自分の手の中から部品が落ちたと伽藍堂が知ったのは、足元に微かな音を感じてからだった。

 動かない右腕の感覚は鈍いが、少しでも動く右手の中にあった物が落ちたことにも気付かなかった。

 その事実に、思わず息をのむ。

「師匠、落ちましたよ」

 佐吉がさっと立ち上がり、足元の部品を取り上げて自分に差し出した。

「ああ、ありがとう」

 そこでようやく、道具を握っていた左手が血の気を失うほど白くなっていることに気付いた。

 道具を置いて手を伸ばそうとしたが、佐吉はいつものように伽藍堂の膝の上に木片をそっと置き、元の場所に座った。

 伽藍堂は再びカラクリを作ろうとし始めている。佐吉という弟子もできたことだし、教える立場になる以上、少しは昔の勘を取り戻したかった。今の作業は初歩の初歩。手間取っている自分にも焦りを感じるし、利き腕が動かない不自由さを嫌になるほど実感していた。

 見るからに捗っていないその工程を目にしても、佐吉はなにも聞かない。

 伽藍堂は表に出さないよう抑えているが、常に苛立っている。

 おそらく気付かれているのだろうが、師弟二人して知らぬふりをしているのだ。

 思わず血の気を失くすほど力を込めて握りしめた手を、見ていないはずがないのだから。

「師匠、この角度の計算ですが」

 その場の居たたまれない雰囲気に耐えられず、佐吉が口火を切った。

 声をかけられて伽藍堂は顔を向けるが、弟子の手元にある紙の文字などろくに見えやしない。

 さりげなく声に出して計算式を読み上げる弟子は、悟らせないようにしているのだろう。気遣いは伝わってくる。

 憐れみや同情は感じさせないが、ふとした拍子に余計な手間をかけさせているのが自分でもわかるのだ。

「で、削ってみたのがこの板になります」

 眼前に差し出された板を識別できるのは、極端にそこだけ色が違うからだ。

 自由に動く左手を出せば、そこにしっかりと載せてくる。

 角度の計算はいい。削り出しが甘いのだろう。

 触ってようやく伽藍堂は差異に気付く。

「左右で微妙に角度が違う。均一じゃない」

「そうですか」

 気落ちしたような弟子の声に、伽藍堂は戸惑う。

 佐吉の覚えは悪くない。腕も、初心者にしてはまずまずだ。

 道具を握り、目の前で教えてやれない自分が悪いのだ。

 腕だけでも元のように動けば、道具の使い方やコツを教えてやれるのに。

 目が見えればきっと、なにが悪いのか伝えてやれるのに。

 自分が師匠でなければ、佐吉はもっとその才能を伸ばすことができるだろうに。

 渡された木片を返そうと手を伸ばしたところ、足に触れたなにかのせいで身体がぐらりと傾いた。

 かたん、と大きくぶつかる音がした。

 床に手をついたところで弟子が身体を支えてくれたことに気付く。

「大丈夫ですか?」

「ああ、悪い」

 言いながら足元に視線を向けるが、なにが触れたのかもう伽藍堂にはわからなかった。

 だが、周囲の暗さが気になった。明暗は比較的よくわかるのだ。

「なあ、佐吉。そろそろ湯屋の仕事に行く時間じゃないか?」

「そうですね。じゃあこれは、次に来る時までにやり直してみます。ありがとうございました」

 週に何度か、伽藍堂に食事を届けに来る日の午後は、湯屋の仕事を免除される佐吉にカラクリを教えるようになっていた。

「握り飯の重箱はここに置いておきますからね。食事はきちんと取ってくださいよ」

 部屋の一角をばんばんと叩いて弟子は小言を言い、伽藍堂の「わかった」という返事を聞いてから「お邪魔しました」と一礼して出て行く。

 何度か食事を抜いていたことを知られてからずっと、こんな感じだ。

 伽藍堂はずっと小言を言う立場だったので、なにか慣れずにいる。

 でもこの歳になってまで心配されるというのは、思っていたよりも悪くない。どこか面映ゆいのだ。

 若い時ならきっと、鬱陶しいとか面倒だと相手にしなかっただろうが。

 佐吉が長屋を出て行く音を聞いて、伽藍堂は動かない腕にそっと触れた。

 感覚がない。それだけではなく、手に触れる感触がおかしいとわかる。

 もしかして、知られただろうか。

 そう思ったが、確かめる勇気は持てなかった。



 湯屋の大きな玄関の上がり口で、緑色の件が佐吉を待っていた。佐吉の件だ。

 色がついているのは所有者がいる証で、佐吉はあれに若葉と名をつけた。

 その途端に声が聞こえるようになり、怒られて詰られたのだが、今はもう文句は言われない。

 姿を見ると駆け寄ってくる。湯屋から出てこないが、玄関ぎりぎりまで出迎えに来る。

「サキチ キタ」

「ただいま、若葉」

「シュギョウ スル?」

「いや、今日は掃除が先」

 若葉の言う修業とは彩玉から絡糸を紡ぐことで、それもカラクリ技師にとって重要なのは間違いない。佐吉が紡げたことは一度もないが、暇を見つけては練習していた。若葉はそのシュギョウにつきあうのが自分の使命だと思っているようで、最近は呼ばなくてもやってくる。

