プロローグ


「……先生? 聞いてますか?」

 俺ははっとした。

「ええ、はい。それで……私が今度から受け持つ新しいクライエントの……伊東さん、でしたっけ?」

「はい、元いた学校のカウンセラーさんからの紹介で……」

 そこまで言って、古株の看護師さんの眼差しが手元のファイルから俺に向けられた。

「……先ほどから上の空、ですよね?」

「そんなことないですよ」

「あの、無理しない方がいいんじゃないですか? 先生の方が、その、辛そうですよ」

「……そんなこと、ないですよ」

「……ちょっと時間が経ってからの方が悲しみがより実感されることもありますし……少し休まれてはどうです?」

「頼ってきてくれるクライエントさんがいるんです。頑張らないと」

「そう、ですか? 他の先生に代わってもらってもいいと思うんですけど……」

「気にしないで、続けてください」

「……はい。その伊東さんですけれど、一年の一学期半ばから不登校気味になり、退学後も不調が継続しているそうです。こちらには親御さんが診てもらいたいと、本人を説得して連れてくる予定……あの、本当に大丈夫です?」

 俺は再びはっとして、

「え、ああ、そういうことなら家族関係の影響も考えてみたいですね。伊東さんのご家族とも面談する機会が取れないか、確認してみてください」

 そう取り繕った。

 こんなやり取りがここ最近、何度も繰り返されていた。

 そうして幾日かが過ぎた時のことだ。


四月十六日


 金沢先生に呼び出された時、俺は覚悟をした。

「浅賀君、今の君にはクライエントを任せられません」

 そうはっきり告げられて、さすがに一瞬言葉を失ってしまう。

 半白頭に細い顔。その柔和な表情から、気遣わしげな言葉が連なる。

「しばらく時間を置くべきではないでしょうか」

「……それは解雇ということですか」

 なんてことだ。目の前が暗くなったような気がする。

 立ち直りたくて心療内科にやってくるクライエントは多い。俺だって今でも何人ものクライエントを担当している。だからこその忙しさなのだが、それをカウンセリング途中で放り出すような真似はできない。それでは彼等に対する裏切りになってしまうだろう。それどころか、見捨てられたと傷付いたクライエントが自ら命を絶つ可能性だって……ないわけではないのだ。……そう、櫻のように……。

「時間を置くべき、と言っただけです」

 心療内科医長の金沢先生は眉を八の字にしている。

「君も、今の自分の状態がどんなものか、自覚していると思います。君の為にも、今はカウンセリングから一旦離れて、自分の軸を取り戻した方がいいでしょう」

「いえ、私は大丈夫です」

 俺は大きく息を吐き、

「現在の仕事量で問題はありません。忙しいように見えるかもしれませんが、十分対応できています。大丈夫です」

「そういうことではありませんねえ」

「やらせてください。大丈夫ですから」

 金沢先生は首を横に振りつつ、

「浅賀君。一旦、離れるだけです。心配しなくていいんですよ」

「でも、今のクライエントさん達は皆大事なんです。……その大事な人達の心を救うこともできないカウンセラーが、これから先、誰を救えるというんです? だから……続けさせてください」

 そう聞いて、金沢先生の眼差しに初めて、鋭い光のようなものが走ったかに見えた。

「それこそが、いかに君が失調しているかの証左です。家族や友人に対してカウンセリング的な関わりをすることは臨床心理士としての倫理規定に違反します。それは実に危うい。自分にとって大事な人としてカウンセリングするなど、誰にとっても益にならないことです。クライエントとの距離が近過ぎる。そんなこともわからない君ではないはずですよ」

「けれど、私がクライエントの悩みや苦しみを理解していれば……手を差し出せていたら……そう、そうしていれば櫻だって死なずに済んだかもしれないんです。だから……」

 と、それまで柔らかかった金沢先生の語気が、一瞬鋭くなった。

「いけません。それはいけませんよ、浅賀君。思い違いも甚だしい。君が壊れてしまう。……君の事情は耳にしています。ですが、君はその彼女とクライエント達を混同しているのではないですか? 自分なら救えたかも、などと後悔するのはおこがましいことです、ええ。そもそも、君の恋人は不慮の事故で亡くなったと聞いています。そこにカウンセリングが必要だった根拠は認められないと思うのですが?」

