『 ○月×日

 普通って何でしょうね。

 先生の問いかけが忘れられない。今日、ヨゼフ高校からの帰り道でたまたま先生と一緒になって、びっくりした。先生がスーツにカラフルなスニーカーを履いてたから。でももっと驚いたのは靴紐の通し方。控えめに表現してスパゲッティがのってるみたいだった。

 どうして順番通り穴に通さないんですか、と尋ねたら、

「どうして順番に通すんです? そもそも、なぜ順番があると考えたのでしょう」

 と言われた。

 だって、それが普通じゃないですか。

「普通って何でしょうね」

 笑顔で返されて、顔から火が出るほど恥ずかしくなった。

「学校にいますと、そんなふうにいじめが始まるのをよく目にするんです。最初はたわいのない発見です。自分とは違う者への関心。無邪気にかまい、囃し立て、やがて排除しようとする。〝普通〟ではないとはそういうことです」

 落ち込んだ。〝普通〟ほど残酷で理不尽な価値観はない。そうまわりに怒っていたのは私なのに。でも、先生はこうも言った。

「普通の子どもがいないように普通の家庭も存在しません。傍目に幸せそうでも、その人に苦悩がないことにはならないのです。むしろそう見えるケースの方が闇が深い。家庭のことですから、外から見えづらいでしょう。大変なお仕事ですね」

 言葉が染みるってこういうことだ。先生の笑顔があんまり優しくて、ついグチってしまった。

 どうしてこんなにも格差があるんだろう? 愛情を知らず、居場所がなく、自暴自棄になって問題を起こす。環境に恵まれなくて進学や夢をあきらめないといけない。いつも同じことの繰り返し。それなのに親も学校も態度を改めない。いくらプランを提示したってあれじゃ誰も救われない。

「最後は自分で道を切り開くしかない」と先生に言われて、カチンと来た。

 そんなのただの正論です、誰にでもそんな力があるわけじゃないし、だいいちあの子たちはまだ子どもなんですよ。

 失礼な言い方をしたと思う。でも先生は嫌な顔もしないで私に尋ねた。

「変える力を授けられるとしたら、いかがですか?」

 比喩か何かかと思ったけど、そうじゃなかった。

「文字通り、力を授けるんです。あなたが救ってあげなさい」

 衝撃的だった。

 もし、この手であの子たちを救えたら。もっと直接的に、もっと確かな手応えであの子を助けてあげられたら。

 先生は私のことをわかってる。私に必要なことを知っている。

 それから先生が小さなビンを授けてくれた。

 金色の、きれいなソフトカプセル。

 わくわくする。これからあの子たちの世界が変わる。私が変えるんだ。』


 窓の外からバイクの走る音が聞こえた。日記から顔を上げるとカーテンの向こうが少し明るくなっていた。もうすぐ夜が明ける。

 手元に目を戻し、我知らず溜息が漏れた。

 手帳ほどのサイズの日記には当時の様子だけでなく、心の動きもつぶさに記録されている。

 薬を受け取った日を振り返るたび、グリム童話の『死神の名付け親』を思い出す。貧しい男に子どもが生まれ、死神に子どもの名付け親になってもらう話だ。

 子どもが若者へ成長すると、死神は名付け親の贈り物として薬草を与え、有名な医者にしてやると約束した。

 お前が病人を診る時、必ずわたしがそばにいてやろう。わたしが病人の枕元に立てばお前は病人を薬草で治す。わたしが病人の足元に立てば、病人はわたしのもの。薬草を与えてはいけない。