「ソウジ サキ シゴト?」

「そう、仕事」

 若葉にも修業よりは湯屋の仕事が優先だと理解できるのか、納得すれば割とあっさり引き下がる。

「ワカバ マツ」

 そう宣言して、若葉は佐吉の腕をよじ登り、肩まで這い上がってくるとちょこんと腰を下ろした。

 佐吉の仕事を手伝う気はないらしい。

 重さは少しも感じないので、佐吉は「落ちるなよ」と言ってそのまま掃除道具を用意しはじめた。



 白い猫がたん、と床に下りる。どこから下りてきたのか、誰も見ていない。知らないうちに小さな音と一緒に姿を現した。

 常時大勢の客を載せている無垢の床材は、猫一匹の重さになど揺るがない。

 足音を消して歩く白闇に気付き、声をかけた者がいた。三夜だ。

「どうしたの? 主さま」

 三夜は白闇の配下だ。湯屋に白闇がいるかいないかは気配でわかるが、彼の姿を見かけることはあまりない。

 現れたのが珍しい上に、歩いている。動いている。

 なにかあったのかと疑ってしまうのは仕方のないことだ。

「出かけて来る」

「ふぅん? どこに?」

「報せが来たから迎えに行く」

 どこからの報せだとか、誰を迎えに行くだとか、肝心なことは一切省いて答える白闇に、三夜は肩をすくめて「いってらっしゃい」と言った。

 どうせ聞いても答えてもらえないのだから、これ以上は時間の無駄だ。

 白猫は長い尻尾を左右に揺らしながら、玄関の暖簾をくぐって行った。

 湯屋の玄関は特に広い。

 客の下履きを預かる役目を担う大きな棚が幾つも並び、鍵としての木札がささっている。

 土の匂いが染みつき、いつもどこか泥臭い。

 それでも毎日掃除をしているせいか、不快な異臭とは違う。

 埃や汚れを拭き取った直後なのか、床や棚に微かな湿り気を感じた。

 玄関先に蹲る背中。その足元には色のついた件がおり、それが新入りに与えた件だと白闇にもわかった。

 仕事を終わらせた後なら、新入りがなにをしていようと白闇には関係ない。

 だが、その新入りのほうからなにやら奇妙な感じがした。

 知っているような、でも、初めて感じるような。

 なんだろう。

 そう思って通りすがりに横目で見れば、新入りとばっちり目が合った。

「あっ、猫だ」

 真剣な顔をしていた新入りの目が輝き、手招きされる。

 隣にいる件は身動きできないほど硬直しているのに、まったく気付いていない。

 怪異である自分を恐れない件などいないのだ。仮令それが所有印のある件であっても、だ。

 白闇は新入りの手の中にある物がとても気になった。

 あれから感じるのだ、奇妙なものを。

 呼ばれたから新入りに近付いたのではない。その奇妙なものがなにかを確かめるために、自ら近付いたのだ。

 ふらりと近寄って、新入りの手に握られている物に右前足を伸ばす。

「これは駄目」と言って新入りが遠ざけようとする。生意気だ、新入りのくせに。

 だから白闇は長い尻尾を上に振り払い、新入りの手首を打ちつけた。

「あ」と小さな呟きの後、白闇は頭部に小さな衝撃を感じた。

 痛くはない。でも、なにかがおかしい。

 左後ろ足で頭部を何度かかいてみたが、変な物がはりついている感触が取れなかった。

 おかしい。

 頭をかくのをやめた途端、新入りががっしと白闇の身体を捕まえた。

「えっ? なんで? どうして?」

 小脇に抱えられてしつこいくらい頭を撫でられた。とても不愉快だ。

 尻尾で何度も抗議したが、新入りはまったく気にする様子がない。

「若葉が取れない。っていうか、触れない?」

 新入りの焦ったような声と、傍にいたはずの件の姿がないこと、そして発言の内容から、ようやく自分の頭上に新入りの件がくっついているらしいことがわかった。

「水は……」と呟いた新入りが、周囲を見回す。掃除後の汚水は捨てた後のようで、空っぽの手桶が足元に転がっていた。新入りは、ああ、と残念そうな声をあげるが、もしもそんな物を自分の頭上にかけたなら、白闇は遠慮なく新入りを瞬殺するつもりだった。

