近い! 近いよオジサン――!

 六月も終わりに近付いたある日の、じっとりと熱気がこもる電車内。ドアのすぐそばに立ってぼーっと外を眺めていた夢子は、いつの間にやら背後に忍び寄っていたらしいオッサンに眉をひそめる。

 今日は少し残業をしたから、帰宅ラッシュの時間には被っていない。座席は全て埋まっているが、普段よりは空いているほうだ。その証拠に、夢子の周囲には誰も立っていない。背後にぴたりと迫るオジサンを除いては――。

 この人、なんでこんな混雑時みたいなギリギリの間合いにいるんだろう。ひょっとして痴漢だったり……? まだどこも触られてはいない。けれど、距離感が明らかにおかしいと夢子は身構える。

 それにしてもまるで忍者だ。後ろに立つオジサンからは気配が全く感じられない。だけど、いる――。

 気配もないのになぜわかるかって? だって映ってるから。

 さっきから目の前の車窓に、こっちをじっと見つめる、アゴのたるんだ冴えないオッサンの顔がチラチラと反射しているのだ。窓の外から差し込む街明かりに邪魔され、はっきりとは映っていない。が、確かにいる。夢子のすぐ後ろに――。

 ううう、気持ち悪い。ちょっと動いて迷惑だよアピールしてみようかなぁ。もうちょっと離れてくれませんかって……。

 そう思って、後方にチラリと顔を向ける。――と、

 ――あ……れ……?

 夢子が振り向いた先にオッサンの姿はなかった。いるのは数人の女性客。その誰もが向こう側のドアを向いている。

 おっかしいなぁ、さっきまで後ろにいたのに……。それも、びっくりするほどの近距離に。まさか本当に忍者で、振り向いた瞬間ドロンしちゃったとか? や、さすがにそれはないか……。

 けど、どこに行ったんだろう。確かに見えたんだけど……。首を捻りながらも、再び正面を向く。――と、

 なんということでしょう。眼前の窓ガラスに、アゴのたるんだ顔色の悪いオッサンが再度映り込んでいるではありませんか――!

 わ、やっぱりいた! だから近すぎるよオジサン……って、うっそ…………!

「こっ、これって私…………?」

 驚愕の真実に思わず声を上げてしまう。不審がる乗客の視線に刺されながらも、ガラスに手をついて確かめる。

 うわぁ……残念ながら間違いない。窓に映り込んでいたのは冴えないオッサンではなく、化粧崩れでアラが出まくった己の姿だったのだ。

 そりゃ距離感近いし、気配もしないわけだよねー……って納得してる場合じゃないし! 痴漢とまで疑った不気味なオッサンの正体が自分ってどーゆーこと? 三十路を前にオバサンどころかオッサン化だなんて、悲惨すぎて笑い話にもならない。

「おっ、恐ろしすぎる……!」

 あまりのことに狼狽した夢子はヨロヨロと後退、恐怖を映し出す呪いの車窓から距離を取る。ヤバいヤバいヤバい、私の女子力マジでヤバい…………!


『そうか、夢子もついに三〇。本格的に始まっちまうねぇ、恐怖のアラサー恐慌が』


 焦る夢子の脳裏に、今日会社で丸宮主任から宣告されたショッキングな言葉がよぎる。わわわどうしよう……! このままの状態で誕生日を迎えちゃったら私、女子どころかレディですらいられなくなっちゃう! え、なに私、来週からOLじゃなくてOO……オフィス・オッサンとして生きていくの――?

 迫りくる三十路ロードを前に愕然としてしまう夢子。その脳内で、ふっと懐かしい声がした。


『諦めるな夢子、戦うのだ。オフィス・オッサン化を回避し、幸せを掴み取るべく奮い立つのだ夢子よ――!』


 音芽乃夢子、三〇回目の誕生日を目前にして、頭の中の軍曹が数年ぶりに唸りを上げた。



 第一話 マジでセカオワ三十路前!


 脳内の軍曹が目覚める半日前。思い返してみれば、確かに兆候はあったのだ。最近女子扱いされてないぞ、と――。


「音芽乃君、そこ邪魔」

 業務用の参考資料を取ろうと、オフィスの隅にある書類棚に手を伸ばしたところで背後から声がした。振り返ると、不機嫌そうに眉を寄せた地黄部長が腕組みして立っている。

「わっ、すみません気付かなくて!」

 慌てて脇によけた夢子が「部長も何かお探しですか?」と先を譲ると、

「でなきゃ書類棚になんて来ないでしょ普通ー。わたしゃ忙しいんだ、君と違ってね」

 部長はささやかに残った前髪をサッと払いながら言った。脂ぎった頭皮から過剰な整髪料の臭いがぷぅんと漂う。

「ははは……ですよねー……。あっ、もしかして、今朝の第一マーケとの会議で出てた件の実績探してます? それならこれ、お先にどうぞ!」

 苦笑しつつもキープしていた該当ファイルを差し出す。それを引ったくるようにして受け取った部長は、「それにしてもイイ年してリボンって……。そもそも会社にそんなチャラチャラした飾り付けてくる神経がわからんよ」と礼の言葉もなく、せせら笑いを浮かべながら去っていった。

 ――チャラチャラって、これが……?

 部長の後ろ姿を呆然と見送りながら、髪を纏めていたリボン付きのゴムをいじる。濃紺でサイズもかなり小さいそれは、この世に溢れる無数のリボンたちの中では一、二を争う地味さだ。オフィスに相応しくないと非難されるほどのものではない。

 もっとも、今日これをしてきたのは決してオシャレなどではなく、寝癖が爆発して収まりが悪かった髪を結んでどうにか誤魔化したかったけれど、丁度いい髪留めが他に見当たらなかったからという、女子力の欠片もない事情からなのだけど。

「部長、なんか最近冷たくなった気がする。前はあんなじゃなかったのに……」

 ぽつりと呟きながらも資料探しを再開した夢子は、使えそうなファイルを数冊引っ張り出して自席へと戻る。――が、整髪料の香りプンプンの、とある人物が邪魔で椅子が引けない、座れない。

「美月ちゃーん、今日のそのリボン可愛いねぇー」

 夢子の席の真ん前に陣取って、隣席の新入社員、美月ルミにわざとらしい猫なで声で話し掛けているのは、あろうことか先ほど忙しいだのなんだの言っていた地黄だ。

 部長……さっき私の地味リボン、チャラチャラしてるって注意してきたとこですよね? 美月ちゃんがしてるやつ、ショッキングピンクだしデカいしラインストーンメガ盛りだし、クイーン・オブ・リボンって感じの、リボン界で一、二を争うほどの存在感なんですけど、それはお咎めなしでむしろ褒め称えてるってどーゆーこと……?

 あまりの対応の差に唖然としていると、気付いた部長は、

「じゃ、美月ちゃん頑張って。何か困ったことがあったら遠慮せずに相談するんだよ」

 と美月にニヤけ顔でエールを送ったあと、

「音芽乃君、なにボサーっと突っ立ってんの、どいてよ」

 と手で蚊を追い払うような仕草で夢子を退かせ、ようやく席へと戻っていった。

 ――うわっ、私の扱い雑すぎ……!

