「将来の旦那さま」のために料理を習っていた花柚さんが、お弁当屋を開こうと考えはじめたのは、高校二年生の初夏のこと。

 明確な像を結んでいた「将来の旦那さま」は、訳あって「まだ見ぬ誰か」に代わってしまい、たったひとりのためだけの料理は、不特定多数の人のためのものに路線変更せざるを得なくなってしまったのだった。

 小学四年生のころからつけていた「お料理練習帖」は、「お弁当練習帖」に代わり、現在、九十七冊め。

 彼女がレストランや食堂ではなくお弁当屋を選んだ理由は、単純そのもの。

「お弁当が好きだから」。

 いろんなおかずを、きゅっと小さくきれいに詰めたお弁当は、コンパクトなのに完結した食事。

 そのお弁当について、いつか彼女は語った。

「お弁当は、家を出た家族が遠く離れたところで食べることを考えて作ったものでしょう。持ち運べる『家庭』なのよね。自分のためのお弁当だって、未来の自分のための思いやりなの」

 誰かのためにそれを作った人は、弁当箱のふたが開かれる瞬間を、食べている人の顔を、見ることができない。

 だから、食べる人がふたを開いた瞬間を、中身を口に入れた瞬間を想像する。

 冷めてもおいしいように、見てうれしいように、何時間かあとのことを考える。

 昼、ここではないどこかで開かれることを思い、朝の段階で詰められたお弁当は、遠くから運ばれてきたメッセージのようなものだ。

 自分のことを思って作ってくれたのだと、わかるものならなおさら。

 それは、確かに自分にあてて書いたものだとわかる言葉がしたためられた、手書きの手紙のようなもの。

 たったひとりで食べることになったとしても、それが知っている誰かの作ったものなら、きっと孤独ではない。



 目覚めた瞬間からもう外は明るくて、夏が近づいているのを感じる。

 一年でもっとも昼の時間が長くなるのは、来週に迫った「夏至」だし、今がいちばん朝の早い時期なのだろうけど、梅雨の時期はあまりそれを感じないものだ。

 日の出も日の入りも雨雲に覆いかくされて、いつの間にか夜が明けて、いつの間にか夜になっている。

 梅雨入りが発表されてから数日後、六月中旬の火曜日。

 厨房から販売スペースへ足を踏み入れ、朝いちばんの軽い掃除を終える。

 紅殻格子のついた引き戸と窓を開け、空気を入れかえる。

 午前六時。

 雨雲に覆われた空は、ぼんやりと奇妙に明るい。

 蕭々と降り続く雨が、姉小路の細い道を濡らしている。

 雨の日は、タイヤが水を蹴散らす音が響く。大通りから伝わってくる車の音と雨音が混じりあい、実際以上に雨が激しく降っているような錯覚をしてしまう。

「おはようございます」

「おはよう」

 いつも犬を散歩させている近所のおじいさんと挨拶を交わす。

 おじいさんは黒い傘を差し、ミニチュアダックスフントは黄色いレインコートを着せられて、濡れたアスファルトの上をちょこまかと歩いている。

 都の中心が今よりももっと西にあったころ――平安京の時代から存在したこの通りは、京都市の中心部にあるというのに、いつも奇妙に静かで清潔だ。

 一本北には京都のメインストリートと言ってもいい御池通が走り、西に足をのばせばビルの立ち並ぶ烏丸通が通っている。南に下ればブティックや飲食店の立ち並ぶ華やかな三条通。

 にぎやかな通りに囲まれたエアポケットのような場所に、ちどり亭は建っている。

「彗くん!」

 ぼくが厨房に戻ってくると、北向きの調理台にいた花柚さんが振りかえった。

 両手を頬にあて、おののくように言う。

「どうしたらいいの……わたし、自分の天才ぶりが怖い!」

 グレードアップした自画自賛に、ぼくは噴きだした。

 花柚さんはこの弁当・仕出し屋の店主で二十四歳。

 長い髪を結ってかんざしでまとめ、着物の上に、パステルカラーの水玉模様の散った割烹着を身につけている。

 差しだされた小皿を受け取ると、つやつや光る酢豚がのっていた。揚げた豚肉に、一口大に切った玉ねぎと三色のカラーピーマン。

 刺されたピックをつまんで酢豚を口に放りこむ。

 からりと二度揚げした豚肉は、とろりとした甘酢餡と絡めるとさらにおいしい。黒酢とはちみつを使った餡は、さっぱりしながらも甘く、ごはんのすすむ味。かむたびに、肉の脂の旨みと餡の味が混じり合って、気分が高揚する。

