【上倉家の付喪神】


 人と共に在り、寄り添い続けた道具たちは、百年以上の年月を経ると命が宿り、手足が生え、人の言葉を理解し己も話すことができるようになる。それらは古来より『付喪神』と呼ばれ、各々性格を持ち、次第に人よりも人らしく振る舞い始める。

 その一連の過程は、我が上倉家の蔵の中では特に顕著である。

 他家の蔵の中では百年、二百年、さらに時が経っても付喪神に変化しなかった物たちが、我が家の蔵ではいとも容易く目覚め、また、造られて間もない物でも、百年経たずに付喪神に変化した。そしてさらに我が蔵で長い年月を経た付喪神は、いつしか姿も人に似せられるようになり、人型を取っている間は誰からも知覚できるように変化を遂げる。人型を取れない付喪神たちは、上倉家の血を引く者の中でもごく一部の者と、選ばれた者しか知覚することができない。

 我が蔵の付喪神たちは、上倉家を主家と定め、熱心に服侍し、尚且つ主に対して随順な物が大半である。初代当主は、付喪神を使役し応仁の戦場で華々しく戦い、三代当主は付喪神とともにこの地を切り拓き、結果、五代当主の頃には街道一の宿場町と謳われた。その後の戦禍で町は荒廃したが、付喪神たちの尽力もあり、現在では穏やかな農村地帯へと姿を変えている。

 付喪神たちは我が一族のためによく尽くし、よく働き、そしてこの町のためにも、身を粉にして奉仕した。そんな付喪神たちの主である『鍵守』の任を負う上倉家は、代々この町の長として町人を取りまとめ、守護し、厄介事があれば率先して解決してきたが、同時に町人の畏怖の対象でもあった。この町で悪事を働けば、夜半過ぎに上倉家の遣いで付喪神がやってくる。と今でも町人たちは、己の子供にそう寝物語で語るという。

 つまり不可思議な現象を秘めた我が蔵は常に家人の中心にあり、またこの町の中心でもあったのだ。

 我が一族は元より『神蔵家』と呼ばれたが、いつからか『神』の字を用いることを憚り、『蔵』の字も簡略化し、『上倉』と名乗るようになった。

 しかしこの町は、我が家の古名の名残で、『神蔵町』と今も呼ばれている。


~昭和四十九年 上倉家由緒 上倉国芳~