 新入りの拘束を外そうと身じろぎしてみたが、全然外れない。面白くないので、べしべしと尻尾で腕を叩いていた。

「そうだ。師匠のところだ。それしかない」

 酷く動揺しているのか、新入りは伽藍堂に頼る気らしい。

 自分と伽藍堂が犬猿の仲だと知っているはずなのに、どうしてその結論に至ったのだろう。先日、楼閣で久しぶりに伽藍堂と対面した時、闇二と一緒に部屋の隅っこで、傍観者を決め込んでいたではないか。

 声をかけようとしたが、新入りはもう自分を抱えて走り出していた。

 白闇には用事があるというのに。

 厳密には仟石宛てに来た連絡の用事だが、白闇のもとに訪ねてきた。

 代理で出迎えてやろうとしていたところだった。

 相手には白闇しかわからないのだから、仕方がないのだ。

 頭になにか変な物がついたままでいるのも嫌だが、伽藍堂に頼るのも嫌だった。

 もっと嫌なのは、仟石の代理として客に無様な姿を見せることだ。頭に変な物がくっついているのは、いくらなんでも無様だろう。このまま人形に戻ったとしても、結果は変わりない。

 新入りに抱えられながら、白闇は少しだけ悩んだ。

 相手は白闇の知り合いではないし、ニンゲンは用事があれば勝手に待っているものだ。用事があるのは相手のほうなので、いくらでも待たせておけば良いはずだ。

 色々と仕方がないから、伽藍堂にも手伝わせてやるか。あいつは仟石が絡めば喜んで手を貸す男だから恩を売れるかもしれない。

 白闇は面白くない気持ちのまま、黙って新入りに運ばれて行った。



 ばんばん、がたがた、と表で騒々しい音が響く。

 いつも静かな長屋で、何事だろう。

 伽藍堂は少しだけ首を傾げたが、道具の手入れをしていたので様子見に出ることは考えなかった。

 そもそも、この長屋に立ち入ることができる存在は限られている。放っておいても、なにか事件があれば、いずれ自分の耳にも入るだろう。

「師匠っ! 大変ですっ!」

「うるさい」

 喚きながら飛び込んできたのは湯屋に帰ったはずの佐吉だった。いつもはこんなに騒がしい男ではない。

 珍しいこともあるものだ、と思いはしたが、作業中に話しかけられると気が散る。

 視力の落ちた今、伽藍堂は指先の感覚と勘に頼る部分が多い。集中力は必須だ。

「本当に大変なんですって!」

「やかましい」

「いいから見てくださいっ!」

 師匠の言葉をまるっと無視した佐吉が伽藍堂の前に差し出したのは、馴染みのある無愛想な白い猫。

 なぜかその頭に載っているのは、半透明の件で、緑色をしていた。

「大変なんです。若葉が取れなくなりました」

 よく見れば載っているというより、頭同士がなにかでくっついて、猫の頭から件が逆さまに生えているようだ。

「若葉?」

 聞きなれない単語を問い返したのだが、弟子はまたも答えず、言いたいことだけを勝手に喋る。

「どうにかなりませんかね? 折角猫に触れたと思ったら、傍にいた若葉がこんなことに。剥がそうとしたけれど、若葉に触れなくなってしまって。師匠なら解決策、一つくらい知っていますよね?」

 縋るように言われるが、どこからなにを突っ込んでいいものやら、と伽藍堂は返答に窮した。

 察するに、若葉はこの緑色の件の名で、佐吉の物らしい。そしてなぜか、白闇の頭にくっついた、と。

「佐吉、これは……」

「すいません。おれ湯屋の仕事、途中で放り投げてきたので、仕事が終わったらまた来ます。それまでこの二匹、よろしくお願いします。悪いな、いい子にして待ってろよ。絶対迎えに来るからな」

 いささか乱暴に猫を撫でまわしたあと、佐吉は飛び出して行く。

 驚きと混乱から無用に慌てているように見える。伽藍堂が声をかける前に弟子は走り去ってしまった。

 残されたのは、家主と猫と緑の件。

 伽藍堂は、畳の上に置かれた白い猫に視線を落とす。

「……白闇」

「黙れ」

「まだ、なにも言っていない」

 乱れた毛並みを不機嫌そうに整えながら、白い猫は伽藍堂に背を向けた。

 そこには大きな湯屋の主たる貫禄も、陽炎街の楼閣主の威厳や、怪異独特の迫力もなく、子供にいたずらされて不愉快な思いをした猫特有の、伽藍堂には何度も抱えて運んだ覚えのある、敗者の気配が色濃く漂う姿があった。



