プロローグ 真夏の夜のパティスリー


 深夜にもかかわらず、ショーケースは色とりどりのスイーツで埋め尽くされていた。

 私はずいぶん時間をかけて、そこから一つを選び取った。爽やかなグリーンが眩しいメロンタルトは、熱帯夜の憂鬱を忘れさせてくれそうだと思った。

 繁華街の一隅にある『ルミエール・ステレール』。

 昼間は行列のできる人気ケーキ店だが、夜になるとその顔を変える。抑えた照明とクラシックピアノの旋律に包まれたパティスリーは妖しげで、どこからか大人たちが集い、花に群がる蝶のように蜜を吸い舞っていく。

 真夜中だけあって、客には華やかな格好の女性が多い。けれど、飲み会後と思われる、なんだか得体の知れない男たちもいれば、静かにコーヒーを傾けるわけありっぽいカップルもいる。もしくは私のように一人黙々と、ケーキを詰め込む女。

「そこのきみ、ちょっといい?」

 そんなところに突然声をかけてきたのは、パトロール中とおぼしき警察官だった。油断なく鋭い目つきで、私を睨みつけている。怪しまれていることは明白だったから、私は俯いて黙り込んだ。

「きみ、未成年だよね? それに怪我してる? もしかしてどこからか逃げてきたの?」

「…………」

 周りの客の視線が集まる。みな憐れむように私を眺めるが、助けが入るはずもない。

「答えられないんだ? ちょっと交番まで来てね」

 私は震えを抑えながら財布を取り出した。食べかけのメロンタルトは惜しいけれど、ここで捕まるわけにはいかない。

 私の意図を察したのか、「ちょっと、どこ行く気だ!」と、警官が無遠慮に腕をつかむ。私はテーブルに千円札を置くと、彼の手を振り払って走り出した。

「こらっ! 待て!」

「いやっ!」

 だが、運の悪いことに進路にはケーキを買う客と店員がいた。よけようと減速したところで、再び腕をつかまれる。凄い力だ。

「ほら、無駄なあがきはよして来なさい」

 背後に立たれ、もう一方の手もつかまれた、そのとき。

 意思に反し、体が反射的に動いた。

 次の瞬間、警官の巨体が宙を舞い、観葉植物を飛び越えて板張りの床に落下する。

 建物が振動するような、鈍い音が響きわたった。

「……あー……」

 そして静まりかえる店内。名も知らぬピアノ曲とコーヒーの苦い香りだけが流れる。

「……やっちゃったぁ……」

 正面の窓に、哀れな人間の姿が反射する。ショートカットの髪を乱した、ジャージ姿の血まみれの女子高生――すなわち私の姿が。

 その足元には警察官。制帽が吹っ飛び、目も口も半開きで昏倒している。

 そうだ。警察を呼ばれる前に逃げなければ。そっと踏み出したところで、彼が「いてて……」とうめき意識を取り戻した。

「やば……」

「……あれ、オレなにしてたんだっけ?」

 逃げ腰の私は、体ごと振り返ると最大限の笑顔で彼を迎え入れた。

「やだなぁ。おまわりさん、滑って転んじゃうなんて」


第一章 スイーツ巡査


 人間には、二種類いる。家業を継ぐ運命を背負った人間と、そうでない人間だ。

 そして、私は前者だった。

 いいだろう、子が親の仕事を継ぐのも。だが、そこには愛がないといけない。親への愛、家への愛、なにより家業への愛だ。私にもかつて愛はあった。あったけれど、長い年月の間にそれは禍々しい憎しみへと変質していた。そんな人間が家業を継いでうまくいくはずがあろうか。いやない。

「おい、勉強はいいから店手伝え!」

 こんなことを言い放つ親のもと、私は高校生活最後の年を迎えた。

 古い商店街の一角に建つ住居兼店舗には、常に家業の気配が充満していた。

 その、甘い匂いと両親の念が混じりあったものは、それはそれはむさ苦しいものだ。私は何度、どうせならうちがお洒落なケーキ屋さんだったらと嘆息しながら、大量の小豆を研ぎまくっただろう。そしてふと鏡に映る小豆色のジャージ姿の自分に、妖怪小豆洗いを見ただろうか。

「餡子は日本人の心であり誇りだ。だから和菓子屋より尊い仕事なんかない」

 私の頭上に、父の台詞が繰り返し降り注ぐ。

「とにかく餡子を炊け。おまえにもそのうちわかる」

 その、餡子作りに命を懸ける父の情熱はすさまじく、筋骨隆々の肉体のすべては餡子を練り上げるためだけに改造されていた。

 小さいころから、そんな父と一緒に筋トレをさせられていた私は、お転婆な性格を矯正し、和菓子職人に必要な精神を修養するため、近所の柔道場に入れられた。

 だが、父と炊く餡子の匂いよりも、試合の緊張感に楽しみをおぼえるようになっていくのは自然なことだったのだろう。餡子も和菓子も好きだけど、高校の柔道部ではインターハイに出場できたし、このまま続けられたらどんなによいかと思っていた。

「大学ぅ? 馬鹿なこと言わずに餡子を炊け!」

 進路希望調査で漠然と「大学」と書いた私は、ことごとく両親に反対された。二人は、長子である私が店を継ぐものと信じて疑わず、あんこあんこと言い続けた。

 だが、私にも言い分はある。下に妹が二人もいるし、そっちのほうが手先は器用だし愛に溢れている。私には柔道しか能がなく、なによりあんこあんこと洗脳のように言われ続けたせいで、ヤツという存在に憎悪すら抱きはじめていた。

 そして、ついに破局は訪れた。

「あんこあんこって、うるさい! 餡子なんか大っ嫌いだー!」

 夏休み初日。父親と血みどろの乱闘騒ぎを起こしてしまい、近所から救急車を呼ばれた私は夜の街に出奔した。業務用冷蔵庫に打ちつけたこめかみからは流血していたが、構う暇もなかった。大学も就職もどうでもいい。とにかく餡子の匂いのする家から逃げ出してしまいたかった。

「こら! 待ちなさい、あんこ!」

「あんこって呼ぶなー!」

「おい、あんこーっ!」

 人間には、二種類いる。脳どころか血管まで別のなにかが詰まった人間と、そうでない人間だ。悲劇だったのは私も両親も前者だったことだ。



「……って、だからといって高校生が深夜にケーキのやけ食いですか?」

 シンデレラも裸足で逃げ出す時刻。東京都西部の東多摩市の駅前には、まだネオンの残り火がくすぶっている。だが、雑居ビルと低層マンションに挟まれたこの駅前交番は、賑わいとは完全に無縁だ。結局私はふらつく警官を放っておけず、彼を背負ってここまで来たものの、当然ながら仲間の警官にこってり絞られるはめになった。

