そこはまるで異世界のようでした。

 もう放課後というには少し遅い時間。西校舎の三階の、空き教室の汚れたガラス窓から望む外の世界には、残光の消えた青黒い空の、何処か胸の奥がざわめくような不安な情景が広がっています。その薄闇の下にあってこの教室は、乱雑に並べられた机の幾つかに点在するキャンドルの、燈色の炎に照らし出された陰陽が揺らめいていて、何とも言えない幽玄な雰囲気に満ちていました。

 暗闇を否定し、我が物顔で夜を占領する蛍光灯の白い明かりの下とは違い、まるで昼と夜とが共生しているかのような不思議な感覚。その異世界にわたしは魅入られてしまっていました。ただ、そのキャンドルをぼおっと眺めていたのです。

「――お前が【ワタルくん】か?」

 だから背後から近付いて来ていたその人にも、声を掛けられるまで気が付きませんでした。

「ぇ……ぁ、か…風間さん?」

 わたしは暗闇から浮かび上がったその人の名を口から零します。その人――風間さんはわたしの顔をじろじろと値踏みするように確認しました。

「見覚えのある面だな。確か、同じクラスの浅井……だったよな?」

「いえ、羽水です」

 わたしが否定すると風間さんは「ちっ」と舌打ちをして、左右非対称な長さの特徴的な金色の髪を片手で小さく掻きました。そしてこちらの顔を軽く睨み付けます。

「まぁ誰だっていーや。とにかくお前が【ワタルくん】なんだろ? 言われたとおりに来てやったぜ」

「――へ?」

「今更惚けんなよ、お前が呼び出したんだろ? あぁこんな雅な演出までしてくれてどーもありがとう、スゲー格好良いよ。でもあたしも暇じゃねーからさ、さっさと頼むぜ」

「ぁ…違います。わたしは……わたしもあなたと同じで【ワタルくん】に――」

「一応こっちだって払うもん払ってんだからさ、あの情報を寄越せって言ってんだよ、可及的速やかになぁっ」

 声が小さく聞き取り難かったのでしょうか。返答の途中で、何故だかご機嫌斜めな風間さんはわたしに詰め寄るように一歩踏み出しました。

 その時です――


  ガタッ


 ――と、物音がしました。その瞬間、風間さんの動きがぴたりと止まります……

「おい、今何か……」

「……音がしましたよね?」

 風間さんとわたしは互いに確認し合って、そして物音がしたほうへと視線を向けました。その視線の先に在ったのは金属製のロッカー。何処の教室の後ろの隅にも置かれている、二メートル弱ほどの背丈の、掃除道具などを入れておく、灰色で安っぽい雰囲気のあの代物でした。

  ………。

 二人して息を吞みます。

 でもその後、風間さんが身体の正面をそちらに向けました。そしてそこから一歩、前方へ足を踏み出します……

「あの――」

 わたしがそれを止めるため思わず声をあげそうになったのを、風間さんは手で制します。そしてもう一歩、足を踏み出しました。

 すると再び音が耳に届きました。先程と同じような音で、確かにロッカーの中から。

 風間さんが次の一歩を躊躇していると、今度は鍵が外れたような軽い音が聞こえて来ました。

 そして……

  キィィッ

 ……と、金属的な物が擦り合わさるような、少々不快な高い音がして、ロッカーの扉が開きました。

  ――ッ!

 ロッカーの中が見えて。その瞬間、わたしたちは戦慄しました。身体全体が凍り付いたように硬くなり、胸の奥が言いようのない不安に黒く染められていくのを感じます……

 中には人が入っていたのです。いや、人って言うか……何だかこう、異様な雰囲気でした。細身のすらりとした身体には今時何処で売っているのか分からない小豆色ジャージを着用。性別は不明……!? 何しろ顔の部分には縁日などでお目にかかるような白い狐の御面が在るのです。

 御面の人はゆらりと動いて、ロッカーの中から出て来ました。すると同時に、小刻みに乾いた高い音がします。その右手には野球のバットのような形状の得物が在って、先端が引き摺られた際に床に擦れて音を出しているようでした。

「何だよそれ、マジかよ。まさかお前が――」

 風間さんの言葉が終わらないうちに御面の人は動きました。彼女に向かって間合いを詰め、得物を振り上げ振り下ろしますっ!