「天才の味です」

 重々しい口調でぼくが言うと、花柚さんは「当然です」と言わんばかりに満足げにうなずいた。

 ここまでが、毎朝の儀式だ。

 タイマーが蒸らしの時間の終わりを告げ、ぼくは西向きの調理台に向かう。鍋つかみを手につけて羽釜にのった木製のふたを取ると、湯気とごはんの甘い匂いがもうもうと立ち上る。

 水につけておいた木製のしゃもじで、ごはんの中心に十文字に切り込みを入れる。それぞれのブロックを釜の底からひっくり返すようにほぐす。

 ふだんは、時間がたってもしっとりつやつやのごはんが食べられるように、はちみつを入れて米を炊く。

 でも、梅雨から夏の終わりまでは、はちみつの代わりに酢を入れる。

 寿司飯は炊いてから酢を混ぜるけれども、これは炊く前に酢を入れるのだ。

 酢には殺菌作用があるので、ごはんが傷みにくくなる。熱を通せば独特の味や匂いも気にならない。

 羽釜を作業台に運び、すでに並べておいたプラスチック容器、そして予約のお客さんから預かっている個人のお弁当箱にごはんを詰めていく。

 通気性のよい曲げわっぱのお弁当箱は後回し。冷めにくいプラスチックのお弁当箱を先にして、しっかり冷ます時間を取る。

 作業台の反対側では、すでに花柚さんがおかずの入ったキッチンバットを並べていて、菜箸でそれらを順に詰めていく。

 酢豚に、ごぼうと蒟蒻の山椒煮、茄子とオクラの焼きびたし。

 千切りにんじんと胡桃のサラダに、巻いて薔薇を形づくった薄焼き卵。

 ごはんの上には、ぱらりと白胡麻。

 できる限り季節の食材を使って、色鮮やかに。そして夏のお弁当は、なるべく火を通したもので構成する。

 梅雨から夏にかけては、仕出し屋や弁当屋が神経質になる時期だ。

 食中毒を出すのが怖いのだ。

 料理は、作ってすぐに食べる分には平気だけど、時間がたつとどうしても雑菌が繁殖しやすくなってしまう。衛生に気を遣っているはずの仕出し屋や弁当屋で食中毒が出ても、小汚いラーメン屋で食中毒が出たという話を聞かないのはそのせいだ。

 いくら店で気をつけていても、買っていったお客さんが、傷まないように弁当を保管してくれるかどうかはわからない。

 でもだからこそ、できる限り、傷まないような工夫をしなければならないのだ。

 ごはんもおかずも、しっかり冷ましてからふたをする。

 おかずとおかずのあいだの仕切りには、レタスではなく防腐作用のある大葉を使い、傷みやすい卵やいも類は、水分の少ない調理法に。

「もしお弁当が傷んでいたら、店の信用や評判にかかわるけど……何より、お弁当はお昼の楽しみよ。お昼休みにお弁当を開けてそれが傷んでたら、がっかりしちゃうじゃない!」

 気温の上がりはじめた五月の終わり、ぼくに食中毒対策をレクチャーしながら、そう花柚さんは言った。



 詰め終わった弁当の写真を撮って店のブログにアップし、写真とメニューを表に出しておいた立看板に貼り付ける。

 六時五十分になったら、店名と千鳥の柄を染め抜いたのれんを、店の入り口にかける。

 七時に開店すると同時に、出勤前のお客さんが何人かやってくる。ぼくがレジで弁当を売り、厨房に残った花柚さんがおむすびをせっせと作って、できた分から陳列台に並べていく。

 怒濤の忙しさが落ち着いてくるのが八時過ぎ。

 ぼくは、大学の講義のない水曜日だけは朝から夕方まで店にいるけれど、九時から始まる大学の講義に合わせて、平日はたいてい八時半で上がらせてもらう。

 その日、いつものように交代のために厨房に行くと、いつの間にかやってきていた美津彦さんが急須でお茶を淹れていた。

 働くと死ぬ呪いにかかっているかのような、怠惰を絵に描いたような美津彦さんが。

「ど、どどうしたんですか!? 美津彦さん!」

 ぼくが驚愕の声を上げると、彼は不機嫌をあらわにして怒った。

「来るのが遅い! お前のせいで代わりに俺がこき使われるはめになったじゃないか!」

「こき使われるって、お茶淹れてるだけじゃないですか……」

 作業台の上には、ところどころ焼け焦げた落ち葉みたいな茶葉が散らばっている。

 慣れないことをした美津彦さんがこぼしたらしい。

 京都へ来て間もないころ、ちどり亭で花柚さんがこのお茶を淹れているのを見て、ぼくは「京都人、枯れ葉飲むのかよ!?」と衝撃を受けた。茶葉にはとても見えない、落ち葉みたいな見た目なのだ。

