「お疲れ様です、真紘さん。お先に失礼します」

 一日の営業を終えた珈琲エメラルドに小野寺美久の声が響く。カウンターにいた店長の上倉真紘がにこりとした。

「お疲れ様でした。帰り道、気をつけて」

「ありがとうございます。それじゃあ、また明日」

 裏口を閉めて小道に出ると寒風が吹き抜けた。十一月。日中は暖かくとも太陽が沈むとぐっと冷え込むようになっていた。

 美久はウールのコートの襟を押さえ、帰り道とは別の方向へ歩き出した。普段は寄り道しないが今日は駅前で買い物だ。

 あのシャンプー、どのお店が安いかな。新しいスイーツもチェックしたいな。

 来月末にはクリスマスが控えている。そろそろクリスマスらしい冬期メニューを用意したい。クリスマスプディング、ブッシュ・ド・ノエル、シュトレン、アイシングしたスノーマンやサンタクロースのクッキー。クリスマスには可愛くて美味しいスイーツがたくさんある。

 あれこれ考えながら吉祥寺駅前交差点にさしかかった時、通りの向こうを歩く人に目がとまった。ブレザーの制服を着た高校生が駅に向かっている。背筋の伸びた佇まいは大勢の人の中でもよく目立った。

 美久は青信号の点滅する横断歩道を渡り、高校生に追いついた。

「悠貴君!」

 振り返ったその人ははっとするほど端整な顔立ちをしていた。

 形の良い眉に、細く通った鼻梁。華奢なフレームの眼鏡の奥の目は涼しげで高い知性を窺わせる。柔らかな黒髪とすらりと伸びやかな手足。どこをとっても神様が丁寧に作りすぎたとしか思えない。

 上倉悠貴。進学校の慧星学園に通う高校二年生だ。美久の働く喫茶店エメラルドのオーナーであり、さらにもう一つ別の顔を持つ。

 悠貴は横目でちらりと美久を見ると歩調を緩めず言った。

「何だ?」

「えっ、なんだって……ばったり会ったのに驚かないの?」

「どこに驚く要素がある」

「たまたま会ったらびっくりするよね? どうしてここにいるのかなとか、こんな時間にどうしたのかなとか、いろいろ気にならない?」

「ならない。バイト帰りに洗剤かシャンプーを買いに来たのはわかってる」

「どうして知ってるの!」

 美久は言い当てられてびっくりした。買い物して帰ることはもちろん、シャンプーが切れた話など誰にもしていない。

 目を白黒させる美久に悠貴は自明とばかりに答えた。

「エメラルドの営業は午後八時まで。現在、時刻は八時三十六分、後片付けをしてここに直行したのは明らかだ。さらにこの数日は店で会うたびお前から異なる香りがした。大学とバイトに加えて事件続きで手一杯だったのに香りだけころころ変わるということはシャンプーか洗剤を切らしたんだろう。試供品か何かで繋いでいたがそれもなくなって慌てて買いに来た、そんなところだ」

 ううっ、まったくそのとおり……!

 ここしばらく、新商品やサンプルを試していたのだ。気に入ったものが見つかったので、コンディショナーとセットで買い替えるつもりでいた。

 香りに気づくなんて、もしかして私のこと好きなのかな?

 なんて甘い想像の一つもしたいところだが、そんなものが挟まる余地はない。

 悠貴が口にしたことはただの事実で、情報以上の意味をなさない。長く悠貴のそばにいる美久だからこそ、そのあたりのことは重々承知していた。

 そして、これが悠貴のもう一つの顔だ。どんな探し物も必ず見つけ、不可解な謎もたちどころに解いてしまう。そんな魔法使いのような探偵がいる――――まことしやかに噂される『エメラルドの探偵』こそ、この悠貴なのだ。

 美久は微笑んだ。

「すごいね、本当になんでもわかっちゃうんだから。悠貴君も買い物? こんな時間に駅のほうにいるってめずらしいね」

「駿河ゼミナールに行くんだ」

「予備校に通い始めたの?」

 高校二年生なら予備校くらい通うだろうが、あくまで一般論だ。悠貴は店の手伝いと探偵業をこなしながら、学校では成績優秀者しか入れない生徒会で副会長を務めている。そんな多忙で超人的な悠貴と予備校がうまく結びつかない。