「うぉっ」と声を漏らしながら身を屈めて一撃を躱した風間さんは、同時に傍に在った椅子を一つ掴み取り、続けざまの二撃目を、それを楯にするようにして防御しました。御面の人は得物を弾かれた衝撃で体勢を崩します。その隙に風間さんは素早く相手の懐に飛び込み、顔の御面に手を伸ばし、しっかりと指を掛け、掴みます。

「独り仮面舞踏会か? このお祭り野郎っ」

 そして御面を勢いよく剥ぎ取りました。

「くっ――」

 御面の人(元)は脚を押し出すように前へ、風間さんを蹴り飛ばそうとしました。靴底を躱し損ないながらも彼女は何とか安全地帯まで後退します。

 その一瞬の攻防の後、御面の人(元)は得物を持っていないほうの手で顔を隠します。

「――ぁ、あの。藤咲さん……ですよね?」

 ほんの一秒かそこらの時間でしたが、わたしには御面の人(元)の素顔が確認出来て、しかも見覚えがあったのです。

 隠す意味が無くなったと思ったのか、藤咲さんは顔を覆っていた手を退け、バットに添えます。そして冷ややかにわたしを睨めつけました。

「あなた、死にたいの?」

「――え?」

 そして藤咲さんはバットを振り上げました。

「ひぃっ」

 わたしは不細工な息を漏らし足下に在った椅子を掴みました。そして風間さんの真似をして、襲いかかる藤咲さんのバットをそれで防ぎます。

「ひゃぁっ!」

 しかし椅子は弾き飛ばされてしまいました。そして丸腰になったわたしに、体勢を立て直した藤咲さんは再びバットを振り上げました。

「藤咲ぃぃっ!」

 その瞬間、風間さんの怒号が室内に轟きます。

 振り下ろそうとした得物を止め、目だけでそちらを見やる藤咲さん。倣って風間さんに目を向けると、彼女は教室内に在った学習机の脚の一つを両手で掴んで、ハンマー投げでもするような動きで、その場で身体ごと一回転振り回しています。

 そして予想通り、遠心力の乗ったそれをリリースしました。

 発射された大砲の弾のような学習机。その重量物を避けるため、わたしと藤咲さんはお互い弾かれたように逆方向へと飛んで倒れます。

  ガシャァァァァンっ!

 と近くで大きな音がしました。わたしたちに命中しなかった砲弾はすぐ傍の、教室の窓ガラスを破壊したんでしょう。それは分かりました。

 でも――


――バリィンっ!  


 窓の外。遠くから続けてそんな音が耳に届きました。

 次に警報ブザーのようなけたたましい電子音が鳴り出し、はっと我に返った藤咲さんは、跳ね起きるとすぐにガラスの割れた窓を開け、廊下のような細長くて狭いベランダスペースへと飛び出して行きました。そして落下防止の壁から身を乗り出して下を覗き込みます。よろよろと立ち上がったわたしは、風間さんと顔を見合わせ、その後で藤咲さんに倣ってベランダへと出て、下を覗き込みました。

「うあっ、ヤベーぞ。これ」

 風間さんが唸ります。

 ベランダの下は職員用駐車場です。そこに停めてある二年の学年主任である高松先生(男性)の高級外車、それが音源でした。そのフロントガラスの真ん中に、蜘蛛の巣状に線を編んだ白くて巨大な窪みが――っ。ボンネットにも大きな凹みを残して、件の学習机は傍らの地面に転がっていました。――つまり電子音は、衝突により車の防犯装置が作動したためのものと思われます。

 思わず神に祈りたくなるような惨状を目の前にして三人が言葉を失っていると、そこに持ち主である学年主任が飛び出して来て、大声で悲鳴を上げて頭を抱えました。

 そして彼はわたしたちの居る三階を見上げ――

 その瞬間、わたしは襟首を掴まれて後方へと引き摺り倒されました。下の方から床越しに怒号が届いて来ます。

「逃げるわよっ」

 藤咲さんが押し殺した声で告げます。

「分かった」

 風間さんがそれに手短に答えます。

「――えっ?」

 わたし一人が事態を上手く理解出来ずに戸惑っています。

「ぁっ……でもっ―― 」

「「いいから早くっ!」」

 だけど二人に半ば強引に教室内に押し込まれ、その後で藤咲さんに腕を引かれて、わたしも全速力でこの場から離脱する運びとなりました。



 この世界はあまりに残酷だとわたしは想います。

 わたしはただ、平穏に生きていく平凡な女子高生になりたいんです。なのに……

「どうしてこんな事になってしまったんでしょう」

 今のわたしの心の内を言葉にしてみると、そんな一言になります。

 本当にこれからいったいどうなるのか。昨夜は何とか上手く逃げ果せましたが、あれがバレたら当然わたしたちは厳罰を受けてこの学校に居られなくなるばかりか、多額の賠償を支払い、そして世間の人々に後ろ指を差されながら一生を終える事になるのでは――…あぁもう、考えるだけで目の前が真っ暗になります。

