四月に入り急な花冷えが数日続いた。しかしその後は打って変わって暖かい気候になった。翌月になると空気はさらに暖かさを増し、ここ数日は雨が続いた。

 その雨の名残だろうか、今日は一段とむわっとした湿気が身体に纏わりついていた。

「ちょっと蒸すな……」

 顔をしかめながら長い階段を足早に上った。この古びた雑居ビルにエレベーターはない。あるのは階段と、力を込めるとボロリと崩れてしまいそうな頼りない手すりだけだ。そしてこのビル唯一のテナントである事務所は最上階の七階にある。

 埃をまき散らしながらリズムよく足を動かし続けること数分。じわりと滲んだ汗が滴となった頃、すっかり見慣れた扉の前に辿り着いた。この今にも朽ちそうなビルには不釣り合いな、重厚な木目の扉。そこには『ヒーローズ(株)』と書かれた小さな看板がかかっている。

 少し上がった息を整えながら腕時計に目をやると、約束の時刻五分前だった。

「よし! 完璧」

 重い扉に手をかけると、ギィ――ッと扉の軋む音が古い廊下に響いた。

「あー修司さん、遅いッスよお」

 ミヤビは俺を見るなり口を尖らせて言った。

「えっでも約束まではまだ……」

 俺の声を遮るようにミヤビが来客用のソファの方へと顎をしゃくった。

 大きな来客用ソファの背から、小さなおかっぱ頭がはみ出して見えた。

 俺は心の中で「しまった」と眉をひそめ客のもとへ急いだ。

「すみません、大変お待たせ致しました!」

 俺がソファの前に立つと、その客は飛び上がるように立ち上がった。

「あ、あの、す、すみません、わたし、早く来てしまって……。お、お忙しいそちらのご迷惑も考えずに、あの、本当に申し訳なく……」

 凄い勢いで頭を上下運動させ始めた彼女に驚きつつ、俺も「いえいえ! こちらこそ、来るのがギリギリになってしまって……」と、同じように頭をペコペコさせた。

 彼女の前に置かれた湯呑と茶菓子に手がつけられた形跡はなかった。

「ま、とりあえずそれ以上ヘドバン続けると二人とも倒れちゃうんでえ」

 新しいお茶を運んできたミヤビが苦笑いしながら俺たちをソファへと誘った。


「っで、依頼ってなんッスかあ?」

 当然のような顔で俺の横に腰かけたミヤビに、俺は小声で「なんでいるんだよ」と話しかけたが、見事に無視された。

 俺のお客さんなのに……。

 腑に落ちないまま俺も負けじと彼女に話しかけた。

「では改めまして、自己紹介させていただきます。大変申し遅れました。わたくしヒーローズ株式会社の田中修司と申します」

 俺がソファに座ったまま名刺を差し出すと、彼女は再び勢いよく立ち上がってしまった。

「お、恐れ入ります。わ、わたくしのような者に、名刺など……。わ、わたくし名刺を持っておりませぬゆえ……」

 何時代の人だろうか。

 ミヤビがフッと吹き出したが、俺はなんとか微笑みのままで耐えた。

「大丈夫ですよ。あなたのご年齢で名刺を持っていらっしゃる方のほうが珍しいですので。気になさらないでください」

 俺は立ち上がって、制服であるらしいセーラー風のワンピースに身を包んだ彼女を再びソファに座らせると、一応ミヤビの紹介もつけ足した。

「こちらも同じく社員のミヤビです。身なりは怪しいですけど、怖くはないですのでご安心ください。僕のサポートをしてくれますので、以後お見知りおきを」

 サポートを強調しながらそう言うと、何が可笑しかったのか、ミヤビがケケッと珍妙な声で笑った。ちなみに今日のミヤビはピチピチのショッキングピンクのTシャツに革のジャンパー、ピチピチの革パンツ、そしてトレードマークの大きなドクロのネックレス。髪の色は所々グリーンに染まっていて、いつも以上にツンツンと立ち上がっていた。

 今日のテーマはロッカーかな。それにしても怪しい。怖い人でないのは本当だが、決して怪しくないとはいえない風貌だ。頼むから依頼人の前でそのジャンパーだけは脱がないでいて欲しい。

 ソファで身を縮こませている彼女に目をやると、明らかにミヤビから目を逸らしていた。取って食われるとでも思っているのかもしれない。

 やっぱりサポートは道野辺さんにお願いしたらよかった。

 俺はミヤビにバレないように小さく溜息をついた。


 小一時間ほどで依頼者は帰った。うちの面談時間としては短いほうだが仕方がない。ほとんど会話にならなかったのだ。

「修司さん、あの制服って桜ヶ丘女学院ッスよお。やっぱ清楚ッスねえ。可愛かったッスねえ」

 俺は依頼書を見返しながらミヤビの言葉を聞き流した。

 女子高生……まだ十七歳か。未成年者の依頼を受けるのは初めてだった。依頼者の年齢は問わないとは知っていたが、やはり未成年と契約するなら親の許可だって必要なはずだ。

「あんな娘いいッスよねえ。やっぱ女の子は清楚じゃないとね。自分の娘がギャルとかになったらもうオレ泣いちゃいますよお」

 それにしても、終始恐縮しっぱなしだった。自分で言うのもなんだが、これほど人畜無害な風貌の俺にあれだけ萎縮するようじゃあ、今後業務を続けることが困難だ。思春期の女の子だし、お嬢様女子校だし、男というだけで萎縮してしまうなら女性の社員と交代したほうがいいのかもしれない。

