コンビニの雑誌棚で真っ先に目に飛び込んできたのは、『輝く女性特集――多様な分野で活躍する女性たち』という華やかな見出しだった。

「ああ……」

 思わず雑誌を手に取り、加納美哉は嘆息した。

 現在、二十六歳。正社員の職を捨てた無職の身としては、胸に刺さるタイトルだ。

 今の自分からは程遠いテーマだと痛感する。

 それでもうっかり買ってきてしまったのは、現状の焦りや将来への不安があったからに違いない。

 コンビニの袋と憂鬱な心を抱えて、美哉はマンションに帰宅した。

 オートロックもないような古いマンションだが、その分家賃も控えめで住み心地もわりといい。

「ニャア」

 ドアを開けるなり、可愛らしい声が足もとから聞こえた。

 途端に強張っていた頬が緩むのがわかる。

 こちらを愛くるしい顔で見上げているのは、真っ白な毛並みと青と金のオッドアイを持つ美しい短毛種の猫だった。

「アガサ、ただいま~」

 我ながら浮かれた声が飛び出てくる。靴を脱いで上がると、アガサがするっと足に体をすりつけてきた。

 その軽やかな仕草は何度見ても飽きないし、甘えた声を出して足に絡んでくる猫が愛しくて仕方がない。

 彼女を拾って二週間。すっかり猫がいる生活に馴染んでしまっている。

「ちょっと待ってね~、ごはんにするからね!」

 浮き浮きしながら奥にあるLDKに入ると、美哉は思わずぎょっとしてしまった。

 リビングのソファにほっそりとした青年が座っていたのだ。同じく二週間前に拾ったとはいえ、こちらはまだ慣れていない。

「あ、お帰りなさい美哉さん」

 美哉に気づいた青年が優しく微笑む。

「た、ただいま……透さん」

 彼の苗字は知らない。名前を尋ねると、『透』とだけ名乗った。

 透は細身の物静かな男性で、あまり気配というものを感じさせない植物のようなタイプだったが、友達でも恋人でもない男性に少し緊張してしまう自分がいた。

 猫だけのつもりがうっかり男性も拾ってしまい、紆余曲折あって同居することになった。

 それに関しては、今はあまり深く考えたくない。

「ミャア」

 アガサが足もとで控えめに催促をしてきた。

「あ、ごめんごめん、待ってね」

 美哉はすっかり伸びてしまった髪を後ろでひとまとめにすると、キャットフードを専用の皿にあけた。

 行儀良く座って待っていたアガサに声をかける。

「はい、どうぞ」

 アガサが上品にごはんを食べる姿をしばし見やり、美哉は透に目をやった。

「晩ごはんは? 何か作りましょうか?」

「作ってありますよ。美哉さんの分は冷蔵庫に入ってます」

 美哉が冷蔵庫を開けると、三角おむすび、鶏肉とレンコンの煮もの、おくらのおひたしがあった。透は料理上手でマメだった。

「あ、ありがとう……」

 ありがたく煮物を温め直し、美哉はダイニングテーブルについた。

「透さんは? ちゃんと食べた?」

 美哉の言葉に、透が苦笑する。

「ちゃんと食べましたよ」

「ならいいけど……」

 出会った直後、透が栄養失調で倒れたのはまだ記憶に新しい。

 一緒に暮らし始めた当初は、あまり食事をとりたがらなかったこともあって、ついつい心配してしまう。

 透はお金がないわけではない。だから、精神的なものからきているのは明らかで、尚更気にかかる。

 ただ、こんなふうに口うるさく面倒を見る立場なのかと言われると困ってしまう。

 透の存在については一言で言い表すのは難しい。友人でもなく、もちろん恋人でもない。ちゃんとお金を払ってくれているし家事もしてくれるので、〝同居人〟というのが一番近いだろうか。