 だけど、私は往生際が悪いのだ。こめかみに固まった血糊を触りながら、彼に抗弁した。

「そ、そうだけど……なにか悪い? 深夜徘徊したって誰にも迷惑かけないじゃない」

「いえ、かけてます! 大変けしからんことです」

 警官は説教を続ける。

「理由、わかりますか? わかっていませんね。そもそもいま何時ですか?」

「……そりゃ、二十三時すぎだけど、でも――」

「そう、夜中です! いいですか。まず高校生の分際でケーキなどという崇高なものを食べまくるというのは大罪です」

「……は……?」

「大人には大人の味があるものです。お酒が二十歳にならないと飲めないように、ケーキも大人にならなければ食べてはいけないのです」

 薄汚れたデスクに向かい合う巡査は、熱を込めて続ける。

「ねえ、なんでケーキ――」

「そして、そう! 深夜であることが問題です。深夜に営業しているケーキ屋は数少ないのに、さらにパティシエも帰っているので買えば買うほど在庫は減るんです。それを独り占めしようなんて……おお……! 考えることすら許されません! わかりますか?」

「はいはい……ってわかるか!」

 短気な私はそこで爆発した。

 目をパチクリさせたのは、採用間もないと思われるまだ若い巡査だ。

 人の好さそうな顔に、小作りの鼻と銀縁丸眼鏡がのっている。その瞳は疑うことを知らない詩人か哲学者のように不思議に澄んでいて、制服を着ていなければ「詐欺に気をつけて」と四方から声がかかりそうな人相だった。

 そんな無垢な瞳と、彼が現在進行形で取っている動作とが、私を苛立たせた。

「なに言ってるの、おまわりさん? 普通はここで、『高校生が深夜徘徊しちゃいけません』って怒るところじゃないの? ケーキとか関係ないでしょ?」

 ジャージ姿の女子高生に反論された巡査は、悔い改めない罪人を前にした神父のような、悲哀に満ちた表情を浮かべた。

「関係ない? そんなことはありません。ぼくはただ、ブラック企業の社畜並みに簡単に消費され続けるケーキたちが悲しいだけです」

「だから、ケーキから離れてよ! しかも人のことまったく言えないでしょう!? 自分がいまなにやってるか、わかってる!?」

 思わず机を叩いた衝撃で、上にのった皿とフォークがガチャン、と触れ合う。だが、巡査は悲しげな顔のまま、手にした三個目のシュークリームを流れるように頬張った。シューから離れた右手は、机の中央に鎮座するケーキ店の白い紙箱からごく自然にタルトを取り出し、薔薇の小花が描かれた皿に置く。

 私が見ていた限りでも、彼が食べる洋菓子はこれで五個目。だが、箱の中にはまだまだケーキが詰まっていて、尽きる様子がない。永遠にケーキが出る秘密道具かなにかだろうか。箱からはドライアイスの煙が火山帯の一角のように立ちのぼっていて、本当に魔法のようでもある。

「さっきから、大量のケーキを黙々と食べ続けている人に説教なんかされたくないよ! だいたいなんなのこれ? なんで警官が仕事中に優雅においしくケーキを食べているわけ!?」

「いやまぁ、警官は多忙ですから糖分を消費するんですよ」

 どう見ても暇そうな彼はそう言う。

「それに、このルミエール・ステレールのメロンタルトは最高なんですよ。エメラルドのように輝くメロンの瑞々しく自然な甘味、媚びないのに存在感のある生クリームと、さっくりふんわりが絶妙な、アーモンドの香り豊かなタルト生地……。神が生み出したとしか思えない至福の食べものです。迷える子羊であるあなたは知らないでしょうが――」

「知ってるし! さっき食べたし!」

 彼は憐れむように眉をひそめた。

「ああ、だから在庫がいつもより少なめだったんですね。お子様が食べるには十年早いですよこれは。メロンとアーモンドとバターの三位一体の真理、わかろうはずがありません。残念です。あなたのような若人にしてみれば、ケーキもおにぎりも同じようなものでしょう……」

「あのね、呼吸するようにケーキを食べまくる人のほうがよっぽどそう見えるよ? そりゃ、お菓子をそんなに好きな人はありがたいけど」

 ここでは社会の常識が通じないのだろうか? 交番で、なぜ私は警官相手にいちいち突っ込みを入れているのか。もしかして、頭を打ったときに私は不思議の世界に迷い込んでしまったのかもしれない。だとすれば、私がいるはずなのは交番ではなく霊安室だ。

 懊悩しながら頬をつねる。……痛い。

 きっと警官には二種類いる。お菓子ばかり食べていて仕事をしない警官と、そうでない警官だ。そして、前者はきっとこの世に一人だけだろう。無理矢理そう思って自分を納得させることにした。

 ところが。優雅にティーポットから紅茶を注ぎながら、警官は藪から棒に質問してきた。

「で? あなた、親御さんと喧嘩して家出ですか?」

「え……ち、ちが――」

 自分が夜の街にいる原因。もっとも訊かれたくないことだった。私は否定もしきれず、顔をそむけてしまう。それを肯定ととらえたのか、彼は人の好さそうな微笑みのままで、いっそう口の端を上向かせた。

「進路のことで意見が衝突したんですね。親御さんが決めた道があって、あなたはそれに反発しつつも、じゃあ自分がどうなりたいのかビジョンがないんですよね」

「な、なんで勝手に決めつけるのよ!」

「学期末ですからね、ありそうなことです。あなたはギャルでもスケバンでもないし、かといって勉強漬けで進学を目指している感じでもないし。おおかた、なにも考えずに運動部に青春を燃やし尽くして、引退したところで親からかねがね言われてきた『家業を継げ』という現実に直面して戸惑っているってところですかね」

「うっ……」

 ただお菓子を食べているだけかと思って油断していたけれど、意外と相手を見ているようだった。

「しかも、あなたはその仕事を好きになることができない。幼いころから近くにありすぎて、どうにも陳腐な感じがしている。部活に熱中したのも、逃避の一環でしょう。別のきょうだいが継げばいいだろうとか思って。ってことは、女の子ばかりの姉妹の無責任な一番上って感じですか」