 金沢先生の言葉に、俺は押し黙る。

 俺の事情。それを思い返すと、言葉が出せなくなる。胸が苦しい。

 櫻は深夜、都内某所で車に轢かれ命を落とした。確かに一見すれば事故死だろう。だが、なぜ櫻はそんな夜遅くに外を出歩いていたのか。

 その当時の俺が知らなかったことがある。櫻は事故に遭う一年前から体調を崩していて、病院に通っていたらしい。櫻の母親から、葬儀の時に初めて聞いた話だ。俺は櫻から体調不良のことも病院通いのことも聞いていなかった。隠していたのか。今にして思えば、俺を避けていたのかもしれない。

 その時の俺は櫻を失ったショックで放心していたが、今、段々と時間が経ってくると疑問がもたげてきている。何故死んだ? 何故体調のことを教えてくれなかった? 病気のことで悩んでいて、それを誰にも相談せずに抱え込んでしまい……あれは事故ではなくて、自殺だったのではないか? 俺が気付いていたら……こんな結果にはならなかったのではないか?

「とにかく君に担当してもらうクライエントはいない。しばらく休養を取りなさい」

 金沢先生はそう告げると、俺に退室を促した。


 俺が休んでいる間に臨時でカウンセラーが入ることになるのだろう。そして、いつの間にかその臨時の方がここでの関係性を築いていき、俺は正式にお払い箱になる。目に見えるようだ。

 俺は自分の机で、再び大きく息を吐いた。

 自分の臨床心理士としての力量に不安を感じてしまう。

 臨床心理士とは、心の中に悩みや葛藤を持った人に手を貸して助ける仕事だ。心の病気の回復を求めるという点で精神科医と似ている。ただ、精神科医と違い、医療的な治療や投薬の指示は行えない。カウンセリング等を通して、その人自身の力で精神状態を回復できるよう支援するだけだ。また、そうやってカウンセリング等を求める人のことをクライエントと呼び、臨床心理士はそのクライエントと一緒になって対応策を模索していく。クライエントの声に耳を傾け、共感的に理解していくことが必要な仕事といえる。だというのに……。

 前まではこうではなかった。難しい症例でもこなせる自信があった。クライエントの極端な考え方を緩和し、生き易くする。クライエントの意識を改革して、救ってあげられる。傲慢にもそう信じていた。

 なのに俺は、実際には恋人を救うことも出来なかった。恋人が何に苦しんでいたのか気付けもしなかった。そして、今でも気付けていない。何を考えていたのか、何を悩んでいたのか……わからない。

 何もわかっちゃいない。

「……櫻……」

 思わず、名前を呼ぶ。

 山谷櫻。俺が大学院生の頃に知り合った、三つ下の彼女。

 最初の出会いは……あまり褒められたものでない。酔っ払った俺を介抱してくれたのが彼女だった。それも道端に倒れ込んでいた俺を救急車に乗せて、つき添ってまでくれた。全く見も知らぬ他人であったこの俺を、だ。

 まだ肌寒い季節だった。春先の、丁度今頃だっただろうか。その時、友人達と囲んだ鍋の味は覚えていない。

「辞めたのは残念だったな、浅賀……」

「お前なら俺らよりずっと良い医者になれたのにな」

 そんな彼等の言葉に、俺は杯を重ねた。重ねずにはいられなかった。腹の内に苦い物が生じて、それを掻き消したかった。

 そうして掻き消えたのは記憶と理性。いつの間にか一人で飲み潰れ、ゴミ袋の山をベッドに選んでいたらしい。吐瀉し、酷い臭いもしていただろう。なのに、

「どうしても放っておけなかったから……」

 後日、櫻ははにかんだような笑顔でその時のことを語ってくれた。

 寒さで震える汚い酔っ払い。そんな俺を見て、櫻は汚れるのも厭わず、自らのストールをかけてくれた。そして救急車が来るまでの間、俺の手を握り、温めてくれていたという。

 救急病院で目覚めた俺は、自分が見知らぬストールで包まれているのに気付いた。酷い二日酔いと自己嫌悪の真っ只中だった俺でも、そんなストールに込められた温かさはわかる。その心地よさも。俺は、俺のベッドの横でうつらうつらしている見知らぬ女の子が、俺を助けてくれたのだと何故か確信していた。

 その後、どうやって約束したか覚えも無いのだが、ストールをクリーニングして、介抱の礼を言う為に櫻と再会。更に食事をし、美術館を巡り、共に山へ登るなどを続け……いつのまにか付き合っていた。

 櫻は自然と俺の傍にいた、という感じだ。なんというか、櫻の穏やかでほのぼのとした笑顔が俺に距離感を感じさせなかったというべきか。その人当たりの良さ(というか、お人好し過ぎる点)は、俺には驚きでもあった。