 若者は死神の言いつけを守り、名医と呼ばれるようになる。しかしある時、若者は死神が病人の足元に立ったにも関わらず、病人に薬草を与えてしまう……。

 名付けてもらったところで所詮は人間。神ではない。

 いかに力を得ようと、命を摘み取られる側にいることを忘れてはならなかったのだ。

 それを思い知る日がじきに巡る。

 カウントダウンを始めるように日記のページを捲った。




 ネイビーブルーの携帯電話がアスファルトで跳ねた。

 地面に倒れた上倉悠貴のこめかみを血が伝う。悠貴は激痛に顔を歪めながら携帯電話に手を伸ばした。

 指先がストラップに触れる。だがそれを手にすることはなかった。

 ひと気のない暗い道で意識を失った悠貴の上に影が落ちる。

 凶器の植木鉢を手にした人物が悠貴を見下ろした。



 ――――時は、悠貴が襲われる前夜に遡る。


「わかば?」

 エメラルドの客席に小野寺美久の声がこだました。

 午後八時半。閉店後の店内には美久、悠貴、真紘の三人がいた。

〈コハクのお守り〉の出所を調べることから始めたその日は、いつになく慌ただしかった。瑞応高校での狡猾な生徒との駆け引き、実験室のようなアパートの一室の捜索。新事実と新たな謎が次々に浮かび上がり、事態は目まぐるしく動いた。

 調査を終えてエメラルドに戻ると、平古智勝が依頼に現れた。事情を聞いて依頼を引き受けるのを決めたのはつい先ほどだ。

 平古を送り出し、ようやく長い一日が終わろうとした時、悠貴がその名を口にした。

「聖と接触する危険がある以上、話しておくことがある」

 そう前置いて切り出されたのは、歩道橋で聞いた事件の全容だった。

 三年前〈天使の繭〉という琥珀色の危険ドラッグが学校に出回ったこと。その薬物を生徒に渡したと疑われたのが、悠貴と仲の良い雛田稀早という少女だったこと。疑いをかけられ孤立した彼女にわかばという上級生の女子が手を差し伸べたこと。そして事件が起こり、稀早は火災に巻き込まれて命を落としたこと……。

 訥々と明かされる凄惨な事件に美久は絶句した。何が起きたかはおおよそ知っていたのに、受けとめるのに時間がいった。

 口が利けるようになったのは悠貴が真犯人について語ったからだ。

「じゃあ、そのわかばって人から借りた通学鞄に危険ドラッグが入ってたの?」

「そうだ。鞄は二重底になっていた。雛田の鞄を切り刻んだのもわかばだろう。そうすれば危険ドラッグ入りの鞄を怪しまれず雛田に持たせられるからな」

 いじめを受ける雛田稀早にとって、持ち物を壊されるのは珍しいことではなかった。だから信頼するわかばが用意した鞄を喜んで受け取った。

「わかばは初めから雛田を嵌めるつもりだったんだ。火事の後、雛田の部屋から大量の〈天使の繭〉が見つかった。鞄も部屋の薬物も仕組まれたものだと説明したが、誰も取り合わなかった。それで終わりだ。学校は警察に相談するどころか、騒ぎを嫌ってろくな調査もせず事件を片付けた」

「そんな……。だけど体育館そばの物置の火事は? 雛田さんの他にもう一人、大やけどを負った生徒がいるんだよね。それもうやむやにしたの?」

「いや、火事は収れん火災だったんだ」

 美久は目を瞬いた。

「収れん……?」

「ルーペで太陽光を集めると紙が燃えるだろ。あれと同じ原理だ。物置の窓辺にあったペットボトルがレンズの役割を果たし、肥料の袋が発火した。出火元、燃え方、炎の色や可燃物の有無。消防が現場検証を重ねて出した結論だ、信頼できる」

 悠貴のことだ、独自に調べて同じ結果に行き着いたのだろう。

 しかし、わからない。

「どうして雛田さんは物置に?」

 通学鞄から大量の危険ドラッグが見つかり、稀早は混乱しながらもわかばを探しに出た。それがなぜひと気のない物置へ行くことになったのか。

 直接本人から聞いたわけじゃないが、と前置いて悠貴は言葉を続けた。

「雛田と火事に巻き込まれた生徒――白石雪奈は美化委員で、物置に道具を取りに行ったところで火災に気づいたそうだ。そこに雛田が通りかかり、二人で火を消そうとしたが、煙に巻かれて意識を失ったと証言している」

 悠貴は声をとぎらせ、うつむいた。

「雛田は社交的だが誰にでも心を開くタイプじゃない。白石も自分の殻に閉じこもって周囲を拒絶していた。二人が一緒にいるところは見たことがない。……それでも、やっぱり雛田にとって寮生は特別だったんだろうな。自分がどんな状況でも仲間が困ってたら放っておけないんだ」