 悠貴がスマートフォンで時刻を確認した。

「人に会いに行くだけだ。時間がないからもういいか」

 こんな時間に人と会う。しかも予備校で? 学校の友だちなら明日会えるのに、どうしてわざわざ出かけるんだろう。

 そこまで考えて美久はぴんと来た。

「ひょっとして依頼人? それなら私も行く!」

「そうじゃない」

「だけど学校の用事じゃないよね。予備校ならエメラルドと関係ないし、なにか事件があったんでしょ?」

 推理があたったのか、悠貴は少し間を置いてから溜息を漏らした。

「勝手にしろ」

 一見冷たい反応は『ついてきていい』という意味だ。

 同行の許可に美久は笑顔になった。

「じゃあ、急がなくちゃ。遅くなると真紘さんが心配するもんね」

 駅ビルはすぐそこに見えていた。

 中央線は比較的すいていたが、新宿で山手線へ乗り換えるとひどい混雑に巻き込まれた。帰宅時間帯のホームは人で溢れ、アナウンスが雑踏でかき消される。

 やってきた電車には乗れたものの、あとから続々と人が乗り込んできて美久は押し潰されそうになった。すると、悠貴が美久の腕を引いて立ち位置を替わった。乗車口に近い側に立ってくれたおかげで圧迫から解放され、呼吸が楽になる。

「ありがとう」

 美久は礼を言ったが、悠貴は聞こえない様子だ。

 優しいのに素直じゃない。悠貴らしい態度に美久の顔は綻んだ。

 ドアが閉まり、電車が動き出す。満員の車内は暖房が効きすぎて暑かった。たくさんの人がいるのに聞こえるのは電車の走行音とイヤホンの音漏れだけだ。

 視線を上げると触れるほど近くに悠貴がいた。これほど近くにいながら会話しないでいるのは初めてだ。奇妙な感覚を覚えながら電車に揺られていると、美久の意識は数日前の出来事に向いていた。


「悠貴君のこと、知りたい。人から聞かされる話じゃなくて、悠貴君の言葉で、悠貴君のことが聞きたい」

 営業前のエメラルドに美久の声が染み渡った。

 テーマパークでの依頼を解決した翌日。柔らかな光の射す客席に美久は悠貴と二人きりだった。

 今伝えなければ、訊けなくなる気がした。

 肌身離さず持っている解約済みの携帯電話。悠貴の好みとは違うクマのストラップ。花見堂聖との確執。謎めいた交友関係。両親のこと。そしてどうして探偵をしているのか。

 ずっと訊きたかった。ずっと知りたかった。

 同時に悠貴が答えたくない話だとわかっていた。

 これは、心の傷に触れる。悠貴が一番触れてほしくない思い出に触る。そうわかっていながら美久は尋ねることを抑えられなかった。

 悠貴にとって重要なことだからこそ、悠貴の口から聞きたかった。誰かに語られるのではなく、何となしに知ってしまうのではなく、目を見て話したい。

 しかしそれは美久の都合だ。美久の望みであって、悠貴の望むところではない。

 悠貴が口をつぐんできた時間の長さがその気持ちを物語っている。簡単に話せることではない。拒否されてもしかたなかった。

「どこまで聞いた」

 ところが、悠貴の落ち着いた声が響いた。

 想像と違う言葉に美久は内心驚きながら記憶を辿った。

「部志田さんがある学校を支援してて、聖君と悠貴君がその寮にいたって」

 部志田は国内最大級のテーマパーク、ドリームキングダムの会長だ。七十代の女性で悠貴とは旧知の仲のようだった。謎めいた交友関係の一端である。

「それから……その寮は親のいない子が行く場所だって、聖君が」

 その名前を口にしたとたん、悠貴の眉間に皺が寄った。

「あいつが? いつそんな話をしたんだ」

「えっ!? ええと、ま、前にちょっと……!」

 聖がドリームキングダムにいたことは悠貴に伝えていない。二人の仲は最悪だ。互いに嫌悪し、憎み合っている。悠貴に聖の話をしても不機嫌にさせるだけなので触れずにいた。追及されるといろいろ困る話題だが、幸いそうはならなかった。

「親のいない子どもが行くところか。大げさだな」

 悠貴は冷めた調子で呟いた。

「確かにそういう生徒もいたが、ごく一握りだ。俺が通ってたのは聖ヨゼフ国際学院という大学付属のミッションスクールだ。もとの経営母体がキリスト教の修道会だった関係で、児童養護施設からの特待生が寮にいたんだ。俺はステイ――一般生徒だ。小学生の時に編入して、数年間寮にいた」