 佐吉が伽藍堂の長屋を出る頃には、太陽がかなり西に傾いていた。

 これからが一番忙しくなる時間帯だ。

 長屋と湯屋はそれほど離れていないが、見つかると面倒な相手もいる。

 駆けるには人が多い通りを足早に進むと、ほどなく湯屋が見えてきた。

「玄関は店の顔だからな。しっかり掃除しろ」と一夜は言う。珍しく尤もな意見だ。

 毎日掃除をしていても汚れがたまる場所だから、手抜きは一切できない。

 湯屋の仕事に慣れてきた頃から、そう思う。

 湯上がり処の白湯がきれていても、お茶が出涸らしになっていてもお客はなにも言わないが、玄関が汚いとちくりちくりと不満を言われる。

 だから、玄関内の掃除だけはいつも真っ先にすませるようにしていた。

 戸口の前に、佐吉が置いたままにしていった箒や手桶が転がっていた。表はまだ掃いていない。玄関前の軒先は客の多さや風のせいにできるので、手を抜くのならここに限る。仕事に慣れてくると、手を抜いて良い部分がわかるようになるのだ。

 今日は少し時間に余裕があったので、先に絡糸の練習をしていたらとんでもないことになってしまった。

 まだ、誰にも気付かれていないようだ。

 箒を手に取り、急いで仕舞う。

 ふと視線を感じて顔を上げると、湯屋の前の通りから佐吉を眺めている老人と目が合った。

 老人は佐吉を凝視し、何度か瞬きをし、駆け寄ってきてべたべたと遠慮なく触る。

「あの、なにか?」

 肩や背中を触る手を退けながら、佐吉は後じさりしつつ老人に尋ねた。

「お前は人間だな? 人間がこの湯屋で働いているのか」

「……失礼ですけど、どちらさまですか?」

 湯屋では見かけない顔だし、佐吉を見て人間だと確認するのもおかしい。

 ここが怪異の営む湯屋だと知っているのは、妖怪かカラクリ技師くらいのはず。

 生まれつきその類が見えてしまう極少数の存在は、二度と来ないのが基本。

 湯屋に日参するのは、なにも知らない暢気な庶民だ。

 見知らぬ老人は、湯屋の内情を知りすぎている気がした。

「儂はカラクリ技師だ」

「なら、陽炎街のほうへ行かれたらどうです?」

「それはどこだ」

 あまりにも堂々と問い返され、佐吉のほうが面食らった。

 カラクリ技師だから湯屋を知っていたとしても、彩玉の取引に加わりたいのなら、湯屋に来るのは間違っている。だから市場街に行けと言っただけなのに、場所を知らないようだ。