 一夜明けて翌日、朝。どうしようもないざわつきと、黒い大きな不安を胸に抱え、重たい足取りで学校に向かいました。正直とても勉学に勤しめる気分ではありません。置かれた現状を受け入れたくもありません。でも、このタイミングで学校に行かないと不審がられるんじゃないかと不安になり、迷った末に結局登校する事にしました。

 案の定、件の教室は立入禁止になっており、学校中がその話題で持ち切り。おまけに朝の一限目から全校集会。校長先生は『何者かが窓ガラスを割り、空き教室から机を落として学年主任教師の車を破壊したが、その犯人はまだ見付かっていない』『現在調査中のため、面白おかしく言い触らしたりして騒がないように』『もし調査の邪魔になるような行為をすればそれ相応の処分をする』などと、最後のほうには脅しじみた緘口令を発していました。ちなみに学年主任は被害届を警察に提出したらしいです。

 全校集会が終わって体育館からの移動の間、クラスの皆は各々仲の良い数人で集まって、小声で今回の事件の推理ごっこで盛り上がっていました。それから目を逸らすように、わたしは一人、足早に教室に向かいます。そして教室に着くと、努めて平然を装いながら、いつもどおりに平然と誰とも言葉を交わさないまま自分の席について、次の授業で使う教科書とノートを取り出そうと机の中に手を入れました。

 しかしそこでいつもどおりではない物を発見してしまいます。

「……!?」

 指先に何か薄っぺらで硬い感触。取り出してみると、それは一枚の封筒でした。手紙用に使うタイプの白地の物ですが、真ん中に大きくイラスト――ロゴマークみたいなものが描かれていました。たぶんダイヤルを回すタイプのピンク電話をモチーフにしたゆるキャラ(?)みたいな、正直微妙なデザインです。それ以外には宛先も送り主の名も何も書いてありませんでした。中身は一応入っているようです。

 朝、教科書を鞄から机に移した時は気が付かなかったのですが………

 胸の中に溜まっている黒いものが、どんどん重みを増していくのを感じます。

「――おいっ」

「はぅっ」

 開封を思案し、封筒を明かりに透かして見ていたわたしの視界に突如顔が割り込んで来たものですから、わたしはそんな珍妙な声を出してしまいました。

「やっぱ、羽水んとこにも来てたのか。手紙……」

 顔を離し、わたしを見下ろしながら、その人物は表情を歪めました。

 何処か野性的な鋭い眼光、はっきりとした顔立ち。アシンメトリーとか言うのでしょうか、左右で長さが違う髪の毛は鈍い金色に染められていて、根本のみ元の黒さが残っていました。背は高く一七〇ほど……痩せ型ですらりとしたしなやかな印象を受けます。今は五月なのでまだ冬服のままなのですが、制服の上着ではなく自前と思われる黒いパーカーを纏っていました。

「風間さん……」

 ――【風間美彩子】。それが彼女の名前。わたしと同じ、ここ私立文目沢高校に通う一年生で、クラスも同じ。ただし言葉を交わしたのは昨夜が初めてです。

「藤咲んとこにも来てたらしいぜ……」

 風間さんが一瞥したその先には、席に座って涼やかに文庫本を読んでいる一人の女子の姿が在りました。

 ――【藤咲舞夜】が彼女の本名。背中まで届く長くて真っ直ぐな黒髪の、大人びた雰囲気の正統派美人です。背は程良く高くてスタイルも抜群、入試での成績は首席、入学してすぐに行われた体力テストでは学年上位、おまけに品行方正だという評判。あまりに整い過ぎているため【完璧超人】などと揶揄されたりしています。彼女とも喋ったのは昨夜が初めてです。

「――それで。悪ぃけど、昼休み。ちょっと顔貸してくれ」

 風間さんはポケットから取り出したくしゃくしゃになったロゴマーク入りの白い封筒をわたしに見せ、すぐにしまうと、「じゃ、頼むぜ」と言って自分の席へと戻っていきました。