「…………な」

 全部合っている。私はこの巡査に対する見方を改めた。

「……なんで……わかったの……」

 この人には透視能力でもあるのか。私は慄然としながら髪を掻きむしる。やはり国家権力を敵に回してはならない。いまさらだが、タメ口のせいで反逆罪に問われないだろうか。

 震える私を見て、巡査は微笑む。

「そして、あなたはそんな人生を悔いてここに出頭してきたんですね。これらを総合すると――」

 私を見透かすように、一瞬瞳が光った。

「――あなたの家業は、詐欺師か盗賊団ですね」

「なんでそうなる!!」

 私は数秒前の恐れも忘れ、全力で突っ込んでしまった。

「違うでしょ! 私は行き倒れの警官を連れてきただけじゃない! それが、ど、ど、どうして出頭になるのよ。た、確かに深夜徘徊はしてたけど!」

「あ、そうでした」

 巡査は顔色一つ変えずお茶を飲んだ。

「簡単に盗賊団が出頭するんじゃ警察は要りませんね」

「だから、人ん家を勝手に犯罪集団にしないでよ! うちはそんなものとは縁もゆかりもない――」

「ええ。お菓子屋さんなんですよね。わかってましたよ」

 また当てられた。私は驚くよりも戸惑い、ぽかんと口を開けるしかない。

「だって、お菓子を好きな人はありがたいって、自分で言ってたじゃないですか」

 警官は微笑む。そういえば、そんなことを言ったかもしれない。

「それって最高の幸せじゃないですか。作り放題食べ放題ですよ? 一日八食とおやつ三食お菓子ですよ?」

「ちょっと!? そんなにお菓子食べたら死ぬから!」

「死にませんよ。死んだことありませんもん」

「そんな生活送ってるの!?」

 いや、彼の健康を心配するのは後回しだ。私は言い返した。

「だいたい、そんなにお菓子が好きならおじさんこそお菓子屋になればよかったじゃない」

「おじさん……」

 彼は苦笑しながら再び紅茶を飲む。ほっと息を吐くと、「確かに、それもよかったですねぇ……」と語り出した。

「昔は、ぼくも親戚のケーキ屋を継ぐつもりだったんですけどねぇ。不況のあおりで潰れちゃって――」

「え……嘘……」

 私は言葉も出せずに固まる。不況。それは誰にでも災いをもたらすが、ことにお菓子屋には死神の来訪と同義だ。人は、余裕がないと嗜好品を買えない。売れなければ個人の店など簡単に潰れてしまう。

 もしかして、この人は過去の反動でお菓子中毒になったのか。そして私は心ない突っ込みを浴びせ続けていた――。

「ええ、嘘です」

 巡査はいっそう笑みを深め、ウェットティッシュで口元と手を拭いた。

「嘘ぉ!?」

 私は会話の振れ幅についていけず、がっくりと顔を俯けた。

 相手はそんなことも意に介さない。飄々と会話を続ける。

「だって、好きなお菓子が多すぎて、自分で店をやるのは難しいですよ。作った半分を売るとしても、一日千個のケーキは作れませんから」

「そんなに食べるの!?」

「あ、間違えた。一万個でした」

「控えめに言ってたんだ!?」

 私は無性に情けなくなって深く嘆息する。

「なんで、あることないこと言って人を振り回すわけ? 馬鹿にしてる? だったら早く帰してほしいんだけど」

「駄目ですよ。深夜徘徊の調書がまだですし、そもそも帰る気もないでしょう? どこに行く気ですか?」

「帰るよ、ちゃんと……」

 そう答えつつも、どうしても歯切れが悪くなる。

 確かに、帰らないわけにはいかない。所持金はほぼ尽きたし、裸一貫で生きていく勇気もない。

 でも、帰ってもどこにも居場所はない。

 巡査が私の顔を覗き込む。

「それとも、帰れない事情でもあるんですか?」

「そんなことないよ。ちょっと不安なだけで……」

「不安?」

「うーん……。っていうか、虚しいのかな? べつに、それだけだよ」

 卒業したら、私は何者でもなくなる。家業がいやなら、好きな仕事を見つければいいのに、それすら迷っている。一度進めば、もう別の道は絶たれてしまう。選び取りながら生きていくことの難しさに、私は立ちすくんでいる。

 いや、本当は自分でもわかっている。人に決められることに反発するだけで、自分が納得できるだけの答えをどこにも用意できていないのだと。

 私は……なにができるのだろう? 好きなことはたくさんある。ありすぎて困るくらいだ。それなのに――。

 気づけば、巡査は新たなケーキを皿にのせている。

 ごく普通のイチゴショートケーキが、なぜか神々しい光を宿しているように見えた。

「確かに、ぼくも考えたことがありましたよ。自分でケーキ屋をやるって」

 巡査の声が、私を夜の深みからすくい上げた。

「けれど、ぼくにできることはそれじゃないって思ったんです」

「それじゃない……?」

「そう。ぼくは食べることは得意ですけど、作るのはからきしです。刑事訴訟法は暗唱できても、プリンを作ろうとしてホットケーキにしてしまう人間です」

「いや、それはそれで凄いんだけど!」

 顔を上げると、相変わらず微笑を浮かべる巡査がいる。

「うじうじ考えるからわからなくなるんです。あなたはそうやって頭を使うタイプじゃないでしょう?」

 当たっている。だけど失礼な話だ。

「あのね、そんな――」

「やってみればいいじゃないですか。駄目ならそのとき考えればいいんです。世の中、全部とは言いませんけど、何割かのことは多少回り道したって叶えられます。そのために頑張ることさえできれば」

 巡査は、「まぁそれが大変なんですけどね」と呑気に笑ったままつけ足した。

 そして、突如として爆弾発言をした。


「でも、ぼくはあなたが佐東和菓子店を継ぐのもいいとは思いますけどね」


「……げっ!?」

 急に店の名を呼ばれたので、私は今度ばかりはパイプ椅子から転げ落ちた。

「な、なななんでそれを――」

 巡査はケーキのフィルムを愛おしそうに剥がしながら、「誰でもわかりますよ」と話した。

「あなたがさっきまでいたという店は、洋菓子店のルミエール・ステレール。親と喧嘩して駆け込んだってことは、行きつけで安らげる場所だったんでしょう? それに和菓子は周りに溢れていて飽き飽きしているから、反発で洋菓子への屈折した憧れと尊敬があるとか」

「そ、そうかもしれないけど。でも、それだけじゃ――」

「ええ。単なる妄想ですけどね」

 そこで、彼は机の下を指さした。

「あなたのスニーカーにつぶあんの破片がついています。ジャージと髪からは甘い餡子の匂いがするし、肘に少し付着しているきめの細かい白い粉は餅粉ですね? 背中には潰れた赤エンドウがくっついていますから、総合的に考えると、あなたは豆大福を作る店で七転八倒の大乱闘を繰り広げたってことになります」

「えぇーっ!?」

「東多摩市で豆大福といえば、佐東和菓子店です。あの小豆と砂糖とちょっとの塩の黄金比率が完成された餡は中毒性があるとして、マニアや市民の間ではカルト的な人気を誇っていますからね。恐れ多くもそれに対抗して豆大福を作ろうなんて無謀なお菓子屋はもう近隣にはなく、かの店の周りにはぺんぺん草も生えていません」

「そこまで!?」

 私は驚嘆して巡査を見つめた。それにしても、私の格好だけからそんなことまで語るなんて、この人は超能力者なのか?