 同棲相手が出ていってしまい、2LDKの部屋を持てあまし気味だったので、ある意味渡りに船と言えるかもしれない。

 だが、美哉は同居人など特に求めてはいなかったので内心複雑だ。

「へえ。『輝く女性最前線』かあ。ビジネスウーマン特集号、今を輝く成功者たち百人に聞いた――面白そうですね」

 お茶をいれにきた透が、台所に置きっぱなしだった雑誌を手に取っていた。

「あっ、それはね……」

 気恥ずかしい思いで、美哉は手を伸ばした。あまりにも今の自分からかけ離れたテーマに、きまりが悪くなったのだ。

「ちょっと興味があって、その……」

「美哉さんがごはんを食べている間、読んでいてもいいですか?」

「うん……」

 美哉は仕方なく頷いた。

 透がソファに寝そべると、ごはんを済ませたアガサがふわりと彼の胸辺りに飛び乗った。体重をまったく感じさせない軽やかさだ。

 そして、ちょうどいいベッドだと言わんばかりに透の胸の上で丸くなると、満足げに目を閉じる。

 透はアガサを愛しげに一瞥すると、雑誌を読み出した。

 雑誌に載っているキャリアウーマンと比較されている気がして、何だか気まずい。

 しかし今後について考えなくてはいけないのも確かだ。

 これからどうしよう……。

 そのことを思うと箸が止まってしまう。

 前職は旅行関係の小さな会社の企画職で、汎用性があるとは言い難い。

 しかも四年の実務経験しかなく、今後の展望は霧の中だ。

 特にやりたいことも思いつかない。

 そして、なぜか住み着いた一人の男性と一匹の猫。

 美哉はため息がもれるのをこらえた。考えなくてはいけないことは山ほどあるのに、頭が働かない。

 疲れ切って何もかも嫌になってちょっと休もうと仕事を辞めたのに、いざ自由の身になると不安と焦りでとてもリラックスできる状態ではない。

 貧乏性の自分が嫌になる……。

 そのとき、スマホから聞き慣れたメロディが鳴った。

 美哉は急いでスマホを手にとった。画面に映る『母』という文字が、またもやため息をつきたい気分にさせる。

 だが、出ないわけにはいかない。

「もしもし」

「私よ。今ちょっといいかしら」

「うん……」

 母からの電話――厄介事の予感しかしない。

「里奈のことなんだけど。あの子、今になってどこも受けたくないって言うのよ」

「それって就職のこと?」

 五つ年下の妹の里奈は今、大学三年生だ。九月といえば、里奈が志望しているマスコミ業界の就職戦線まっただ中だろう。

「そうよ!」

 当たり前だと言わんばかりに母が語気を強める。

「あの子、確かアナウンサー志望だったよね? えーと、東京の独立系の局に行きたいって……」

 里奈が現在通っているのは都内にあるF女子大という名門女子大学で、卒業生はアナウンサーやらキャビンアテンダントやら華やかな仕事に就く者も多く、大企業にも強いお嬢さん大学だ。妹は高校二年生のときに急に勉強を始め、何とか合格した。

「そうよ、東京X社が第一志望で、他にもNとかTとかFテレビとか」

 母がずらずらと並べだしたのは、誰もが知っている有名な東京のテレビ局だ。

 もちろん激戦で、高学歴の人間が殺到するのは美哉も知っている。

「何で急に受けないなんて――」

「それがわからないから、電話してるんでしょ!」

 母に電話口で叫ばれ、美哉はうんざりした。

 こちらはとっくに実家を出た人間で、五つ離れた里奈とは性格も合わないため、もう一年以上顔も見ていない。

 妹が就活中だということも、この電話で気づいたくらいだ。

「でも、どうするの? どこも受けないなんて、卒業してすぐ結婚するならともかく」

「結婚とかいう話は出てないわね。とにかく、就活が嫌だって一点張りで」

「はあ」

 いわゆる就活ブルーというやつか。これまで気楽に遊び惚けていたのが、社会の厳しさの洗礼を受けて心が折れる学生も少なくない。

 大量のエントリーシートへの記入、情報をかき集め、慣れないスーツで毎日のように面接を受け、落ちまくって自信をなくす――甘ったれた妹のような人間には確かに厳しいだろう。

 でもなぜ、志望の会社があるのに受ける前からやる気を失っているのだろうか。

「受けるだけ受けたらいいのに。それとも、働くのが嫌になったのかなあ……」

 あんなにアナウンサーになりたいと言っていたのに。

「だから、あんたが話を聞いて何とかしてあげてよ」

「えっ、何で私が――」

「お姉ちゃんでしょ」

 美哉は思わず顔をしかめた。母ときたら、まだこの言葉を魔法の言葉だとでも思っているのだろうか。

 ――お姉ちゃんでしょ――。

 この一言で、ずいぶん理不尽な思いをさせられてきたものだ。

 我慢して、大目にみてあげて、それを譲ってあげて――遠い昔の不愉快な出来事が蘇ってくる。

 妹は学生とはいえ、もう二十を越えた立派な成人なのだ。なんで私が妹の面倒を見なくてはならないのだ。しかも可愛がっているならともかく、煙たがっている相手を。

 私と妹はとても仲がいいとは言えない間柄だというのを、ずっと一緒に暮らしてきたくせに、なぜ母はわからないのだろう。

 血の繋がった姉妹なんだから、と勝手な幻想を見ているのだろうか。見ているのだろう。母は私が本当に何を考えているのかなど頓着せずに、ただ自分に都合のいい『姉』という役割を押しつけてきたのだから。