 あのクリーニングしたストールを返す際も、櫻は微笑んでいた。ちょっと照れたようにして、きっとこれは幸運のストールなのだ、と。

「だって、これがあったから志郎さんと出会えたんだもの」

 そうして、嫌な顔一つせず、櫻はそれからもそのストールを使い続けてくれた。俺があんなに汚したにも拘わらず、だ。

 俺のことを心配し、その上、受け入れてくれる人がいる。それが驚くほど俺には響いた。支援も無く、先も見通せない。そんな状態のこの俺なんかに……、と。

 その頃の俺は、学部を変更し、それでも医療現場を諦めきれずに臨床心理士を目指していた。それが破綻する瀬戸際に、櫻は俺の前に現れたのだ。

 俺がそれからようやく臨床心理士として常勤で職を得ることができそうだと打ち明けた時も、彼女は共に喜んでくれていた。それが二人をしばらく離れ離れにすることになると知っていても、彼女は文句を言うでもなかった。それはきっと俺を信頼してくれていたからだろう。

 ……なのに。俺は彼女が入退院を繰り返すほど弱っているのを知らなかった。櫻は俺に黙っていたのだ。……いや、俺が知ろうともしなかっただけか……? 自分のことにばかり力を注ぎ、櫻からその兆候を察せなかった。櫻も……そんな俺に愛想を尽かしていたからこそ言わなかった……?

 とそんな中、沈んでいく気持ちを断ち切るようにPCから軽快な音が流れる。

 俺は自分のPCの画面に目をやった。先程、勤務先である若駒病院から帰宅して、自室に閉じこもった際に立ち上げておいたのだ。

 メールが送信されてきた合図だ。

 金沢先生から解雇通告でも来たのかと思ったが、違う。

 俺のプライベート用のアドレス宛てだった。件名は「一年後の君と」。それに添付データがついている。

 なんだこのメール? 送信者は誰だ?

 差し出し人名には短く「ark」と記されている。

 アーク? 知らない名前だった。心当たりがない。このアークという差し出し人はどうやって俺のアドレスを知ったのか、それとも間違いメールだろうか。……いや、というか……

「……チェーンメールか……?」

 なんだろう? と好奇心から添付データを開いたら即感染、とか?

 俺は口の片端を歪める。

 大事な人を失い、やっと手に入れた職場での信用も失った。カウンセラーとしての仕事も自信も失った。そんな俺からこれ以上何を持って行こうというんだ? 個人情報? ……やれるものならやってみろ。

 俺は捨て鉢になっていた。カチ、とクリックしてメールを開く。

 メールの中身。本文は何も書かれていない。ただ添付データがあるだけだ。

 俺は一瞬だけ、その「一年後の君と」と名付けされた添付データを睨む。

 カチ。開いた。

 画面上に、大きく画像が展開されていく。

「……これは……?」

 赤く色付いた特徴的な葉。それだけが映っている。

 PCが奇妙な音を立て始めたり、勝手にウィンドウが何枚も開き始めたりもしない。

「……紅葉……?」

 俺は拍子抜けし、画像をよく見てみた。

 真っ白な背景。その中にカエデの葉が一枚だけ置いてある。葉先を上に向けて、燃え盛る炎のようだ。赤の濃淡で一見立体的だが……よく見れば絵だとわかった。

 綺麗ではあるが、別にどうということは無いありふれた一枚。素人が、ああ綺麗だな、と無造作に写した物のように思えた。

「……なんだ、ただの間違いメールか?」

 と、こんなメール、普通なら放置しておくのだが……。なぜか、この時の俺は返信していた。……誰でもいいから話したかったのかもしれない。


送信元:浅草堂

宛先:ark

先程メールをいただいた者です。

大変失礼ですが、あなたはどちら様でしょうか?

添付画像拝見いたしました。綺麗な紅葉でした。ただ、それを自分に送ってくれるような方にちょっと心当たりがないのですが……。

宛先を間違えているのでは?

どうぞよくご確認ください。


 俺が返信して、ほとんど時間を置かず、PCから軽やかな音が響く。

 おや、ほんとに差し出し人から返事が返ってきた。

 差し出し人にarkとある。俺は早速中を開いて、


送信元:ark

宛先:浅草堂

???

あなた誰???


 天を仰ぐ。いや、それはこっちが聞いてるんだが。


送信元:浅草堂

宛先:ark

先程、こちらに紅葉の画像を添付したメールをくれましたよね?