 これは「炒り番茶」と言って、京都の人にとっては麦茶みたいな位置づけの家庭用のお茶なのだという。ぼくは最初、タバコみたいな匂いにかなりの抵抗を感じたけど、花柚さんや美津彦さんは昔から当然のように飲んでいたので何とも思わないらしい。

「あああ、そんなにこぼして……」

「文句をつけるならお前がやれ」

 さらさらの髪に繊細そうな顔立ちをした美津彦さんは、ちどり亭の居候のようなものだ。

 国立大学の大学院生で、花柚さんの遠縁で、幼なじみで、料理の先生の孫。

 毎日店に入りびたっているけれど、この人はスタッフでも何でもない。当然のように飲み食いして、頑として働かない。最初のころ、ぼくが彼のことを花柚さんのヒモだと思っていたのも無理のないことだと思う。

 その美津彦さんがお茶を淹れ、花柚さんは作業台に頭をのせて突っ伏している。ぼくが来てもまったく頭を上げない。


 いつもは美津彦さんがだらだらして、花柚さんがせっせとまかないを作業台に並べているのに。

「どうしたんですか花柚さん。具合悪いんですか?」

 ぼくが花柚さんの後頭部に向かって話しかけると、美津彦さんがすかさず答える。

「何もおかしいことはない。これが正常な姿だ。人間は怠けたいものだ。人間の発明の大部分は、楽をしたい怠け心から生まれた」

「自分を正当化しないでください」

 散らばった茶葉を布巾で集めながら突っこむと、花柚さんは億劫そうに頭を上げて答えた。

「なんだか朝からだるかったの。今日、すごく寒いでしょ。体がついていかないのかも」

「いや、寒くないですよ、むしろ暑い」

 確かに梅雨寒と言って、ときどき肌寒い日もある。だけど、今日は朝から蒸し暑いのだ。

 よく見ると、花柚さんの顔が赤い気がする。口数は少なかったけど、「わたし天才!」といつもどおりにはしゃいでいたので、気づかなかった。

 もしや、と手をのばして花柚さんの額にあてると、明らかに熱い。

「熱ありますよ!」

「ええっ!?」

 花柚さんが悲鳴を上げる。

「えっ、っていうか、なんで気づかないんですか自分で!?」

「だって風邪なんてずっとひいてないもの。最後に風邪ひいたの、小学生のときだし」

 あわわわ、と動揺しながらも、花柚さんは「そこの戸棚にマスクが入ってるから取って!」と言う。厨房に病原菌を撒いてはいけないと思ったのだろう。

「美津彦さんも! ふつう、おかしいと思うでしょ! 花柚さんが美津彦さんみたいになってたら!」

 ぼくが美津彦さんに怒ると、茶葉のかけらが大量に混入したお茶を飲みながら、彼は憤然として答えた。

「花柚も不自然な生き方を改めたのかと思ったのだ。とりあえず、花柚は奥で寝てろ。俺に風邪菌をうつすな」

 居候とは思えない態度のでかさでそう言い、あごをしゃくって奥の和室を指し示す。

「理由はともかく、奥で休んだほうがいいっていうのには賛成です。酢豚は全部作ってあるし、昼の分の弁当はおれが詰めますから」

 ぼくが言うと、マスクをつけた花柚さんはしょんぼりとうなずいた。

「うん……」

 答えるのも億劫らしい。いつもなら「美津くんったら、どうしてそういう言い方をするのよう!」とか言って怒りそうなのに、一言答えただけで立ち上がった。

 去り際に美津彦さんの背中をぽかりと叩くのは忘れなかったけど。



 結局、ぼくはその日、大学を休んだ。

「学生さんのいちばんのお仕事は勉強です!」と常々言っている花柚さんには、「あれ、言いませんでしたっけ。今日は休講になったんです」と嘘をついた。

 ぼくがいたからといって花柚さんの代わりにはなれないけれど、ぼくが大学に行き、花柚さんが寝こんでいたら、店には弁当を売る人間が誰もいなくなってしまう。ひとりで切り盛りしている店の危うさを、初めて感じた。

 幸いにも、花柚さんにしか作れない酢豚や山椒煮などは朝にまとめて作った。薄焼き卵の花飾りはこれから追加で用意しなければならないけれど、これはぼくにも失敗なく作れるものだ。