 それにうんざりして、就職と同時に千葉の実家を出たというのに。

「じゃあ、里奈を家に行かせるから、じっくり話を聞いてやって」

 どす黒い感情の渦に巻き込まれていた美哉は、母のその一言にはっと我に返った。

「ちょっと待って! 家はダメ!」

 母に透とアガサのことが知られたら、面倒なことになるのは自明の理だ。

「こういうときは、二人きりじゃなくて周囲に人がいたほうが落ち着いて話せるものよ。客観視できるし、人目があると冷静になれるから――」

 美哉は口から出任せをべらべら話し出した。母は深く物事を考える質ではないから、もっともらしいことを並べ立てれば言いくるめられるのは経験上わかっている。

「とにかく、話しやすい店で会うことにするから!」

「じゃあ、お願いね」

 電話はあっさり切られた。母は美哉の近況にはまったく触れず、妹の心配ばかりしていた。

 美哉は深いため息をつき、壁に背をつけるとそのままずるずると床に座り込んだ。

 心の疲弊が体に伝わったようで、力が入らない。

 いつも母からの電話のあとは、酒を浴びるほど飲みたい気分になる。

「美哉さん、ちょっと飲みます?」

 LDKから顔を出した透が、こっそり冷やしていたワインの瓶を掲げてみせた。

 安いハウスワインだが、値段以上においしいお気に入りだ。

「飲む!!」

 美哉はようやく立ち上がり、LDKに入った。

「ちょっと待ってくださいね」

 透がコルク抜きを取り出すと、ワインを開け始めた。

 知り合ったばかりの赤の他人がこんなにも自分の気持ちをわかってくれるっていうのにね――。

 美哉はグラスに注がれるワインを見つめながら、妹にメールを打ち始めた。


         *


「いってきます」

 翌日はあいにくの雨だった。ほぼ毎日のように降る雨は、秋の訪れを感じさせる。

 雨は嫌いじゃない。だが、今日のような気が進まない約束がある日は、憂鬱さを加速させる。

 美哉が指定したのは、都内にあるゆったりしたカフェのソファ席だった。奥まった場所で隣の席とは低い壁で隔てられている。

 これならば周囲を気にせずに話せるというものだ。

「あ、来た」

 里奈が五分ほど遅れて店に入ってくる。美哉は里奈が時間に微妙にルーズなことを思い出した。必ず少し遅れるのだ。そして『遅れる』ということを連絡してこないし、謝りもしない。