「――それで、何処へ向かっているの?」

「校舎裏。あそこなら誰も居ねーだろ?」

 昼休みになって、三人揃って教室を出ました。手にはお弁当。クラスメイトと一緒に食事なんて、たぶん二年ぶりくらいです。いつも独りで頂いていました。

 わたしたちは一列になって廊下を進みます。先頭は風間さん。その背中を追うように藤咲さん。そして少し離れてわたし。べつにどちらかの隣に堂々と並んで歩けばいいのでしょうけど、何かと人目を惹く前二人と自分とを比べてしまうと、何だか気後れしてしまうんです。

「あーそう言えば。羽水さーっ」

 先頭の風間さんが歩みを止めないまま振り返ってわたしの名を呼びます。

「ぇ、あ…はいっ」

 突然だったので少しびっくりして、わたしは言葉が上手く出て来ませんでした。

「おまえ、名前なんだっけ」

「――は?」

「いや、よく考えたら下の名前知らねーわって思ってさ」

「……失礼な子」と、間の藤咲さんがぼそりと呟きます。それに「しゃーねーだろ。何か影薄いし、これまで話す機会も無かったんだしさ」と返す風間さん。

 正直ちょっと傷付く発言です……

「――【羽水沙智】です」

 少し寂しい気持ちで自分の名前を口に出しました。まさか今更名前を聞かれるとは思いませんでした……

「ちなみに何処中出身?」と、続けざまに風間さんが聞くので「明楼中学です」と素直に答えました。

「へぇ県外からか。いくらこの辺が県境だからってよく通えるよなぁ。じゃぁ電車通学だろ?」

「えぇまぁ……」

「ねぇ、それ。聞いて何か意味あるの? 特に出身中学とか」

 怪訝な顔をして尋ねる藤咲さんに、「特に意味はねーよ、挨拶みたいなもんだろ」と返す風間さん。藤咲さんは「まるで昭和のヤンキーね」と、溜息を吐くように呟きました。

「べつにいいじゃねーか」と少し機嫌を悪くした様子の風間さんでしたが、再びこちらに意識を戻して「何か悪ぃな、覚えられてなくて」と、苦笑いをします。

「でもさ。そんな見てくれなのに、どうして印象に残ってねーのかな?」

 うっ、何て攻撃的な謝罪なんでしょう。心がへし折られそうです……

 風間さんは歩きながら完全にこちらを振り向いて、じろじろとわたしの容姿を頭の天辺から足の先まで観察して首を捻りました。

「――充分可愛いと思うけどな? 何で目立ってねーんだろ」

 小柄な痩せ型の身体に小さな頭。自己評価では派手ではないけどそこそこ整った(?)顔立ちだと思います。染めたダークブラウンの肩に掛かるミディアムヘアは少しだけ波立たせて、長い前髪は飾りの付いたヘアピンで留めています。着ているカーディガンも学校指定の紺色じゃなく暖色の淡い黄色でワンサイズ大きいものを身に着け、スカートの丈も注意にされない程度に短く調整。自分で言うのも何ですが、正直良く頑張っていると思います。

 もうぶっちゃけて言いますと、『高校デビュー』です。いえ、それを狙っていました。中学校までは『地味娘』でしたよ。でもいろいろあって、齢十五にして人生の再スタートを切りたくなり、家からわりと距離のある、同じ中学の生徒があまり通わない私立高校を受験し、容姿を変えて潜り込みました。でも中身までも大きく変えてしまわない事には駄目だったようです。明るくオシャレなゆるふわ系の見た目(のはず)なのに話し掛けられるとどもったり、目を逸らしたり、小さな声でもごもごと喋り、終いには押し黙ってしまうんですから、それはもう『暗い奴』や『変な奴』や『面倒臭い奴』だと思われても仕方ありません。大抵の人はそういう相手を敬遠します。

 そんな中途半端なわたしがぐだぐだとやっているうちに、当初は『独り』なわたしに気を遣って話し掛けてくれた人も今は居なくなり、入学から一か月以上経った現在では見事な『ぼっち』状態。最悪の事態です。『ぼっち』になってしまったら余計誰とも喋らなくなり、クラスの中で声を聞かれる機会も減り、そうなると更に影が薄くなっていくのは至極当然の流れです。目の前にいても認知されない――まるで異世界の住人のように、クラスの皆とはすれ違いながら生きていく事になります。と、まぁ、風間さんの疑問に対する答えはそんなところでしょうか。

 努力しても報われるとは限りません。頑張れば頑張るほど、もがけばもがくほど泥沼に沈んでいくタイプの人も居ると思います。それに加えて好機をものに出来ないタイプ、それがわたしなんです。『努力は裏切らない』なんて言葉をよく耳にしますが、でも本当に駄目な人間は、本来裏切らないはずの努力にさえ裏切られるのだと、わたしは十六年目の春、それを痛感しました。