 ぼくが和室に布団を敷いているあいだ、花柚さんは彼女以外立ち入り禁止になっている二階へ行き、浴衣に着替えて化粧を落としてきた。

「えーっと……そう、熱測らないと。美津彦さん、花屋さんに行って体温計借りてきてください」

 近所にある生花店の奥さんは、ときどき店で弁当を買っていってくれる。花柚さんもよくそこで花を買っているので、親しいのだ。

「雨が降ってる」

「体温計借りに行くのと、弁当詰めるのとどっちがいいですか」

 しぶしぶ美津彦さんが傘を差して出ていく。

 借りてきてもらった体温計で熱を測ると、三十八度三分あった。

「これ……高熱ですよね? 病院行きますか? お母さんに迎えに来てもらいますか?」

 自分がめったに病気をしないので、どれくらいの熱が出たら病院に行くものなのか、見当がつかない。

「寝てれば治るわ」

 だるそうに起き上がった花柚さんは、ペットボトルからグラスに注いだスポーツドリンクを飲みながら答えた。

 スポーツドリンクは、風邪薬と一緒に美津彦さんが持ち帰ったものだ。

「気がきくじゃないですか!」とぼくは感動したのだが、何のことはない。事情を聞いた生花店の奥さんが、一文なしの美津彦さんに代わって薬局と自販機で買ってくれたものだった。

「薬飲む前に、何か食べたほうがいいですよね。食欲あります?」

 横になった花柚さんに尋ねると、彼女は目を閉じたままつぶやいた。

「とろろごはん……じゅんさいの酢のもの……卵豆腐……抹茶ゼリー……」

「めちゃくちゃ食欲ありますね……」

 ちょうど冷蔵庫にじゅんさいがあったので、酢のものを作った。

 透明な寒天質に包まれた、ぬめりのある緑色の水草だ。ゆでると、つるつるぷりぷりした食感になる。

 かつては、京都の深泥池の名物として有名だったらしい。パッケージを見ると、解熱作用があるというのでちょうどいい。

 とろろも大丈夫。明日の弁当に使う大和いもを、ちょっとだけ使わせてもらおう。

「明日のお弁当、どうしようかしら。熱が下がるかどうかわからないわ。彗くんにお願いできるのは、ごはんとブロッコリーの下ゆでくらいよね」

 とろろごはんとじゅんさいを食べながら、花柚さんは眉を寄せた。

「予定だと、メインはだし巻き卵なんですよね。すいません、おれにはまだ無理です……」

 メニュー帖をめくりながら、ぼくは答える。

 これは食材の仕入れのための覚書を兼ねていて、一週間分の日替わり弁当のメニュー案が書かれている。

 ふわっとだしの旨みを包みこんだ花柚さんのだし巻き卵は、唐揚げと並ぶ店の看板メニューだ。これを目的に店にやってくる人もいる。

 水分の多いだし巻きは傷みやすいので、明日で終わりにする予定だった。涼しくなるまで日替わり弁当には入れない。食べおさめだといって、買いにくる人もいるだろう。

 こういうときに、アルバイトの自分は役に立たないことを思い知らされる。

 花柚さんから料理を教わって、店で出すごはんを炊かせてもらえるようになったし、最近では副菜を作るのを任せてもらえることもある。でも、まだぼくには主菜を担当できるほどの腕はない。

 自分の食事やまかない用には作れる。でも店で出すということは、一定のクオリティを維持して大量に作らなければならないということなのだ。特にだし巻き卵は、作り方がシンプルな分、出来不出来がはっきり出てしまう。

 花柚さんは思案するような顔をした。

「手伝ってくれそうな方を考えてみるわ。あとね、申し訳ないんだけど、総くんにメールして。風邪がうつるから今日は来なくていいよって。お弁当箱は明日持ってきてって」



 総くんというのは、花柚さんの「許婚だったがある事情で婚約解消し、再び婚約者になりそうな人」である永谷総一郎氏のことだ。

 簡単に恋人と言えばいいじゃないかと思われそうだけど、この人たちは「結婚するか、今後一切関わりを断つか」の二択しかない関係だ。なんか、恋人とはちがう気がするので、やっぱり「許婚だったが(以下略)」としか説明できない。

 花柚さんは「再び婚約者になりそう」になってから、店で出す弁当と一緒に彼のための弁当を作っていて、永谷氏は毎朝それを取りに来ていた。仕事帰りにちどり亭に寄って弁当箱を返し、コーヒーを一杯飲んで帰る、というのが最近の彼の日課なのだった(ちなみに彼は、ちどり亭の経営が危ないという美津彦さんの嘘をいまだに信じているので、店の弁当と同じ額を前払いで払っている)。