 思わず口を覆いつつ、邪魔者のいなくなった席に着く。

 よいしょっ、と取ってきたファイルの束をデスクに置いて右隣をチラリ。ゆるふわカールした髪をクイーン・オブ・リボンでポニーテールにした美月(しかも耳よりかなり高い位置で結んでいて少女っぽい!)が、ニコニコ業務に励んでいる。

 正直、美月は女の夢子から見ても文句の付けようがないくらいに可愛い。そのキュートな美貌もさることながら、頭のてっぺんから足の先まで全身女子って感じでオシャレ全開、守ってあげたいオーラに溢れている。

 その上、ピッカピカの社会人一年生である彼女は、入社八年目の夢子が失ってしまったものを有り余るほどに持っているのだ。

 それは仕事への熱意かって? ノンノン、それなら夢子だってそれなりにまだ持っている。美月にあって夢子にないもの、それは――

「どうしたんですかセンパイ、私の顔に何かついてますー?」

 夢子の視線に気付いた美月が、綺麗にカールされた睫毛をパチパチと瞬かせる。

「やだ、もしかして前髪変ですか? 昨日カットしに行ったんですけど、思ってたのより短くされちゃってー!」

 もー、早く伸びないかなぁーと恥ずかしそうにオデコを隠す美月。その一挙一動がキャピキャピピチピチ、とびきりのフレッシュさに満ちている。こんな反応されたらそりゃ部長もデレデレ鼻の下伸ばしたくなっちゃうよねーと妙に納得してしまう。

 そう、夢子と美月の間にある決定的な差、それは若さだ。美月のツヤツヤプリップリな肌は、薄化粧でも真珠のように輝いている。きっと雨だって涙だって、防水加工したみたいにパッチーンと勢いよく弾いてしまうに違いない。

「いいなぁー、若いって。美月ちゃん、自家発電できるんじゃないかってくらいキラキラ輝いてるよ、電気自動車とか二、三台くらいなら充電できそう」

「えー、なんですかーそれ。私、もうそんなに若くないですよー?」

「いや、若いから! 若くなきゃそんな少女みたいなポニーテールできないから! 私なんてもはや高い位置で結ぶの恥ずかしくて耳の下でくくるしかないから! 今日なんて寝癖爆発でポニーテールどころか暴れアライグマテールって感じになっちゃってるし、この年になると血行悪くなるせいか、あんま高い位置で結ぶと首がパンパンに凝って眩暈とかしてきちゃうからっ!」

 美月の若さに当てられ、思わず一気に捲し立ててしまった。ハァハァと息を切らせる夢子に、美月は相変わらずキャピキャピと答えて、

「えー! この年って、センパイだってまだ若いじゃないですかぁー」

「そっ、そう? でも私、来週には三〇だし、もうイイ年ではあるんだけどねぇー」

 口ではそう言いながらも、三〇なんてまだまだ若いよねー、確かに美月ちゃんみたいなピチピチ感はないけど、オバサンなんて呼ばれるには全然遠いし、二〇代延長戦って感じ? などと内心のん気に構えていたら、

「えっ、夢子センパイってもう三〇なんですか……?」

 美月の表情から一瞬にしてキラキラが消えた。えっ、なにその反応! ちょっ、お願いだからそこで黙らないで!

「もっ、もしかして三〇ってヤバい? 若い子から見て終わってるって感じ?」

「えーっと、そうですねぇ……終わってるっていうか、女子としては終わり……は言い過ぎですねごめんなさいっ! 終わってはないけど幕切れ……じゃなくて末期?」

 夢子を傷付けないよう言葉を選んでいるようでいて完全に失敗している美月は、「まあとにかく女子的には終点じゃないですかー」と開き直って、

「なのにセンパイってば全然焦ってないし、危機感とかないのかなーって。そういう意味ではかなりヤバいですよねー!」

 じょっ、女子的には終点って……。や、そりゃ『女子』って主に一〇代の子を指す表現だってことは重々承知だよ? でも最近じゃ『三〇代女子』なんて言葉も市民権を得てきてるし、自ら強く主張することはなくても、一応は女子の端くれ的な気分でいたんだけどな……? 不意打ちで発表された女子終了のお知らせに絶句していると、

「そうか、夢子もついに三〇。本格的に始まっちまうねぇ、恐怖のアラサー恐慌が」

 突如口を挟んできたのは、向かいの席で煎餅を囓りながら仕事をしていた丸顔二重アゴの丸宮怜主任だ。アラフォー女性にしてパッツン前髪――アーティスティックなおかっぱボブが、煎餅の咀嚼に合わせてゆらゆらと揺れる。

「アラサー恐慌……?」

 わけもわからず繰り返す夢子に、丸宮は「そっ」と頷いて、

「これまで若さで底上げされていた女としての評価が、二五を過ぎたあたりから徐々に低下――下降を続ける女子力はひとたび三〇を迎えようものならあとは……」

 あとは……? ゴクリ、と唾を飲む夢子。丸宮は湯呑みに入った緑茶をズズッとすすると、いともあっさりと――

「暴落するのみさ」

 ぼぼぼっ、暴落って何それ恐ろしすぎ……! 死刑宣告のような脅しに粟立つ両腕を、ゴシゴシとさすってなだめる。ビビる夢子に丸宮はさらに続けて、

「若さはメッキなんだよ。何もしなくてもキラキラと表面上を輝かせてくれる期間限定のコーティング。だから若いうちはなんやかんやでチヤホヤしてもらえる。それがアラサーを迎え、メッキが剥がれていくうちにだんだん雑に扱われるようになるんだ。今までチヤホヤされてきたのは単に若さゆえで、己自身には何の魅力もなかったのだと知って泣きむせぶオーバーサーティたちの呻きはまさに阿鼻叫喚……地獄絵図さ」

 緑茶をクイッと飲み干した丸宮が、遠い目でふるふると首を振る。かつての己を思い出しているのだろうか、その表情に絶望と哀愁が滲んでいる気がする。

「ちょっ、やめてくださいよ、そんな世界の終わりみたいに言うの!」

 主任ってば大げさなんだから。笑い飛ばそうとした夢子だったが、言われてみれば身に覚えがあると、胸の奥がズキーンと痛む。

 そういえば最近、女子扱いされなくなった気がする。なんか昔より無下にされてるっていうか、世間の風当たりが強くなってきたっていうか、ついさっきも部長から酷い扱い受けたばっかだし……。

 思い返してみると、確かに昔はわりとチヤホヤしてもらえていた。今でこそ人を蚊のように扱ってくる地黄部長だって、以前はもっと優しかったのだ。入社当時は営業部に所属していた夢子がこの第三マーケティング部に異動になったのは二四のとき――あのころの部長はめちゃめちゃフレンドリーで、先ほど美月に絡んでいたように、頼んでもないのにいろいろと相談に乗ってくれていた。それが、メッキが剥がれてきたらしい今では話し掛けても邪険にされて終わりだ。

 そういえばこの前の、第一から第三マーケティング部全体での飲み会のときだって、美月のような若い子ばかりがもてはやされていた。彼女たちはただそこに存在するだけで華といった感じで、上司にお酌しなくても怒られなくて、なんなら逆に『これ食べる?』なんて若さに飢えた男性陣に料理を取り分けてもらったりしていた。

 そのとき同席していた夢子はといえば、誰にも料理を勧められることなく(付け合わせのレタス一枚すら!)、仕方ないのでひたすら自分でおつまみをつまみつつ、その合間には気を利かせたつもりで部長にビールを注いであげたら、ちょっとやめてよ、そういうのはどうせなら美月ちゃんにやってもらいたいんだから、とでも言いたげな視線で迷惑がられたりしていた。昔は『わぁーごめんね、ありがとねー』なんて喜ばれてたんだけどな……。やだ、思い出したらなんか泣けてきた。けどそっか、今思えばあれもアラサー恐慌の一端だったんだ?

