神楽坂出版は名前通り、新宿区神楽坂の付近にあった。

 衝撃の電話から二日後、私はご挨拶の和菓子片手に編集部を目指している。

 時刻は午後六時、丁度JR飯田橋駅に向かう人の流れができ始める頃だ。帰宅を急ぐサラリーマン達を横目に外堀通りを越える。軽子坂の上には鮮やかな茜色の空が広がっていた。降り注ぐ日差しはなかなか強烈で夏の訪れを感じさせる。もうしばらくすれば梅雨明けの速報も出るだろう。悪夢のバレンタインデーからもう五ヶ月近くたったのかと思うと、なんとも感慨深かった。

(第二出版部、カグラ文庫編集部、シニア・エディター。泉崎章子)

 スマホに控えた連絡先を見返す。少し話した感じでは年上の女性に思えた。三十代後半か四十代前半か。保険のセールスレディーによくいるタイプだ。元気で陽気でひたすらポジティブに喋り続ける感じ。『あらあらまぁ、八乙女さんたら、もう本当に大丈夫ですよ。頑張りましょう。ねぇ』的な。

 親しみやすそう……ではある。

 何せプロの出版業界人と接するのは初めてだ。鬼編集なんて出てきたら即座に萎縮する自信がある。できれば最初はお手柔らかに願いたいところだ。業界の辛さも苦しみもおいおい慣れていく感じで。

(にしても)

 担当編集、担当編集か。自分の作品に担当がつくなど驚天動地のできごとだった。八乙女先生、そろそろ〆切ですー。読者が待ってますよー、とか言ってくれるのだろうか。まったく現実味がない。と言うか、ことここに至っても商業作家になる実感が湧いていなかった。

(授賞式もまだ随分先って話だし)

 電話で聞いた話だと、今後の流れは以下のようになるらしい。

 まず各種契約書を取り交わして最終的な受賞の意思確認。十一月の授賞式で情報が解禁される。刊行は来年の二月から四月。なので原稿の修正は並行して行う。入稿から出版までは数ヶ月かかるので、八月目処には完成させたいねということだった。

 表紙デザインやイラストレイターの決定は入稿後なので、正直今の段階では自作の手直しが主な活動となる。作家デビューという言葉がピンとこないのも当然だった。

(まぁとりあえずは挨拶……だよね)

 これからよろしくお願いします、お世話になりますと担当編集に挨拶する。仕事相手の顔を見せに行く。そういう意味ではいつもの営業と一緒だ。新規の客先への大切なファースト・アポイントメント。

 うん。

 なんかちょっと気が楽になった。出版社とは言っても所詮は営利企業だ。適用される常識が違うはずもない。清潔感のある身だしなみで、笑顔は明るく、相手の目を見て挨拶。八乙女累です、どうぞよろしくお願いします!

 色々脳内シミュレーションしているうちに目的地へたどりついていた。

 白を基調にしたシンプルなビルだ。横長の低層階に縦長のタワーがくっついている。各階に設けられた窓は横縞のようで、建物全体が白黒のボーダーシャツに見えた。

 一階ロビーには有人の受付があった。スカーフ姿の女性がにっこり微笑み「いらっしゃいませ」と挨拶してくる。

 私は軽く会釈しカウンターに歩み寄った。

「お世話になっております。私、JT&Wのヤオト……」

 違う。

「えっと、あの、八乙女と言いますが、カグラ文庫の泉崎様とお約束をいただいています」

 受付嬢は「お待ちください」と内線表を取り出しつつ、目をまたたかせた。

「恐れ入ります。御社名、もう一度よろしいでしょうか」

「あ、あの、社名はないです。個人の八乙女で」

 甚だしく不審だが先方は「かしこまりました」とうなずいた。電話口に向かって「八乙女様がご到着です」と告げている。

 ほどなくしてこちらに向き直った。

「お待たせしました。十一階までお上がりください」

 入館証を手渡される。奥のエレベーターホールで警備員が頭を下げてきた。

 鼓動が高鳴る。緊張が身体を縛る。まるで新入社員みたいだ。周囲の視線が気になって仕方ない。汗ばむ掌を握りしめ奥に赴く。丁度到着していたエレベーターに乗り十一階を押した。駆けこみで社員と思しき人達が入ってくる。

「貝ヶ森先生に連絡取れた? 十二月刊ラインナップの件」

「すいません、まだメールのレスがなくて、あとでもう一度電話してみます」

「頼むよ。あの人も色々掛け持ちしているから、早めに予定押えていかないと」

 う……わぁおぅ!