 これくらいなら別にいいでしょ――という思い上がりと相手への気遣いのなさが伝わってくる。

 絶対友達になりたくないタイプなのだが、姉妹というだけでこうして関わらなくてはならない。

 里奈はにこりともせず、不機嫌そうに向かいに座った。

「久しぶり」

「ん」

 約一年ぶりだったが、お互いに懐かしさも嬉しさもないのが、素っ気ないやりとりですぐにわかる。

 里奈はあまり変わっていなかった。自慢の細身のスタイルはキープしているが、特に頬がこけたり顔色が悪かったりと、体調を崩しているようなこともない。

 髪も綺麗に巻いているし、化粧やネイルもきっちりしている。

 本格的な鬱状態ではないのが、一瞬の観察で見て取れる。まあ、大事のようではないのでよかった。

 どうせ、いつものわがままだろう。気分屋の身内に振り回されるのにはうんざりだが仕方ない。

 注文した飲み物が置かれると、美哉は本題に入った。面倒な用事はさっさと済ませたい。

「お母さんから聞いたんだけど、就職活動してないんだって?」

 ずばり切り込むと、里奈は不快そうに顔をしかめた。

「……お姉ちゃんには関係ないでしょ」

 一瞬カッとなったが、美哉は何とかこらえた。

 会っていきなり喧嘩では、わざわざこんな場を設けた意味がなくなるではないか。

「そうね、でもお母さんが心配してるし、せっかく希望のF女子大に入ったのになんで? アナウンサーになるって言ってたじゃない。いきたいテレビ局があるって」

 頑固そうに口を引き結んでいる里奈を見て、美哉は妹の心の扉を開けるのは想像以上に難しそうだと気づいた。

 里奈とは昔からこんな感じで、うまくコミュニケーションがとれた試しがない。成立していたのは食卓にのぼる表面上の会話くらいだ。

 こんなのどうしろっていうのよ。

 美哉は苛々する気分を落ち着かせようとお茶に口をつけた。

 どうやったら聞き出せるかなんてわからない。そもそも信頼関係が築けていないのだから。

 この天岩戸並みにがっちり閉じてしまっている妹の心。いっそ踊り狂って扉が開くなら楽なのに。

 すると、ようやく里奈が口を開いた。いつもはすぐに諦める姉が意外と粘る気配を見せたので、多少は話さないと解放されないと思ったのだろうか。

「お母さんから聞いたんなら知ってるでしょ。やる気がなくなったの。狙っていた本命のテレビ局が、F女子大からは採用しないって聞いて」

「それ、どこで聞いたの?」

 表立って出身大学による選別をするような企業はないはずだが。マスコミ関係なら尚更だろう。

「その局にツテがある大学の友達。もちろん表向きは広く門戸を開いているけど、採用はしないんだって。就職活動を始めて気づいたんだけど、大手やマスコミ関係はコネが全てだね。親とか親戚が偉いポストにいたり、社長だったりで、そういう子はエントリーシートとか面接とか形だけで最初からもう採用が決まってるの」