「えーと、カラクリ技師のかたですよね」

「そうだ。天才と呼んでくれても構わんぞ」

「カラクリ技師なら、彩玉の取引に加わりたいんじゃないんですか?」

 面倒な老人の主張は無視し、佐吉は問う。

「そんなもの、本来のカラクリ技師には不要だ。儂はずっと発条動力の、昔ながらの技法でカラクリを作っている」

 胸を張って踏ん反り返った老人は、横から伸びてきた足に蹴飛ばされて地面に倒れ込んだ。

「また来たのか、爺」

「おお、竹箒。威勢が良いな」

 地面に突っ伏したまま、老人は顔を上げて一夜に声をかけた。

 思い切り蹴飛ばされているのに、意外と丈夫にできているらしい。すぐさま立ち上がり、着物の汚れを叩いている。

 そして、一夜の本体をあっさり言い当てた。また、というからには、一夜とも顔見知りなのだろうか。

「お前は出入り禁止と言ったはずだ」

「老人を労らんか」

「泥棒を労る奴はいねぇよ」

「失礼なことを言うな。おお、いっぱいおるの」

 老人の視線の先は湯屋の中に向けられており、そこにいるのは働いている件の姿だ。

 とりあえず、見えている人間なのは間違いない。

「近付くな」

 一夜は老人を無造作に掴み、湯屋の玄関から遠くに放り投げた。

 さすがに扱いが雑すぎる。

「一夜さん、とりあえず乱暴するのは止しましょう。相手はお年寄りです」

「年寄りかもしれんが泥棒だ。番屋に突き出さない分、おれは優しい」

 見かねて止めに入った佐吉を、一夜は冷たく拒否した。

「泥棒って、なにを盗まれたんです?」

「つい先ほど、おれの目の前で件を持って行こうとしやがった」

「あんなにいっぱいおるもの、一つくらい構わんじゃろう。帝都以外で見るのは珍しいんじゃ。それに、ちゃんと断ったではないか」

 老人の主張に、一夜は「あぁ?」と凄んで眉をひそめた。まるで覚えがなかったのだ。

「『一つ良いか?』と」

「知らん。そして駄目に決まっている」

「けちじゃの」

 そういう問題ではない、と聞いていた佐吉でさえ思う。

「まあ、いい。確かにここで待ち合わせたはずなのじゃが、話が通じておらんようじゃ。そうじゃ、カラクリ技師の奴等はどこにおるのか知っているか? 儂はこの都に着いたばかりで、ここ以外、よう知らんのじゃ」

 老人の口ぶりから察すると、どうやらここで誰かと待ち合わせをしていたのに相手がいないらしい。手前味噌だが湯屋はそこそこ有名だし、この都をよく知らない者と待ち合わせをするには都合が良いだろう。誰に聞いても知らないとは言わない場所だから。

 佐吉と一夜は顔を見合わせ、少しだけ怒気を緩めた一夜が口を開く。

「陽炎街で待てば来るんじゃないか」

「それはどこじゃ」

 同じ質問を繰り返す老人は、本当に知らないようだ。

 よく見れば格好も旅装だし、大きな荷物も背負っている。着いたばかりというのも嘘ではなさそうで、色々くたびれて見えた。

 一夜も、怪訝な顔で地面を指差す。

「夜に、ここで」

「なんじゃ、やっぱりここにおるのか」

 一夜を無視して湯屋の中に入ろうとする老人の袖を握り、佐吉は止めた。

「いえ、湯屋じゃないですよ。陽炎街は別の場所です」

「ややこしいの。じゃあ、儂をそこに連れて行ってくれ」

 老人の頼みに、佐吉は思わず一夜を見た。

 実は、佐吉は伽藍堂から陽炎街への出入りを禁止されている。

 自衛能力すらないのに、危険な場所に出入りするのは無謀、と言われた。

 ついでに言うのなら、今は通行証代わりの若葉もいない。佐吉にはなにもできないのだ。

「面倒くさい」

 視線が合った一夜は、ただ一言で終わらせる。そして犬を追い払うように、老人に向かって手を振る。

「さっさと去ね」

 冷たく言い放ち、一夜は湯屋の中に消えた。

 残された佐吉は、おそるおそる老人を窺った。

 妙な期待に満ちた良い笑顔が、佐吉を見つめていた。



 かたん、かたん、と背後で音がした。

 カラクリを起動する音だ。

 この音を聞いたのは、久しぶりだった。

 周囲を見回せば、そこかしこにある物が懐かしい。

 日に焼けて黄ばんだ畳に、隙間風で鳴りそうな戸板や障子。

 土間に無造作に積まれた彩玉や屑玉も、梁からたれ落ちる絡糸も。

 比較的日の当たる場所を目指して移動すると、白闇は蹲って目を閉じた。

 伽藍堂とはもともと仲が良くない。

 彼が、隙あらば白闇を消したいと願っていることは知っている。

 でも、こういう時の自分に、問答無用でなにか仕掛けてくる男ではないことも、経験上知っている。

 頭に載っかった件は微動だにせず、といっても、もともと希薄な存在だし、本体ではないから当たり前だが、ひたすら気配を殺して自分の様子を窺っているのがわかる。

 白闇が本気になったら、一瞬で消すこともできるだろう。

 他人の所有印があるので多少面倒だが、やってできないことはない。

 どうしようかな、と思案していた時だ。

「白闇、ちょっとこっちに来い。見せてみろ」

 顔を上げると、伽藍堂が手招きしていた。

「いらん」

「邪魔じゃないのか?」

「喰えばいい」

「それ、佐吉のだろう? 色付きなんぞ、喰えないだろうが。いいからさっさと来い」

 他のニンゲンなら簡単に騙されるのだろうが、伽藍堂には通じない。

 こういうところが面倒で嫌なのだ。

 渋々のそのそと近付けば、首根っこを掴まれて持ち上げられる。

 この状態になってから、徐々に力が抜けていく。最初はなにが原因かわからなかったが、おそらく頭について離れないなにかのせいだと思う。そうでなければ伽藍堂に、こんな扱いをされて自分が大人しくしているはずがない。