 何気なく出された名前に窒息しかける。え? 貝ヶ森ってあの歴史作家だよね? 『影武者信玄』とか『真田群雄記』とか書いている。特徴的な名前だから間違いない。確かに神楽坂出版でも本を出していたけど、こんなしれっと話題にされる感じなの?

 途中階に停止すると、今度はイメージボードを持った社員が乗り合わせてきた。どこかで見た感じのビジュアルに、私のボルテージは天井知らずに上がっていく。すごい、すごいすごい。なんだこの世界! この空間!

 興奮して危うく目的階を乗り過ごすところだった。

 周囲の人間にうかがわれ、我に返る。「すみません!」と声を裏返しエレベーターから出た。

 ホールには若い男の子が待っていた。「八乙女さんですか」と訊ねられたので「はい」と答える。多分バイトの子だろう。ジーンズに開襟シャツというラフな格好で他の社員とは異なるストラップをしている。

「ご案内します」

 セキュリティドアを抜けパーティションの間を誘導された。周囲に人の気配はほとんどない。ミーティングスペースか何かなのだろうか。時折くぐもった会話の声だけが聞こえてくる。

「こちらでお待ちください」

 案内されたのは四人掛けのテーブルだった。周りを背の高いパーティションが囲んでいる。卓上にカレンダーと内線電話が置かれていた。

 バイトの子はいったん退席するとお茶を運んできた。丁寧にテーブルに置き今度こそ完全に姿を消す。

 あとには私一人がぽつんと残された。

 周囲から音が消えた途端、どっどっと打楽器のような心音が意識されてくる。落ち着かない。心臓が口から飛び出しそうだ。何度も座り直して服装を確かめる。大丈夫、電話ではそれなりに話せたし(最後の方だけ。最初はひどいものだった)年上の女性は苦手ではない。相手の名前も人となりもだいたいイメージできている。多分私がとちっても「あらあらまぁ」とフォローしてくれるタイプだろう。だから自然体で、仏頂面にならないようにだけ気をつけて。

 ピッ。

 セキュリティドアの開錠音がした。空気の動きに足音が続く。慌てて背筋を伸ばした。深呼吸して表情筋をストレッチして。

 初めまして泉崎さん! これからよろしくお願いします!

 鼻息も荒く顔を向けた時だった。

 凶相の男と目が合った。

 ……。

 はい?

 男は不機嫌を塗りこめたような顔でミーティングスペースを見渡した。数回視線を走らせた後、私に目を留める。「八乙女累さん?」と低い声で呼ばわってきた。

 一瞬反応が遅れたのを責められる理由はないだろう。あまりに予想外、あまりに唐突な邂逅だった。ぽかんとする私に男は眉をひそめてみせた。

「違ったか? 会議スペースの番号は合っているはずだが」

「あ、いえ、違ってません! 八乙女です!」

 起立した拍子に膝を打ちつける。鈍痛が走るも構っていられない。事前のシミュレーションなど全て吹っ飛んだ状態で頭を下げる。

「あの! この度は大変ありがたい話を……私なんかのために」

「いいから座れ」

 押し出されたテーブルが対面の椅子を圧迫している。いかにも座りづらそうだ。私はひゃっと妙な声を上げテーブルを引いた。

 男は長い手足を窮屈そうに折り畳み着席した。はみでた足を組んでいるのは行儀の悪さというより、そうしないと収まらないからだろう。やや身体を斜めにして向き合ってくる。

(……)

 なんとも異様な雰囲気の男性だった。

 見目が悪いわけではない。彫りの深い顔立ちで鼻筋はすっと通っている。頬から顎は無駄な肉をカミソリで削ぎ落としたようで、見る者に精悍な印象を与えていた。年の頃は三十六、七くらいだろうか。服装も髪型も一般的でJT&Wの中堅社員と言っても通用する感じだ。

 だが目が。

 目が怖すぎる。

 テープで無理矢理引っ張ったように眦が吊り上がっている。三白眼の瞳は曇り一つなく、ぎらついた光を放っていた。くわっという音が聞こえそうなくらい凶悪な眼差しだ。意図してかどうか眉間にも深い皺が刻まれている。ぶっきらぼうな口調も相まり、今から異端審問が始まると言われても全然違和感がなかった。

 一体どういう立ち位置の人なのだろう。バイトではなさそうだし泉崎さんの同僚だろうか。あるいは営業か広報とか。でもなんでそんな立場の人がここに?