 花柚さんはぼくの師匠だし、彼女の名誉のためにごく控えめに言うけれども――ごく控えめに言っても、最近の花柚さんはめちゃくちゃ浮かれていた。

 永谷氏が来たときは、毎回はしゃいでいる。その様子は、飼い主を見つけた子犬がちぎれそうにしっぽを振っているところを彷彿とさせた。

 永谷氏のほうは、花柚さんに対して割とクールで淡々としている。それだけに、彼に鬱陶しがられてしまうんじゃないかと心配になるくらいだった。


 永谷さん


 こんにちは、ちどり亭の彗太です。

 花柚さんが熱を出して店の奥で寝てます。風邪がうつるから今日は弁当箱を持ってこなくていいそうです。「明日の朝、持ってきてね」だそうです。

 さっき測ったら、熱は38・3℃で、「寝てれば治る、心配無用」と本人は言ってます。帰りは車で家まで送っていきます。


 店のメールアドレスから永谷氏にメールを送り、朝に撮った写真を見本にして、昼の分の弁当を詰めた。

 おかずを崩れないようにきっちり詰めるのは難しい。花柚さんのようにはなかなかできない。

 幸いなことに今日は仕出しの予約が入っていなかったので、売ることに専念すればよかった。

 ぼくは勢いであれこれ指示を出し、ぶつぶつ文句を言う美津彦さんも働かせた。美津彦さんが弁当を並べたり接客したりするなんて、いまだかつてない珍事だったんじゃないだろうか。

 なんだかんだと言いながら、ちゃんとやってくれるあたり、彼も人がいい。花柚さんに呼びつけられて何か話していた彼は、ものすごく嫌そうにどこかに電話をかけていた。

 十四時に店を閉め、片づけを済ませたあと、ぼくは食材の仕入れメモを見て足りないものを買い足しに行った。

 花柚さんのお弁当練習帖の「食材の保管方法」のページを見ながら、買ってきた野菜を片づける。

 茄子は冷やしすぎると傷みやすくなるうえ、実が固くなってしまうので、二、三日中に食べるなら冷蔵庫には入れない。紙袋に入れて、気温の上がりにくい場所に保管する。

 じゃがいもは、冷やすと甘くなるので、甘みを出したいときは冷蔵庫に入れておく。

 十七時半を過ぎたころ、店のほうの呼び鈴が鳴った。

 やってきたのは、スーツを着て黒縁眼鏡をかけた、背の高い人。

 永谷氏だった。

「あれ、メール届いてませんでした?」

 引き戸を開けたぼくが尋ねると、彼はいつもどおりのそっけない口調で答える。

「いや、読んだが。病院に連れていく」

 言いながら、紙袋を突きだす。

 中を見ると、驚いたことに花柚さんが食べたがっていた抹茶ゼリーである。愛である。

 ベンチに寝そべっていた美津彦さんが茶化し、永谷氏が「お前の分はない」と冷淡に応じた。

「花柚さん、永谷さんが来てくれましたよ。病院連れてってくれるそうです。抹茶ゼリーももらいました」

 永谷氏を販売スペースに止め置き、花柚さんを起こしに行った。

 うとうとしていた花柚さんは、半分眠りながらも、「永谷さん」と「抹茶ゼリー」の二大キーワードに幸福そうな顔をしたが、はっとしたように目を開いた。

「どうしましょう、お化粧落としちゃったわ!」

 飛び起きて、泡を食っている。

「化粧なんかどうでもいいじゃないですか」

「よくないわよう!」

「待たせてるんですよ」

 花柚さんは半泣きで、布団に顔をうずめてめそめそしている。さっきまで平気ですっぴんでいたくせに、何を気にしているのかさっぱりわからない。

「ぶっちゃけ花柚さん、化粧の意味ないっていうか、してもしなくてもあんまり顔変わりませんよ」

「ひどい!」

 花柚さんが憤慨する。

 すっぴんは別人ですね、と言ったら、それはそれで怒るくせに……。

「ちょっと待っててもらって。今からお化粧するから!」

 身を起こした花柚さんは、乱れた髪を慌てて手ですいている。「何言ってるんですか!」と止めていると、表のほうから声がした。

「ばかばかしい! お前の顔なんか赤ん坊のときから見てる!」

 聞こえていたらしい。しびれを切らした永谷氏がやってきたのだった。

 あとは永谷氏に任せて、ぼくは彼のためのコーヒーと抹茶ゼリーを用意した。

 竹筒に、抹茶ゼリーと白玉、あんこが入っている。

 和室に運んで厨房に戻ると、美津彦さんが勝手に抹茶ゼリーを食べていた。「お前の分はない」と言ってたのに、ちゃんと四人分あるのだ。

「永谷さん、わざわざ買いに行ったんですね。意外にまめですよね」

 美津彦さんが「子どものころから『メシ、フロ、ネル』」「亭主関白のDNA」と評した永谷氏は、確かに無口だし偉そうなのだが、花柚さんにせっせとお礼状を書いていたりするのだった。