「小学校に寮があるの?」

 美久が目を丸くすると、悠貴は肩を竦めた。

「そう驚くことでもないだろ」

「外国の小説とかドラマでなら見たことあるけど、小学生で寮に入るって聞いたことないよ」

「確かに小学生は多くないし、入学から卒業までいる奴は希だな。だが寮のある学校なら全国に少なからずある。協調性や社会性を身につけるために入学させる親もいるし、仕事や健康上の都合で選択することもある。長期入院や家族帯同できない海外の危険地域へ出向しなければならない場合、誰が子どもの世話をする? 二年も三年も子どもを預かってくれる親類が誰にでもいるわけじゃないだろ。多少金をかけても寮付きの学校に入れた方が面倒が少ない」

 言われて初めて美久はそのことを考えた。どの家庭も両親が健在で、親族との関係が良好であるはずがない。親の入院や転勤、特に海外転勤では教育や福祉の面から子どもを連れて行けないと判断することもあるだろう。

 そういう家庭の子はどこへ行くのか。誰を頼り、どうやって生活していくのか。

 寮付きの学校は子どもの自主性を育てるという教育理念だけでなく、そうした家庭の受け皿としても機能しているのだ。

「いろんな家庭があるんだね」

「そういうことだ。答えになったか?」

 美久は返事に窮した。


 訊きたいと言ったのは学校のことだけじゃない。悠貴もわかっているはずだ。

「もう営業時間だな。今日はここまでだ」

 話はそれで終わった。

 悠貴が寮に入ったきっかけは何だったのか。真紘はどうしていたのか。そして二人の両親は?

 答えてもらったのに、かえって疑問が増えてしまった。

 だが美久は自然と笑顔になっていた。

「話してくれてありがとう」

 悠貴の過去に何があったかわからないが、それが今も悠貴に暗い影を落としていることはわかる。そんな触れられたくない過去を片鱗でも伝えてくれたのが純粋に嬉しかった。それに。

 ――今日はここまでだ。

 また、話してくれるって意味だよね。

 知りたくないといえば嘘になる。もどかしくて、今すぐにだって全部聞きたいのが本心だ。だからこそ、営業直前に適当にまとめて話してほしくなかった。いくら時間がかかってもいい、悠貴としっかり向き合いたい。

「待ってる。悠貴君が話してもいいって思える時まで」

 返事はなかったが美久は構わなかった。悠貴の沈黙が冷たいものではないことくらい、もう知っている。


 山手線に揺られること約十分。迷宮のような池袋駅の地下街を抜けて地上に出た美久はほっと息を吐いた。

「すごい人だったね」

 エメラルドを出た時は寒いくらいだったが、満員電車の熱気で火照った体には冷たい外気が気持ちよかった。駅前は地下街に負けず劣らずの混雑だが、頭上が開けている分、閉塞感がなく清々しい。

 悠貴はスマートフォンで地図を確認して美久を振り返った。

「行くぞ」

 美久は通行人とぶつからないよう気をつけながら悠貴の隣に並んだ。

「これから会うのはどんな人?」

「駿河ゼミナールの全校模試で二位を獲った菅原道一という奴だ」

「へえー、学問の神様の菅原道真公みたいな名前だね。名前のとおり頭いいんだ」

「前回模試ではランク外、それも下から数えた方が早い成績だったらしいがな」

「え……そうなの?」

「天神様ならぬ0点人様が学問に目覚めたって噂になるくらいだ」

 美久の中で烏帽子をかぶった知的な人物像が音を立てて崩れた。しかし底辺の成績から一度の模試で二位まで上り詰めたのだ、大したものだ。

「菅原君、一所懸命勉強したんだね。どこの高校の人?」

「さあな」

「さあなって、会う約束したんだよね?」

「昼に学校の奴から話を聞いただけだ。会う約束なんてしてないし、面識もない」

 美久は目を白黒させた。

 顔を知らなくて、しかも会いに行くと伝えていない。一体どういう状態だろう?