「わっ、よく考えたら私って今かなりヤバい……?」

 急に焦り始める夢子に、「えーっ、今さらですかー?」と美月が驚く。

「そういうのって普通、もっと早くに気付いて対策するものですよねー」

「そっ、そうなんだ? そんなこと考えたこともなかった……」

「それマズいですよセンパイ! 世の女子たちは普通、二五を過ぎたあたりから常に危機感持って生きてるんです。このままじゃ自分の市場価値は下がる一方――だから一刻も早くお嫁にいきたいなーとか、キャリア積んでパワーアップしよーとか思っていろいろ努力するんじゃないですか。婚活とか資格の勉強とかー」

 意外とズバズバと物言う美月はさらに続けて、

「センパイ、休みの日とか何してるんですか? あっ、もしかして彼氏さんとイイ感じに結婚まで進みそうとか、そういうことですか? だからそんなにも余裕ぶっこいてるんですよね? ねっ、ねっ、そうですよねっ?」

 そうに違いない、むしろそうであってくださいと、畳み掛けるようにキラキラを飛ばしてくる美月。ごめん、期待に添えなくて悪いんだけど……

「実は今、彼氏いないんだよねー。だから休日は基本、家で借りてきたDVD見たりしてるよ、流行の海外ドラマとか!」

「えっ……今彼氏いないってどれくらいいないんですか? 二ヵ月とか、三ヵ月?」

「や、それよりはちょっと長いかなー。えーっとねー、一年……や、二年……ん、三年……? 違っ、あのころはまだ営業部にいたから……うそっ、六年近くも前っ? えっ、あいつと別れてからもうそんなに経ってたの――?」

 あれ、私ってばいつの間に玉手箱開けちゃったのかなー、あはははは……。

 もはや笑うしかない夢子に、「センパイってバリキャリ系じゃないですよねー? それなのに六年も彼氏ナシで、婚活も自分磨きもスルーしてきたなんてありえなーい!」と、今にも卒倒しそうな美月が額を押さえる。

「センパイってばマイペースすぎっていうか意識低い系? もしかして世捨て人だったりします? 華麗なるキャリアも温かい家庭も捨てて山奥に籠もっちゃう系の?」

 それってどういう系の人なのよ。内心ツッコミつつも「確かにバリキャリ系じゃないけど仕事は頑張ってるつもりだよ? 結婚だっていずれはしたいと思ってるし」と訂正を入れる。それを聞いた丸宮はバリっと勢いよく煎餅を囓って、

「それ一番ダメなやつじゃないか。どっちも中途半端に終わるよ、気付いたら独身ノンキャリでアラフォー迎えてるパターンさ。ていうかあんた、そんなゆるいスタンスで今までどうやって生きてきたんだい?」

 どうって言われても……。戸惑いつつもこれまでの自分を振り返ってみる。

「うーん……そういえば昔からそんなに深くは考えてこなかったような? 自分で言うのもなんですけど、流され体質なんですよね、私。だから自分で考えてっていうより、みんなの動向に流されて生きてきたっていうか……」

 そうなんだ。昔から周囲の視線が気になってしまって、みんなと同じことした方がいいのかな、しなきゃいけないのかなって、追従してしまうところがあった。

 小学校のころは、みんながやってるからって理由で特にやりたかったわけでもないピアノを始めたし、中学校のころも、特に興味はなかったけど、みんなが入るからって理由でテニス部に入部したし、高校のころは、勉強なんて全然好きじゃなかったけど、みんなが受験頑張るっていうんで塾にまで通い始めた。さらにいえば志望校だって、みんなが受けるからって理由で、自分が何を学びたいかとか、将来何になりたいかなんてことはよく考えずに、とりあえず人気の大学を片っ端から志願していた。

 我ながら主体性ないなぁと苦笑していると、不思議そうに首を捻った丸宮は、

「ウチの会社ってそこそこのレベルだろ? 超一流企業ほどじゃないにせよ、競争率高かったんじゃないかい? ゆるゆる流されてただけでよく勝ち抜いてこれたねぇ」

 そう、夢子たちの勤める日用品メーカー、ミモザ・プディカは国内でもそこそこ名のある人気企業。ただ流されているだけでは到底入社できないはず――なのだが、

「自慢じゃないですけど私、ゆるい方にも激しい方にも流されちゃうみたいで……。受験のときも就活のときも、殺気立って必死に頑張ってるみんなに流されて乗り越えてきたっていうか、ガツガツいくときは一心不乱にガツガツできちゃうんで、結構無理めなハードルでも、うりゃー! って強引に飛び越えてきちゃってて……」

「そういえばあんた、ハードな営業部でスパークしすぎて体壊したんだっけか」

「ええ、あのときは営業部の先輩たちの猛烈すぎるやる気に呑まれちゃって、ゴォォォォって華厳の滝に流されてる感じだったんですよね。自分の頭で考えるっていうより、朝から晩までただ闇雲に働きまくって、結果ぶっ倒れてみんなに迷惑かけちゃって……」

「で、社内でも一番ゆるーいウチに異動になって、今度はそのままゆるゆる流されてきちゃったわけか。なるほど、そりゃ生粋の流され体質だねぇ」

 一度は納得した様子の丸宮だったが、「ん?」と再び不思議そうに首を捻って、

「けどそれじゃあなんでアラサー恐慌対策の波には乗れなかったんだい? 周りの子たちみんな、二五くらいから焦り始めてただろう?」

「それが、恐慌の波は完全に見逃しちゃってたみたいで……。もしかしたらみんな騒いでたのかもしれませんけど、社会人になってからは忙しさもあって、友達とは疎遠になってたんですよね。昔みたいに毎日顔を合わせるような環境にいたら、アラサー恐慌激ヤバ! 戦わなくちゃ現実と! って波に流されてたんでしょうけど……」

 それに、営業からここに異動になってからは、社内一ゆるい部署とはいえ、新しく覚えることもそれなりにあってしばらくは大変だったし、二〇代後半は良くも悪くも仕事一筋だった。そりゃ加齢にビビってる子たちは会社にもいたけど、なんでみんなそんなに焦ってるんだろうって、いまいちピンときていなかった。

 人の目は気にするくせに、人のすることは不思議と気にならない、我ながらおかしな性格なのだ。みんなと同じにしなきゃマズいって焦燥感に呑まれるまでは、人は人、自分は自分って感じにのん気でいられる、のだけど――

「わっ、今思えば去年あたり、やたら転職するだの結婚するだのいう報告メールが来てたけど、みんな恐慌に備えて対策してたってこと――?」

 今さら気付いて目を剥く夢子に、そうですよー、と不満そうに唇を曲げた美月は、

「もうっ、センパイってばなんで自分磨き始めなかったんですか? ここ、他部署に比べたら残業もそこまで多くないみたいだし、時間、ありましたよねー? 異動したてのころは慣れるまで苦労したのかもしれませんけど、今はもうベテラン級じゃないですかー。キャリアアップとか考えなかったんですか?」

「それが、それまで忙しくしてきた反動でしばらくはゆっくりのんびり過ごしたいなーなんて思っちゃって、営業時代流行ってたけどチェックできなかった海外ドラマとか見始めちゃったんだよねー、シーズンワンからファイナルシーズンまで全部……」

「休日は家でDVDっていうのはその名残だったんですね……」

「まっ、休日出掛けないのは、友達と遊びたくてもみんないつの間にか結婚しちゃってて、全然構ってくれなくなったからってせいでもあるんだけどねー、あはっ!」

「あはっじゃないですよセンパイ! 友達がいつの間にか既婚になってる時点でもっと焦るべきだったのにー! あーもう、ありえなーいっ!」

 なんだか怒らせてしまったようだ。美月のキラキラがギラギラ化している。恐慌を生き抜くハンターの目だ。聞けば意識高い系の彼女は若さの浪費が許せない主義らしく、まだ戦えたはずの二〇代後半戦を、のうのうとドラマ鑑賞で潰してしまった夢子に苛立ってしまったようだ。私ならもっと上手くやれたのに――と。

「センパイ、来週にはもう三〇なんですよ? 主任の言う通り、アラサー恐慌が本格化しちゃう――女子力大暴落な日を迎えるっていうのに緊張感が足りないです! そんなんじゃ幸せ逃しちゃいますから!」

「うぇっ! やだやだ、私もみんなみたいに幸せを掴みたいっ……!」

 真っ青になった夢子は、オーバーサーティの先輩でもある丸宮にSOS!

「主任、何かいい方法ないんですか? 急落する女子力を止める秘技はっ?」

「んなもんないよ、時の流れを止めるなんて誰にもできないしねぇ」

 業務を再開したらしい丸宮の席から、バリバリカタカタ、煎餅の咀嚼音とキーボードの打鍵音――なんとも奇妙なハーモニーが聞こえる。恐慌だなんて散々煽っておきながら、随分あっさり突き放してくれる。

 かくなる上は、女子力絶賛高止まり中の美月に頼るほかない! 忍び寄る暴落の影におののいた夢子は改めて隣席を見つめ、

 ――美月ちゃんっ、私に女子力を分けてくれぇぇぇ!