 いきなり堰を切ったようにまくしたて始めた里奈を、美哉は驚いて見つめた。

「そりゃ……F女子大の子だと裕福な家庭の子が多いから、そういう子もたくさんいるだろうね」

 中堅の大学出身だった美哉の周りでも、名にしおう大企業にあっさり口ききで入った人がいた。

 でも、あまりに別世界の出来事すぎて気にしていなかった。

「企業の本音とか暗黙の了解とか、そういう貴重な情報もコネのある子にしか回ってこない。私みたいな庶民はもう最初から挑戦権すらないんだよ。努力とか無駄だったんだ」

「努力?」

「……ダブルスクールに行ってたの。いわゆるマスコミ就職対策用の塾みたいなとことか、アナウンスの専門学校とか」

 それは知らなかった。思ったより妹は本気だったようだ。

「それは悔しいだろうけど、でも現実問題就職せずにどうするの? 結婚するわけじゃないんでしょ」

 里奈はぶすっとしたまま目をそらせる。

「残念だったけど、縁がなかったってことよ。他の局はどうなの? 東京にはテレビ局がいくつもあるでしょう?」

「どこも一緒だよ。コネなしじゃね」

「じゃあ、テレビ局以外も考えてみたら? 他にもいくらだって魅力的な会社はあるじゃない。気になる会社はとりあえず受けてみるとか」

「……よ」

「えっ?」

 うつむいた里奈からの声がよく聞こえず、美哉は体を乗り出した。

 その瞬間、里奈がいきなり立ち上がった。

「お姉ちゃんにはわからないよ!!」

 そう叫ぶと、里奈はバッグをひっつかんで店を飛び出してしまった。

 あまりに突然の出来事に、美哉はぽかんと見送ることしかできなかった。


         *


「どうしろっていうのよ……」

 わざわざ出かけたうえに一方的に怒鳴られて、美哉はぐったりとした気分で店を出た。

 雨脚は強まり、傘をさしても足もとはずぶ濡れになってしまう。

 それでも美哉はスーパーで買い物をすませ、荷物を抱えて帰宅した。

「ただいま」

 心身ともに疲れ切って、かすれた声しか出ない。

「ニャア」

 尻尾をピンと立て、アガサが顔を覗かせる。

「アガサ、お出迎えありがとう」

 軽い足取りでこちらに向かってくるアガサに、美哉は大きく手を伸ばした。

 アガサを抱っこして癒しを補給しようとしたとき、電話が鳴った。

「あ……」

 母からの電話だった。仕方なく通話ボタンを押すと、金切り声が響いた。

「ちょっと! どういうこと?」

 まるで家に帰ったところを狙いすましたかのようなタイミングに、美哉はうんざりした。

「どういうことって?」

 廊下に置いたスーパーの袋を透がLDKから出てきて持っていってくれた。

 早くびしょ濡れのストッキングを脱ぎ捨てたい。濡れそぼった服も着替えたいし、髪も乾かしたい。

 だが、母は簡単に電話を切ってくれそうになかった。

「あの子、カンカンに怒って電話してきたわよ? なんでお姉ちゃんに余計なことを言ったのって怒鳴られて……」

「……」

 愚痴を言いたいのはこちらのほうだ。だが、言い返したら金切り声の逆ギレが返ってくるだけだと知っている。

「しょうがないでしょ。あの子、第一志望がダメになって苛々してるのよ。こっちに八つ当たりされても困るんだよね」

 つい本音が出てしまった。

 しまったと口をつぐんだが、母はもちろん聞き逃さない。

「ひどい子ね! 何が八つ当たりよ? 妹の大事な時期なのに、もっと心配してあげなさいよ、お姉ちゃんでしょ!!」

 この世で最も嫌いな言葉は『お姉ちゃんでしょ』です――。

 昔からいつもそうだ。姉だから、というだけで貧乏くじを引かされる。

 いつも妹に甘く、姉に厳しい母だった。走馬燈のように昔の不快な記憶が浮かんできて、美哉は憂鬱な気分になった。

「でも、あの子自身が頑張ろうと思わなきゃ無理だよ」

「だから、それをどうしたらいいか考えてよ!!」

「知らないよ!!」

「あんたねえ、姉なんだからもっと親身になりなさいよ! 冷たい子ね!!」

「そんな――」

「とにかく、もっとちゃんと聞いてあげて!!」

 一方的に電話が切られ、美哉は深いため息をついた。

 いっそ完全に無視できるなら、どんなに楽だろう。

 いつもそうだ。母の言うことに最後は逆らえない。理不尽だと思っても、はねのけられない。

 これでは母の顔色を必死で窺っている、小さな子どものままではないか――。

 廊下にへたりこみそうになったとき、通話が終わった気配を察したのか透がひょこりと顔を出した。その足もとにはアガサもいる。

「お疲れさまです。お茶をいれてありますからどうぞ」

「ニャ!」

 タイミングのいいアガサの声に、美哉は思わず吹き出した。

「この子、人間の言葉がわかるみたいですね」

「たぶん、わかっていると思いますよ」

 自室で濡れた服をはぎとるようにして脱ぎ、部屋着に着替えるとほっとした。

 リビングに行くと、ソファに腰掛ける。

 透のいれてくれるお茶は美味しい。というよりも、誰かがいれてくれるお茶は、と言うべきか。

 相手のいたわりの気持ちが伝わってくる気がする。

「ありがとう、これ美味しいですね……」

「黒豆茶です。温まるから、気持ちがしんどいときにお勧めですよ」

「へえ……」

 透はお茶好きらしく、たまにこうやって珍しいお茶を買い足してくれている。

「妹さんとうまくいかなかったみたいですね」

「ええ……予想通り」

 胸の中に詰まった泥を吐き出すように、美哉は今日の出来事を透に話した。

 妹の里奈が頑張っていたけれど、所詮無駄だからとやる気をなくしていること、結局喧嘩のようになり、ろくに話ができなかったこと。

 苛立ち混じりのつっかえつっかえで聞き取りにくかったに違いないが、透は終始穏やかな表情で話を聞いてくれた。

「ほんと、嫌になります。なんで私がこんなしんどい思いをしなくちゃいけないんだろうって」

 美哉はふうっと息を吐いた。

「就職なんて自分の道を切り拓くんだから、自分との戦いなのに。私だって、自分のことで精一杯なの! これからどうしたらいいかなんて、私が聞きたいよ! 妹だからって甘えてばかりでずるい!!」