「じゃあ、これから会う人は……依頼人じゃなくて調査対象ってこと?」

 考えながら尋ねると、悠貴は目線で前方を示した。

「詳しい話はあとだ」

 視線の先には、窓に『駿河ゼミナール』と書かれたビルがあった。


 駿河ゼミナールはビルの二階から五階のフロアを占めていた。受付と講師控え室が二階にあり、残りは教室のようだ。美久がホールの案内板を眺めているとエレベーターがやってきた。悠貴は迷わず四階のボタンを押した。

「菅原君がどこにいるか知ってるの?」

「確認済みだ」

 さっき話に出た『学校の奴』からの情報だろう。

 それにしても、と美久はあたりを窺った。

「勝手に入っていいのかな」

 予備校生ではない上に美久は大学生だ。場違いだと自覚している分、腰が引ける。そんな美久に悠貴は他人事のように呟いた。

「俺は高校生だから予備校にいる理由はいくらでもあるが、お前はどうだろうな。服装的にも年齢的にも」

「い、いじわる……!」

「依頼だとは一言も言ってない。お前が勝手についてきたんだろ」

 悠貴が悪戯っぽい目をしているのに気づき、美久ははっとした。

「悠貴君、わざと説明しなかったでしょ!」

 チン、とエレベーターが四階へ到着したのを告げた。答えを聞きそびれたが悠貴の口の端に浮かぶ笑みを見れば十分だ。

 本当にもう!

 腹が立つが、エレベーターに居座るわけにもいかない。調査で二度も高校に潜入させられた経験があるのだ、それに比べれば予備校なんてずっと簡単だ。

 私服の学校もあるし、こういう時は堂々としたほうが怪しまれない――――はず。

 美久は胸に呟いて悠貴のあとを追った。

 こぎれいなフロアだった。青いカーペットが敷かれた廊下に、オフホワイトの壁。廊下は広々として、中ほどにはちょっとしたカフェスペースがある。

 洒落たオフィスのようなつくりだが、競争心を煽るためか、壁には予備校内で行われた全校模試の結果が貼り出されていた。氏名と校名が百位まで並び、いくつかの名前の上に赤い花飾りがついている。

 二位の菅原に花飾りがあるところをみると、池袋校に通う生徒の印だろう。

 花飾りは四十位以降に点在し、八十位前後に十個ほど列を作っていた。菅原の成績がいかに希有なものか見せつけられた気がした。

 きょろきょろとあたりを見回す美久と違い、悠貴は颯爽と廊下を進んだ。部外者とは思えない自然な振る舞いでカフェスペースを通り過ぎ、教室に入る。美久は室内に足を踏み入れる勇気がなく、ドアのところから様子を窺った。

 三人掛けの長机が並ぶ教室で、数人の受講生がテキストを眺めている。

 悠貴は手前の席にいた生徒と少し言葉を交わし、廊下に戻ってきた。

「菅原はいない。いつも始業すれすれに戻るそうだ」

「じゃあ、ここで待つ?」

「いや、その前に一つ片付けよう」

 悠貴は廊下の突き当たりのドアを開けて外階段から二階へ下りた。

 二階の内装は四階とよく似ていたが、人影はなく、落ち着いた雰囲気だった。『面談室』や『講師控え室』とプレートのついたドアが並び、奥に受付の看板とガラスで仕切られたスペースが見える。エレベーターを使えば入り口にあたる位置だ。

 おもむろに悠貴がジャケットを脱いだ。

「持ってろ」

「えっ?」

 ジャケットを美久の手に押しつけて受付のドアを入っていく。

 美久はぽかんとした。

 どうして受付? 菅原君に会いにきたはずじゃあ? それにこのジャケットは??

 中を覗きたいが、そんなことをしてはいかにも不審者だ。やきもきしながら待っていると、少ししてドアが開いた。

「お忙しい中、ありがとうございました」

 出てきた悠貴はよそ行きの輝くような笑みで受付に会釈してドアを閉めた。

 美久は悠貴が近くに来るのを待って小声で尋ねた。

「何してたの?」

「菅原の顔写真を確認してきた。ついでにプロフィールもな」

「そんなこと、どうやって?」

「菅原に教科書を貸してるのにまだ来ない、スマホを忘れて連絡できないし、もう授業が始まるから申し訳ないが電話を借りられないかと頼んだんだ」

「電話を借りると顔写真が見られる……?」

「スマホを忘れたと言っただろ。菅原の電話番号を探してもらった。当然、出てくるのは個人情報の載った名簿だ」

「あっ」

 書類にしろデータにしろ、菅原の氏名、住所、電話番号などが記載されていたはずだ。写真もそれで確認したというわけだ。

 美久は呆れた。よそ行きの笑顔で言葉巧みに受付を丸め込んだに違いない。ただでさえ端整な顔立ちで優等生の雰囲気を纏っているのだ、悠貴にかかれば大人を手玉に取るなんて朝飯前だ。