 それに、怪異である自分をこんなふうに粗雑に扱う相手は、そう多くない。

 胡坐をかいた膝の上に白闇を落とし、伽藍堂はまじまじと珍しい現象を観察した。

 頭と頭の接着面に、なにやら光る物がある。彩玉に似ているが、色味が濃い。

「この接着面にあるのはなんだ? 見たことがない」

「新入りに聞け」

「知らないのならそう言え。大体お前、なぜ佐吉に近付いた? お嬢に呼ばれたって、そうそう近寄らなかっただろう?」

 確かに、伽藍堂の言い分は真っ当だ。

 主だった仟石にすら、呼ばれても大概無視していた。それで怒られることもなかったし、見捨てられることもなかった。

 弱っていた時に伽藍堂に運ばれていたのは不本意そのもので、自由に動けるのなら触れさせることは絶対にない。

「なんとなく……」

 呼ばれたような気がしたのだ。懐かしいなにかが、そこにあるような気がして。

「悪いか?」

「いいや、別に」

 この男は昔から仟石至上主義だ。彼女相手なら、どんなに喧嘩をしていても最後には許すし、どんな迷惑をかけられても文句を言いながら見捨てない。

 白闇は時々、伽藍堂はこの女を見限ったほうが生き易いのじゃないだろうか、と不謹慎なことを思いながら二人を見ていた。

 正直、仟石はカラクリ以外がまるで駄目なニンゲンだった。

 容姿は整っているほうらしいが、怪である白闇にはそんなこと、どうでも良い。

 掃除をさせれば汚れが拡大するし、洗濯をさせれば干し方が悪いのか皺だらけ。炊事など、何度か竈を爆発させて壊していた。

 どうやったら普通の薪で爆発させられるのだろう。

 伽藍堂が怒り狂うほうが、まだ、理解できた。

 仟石も、大人しく叱られて反省すればいいものを、次こそはと変に意気込んでさらに被害が拡大する。

 それを何度か繰り返して落ち込んだ時に、白闇を呼ぶのだ。

 最初の頃はよくわからず、仟石に呼ばれたら近付いていた。彼女は一応、白闇の主で命綱でもあるのだから、と。

 だが、身動きできないほどきつく抱きしめられ、口を挟む間もないほどの勢いで泣き言と愚痴を聞かされて、解放される頃には疲労でぐったりした。

 だから、徐々に近寄らなくなっただけだ。

 最初から倦厭していたわけではない。

「佐吉は知らないんだな、お前のこと」

「あの様子だと、多分な」

 闇二か一夜あたりが教えていてもよさそうなものだが、反対に全然教えていなくても不思議はない。

 少なくとも、白闇が名乗った覚えはない。

 なんだか不思議な気配がして、近付いてみて、件が頭にくっついて、それからは新入りが騒がしくて、がっしと捕まえられたままここに連行された。口を開く暇もなかった。

 昔の誰かを連想させる慌てっぷりだった。

 白闇を抱えて伽藍堂を頼ろうと判断するあたり、本当に自分の正体を知らないんじゃないだろうか、と思う。新入りは人形の自分を主さまと呼ぶが、猫の時には呼ばれないから。確実に自分を見つける珍しいニンゲンであるのに、姿を変えただけで反応が違いすぎる。

「取れそうか?」

「佐吉にも状況を聞かないと、なんとも言えん。絡糸っぽく見えるが、少し……いや、大分違う」

 白闇の頭を撫でながら、伽藍堂は答える。

 件は実体がないので、伽藍堂が触るのなら白闇の頭になる。

 毛並みに逆らって撫でられると気持ちが悪い。

 ささくれ立つ感情を、白闇はそれなりに抑えていた。

 伽藍堂は悪意満載で白闇の頭を触っているわけではないし、新入りも嫌がらせでここに連れてきたわけではない。それはわかっている。

 でも結局、仟石の代理を果たせなかった。相手のニンゲンはどうしただろうか。声をかけられた時、三夜に一言、告げれば良かった。客が来る、と。

 頭にひっついた正体不明のなにかが、徐々に、だが確実に白闇の力を削っていた。

 こんな得体の知れないものを少しでも懐かしいと感じただなんて、一体どうしたのだろう。

 怪異は妖異と違い、力の塊でできている。

 緩慢と弱くなる自分が嫌だ。折角強くなれたのに。

「こうしていると、普通の猫みたいだな、お前」

 不意にがしがしと遠慮なく頭を撫でられた白闇は、ぺしり、と尻尾で伽藍堂の腕を叩いた。

 不平不満のたまった今、伽藍堂と争うのはやぶさかではない。だが、本気で伽藍堂とやり合うつもりなら、人形にならなければ相手にならない。

 でもなんとなく、いま人形になったら違う意味で負けるのだと思ったのだ。



 面倒事は佐吉だってごめんだ。

 夕暮れの通りを並んで歩く老人をちらりと見て、軽く息を吐き出した。

 機嫌良く佐吉の隣を歩く老人は、第一声で「泊めてくれ」と言った。

 断りたかったし、それが当然だと思うのに、老人の得体の知れない迫力に負けた。

 一夜に聞きに行けば「好きにしろ」としか言わない。どうも、湯屋に関係しなければ興味がなさそうだ。

 以前は足繁く湯屋に通っていた近江屋をはじめとするカラクリ技師達も、あの夜以降まるで姿を見せなくなった。彼等に会えるとしたら彩玉の取引に使われている楼閣以外、見当がつかない。その確信に近い場所を知っているのに案内できないのが、佐吉の致命的な弱みだった。