 毎回、戻ってきた弁当箱の上に、手紙らしきものが置いてある。毎朝花柚さんがこそこそ何か書いているので、その返事らしいのだ。そのくせ朝と夕方に顔を合わせるときは、ふたりともたいしてしゃべらない。

 美津彦さんは鼻を鳴らした。

「女には菓子を与えておけばいいと思ってるんだ。四月から何回も持ってきてただろう」

 美津彦さんと自分の分のコーヒーを淹れたところで、また店の呼び鈴が鳴った。

「こんにちは」

 独特のイントネーション。

 急いで応対に出ると、おじいさんが立っていた。

 白いシャツの上にベージュのベストを重ね、同じ色のスラックスを身につけている。

 同系色の帽子を頭にのせたその姿は、服が体にぴったり合っているせいか、見事に決まっている。

 いらっしゃいませ、とぼくが言いかけたのを遮るようにして、彼は帽子を取り、口を開いた。

「美津坊に呼ばれてきました。松園です。えろう遅うなりまして」

「あ! アルバイトの小泉彗太です」

 慌てて名乗り、ぼくは頭を下げる。

「松園」は美津彦さんがさっき電話をかけていた相手の名前。

 この人が花柚さんのピンチヒッターなのだ。

 弟子仲間あたりに連絡を取ったのだろうと思っていた。こんな年かさの人だとは思わなかった。

「お世話になります。花柚さん、奥で寝てるので、とりあえず中へ……」

 入ってもらおうとすると、松園さんの視線が揺れた。その目が、ぼくの背後を見ていた。

 振り向くと、仕切りののれんを掲げて、厨房から美津彦さんが出てきたところだった。

「いやあ、美津坊が僕に会いたい言うてくれるやなんて。うれしいなあ。うれしすぎて走ってきてしもたわ」

 松園さんが両手を広げ、芝居がかった口調で言って、にやにや笑う。

 美津彦さんはまずいものでも口にしたかのような顔で、そっぽを向いた。

「ああ、嫌だ嫌だ。早く帰ればよかった」

「学士さまが昼間から、こないなとこで何したはるの」

「修士!」

 声を大きくして訂正し、美津彦さんは苦々しげな顔をしたまま、応接スペースのベンチを指さした。

「じいさん、まずは座ったらどうだ。はしゃいでぽっくり逝かれたら迷惑だ」

「へえ、おおきに。お気遣いなく」

 笑顔のまま松園さんが応じる。

 〝じじいはおとなしく座ってろ〟〝余計なお世話だ〟と言わんばかりの応酬。

 小さなトゲを含んだ空気に耐えきれず、ちょっとお待ちくださいね、と言いおいて、ぼくはその場を逃げ出した。

「花柚さん、松園さんが!」

 奥へ駆けこむと、ちょうど永谷氏がスプーンを花柚さんの口に入れているところだった。自らの手で花柚さんにゼリーを食べさせていたのだ。

 ぼくと永谷氏は互いに固まった。

「……」

「……」

 沈黙が落ちる。

 花柚さんはゼリーを口に入れたまま、ぱちぱちと瞬きをした。

 眉間にしわを寄せた永谷氏が、指先で眼鏡のブリッジを押し上げ、低い声で言う。

「――病人だからだ」

「いや、あの、いいですよ、言い訳しなくたって……」

 そう答えながらも、動揺を抑えきれない。

 亭主関白はどこ行った?