「じゃあ、これは?」

 ジャケットを返すと、悠貴は袖を通しながら答えた。

「受付とはいえ教育機関の人間だからな、慧星の制服や校章を知っているおそれがある。菅原との関係を勘ぐられても困る。案の定、相手に与える情報を最小限にして正解だった」

「……えーと?」

「菅原が通うのは私立六仙高校、偏差値四十前半だ。成績に価値基準を置く予備校で、進学校の俺と菅原が知り合いだと言っても信憑性に欠ける」

 誰かと友だちになる機会は部活や趣味など様々だが、競争の場である予備校ではそうした意識が働きにくいのだろう。有名進学校と六仙の生徒では同じ授業を受講しているのかも怪しい。悠貴は受付の人間に疑問や違和感を持たれないよう自分の情報を伏せたのだ。

 美久は感心した。些細なことも抜け目なく対応するのが悠貴らしい。

「それから裏が取れた。菅原の駿河ゼミでの定期試験結果を見たが、0点人様の噂通り、目も当てられない成績だった」

「じゃあ、本当にずっと成績がよくなかったんだ。急に予備校全体で二位になるなんて、菅原君はどんな勉強方法に変えたのかな」

「それを本人に確認する。丁度いい時間だな、戻るぞ」

「うん」

 美久はドアを開け、悠貴を先導するように階段を上がった。

 上階に近づくにつれて予備校生たちの談笑が響いてくる。授業直前で生徒が戻ってきたのだろう、先ほどより賑やかだ。

 何気なく四階のドアを開けたとたん、談笑だと思っていたものが悲鳴に変わった。

 えっ、なに!?