「おや、当たっちゃいましたか?」

「当てずっぽう!?」

 私は自分の全身を見返した。餡子なのか泥なのかはたまた赤エンドウなのかよくわからない物体がところどころにくっついていて、血痕までしみ込んでいる。こちらのほうがよほどまずい。だけど、確かにこれで和菓子屋の娘とわかるはずもない。

 そんな私を、巡査はなにやらおかしそうに眺めている。

「簡単なことなんですよ。ほら」

「?」

 わけがわからない私を、笑いを噛み殺しながら指さした。

 ますます理解できず、私は再び全身を眺め渡し、それでも足りずに顔を触ってみた。この顔に、餡子に取り憑かれた父親の生き霊でも映っているとでもいうのか。

「ああそうか。これね」

 私はようやく得心して右の上腕を示した。

 父に特別メニューで鍛えられた、製餡用の尺側手根屈筋のことを言っているのだ。

「全然違います。気づいてはいましたけど、あなた、ずいぶんとお馬鹿さんですね」

 笑顔で言われるが、目が笑っていない。

 その視線をたどる。小豆色のジャージの胸元。

 白い糸で堂々と、『佐東杏子』という私の名が縫いつけられていた。

「…………あっ!」

「なんでも坂東武士団がこのあたりを開拓したとかで、佐東とか加東とか、『東』がつく名字って多いですよね。とはいっても、この街はべつに都会じゃありませんから、『佐東』さんがやっているお菓子屋さんなんてそう多くありません。少なくとも、この管轄には一軒しかありません」

 巡査は、絶句する私を前になおも続ける。

「それに、あなたの名にはご両親の愛情と熱意がこもっていますよ。だから戻ってあげてもいいと思うんですが……。砂糖餡子さん」

 にやりと笑み、赤ん坊時代から百億回は聞いたあだ名を口にした。

「……なんかいま、呼んではいけない名前で呼ばれた気がする」

「気のせいですよ。でも、和菓子屋さんは逆に天職かもしれませんよ? 餡子さん」

「やっぱり呼んでる!」

 人の名前で遊ぶなんて、警官の風上にも置けない。いっときでも感激したのが馬鹿らしくなり、私はふてくされて横を向いた。

「だいたいね、おじさんケーキ食べすぎなわけ! せめて市民と話すときはそれやめようよ。なに? ケーキがなければ死んじゃう病気なの? ケーキがなければパンを食べればいいじゃないとでも言うの?」

「ええ、普通はそうですからね」

「そこは流せ!」

 のらりくらりとする相手に、声を荒らげたそのとき――。

 その人は現れたのだった。



 まず、夜の街を走る数少ない車の音が、やけにはっきりと耳に残った。

 次に、街の中特有のかすかな下水の臭いと、熱帯夜の微風。

 背後の引き戸が開いたと気づくのに、少し時間がかかった。

「あれ? ごめんなさい、お客さんがいたのね」

 戸口に立っていたのは、私よりも三、四歳上とおぼしき女性だった。

 残業の帰りなのか、ノーメイクかそれに近い顔は少し疲れた様子だが、清潔感があり意志の強そうな人だ。黒髪を後ろで一つにまとめ、前髪もピンで額の片側に寄せている。白いブラウスと黒いレギンスパンツは質素だが、こちらもきれいな印象を受ける。汚い私の格好とは正反対だ。すっと通った鼻筋と、口の左上にある黒子が、ほんの少しの色気のようなものを醸し出している。

「いえいえ、お客さんだなんてとんでもない。非行少女と茶飲み話をしていただけですよ」

「茶を飲んでいたのはおじさんだけでしょ!?」

「非行ねぇ。そんなふうには見えないけどね」

 彼女はくすくすと笑いながら、デスクに歩み寄る。椅子を勧められたが、長居する気はないようで立ったままだ。気さくな口ぶりから、二人は顔見知りなのだとわかる。

「おまわりさん、この前は失くしもの見つけてくれてありがとね。じつは試作品を作ったんだけど――」

 そう言いながら、そっと腕の中のものを見せる。流星の透かし模様が入った白い紙箱。まさにいま机に広げられている、洋菓子入りの箱とまったく同じものだった。

「やだなぁ。来てたんなら声かけてくれればよかったのに。ずっと工房にこもってたから、全然気づかなかった。これは余計かな――」

「いいんです!!」

 引っ込めかけるその腕を、巡査がもの凄い勢いでつかんだ。まるで犯罪者を逮捕するかのような俊敏さだった。

「せっかくの善意、喜んでいただきますよ!」

「あ……そう?」

「みなさんこうしてお菓子を持ってきてくれるので、ぼくは生きていけるんです。先日も給料日前にお向かいのおばあさんがおまんじゅうを一月分くれて、生きながらえることができました」

「いやいや! そんなにもらえるなんて、弱みでも握ってるの!?」

「ちょっとお茶友になっただけですよ」

 私の突っ込みも、右から左に流れていく。心底幸福そうな顔で箱を開けると、カップ入りのプリンが顔を見せた。

 薄桜色、抹茶色、栗色、みかん色。一つずつ違う色に仕上げられ、つややかに輝いている。生クリームがふかふかの雲の布団のようにちょこんと置かれ、その上に白い天使の砂糖菓子が腰かけていた。この天使像は店のマスコットキャラのようで、さきほども見かけた。小さな星を抱え、一心に祈りを捧げる姿が愛らしい。