「第二出版部の愛宕信司だ。君の担当につかせてもらう」

 衝撃的な発言は当初、脳に留まらなかった。アタゴさんかぁ、へぇ、見た目通りカクカクした名前だなぁ、どんな字かしら、なんて的外れの感想を抱いていただけで。

 だがややあって単語の意味が意識に染みこんできた。君の担当。私の担当。八乙女累の担当。

「え?」

 真顔で訊き返してしまった。

「あ、あの? 泉崎さんは?」

「彼女は昨日付で異動した。急な人事だったから他に空いている人間がいなくてな、俺に話が回ってきた。すまないがこの場を借りて交代の連絡とさせてもらう」

 脳みそに棒を突き刺し、ぐるぐる掻き回されたらこんな気分になるのだろうか。衝撃と混乱がうねりと化し襲いかかってくる。

 この人が担当? 私の編集?

「早速だが改稿の打ち合わせをさせてくれ。筆記用具持っているか? なければ準備させるが」

「……」

「おい」

 低い声にびくりとなる。やばい、思考が飛んでいた。

「あ、あります」

 鞄を引っ繰り返さんばかりの勢いでメモを取り出す。震える指でシャープペンシルの尻をノックした。

 愛宕と名乗った男は机の上にA4用紙の束を置いた。ピンク色の付箋がびっしり挟みこまれている。私の原稿だ。見覚えのある文章に赤字が刻まれている。

「まず、これを渡しておく」

 そう言って差し出されたのは一枚のプリントだった。先頭行に書かれた文字は……審査員講評?

「プレスリリース用だからオブラートに包んでいるが、そこに書かれているのが君の作品に対する編集部評だ。読んでみろ」

 食い入るように見つめる。

 ――台詞や情景描写が分かりやすい。すらすら読める。

 だけど。

 ――物語の緩急が少ない。演出について再考の余地がある。個々の登場人物の掘り下げが弱い。

 相反する評価を前にして私は静止する。どう反応してよいか分からない。掘り下げ? 緩急? 演出?

 途方に暮れる私に愛宕は宣告した。

「平たく言えば出版のレベルに達していないということだ」

 長い指がプリントの文字をなぞった。

「いいか。演出に課題ありというのは、物語としての山も仕掛けもないってことだ。全体の構成を考えず場当たり的にシーンを書いている。だから曖昧な雰囲気しか伝わらない。トータルとしてどんな話だったか見えてこない」

「……」

「キャラについても同じだ。キリコはともかくマキシの行動原理がまったく理解できない。刹那主義の詐欺師がなぜ遠縁の女の子を引き取るのか、あちこち連れ回すのか。普通に考えれば邪魔だろう。地場のヤクザとトラブルに陥るならなおさらだ。そのあたりの理由づけはどう考えていた? 設定はあったが書かなかっただけか」

「それは」

 言葉が続かない。

 考えてなかった。頭の中の風景を吐き出すのに必死で、整合性まで思い至らなかった。

 マキシがなぜキリコを引き取ったか? 一緒に行動していたのか?

 簡単だ。二人が歩く風景をすごく綺麗に感じたから、言葉にしたいと思ったから。でも。

「それは?」

 強烈な眼光にすくみあがる。

 言えない。イメージ先行で執筆を続けていたなど、どやされる気しかしなかった。

「すみません……特に設定とかは準備していないです」

「なるほど」

 声の温度が一気に下がって感じられた。愛宕はギィと背もたれによりかかった。

「ならキャラについても修正が必要だな。動機なりバックグラウンドなりを構築してストーリーに混ぜこむ。できればさっき話した物語の弱さをカバーできる材料にしたい。登場人物の説明とプロットを相互に関連させて」

「……」

「あと周囲の人達の反応も気になるな。平日の昼間に小学生の女の子が出歩いていて、なんの抵抗もなく受け止めているだろう? 普通、学校はどうしたとか親はどこだとか気になるんじゃないのか。作品世界の常識が現実とかけ離れていたら話は別だが、そうじゃないよな?」

「はい……」

「読者の日常と違うものを書くなら、必ず理由づけを入れろ。今読んでいる箇所がSFなのかファンタジーなのか、それとも心象風景なのか分かるようにするんだ。でないと読んでる人間をいたずらに混乱させることになるぞ」

 あとは――と続いた指摘はあたかも機関銃のようで、私は無言の悲鳴を上げた。

 自作の問題点を指摘されるのがこんなに恐ろしいとは思ってもみなかった。

 剥き出しの内臓を何度も痛めつけられる気分。神経を切り刻まれる感覚。考えてみれば当然だ。創作とは己の内をさらけ出すこと、裸の感性を公開する行為なのだから。その内的世界を刺されて平気なはずがない。

