは、同時にぴたりと足を止めた。不意を衝かれ、全身に緊張が走る。弾かれたように後ろを振り返ると、そこには男が立っていた。銃を構え、銃口をマルティネスに向けている。

「両手を上げろ」

 男が命じた。

 見知らぬ男のその言葉に、榎田は素直に従った。隣のマルティネスも同じく、ゆっくりと掌を相手に向けている。

 薄明りの中、榎田は目を凝らして相手を観察した。男の歳は三十前後。上は黒革のライダースジャケット、下はカーキ色のワークパンツにブーツ。格好だけでは何者かはわからなかった。

 マルティネスと比べたら細身だが、それでも筋肉質な体型で、インナーのグレーのTシャツがやや窮屈そうに見えた。顔は整っていて、目鼻立ちがはっきりしている。髪は黒く、短めだが癖のあるツーブロックヘアだ。肌はすこし焼けていて、外国の血が混じっているのは確かだろうが、アジア系にもヒスパニック系にも見える容姿だった。体格や立ち振る舞いからして、戦い慣れていることが窺える。構えている拳銃はオートマチックだ。

「お前は――」

 男の顔を見たマルティネスが、目を丸くし、驚いたように声をあげた。

「マルさん、知り合いなの?」

「……ああ、まあな」マルティネスは頷き、苦笑いを浮かべた。「昔の男だよ。俺のことが忘れられなくて、ここまで追いかけてきたんだろうな。健気なやつだぜ」

 マルティネスはゲイだ。彼に男の恋人がいたところで何の不思議もないが、昔の恋人から銃を向けられるなんて、なんとも穏やかではない。いったいどんな酷い別れ方をしたのだろうか。そもそも本当に恋人なのだろうか。疑問は尽きなかった。

「榎田、お前は先に帰れ」マルティネスが告げた。「二人だけで話がしたい」

 それから、視線を男に向ける。

「こいつは無関係だ。帰してやってくれ。いいよな?」

 マルティネスは榎田を逃がそうとしている。男もそれを承諾し、「行け」と顎で合図した。その間もマルティネスを睨みつけ、銃を向けている。今にも引き金を引いてしまいそうな、殺気立った雰囲気だ。

「ねえ、大丈夫なの?」

 榎田が尋ねると、マルティネスは笑って頷いた。「ああ、心配いらねえよ」

「気を付けてね」

 ぽん、とマルティネスの背中を叩き、榎田はその場から立ち去った。



 榎田は住処にしているネットカフェまでの道を歩きながら、イヤフォンを耳の穴に埋め込んだ。

『――誰が昔の男だって?』

 不機嫌そうな男の声が聞こえてきた。通信は良好だ。

 別れ際、マルティネスの背中を叩いたとき、彼の服のポケットにこっそり盗聴器を仕込んでおいた。セアカゴケグモ型の盗聴発信機だ。これで、彼らの会話をすべて盗み聞きできるし、現在地も把握できる。

 イヤフォンから聞こえてくる二人の男の声に、榎田は耳を傾けた。

『仕方ねえだろ』

 今度はマルティネスの声だ。

『あの男は情報屋だ。好奇心旺盛なんだよ。本当のことを言えば、絶対首を突っ込んできやがる』

 マルティネスの言葉に、榎田は「よくわかってるじゃん」とにやついた。


     *


 面倒なことになったな、とマルティネスは心の中で舌打ちする。

 男は銃口をこちらに向けたまま、ワークブーツの足音を打ち鳴らし、ゆっくりと近付いてきた。

 マルティネスの心臓に銃口を押し付け、低い声で尋ねる。

「誰が昔の男だって?」

 両手を上げたまま、マルティネスは笑った。「ベラクルスのホテルでのこと、忘れたのか? ベッドの上であんなに可愛がってやったじゃねえか」

「全身三十か所切りつけて、キューバ産の高級葉巻で火傷させるのが、テメェの可愛がり方か?」

「あのときのお前の泣き顔、最高だったぜ」

 にやりと笑ってそう言った瞬間、腹部に衝撃が走った。

 相手の膝が胃の辺りにめり込み、マルティネスは呻き声をあげた。腹を押さえながら、「いってえな、くそ」と男の顔を睨みつける。あやうく食べたばかりのラーメンを吐き出すところだった。

 相手は睨み返してきた。「気色悪いこと言いやがって。なにが昔の男だ、虫唾が走るぜ」

 先刻の発言が余程気に食わなかったのだろう。相手はご立腹だ。今度はマルティネスの額に拳銃を押し付けてくる。

 本当に面倒なことになった。勘弁してくれ、と思いながら、マルティネスは言い訳する。「仕方ねえだろ。あの男は情報屋だ。好奇心旺盛なんだよ。本当のことを言えば、絶対首を突っ込んできやがる。……それでもいいのか?」

 訊けば、相手は黙り込んだ。

「首を突っ込まれたらマズいんだろ、リチャード。……ああ、本名は『リカルド』だったっけ?」

 過去に無理やり訊き出した名前で呼ぶと、リカルドは渋い顔で訂正した。「今はムラカミだ」

 彼が偽名を使っているということは、またどこかの組織に潜っている最中なのだろう。「相変わらずアンダーカバーな仕事ばっかりしてんな。命がいくつあっても足りねえぞ」

「それはこっちの台詞だぜ、アレックス」

「今はホセ・マルティネスだ」マルティネスも訂正した。目を細め、ひと言付け加える。「ペペって呼んでくれてもいいぜ」

『ペペ』は、ホセという名前によく使われる愛称である。リカルドは「誰が呼ぶか」と吐き捨てた。

「それにしても、久しぶりだな、リコ。九年ぶりか?」マルティネスはわざと明るい声で話しかけた。「最初は誰かわからなかったよ。昔はチェ・ゲバラみたいな顔してたくせに、小奇麗になったもんだな」

 当時、リカルドは髭を生やし、パーマをあてたような長髪を携えていた。カルテルの売人になりすますために、わざと小汚い格好をしていたのだろう。

「テメェこそ、ずいぶん変わったじゃねえか。その腕のタトゥがなけりゃ、気が付かなかったぜ」リカルドがこちらを見て、鼻を鳴らした。「昔はフサフサだった。若ハゲとは気の毒に」

「剃ったんだよ。失礼なやつだな」

 見た目を変えたのはマルティネスも同じだ。髪の毛も髭もすべて剃り落とし、印象を変えた。昔のお仲間に見つからないよう、新しい人間に生まれ変わるために。

 だが、そのお仲間のひとりであるリカルドが、今こうして目の前に立っている。これは困った状況だ。

「――それで? 俺に何の用だ?」だいたいの見当はついていたが、マルティネスは白々しく尋ねた。

「テメェには、いろいろと訊きたいことがある」リカルドが睨みをきかせて答えた。

 だろうな、と思った。マルティネスは頷く。「そうか、長くなりそうだな。場所を変えようぜ」

「……ああ、そうしよう」

 リカルドも素直に頷いた。これは穏便に事を済ませられるかもしれない、とマルティネスは期待したが、甘かった。今度は頭部に衝撃が走る。リカルドがマルティネスを殴りつけた。

 呻き、マルティネスはその場に倒れた。頭が酷く痛む。おそらく銃でこめかみを強打されたのだろう。気をしっかりもとうと歯を喰いしばったが、遠退いていく意識には逆らえなかった。