 巡査はほっと息を吐き、優雅な所作でピンク色のプリンをひとすくいした。

「おいしいです! このプリンの濃厚な味わいと生クリームの上品な甘味、最高のバランスです! とくに、卵と溶け合う春の香りは芳醇としか言いようがありません。シンプルだからこそ、一つ一つの素材に一切の妥協がなく、非常に高品質ですね。きっと大ヒット間違いなしですよ!」

「そこまで言ってくれるのはおまわりさんだけだよ」

 巡査が鼻息を荒くしてあっという間に平らげるのを見ながら、彼女は微笑んでいた。

「それにしてもこの香りはすばらしいですね。桜の香料かなにかですか?」

「よくわかったね。珍しい桜のリキュールを使っているんだ。まだ試作なんだけど、『四季プリン』っていうシリーズを考えてて。桜、抹茶、栗、柚子で春夏秋冬。どうかな?」

「なるほど。季節ごとに違う味で出すわけですね。素敵だと思いますよ。商品化したらぜひ買わせてください」

「ありがと」

 彼女はいくらか安堵したような息を吐き、私にも「あなたもよかったら食べてね」と声をかけてくれた。内心でガッツポーズしながら私が頷くと、「おまわりさん、あたしがバス停で落としたものを一緒に探してくれたんだよね」と、照れ臭そうに話した。

「見た目はなんの変哲もない、安物のネックレスなんだけど。母親の遺品だからどうしても諦めきれなくて」

「そうだったんですか。それで――」

「見つかったよ。おまわりさんが一生懸命探してくれて、植え込みの中まで入ってくれてさ」

「いやぁ、集中捜索の基本ですから」

 巡査はのほほんとプリンを食べている。

「あの……!」

 そのまま帰ろうとする彼女に、私は声をかけた。とっさに、どうしても伝えたいと思ってしまった。

「よかったですね、そうやって大事にしてもらえて。お母さんもきっと嬉しいでしょうね」

 名も知らぬ若造にそんなことを言われたのに、戸惑うこともなく、彼女は「ありがとう」と笑った。そして再び、真夜中の街へと踏み出していく。

 その背中は、なんだかいろいろなものを負ってとても重そうに、だけど誇らしそうに見えた。

「あのお嬢さんは、ルミエール・ステレールの職人さんなんですよ」

 まだプリンを食べながら、巡査が教える。

「いつも夜中までお菓子作りを頑張っています。でも、忙しいのにすごく生き生きしていますよね。こうしてお菓子もくれますし」

「…………」

 呑気な世間話に、私は応じることができなかった。ケーキを「試作品」と言ったので、想像はついていた。同じお菓子屋に携わっているという境遇に、どうしても自分を重ね合わせてしまう。

 いや、それ以上にあの人は苦労している。まだ若いのにお母さんを亡くして、有名店できっと仕事もきついだろうに、こんなに遅くまで残っている。それなのに、わざわざプリンを持ってきてくれるなんて……。

 一生懸命で、輝いている。きっと真剣に選び取った、誇れる道なのだろう。

 そして、目の前の警官も、一応きちんと仕事をして地域の人に感謝されている。山積みのケーキは、いまみたいにおすそ分けされたもので、その気持ちを重んじて残さず食べているのかもしれない。

 だとすれば、この人は見た目よりもきっと優しい。そしてその優しさが、おまわりさんとして信頼されるのだろう

 それに引きかえ、私はどうだろうか。

「……私は、甘いのかなぁ……」

 独り言を小さく呟いたつもりだったが、狭い交番の中、聞こえないはずがなかった。

「甘いのはお菓子だけで十分ですよ」

 同じく独り言のように、巡査が言う。

「あなた、ガサツだしアホの子だし図々しいですけど、それが強みになる場面もあるかもしれませんよ。世の中は甘くないですから、図々しいくらいがちょうどいいんですかねぇ」