もしかして宛先を間違えているのではないかと思ってメールしたのですが。

「一年後の君と」というメールを送った心当たりはありませんか?


 言葉を選んでいたら、こんな短いメールを打つのにも時間がかかってしまった。それを送信すると、またすぐに返信があった。


送信元:ark

宛先:浅草堂

浅くん、返事遅っ!

わたしのことはアルケーって呼んで!


 浅くん? え? 俺のことか? 浅草堂という名で登録しているから?

 ……何でいきなり、知りもしない相手から浅くん呼ばわりされなくちゃならないのか。それに何となくだが、この差し出し人は多分俺より年下だ。

 ちょっとカチンと来た俺は、


送信元:浅草堂

宛先:ark

君、いきなり失礼じゃないかな。

私と君とは知り合いでもなんでもないんだし、そんな相手に君は不審なメールを送りつけたんだ。

まず、ごめんなさい、するべきじゃないか。


 と送った。すると即座に、


送信元:ark

宛先:浅草堂

そんなことより、なんで浅くんのメール、送信日時が2016年になってるの?

これどうやってるの?

あとアルケーって呼んで!


 は? 何言ってるんだ、この子は。


送信元:浅草堂

宛先:ark

送信日時が2016年で何か問題が?

あとアルケーとは呼べない。そんなに親しくないし。


 ……おや? 返事が来ない。

 と思っていたら、時間を置いて、軽やかな響き。


送信元:ark

宛先:浅草堂

マジで言ってる?

浅くん、今どこの時空にいるの?

今の時空は全国的に2015年だよ?

あ、もしかして、浅くんははっかーなの? これ、ウィルス的な何か? 怖いんだけど!


 ……しまった。ちょっと変な子の相手をしてしまっていたようだ。面倒くさいことになりそうな匂いがする。


送信元:浅草堂

宛先:ark

ハッカーじゃないし。

それにもし、私がハッカーだったとして、その私にウィルスを仕掛けたかどうか聞くのはどうかと思う。泥棒に「泥棒ですか?」って聞くようなものじゃないかと思うけど?


送信元:ark

宛先:浅草堂

う、うるさいな! いいじゃん、そんなの、どうでも!


 何だか切れられた。と、すぐに続きが来て、


送信元:ark

宛先:浅草堂

まあ、いいよ……。

浅くんはあくまで2016年時空説を押し通すつもりのようですね……?

なら、その設定、2016年の世界はどうなっているか、言ってみて!

そっちでは車が空飛んでるんだよね?


 完全におちょくられている。俺は思わずむきになって送信。


送信元:浅草堂

宛先:ark

設定も何も、今は2016年4月16日じゃないか。

こういうの、君みたいな子供にとっては楽しい遊びなのかもしれないけれど、こっちは迷惑なんだ。もうやめよう。


送信元:ark

宛先:浅草堂

わかりました……!

わたしも分別のあるしゅくじょです……っ。

そこまで言うのなら、浅くんのいる時空が2016年だと信じてあげないでもありません……。

でーも!

その証拠を挙げてもらわないことには話が前に進みませんな……っ!

という訳で、浅くんに指令を伝えます。

明日、2015年4月17日にどんな事件が起こるか、わたしに予言してみせなさい。

本当に浅くんが2016年4月16日時空にいるなら、明日、何が起こるのかわかるでしょう?

それができたなら信じてあげる。

それができないなら、まず浅くんはわたしのことをアルケーって呼んで!

それじゃおやすみっ!


 おやすみって……一方的に書くだけ書いて、書き逃げされた。何なんだ、この子は。変なメールを送って来たかと思ったら、今は2015年だとか訳がわからない。何が目的なのか。

 ……まあ、悪戯だろうが。それに付き合ってこちらが反応してしまうものだから、面白がって余計に調子に乗せてしまっている。

 これではいけない、と思いつつも、結局俺は反応してしまっていた。去年の今頃のことが思い出されるのを止められない。

「……去年の4月17日っていったら……」

 頭の中に、激しい雷雨と信州佐久駅が思い浮かぶ。

 そこでは雨音が周囲の音を掻き消しており、やかましさの中に静謐があった。ただ時折、運行遅延を告げるアナウンスがようやっと耳に届く。肩を竦めたのはじっとりと肌寒かったから。