「うふ…うふふ……」

 もう我ながら残念過ぎて、笑みすら零れて来たわたしを、若干気味悪そうな顔で眺めた後、「まぁ、どうでもいい事なんだけどよ……」という台詞で締めて、風間さんは正面を向き直りました。

 そうこうしているうちに校舎裏の傍まで来ていました。校舎沿いに歩いてあの角を曲がればもう校舎裏――一日を通して滅多に人の来ない場所に辿り着きます。

「……?」

 わたしには何となく人の気配のようなものが感じられた気もしましたが、先頭の風間さんが構わず進むので、藤咲さんとわたしはそれに続いて進み、角を曲がりました。

「――あっ」

 そこで思わず声が漏れてしまいました。わたしと似たような心境なのか、風間さんと藤咲さんの足も止まっています。

 そこには四人の男子生徒の先客が居たのです。しかも三人で一人を壁際に追い込んで、蹴ったり小突いたりして笑っていました。

「遠藤ぉぉう、お前んち、金あんだろぉ? 山根君さ、今月大変らしいのよぉ。ちょっとで良いから用立ててあげてくれよぉ」

「学校に来なくなった佐伯の分まで頑張るんだぞぉぉ、遠藤ぉぅ」

 正確には二人で遠藤と呼ばれた一人に攻撃を加え、もう一人がその傍で笑って立っているのでした。三人はほぼ同時にわたしたちに気が付きました。

 そのうちの一人――笑って立って居た男子が、わたしたちに話し掛けて来ました。

「おぉい、何見てんだよ、一年――っ」

 嘲笑を浮かべ、威嚇しつつわたしたちに向かって来ます。よく見れば黒い詰襟学生服の首元に二年生の学年章が付いています。どうやら先輩のようでした。

「――ぁあっ?」

 しかし風間さんが正面から睨み返すと、その男子はそこで一瞬顔を固まらせ、立ち止まりました。

 続けて「何スか?」と尋ねた下手な口調とは裏腹に、風間さんは獰猛な野獣を想わせる威圧的な視線を相手男子に突き立てています。

 そこでお互い数秒の沈黙があり、その後で男子生徒のほうが――たぶんここまで来て退けないのでしょう――「ここは使用中だ、他所行けよ」と若干目を逸らし気味に言いました。

「あー、サーセン」

 不機嫌顔で風間さんがくるりと踵を返しました。そしてわたしたちに「他所、行こうぜ」と促します。それに素直に従い、藤咲さんとわたしは立ち去る風間さんの後を追います。



「――喧嘩になると思ったんだけど?」

 再び校舎内の廊下に入った辺りで藤咲さんが呟きました。

「今はそれどころじゃねーだろ」

「賢明な判断ね」

 風間さんは「ちっ」と舌打ちをしました。

 そして「くそっ、山根の野郎……」と、悔しそうに顔を歪めます。

「知り合いなの?」

「同じ中学ってだけだ。向こうは一コ上だし、今日まで喋った事もねーよ」

「そのわりには――」

「嫌いなんだよ、あーいうタイプっ」

 藤咲さんの言葉に風間さんはフライング気味に答えます。

「中学の不良軍団の中じゃ下の上ってとこだ。でも自分より立場の弱い奴にはあんなふうに偉そうなのに、自分より強い奴にはこれ以上ないってほど媚びやがる。何処の学校の何処の学年にも一人くらい居るだろ、あーいう中間管理職的なゲス野郎っ。文目沢じゃ自分よりも上が居ないと思ってイキがってやがるっ」

「まぁ文目沢高校って、ここ数年で急激に校則が厳しくなったせいで表立った不良って居ないものね。問題起こすと即処分を受ける体制みたいだし……」

  ………

 藤咲さんの言葉に思うところがあったようで、本人を含めた三人が三人とも無言になりました。

 そうこうしているうちに、やがて西校舎の屋上へと続く階段のところまでやって来ました。

「この先で良いだろ」

 風間さんが階段の上を指さしました。



 屋上へと繋がる階段の踊り場。鍵の掛かった立入禁止のドアの前にわたしたち三人は腰を下ろしました。

「まず最初に。昨晩詳しく聞けなかったから確認したい……」と、風間さんが口火を切って、藤咲さんとわたしを見回します。

「あたしと羽水は【ワタルくん】から呼び出しを受けてあの教室に行った。だけど藤咲はどうしてあそこに居たんだ?」

「――昨夜も話したけど、同じよ」と藤咲さんは返します。

「だから同じって、どういう事だよ。あんな格好で、得物持ちでロッカーの中に潜んでいたくせにか? どうせあのキャンドルの演出なんかもお前の仕業だろ?」

「そうよ。詳しくは言えないし言うつもりもないけど、秘密を知られて、そのうえで呼び出された以上、あぁするより他無かったわ。当然顔は見られたくないし、夢か現か分からないままお休み頂きたいわけだし」