 ただでさえ可愛いルックスを流行のメイクでさらに強化している彼女に向かって、元気玉製造中の悟空よろしく両手を掲げる。――と、

「何やってんすか、飢えた熊が人を襲うみたいなポーズして。新手の新人イジメ?」

 他部署との打ち合わせから戻ってきた大喜名彰吾が、ニヤニヤと夢子を見下ろす。今年で入社四年目の彼はやたらと足が長く高身長なため、常に見下ろされてる感があって夢子としてはなんとも腹立たしい。

「これはね、集めてるのよ女子力を」

「集める? 逆じゃなくて?」

 そんなんじゃ女子力だだ下がりですよ、ただでさえ枯渇気味なのに、と無遠慮に吹き出す大喜名。年下のくせに先輩を敬わない生意気な態度が、控えめに言ってもイケメンの部類であるその顔と相まって憎らしい。以前はもっと素直で謙虚な好青年だったはずが、最近では夢子をバカにするような発言が多い。新人時代の彼を指導したのは他ならぬ夢子なのだが、どうやら育て方を間違えてしまったようだ。

「笑いごとじゃないっての!」

 大喜名の発言に苛立ちつつも女子力玉製造に失敗した手を下ろす。あーもう、こんなことしてる間にも女子的に世界が終わっちゃう。とはいえとりあえず仕事しなきゃ就業時間が終わっちゃう。嘆息をもらしながらも取ってきたファイルを開くと、

「どうしたんすか先輩、普段女子力とか気にしないタイプじゃないっすか。あっ、もしかして男にフラれたとか?」

 己のデスク――夢子の左隣の席に腰をおろした大喜名があれこれ詮索してくる。

「フラれてないし! てか別に今好きな人いないし! ただ……」

「ただ……何すか? 先輩がそんな浮かない顔してるのなんて初めて見ましたけど」

「それがさ、私、来週頭には三十路になっちゃうのよ、怖いでしょ。てかもう週末だから明々後日にはグッバイ二〇代なのよ、絶望よ……」

「なーんだそんなこと。心配して損した」

「そんなことって言わないで! 女はね、二五過ぎたあたりから女子力暴落のリスクマネジメントに励んでるのよ。いつまでもキャピキャピはしてられないっていうか、代わりにお肌がカピカピしてくるっていうか……」

 先ほどまでのゆるゆるな己を棚に上げつつ抗議しているさなかも、ああ、さっそく肌の乾きを感じる。この席、ちょうど空調の吹き出し口が上にあるから、すんごい乾燥するんだよね……と、水分を失った頬を押さえていると、

「カピカピ? えっ、どのあたりが?」

 興味津々な様子の大喜名が夢子の顔をじろじろと観察し始める。遠目だとわかりづらいなー、うーん、と唸り声を上げた彼は、何を思ったのか椅子ごとスイっと近付いてきて――わっ、ちょっとそれ近すぎない? やだやだ、毛穴まで見えちゃうじゃん! って距離から、どれどれ、と改めて夢子を見つめてくる。

「ちょちょちょ、ちょっとやめてよ恥ずかしい……!」

 あまりの接近具合に慌てて顔を隠そうとしたけど、「いいじゃないっすか」と言う大喜名に手首を掴まれガード失敗。きゃっ、男の人に触れられたのって何年ぶりだろう……なんて変な緊張が体を駆け抜ける。が、そんな夢子の動揺などおかまいなしに大喜名はどんどん距離を詰めてきて、気付けばその顔がただの先輩後輩じゃありえないくらいの眼前に迫っていた。

 ――うわぁ……! 性格はともかく、やっぱ整った綺麗な顔してるわ、この子……。

 間近で見る大喜名の端整な顔立ちに思わず息を呑んでしまう。少年のようなあどけなさを残すぱっちりとした瞳と、キリッと凜々しい形の良い眉との絶妙なバランスがなんとも妖艶で色っぽい。っていうかなにこの白目、めっちゃ澄んでる! 充血とか変な濁りとか一切なしで、ライトを反射したレフ板みたいにピッカーって輝いてる!

 くうっ、これが若さかっ……! 観察される側だったはずなのに、逆に見入ってしまっていると――

「先輩、そのままじっとしてて――」

 いつになく真剣な表情で囁く大喜名。その熱い眼差しは夢子の頬に向かっていて――えっ何これ、もしかしてほっぺにキスとかされちゃう感じ――?

 思わせぶりな仕草に、年下は恋愛対象外な夢子もドキリとしてしまう。

 さささっ、最近の若い子ってこんなカジュアルにチューとかしちゃうの? 何そのアメリカンスタイルっ! ……って今仕事中だしみんな見てるし、普通に考えたらそんなことあるわけないでしょ、気をしっかり持つのよ夢子!

 頭ではわかっているのに、心臓がバクバクと早鐘を打つ。

 あ、ダメ……。戸惑う夢子の頬を、大喜名の白く長い指がそっとなぞる。うそ……この流れはやっぱり――? まさかの甘い予感に赤面してしまう夢子だったが、

「あー、シミできちゃってますよ、頬骨のトコに小さいのがポツポツっと三つ。ゴミかと思って払ってみたんですけど、微動だにしませんでした。シミ確定っす!」

 まさかの激辛指摘に「はぁぁ?」とドスの利いた声を上げてしまう。

「あ、気にしてました? けど言うほどカピカピはしてないっすよ、どっちかというとカピバラ? あっ、いい意味で!」

 大喜名が憎らしいほどイケてる顔で、フォローしてるんだか、さらに傷を抉りにきてるんだかわからないようなことを言ってくる。くそぅ、私のドキドキを返せっ!

「打ち合わせで不在にしてた分、仕事溜まってんじゃないの? バカなこと言ってないで早く業務に戻って」

 大喜名なんぞに一瞬でもときめいてしまったことが悔しくて、必要以上に冷たく言い放ってしまう。

 だがその後も彼は、「ちょっとググったんすけど、シミにはビタミンCがいいらしいっすよ」とか「美肌には一日一五〇〇ミリグラム以上必要なんすねー。レモンなら七五個分……大変そうだけどファイトっす!」などと、嫌がらせとしか思えない助言でニヤニヤからかってきたが、夢子はその全てをスルーして黙々と業務に没頭――少しの残業ののち本日の業務を終えた。


 あー疲れた。年々残業がつらくなるなー。週明けに備えて立て込んでた案件ちょこっと片付けただけなのに体が鉛みたいに重い。営業時代に比べたら全然楽な業務量のはずなのになぁ……。

 そうだ、レンタルショップに寄って新作の海外ドラマでもチェックしよっ! 疲れたときはリフレッシュ大事だし、DVD見ながらまったりだららんしたーいっ!

 帰宅途中の電車内で、性懲りもなくそんなことを考えていた夢子だった――が、ついにそのときが訪れる。

 近い! 近いよオジサン――!

 ドアのすぐそばに立ってぼーっと外を眺めていた夢子は気付いてしまったのだ。背後に立つ怪しいオッサン……もとい、オッサンと見紛うほどに女子力の低下してしまった自分に――。

 わっ、わわわわどうしよう……! 主任や美月ちゃんの言った通り、来てる、来てるよアラサー恐慌っ! このままの状態で誕生日を迎えちゃったら私、女子どころかレディですらいられなくなっちゃう――!