 廊下に出た永谷氏は、口をむずむずさせていたかと思うと、渋い顔をして言った。

「美津彦に言うなよ」

 ぼくは、ハイ……と答えながらも笑ってしまい、「絶対に言うな!」と念押しされた。

 正直なところ、ぼくはちょっと安心していたのだ。恋でおかしくなっているのが、花柚さんだけじゃなくて。

 永谷氏は、ぼくと一緒に松園さんを迎えに出た。

 彼は松園さんと面識はあるようだったが、お互いに「顔と名前は知っている」程度の間柄らしかった。松園さんは、「お嬢さんがしびれるんも無理ない男ぶり」だと言ってしきりに永谷氏を褒めた。

「やあ、お嬢さん」

 松園さんが現れると、布団の上で起きあがった花柚さんは笑顔を見せた。

「松園さん、来てくださってうれしい。お休みの日にごめんなさい。ほかに頼れる方がいなくて」

「何言うてはんの。僕とお嬢さんの仲やないの」

 布団の傍らに腰を下ろし、松園さんはにこにこしながら言った。

 帽子を取った彼の白髪交じりの髪は、きれいに撫でつけられている。

 美津彦さんは一緒に和室にやってきたものの、苦虫をかみつぶしたような顔で黙っていた。

 先ほどの数分のやり取りで、わかってしまった。どうやら彼は松園さんが苦手らしい。いつも人をおちょくっているのに、松園さん相手だと立場が逆転してしまう。

「松園さんはね、わたしが藤沢先生の教室に通っているときにアシスタントをしていらっしゃったの。小学四年生から中学を卒業するくらいまでお世話になっていたのよ。いまは西陣でお店をしていらっしゃるの」

 花柚さんがぼくに向かって説明した。

「何のお店なんですか?」

 松園さんに尋ねると、彼は答えた。

「まあ、何ちゅうことない家庭料理ですわ」

「『まつぞの』っていう、人気のお店なのよ」

 松園さんの店の営業時間は昼と晩の食事どきだけなので、朝は空いている。それで、花柚さんはちどり亭のピンチヒッターを彼に頼んだのだった。

 火曜日の今日は店が休みだったため、松園さんは「レディとデートしていて」、電話を受けて駆けつけたのだという。携帯端末を持っているあたり、花柚さんより格段に現代社会に適応している。

「朝はわたし、いつも五時くらいから支度してるんですけど、時間の使い方はお任せしますわ。彗くんはいつも五時半に来てくれて、お掃除したり、ごはんを炊いたりしてくれてます。流れは理解してくれてますからご指示くださいね」

「年寄りは朝が早い。五時に来させてもらいましょ。ほな、詳しいことは坊に訊きますわ」

 松園さんがぼくを見て言い、花柚さんは微笑んだ。

「明日は『まつぞの』のだし巻きが食べられるよ、って店のブログに書いておきます。食中毒対策だけしていただければ、お料理はお好きなようになさってくださいね。彗くん、あとはお願いね」



 ブロッコリーは、ミニトマト、卵とともに、お弁当に欠かせない食材だ。

 緑は鮮やかだし、塩ゆですれば単独で使えるし、隙間も埋められる。

 だけど、おいしくゆでるのが結構難しい。

 火の通りすぎた水っぽいブロッコリーは、冷めると何ともわびしい気分になるし、お湯から上げるのが早すぎると硬くておいしくない。

 こつは、「茎だけをゆでるつもり」でゆでること。

 房は小分けにしたあと、茎を下にして熱湯に入れて塩ゆでする。

 やわらかくつぶつぶした濃い緑色の部分は、花のつぼみ。さっと熱湯に通したら、火の通りにくい硬い茎を下にして、花の部分はお湯の上に浮かせておく。

 鍋にふたをすれば、蒸されて花のほうにまで熱が通り、全体がちょうどいい硬さにゆであがる。オリーブオイルや胡麻油をお湯に数滴たらしておくと、水切れもよく色も鮮やかになる。

 ゆでたあとは冷水につけず、そのまま茎を下にして笊に上げ、水を切る。

 少し硬いかなというくらいで上げると、余熱でちょうどいい具合になるのだった。

 朝日の差し込む厨房で、笊に上げたブロッコリーの水気を切り、ツナとすり胡麻で和え衣を作る。

 ぼくがブロッコリーの胡麻和えを作っているあいだ、松園さんは西向きの調理台に向かっていた。卵焼き器を三つコンロの上に並べて、ものすごい速さでだし巻き卵を作っている。

 キッチンバットの上に、きれいな黄色のかたまりがどんどん並んでいく。

「だし巻きは二つ作ろか。お嬢さんがうちの宣伝してくれはったし、ひとつはうちのねぎ入りだし巻き。お嬢さんのを目当てに来たはる人もあるやろうし、もうひとつはお嬢さんのレシピにしよか」