「秘密を――って、お前。どんなヤベーの握られたんだよ」

「だから言えないわ」

「あたしたちはお前に殺されかけたんだぞ? それでも言わないってのか」

「べつに殺すつもりはなかったわ。少し痛い目に遭って、ほんのしばらくの間黙ってて欲しかっただけ。だから――たとえば、そうね。あなた、右半身と左半身、動かなくなるならどちらが良い? みたいな?」

「半殺しって意味かよ、良いセンスしてやがる。しかも全然少しじゃねーし」

 藤咲さんの言葉に呆れたような口調で返して、風間さんは「まぁ、とにかく……」と話を繋ぎます。

「三人ともあそこに居たのは【ワタルくん】絡みだって事だな。しかし実在してやがるなんてな。あたしは正直、ただの噂話と思ってた部分もあったんだけど」

  ………

 そこで三人とも黙り込みました。

 ―――【ワタルくん】とは……

 わたしたちの通う私立文目沢高校には、何故だかこの学校特有の『変な噂』や『都市伝説』の類が数多く存在しているようでした。【ワタルくん】はその一つで、おそらくは【サトルくん】の派生型のようなものだと考えられます。【サトルくん】というのは全国的に有名な都市伝説で、簡単に言うと『何でも答えてくれる怪人』のお話ですが、【ワタルくん】というのは、それの校内に流れる噂限定版らしいのです。

 噂と一言で言ってもいろんな種類があります。『学校の怪談』みたいな都市伝説系もあれば、『一組のA君と二組のBさんが付き合っている』『音楽の宮里先生の年齢は実は●●を越えている』というようなゴシップなども。【ワタルくん】というのは、それらの噂の内容を一般に流布している以上に詳しく答えてくれるという人物のようです。

 本家【サトルくん】への接触方法を多少踏襲してはいますが、【ワタルくん】へのそれは文目沢特有とあって、本家とは大きく変えられています。まず市内の公衆電話ボックスに置かれている電話帳の幾つかに【ワタルくん】の連絡先電話番号が記されたメモ用紙が挟まっています。それを探し出して、その連絡先へ携帯電話から電話を掛けます。電話は繋がりますが相手からは一切何も喋りませんし、何の音も聞こえません。その電話口に向かって自分の知りたい噂の内容を尋ね、そして換わりに自分の知っている噂話――怪談や都市伝説、クラスメイトの色恋沙汰なんかの他愛も無い内容でも構わないそうです――を話し、電話を切ります。すると質問した噂と話した噂を【ワタルくん】が釣り合うと判断した場合のみ、二四時間以内に【ワタルくん】から電話が掛かって来て、質問した噂に詳しく答えてくれるというのです。

「羽水はあたしと同じで、【ワタルくん】に聞きたい噂話があったって事だよな?」

 わたしのほうへ顔を向けて尋ねる風間さんに、首を縦に振って返します。わたしが聞きたかったのは【殺し屋】という噂でした。クラスの女子が休み時間に『凄腕がこの学校に潜伏している』『報酬次第で依頼が可能らしい』と喋っているのを偶然耳にして、それから気になって仕方がなかったというか……。その言葉はまるで撫でるように、わたしの胸の深い部分に黒い波を立てたのです。それでどうしてもそれ以上詳しく知りたくなって、同じく偶然耳にしていた【ワタルくん】の噂を実行してみたら、本当に二四時間以内に携帯電話に電話が――非通知ですが――掛かって来て、ボイスチェンジャーなのか、録音した音声の早送りみたいな声で、『質問に答えてやるから……』と、会う日時と場所を指定されました。それが昨夜のあの空き教室です。

「お前は? 聞きたい噂話があって【ワタルくん】にコンタクトを取ったんじゃねーのか? 秘密を知られてしまったってのは、どういう状況でそうなったんだ?」

 風間さんは次に藤咲さんのほうへと顔を向けて尋ねました。

 でも藤咲さんはぷいっと顔を背けます。

「言えないし言うつもりもないって、さっき言ったわよ」

 風間さんは小さく舌打ちをして「あーそうかよ、まぁいいや」と忌々しそうに零します。事情をしつこく聞いても無駄だと察したのか、その後彼女は、「あぁそう言えば。羽水はあの封筒の中身はもう確認したのか?」と、すぐに話題を変えました。