「じゃあ火事は事故――」

「違う」

 悠貴が断言した。眼鏡の奥の目が鋭くなる。

「消防が駆けつけた時、物置のドアは閉まっていた。油圧で閉まるタイプだが、白石はストッパーをかけたと証言している。消防は雛田か白石が消火中にストッパーに接触し、不運にもドアが閉まったと結論づけたが、何が起こったか見た者はいない」

 何者かが悪意を持ってストッパーを外したとしたら。そのせいで物置に煙が充満して二人の意識を奪ったのだとしたら――悠貴はそう考えているのだ。

 憎悪に燃える瞳が、言葉より雄弁にその内面を物語っている。

「〈天使の繭〉の一件と物置での火災。二つは別件として捉えるべきかもしれない。だが無関係と言い切るほどの材料はない」

 危険ドラッグと物置の火災。どちらにも関係しそうな人物は一人しかいない。

「その犯人がわかばなんだね」

「ああ。わかっているのは『わかば』という呼び名だけだ。当時稀早は高校一年、俺と聖は中学二年で校舎が離れていて、大したサポートができなかった。一度でもわかばの顔を見る機会があれば……」

 聖、と悠貴がごく自然に名前を口にしたことに美久は少なからず驚いた。

 普段は『あいつ』や『あの馬鹿』と言って名前で呼ぼうともしない。口にすることはあっても常に暗い響きがあった。本当は親しく名前を呼び合える関係だったのだ。

 何も起こらなければ、今もそうしていたかもしれない。

 そう思うと、悠貴がどれほどのものを失ったのか改めて思い知らされ、美久の胸は締めつけられるように痛んだ。

「わかばは雛田さんより上の学年の女子生徒なんだよね」

「わからない」

「えっ? だけどさっきわかばは上級生だって」

 悠貴は頭を振った。

「事件後、わかばという名の女子生徒を探した。あだ名、出身、好きなもの、わかばのイメージに繋がりそうなものは徹底的に洗った。だが該当する者はいなかった。思い出してみると、雛田は『同級生じゃない』という点しか認めていないんだ」

「どういうこと?」

「三年前、高校に雛田を迎えに行った時、正門で雛田が『あの人がわかばだ』と指差したんだ。正門は下校の生徒で溢れていた。状況や会話の流れで上級生の女子を示したように見えたが、雛田は誰がわかばか明言しなかった」

 あの人だよ、と言いながら肝心なところは答えない。

 不可解な状況に美久は小首を傾げた。

「雛田さん、どうしてそんなことしたのかな」

「寮生は通学の生徒から奇異の目で見られがちだ。だがわかばはそうじゃなかった。その上最悪な状況にいる雛田に手を貸した。雛田にとって、寮生とは別の、初めてできた自分だけの特別な友人だ。嬉しくて教えるのをもったいぶったんだ」

「じゃあ、雛田さんのまわりでわかばを知ってる人は? 同級生とか部活の友だちとか、誰か二人が一緒のところを見てないかな」

「さっきも言っただろ、雛田は〈天使の繭〉の件でいじめられていた。積極的に友だちを作らなかったし、雛田を気にかける奴自体いなかった」

 ある事故の加害者家族で、寮暮らし。加えて危険ドラッグを同級生に渡したと疑われていては、まわりから距離を取られただろう。孤立していたからこそ、稀早はわかばの行動に胸を打たれたのだ。結果、わかばの罠にかかり、命まで奪われた。

「先入観を捨ててすぐに調べ直した。教職員、保護者、学校に出入りする業者。雛田と関わりがありそうな者から無関係な者まで徹底的に洗った。それでもわかばを見つけられなかった」