 愕然とする夢子。その脳内で突如荒々しい声が響いた。


『この愚か者め! 己の姿を変質者と見紛うとは何事か――!』


 稲妻が落ちるような、激しくも懐かしい怒声にビリビリとその脳を震わされた夢子は上擦り声で、

「ぐっ、ぐぐぐぐ軍曹っ…………?」

『夢子よ、口に出して応答するのはよせ。周りの乗客に、うわっ、このオッサン顔のOL、独り言が多くてキモくね? とか思われるぞ。ただでさえ頭の中に軍曹が住み着いているキモい女なのにな』

 数年ぶりに夢子の脳内に出現して早速毒舌をぶっかましてきたのは、白髪&黒人の厳つい鬼軍曹マックス・リボーンだ。すぐ人に流されてしまう意志薄弱な夢子がそこそこの大学、そしてそこそこの会社に潜り込めたのは、全てこの脳内軍曹のおかげと言っても過言ではない。

 試験勉強ダルい、やりたくない! でもみんなに取り残されるのは絶対に嫌だし、私だけ進路決まらないのヤバすぎるっ! そんな焦燥感に呼応するようにして現れる軍曹は、『諦めたらそこで人間終了だぞ、社会的に!』なんて厳しい叱咤で夢子を奮い立たせ、数々の難局を乗り切らせてきたスパルタアドバイザーなのだ。

 ちなみに前世は犬――夢子が小さいころ可愛がっていたブラック&ホワイトチワワのマックスだ。その愛らしい外見とは裏腹に凶暴な一面を持っていたマックスは、夢子がピアノの練習や学校の宿題をサボってダラダラしているのを見つけると決まって『キシェェェー』と牙を剥き、容赦なく噛みついてきた。

 残念ながら夢子が高校生のころ寿命で天に召されてしまったのだが、中身からっぽの流され体質な主人を心配してか、こうして精神的に噛みついてくる物言う脳内軍曹――マックス・リボーンとして転生してきたのだ……と、夢子は信じている。

 もっとも、高校時代にこの事実を友人に打ち明けたところ『夢子、脳みそヤバいんじゃね?』と一蹴されてしまったので、それ以来他人には秘密にしているが……。

 ――ぐっ、軍曹……おっ、お久しぶりです……! しばらくお姿をお見かけしませんでしたが、お元気そうでなによりです。確か営業時代以来……ですよね……?

 戸惑いつつも今度はちゃんと脳内で返すと、ハッと冷笑した軍曹は、

『お前がのんべんだらりと生きていたせいだ。私の原動力は焦燥感――本体であるお前が焦らんことには出るに出られないのだ馬鹿者め!』

 ――なっ、それはそっちにも責任あると思うけどな!

 一方的に責められ、カチンときた夢子が反撃に出る。

 ――入社したてでテンパってた私にビシバシ鞭打ってプレッシャー与えまくってきたのはそっちでしょ? 軍曹のハードモードに合わせたせいで私、体壊して異動になっちゃったんだから! そりゃちょっとは休もうかなって気にもなるし、少しくらいダラダラしたってバチは当たら……

『ほーう、己の未熟さを私のせいにするとはいい度胸だな。ちょっとと言いながら何年も怠惰に過ごしてしまう軟弱さ! だからお前はアホなのだぁーっ!』

 頭が割れんばかりの叱責に、背中がアイロンをかけられたかのようにピシイッと伸びる。すっ、すみませんでした軍曹、全て私が悪かったでありますっ!

 へこへこと謝る夢子(あくまでも脳内で)に、『うむ』と満足そうに頷いた軍曹は、

『夢子よ、私が再び現れた意味がわかるな? お前は女子として瀕死の危機にある』

 ――はい軍曹っ! 自分は今、アゴのたるんだオッサン化の波に流されつつあり、ぶっちゃけ超テンパってるでありますっ! 遺憾ながら若さのメッキはどんどん剥がれている模様。それなのに三日後には本格的なアラサー恐慌が到来――マジでセカオワ三十路前でありますっ!

 報告しつつも、うわーん、どうしよう……! 涙目になってしまう夢子に、

『泣くな夢子、私が来たからにはもう安心だ。私とお前がタッグを組んで乗り越えられないことがあったか?』

 軍曹が力強くも優しい声音で語り掛けてきた。

『諦めるな夢子、戦うのだ。オフィス・オッサン化を回避し、幸せを掴み取るべく奮い立つのだ夢子よ――!』

 ああ、やっぱり持つべきものは軍曹だ。マックス・リボーンからの温かい激励に、夢子はアイアイサー! と勢いよく敬礼する(あくまでもやっぱり心の中で)。

 かくして、脳内軍曹による脱アラサー恐慌幸せ作戦が開始されたのだった。


『夢子よ、まずは現状の把握だ』

 軍曹からの指示に従い、帰宅するなり姿見の前に立つ。女子力の在庫状況を視認し対策を練るためだったのだが、鏡に映る己を見るなり夢子は「やったぁ!」と歓喜の声を上げてしまう。

「見て軍曹! 鏡だと私、まだちゃんと女に見える……っ!」

 職場で散々アラサー恐慌だの女子力暴落などと脅されたあげくに、電車では自分をキモい痴漢と勘違いする痛恨のミスをおかしてしまったのだ。某お笑い芸人ばりにヤバいよヤバいよ状態だった夢子にとって、目の前に映るちゃんと女性っぽい己の姿はまさに地獄に垂らされた蜘蛛の糸――一縷の希望だった。

「ほらほら軍曹、私ってばどう見ても女! NOTオッサン、NEVER変質者っ!」

『BUTオバサン一歩手前だ』

 夢子が掴んだ蜘蛛の糸を、鬼軍曹が容赦なくぶった切る。

『もう一度鏡を見てみろ。今度は間近でじっくりとな!』

 語気を強める軍曹に促され、姿見に近付いてみる。――と、

「あれ……私の輪郭こんなに丸かったっけ……?」

 改めて見ると、以前よりアゴの下がタプっとしている。今はまだたるみと呼べる範囲だが、放置しておけば二重アゴ化する恐れのある、危険なタイプのタプタプだ。

『ようやく気付いたようだな。オッサン化は辛うじて免れているが、アゴのたるみは紛れもない事実だ。それを忘れて糠喜びするとは何事か、この愚か者めっ!』

 軍曹の怒号が飛ぶ中、鏡に映る己を引き続きまじまじと見つめると――

 うわぁ、変化があったのはアゴだけじゃない。生意気な後輩、大喜名の言う通り頬にシミがポツポツっと茶色い三連星しちゃってるし、崩れたファンデがシワに溜まって泥水の干上がった川みたくなっちゃってるし、わわっ! よく見たら首にもシワっぽいのできてない……? ぎゃー、何これっ……!

 首にうっすらと浮かび上がった忌まわしき線を「消えろ消えろー」と必死に伸ばす。うえっ、力入れすぎて吐き気してきた気持ち悪い……。首を押さえつつよろめいた夢子は、想像以上に老け込んでいた己に、はぁーっと嘆息する。

「もうこれっぽっちも輝いてない気がしてきた。いつの間に剥がれてたんだろう、私のメッキ……」

 自分で言うのもなんだけど、入社当時は外見的にも内面的にも、もっとキラキラしていたように思う。若さや初々しさが、野暮ったいスーツ姿さえも眩しく彩っていたし、上司や先輩の言葉にニコニコキャピキャピ、いちいち元気に応えられていた。

 それがいつからだろう。男性社員と肩を並べてがむしゃらに働いてるうちに、その手の若々しさはいつの間にか消滅してしまっていた。一頑張りにつき一キャピキャピ――ハードワークの対価としてキャピ力が消費されていたのかもしれない。

『すまんな夢子、新人時代に私がムチを振るいすぎたせいで、必要以上の女子力を削らせてしまったようだ』

 落ち込む夢子を心配してか、珍しく謝ってきた軍曹だったが、相変わらずの毒舌は休まることを知らずに、

『もっとも、私が休眠していた数年間は随分と暇だったようだし、失ったキャピをリカバリーする時間は十分あったはずだがな』

「ないない! 人が一生のうちに作り出せるキャピには限りがあるんだから! 営業のころ軍曹に死ぬほど働かされたせいで、キャピどころかテへッもウヒョッも生産終了、もう一滴だって残ってないっ!」

『ウヒョッはいらないだろう、ウヒョッは! いいか夢子、あと数日もすればお前は三〇、本格的なアラサー恐慌の波に呑まれてしまうのだ。今さらキャピったところで痛々しいだけだし、はなからそれは期待していない』

「じゃあどうすればいいの? 筋トレに励んだとしても、アゴのたるみに効果が出るのはまだまだ先の話だし、当面はメッキボロボロの状態で戦うしかないってこと? 月曜には私、女子力大暴落でみんなから袋叩きにされちゃうんだよっ?」