 私だって不安なのに、母は妹の心配ばかり――。

 沈黙が流れ、美哉ははっとした。

 友達にすら、こんな情けない弱音を話したことはない。

 だが、静かに穏やかに受け止められるのが心地よくて、ずっと心の奥底にたまっていた澱みを吐き出したくなってしまった。

 しかし襲ってきたのは解放感よりも羞恥だった。

「あ、あの……」

 顔を上げられない美哉に、優しい声がかけられる。

「つらかったですね。美哉さんはよく頑張っていると思いますよ」

 それはさりげない、でも思いやりに満ちた声音だった。

 嘘じゃない。少なくとも、透は建前で耳ざわりのいい言葉を言っているわけではない。

 本当に労ってくれているのが伝わってきた。

 軽蔑されているわけではないと知って安堵するとともに、美哉は照れくさくなった。

 いつもしっかり者を装っているのに、今のはまるで駄々っ子だ。

「私、そんなにキャパがあるわけじゃないので、頼まれても何もできないんですよね」

「美哉さんはつい甘えたくなるような人ですからね。ほら、僕だってこうして家に置いてもらってるわけだし」

 冗談めかして透が言ってくれたので、美哉はくすりと笑うことができた。

「家族なら尚更でしょう」

「そうなんですよね。昔っからいつもそう。母は面倒なことがあれば、すぐ私に押しつけようとするし、妹はわがままばかりで頼りにならないし」

「でも、妹さんの就職のこと、気になりますね。ずいぶん努力されてたようですし」

「そうですね。ダブルスクールまで行ってたなんて。あの子、遊んでばっかりだと思っていたのに」

 就職して家を出て四年。その間、妹も変わってきているのかもしれない。

 大学受験のときも、今まで遊び歩いていたのが嘘のように頑張っていた。妹に対する認識を少々改めなくてはいけないかもしれない。

「昔から負けず嫌いな所はありましたね。中学のとき、部活をいきなり辞めてきたことがあって。理由を聞いてもやっぱり言わなくて。あとから知ったんですけど、同級生に負けて代表になれなかったことが原因だったらしいです。でも本人はそれを知られたくなかったみたいで、友達のお母さんから聞いたんですが」

「なるほど……。負けたことよりも、負けたことを知られるほうがつらいのかもしれないですね」

 透がじっと考えこむ。

 透の目線がそれたので、美哉はまじまじと透を観察することができた。

 線の細そうな人でふわふわしているように見えるのに、なにかぴしっと芯が通っているような強さも感じさせる。

 そして今は一点を見つめ、頭をフル回転させているのが見てとれた。

 不思議な人だ。いったいこの人はどういう人なんだろう。

「ニャア」

 一声鳴くと、アガサがふわっとソファの背もたれから飛び降りてきた。

 そして、ローテーブルの上に置かれた雑誌の前にちょこんと座る。

「仲間にいれてほしいのかな?」

 まるで自分たちの間に入ってきた気がして、美哉は顔をほころばせた。

 アガサはトントンと美哉が買ってきた雑誌を前足で叩くと、じっと透を見上げる。

「ニャ」

「何か気づいたのかな」

 そう言うと、透が雑誌を手に取った。昨日美哉が買ってきた『輝く女性特集』だ。

 透が雑誌をパラパラとめくり始める。

「……!」

 何かを見つけた透が目を見開く。

「えっ、どうかした?」

 雑誌から顔を上げた透がしばし考え込み、しばらくして美哉の顔を見つめた。

「もう一度、妹さんと会ってみませんか?」


         *


 翌日出かけようとすると、しとしとと霧雨が音もなく降っていた。

 前回と同じカフェに入ってきた里奈は、遠目からも不機嫌そうなのが見てとれた。

 自然とため息が出る。

 だが、透の話を聞いた美哉は、もう一度里奈と話そうと重い腰を上げたのだ。

「なあに、話って」

 席に座るなり、さっさと切り上げたい様子を隠しもせず、里奈が言い放つ。

 お茶が運ばれると、美哉はおもむろに切り出した。

「あなたの志望しているテレビ局だけど、F女子大から採用しているよね新卒の子を」

「えっ……」

 里奈の顔に驚きが走る。そして、後ろめたそうに目をそらせた。

 その様子を見て、やはり里奈は意図的に嘘をついていたのだとわかった。

 里奈が前回言っていたことは嘘だった。

 透が開いて渡してくれたページには、F女子大からそのテレビ局に就職した女性が掲載されていたのだ。

 そのあとネットで検索すると何人もそういう女性が出てきた挙げ句、昨年採用された女性までいた。

 だが、もしかしたら今年度から方針が変わったのかもしれない。でも、たぶん違うでしょうと透は言った。

「あなた、志望していたテレビ局を受けたんじゃないの? でも落ちて、そのことを言うのが嫌で嘘をついていたんじゃないの?」

 里奈は途端に目を泳がせた。先ほどまでの強気な態度はどこへやら、どうしたらいいのか考えあぐねているように視線が定まらない。

 やはり透の予想通り、里奈は嘘をついていたようだ。

「なんでそんなすぐバレる嘘をつくの」

 ちょっと調べればわかることだった。

「……お母さんは気づかなかったよ」

 気まずそうに里奈が言った。

 母は妹の言葉を鵜呑みにする。いつもそうだ。すぐバレる妹の嘘を信じて、いつも私が代わりに怒られていた。

 過去の恨みがせり上がってきたが、美哉はそれを意志の力でねじふせた。

 昨晩、透と話したことを思い出す。