 花柚さんの手際の良さにはいつも感心させられるけれど、松園さんのスピードはそれ以上だった。

 奥から手前、ではなく、手前から奥へ向かって巻く「京巻き」なのは、花柚さんと同じ。

 昨日の仕込みの段階で、即座にシャツをまくり上げ、肘まで洗って作業に入った彼には、料理人として生計を立てているというのも納得の手慣れた感じがあった。

 白いコックコートに黒いエプロン、頭にバンダナを巻いた格好も板についている。

「めちゃくちゃ早いですね……!」

 感嘆の声をもらすと、松園さんは笑った。

「店やとどんどん作って追加せんならんしなあ。うちの店で出しとるんは、手間のかからん安いもん。早いは早いが、お嬢さんみたいに丁寧に細かい作業はできひんのや」

 松園さんの手が、包丁でだし巻き卵を切り分けていく。

 だしをたっぷり含んだ、ふわふわの卵色。

 合わせだしの匂いとともに、湯気が立ち上る。

 卵は傷みやすいので、しっかり冷まさなければならない。時間がたつと水分が外に出てきてしまうので、お弁当に入れるときは葛粉か片栗粉を入れて、水分を閉じ込める。

 花柚さんレシピのものは基本のプレーン味。松園さんレシピのものはすりおろした山芋とねぎが入っている。

 作業の合間合間に、松園さんは話をした。

 もともと彼は、西陣の織屋に勤めていて、そこのひとり娘に見初められ、婿に入って会社を継いだ。

 しかし、幾度かの危機を乗り越えてきた西陣の機業も、すでに衰退著しい状態。彼の役目は、「自分の代ではどうしてもつぶせない」と舅が先のばしにしていた廃業を、自分の代ですること。わかってはいたものの、江戸時代から続く会社を畳むのは心苦しく、立て直しを図ったものの、やはりうまくはいかない。

 にっちもさっちもいかなくなって会社を畳みかけたころ、折悪く、奥さんが亡くなってしまった。途方にくれた彼に声をかけてきたのが藤沢先生なのだという。

 彼女は亡くなった奥さんの知り合いで、「料理なんか」と渋る松園さんを叱責した。

「あなたは自分がモテると思ってるようだけど、今から喜和子さんのような人を見つけようなんて、おこがましいにもほどがある。毎日ごはんを作ってあなたを幸せにしようとした人はもういないのだから、自分の生活は自分で回せ」

 そう言ってすでに四十代だった彼をアシスタントにして、一から料理を教えたのだという。最終的には、料理を生業にすることになったのだから、先生が第二の人生を切り開くきっかけを与えたともいえる。

「自分を幸せにする、いちばん手っ取り早い方法が、料理だ」

 それが藤沢先生の教えのうちでもっとも大きなものだったのだと、松園さんは言った。

 松園さんの解釈では、それはただ、単純においしいものを食べていい気持ちになるということではない。

「人間は、何かを生産せんならん。料理でも、日記でも、畑仕事でもええ。消費だけしとるもんは、いつまでもたっても不安で落ち着かん」

 そう松園さんは語った。

 自分で何かを作り出すことが、自分の気持ちを安定させるのだという。

 毎食、レストランで栄養バランスの考慮された食事をとったとしても、それは自ら炊飯器でごはんを炊き、お茶漬けを作って食べることにはかなわない。自分で何かを作ること、自分で生活を回すことがいちばん大切なのだという。

 それはきっと、花柚さんがいつかぼくに向かって言った、

「もちろん栄養だって大切だけど、それよりも大事なのは自分で自分の生活をオーガナイズすることよ」

 という言葉と、根っこの部分は同じなのだろう。

 藤沢先生から松園さんに、花柚さんに、受け継がれてきた思想なのだ。

 松園さんはレジが混んでくるとフォローに入ってくれ、お客さんにも手慣れた様子で挨拶をしていた。

 そして花柚さんのお弁当練習帖を見ていたかと思ったら、三人分のまかないまで作った。

 八時過ぎに花柚さんが現れた。

「おはようございます。最近はしゃいでたから、疲れが出たのかも……ひと晩ぐっすり寝たら、元気になりました」

「そらよかった。お嬢さんの代わり、しっかり務めさせてもらいました。お嬢さんのええ人の弁当にもな、だし巻きをこう切って、ハート型にして入れときましたさかい」

 松園さんはそう言って、花柚さんを笑わせた。松園さんの作ったハートについて永谷氏がどう思ったのかは、本人のみ知ることだ。

「また何やあれば、遠慮のう呼んどくれやす」

 松園さんはまかないの弁当を置いて、帰っていった。

 小柄だけど背筋のぴんと伸びた、かっこいいおじいさんだった。