 老人を自分の長屋に案内してくると言えば「一刻な」と時間を区切られた。

 十分すぎる時間だ。が、一夜の目は笑っていた。

 あれほど老人を邪険にしていたくせに、完全に他人事となれば、面白そうだと思うらしい。本当に人が悪い。人ではないが。

 伽藍堂のことを思えば、弟子の自分が下手に他のカラクリ技師と接点を持つのは良くない気がする。

 あまり同業者には好かれていない、ということを本人が言っていたから。そして、近江屋も同じようなことを言っていた。

 だが、隣を歩く老人からは、なぜかそういった悪い感情を見つけられないでいる。

「面倒をかけて悪いの」

「なるべく早く、出て行ってください」

「おう。そうする」

 陽炎街を知っていても案内することができず、さりとて近江屋に連絡をつける術もない。

 無関係だと知らんぷりするには佐吉は話し過ぎていたし、見捨てて行き倒れられても後味が悪い。

 なにより、佐吉は年寄りに弱かった。

 郷里の村で、佐吉に最後まで親切だったのは、年寄りのほうが多かったから。

 どこかの宿に泊まれば良いと思うが、どうせこの調子では湯屋に日参しそうだ。

 野放しにして行方知れずになられるより、佐吉の長屋にいてもらったほうがなにかと都合が良い気がした。

 どうせ、寝に帰るだけの場所だ。盗まれて困る物もない。

 老人が数日滞在したところで問題はないだろう。

「とりあえず、長屋の人にはおれの祖父ということでお願いします。見知らぬ他人だと言うよりいやすいでしょう。おれも変な詮索をされずに済みます」

「わかった。今日から童は儂の孫だ」

「設定です。口裏合わせです」

「承知した」

 童と呼ばれる年齢ではない、と何度も抗議したが「儂から見れば十分童だ」と聞いてもらえなかった。

 数日の付き合いなら、呼ばれ方はなんでも良いと割り切った。とにかく元気過ぎて扱い辛い老人なのだ。

 承諾を得られたのなら、もういい。

 どこかで疲れを覚えつつ、佐吉は自分で借りている長屋の木戸をくぐる。

「ここです。右の手前から三番目の部屋」

 自分の部屋を指しながら教えていると、この都で一番最初に、佐吉に湯屋を教えてくれた女性が驚いた顔で声を上げた。

「あれ、佐吉じゃないか。湯屋の仕事はどうしたんだい?」

 佐吉が湯屋で働き始めたことは、この界隈の人間なら誰でも知っている。

 仕事場が忙しい時間帯に、長屋にいることが珍しいのだ。

「ちょっと抜けさせてもらいました。えーと、田舎から祖父が出てきたので、案内に。おれの部屋に数日いると思います」

「おじいさんが来てくれたのかい。そりゃあ良かったね」

 隣にいる老人を見て、それから佐吉を見て、彼女は笑った。

「良かったっていうか……」

「心配して様子を見に来てくれる家族がいたんだ。良かったよ」

「童の祖父だ。よろしく頼む」

 なんだ、その挨拶は、と佐吉は驚いたが、言われた女性は気にする様子もなく「はい、よろしく」と笑って受けた。

 後は、この世話好きの女性に任せてしまえば、勝手にやってくれるだろう。

 軽く会釈をすると、女性に軽く頷かれる。

「あの、おれ、仕事に戻ります。部屋の中にある物は好きに使ってくれて構いませんから」

 振り返りながら老人に言えば「しっかり励んでこい」と笑って手を振られた。

 励まされたのに、なぜか疲れが増した気がした。



 佐吉が再び伽藍堂の長屋を訪れたのは、深夜で日付が変わる頃だった。

 湯屋の仕事は相変わらず忙しく、今日はいつにも増して余計なことがたくさんあった。その分だけ疲れが増している。

 まだくっついたままの二匹を見て少し落胆し、そして伽藍堂に向き直った。

 上手くいかない日は、全てが思うようにいかない。

「師匠、どうにかなりそうですか?」

「その前に、どうしてああなったのか説明しろ」

 伽藍堂は笑いを噛み殺しながら、頭に件をつけたまま部屋の隅で不貞寝をしている白闇を指した。

 今の白闇の姿は、近隣に名の知れた怪異さまとして大問題だ。

 陽炎街の市場は毎晩開かれるし、商品も途切れることなく持ち込まれる。