 中学生の悠貴にはそこが限界だった。

 いかに聡明であろうと、学校外の世界が開けていない年齢だ。行動範囲は限られ、大人との繋がりは薄い。人を動かせるほどの証拠も人脈もない。

 どうあがいても子どもでは届かないのだ。

 自由に行動でき、社会的に信用される身分でなければ。大人や警察を動かせる人脈と説得力を持たなければ。何よりわかばを捕らえるには新たな方策がいる。

 悠貴だけではない、同じ状況に置かれたもう一人もその壁にぶつかった。そして、極端な方法を取った。

 美久は吐息を漏らした。彼の謎めいた行動の意味がやっとわかった気がした。

「だから聖君は危険ドラッグを追いかけて危ないことばかりするんだね。〈天使の繭〉の本当の出所がわかれば、雛田さんを追い詰めたわかばに行き着くから」

〈頭の良くなる薬〉の模造品をばらまいて市場を荒らし、暴力団とやり合うことも辞さない。自ら危険に飛び込むのは、わかばの手がかりを得るためだったのだ。

「あいつは極端なんだ。やりようはいくらでもあるのに加減ができない」

 悠貴は突き放したが、聖と同じ想いを抱えているはずだ。

 もしかして、探偵業を始めたのは雛田さんのため?

 依頼人は藁にもすがる思いでエメラルドにやってくる。事情を抱え、警察を頼れない内容も多かった。経験を積むにも危険ドラッグの情報を集めるにも、探偵業は理にかなう。

 尋ねてもいいはずなのに、美久はなぜか声にできなかった。

「聖に近づくのは自殺行為だ。普段はチャラチャラしているが、今は訳が違う。この意味はわかるな?」

 悠貴に問われ、頷いた。

「聖君も琥珀色の危険ドラッグを調べてるからだよね」

 美久と悠貴が〈コハクのお守り〉を調べ始めた時から聖も動いていた。

 最初は駿河ゼミナール。0点人様とあだ名される菅原道一という生徒が〈コハクのお守り〉を持っているという噂を確かめに予備校へ向かうと、件の菅原を聖が締め上げていたのだ。瑞応高校、実験室のようなアパートの一室と、行く先々で聖のいた痕跡を見つけられた。

 飄々として掴みどころがなく、人懐っこく笑っていたかと思うと平然とひどいことをする。平時でさえそんな調子の聖が本気で琥珀色の危険ドラッグを追っているのだ、邪魔立てすればどれほど苛烈な反応を示すか想像もつかなかった。

 その聖を、堂前カナという女子高生が今まさに追っている。

「早くカナちゃんを見つけないと。今の聖君には会わせられない」

「お前もだ。平古の依頼を引き受けた以上、あの馬鹿と接触する危険がある。見かけても絶対に近づくな、気づかれる前にその場から離れろ。いつもの腑抜けた奴だと侮ると痛い目を見るぞ」

「……わかった、気をつける」

 優しくて凶暴で、親切で冷酷。聖はいつだって自分のルールで動き、世間の価値観などお構いなしだ。それでも美久は聖と仲良くなれた気がしていた。

 カナちゃんが聖君と接触しても私が一緒なら話を聞いてくれるかもしれない――そんな甘い考えがあった。悠貴の話を聞くまでは。

 もう聖の考えを変えられるとは思えなかった。過去にこれほど辛い目に遭って、止まれるわけがない。それは悠貴も同じだ。

「話してくれてありがとう。すごく辛いのに……思い出すのだって嫌だよね」

 大切な人を奪われ、犯人は未だにわからない。三年もの間、悠貴はその苦悩を抱えている。話すのにも痛みが伴っただろう。

 うつむく美久に悠貴は普段と変わらない調子で言った。

「別にいい。平古の依頼、ヘマをするなよ。それから定期報告を忘れるな」

「悠貴君は明日どうするの?」

「アパートで手に入れた写真を調べる。アパートの借り主についても四元さんに参照してもらうつもりだ」

 眼鏡の奥の瞳に冷たい光が浮かぶ。

「……もう昔のようにはいかない。今度こそ俺がわかばを捕まえる」

 ぞっとするほど冷ややかで暗い目だった。

 憎悪と憤怒。高温の青い炎を思わせる苛烈な感情は悠貴の身さえ焦がし、滅ぼしてしまいそうに見えた。



 早朝六時。街並みの向こうから顔を出した太陽が、夜の青さを掃いて空を明るい色に染め替えていく。空気は澄んで冷たい。井の頭恩賜公園から響く小鳥の囀りはエメラルドの厨房に立つ美久の耳にも届いた。秋の森は渡りのモズやホトトギスが加わって一層賑やかだ。