「ウチの娘も大きくなったら桜ヶ丘に入学させよっかなあ」

 でも待てよ、やっぱり俺ではなくミヤビがいたからダメだったのではないか。この男は本当にさっきからうるさ…………ん? 今なんて言っ…………。

「って、娘!?」

「へっ?」

「へっ、じゃねえよ! ミヤビ、娘いたの!?」

「あれっ? 知らなかったッスかあ? 今五歳ッス。クソ可愛いッスよお」

 ミヤビがデレッとした笑顔で携帯の待ち受け画面を見せた。

 俺は頭が真っ白になった。

 この男に関しては、もう何が起きても驚かないと思っていたのに……。



「世の中、なんて不公平なんだ!!!」

 俺は一気に飲み干したビールジョッキを音を立ててテーブルに置いた。

 周囲の客がギョッとしたようにこちらに注目した。

「まあまあ、修司くん」

 道野辺さんはすかさずお代わりを注文しながら、俺を慰めた。

「ズルい……ズルすぎますよ……。なんだよアイツ……」

「まあまあ、修司くん」

「俺だって結婚したかったのに……婚約までしてたのに……。もし結婚してたら、今頃娘だっていたかもしれないのに……。去年のクリスマスなんて道野辺さんと二人でラーメン食ってたのに……。なのにアイツは超美人の奥さんがいて、超可愛い娘までいて、奥さんは幼馴染で、しかもウチの社長の娘ってそんなドラマみたいな話……! 何なんだよアイツ! 変なドクロつけてるくせに! アラフォーで金髪で緑の髪のくせにい――!!」

「まあまあ、修司くん。ほら、お代わりが来ましたよ」

 いつもの店員が「お待たせ致しましたあ」と元気な声でジョッキを俺の前に置いた。俺はまたそれをグイッと呷った。

「道野辺さんも道野辺さんですよ!」

 ドン! とジョッキをテーブルに戻した俺に、道野辺さんがキョトンとした顔を向けた。

「私が何か?」

「どうしてミヤビに子供がいるって教えてくれなかったんですか!」

「それはまあ、一応個人情報ですし……そもそも修司くんも知っているものかと……」

 道野辺さんは珍しく苦笑いの様相を見せ言葉を濁した。

「冷たいよ……仲間だと思ってたのに……。冷たいよ……」

「まあまあ、修司くん。ほら、修司くんのお好きなシシャモが来ましたよ」

 道野辺さんが俺の前に湯気の上がる皿を押し出した。

「シシャモなんかで…………」

 俺は炙りたてのシシャモを指で摘まみ、頭からガブリとかじった。

「…………旨い」

 大人しくなった俺に、道野辺さんはしてやったりと微笑んだ。

「それにしてもここは穴場ですねえ」

 道野辺さんが狭い店内を見まわしながら言った。壁には一面に手書きのお勧めメニューが貼られている。

 この店は俺もついこの前、ミヤビに連れられて初めて知った『大漁』という名の小汚い居酒屋だ。とにかく魚が新鮮で安くて旨い。老紳士の佇まいもある道野辺さんにはそぐわない店かと思ったが、思いの外気に入ってもらえたようだ。ただ、高そうなオーダースーツをピシッと着こなして粗末な座布団の上に座っている彼は、やはり少し浮いているようにも見える。心なしかいつも威勢の良い店員さんも、道野辺さんに対しては少し上品に接している気がする。

「お待たせ致しましたあ。森伊蔵のロックでございまーす」

 そう言ってさっきの店員さんはにっこり笑って道野辺さんの前にグラスを置いた。いつもは「致しました」なんて言わないし、更に「ございます」なんてこの人の口から初めて聞いたぞ。

「焼酎の種類も豊富で素晴らしい」

 道野辺さんは焼き物の焼酎グラスを目の高さに持ち上げしげしげと眺めた。

「道野辺さんは焼酎派でしたっけ?」

「私は呑兵衛ですので、焼酎でもワインでも日本酒でも、なんでも美味しくいただきます」

 道野辺さんはグラスを口に運ぶと満足そうに「うむ」と頷いた。

「いいなあ。俺、ビールしか飲めなくて。やっぱ男は酒に詳しいほうがカッコいいですよね」

「詳しくともそうではなくとも、せっかくいただくなら美味しいと思うものを美味しくいただいたほうが良いかと思いますよ。料理も酒も、人の魂と動植物の命が込められているのですからね。贅沢なものです」

「そっかあ。そうですよね」

 俺は指で摘まんだシシャモを見つめて、先ほどよりはいくらか感謝を込めて、それを頭からかじった。やはりとても旨かった。

「しかし時としては何をいただくかよりも、誰といただくかのほうが重要な意味を持つ場合もあります。そういった意味では今日、修司くんといただく酒はとても美味しく感じられますよ」

 道野辺さんの言葉に俺は背中がムズムズし、少しだけ姿勢を正した。

「そんな……。なんか、すみません。変な愚痴ばっか言ってたのに」

 ここまで紳士に徹せられると、自分の器の小ささに申し訳なさすら感じてくる。

「若い人の愚痴にはパワーがあります。年寄りにとっては、それさえも輝かしく思えますから。聞いていて楽しいものなのです」

 道野辺さんはどこか遠くを見るように微笑んだ。

「年寄りってそんな……! 道野辺さんは年寄りではなく紳士です」

 本当は敬意を込めて、紳士の前に「老」をつけようか迷ったが、その敬意は伝わりにくそうに思えたのでやめておいた。

「それはそれは、有り難き幸せ」

 微笑みを浮かべたまま背筋を伸ばして焼酎グラスを口に運ぶ道野辺さんは、やっぱり凄くカッコいい紳士だった。


 店を出ると、薄い雲で濁った空にはポツポツと星が浮かんでいた。

 たっぷり三時間くだを巻いたにもかかわらず、時刻はまだ八時前だった。夕刻からゆっくり飲めるのはフレックス制の良いところだ。夜遅い時間だと道野辺さんは「年寄りなもので……」と、なかなか付き合ってくれない。