 春の稲妻が空を切り裂き、俺は駅舎内からガラス越しに外を眺める。全てが灰色に見えた。ガラスにうっすらと映る半透明の俺の顔も何もかも。

 それからスマホを取り出し、櫻になんと詫びようと考えながら連絡先を開き……。


 俺は自らの胸を鷲掴みするように押さえた。締め付けられるような苦しみ。

 あの時、日本全国が記録的な豪雨に見舞われたあの時、櫻と会えていればまた違った結果があったのかもしれない。あの日は結局、櫻に会いに行けず電話で話すだけで終わってしまった。顔も合わさず、電話とメールだけのやり取りだ。……あの時の櫻の話しぶりも、今思えば何か含んだ物がありはしなかったか? あの日、ちゃんと櫻と面と向かって相対していれば、何か思いを打ち明けてくれたのでは? 櫻の死のおよそ半年前。まだ櫻は絶望に蝕まれていなかったかも……。いや、そもそも櫻が絶望して死を選ぶはずなどないのだが……ああ、そんなわけはない。……わかってはいるが。でも、そんな櫻の元へ向かっていれば……きっと俺も苦しい櫻の心の内を知って、何か対処できたはず……。

 そして、記憶は更に俺を責め苛む。連なるように、その後半年経って、櫻が死んだと聞いた時の光景が脳裏に浮かんだ。俺は仕事場でカルテをぼうっとしながら見つめていた。そこにある言葉の羅列が理解できなくなっていた。櫻の母親からの、櫻が車に轢かれて亡くなったとの電話連絡を受けた時だ。耳に櫻の母親の涙声が入ってくるが、それは俺の頭の中に留まらずどこかへ抜けていく。

 俺はそんな連絡を受けるまで、櫻の身に何か不幸が訪れるなんてこれっぽっちも考えず、呑気に自分の仕事のことだけ考えていて……。今度会ったらちゃんと先のことも話し合わなきゃなどと、何も知らず自分の都合ばかり……。櫻の死にも立ち会わず、ただ薄ぼんやりと突っ立っている……。

 俺は喘ぎ声を出す。それから短く罵倒。

 それは自分自身に対する罵倒だか去年のことを思い出させたアルケーとかいう迷惑メール差し出し人への罵倒だか、もう自分でもよくわからない。覆せない過去に対する罵倒か、今ではもう櫻がいないという不条理に対する罵倒か。


送信元:浅草堂

宛先:ark

2015年4月17日は全国で天気が荒れる。鉄道も何十本と運行休止する大嵐になる。

洪水みたいになって電話もつながりにくくなるから、外出は控えた方がいい。


 俺は真面目に返信してやった。

 やはり、俺は捨て鉢な気分になっていたからなのだと思う。こんな悪戯にまともな返事をするのは賢い人間のすることではない。だから、愚かで何もわかっていない俺は、子供の悪ふざけにも顔を真っ赤にして返信し、笑い者になるべきなのだ。それがお似合いだ。


送信元:ark

宛先:浅草堂

浅くん? 外を見てごらんなさい?

なんてきれいな星空でしょう……!

浅くんのいる時空では雨が降っているのかもしれないけど、こっちはいい天気です。

雨の気配は毛ほどもありませんな……!



 俺もあの日はそう思ったんだ。まさか、よりにもよって櫻との待ち合わせの日に突然春の嵐がやってくるなんて夢にも思わず……久しぶりに顔を合わせられることをただ喜んで……っていうか、こいつさっきおやすみって言っておきながら即返信してくるとか、どれだけ張り付いてるんだ。

 俺は鬱々とした気分のまま、去年の4月17日の記憶を延々とリピートし続ける。



 軽やかな響きが、俺を目覚めさせる。俺は目を擦った。

 どうやら、いつの間にか眠っていたらしい。机の前に座ったまま、だ。死体のようにだらりと左手を垂らしていた。だが、目覚めたからといってしゃきっと起きるでもない。どうでもいい。ずっと寝ていたい。やる気というものが失せている。

 そんな俺を起こしたPCに目をやり、一つ溜め息。

 日付が変わっている。

 そして、また悪戯メールだ。着信拒否にしておけばよかったか。でも、そうするのも面倒だ。

 ……面倒ではあるが、差し出し人arkのメールを俺はクリックする。本当に、中を見てやる必要など無いのだが……暇潰しだ。それ以上の理由なんて無い。


送信元:ark

宛先:浅草堂

マジなんですけど?

怖っ!?


 ……何が? 何がマジで何が怖っなのか。全然主題がわからない。

 と、俺の疑問に応えるかのように再び着信。


送信元:ark

宛先:浅草堂

本当に大雨になってるけど……

浅くん、どうやったのっ!?