 音量をしぼったラジオから音楽が流れている。リンゴを煮詰める鍋がコトコト音を立て、オーブンからビスケットの焼ける芳ばしい香りが漂う。

 いくつもの調理を平行して進めていると、外階段を下りる靴音が聞こえた。時計を見ると七時半になろうとしていた。

 美久はコンロを止め、ビスケットを小袋に入れて裏口を出た。

「悠貴君」

 小さな声でも朝の静けさにはよく通る。

 小道に出ようとした悠貴が振り返った。

 平日だというのに悠貴は高校の制服を着ていなかった。チェスターコートの下は薄手のランダムメッシュのニットとダークグレーのパンツだ。

「おはよう。もう調査に行くの?」

「ああ。お前こそずいぶん早くから来たな。仕込みか?」

「うん、今日は大学だから。平古さんの依頼があるし、明後日の分の焼き菓子も用意しておこうと思って」

 美久は悠貴のそばに行き、ビスケットを詰めた小袋を差し出した。

「これ、持っていって」

 朝一番で焼いたビスケットはまだほんのりと温かい。

 悠貴はちらりとそれを見て眉を顰めた。

「遠足じゃないんだ」

「わかってる。だけど悠貴君、集中するとごはん抜くでしょ。食べてもぼんやりしてて全然覚えてないし」

「いつそんなことがあった?」

 真顔で聞き返され、美久はほんのり頬が熱くなるのを感じた。

 悠貴が風邪を引いた日のことは記憶に新しい。その時起きたことを思い出すとまたドキドキしてしまう。

「……いっ、いいから持っていって! このビスケット、前に作ったときは悠貴君の合格点もらえなくて、いろいろ改良してみたんだ。今日のは自信作。今度こそおいしいって言ってもらうから」

「帰ったらな」

 悠貴はそっけなく言って小袋を取った。コートのポケットにしまうのを見届けて美久は少しだけほっとした。

「気をつけてね。悠貴君も聖君と会うかもしれないから」

「言われるまでもない」

 悠貴は聖と犬猿の仲だが侮ることはしない。二人の間に何が起こり、なぜ因縁が生まれてしまったのかはもう知っている。

 美久は言葉をかけようとして、何も言えないまま口を閉じた。なんと言ったらいいのかわからなかった。

 力になりたい。その想いは募るばかりなのに言葉さえ見つけられない。悠貴のように賢いわけでも、聖のように腕っぷしが強く剛胆でもない。できることといえばビスケットに想いを託すことだけ。自分のちっぽけさにたまらない気持ちになる。

「聖のことで動きがあったら真紘に連絡しろ」

 悠貴が踵を返した。

 美久は引き留めたくなる気持ちを押し殺して明るく微笑んだ。

「いってらっしゃい。ビスケットの感想、待ってるからね!」

 振り向きもしない悠貴に手を振った。その背中が遠ざかるにつれて不安が募り、心細くなっていく。

 悠貴がどこか遠くへ行ってしまう気がした。もう戻ってこないのではないか、戻ってきても、いつもの悠貴ではなくなっているのではないか――――

 ばかげた想像なのに不安が拭えない。昨日、三年前の事件の話を聞いてから不安は色濃くなるばかりだ。いや、そうではない。駿河ゼミナールへ行った時から異変を感じていた。

 調査が進むにつれ、悠貴の瞳に宿る影も濃さを増す。手がかりを得るたびに暗い感情が深まり、知らない顔つきになっていく。

 大切な人が奪われた事件だ。犯人を捕まえ、すべてを明らかにしてほしい。そのためならどんな協力だってする。そう思う一方で、胸がざわめいた。

 わかばを見つけたら悠貴君はどうするの? 全部解決したあとは?