 道野辺さんと並んで軽い世間話などしながら駅を目指し歩いていると、斜め前の人物がふと目に入った。

 中年の男が一人、夜道に佇み気難しそうな顔をして携帯電話を覗き込んでいる。

 携帯操作に悩まされるお父さんか――――

 俺がそんなことを考えていると、その男が突如、満面の笑みを浮かべた。だらしないほどに目尻を下げ、そして、両手を広げその場にしゃがみ込んだ。

 あまりに突然だった彼の変化に、俺は驚いて立ち止まった。

 すると俺のすぐ横を、年端もいかない女児が走り抜けた。

 その子は迷わず、開かれた男の腕の中に、文字通り飛び込んだ。男はそれをしっかと受け止めた。同時にそこから二つの声が溢れ出した。細く甲高い子供の笑い声と、太く響く男の笑い声。

 今この瞬間、その男の腕の中こそが、世界で一番幸せな場所ではないかと思えるような美しい響きだった。

 少し遅れて俺の横を女性が通過した。その女性は「お父さん久しぶりー」と、男に声を掛けた。その女性の風貌は男とちっとも似ていなかったが、不思議なことにどこか男と似た空気を纏っていた。男はだらしなく崩れた笑顔のままで、女性に「おお、元気か」と短くも優しい言葉を投げかけた。

 男は女児の頭を撫でながらゆっくり立ち上がると、その幼い手を取り、まだまだ小さい歩幅に合わせるように、そっと足を踏み出した。

 それはまるで、雲の上を歩いているような足取りだった。

「孫と久しぶりの再会ですかね」

 俺は彼らに聞こえないよう小さめの声で、隣に立つ道野辺さんに話しかけた。

 道野辺さんは無言で眼鏡を持ち上げた。そして、右の目元を人さし指でそっと拭った。

「いやはや……最近めっきり涙もろくなって」

 少し驚いた俺に対し、「歳のせいですねえ」と取り繕うような笑みを見せた道野辺さんは、まるで俺の視線を避けるかのようにして足早に歩きだした。俺は慌てて道野辺さんのピンと伸びた背筋を追いかけた。



 今日は昨日より空気がカラッとしていた。ようやく初夏らしい雰囲気を持ち始めた太陽に、清々しい気分で長い階段を駆け上がった。

「十一時四十分。これならいいだろ!」

 肩で息をしながら腕時計を確認した。約束の時刻は十二時だ。

 息を整え、見慣れた重い扉に手をかけた。

「おはようございまーす」

「修司さん」

 目の前にミヤビがいた。

「ミヤビ、おはよう」

「修司さん」

 ミヤビは物言いたげな視線を来客用ソファへ送った。

「…………まさか」

 大きな来客用ソファの背もたれからは、小さなおかっぱ頭が覗いていた。


「一条桜子さん」

 俺が後ろから声を掛けると、彼女はビクッと肩を竦め勢いよく立ち上がった。

「すっ、すみません、すみません! 今日は時間通りに来ようと思ったのですが、念のために一時間前に着いてしまいまして、ビルの下で待っておりましたところ、ミヤビ様がお声をお掛けくださりますって……」