雨乞いのプロなの?

それともまさか本当に2016年の人なの……?

……何だか金の匂いがしてきやがりますが……?


 金儲けできないか考えてるのか、こいつ!?

 ……いやいや、何を考えてるんだ俺は。こいつは2015年に生きていると言っている。もちろん、そんなのは嘘に決まってる。ああ、そうだ。わかってるとも。ただ……あり得ないことだが……もしかして……万が一、もしもだ……もし2015年だったのなら……。


送信元:浅草堂

宛先:ark

悪戯なら、本当にやめてほしい。

こっちは2015年に戻れるなら戻りたいと思ってるんだから。

今日は2016年4月17日。それ以上でもそれ以下でもない。

今から一年前の2015年4月17日だなんて、嘘なんだろ?


 俺は何故だか息苦しさを感じる。鼓動が早い。唾を呑みこんでいた。

 期待と不安。何に対する期待と不安だかわからないまま、返信を待つ。


送信元:ark

宛先:浅草堂

悪戯じゃないよ!

これちょっと本当にすごくない?

だって未来のことがわかるんだよ?


 ……過去と繋がるなんて、あり得ないはずだ。

 だが、俺の頭の中では、2015年4月17日にあり得るべきだった光景が広がってしまっていた。

 もしかしたら、こんなシーンがあったのかもしれない……。


 ――久しぶりに一緒の夕食。

 予約しておいたイタリアンレストランは櫻のお気に入りで。

 暖かい光の中、ワインで乾杯。櫻は一口ですぐ仄かに赤くなり、屈託なく笑うだろう。そして、

「……それでね、患者さんからまたいっぱいお菓子分けてもらったんだ」

「大学病院の看護師はお裾分けいっぱい貰えるんだなあ。俺の方はそんなの全然貰ったこと無いよ」

 等とたわいない話が心地よく、俺達を包んでいたに違いない。

 そうだ、俺はあの日、櫻に渡さなければならないものがあった。

「櫻、これ。この前、家に忘れていったストール」

「ああ、そういえば!」

「まだ寒い日もあるだろうし」

「ありがとう、志郎さん。よかったあ、無くしちゃったかと思ってた」

「これは、幸運のストール、だもんな」

 ……そんな風に何気ない話が積み重なっていく。きっと、そんな日になっただろう。そして、だが、ふとした拍子に桜の表情をよぎる暗い影に俺はきっと気付けた。気付けたはずだ。会えてさえいれば……。察した俺は、きっと問うだろう。

「……なあ、櫻? ちょっと何か……どうしたんだ? 悩みでもあるんじゃないか?」

「……やっぱり志郎さんには隠せないなあ。……あのね、実はわたし……」

 そう、そんな風に。櫻もその場できっと俺に打ち明けてくれていたはず……。


 ――そうなるはず。そうなるはずだったのだ。

 だが実際は……。俺は櫻に会いに行かず。その半年後、

「……浅賀さん……うちの子が……ああ、どうしましょう……うちの子が……うちの……うそでしょう? そんな……」

 電話の奥から、耳に残る涙声。目に映る光景は色を失って……。

 その後の葬儀場……喪服と白い菊の花というモノトーンな世界……読経……線香の香りが不意に鼻先で蘇った気がして、俺は呻いた。

 よく思いだせない。俺はどうやって、連絡を受けてから東京へ行ったのか。パニックになっていたのだろう。

 それを今……俺は取り戻せるのではないか? 伝えたら、もしかして……。

 俺は逸る気持ちを抑えきれず、勢い込んで送信してしまう。


送信元:浅草堂

宛先:ark

君が本当に2015年4月17日にいるなら、頼みがある。

その時間の私にどうしても伝えて欲しい。

櫻に絶対に会いに行け、と。諦めるなって、言ってくれ。


送信元:ark

宛先:浅草堂

なに、突然!?

メールの意味が分かんないんだけど!?


 俺の焦りにも似た気持ちを知る由もないarkから、当然ともいえる反応が返ってくる。なのに、俺はそれに苛立ちを覚えてしまった。すぐに、そんな自分の身勝手さを反省する。あれだけのメールでarkにわかるわけがない。


送信元:浅草堂

宛先:ark

事情を説明させてくれ。

私には2015年のその日にどうしても会わなければいけない人がいるんだ。

会うのを諦めた為にとても後悔することになった人が。

だから、頼む……


 俺は説明と依頼のメールを諄々と送った。