「えー? ひどいなー」

 私は頬を膨らませる。

 すると、巡査はスプーンを置いて、「ところで、あんこさん」と私に向き直った。

「……な、なに?」

 そして彼は大仏のような淡いスマイルのまま、恐ろしい事実を私に突きつけた。

「あなた、本当はさっき深夜徘徊で私の同僚に捕まりそうになって、背負い投げして気絶させたんですよね」

「!!」

「いやぁ、本来は公務執行妨害罪と傷害罪なんですが、彼が記憶を失ったおかげで助かりましたね」

 バレていないと思っていたのに、うかつだった。私は青ざめて震えはじめた。

「な、なんでそれを……?」

「この区域のすべての防犯カメラ映像は、交番奥のモニタールームで見られるんです」

「……す、すみませんでした!」

 観念して両手を前に出した。

「たまたま、いつもの練習の型と姿勢がかぶって。わざとじゃなくて、反射的にというか――」

 人生の終わりにふさわしく、脳裏に走馬灯がくるくる回る。だが、いつまで待っても手錠がかけられる気配はない。

 腕の隙間からそろりとうかがうと、巡査は人の好い笑顔のままで私を見ている。

「ええ、知っています。だって横でケーキを買っていたのはぼくですから」

「騙された! っていうかケーキ自分で買ったんかい! しかも、同僚助けなよ! 私が背負ってここまで運んだんだよ?」

「それが、ケーキで手がふさがっていまして。運んでくれて助かりました」

「そういう問題じゃない!」

「いやぁ、なぜか彼はぼくがケーキを食べることに反対みたいなんですよね。ケーキに親でも殺されたんでしょうか……」

「逆でしょ。食べまくるおじさんのせいでケーキまで憎くなっちゃったんでしょ」

「よくわかりませんが……まぁ、ちょっと思い込みが激しいですけど本当はいい人なんですよ」

 そこで巡査は、「それで、ぼくが言いたいのはですね」と、おもむろに私を指さした。

「彼を運んだのは偉いですけど、あなた結局深夜徘徊で拘束されているし、反省するふりもすぐ忘れるし、残念ながら賢明さが思いっきり欠落していますね」

「う……」

 仏像のような笑みのまま、地獄の鬼の言葉を吐く。

「頭には餡子しか詰まっていないんですか? それとも筋肉かな。まぁ、少しは働かせて人並みにして出直してきてください」

「で、出直すって言われても、どうやって……」

 巡査は、「そうですねぇ」と顎に手を当て考えた。

「じゃあ、ぼくと一緒に世の中の平和を守りましょうよ」

「……は?」

 いきなり、正義のヒーローが仲間を誘うような口ぶりで言われた。

「そのために頑張って警察官になりましょう」

 そんなことを言われても、意味がわからない。

「警察官? な、なんで?」

「あんこさん、身体能力はずば抜けて高いですから、警官に向いてますよ。ただ、ちょっとオツムが残念なだけで」

「それって致命的じゃないの?」

「まぁ、あなたなら大丈夫ですよ。……たぶん」

 巡査はあいまいに言葉を濁した。

「もちろんご実家を継ぐのもいいですよ。でもそこに自信がないのなら、別の目標があったほうが張り合いもあるかと思ったんです」

「……とか言って、私を仲間に引きずり込めばタダで実家のお菓子が食べられるなんて思ってないでしょうね?」

「いやぁなんの話ですかね?」

 急に巡査の目が泳ぎはじめた。

 私はさらに突っ込もうとしたが、そこに、遠くから甲高い下駄の音が近づいてくることに気づいた。

「……ま、まさか――」

 隠れる間もなく、今度は派手に戸が開かれた。

「あんこぉっ!」

「げっ!」

 筋骨隆々の肉体の上に輝くスキンヘッド。ねじり鉢巻きと純白のタンクトップ。

 時代錯誤な雷親父がそこにいた。

「お、お、お父さん! なんで――」

「あ、ぼくがお店に電話しときました」

 巡査が朗らかに手を挙げる。だが、私にはそれに応じる余裕はない。父が戸にかけた手をすかさず私の脳天に振り下ろそうとする。愛情のゲンコツだ。

 だが、私はそれしきの技にかからない。華麗によけて挨拶を返そうとしたが、引っ込めたはずのパイプ椅子に足が絡まり派手に転んだ。

「あんこおぉっ!!」

 私を倒そうとした張本人が色を失い叫んだ。どっちなのだ。

「ご家庭独自の愛情表現はやめてください。ケーキに埃と血が入ります」

「そっちの心配はいいから助けてよ!」

 そこで、父は初めて巡査の存在に気づいたようだった。うちの一族はみな権力にめっぽう弱く、その例外でない父は平身低頭で山吹色のお菓子の箱を差し出す。

 なんてことはない、一個八十円のかぼちゃ饅頭詰め合わせだが、巡査はほくほく顔で受け取った。

「いやぁ、娘さんはいい子にしていましたよ。全国警察柔道選手権大会優勝者の巡査部長を一発で落とすし、警官への突っ込みとタメ口は堂に入っていますし」

「ちょ、ちょっと! なにいらんこと言ってんの!?」

 時すでに遅し。お辞儀したまま父が殺気立った目でこちらを睨みつけていた。



「でも、本当はとても思いやりがありますね」

 そして、散々詫びた父に連れ出されようとしたとき、巡査が待っていたようにつけ加えた。

「あんこさんが輝ける場所は、きっとたくさんあります。それを自分で見極めて、信じて進んでください。お父さんも、あまり心配なさらず。ちょっと粗暴で馬鹿正直な性格が心配で、手元に置いておきたい気持ちもわかりますけど」

「はぁ。本当にこいつは昔から馬鹿で乱暴者で。働き口もそうですけど、嫁の行き先だってないんですわ」

「あのー、二人して馬鹿馬鹿って……」

 げんなりする私を見て、巡査は微笑む。

「大丈夫です。あんこさんは、見た目よりもずっとたくさんのものを大事にしていますから」

「はぁ……?」

「ずっと、武道を頑張ってきたんでしょう? その腕で人を助けることが、きっとあなたにはできます。そして、そのあとに食べるお菓子は格別ですよ」

「……人を、助ける?」

「ええ」

 彼はかぼちゃ饅頭をぱくりと食べて、幸せそうに相好を崩した。

「もう、ここに厄介になるようなことはしちゃいけませんよ」

 そして私に向けて手を振った。

「いつか輝ける場所に立てたら、おいしいケーキを食べましょう。あんこさん」



 街にはまだ昼間の熱気が残っていて、星の光にさえ陽炎が立っている気がする。私はもう抵抗することを諦めて、父と並んで夜道を歩きはじめた。

「……べつに、やりたいことがあるなら、反対ばかりするつもりはないぞ」

 しばらく無言でいた父が、ぼそりと呟くように話した。

「でもな、なんとなく就職や進学をしたって、どうせ短気を起こしてすぐに投げ出すだろ。だったら餡子を炊け。体力がないと務まらんけど、おまえならできる」

 前方をじっと睨みつけたまま、ぶっきらぼうに言う。ドスの利いた声は脅迫じみているが、これでも最大限の父の譲歩だということは、私にはわかる。

「……うん……」

 頷きながら、私は長い夜を思い返していた。家を飛び出し、ケーキ屋で警官を投げ、交番でも変なスイーツ巡査に絡まれて――。

 私にも人を助けることができる――そんなことを言われた。

 あれはどういうつもりだったのだろう。案外なにも考えていないのかもしれない。でも、冗談で言ったようには感じられなかった。それに、私はたくさんのものを大事にしていると――言ってくれた。

 おかしな警官のおかしな行動と、その言葉だけが、夜空を見上げる私の心に深く刻みつけられていた。

 心の中に渦巻いていたやり場のない焦りは、少しだけ形を変えている。

 動かなければと、そう思った。とにかく動かなければ、私はきっと死んでしまう。ただの思いつきの衝動だ。だが、私はそれを疑うだけの知性など持ち合わせていない。

 私は立ち止まる。その様子を察して、父もこちらに振り返る。

「お父さん。私、うちの餡子もお菓子も好きだよ」

 それを聞くと、父はなぜだか傷ついたような顔になった。

 こちらまで引っ張られて感傷的にならないように、私は明るい顔で話す。

「お菓子屋になりたくないわけじゃない。餡子を極めてるお父さんもお母さんも、カッコいいと思うよ。だけど……もっと私なりにできることって、あるような気がして……それで――」