 もう日本語がめちゃくちゃだ。またもや凄い勢いで頭を上下運動させている。頸椎を痛めるのではないかと心配になるほどだ。

「大丈夫です。大丈夫ですから、とにかくソファにお掛けください」

「いえ! 約束をしたにもかかわらず、こんなに早い時間からここに座っているなど、もう、申し訳なくって……!」

 驚いたことに彼女の声が震えだした。あっという間もなく、目には涙が溜まってきた。

 マジか! 俺は心の中で叫んだ。

「だ、大丈夫です! 僕も、僕も座りますから。一緒にソファに掛けましょう、ね」

 焦った俺は、なんとか落ち着かせようと彼女の震える肩に手を添えた。

「……なーにやってんスかあ」

 振り向くと、茶の載った盆を持ったミヤビが、俺にじっとりとした眼差しを向けていた。

「いや、ミヤビ……」

「あっ! 泣いてる!」

 ミヤビが依頼者と俺を交互に見た。

「違う!」

「泣いてるう!」

 ミヤビが器用に片手で盆を持ち、依頼者と俺を交互に指差した。

「馬鹿、指差すな! 違う!」

「修司さんが女子高生泣かせたあ!」

「泣かせてねえっ!」

 大声を出した俺と同時に、彼女が「うっ」と嗚咽を漏らした。

「わ、わたしが悪いんです……わたし、がっ……、全部……すっ、すみません……!」

 彼女はおうっおうっとオットセイのような嗚咽を漏らしながら両手で顔を覆ってしまった。もはや号泣だ。

「修司さーん……何やってんスかあー」

 ミヤビが軽蔑の眼差しを俺に向けた。

「俺じゃねーよお……」

 俺のほうが泣きたい気持ちで途方に暮れていると、後ろからポンポンと肩を叩かれた。

 振り向くと、社長がニッコリと笑みを携え立っていた。



 依頼人、一条桜子。桜ヶ丘女学院高等学校に通う二年生。名前から察する通り、名家のお嬢さま。実家は代々病院を経営している。

「俺、マジでクビ切られるかと思ったよ……」

 依頼人と面会をするための古い事務所とは打って変わって、ピカピカの三十二階建ての本社ビル、その三十階にある食堂で俺とミヤビは並んで昼食を取っていた。

 ミヤビはお気に入りの納豆カレーを食べている。俺はなんとなく食欲が湧かず、温かいかけそばをすすっていた。

「マジ災難っしたねえ。はい、これプレゼント」

 そう言いながらミヤビは温泉卵を一つ、つるんとかけそばの丼の中へ落とした。

「ありがと……。てか、半分はミヤビのせいだからな」

 恨みがましく睨んだ俺に、ミヤビは「なんでッスかあ?」とポカンとした。

「ミヤビが泣かした泣かしたって騒ぐから、余計泣いちゃったんだよ」

「だってー、ビックリしたんスよお」

 ミヤビは悪びれる様子もなくケラケラ笑った。

「俺なんてもっとビックリしたよ!」

「修司さん、堅いんスよ、雰囲気が。もっとフランクに行かなきゃ。相手はJKなんスから。むさくるしい大人の男が真面目に向き合っても怖いだけっしょ?」

 むさくるしいは余計だろう。

「俺これでもけっこう女の人からは優しそうって言われるんだから。ミヤビのほうがよっぽど怖そうじゃん」

「でも、オレの時は泣かずにソファに座ってたッスよ」

 それはそうだ。こんなに怪しい見た目のミヤビには泣かなかったのに。促されて事務所に入って大人しくソファに座っていたのに、俺と向き合ってから泣き始めたんだ。

「……なんか、自信なくなってきた……」

「でもま、そのクソ真面目なお堅さが修司さんの売りじゃないッスかあ」

 ミヤビは無責任にそう言うとカレーを頬張った。

「そんな売り嫌だよ……。どうしたらもっと軽くなれるんだろう……」

「えー、もしや修司さん、オレに憧れてるんスかあー」

 ケラケラ笑うミヤビを無視して、俺はそばをすすった。

 一条桜子は現在、俺に代わり社長が面談をしている。社長はあの桜子とどうやってコミュニケーションを取るのだろう。許されるなら隠れて見ていたかったが、「昼食を食べておいで」と追い出されてしまった。俺のことは顔を見ただけで泣きだしたのに、小太りのおっさんと事務所で二人きりになるのは平気なのだろうか。それはそれで、なんだかショックだ。

「でもさ、結局依頼は昨日言ってたことなんだよねえ?」

 昨日、一条桜子が事務所に来た際、なんとか聞き取れた依頼内容は「自分の夢を両親に許してもらえるよう説得して欲しい」ということだけだった。

「結局桜子ちゃんの将来の夢って何なんでしょうね?」

「それを多分社長が聞いてくれてるはずだけど、それにしてもあの様子じゃあ、てこずってるんじゃないかなあ」

 俺は温泉卵を割り溶かし、丼を両手で持ち上げるとそばの汁をすすった。社内の空調が効きすぎているのか少々冷えた身体と心が、芯から温まった気がした。



「社長、ご迷惑をお掛けしました」

 本社の最上階にある社長室に呼び出された俺は、深々と頭を下げた。

「いやいや。シャイな子だったけど、大丈夫だったよ」

「あの後、泣きませんでしたか?」

 一抹の期待、のようなものを込めて聞いたが、社長は「いいや、ちっとも」とかぶりを振った。

 やっぱり俺にだけ……。俺は更にショックを受けた。

「それで、依頼はどうなったんスかあ?」

 なぜかついてきたミヤビが横から口を挟んだ。

「それが、困ったことになったんだよねえ」

 社長が気弱な発言をするなんて珍しい。俺とミヤビは顔を見合わせた。彼女が描くのはよっぽど奇異な夢なのだろうか。

「と、言いますと?」

 俺が尋ねると、社長は「うーん」と唸りながら、たっぷりとした顎を何度かさすった。

「彼女ね、将来なりたいものがあるんだって」

「はい」

「その為の勉強をすることを親に認めて欲しいって」

 俺とミヤビは再び顔を見合わせた。

「勉強……ですか? 予備校に通いたいとかでしょうか」

「予備校にはもう通ってるんだけど、いや、受験先がねえ、遠いんだよね」

「と、言いますと?」

 俺は続きを急かした。

「北海道」

「ほっかいどう……」

 ミヤビがバカみたいな声で呟いた。

「行きたいんだって。北海道大学」

「北海道大学……。どうしてまた」

 社長は顎をさすったまま、「うーん」と首を捻った。

「それが恥ずかしがってはっきり言ってくれなかったんだよね」

「北海道……」

 北海道に特化したことってなんだ……。俺が考えを巡らせていると、社長は「ふうーん」と特徴的な溜息をついた。

「それより、もっと困ったことになってるんだよ」

「と、言いますとー?」

 ミヤビが俺の真似をして言った。

「要するにさ、北海道大学を受験するってことをご両親に許可して欲しいってんだ。でもご両親は許可しないだろうって。だからうちに依頼しに来たわけ。でも未成年の依頼を受けるには保護者の許可がいるんだよ。親を説得する許可を、親から貰わなきゃ僕らは依頼を受けられないんだ」