 吹き抜ける風の冷たさに美久は身震いした。悠貴の姿は見えなくなっていた。

 ……大丈夫、悠貴君ならきっと。

 胸に唱えてみたが、冷え切った心が温まることはなかった。

 美久はうつむきそうになる顔を上げて仕込みに戻った。

 今日は美久と悠貴が店にいないので提供できるフードメニューが限られる。とはいえ、人気メニューは簡単に欠品にできない。あるはずのものが食べられないと落胆するものだ。売上より客の気持ちに応えられないことの方が店の損失だ。

 臨時バイトが来るので人手は足りるが、不慣れなことに変わりはない。料理は焼いたり温めたりすれば提供できる状態にし、どうしても対応できないものだけメニューから外した。代わりに日替わりランチやスイーツ感覚のドリンクを増やすので普段のラインナップに見劣りしない。

 悠貴が出かけて少し経ってから真紘が二階の自宅から下りてきた。

「小野寺さん、おはようございます」

「おはようございます」

 美久がガラスドームにケーキを陳列する手を止めて挨拶すると、真紘は微笑んだ。

「美味しそうだね。外まで良い香りがしてたよ。今日は朝早くに来てくれてありがとう。眠くない?」

「大丈夫です。私のほうこそ、急にお休みをいただいてすみません」

 昨日、平古の依頼を受けたことで店に出られなくなってしまったのだ。美久は申し訳なく思ったが、そこは探偵業を営む喫茶店だ。不規則に依頼が舞い込むことに慣れている真紘は朗らかだった。

「調査だから気にしないで。大学へは何時に行く予定?」

「八時半くらいです」

「よかった。あとは俺がやるから朝食を食べていって。材料は好きに使っていいよ」

 エメラルドの平日営業は十一時からだ。開店準備は十時で間に合うので、真紘はわざわざそれを伝えに来たのだろう。その心遣いが嬉しい。

「ありがとうございます。真紘さん、朝ごはん食べました? よかったら一緒に」

「うん、お願いします。コーヒー淹れるね」

 真紘はサロンエプロンを締め、客席へ続くウエスタンドアを開けた。

 美久はさっそく朝食作りにかかった。材料は仕込みで使った食材の余りを使うことにして、その分腕によりをかける。

 もうすぐ完成というところで裏口をノックする音が響いた。

「おはようございまーす!」

 溌剌とした声と共に三十代後半の男性が入ってきた。サングラスにキャップといういでたちの、見知らぬ人だ。

 美久がぽかんとしていると、客席側から真紘が顔を覗かせた。

「藤村さん? ずいぶん早いですね」

「いやー、撮影がてっぺん越えたんで、仮眠してそのまま来たんですよ。無事クランプアップしました! 英子も学校終わったらこっちに来ます。上倉さんにお世話になったから、今日はバリバリお手伝いするんだって」

 あ、藤村健作さん?

 話の流れで臨時バイトの人だとわかった。美久は会うのは初めてだが、一時は大変な人気を誇った俳優だと聞いている。現在は本業がそれほど忙しくないようで、ちょくちょく店を手伝ってくれる。

「ちょっと聞いてくださいよ上倉さん~!」

 挨拶もそこそこに藤村が真紘に泣きついた。

「英子のヤツ、現場でもアレコレ口出すんです! 笑顔がかたいとかイントネーション間違ってるとかネクタイ曲がってるとか歯磨きました? とかとか! マネージャーよりうるさくて!」

「さすが英子ちゃん、しっかり者ですね」

「ほめるところじゃないですよー! 英子が来たら注意してやってください! 大人はガラスハートなんですっ、世の中に傷ついてるんでこれ以上は割れちゃうんです、ギザギザハートの子守唄なんですよ!」

 藤村が真紘の肩を掴んで揺さぶると、真紘は「わかりました」と笑った。

「本っ当にお願いしますよ、お願いしましたからね!」

 賑やかなやりとりに美久は目を細めた。

 藤村がエメラルドに来たのは最近だが、旧知の仲のように心を預けている。

 決して特別な光景ではない。真紘のまわりには自然と人が集まる。鷹揚な人柄に触れると、不思議と強張った気持ちがほぐれるのだ。

 ふと、不安で塞いでいた美久の心に柔らかな光が射した。

 きっと大丈夫。

 アンティークの調度品とコーヒーの香りに満ちた店内。エメラルドは温かい。真紘とエメラルドがあれば、悠貴はどんなことがあっても帰ってこられる。

 いつもと変わらない光景に美久は勇気づけられた。