『誰もそこまでは言ってないだろう。それに、メッキが剥がれたのなら新たなメッキを纏えばいいだけの話だ』

 新たなメッキって? 怪訝顔の夢子に、軍曹が不敵な笑みを浮かべる。

『それはズバリお洒落だ。ファッションの力を借りてアラを誤魔化す――手っ取り早く女子力を上げるには打って付けの方法だ。あくまで表面上の変化だが、筋トレの成果が出るまでの時間稼ぎくらいにはなるだろう』

「オシャレかぁ……確かにいいかも! 最近服には気を遣ってなかったし……」

 会社に行くときはネットで適当にポチったセール品をフル活用――ブラウスにカーデを羽織ってボトムスはパンツってスタイルを何パターンかひたすらローテーションしているだけだ。休日も悲しいかな基本一人でDVD三昧なため、ゆるっと部屋着で過ごしてしまうことが多く、女っぽい服装とは無縁の生活だった。

「そういえばスカートとか全然穿いてないなー。あれぞ女子の象徴って感じなのに」

 言いながらクローゼットの洋服をあさる。

「わっ! これ懐かしーっ!」

 引っ張り出したのは一枚のワンピース。元彼とのデートにも着ていったものだ。そういう可愛い系の服も似合うねって、褒めてもらったっけ……。今となっては甘塩っぱい思い出に浸りつつも、あの日の輝きをもう一度――と、試しに着替えてみる。

 スースーする足元の感覚が久々でなんだか落ち着かないけど、同時にワクワクもしてきた。うふふっ、一〇代の乙女みたいに若返っちゃってたらどうしよー!

 軽い足取りで姿見の前に立った夢子だったが、鏡に映る想定外の事態に「何これ……」と、絶句してしまう。

 白地にミントグリーンの水玉模様、少女のような丸襟に、ウエストラインを飾る繊細なレース――かつては己を可愛く見せてくれていたディテールが恐ろしいほどに似合わないのだ。ワンピそのものは昔のまま可愛い。が、着ている本体の顔が変わりすぎていて、若返るどころか逆に老けて見える。

「そっか、これ着てたのってまだ二〇代前半のころだもんね。そりゃ三十路前にもなれば顔も変わるよね……」

『以前より逞しくなった二の腕のせいで、女装したオネェ感すら漂っているな。安っぽいペラペラな化繊素材もアラサーには痛々しい。夢子、その服は諦めて次だ次っ!』

 冷静に分析して着替えを促す軍曹。その率直で辛辣な言葉にグサグサと傷付きながらも、後のない夢子は「アイアイサー!」と高らかに返事する。

「こっ、このスカートなら無難なチェック柄だからまだイケそう……ってウエストパンパンでチャックが閉まらなーいっ! ここっ、こっちのヒップハンガーのスカートなら入るんじゃ……ってアラサーが膝出しミニ丈とかありえなーいっ!」

 クローゼットから往年のスカートたちを出しては投げ、出しては投げを繰り返すも、三十路まっしぐらな夢子の女子力を上げてくれる代物は見つからない。絶望的なまでに似合わないスカートたちに、さすがの軍曹も相当なダメージを受けているようだ。

『ゆっ、夢子よ、ボトムスは諦めるのだ。トップスを……イケてるトップスを纏って精神を落ち着けねばならぬ……っ』

 息も絶え絶えな軍曹の指示に従い、今度はブラウスやカーデをあさってみるが、

「何この発表会みたいなフリル! こっちのはハート型のボタンとかついちゃってるし、可愛いけどこの年で着たらもう犯罪って感じ! あっ、でもこのサマーニットは上品なラメが入ってるだけでシンプル……」

『……って後ろにでっかいリボン付いとるやないかーいっ!』

 ダメージを受けすぎておかしな喋り方になった軍曹が夢子の本体を操作、『ええい、こんなファンシーなものいらぬわーっ!』とニットから豪快にリボンをもぎ取る。

「軍曹パトラッシュ……僕もう疲れたよ……」

 無惨な姿になったニットを手に、ネロ夢子はその場に倒れ込む。

『夢子よ、今はただ眠れ……。明日は土曜で会社も休みだ、小洒落た洋服屋にでも出向いて新たな戦闘服を……メッキ代わりの鎧を探しに行こうじゃないか。誕生日目前にもかかわらず誰とも約束がない、寂しいお前には打って付けのミッションだ……』

 フラフラになりながらも、毒舌は忘れないスパルタ軍曹だった。


 翌日、新たな鎧を求めて辿り着いたファッションビルの入り口で、夢子はすっかり気圧されていた。別に《女子力暴落民お断り》なんてバリケードが立ち塞がってるわけじゃない。けれど、その全面ガラス張りのスタイリッシュな外観や、虹色のライトに照らし出されたハイセンスな入り口を前に、異様に緊張してしまうのだ。

 ここってちょっと老朽化した古くさい感じのビルだったのに、いつの間にリニューアルしたんだろう。今日は一人での気楽な買い物だし(脳内に秘密の相棒はいるけど)、そこまで粧し込まなくてもいいだろうと適当な服装に、確か流行ってたよね? と、アラレちゃん眼鏡を合わせてきたのだが、周囲にそのような者はおらず、皆気合いの入ったファッションでその身をキラキラと飾り立てている。

 なんか浮いちゃってるし、今日のところは退散しようかな……。そろりと後ずさると、『敵前逃亡など許さん、進軍あるのみだ夢子よ!』と軍曹が発破を掛けてきた。

 ――この戦いに勝ったら私、女子力増強でほぼオッサン状態卒業するんだ……!

 そう心に誓って、ようやくビル内へ足を踏み入れると――

「わぁー、懐かしーっ!」

 通りかかった店に掲げられた見覚えのあるブランドロゴに心が躍る。昔好きでよく通っていたお店だ。といっても、凝ったデザインの製品が多いその店では値段的に手が出せず、ウィンドウショッピングで終わることが多かったのだけど。

 昔よりはお財布に余裕があるし、女子力回復のための勝負服はここでゲットしちゃお! そう思って店に入るなり夢子は、

「きゃー、これ可愛いー! こっちもあっちも、見渡す限りみーんな可愛いーっ!」

 店内に溢れるキュートな洋服たちに思わず歓声を上げる。パステルカラーのカットソーにふわりと広がるチュールスカート。わわっ、これなんてハートのチャームが可憐すぎるし、こっちのリボンもたまんなーいっ!

『夢子よ、興奮中のところを悪いがそれを着るつもりか? 今のお前が?』

 正気か? とドン引きの軍曹が、脳内でダバダバと溢れ出すドーパミンを機敏に避けながら指摘する。

 ――うっ! そうだった、ハートもリボンも昨日重傷を食らわされた、アラサー的には禁忌のモチーフなんだった……!