「ハア……」

 ミヤビがなんとも気の抜けた声を発した。混乱しているのだろう。俺もしている。

「つまり、親を説得する手伝いをするには、その手伝いをしてもいいですよ、という許可を親自身からいただかないといけない、と」

 俺の言葉に社長が深く頷いた。

「ね、ややこしいでしょ?」

「そうですね……。既に頭がこんがらがっています」

「ま、そういうことだから、ね」

 一転、社長が笑顔で俺の肩にポンと手を置いた。

「え?」

 そしてその手にグッと力を入れた。

「彼女、今日の三時にこっちの本社まで来てくれるから。修司くん、あとはよろしくね」

「ええっ?」

「頑張ってくださいねー」

 いや、お前は俺のサポートをしてくれるんじゃなかったのかよ。

 無責任にヘラヘラ笑うミヤビをジロリと睨みつけた。

 北海道大学……。家は代々医者の家系。ご両親は反対……。

 要するに、ご両親の中では娘の将来に対する希望があるということだ。やはり医大に行かせたいのだろうか。北海道大学には医学部とかないのかな。

「ですが、社長」

 意を決して呼びかけた俺に、社長は「なあに?」とのんびり答えた。

「僕は桜子さんに嫌われていると言いますか……どうやら苦手とされていると言いますか……。僕よりもこの案件に相応しい人物がいるのではないかと……」

 社長はふんふんと相槌を打ち、「なるほどね」とニッコリ笑った。

「修司くんの悪い癖だよ。できないことばっかり先に数えちゃうの。ま、良く言えば危機管理能力が高いんだけどさ。でも人って脆いから、先にできないことばっかり数えちゃうと怖くなっちゃうでしょ? そんなの楽しくないじゃない」

「しかし、もし僕がこの案件に失敗したら、恐らく会社には大した収益が入りませんよね……? それなら少しでも成功する可能性が高いほうが、会社の為には……」

 社長はハッハッハと声を出して笑った。

「修司くんって、やっぱりうちには珍しいタイプだよね。そういった反応は新鮮だよ」

 そして貫禄ある体をゆさゆさ揺らしながら俺に近づいた。

「修司くんには、聞こえなかった?」

「え……?」

 更に顔を近づけ、社長は静かに言った。

「彼女の声が」

「あ、確かに小さい声でしたけど……」

 社長はまた「ハハハ」と笑った。

「そうじゃなくって」

「……すみません、どういう意味でしょうか」

 意味がわからず恐縮する俺に、社長はボリュームのある両頬をニンマリと上げた。

「僕には聞こえたんだけどな」

 そして俺の目をじっと見つめた。

「彼女が助けを求めている声」



 約束の三時まであと二時間ある。それまでになんとかしよう。まず、何はともあれ彼女とコミュニケーションを取れるようにならなくては。こういう時に頼れるのはやっぱりコミュニケーション能力の塊であるミヤビだ。

「ねえ、ミヤビ。悪いけど手伝ってよ。あと二時間しかないよ。俺、どうしたら彼女とちゃんと話せるようになるかな」

「あと一時間の間違いじゃないッスか?」

 俺は腕時計を見直した。

「いや、まだ一時過ぎだよ。あと二時間弱はある」

「予定時刻は三時~♪ じゃなくって、たぶん二時になるッスよ」

 どこかで聞いたようなメロディに乗せ、ミヤビが歌った。

 そうだ……。忘れていた。彼女は待ち合わせの一時間前に来てしまう人だった。

「あと一時間……もない……」

 俺は文字通り頭を抱えた。


 ミヤビの予言通り、一条桜子は二時ぴったりに本社ビルへ来た。

 正確には本社前をウロウロしているところを、ミヤビの妻であり、社長の娘でもあり、かつ本社受付でもある佐和野祥子さんに〝保護〟されたらしい。佐和野さんは「まるで野良猫を保護した気分でした」と涼しい顔で笑った。

 いざ、二度目の面談に挑め! と、俺は桜子の待つ会議室へ向かった。

 会議室の扉を開けると、彼女はもうすでに涙目で俺を待っていた。

「すっ、すみません! すみません……!」

「桜子さん」

「本当に……空気が読めず……。申し訳なく……」

「桜子さん」

 俺が何度か呼びかけると、彼女は頭を下げたまま消え入りそうな声で「はい……」と呟いた。

「僕もですよ」

 桜子がゆっくり顔を上げた。

「僕も大事な予定の前はいつも落ち着かなくって。何かトラブルがあって遅れたらどうしようといつも早めに着いてしまうんです。性分ですかねえ。でも遅刻するよりよっぽど良いことだと思いませんか?」

 桜子は茫然と俺を見つめていた。

 上手くいった!

 ミヤビ、上手くいったぞ!

 俺は心の中でガッツポーズを作った。

 さっきミヤビにアドバイスされたこと。

一、声のトーンを少し上げ、優しくゆっくり話せ!

一、下の名前で呼びかけて親近感を出せ!

一、常に微笑みを絶やすな!

一、何を言われても一度相手の気持ちに共感しろ!