 美久はぎょっとして視線を走らせ、息を呑んだ。

 廊下に数人の予備校生がいる。その向こうに明らかに異質な人がいた。

 背の高い偉丈夫で、派手な風貌は一見して予備校生ではないとわかる。

 指を彩る無数のシルバーリング。脱色して色をのせたような明るいアッシュブラウンの髪と、その間に覗く三連のピアス。

 顔を見た瞬間、美久は叫んでいた。

「聖君!?」


§


 美久は呆気に取られ、自分以上に場違いな青年――花見堂聖を見つめた。

「あいつ……!」

 悠貴が非難を込めて呟くのと聖がこちらを向いたのはほぼ同時だ。

 聖は美久に目をとめ、ぱっと笑顔になった。

「よう、美久」

 精悍な顔つきに浮かぶ人懐っこい笑みは、友人とばったり会った時の模範的な反応といえるだろう。ただし状況が問題だ。

 笑顔の聖の腕には男子生徒がぶらさがっていた。

 襟元をねじ上げ、今まさに恐喝している風情だ。物騒な場面に出くわしてしまった予備校生たちが右往左往している。

「なななななにしてるの……!?」

 美久がうろたえると、聖は快活に笑った。

「ちょっとな」

「ちょっとって――」

「こっちです!」

 突然、廊下の向こうから緊迫した声が響いた。

 エレベーターホールから足音がなだれ込み、講師らしき男と二人の警備員が現れた。その視線が予備校生を締め上げる聖に集中する。

「君、何してるんだ!?」

 講師と警備員が聖に飛びかかった。

 聖はにやりと笑い、掴んでいた予備校生を講師たちへ投げつけた。

 あっという間の出来事だった。

 講師と警備員が血相を変えて生徒を抱きとめると、聖は生徒の背中を踏み台にして高く飛び上がった。講師たちの頭上をすり抜け、まんまと彼らの手をかわす。

 むちゃくちゃな行動に美久が泡を食っていると聖が振り返った。

「あとよろしくな!」

 あとって……! この騒ぎをどう収拾しろというのか。

 悠貴が舌打ちした。

「行くぞ!」

「えっ、だけど」

「馬鹿か、あいつの仲間だと思われた!」

 悠貴は美久の手を取って身を翻した。予備校生たちが美久たちを指差し、警備員の一人が目をつり上げて向かってくる。

 状況を理解した瞬間、全身が総毛立った。ぐずぐずしている暇はない。

 美久と悠貴は外階段へ飛び出し、一目散に建物の外へ逃れた。通行人を避けながら街灯の灯った道を駅へと走る。

「こっちだ!」

 悠貴は大通りを跨ぐ歩道橋を駆け上がった。欄干から道路を見渡して追っ手がないことを確認すると、歩調を緩め、肩で大きく息を吐いた。

「もう大丈夫だ」

 歩道橋なら万が一追っ手が来てもすぐわかる。

 美久は膝に手をついて呼吸を整えた。額に玉のような汗が浮いていた。しかし心臓がドキドキしているのは走ったせいだけではなかった。

「もう、何考えてるの……!」

 非難はここにいない聖に向けたものだった。

 今なら聖が去り際に声をかけてきた理由がよくわかる。美久と悠貴に話しかけることで、自分にかかる追っ手の数を減らしたのだ。

 聖と会うと大抵ひどい目に遭う。まるで竜巻だ。なんの前触れもなく現れて、その場を荒らして去っていく。

 美久はウールのコートを脱いで、大きく息を吸った。

「聖君、あんなところで何してたんだろう」

 むちゃくちゃな性格ではあるが、誰彼構わず傷つける人ではない。無意味に見えても聖の行動には必ず意味がある。

「脅してるみたいに見えたけど、あの高校生と何があったのかな」

 返事はなかった。

「悠貴君?」

 悠貴は欄干に手をのせ、宙を眺めていた。

 どうしたんだろう? ぼんやりするなんて悠貴君らしくない。

 そう思った時、悠貴がぽつりと言った。

「これではっきりした」

「え?」

「あの馬鹿が締め上げていた予備校生、あれは菅原だ」

 美久は目を瞬いた。

「どうして悠貴君が会おうとしてた人を聖君が?」

 悠貴はたまたま今日学校で菅原の話を聞き、会うことを決めた。聖がそのことを知るはずもなく、たまたま菅原を恐喝していたことになる。

 たまたま。そんなこと、あるはずがなかった。

「偶然じゃないよね」

 美久にわかるのはそこまでだ。話を促すように見つめると悠貴が答えた。

「学校で聞いた話には続きがある。菅原は学業成就の〈コハクのお守り〉を持っていたそうだ」

「〈コハクのお守り〉? 神社とかにある、あのお守り?」

「そういうものだと思われていた。うちの生徒会でも少し前に話題になった。何でも〈コハクのお守り〉を手にすれば、テストでも受験でも望む結果が得られるそうだ。すべてを思うままにできるほど頭が良くなるらしい」

 頭が良くなる。

 美久は背筋がぞくりとした。言葉が蛇のように記憶をなぞり、嫌な思い出が揺り起こされる。

「〈コハクのお守り〉があれば驚異的な記憶力が身につき、膨大な情報量を短時間で記憶できる。思考がクリアになり、疲れも眠気も感じない。夢のような知性が一瞬で手に入る――そういう馬鹿げた噂だ。信憑性がなく、確認するほどでもなかった。だが今日になって菅原の話が飛び込んできた。最下位争いをしていた0点人様が予備校の模試で突如好成績を叩き出した。しかも〈コハクのお守り〉を持ってると自慢げに話してる、とな」

 胸がざわめく。琥珀色。驚異的な記憶力。疲れもなく、眠気も感じない。同じように評されるそれを美久は知っている。悠貴が何を言わんとしているのかわかる。

「――〈頭の良くなる薬〉」

 美久は呆然とその名称を呟いた。

 かつて美久と悠貴はその事件に遭遇している。依頼は難なく解決したが、謎の残る奇妙な事件だった。

 悠貴が頷いた。

「〈コハクのお守り〉という名称から予測される形状に『疲れや眠気を感じない』という危険ドラッグを思わせる効果、それに異常な記憶力は〈頭の良くなる薬〉の特徴と合致する。菅原を問い詰めて現物を確認するつもりだったが、あの馬鹿がいたおかげで手間が省けた。〈コハクのお守り〉は護符やお守りなんかじゃない、十中八九、あの薬だ」

「じゃあ、さっき聖君がいたのは〈頭の良くなる薬〉を追ってたから?」

「…………」

「悠貴君?」

 悠貴は美久の視線を避けるように目を伏せ、黙り込んでしまった。

 本当にどうしたんだろう?