 わたしはカーディガンのポケットから持参した例のロゴマーク入りの封筒を取り出して、「実はまだ開けてないんですが」と返します。すると横から「今すぐ確認して」と藤咲さんに冷めた口調で言われました。

 その態度に少し戸惑いながらも、彼女の言葉に従い、開封して中を確認しました。中には一枚の無地の便箋にパソコンのワードか何かで打った文字が記してあります。


  親愛なる愚かな子羊へ


   本日放課後 第二理科準備室に来られたし


噂屋ワタルくんより 


 ――と、それだけでした。二人も手持ちの封筒と手紙を見せてくれましたけど、全く同じ封筒と内容でした。

「しっかし妙なんだよなぁ。【ワタルくん】はどうしてあたしたち個人を特定出来たんだ? あたしは電話口で名乗った覚えがねーぞ」

 それはわたしも同様です。確かに、そこに疑問が生まれます。でもそれに対して「これはあくまで噂なんだけど……」と藤咲さんが答えてくれました。

「複数の電話会社に特殊なコネさえあればの話だけど。携帯電話の番号さえ分かればその他の個人情報を入手するのはそんなに難しくないという噂よ。名前・住所だけでなく家族構成さえも分かる場合もあるみたいだし、同じ系列の小売店同士は情報を共有しているだろうから、全国何処でも引き出せるらしいわ」

「マジかよ……」

「あ、でも。わたしたちの名前や住所とかだけじゃなく、所属する学校やクラス、その上座席まで調べがついているのは何故なんでしょうか」

  ………

 わたしが頭に浮かんだ疑問をそのまま口に出すと、何故か二人は黙り込んでしまいました。

「ぁの――」

「何処に来いって書いてあるのかしら?」

 わたしが二人に声を掛けようとするのを遮って、藤咲さんがそう尋ねて来ました。

「――あ。『第二理科準備室』って渡邊先生のところですよね? 先生が何か関係しているんでしょうか」

「ありうるわ。で、最初から私と風間さんはその前提で話をしていたんだけど」

 藤咲さんに冷ややかに睨まれて、わたしは少し身を震わせました。ごめんなさい、いろいろあったせいで現実を直視出来ていませんでした。

「いや、ただ場所を借りただけかもしれねーぞ。でも、渡邊せんせーならやりかねねーよなぁ」と皮肉げに笑って、風間さんは「――で、どうする?」とわたしに尋ねました。

「どうするって……つまり、再び【ワタルくん】の呼び出しに応じるかどうかって事ですか?」

「えぇ」

「そうだな」

 と、二人が答えます。わたしは少し思案した後、ゆっくりと口を開きました。

「これって、選択肢が無いパターンじゃないですか?」

「そうね」

「あたしもそう思うよ」

 それでは、それを尋ねる意味、無かったのでは?



「あーそう言えば。羽水って明楼中学出身だって言ってたよな?」

「へっ?」

 放課後になって、第二理科準備室へと移動中。三人揃って廊下を歩きながらの風間さんの唐突な質問にわたしは戸惑い、そんな間抜けな声で返してしまいました。

 質問の意図が分からず、「ぇ、まぁ…そうですけど……?」と、わたしが恐る恐る返答すると、風間さんは少し考え込むような様子を見せ、その後で「なー、もういっこ質問」とそのままわたしの顔をじっと見詰めます。

「あたしたちって以前何処かで会った事あったっけ?」

「――お馬鹿な子」と、藤咲さんが呆れたように呟きます。「クラスメイトよ、四月の入学式からずっと毎日顔を合わせてるに決まっているじゃない」

「そうじゃねーよ。そこまであたしも馬鹿じゃねーよ、さすがに」

 風間さんは不満気に藤咲さんを一瞥します。

「中学の時とか何処かで出会って話でもしてなかったかなーって思っただけだよ。明楼中って聞いたら、ウスイって名前とで、何か以前何処かで聞いた事があるような気がしてさ」