 痛い。怖い。やめてやめてやめて。

 だけど愛宕は容赦なく私の世界を断罪し続けた。

 時間にして三十分、いやもっと短かっただろうか。わずかな間に私はすっかり打ちひしがれていた。メモ帳の記述はぶつ切りと化し、まともな体を為していない。歪んだ文字で書かれた内容は「不自然」、「描写不足」、「意味不明」、「要修正」、etc。

「いったんこんなところだが質問はあるか」

 半死半生の意識に低い問いかけが響く。

 虚ろな表情でかぶりを振った。とにかく早くこの場を離れることしか考えられない。痛んだ心を隠したかった。

「よし、じゃあ修正のスケジュールだが」

 愛宕は手帳をめくった。

「来週中に第二稿を提出してくれ。日曜が七月二十四日だから月曜、二十五日の十八時まで待つ。送り方はメールで構わない」

 こくりとゾンビのようにうなずきかけて「え」と訊ね返す。

「ら、来週中ですか?」

 このボリュームを? 十日くらいで?

「なんだ。もっと早くできるならそれにこしたことはないが」

 いやいやいや!

「す、すいません。私まだこういう作業に慣れていなくて、仰る内容をどのくらいでこなせるか、見当がつかないっていうか」

「例年、新人の原稿は三、四回ほど修正が必要になる。八末入稿と考えれば、一回あたりの修正を二週間程度でやっていかないと追いつかない。特に今回は最初だからな。自分のペースをつかむ意味でも前倒しで作業した方がいい」

「そ、そうかもしれませんけど」

 膨大な赤字と付箋に目が吸いつけられる。

「結構根本的な直しになりそうですし、私、昼間の仕事もありますから、実質取れる時間が土日くらいしかなくて――」

 瞬間愛宕のまとう雰囲気が明らかに変わった。眼光が猛禽の鋭さを帯びる。ひっとなる私に愛宕は身を乗り出してきた。

「はっきり言っておくが」

 絶対零度・冷酷無比の声音。

「俺は専業作家とか兼業作家とか区別する気は一切ない。商業出版に関わる以上、全員プロとして扱わせてもらう。それが嫌なら今からでも賞を辞退して同人で出版しろ。素人の遊びに付き合う余裕は俺も編集部もない」

「……」

「どうなんだ。やるのか、やらないのか」

「や、やります」

 としか言いようがなかった。うなだれる私の前で愛宕は「よし」と手帳を閉じた。胸ポケットから一枚名詞を取り出し卓上に置く。

「原稿の送り先はこのアドレスで。何か疑問点があった場合も同じ連絡先で構わない。緊急の場合は電話で。いいか」

「はい」

「よし、以上で」

 愛宕が席を立つ。パーティションから出たところで立ち止まっているのは、こちらを見送る気なのだろう。慌てて荷物をまとめてあとに続く。セキュリティドアを抜け、エレベーターを呼んでもらい、到着を待った。ポーンとチャイムが響くまで数十秒、その間一切会話がない。

 エレベーター扉が開くなり逃げるように駆けこんだ。「失礼します」と一礼したのはそれ以上目を合わせたくなかったからだ。扉が閉まった瞬間、どっと汗が噴き出してくる。同乗者がいなければしゃがみこんでいただろう。周囲では来た時と同じ、きらびやかな世界の会話が交わされている。だがまったく意識に入ってこない。心が暗幕のごとき黒に塗り潰されている。

(あ)

 手に持った荷物に気づく。黒と金の上品な包み紙、和紙を使った紙袋。

 お土産、渡し忘れていた。


 鉛のごとき身体を引きずって近場のカフェに入った。

 カウンターでソイラテを注文し窓際の席に赴く。額を押えてさっきのメモをのぞきこんだ。

(どうしよう)

 読み返せば読み返すほど途方に暮れてきた。何から手をつけてよいかさっぱり分からない。作業の方向性がつかめない。

 ていうか誰よ、あの人。

 本当に泉崎さんの後任? いきなり現れて言いたい放題。初対面の相手にあんまりな態度だろう。名刺交換もちゃんとやってくれないし……って、いやまぁ私、作家の名刺なんか持ってないけど。

 ひょっとして騙された? 実は泉崎さんはまだ編集部にいて、私の到着を待ちわびているとか? で、愛宕なる人物は泉崎さんに恨みを持っており、彼女の担当作家を潰して嫌がらせしようとしているとか。

(うーん)

 荒唐無稽な想像の真偽を確かめる術はない。

 編集部に電話して泉崎さんを呼び出しても、愛宕さんに取り次がれたらどうしようもない。むしろ「君の担当は俺だと言っただろう。なんだ、気に入らないのか?」と怒られかねなかった。