 いつもと様子が違う。悩んでいるというより考えている印象だが、これほど思案に時間を割く悠貴を見るのは初めてだ。

「先日の話が途中だったな」

 ふと悠貴が言った。

 何の話かわからなかった。一拍おいて美久は思い至った。

 ――悠貴君のこと、知りたい。

 先日投げかけたまま中途半端になった話の続きだ。

 今この話題が出るとは思いもしなかった。しかし急に話題を振られたことで美久はその重要性に気づいた。

 悠貴が意味もなくこの話を切り出すはずがない。

「悠貴君の過去は、聖君のことと関係あるんだね」

「…………ああ」

 話を聞く心構えはとっくにできている。

 美久は話を促すように頷いた。だが悠貴はすぐに話そうとしなかった。

 歩道橋を渡る夜風が悠貴の髪を揺らす。伏せた目にどんな感情が浮かんでいるのか窺い知れなかった。

 辛抱強く待っていると、悠貴が目線を上げた。

「俺が寮に入っていたのには理由がある」

 どんなことを聞いても驚かない覚悟があった。

 だが悠貴が口にしたことは美久の想像を遙かに超えていた。


「俺と真紘は父親が違う。俺の父親は、時ヶ瀬商事の会長――つまり時ヶ瀬グループのCEOだ」


 思考が追いつかなかった。美久が呆然としている間にも話が続いた。

「あの男の息子に相応しい教養と社会性を身につけるために入寮させられた。それがお前が部志田会長やあいつから聞いた学校のことだ」

「まっ、待って」

 真紘さんと半分しか血が繋がっていない?

 悠貴君のお父さんがCEO?

 驚くべき告白に何から尋ねたらいいかわからなくなる。最も気になるのは真紘と父親が違う点だが、デリケートなことだけに率直に訊き返すのははばかられた。

「時ヶ瀬って……総合商社の、あの時ヶ瀬?」

「そうだ」

「医療とか精密機器に投資してて、海外での活動が大きくなってるよね」

「お前にしてはよく知ってるな」

「就職活動でいろんな会社を調べたから。時ヶ瀬って就職したい会社のトップスリーに必ず入ってるし」

 まさか就活の知識がこんなふうに役立つとは思わなかった。

 美久は信じられない気持ちで悠貴を見つめた。

「……そのグループのトップが、悠貴君のお父さん?」

「父親といっても面識がある程度だ。俺の家族は真紘だけだ」

 頑なな言い方に美久ははっとした。

 同じ言葉を以前も耳にしている。その時も悠貴は頑なな表情をして、そこにいない誰かに聞かせるように呟いていた。

「悠貴君と真紘さんのお母さんは……?」

「俺が小さい頃に亡くなった。正直、顔もよく覚えてない。エメラルドは母方の実家で、俺は祖父に育てられた。その祖父も数年前に他界したがな」

 次々に明らかになる事情に言葉を返せなくなった。

 両親の部屋のない上倉の家。真紘と悠貴の十歳という年の差。

 何か事情のある様子の兄弟にはそんな秘密があったのだ。だが、まさかという思いが拭えない。話が大きすぎて、唐突すぎて、呑み込めない。

 ……ううん、唐突じゃない。

 思い起こせば、手がかりはいくつもあった。悠貴は国内有数のアミューズメントパークを運営する会長の部志田だけでなく、副会長の武政とも顔見知りだった。テレビ局の男にエメラルドが強引に取材されそうになった時、大江戸ネットワークの前会長にその場で電話をかけ、親しげに話していた。

 依頼人かと思っていたが、これほど多くの大企業のトップがエメラルドに気軽に出入りするはずもない。そして、ダニエルだ。

 ――お父様が心配してるよ。

 ダニエルは日本を発つ時、悠貴にそう言った。彼は少なからず事情を知っていて悠貴に近づいてきたのだ。

「話を戻すぞ」

 悠貴の言葉に美久は我に返った。

 家庭環境に驚いている場合ではない。まだ肝心の話は始まってもいなかった。

 悠貴と聖の関係。そして〈頭の良くなる薬〉や〈コハクのお守り〉と称される危険ドラッグとの関わり。

 美久は固唾を呑んで悠貴の話に耳を傾けた。

「俺が寮に入ったのは小学四年の時だ。以前も説明したが、寮生活の小学生は少ない。同世代ではあの馬鹿の他にもう一人、二学年上の女子がいるだけだった。雛田稀早という名前だ」

 脳裏に秋まつりの夜に真紘が教えてくれたことが蘇った。

 ――悠貴と花見堂君、それにもう一人、女の子がいた。悠貴と花見堂君はよくぶつかっていたみたいだけど、彼女がいて上手くまわっていたんだろうね。

 間違いない。きっとその子の話だ。

「雛田は明るくて機転の利く、俺とは違った意味で頭の良い奴だった。強引なところがあるが、気配りが上手くて一緒にいて楽しかった。学校は一貫教育校だからよほどのヘマをしない限り、高校卒業まで一緒のはずだった。……事件が起きたのは、俺が中学の時。あの薬が出回った」