 もう逃げるわけにはいかない。時間もチャンスも、きっと限られている。それに、もう迷っている姿を見せたくなんかなかった。

「それでね、お父さん。私、やりたいことわかった気がするんだ」

 続けて、今度はもっと大きな声で言う。


「私だからできること、やってみたい。私、そのために頑張ってみたい!」


 父は、私の言葉に驚いた様子もない。ただ、ふー……と、長い吐息を漏らした。

 そして、来るべきときが来た。そんな諦めのような苦笑を一瞬だけ見せて、「そうか」と言った。

「じゃあ、それを頑張るしかないな」

 再び歩きはじめた背中は、なんだか一回り小さく見えた。それに胸を痛める自分に気づきながらも、私は目元をちょっとだけこすって、その背に追いつこうと走った。

 道は厳しいかもしれない。叶えられても困難は尽きないだろう。だけど、父はきっと見守ってくれる。怖い顔で餡子を練り上げながら。それだけは確信できた。

「ありがと!」

 そして私は、新しい夢に向けて舵を切った。夏の星々が蜃気楼のように遠く揺らめいていた。


「そういえば――」

 結局調書を取られていないこと、そしてプリンを食べ損ねたことに気づいたのは、家が見えたころだった。



第二章 ウェディングケーキ殺人事件


「あー、緊張するなぁ……」

 下を向きながらぼやいたそのとき、ふんわりと甘い香りが鼻先をかすめた。

 履き慣れないハイヒールばかり気にしていた私は、匂いにつられてふと目線を上げる。官舎の先の道路を両側から覆うように、満開の桜並木が広がっていた。

 東京にも春が来たのだと、ようやく実感する。ここ何日かは、自分の異動や引っ越しのことでてんやわんやで、とても風景にまで心を配る余裕など持てなかった。

 新しい配属先への、初出勤の朝。いつもとは違う心境で見る桜もまた、特別な気がした。『咲き誇る』という言葉は、このなんの変哲もないアスファルトの桜並木にこそ似合うようだった。

 私は深呼吸を一つして、早朝の静かな通勤路に向け大股で歩きはじめた。

 ふと振り向けば、新居である古い官舎が、うららかな空気に負けず淀んだ空気を発している。住民の八割が男というそこは、きっと明治時代くらいからあるに違いなく、棲息する人々と虫たちも、独自の生態系の中で進化を遂げていた。

 だが、そんなことで弱音を吐くわけにはいかない。私は今日、夢を叶えるのだから。

「よーし! やってやる! 世の中の悪をまとめてぶっ潰す!」

 青空に決意を叫んだそのとき、背後で官舎の玄関が閉まる軋んだ音がした。

「おい、あんこ! なに一人で恥ずかしいこと叫んでるんだよ。いまどき少年漫画の主人公もそんなこと言わないぞ」

 生態系の住人、黒井尊先輩だった。化石じみた建物から出てきたとは思えないほど、長い足を包む漆黒のスーツは折り目正しい。

「せ、先輩! ききき聞いてたんですか!」

 私は慌てふためいた。昔からこうだ。この人はいつも、タイミングの悪いときばかり現れる。よほど相性が悪いに違いない。

「っていうか、その呼び名は職場ではやめてって言ったじゃないですか。私の名前は『きょうこ』です。きょ・う・こ!」

 彼とは、私がスポーツ推薦で奇跡的に大学に入れたときからの縁になる。先輩は二学年上だったが、当時から妙な腐れ縁でよく一緒に行動していて、偶然就職先も配属先も同じになった。心強いといえばそうだが、いろいろと面倒くさいこともある。その一つが――。

「どうせすぐに『あんこ』って呼ばれるだろ。おまえの実家、有名だし」

 昔のしがらみを知るうえに、人が嫌がるポイントを的確に突いてくる。口に手を当てて含み笑いまでしているのが絶妙に腹立たしい。

「とにかく駄目です、駄目! 私、今度の職場に人生賭けてるんですから!」

 確かに、どこに行っても私のあだ名は『あんこ』だが、いつも最初から呼ばれるわけではない。むしろ、今回こそはできる女性のイメージを作り、『あんこ』を卒業したかった。人間、第一印象が肝心なのだ。過去を知る人間などいらない。

 着慣れないパンツスーツで大股に歩きながら、私は桜の海の隙間に見える職場――官舎同様に古びた鉄筋コンクリートの武骨な建造物――を力強く指さした。

「凶悪犯を追い詰める刑事が『あんこ』じゃ、サマにならないですからね」

 警視庁東多摩警察署、刑事課捜査一係。

 それが、今日から私が配属される部署だ。



 なぜ私が刑事を目指したか。それには複雑怪奇で深遠な事情がある。

 あのスイーツ警官との出会いは、私に大きな衝撃をもたらした。もちろん、ファンになったとか、警官の鑑だと思ったとかいうことは断じてない。むしろ逆で、仕事中に絶えず洋菓子を貪っているのは、倫理的にも健康的にも問題がありすぎる。

 だが、彼の言葉まで否定する気にはなれなかった。


『その腕で人を助けることが、きっとあなたにはできます』


 警察官になれば、私でも役に立つことがあるだろうかと思った。

 将来の仕事を決められない――家業に縛られたくないと反発する私は、もしかしたら『自分』と向き合うことができていなかったのかもしれない。己を理解し、自分にしかできないことで誰かの役に立てれば、なんだかとても魅力的だと思った。

 それだけのことだったが、意を決した私は『進路未定』から『四年生大学志望』へと無謀な舵取りをした。

 夏休み中に必死で勉強して体裁を取り繕い、どうにか柔道のスポーツ推薦で都内の大学に滑り込んだ。高卒の警察官採用試験には間に合いそうもなかったし、巡査の言うとおり私には賢明さがまるでない。とにかくいろいろなことを学ばなければという一心だった。

 そこで、私は柔道部ともう一つの組織に所属し、青春を送った。

 大学学生会警察部。大学の治安を守りながら警察官を目指す若者の集まりという怪しげなそこの中心に、この黒井先輩が居座っていた。

 成績優秀、スタイル抜群。顔も昔の二枚目俳優風で悪くはない。だが、少々面倒くさい性格と『変な集まり』というレッテルのせいで、いつもギリギリのところで交際相手を得られなかった。……私も人のことは言えないが。

「それにしても、おまえ、よく刑事になれたよな。まぁ、『刑事が夢』って最初から言ってたのは知ってるけどさ」

 警察署の、いまにも崩れ落ちそうな裏門をすり抜けながら、先輩が言う。

「だってさ。確かに柔道で国体常連だったのは凄いけどな、警察と検察の区別もつかないおまえが本当に採用されるなんて、思ってもみなかったぞ」

「昔の話はやめてくださいよ! 私、あれから勉強したんですから」

 誰が聞いているかわからない。私は慌てて先輩の口を塞ごうとしたが、身長差がありすぎて手は虚空を掻く。

「だ、大学で起きた『桃太郎事件』だって解決したの私ですよ? ほかの人たちにはとうてい任せられないと思ったんですから!」

「そりゃみんな感謝はしたけど、おまえ頭なんか使わず、走って追いかけただけじゃないか」

「そりゃ、そうですけど――」

『桃太郎事件』と格好つけて呼んではいるが、内実は人間と自然との攻防だ。

 多摩丘陵を背負う我が母校には、普段から自然のものたちの行き来が絶えなかった。愛すべき小鳥やトカゲや虫たち、珍しいものでは野兎などが見られるのどかな大学だったが、ある日突然一匹の野良犬が現れた。