 ミヤビ相手にみっちり一時間練習したんだ。話し方、声のトーン、柔らかい表情、ついでに最近の女子高生に流行っていることも、散々頭に詰め込んだ。


 俺は立ちっぱなしの彼女の後ろにまわって椅子を引いた。

「さ、座りましょう。そしてこれからどうすべきかゆっくりお話ししましょう」

 彼女はコクリと頷いて椅子にペタンと座った。

 俺はいくらかホッとして、彼女の前の席に座ると「さて……」と改めて彼女の顔を見た。そして、ギョッとした。

 彼女の目からポロポロと大粒の涙がとめどなく溢れていた。

「え……と……」

 彼女は涙を拭うこともせず、ひっくひっくとしゃくり上げだした。

 どうして……。どうしてこうなるんだろう。

 俺は泣きたくなるのを堪えて、彼女にわからないようテーブル下で携帯を操作した。

 それから数秒後――――

「呼ばれて飛び出せジャジャジャジャーン!」

 何やら色々両手に抱えたミヤビが参上した。

 ミヤビの馬鹿みたいな笑顔がこの時ばかりは天使に見えた。

「ミヤビぃ……」

 ボロボロ泣いている桜子と、今にも泣きだしそうな俺を見て、ミヤビはケラケラ声を上げて笑った。


「さくらっち、甘いもの好きッスかあ?」

 テーブルの上にバラバラと色とりどりのチョコレートをまき散らし、ミヤビが言った。

 桜子は涙を拭いながらコクリと頷いた。

「アイスティーは? ミルクとレモンとストレート」

 桜子の前に三つのペットボトルを並べながらミヤビは歯を見せて笑った。

 桜子はしばらく考えた後、恐る恐る「ミルクティー……」と、小川のせせらぎほどの声で囁いた。

「どぞ! 俺レモンー。はい、修司さんはストレートね!」

 俺に選択の余地はないらしい。

「ありがとう」

 苦笑いでそれを受け取ると、桜子のほうから消え入りそうな声で「ありがとうございます……」と聞こえた。

 ミヤビは嬉しそうに笑って「どういたしましてー」と小首を傾げてみせた。

 可愛い子ぶっちゃって。

 俺は苦々しい思いでいつも以上に猫を被っているミヤビを見ていたが、桜子はいつの間にやらすっかり泣きやんでいた。

「いっぱい新作でてたんスよねー。ほら、コレとかコレとか……さくらっち、チョコは何味がいちばん好きッスかあ? 俺、ビター苦手なんスよお。なんか苦くないッスかあ?」

 そりゃ、ビターって言うくらいだからな。

 当たり前のツッコミを脳内でしながら、俺は少し俯瞰で二人の様子を眺めた。

「わたしは……」

 桜子は俺たちから視線を逸らしながらも、しばらくテーブルの上に散らばったチョコを興味深そうに眺めていた。そして何かを見つけて「あっ……!」と小さな声を漏らした。

「コレ――――!!!!」

 突然のミヤビの叫びに俺のほうが驚いて飛び上がりそうになった。

「何!? 急に!」

 ミヤビは俺を無視して桜子に話し続けた。

「コレっしょ!? つぶつぶいちごのふんわりコーデ!」

 ミヤビはチョコの山からピンク色の包みを摘まみ出し、桜子の前にずいっと押し出した。驚いた顔をしていた桜子の相好が崩れた。無言のまま、しかし確かにはにかむように口の両端を高く結びコクリと頷いた。彼女の目が細くなるのを、初めて見た。

「ちょーうウマいんスよねえー! ふんわりコーデシリーズ! イチゴっスよー待望のイチゴ! しかもつぶつぶ!」

 驚いたことに彼女は笑った。俯いたままではあったが、軽く握った手を口に当て、確かに「ふふっ」と息を漏らした。

 その後、ミヤビはなんと二十分もの間、お菓子トークを続けた。どこで仕入れたのかわからない豆知識から、新作情報、昔好きだったお菓子の話。リズムよく話す合間に桜子に質問を振り、桜子から小さなリアクションが返る度に、更に十倍ほどのリアクションを返してみせた。時たま思い出したように俺にも話を振ってくるので、俺もさほど詳しくないお菓子の話に、さも興味ありげに食いついてみせるフリをした。

 たまには俺もチャレンジしてみようと、先ほど頭に詰め込んだ『最近の流行り』らしい話を桜子に振ってみた。が、反応は芳しくなく、ほとほと話題に困った俺は、高校生に人気がある漫画家の東條先生はミルクせんべいが大好きだという話などもした。だが桜子は東條先生の漫画もミルクせんべいも知らず、キョトンとさせてしまうだけだった。

 次にミヤビは自分の好きなものの話を始めた。まずは家族の話。娘の話を少しだけした後、続けて漫画、ゲーム、ドラマ、芸能人、ファッション。ファッションのくだりで、俺が「おかっぱって流行ってるんですか?」と桜子に訊くと、ミヤビにもの凄く呆れた顔で見られた。

「いやいや、おかっぱって……! JKに対しておかっぱって!」

「えっ…………」

「ボブって言ってくださいよお。頼みますよマジで! 昭和かよ!」

「いや、俺はギリギリ平成だよ! 昭和はお前だろ!」

「ふふっ」

 桜子が再び遠慮がちに笑った。俺とミヤビは「してやったり」と顔を見合わせ、引き続き高校生が好きそうな話題を、お菓子を食べながらダラダラと続けた。桜子の口元からは緊張が消え、徐々に笑みが零れるようになった。相変わらず小声だが、少しずつ単語以上の言葉も出るようになった。俺とは一度も視線が合わないままだが、ミヤビの顔はチラチラと見るようになっていた。会議室がまるで放課後の教室になったような錯覚がしてきた辺りで、俺は少々不安になりだした。

 この話、一体いつまで続けるのだろう。このままでは本題に入れない。ちらりと腕時計に目をやると、時間は本来の待ち合わせ時刻であった三時まであと五分に迫っていた。約一時間も雑談していたことになる。このままでは、結局なんの問題も解決しないのではないか。そう思った俺は意を決して切りだした。

「そういえば、この会社はどうやって見つけてくれたんですか?」

 にこやかだった桜子の空気が一変した。

 桜子は再び視線を落とし、黙ってしまった。

 早まったか……? そう思ったが後の祭りだった。

 桜子は無言のまま、隣の椅子に置いていた通学鞄を膝の上に乗せた。

 まさか、帰ってしまうのか――。そう危惧した俺には視線を向けず、桜子は鞄の中に手を入れ、何かを取り出した。

 そして「これ……」と消え入るような声で、一枚のチラシをテーブルの上におずおずと差し出した。

「これって……?」

 そのチラシには『ヒーローズ株式会社』という社名と、きめ細かな業務内容が記載されていた。まるで大手企業が気合いを入れて作った広告のように、見るものを信用させるには充分な出来だった。