 こんなことなら泉崎さんの個人アドレスを訊いておくべきだった。直接の連絡パスさえあれば事情も訊ねられただろうに。本当に異動したんですか? 愛宕さんって御社の社員なんですか? そもそも担当編集ってあんな風に作家と接するものなんですか、などなど。

 ただ、一方で嫌がらせにしては回りくどすぎる気もした。

 きちんと作品も読んでくれていたし、指摘も具体的だった。私を潰したいだけならもっと他にやりようがあるはずだ。「アポが取れていない」と追い返したり「読むに堪えない」と打ち合わせを打ち切ったり。そうすれば右も左も分からない作家の卵(未満)など一発で再起不能にできるだろう。三十分も打ち合わせする必要はない。

 だとすれば明白だ。

 私の担当はあの異端審問官で、膨大な量のリテイクを指示されている。これが現実だ。勘違いの余地はない。

(来週中……か)

 スマホからオンラインストレージの原稿を呼び出す。画面は小さいが何も見ないよりマシだ。ざっと全体を流し読みして今日の指摘と照らし合わせていく。

 ……。

 確かに的を射た内容ではあった。現実世界で子供が不審者と歩いていたら、すぐ通報される。簡単に寝所を確保できるとも思えない。買い物や公共交通機関の利用も一苦労だ。

 マキシの動機についても同じ。単純に詐欺師としてのリアリティを求めるなら子供を連れ歩く必要はない。むしろキリコを利用していかに金を稼ぐかという思考になるはずだ。

 つまり現実味がない。読んでいて違和感を覚える。

(でも)

 別にドキュメンタリーを書いたつもりはないのだ。何もかもが現実に即している必要はあるまい。実際世の物語の大半は虚実を入り混ぜている。それらが許され私の作品だけ問題視される理由は? 文章力の問題? 構成の稚拙さ? それとも台詞の不自然さ?

(あとの指摘は)

 メモをめくる。

 物語の起伏に欠けている?

 キャラのバックグラウンドを掘り下げ、その設定描写をストーリーの盛り上げに絡める?

 何かマキシの設定を加えろということだろうか。実は彼はとある大物マフィアの元幹部で、そこを裏切って追われているとか。で、裏切った理由は「身内の抗争にキリコの両親を巻きんでしまった」から。最後の見せ場、追っ手に見つかり絶体絶命の二人。「ねぇ、なぜ私を助けてくれるの」と問うキリコにマキシは答える。「おまえの親を殺したのは実は俺なんだ」ババーン!

 ……ええっと、なんか話変わってるし。全面的に書き直した方が早い感じになってるし。

 いやちょっと、真面目にどうしたらいいの? 来週末には修正終えなきゃいけないんだよね?

 ぐしゃりと髪をつかむ。頭皮に食いこんだ指が眉を歪ませる。

 落ち着け私。ちょっと順序立てて考えていこう。

 だけど一体何を順序立てればいいのかさえピンとこなかった。修正ってどうやるんだろう。新規のエピソードを挿入する? 既存の文章を削除する? それとも一から新しい作品を書き始める?

『平たく言えば出版のレベルに達していないということだ』

 愛宕の言葉が死刑宣告のように響く。宝物のように思っていた原稿が途端に無価値に感じられてきた。

(まずは一個でも二個でも修正を反映してみて)

 とにかく残り少ない時間を無駄にするまいとペンを取り上げた時だった。

 携帯が鳴った。私物ではない社用だ。

「はい、八乙女です」

『もしもし、富沢だけど』

 課長だった。後ろがやかましい。切迫した声が不安を煽る。しまった、取るべきじゃなかったと思った時にはもう手遅れだった。

『須賀不動産の常駐者から競合見積もりがリークされてきて、至急カウンター提案を作る必要があるんだ。今どこ? 何分くらいで戻ってこられる?』

 さ、三十分くらいでと答えるのが精一杯だった。一時間なんて言った途端「なんでそんなにかかるの」、「スケジューラは空いてるけど」と追及が始まりそうだ。

 どうしてこんな時に。

「なる早で向かいます」

 歯がみしつつ電話を切る。せめてあと数分だけでも原稿に向きあうつもりだったが。

 ピロピロピロと着信音が響き渡る。

「はい、八乙女です!」

『S光フーズの棚橋ですが、お世話になっておりますー』

 富沢課長の担当顧客だった。多分、あっちがバタバタして繋がらないので副担当の私に掛けてきたのだろう。

『すみません。ちょっと緊急で見積もりをいただきたくて。今から弊社の拠点リストを送りますので回線費用を弾いてもらえますか? 今日中で構いませんので』

 もはや断る気力もなかった。