『かつて憧れていたブランドの商品――値段的には手が届くようになったが、今度は顔が遠のいてしまったようだな。悲しいことだがその距離はもう永遠に縮むまい』

 やめて、それ以上言わないで……! 軍曹からの精神攻撃に頭を抱えていると、

「何かお探しですかぁー?」

 店頭に並んでいるのと同じワンピを華麗に着こなした店員が声を掛けてきた。

「あっ、はい、新しい鎧……じゃない、女子っぽく見える服をっ!」

「女子っぽいって……うふふ、おもしろいこと仰るんですねーっ!」

 美月と同じくらいの年頃だろうか。若さはじける笑顔で明るく答えた彼女が「これなんかどうですかー?」と、襟元にフリルのあしらわれたブラウスを掲げる。

「今一番売れてるやつなんですけど、オフショルダーにして着るのがオススメでー、可愛い中にもセクシーさが出るので、お姉さんにも似合うと思いますー!」

 おっ、お姉さん……? サラッと言われてビックリしてしまう。『夢子よ、お前いつの間に妹ができたんだ、よもや生き別れか?』と軍曹までもが混乱する始末だ。

 思えば、以前ウィンドウショッピングしていたころは店のスタッフは皆同年代か年上――友達感覚で接してくれていた。けれど、今目の前にいるこの店員は年下。もう友達のようには接客してもらえないのだ。当然といえば当然だが、彼女から下された明らかな年上判定に動揺してしまう。

 無言で固まっていると、ブラウスへの興味なしと判断したらしい店員は話題を変え、

「今年はカーディガンも優秀でぇ、UVカット機能までついてるんですよー!」

 へー、それって便利かも! 食いついた夢子に、商品を売るべく戦闘モードになった店員はオススメのカーデを取り出して、

「こちらとかよく出てる人気の形なんですけど、あ…………!」

 炸裂しかけたセールストークが突如不発に終わる。

「……っと、お姉さんには別の方がいいですかねぇ。これとかー?」

 店員が素早い動きでイチオシだったはずのカーデを撤去、違う商品を出してきた。

 えっ、何、何事っ……? なぜ突然販売を拒否られたのかと、引き離されたカーデを遠目にチェックする。色は上品なペールブルー。お尻まで隠れるロングな着丈で形もシンプル。パンツスタイルとの相性もバッチリでオフィスでも活躍しそう……なのになんで私にはオススメしてもらえないの?

 不審に思ってさらに目を凝らす――と、勧めてもらえない犯人を見つけてしまった。

 ポケットにリボンが付いていたのだ。といっても、大きさも形状も大人しめ――『わらわはリボンじゃ、皆の者ひれ伏せっ!』みたいな主張の強いやつじゃなくて、『すいません、私なんかがリボンで……』みたいな控えめで謙虚な佇まい。明後日には三〇な夢子が着ても、あと二、三年は許されそうなデザインだ。それなのに……。

 店員の方は気を利かせてくれたのかもしれないが、こうもあからさまに引っ込められると、えっ、お姉さんもうリボン付けちゃダメなの? と傷付いてしまうよ妹よ。

 ああでも、昨日も部長にダメ出しされちゃったんだっけ、髪ゴムに付いてたリボン……。いくら地味めでも、アラサーがリボンしてると傍目にはイタいのかなぁ。

 店員が、代打で出してきた別のカーデ(リボンなし)を解説してくれているけど、全然頭に入ってこない。――と、不意に他の客の視線を感じた。

 若い女子二人組が夢子を見ており、そのうちの一人は、ひれ伏せオーラ全開のわらわリボンの付いたキャミソールをしかと握り締めている。どうやら購入する気マンマンらしいが、今日は休日ということもあって店には夢子たち以外にも多数の客がいる。店員は皆接客中のため、買うに買えない待ちの状態にイラついているらしい。「早くしてよ」というヒソヒソ声まで聞こえてきて、さらには、

「今どきあんなでっかい黒縁メガネですっぴん隠しとか古くなーい?」

 べべべ、別にすっぴんなわけじゃないよ、アイメイクはお休みしたけどファンデはちゃんと塗ってる! てか塗らざるを得ないの、ほっぺで大暴れしてる茶色い三連星隠さなきゃいけないからね、悲しいけどこれ老化なのよね!

 心の中で反論しつつも、しょうがないなぁ、ここはオススメされてる方のカーデちゃっちゃと買って順番回してあげるか……なーんて考えていると、

「てゆーかここってあんなオバサンの来る店じゃなくない?」

『ててて、撤収だ夢子っ! もはやここは我々の戦場ではないっ!』

 待ちぼうけ女子からの奇襲に慌てふためいた軍曹が退避命令を出した。


『危ないところだったな、退避があと数秒遅れていたら致命傷を負わされていたぞ』

 軍曹に急かされ、一つ上の階に来た夢子だったがその表情は硬い。「ねぇ、このフロアなんか暗くない?」と思わず声に出してしまう。

 もしかして節電してる? とも思うが、照明らしきものはみな点いており、それなりに客もいて閑散としているわけでもない。それなのにフロア全体がなんだか沈んで見えるのだ。さっきまでの階はこことは比べものにならないほど輝いていたのに……。

『夢子よ、言っておくが先ほどまでいたのは若者向けの売り場だ。そしてここはキャリアファッションの階。お前の本当の居場所はここだぞ。よもやこの期に及んで自分はまだ若いなどと思っているわけじゃなかろうな。明後日には三十路なんだぞ』

 ためらってどの店にも入れずにいた夢子に軍曹が釘を刺す。はいはいわかってますよ、とすぐそばの店を覗くと、店頭に並んでいる商品はどれも白や黒、グレーにネイビーといった大人しめな色目が多く、先ほどの店で目にしたような可愛い系の色――中でもパステルカラーがすっかり駆逐されていた。デザインの方もいたってシンプル。わらわリボンはもちろん、謙虚リボンの姿さえない。

 なんかテンション上がらないなぁ……。そう思いつつも、手近な棚にあった生成りのカットソーを広げてみる。特に何か飾りがあるわけでもない、どこにでもありそうなデザイン。女性らしいパフスリーブが女度を高めてくれる気もするけど、そう飛びつくほどの魅力は感じられない。まぁ無難っちゃ無難だし、一枚あっても困りはしないけど……と値札を見てみると――

 うっそ、二万円……? この味気ないカットソーが二万円? こんなのカットソーだなんて気軽に呼び捨てにできないよ、カットソー様だよ! と商品を手にしたまま震えていると、同年代くらいだろうか、落ち着いた佇まいの店員が話し掛けてきた。

「そのカットソー、イタリア製の特注生地で作ってるんです。ストレッチが利いていて動きやすいし、シルエットも綺麗で合わせやすいので今すごく人気なんですよ」

 ほーう、言われてみればイタリア製っぽく見えてきた。肌触りもいい気がしてきたし、値段相応に良い品にも思えてきた……けれど、この服じゃなきゃダメって感じはしなくて、二万も出してまで買う気にはなれない。ネットで買うときみたいにセールでお安くなってるとかならまだしもプロパーではちょっと、と戸惑っていると、

『しかし夢子よ、アラサーともなるとこういう本物志向なシンプルなものを身に付けた方が女子力が上がるんじゃないか?』

 軍曹に聞かれて、そうなのかなぁ? と首を捻ってしまう。正直なところよくわからないというのが本音だ。悩みながらも引き続き店内を物色、他の商品を探してみるが、ヤングフロアのように『きゃー、可愛いー!』と興奮してしまうような服は見当たらず、無難で地味めなものばかりが並んでいた。が、三十路予備群としては、ここにあるような大人しめの服を選ばなければいけないような気もしてくる。

 シンプルイズベストって言葉もあるしなー。でもこのお店にあるの、全体的にあんまり好みじゃないっていうか、ぜひとも着たいって服ではないんだよね。だけど年齢的には大人らしい選択が迫られてる局面だったりもして、うーん……。

 いろいろと考えすぎてしまった夢子は、いったい何を着ればいいのか、自分のことなのにさっぱりわからなくなってしまい、ついには――

「すみません、年相応に女子力を保てる服をください!」

 軍曹との話し合いの末、ショップ店員に判断を委ねることにした。


「またのお越しをお待ちしておりますー!」

 にこやかな店員に見送られながら、夢子は大きなショッパーを手に店を後にする。あああ、買っちゃった……という少しの後悔も一緒に。

 購入したのは買うほどじゃないとスルーしていたはずの例のカットソー様と、今一番売れているらしい店員イチオシのスカーチョだ。足の短い夢子が穿くと裾の広がりに圧迫感が出てスタイルが悪く見える気もしたが、試着時に店員から『女子力が溢れ出ていますね! 先ほどご覧になっていたカットソーを合わせていただくとより素敵ですよ!』なんて乗せられてしまって、つい両方お買い上げしてしまった。

『どうした夢子、戦利品が気に入らないのか?』

 ――戦利品って、普通にお金出して買ったし! しかも予想外の大出費!