「えっ、うち、こんな広告作ってたっけ……?」

 と、突然右足に激痛が走った。

「いったー!」

 大声を上げた俺に、桜子がビクッと身を竦めた。

「あっれー。どうしたんッスかあ、修司さん。腰痛!? 歳ッスねー」

 この野郎……。テーブル下で、尖がりブーツに思いっきり蹴られた脛をさすり、ミヤビを横目で睨んだ。

「なるほどー! これ見て来てくれたんスねー」

 素知らぬ顔で満面の笑みを浮かべるミヤビを、さっき一瞬でも天使と思ってしまったことを悔いた。

「安心してください! ウチ、この広告通りの優良な企業なんでー」

 桜子は俺たちの水面下でのやり取りに不思議そうな顔をしながらも「はい……」と蚊の鳴くような声で答えてくれた。

 ようやく依頼に繋がる話題になってきた。その広告が気になった俺は、テーブルに手を伸ばした。

「ちょっとそれ見せてくだ……うっ」

 今度はつま先をブーツの踵で踏まれた。俺は仕方なく出した手を引っ込めた。

 桜子は少し怪訝な顔をしてから、やはり黙ったまま俯いた。

「さくらっち」

 ミヤビが優しく呼びかけた。

「オレらでできることがあったらいくらでも力になるッス。約束します。このオッサン、クソ真面目な顔してるけど、全然怖くないんで、大丈夫ッスよ」

 俺……? 怖いのは俺なの!? 俺の投げかけた抗議の視線に気づかないフリをして、ミヤビは飄々と話し続けた。

「さくらっち、この会社のHPとか見ました?」

 桜子は無言で頷いた。

「それならよく来てくれたッスねー。この広告の後にHP見たら、ぶっちゃけ怪しさ満載だったっしょ?」

 確かに、この詳細かつ丁寧な情報が記載された広告と同じ会社とは思えないほど、やる気のない、いいかげんなHPだ。『ヒーローになりたい人お手伝いします』としか書いていないし、それ以外には事務所の住所と電話番号くらいの記載しかない。怪しさ満載だ。けど、それを社員が言うなよ。

 桜子は少し考えた後、口を開いた。

「名前が……」

「名前?」

 俺とミヤビがハモった。

「名前が……似てたから…………」

 俺とミヤビは顔を見合わせた。

「似てたから…………。ヒ……、ヒロに…………」

 言い終わらないうちに桜子の目から涙が零れた。そして堰を切ったように声を上げて泣きだした。

 俺とミヤビは視線を合わせ、そのまま黙って彼女が泣きやむのを待った。


「ご、ごめんなさい……」

 たっぷり十分ほど泣き続けた後、桜子はようやく涙を拭い始めた。

「ヒロが、ここに行けって言ってるような気がしたんです……。だから、怖かったけど……勇気を出して電話して……。そしたら凄く優しそうな、おじいちゃんみたいな人が電話に出てくれて……」

 なるほど、道野辺さんのことか。

「だから行ってみようって……。そしたら、来たのは違う若い男性だったので……すごく緊張してしまって……」

 ミヤビが持ってきたティッシュで洟をかみながら、桜子は話を続けた。

「わたし、凄い人見知りで……。ちゃんとしゃべらなきゃって思うと緊張して……早口になって、言葉遣いがおかしくなってしまうんです……。それが恥ずかしくて……結局しゃべれなくなっちゃうんです……」

 そうか。確かに初めの頃、言葉遣いがおかしなことになっていた。本人も気にしていたんだな。

「田中さんは真面目そうな人だったから、きっとお父さんみたいに〝きちんとした人〟なんだって。だから余計にちゃんとしなきゃって思って、緊張して……」

「だからオレには結構平気だったんッスねー」

 ミヤビが横から口を挟んだ。確かに。どこからどう見てもミヤビは〝きちんとした人〟には見えない。

「わたしの父は昔から『お前は何をするにも人の三倍時間がかかる』って……。だから、待ち合わせには一時間前に着くように家を出なきゃ落ち着かなくって。でもそれが却って迷惑をかけてしまって、もう訳がわからなくなって……」

「お父さん、厳しいんスか?」

 ミヤビの言葉に桜子は深く頷いた。

「父は、私を近所の短大に進学させたいんです。そしてお見合いさせて、卒業と同時に結婚して、その人を婿養子にして病院を継がせたいんです」

「なんともまあ時代錯誤な話ッスねー」

 ミヤビは溜息をついた。

「今度学校で三者面談もあるし……。それまでになんとかしたいけど、でも父に北海道大学に行きたいなんて言えなくて……」

「そもそもどうして北海道大学にこだわるのですか?」

 俺の質問に、桜子はグッと唇を結ぶと初めて力強い声を出した。

「ヒロと約束したんです。わたし、獣医になるって。どうしても獣医になりたいんです。その為に北海道大学に行きたいんです。お願いします。どうか、わたしを獣医というヒーローにしてください……!」