「……え? 気のせいじゃないですか? わたしは会った覚えはありませんよ。わたし以外にもウスイさんは数人居ましたから、そのうちの誰かでは?」

「あーそうかも。悪ぃ、気にしないでくれ。たぶん大した事じゃないと思う」

「こんな時に呑気な子……」

 溜息みたいにそう呟いて、藤咲さんは「馬鹿な話をしている間に着いたわよ」と、前方の扉に目を向けました。



 実は現在、第二理科準備室なんて名前の教室は存在していません。本来はわたしたちが入学する以前の名称らしいのですが、それがしかし未だに使用され続けているようです。

 東校舎の一階にその教室は存在していました。そして今、わたしたちはその教室の前の廊下に立って居ます。廊下側からの入口である引戸には『満』と書かれた札が掛けられていました。

「誰か中に居るよーだな」と風間さんが頭を掻いて零します。

「少し待って出直しましょうか」などと言っていると、中から足音と、誰かがこちらに近寄って来る気配。やがて引戸が開けられ、数人の女子生徒がきゃいきゃい言いながら次々に廊下へと出て来ました。その内の一人が引戸の札をひっくり返して『空』の文字にしています。別の一人が開けられたままの入口から室内を覗き込んで「じゃーね、ばいばいトオルくん。また来るね」と手を振りました。すると中から「おー、二度と来んな」と言葉が返って来ました。

「――空いたようだぜ。まったく、コインパーキングの満車表示かよ……」

 女子生徒たちの姿が見えなくなるのを待って、ボヤきながら風間さんが再び引戸の札をひっくり返して再び『満』の文字にしました。そして引戸を開けて室内へと入っていきます。藤咲さんとわたしもそれに続きました。

 さほど広くない室内は薄暗い雰囲気ですが、綺麗に片付けられています。しかし部屋の広さに対して置かれている物が多すぎるのか、あまりそんなふうには感じられませんでした。

 まず正面の窓には真っ黒い遮光カーテン、その傍に並べて置かれたガラスケースに入った等身大の人体模型と骨格模型。左手には事務机と薬品庫と棚。右手には大きな壁備え付けの棚――中には薬品漬の爬虫類、鉱物標本、元素模型などの様々な小物が綺麗に並べられて鎮座しています。

 そして真ん中には、この部屋の雰囲気には不釣り合いな豪華な黒革張りのソファーセット。中心には、個別包装されたキャンディー入りの器が置かれたテーブルが在り、そのテーブルを挟んで対面する二つのソファーの片方に白衣を纏った男性が深く身を沈め、手の中の小さな元素模型を眺めていました。

「おーす、邪魔するぜ」

「邪魔するのなら帰れよ」

 風間さんの気さくな挨拶を同じく気さくに返して、男性はソファーの上で身を起こします。

「ちっ、今日は客の多い日だ」

「客だと思ってんのなら、舌打ちなんかせずに茶くらい出してくれよ。渡邊せんせー」

「やれやれガキは遠慮が無いな……」と今度は溜息を吐くように呟くと、男性は立ち上がります。「十代女子の相手は疲れるんだよ。ま、男子が相手でも結局疲れるけどな」

 ずいぶんと背は高く――たぶん一八〇センチ以上ありそうです。年齢はたぶん二〇代後半くらい。少し長めのクセ毛気味の黒髪に彫りの深い端正な顔立ち。眼鏡に、シャツ、緩く締めたネクタイ……その上から白衣を羽織っているという格好をします。

「大人気・大忙しなんて結構な事じゃねーの? 文句言わずに頑張れよ。それが仕事だろ、スクールカウンセラーの」

 風間さんの軽口に、「ははっ、言ってくれるじゃないか」と鼻で笑い、「本当は暇なくらいがちょうど良いんだが」と、同じく軽口を返す男性。元理科準備室で白衣を着ているので一見して化学教師と勘違いされがちなんですが、実はこの人、この文目沢高校に常駐する正規のスクールカウンセラーなんです。少し詳しく紹介すると、本名は【渡邊亨】。立場的に学校・教師側でも、生徒・保護者側でもありませんが、わたしたち生徒も教師の一部も便宜上『渡邊先生』とか、親しみを込めて『トオルくん』とか呼んでいます。物言いは酷いですが面倒見は良く、しかもルックスが大変素晴らしいため、生徒(主に女子)には人気がある人物です。

「ま、とにかく座れ」と、彼はわたしたちに、それまで自分が座っていたのとテーブルを挟んで向かい側のソファーへの着席を勧めます。わたしたちがそれに従い座ると、すぐに、わたしたちの目の前に一つずつ、淡く白い湯気の上る液体が注がれた珈琲カップが手際よく置かれていきました。

 そして最後に自分の分のカップを持って、彼は向かいのソファーに腰を下ろします。

「で、何の用だ? ずいぶん珍しい取り合わせだが――」