 数日なら闇二がどうにかするだろうが、主の不在が知られたなら治安が悪化する。

 怪異は、楼閣主としてそこにいるだけで意味があるのだ。

「絡糸を取り出す練習をしていました」

「それで?」

「いつものように、彩玉を取り出して……」

 手の中で転がしていただけだ。報告できるような成果はなく、傍で見ていた若葉と、珍しく寄ってきた白猫が、気が付いたらくっついていた。

 佐吉が記憶している限り、それだけだ。

 説明を聞いてもなんの反応もない師匠を見上げ、佐吉は不安になっていく。

「師匠。もしかして、彩玉には件と生物を引っ付けるなにかがある、とか?」

「おれが知る限り、そんなものはない。聞いた覚えもない」

 彩玉は、件の産湯に湧き出る妖怪の餌。

 件の産湯は、稀に件を産み出すからその名がついたのであって、基本は彩玉の転がる妖怪の餌場だ。

 彩玉がどこから派生してくるのか、妖怪がなぜ彩玉を好むのかも知られていない。

 帝都ではそういうものだ、という認識で受け止められている。

 夜明けと夕暮れにのみ数多の文字が浮かび上がる帝都の結界。

 その結界を読み解いた人間にのみ、開示される知識がある。

 医者なら医術、技師なら技術、学者なら学問、それぞれ専門にしている分野の知識が授けられるのだ。

 あまり多くはないが、カラクリ技師のなかにもその知識を得た者が何名かいた。

 ある技師は彩玉を墨のように溶かして使う技。

 ある技師は彩玉を薄く引き延ばし、刃物代わりに使う技。

 それらは読み解いた技師だけにしか使えない、という特殊な代物ではなく、教われば同じ技を使えるようになる技師もいる。

 ただ今までに伝わる技はどれも、たいして役に立たなかった。

 彩玉を溶かすよりもそこにある墨を使ったほうが早いし、彩玉を変化させる手間よりも手持ちの刃物を使ったほうが早い。

 目立った特異性がないので、重要視されなかった。

 仟石のように、カラクリの動力として使う、という従来のカラクリを根底から覆すような技など誰も授からなかったのだから。

 彼女の授かった技が特別なのか、それとも最初から特別な技であったのか、技師の間で疑問を持たれるようになったのは、彼女が次々と新しい技を使い始めたからだ。

 それらが妖怪に対抗する知識として有効、というのは、その後に知られた。

 その帝都の結界は白闇が壊した。今後、他の知識を得ることができる人間は出てこない。そのはずだ。

 伽藍堂にわかるのは、彩玉から派生したなにか、という程度。ただ、彩玉に関係しているのなら、絡糸でどうにかなるだろう。元が同じ物だし、なにより伽藍堂の絡糸は師にも褒められた強度を誇る。

 今のカラクリ技師が作る絡糸の中でなら、一番の紡ぎ手だと自負している。これだけなら、誰にも負けない。

「今日はもう遅いから、明日で良いか。お前も、もう帰れ」

 梁から落ちる絡糸の数を確認しながら、伽藍堂は素っ気なく告げた。

 これまでの怠惰な生活習慣を変えようとして、またカラクリを作り始めて、想像以上に体力を削がれている。

 明日で良いことは、明日に回したいと思うくらいには。

「え? でも、ここに二匹を置いておいても大丈夫ですか? 若葉は一応、件だから餌にもなるだろうし、猫だって、主さまに内緒で連れてきましたし……」

 真顔で佐吉は言うが、伽藍堂はもう、なにもかもが面倒で説明する気にもなれなかった。

「色付きの件は餌にならないから心配いらない。猫のことも、湯屋の主は知っているから大丈夫だ」

 嘘は言っていない。この猫が湯屋の主なのだから、現状把握は済んでいる。

 当人が不貞寝をしながら、聞き耳を立てているのだ。知らないはずがない。

 本当は連れて帰ってもらいたいが、頭に件を載せている怪異の姿など見たら、卒倒しそうな面子が湯屋にはいる。

 騒ぎが無駄に大きくなるのはごめんだ。

「明日、湯屋に行く前にここに寄ればいいだろう。それまでに、なんとかしておくから」

「わかりました。よろしくお願いします」

 伽藍堂の言葉に頷き、佐吉は長屋を出て行った。