 桜子が頭を下げた。

 なるほど、獣医に。そうか、話はよくわかった。ところで……。

「さくらっち……。話の腰折っちゃうんスけど……」

 ミヤビが優しく話しかけると、桜子はゆっくり頭を上げた。

「……ヒロって誰ッスか?」

 そう。それなんだよ。さっきから凄いキーパーソンっぽいんだけど、それがわからないから話が読めないんだ。

 桜子はハッとしたような表情を浮かべると、少し頬を赤らめ俯いた。

「彼氏……とか、ですかね?」

 俺の問いに驚いたように頭をブンブン振ると、少し黙った後、ゆっくり視線を上げた。

 そしてはにかむように言った。

「犬です。雑種の」

 言うや否や、桜子はまた少し涙目になっていた。

「わたしの人生で、一番大切なものだったの……」

 もう出尽くしたように思えた涙が、また一粒、桜子の頬を伝った。


 桜子を見送った後の会議室で、俺とミヤビは伸びをしながらふうーっと大きな溜息をついた。

「ヒロでヒーローズかあ……。似てるっちゃあ、似てるのかな」

「そうッスねー。まあこじつけ感ハンパないッスけど、こじつけでも何でもとにかくヒロにまつわるものにすがりたかったんじゃないッスかねえ。それだけ追い詰められてたんスよ」

 俺たちはテーブルに散らばった、主にミヤビが食べ尽くしたお菓子のゴミを、ゴミ袋に拾い集めていた。

「大事なヒロが死んじゃったことで、桜子ちゃんは動物を救う獣医さんになりたい、と。それで北海道大学か」

「北海道ねえ……」

 ミヤビがポツリと呟いた。

「大学については調べてみるよ。自宅から通える圏内にも獣医になれる大学はあるかもしれないし。話を聞く限りその路線も考えたほうがよさそうだ」

 俺は床に這うような体勢で言った。お菓子のゴミは床にまで散らばっていた。散らかしたのはもちろんミヤビだ。散らかしすぎだ。

「お父さんがネックだよねえ……」

 床に膝立ちするように顔を上げると、ミヤビは足を組んで椅子に座っていた。

 コイツは……。

「相当だと思いますよ。だって、漫画とかドラマとか全然知らなかったっしょ」

「ああ、そういえば」

 彼女は最近の流行りや、ミヤビが振った話題の数々にも相当疎いようだった。

「JKッスよ。普通、もうちょっと知ってますよ。よっぽど親が厳しいんスよ。テレビも見なけりゃ、好きなタレントも、好きな服屋のひとつもない。聴く音楽はクラシックのみ。別に悪いことじゃないッスけど、ちょっと極端スよ」

 俺はゴミがもうないことを確認すると立ち上がり、次はテーブルの書類を集めた。

「そういうこと確かめるために、色々話題振ってたんだね」

「当たり前じゃないッスかあ。相手を知るのは面談の基本ッスよ。何のために一時間も雑談したと思ってるんスかあ。ちゃんと考えてたのに、修司さん急に依頼の話ぶっ込んでくるし、その上せっかく持ってきてくれた広告疑いだすしー」

 ミヤビは残っていたレモンティーを飲みながら、残っていたチョコの包みを開けてポイッとテーブル上に捨てた。

「ご、ごめん……」

 この状況で謝るのはなんとも腑に落ちない。

 俺はミヤビの捨てたチョコの包みをグシャッと拾うと、ゴミ袋に投げ捨てた。

「でも、だってそれは……。って、そうだ! ミヤビ俺の足蹴っただろ! その後踏んだし!」

 俺がミヤビを指差すと、ミヤビはやっぱり悪びれる様子なく「それは修司さんが余計なことしようとするからー」と笑った。

「だって! だってこの広告、ほんとにウチが作ったものだと思う?」

 俺は重ねた書類の一番上から、さっき桜子が見せてくれた広告のコピーを手に取りミヤビにかざした。

「いや、違うっしょ」

「やっぱ違うよね!? こんな気合いの入った広告この会社が作ると思えないし」

 俺は再びその広告を隅から隅まで見直した。見れば見るほど、その詳細さにうちの公式物ではないと確信が持てた。

「どうする? 勝手に誰かに作られてるなら社長に報告しないと」

「ま、いいように書いてくれてるし、いいんじゃないッスかあ」

 ミヤビはもうドアを開け、部屋を出ようとしていた。

「ダメだよ!」

 俺は慌ててミヤビの後を追った。

「悪意はないっぽかったし、大丈夫ッスよー」

「ダメだって! 後で報告しとくよ」

「真面目ッスねー。じゃあ、任せまーす」

 お前が不真面目なんだよ。まったく、うちの社員は揃いも揃ってクセのある人ばっかりで……。そんなことを考えているとふと気づいた。

 もしかして、そんな会社に目をつけられた俺もクセが強いのかもしれない。

 今回は依頼者まで泣かせてしまったし、実は自分が気づいてないだけで相当クセの強い人間なんじゃ……

「あー修司さん。また何かややこしいこと考えてるっしょ」

 急にミヤビに振り返られ、俺は慌ててそれを否定した。

「えっ! いや、考えてないけど。考えてないけどさあ……」

「さあ……なんスか?」

 ミヤビは片眉を上げて俺を見た。

「やっぱ俺、女子高生向いてないのかなあ……。そもそも女子高生なんてトラウマしかないしさ……。そうだよ、元はと言えば女子高生に痴漢に間違われたことから俺の人生は狂い初めて……」

「すとーっぷ!」

 ミヤビが手を俺の前にかざした。

「それ話し始めたら修司さんめっちゃ暗くなるんで! やめましょ! もう過去は振り返らない! セイ、ハイ!」

「もう過去は振り返らない……?」

「だあっ! 疑問形にしない!」

 ミヤビは俺の手から公式のものではないその広告を取り上げるとクルクル丸め、それで俺の肩をポンと叩いた。

「ま、詳細もわかったことですし、とりあえず動きますかー」