「〈頭の良くなる薬〉だね」

「〈天使の繭〉。当時、あの薬はそう呼ばれていた」

 悠貴は欄干に背をつけ、淡々と言葉を継いだ。

「〈天使の繭〉、〈頭の良くなる薬〉、〈コハクのお守り〉――名称は変わっても内容は常に同じだ。成績が良くなるという触れ込みで、学生間でひっそり出回る。形状は黄金色のソフトカプセルで、服用すると認知力の向上、高揚感、疲労や眠気の喪失が起こる。最大の特徴は異常な記憶力と集中力だ。まるで一つ高い次元にいるような知性を授かると表現されるほど飛躍的に脳機能を高めるらしい。そのへんに出回るスマートドラッグとは格が違う。だが所詮は危険ドラッグだ。先にあるのは薬物中毒による身の破滅だ。社会的にも身体的にもすべて失うことになる」

 もっともそんな事実は噂にもならないが、と悠貴は呟いた。

「それから雛田があの事件に巻き込まれた。雛田は〈天使の繭〉とまったく関わりがなかったのに、関係を疑われ、人生をめちゃくちゃにされた。居場所も、将来の夢も、笑うことさえ。裏切られて全部奪われたんだ。あの薬が元凶だ、〈天使の繭〉のせいで雛田は……」

 悠貴の目に暗い光が宿るのを見て、美久は息を呑んだ。

 語られない言葉の奥に陰惨な事件の影を感じた。怒り、絶望、憎悪。底知れない闇を覗くような冷たい目をしているのに、激しい感情が悠貴の身を焦がしている。

 悠貴君がこんな顔をするなんて。

 こんなに想うくらい、すごく大切な人なんだ――

 そう思った瞬間、ズキッと胸が痛んだ。

 理由のわからない痛みに美久は戸惑った。しかし痛みの原因を考えるよりも今は悠貴のことが気がかりだった。

「だから悠貴君は今日、菅原君に会いにきたんだね」

 突如好成績を叩き出した生徒と、奇妙な噂を纏った〈コハクのお守り〉。それが名前を変えて遍在するあの薬物だと疑ったからこそ予備校を訪れたのだ。

「ああ。聖が現れたということは俺と別の情報源から〈コハクのお守り〉を知り、菅原に行き着いたということだ。〈コハクのお守り〉は〈天使の繭〉で間違いない」

 そうだ、悠貴君だけじゃない。

 聖の現れるところには必ず危険ドラッグがあった。〈頭の良くなる薬〉の模造品を作って密売し、大学生の間で危険ドラッグが流通していると知ると、自ら危険に飛び込んで真相を掴もうとした。

 悠貴と聖の確執も、悠貴が時折見せる厳しい表情も、全部ここに繋がっている。

 この事件がすべての始まりだ。

 これは、悠貴の事件だ。

「今度こそ真犯人を捕まえる」

 いつの間にか悠貴の手にはクマのストラップのついたネイビーブルーの携帯電話が握られていた。悠貴の横顔に揺るぎない決意が覗く。

 その表情に胸が締めつけられ、美久は声に出していた。

「私もできるだけサポートする」

 何ができるかわからない。私の力なんて及ばないかもしれない。それでも、悠貴君の助けになりたい。

 悠貴は美久を一瞥すると、欄干から離れた。

「邪魔だけはするなよ」

 美久は目を見張った。余計なことはするな。そう言われてもめげずについて行くつもりだった。不意にもらった言葉が認めてくれたみたいで嬉しい。

「うん」

「明日から調査に出る。遅れたら置いて行くからな」

「待って、雛田さんは今どうしてるの?」

 歩き出そうとする悠貴に美久は尋ねた。

 悠貴より二学年上なら現在は十九歳くらいだ。しかし美久の知るかぎり、それらしい女性がエメラルドを訪れたことはない。今、どこでどうしているのか。

 悠貴が足を止め、振り返らずに囁いた。

「             」

 声が風にちぎれた。

「え……」

 悠貴が歩き出す。

 歩道橋の先は暗い。夜の闇に閉ざされた中空の道を行くその背中が、同じ色に染まっていく。

 美久は呼び止めようとしたが、声にならなかった。

 悠貴の言葉が耳の奥でこだまする。


「雛田は死んだ。殺されたんだ」