『ちゃっかりカットソー様まで買っておいてなんだその言い草は。おおかた店員の世辞を本気にして、私ってばまだイケてるじゃーん、などと血迷ってしまったのだろう』

 ううう。図星を指されてぐうの音も出ない。いいじゃん、何はともあれ最新鋭の女子力放射器を手に入れたんだし、漲る女度で幸せをガッツリ掴んでやるんだからっ!

 来たるべきそのときに向けて、雄々しさ全開で闘志を燃やす夢子だったが、その胸中にはモヤモヤも依然として残っていた。

 あーあ、気分の上がらない服に何万も注ぎ込んじゃった。どうせお金を出すなら……。頭をよぎるのは若者向けフロアにあったリボン付きカーディガンだ。もう三〇だからと敬遠していたくせに、まだ謙虚リボンのことを気にしてしまっている。

 結局のところ夢子は、アラサーになった今でも可愛いものが好きなのだ。だからリボンやハートなどといった、今さら子どもっぽいようなモチーフに心が躍ってしまうし、自然と目が向いてしまう。

『そのわりにあまりそれ系の服は着ていなかったんじゃないか? クローゼットに眠っていた若き日の女子服もそれほど出番はなかったようだしな』

 夢子の思考を読み取った軍曹が訝るように聞いた。そっか、軍曹は知らないんだっけ、私が可愛い服を着たくても着られなかった理由……。

 あれは軍曹が脳内に住み着く前、チワワのマックスがまだ元気だったころ――夢子が中学生のときだ。当時からリボンやフリルの付いたガーリーな服が好きだった夢子は、友達と遊ぶ際もそのような格好をしていた。が、ある日言われてしまったのだ。

『夢ちゃん、その服子どもっぽくない? もう中学生なんだし、リボンはそろそろ卒業でしょ? なんか一緒にいると恥ずかしいよ』

『そうそう。もっと大人っぽい服着なきゃダメだよ、私たちみたいにさぁー』

 子どもなんだから子どもっぽい服でもいいじゃん! 今ならそうツッコめるけど、当時みんなは背伸びがしたいお年頃。結局彼女たちに流された夢子は、そっかぁ、もう可愛い系の服はダメなんだ……と、自分の趣味を封印、いわゆる女子ウケしそうな服ばかりを好きだと偽って身に付けるようになった。

『なるほどな。だが、彼氏の前では自由にしてもよかったんじゃないのか? デートのときも可愛い系の服はそれほど着ていなかったような気がするが』

 ――それが……ほら、私が付き合ってた相手って、みんな年下だったでしょ?

『みんなって、交際していたのは三〇年間で二人だけだろう、経験豊富そうに語るな』

 思い出話にも容赦のない軍曹。いや、注目すべきは人数じゃなくて年下ってとこだから! それとまだギリギリ三〇にはなってないから!

 弁解を入れつつも夢子はさらに続けて、

 ――高校のとき初めて付き合った彼は二歳下の後輩、その彼と破局したあと大学のとき付き合い始めた彼も三歳下の後輩。だから一応付き合ってはいたけど、恋人っていうか姉弟って感じで、なんか姉っぽいポジションになっちゃってたんだよね、実際私、弟いるし……。

 デートだからって、調子に乗って可愛い系の格好ばかりしてると、年上なのに若い子ぶっててイタいと思われないかな、とか、年上の私と付き合ってるってことは大人っぽい女の子が好きなんだから、もっとお姉さん風の服着た方がいいのかな、とか気にしてしまって、シャープなタイトスカートとかモノトーンコーデとか、好みとは違う服ばかりを選んでいた。

 それなのに、買い物に行くとつい可愛い系の服を衝動買いしてしまって、着ていく予定のないその子たちはすっかりタンスの肥やしと化していた。

 今思えば、まだ顔がついていくうちにあの子たちをたくさん着ておけばよかった。リボンやレースが使われているとはいえ、ドン引きするほどブリブリなわけでもないし(女子アナなら余裕で着こなせるレベル)、営業を異動になってからは内勤だったのだ。上手くコーディネートすれば、クローゼットに眠る子たちを職場に連れていくことだってできたはずなのに、それまでの経験からなんとなく気後れしてしまって、ブラウスにパンツなんて無難な服ばかりをローテしていた。無難な服なんて、年を取ってからいくらでも着られたのに。もったいないことしちゃったなぁ……。

 今さら後悔したところで時間も若さも戻せない。今となってはたとえ趣味でなくても、テンションが一ミリたりとも上がらなくても、僅かばかりに残った女子力を上げるべくシンプル綺麗な地味服を纏うしかないのだ。

『結局のところ、お前はいつも人の目を気にして純粋にお洒落を楽しんでこられなかった、というわけか』

 軍曹が嫌味ではなく、少し労るようなトーンで言ってくれたので、沈んでいた気持ちが少しだけ軽くなる。

 ありがとう軍曹。でもなんで私の脳内にいるのに君って男なんだろうね……。オスだったマックスの生まれ変わりだからなのか、軍曹が出現した当時から私の女子力が低かったからなのか……。

 まあなにはともあれ、軍曹と協力して今後本格化するアラサー恐慌を生き抜くべく頑張ろう――そう心に誓う夢子だった。


 翌日の日曜――二〇代最後の一日は、行きつけのオシャレなカフェに出掛けて、もうすっかり顔なじみになったイケメンのマスターに淹れてもらった美味しい紅茶を飲みながら、読みかけてた洋書をパラパラとめくっていたら、「明日、お誕生日でしたよね?」なんてマスターからの突然のサプライズ――ハッピーバースデーの歌に乗せて、マスター手作りのケーキが運ばれてくる……

『……ような生活してたら、こんな女子力の欠如したオッサン予備群にはなっていなかっただろうな。というか余計なことを考えるな、集中しろ集中っ!』

 軍曹の罵声で妄想イケメンマスターの顔が吹っ飛ぶ。あーもう、軍曹ってばひどーい……フンッ! 苦しいときは楽しいこと思い浮かべたいじゃん……フンッ! てかあと何回これ続ければいいのよーっ……フンッ!

 念のため弁解しておくと、この『フンッ!』という音は、別に怒ってそっぽを向いている効果音ではなく、腹筋で体を起こす際に出てしまう声だ。

 行きつけのオシャレなカフェも、洋書を読めるほどの英語力も、誕生日を祝ってもらえる当てすらもない夢子は、こうして鬼軍曹指導の下、アゴや腹などのたるんだ贅肉を鍛えるべく筋トレに励んでいるのだ。

『付け焼き刃ではあるが、明日に控えた大規模恐慌に備えて体を引き締めておく必要があるからな。さあ休んでいる場合ではないぞ夢子よ。GOだGO、GOGOGO!』

 軍曹に急かされ、夢子はひたすら腹筋を続ける。

『つらいか?』はいっ!『だが続けろ!』ひいっ!『休みたいか?』はいっ!『だが許さん』わおっ! ……などと、非常にくだらないやり取りをしながら二〇代最後の休日を過ごした夢子だったが、

 ――ダメだ、あんなに体を動かしたのに全然眠れない……!

 明日に備えて英気を養うのだと早々に活動停止した脳内軍曹に反して、本体の夢子はギンギンに目が冴えていた。今日はDVD鑑賞もなしで午後一〇時にはベッドに潜り込んだのに、なかなか寝付けないまま時だけが過ぎ、あと一五分でウェルカム三十路な時間だ。

 わぁーん、世界が終わっちゃうよー! このまま一人寂しく恐慌へのカウントダウンとかしたくないよーっ!

 これが友達でもそばにいてくれたら、『もう三〇歳とか意味わかんないよねー、キャー!』とか騒ぎながらもそれなりに楽しく過ごせていたのかもしれない。けれど現実は一人――ブレーンの軍曹すら応答してくれない状態だ。

 女子力を失った自分の存在がなんなのかさえわからず震えてしまう、一五ならぬ二九の夜。まさか盗んだバイクで走り出すわけにもいかず、スマホを取り出して、

『三〇代 女子力ヤバい 対策』

 でネット検索しているうちにあれっ、いつの間にか日を跨いでしまっていた。

 なんてあっけない三十路の到来だろう。今のところまだ、世界は終わりそうにない。