 闘犬の血が入っているかのごとく凶暴な見た目に、学生たちは我先にと逃げ惑う。

 警察部の一員として駆り出された私は、ふだん男扱いしかされないのに、こんなときだけ「女は動物と仲いいだろ」と諸先輩方に背中を押され、前線へと配備された。結局いつもこうなるのだ。

 犬用ジャーキーと首輪を手に、じつは温和だったお犬様を保護した直後、今度は一羽の鳥が日本猿を追って森から飛び出してきた。農学部から脱獄したその鳥を走って追いかけ、縄で捕まえて返したのも私だった。ちなみに猿はいずこへか逃げ去ったので、正確には桃太郎一味は完成しなかった。

「っていうか、ダチョウだっただろ、あれ。桃太郎じゃないだろ」

「雉なら一味が完成したんですけどねぇ……」

「いやダチョウのほうが強そうだからそっちにしとけよ。っていうか、完成させてどこに行く気だったんだよおまえ」

 しみじみと回想にふける私を、「ああ、こっち」と先輩が小突いた。正面玄関からではなく、裏口からも入れるようだ。確かにこちらのほうがルートとしては短い。

 先輩の背に隠れるようにして、警備員のおじさんに挨拶して入る。あくびを噛み殺しているような顔のおじさんは、読みさしの新聞を手にしていた。警察署とは思えない平和さだった。

「そういやおまえって、どうして刑事を目指そうと思ったんだ?」

 学生時代からの連想で疑問に思ったらしく、先輩が呑気な声で訊いてきた。

「え? いや、それが……」

 正直に答えるべきか……。私は口ごもった。

「最初は警官になるつもりだったんですけど、刑事と区別がついてなくて……」

 忘れもしない、七年前のあの夏の夜。

 私は帰宅して一番に、両親に向け高らかに宣言したのだ。


『私、刑事になる』と。


「……『警官』と『刑事』を混同してたってわけだな。ずっと」

「いやー、なんていうかー……そのー」

「きっと、入庁して交番配属になってもわかってなくて、『刑事になるのが夢だったんですよねー』とか言ってたら、周りに刑事任用試験を勧められたわけだな。まぁ本当になれたのが今世紀最大の奇跡だが」

「よくわかりましたね」

 黒井先輩は頼りがいのある笑顔を見せ、私の肩にしっかりと手を置いた。

「俺は全然驚かないぞ。なんたってあんこだからな」

「……先輩……ありがとうございます!」

「褒めてないぞ」

 先輩について階段を上がり、最上階の四階に到着した。七時半の現在、当直の刑事もどこかにいるはずだったが、ほとんど人影は見えない。しばらく大きな事件がないせいか、署内は本当に平和らしかった。

「ほら、こっちの半フロアが刑事の大部屋。別名『タコ部屋』とか『留置所』な。冷房なし、日当たり最高、風通しゼロ。署内禁煙なのになぜかいつも煙草臭いというミステリーだ」

 淡々とした説明を聞きながらそろりと中をうかがえば、十数人分のデスク上では書類とファイルが崩れ落ちそうで、いかにも刑事の仕事部屋といった印象だった。私はそれだけでずいぶんと感動した。

「カ、カッコいい……! この汚さこそが刑事ですね!!」

「一発目の感想がそれかよ。夏になれば後悔するぞ。書類の山と人間の熱気でヒートアイランドが起きるから」

「えーっ!」

 黒井先輩は、あくびをしながら自分の机とおぼしきスペースに向かっていった。

「じゃ、俺は始業まで適当に休んでるから。人が来たら挨拶しておけよ」

「はーい」

「あと、ここで俺には『先輩』とか間違っても使うなよ。おまえとただならぬ関係だったと知られたら、評価に響くから」

「た、ただならぬ!?」

 私は慄然として、デスクに突っ伏す先輩を見つめた。彼にしてみれば、単なる先輩後輩としての関係も、私との間には認めたくないのか。それほどまでに私が愚かだからなのか?

「……まぁ、こっちも願い下げだけどねぇ……」

「そっくりそのまま返してやるよ」

「げっ、寝てなかったんですか!?」

 机は窓際と廊下側の二つのシマに分かれている。そのうちの窓寄り――おそらく、夏にはもっとも過酷な位置――に座った黒井先輩が、肘をつきながら睨んでくる。

「言い忘れてたけど、おまえは俺の隣、ここな」

「げげっ。私も暑いじゃないですか。しかも、よりによって先輩の隣ですか? ますます暑苦しい……」

「だから、そっくりそのまま返すって言ってるだろ。それに先輩はやめろっての、あんこ!」

「先輩こそあんこはやめてください!」

 そこに、廊下を歩く靴音が聞こえたので、私たちはピタリと言い争いをやめた。あたかも今日初めて会った間柄を装って、そしらぬ顔で席に着く。どんな形相の鬼刑事が入ってくるかと緊張したが、ドアを開けたのはすらりとした美女だった。

「あら、新人さん。早いね? 黒井くんも」

「お、おはようございます!」

 年齢は四十歳くらいだろうか。もっと上かもしれないが、メイクも髪の毛もきれいにきまっているので想像がつかない。私も含めて外見にはあまり手間をかけない女性が多い警察官の中では、珍しい部類かもしれない。顔立ち自体は涼しげな目元の和風美人といった趣で、知性を感じさせる。

「わたしは係長の茂中美茶子」

 白い歯を見せながら彼女は名乗った。ということは、私の直属の上司にあたる。私は一気に背筋を伸ばした。

「ここで女性はわたしだけだったから嬉しいな。捜査でも女性しか入れないところってあるし。頼りにしてるね」

 言いながら、ウェーブがかったロングの茶髪を後ろで結い、微笑んだ。そんな動きさえもサマになっている。

「あっ、あの、申し遅れました。私――」

「あ、噂で聞いてるよ。餡子がおいしいって有名な、佐東和菓子店の娘さんなんだよね?」

「!!」

 笑顔で言われ、私は今回の場所でも『あんこ』から逃れられないことを悟った。隣で先輩が笑いをこらえているのが癪にさわる。

「……えーと……係長――」

「ああ。わたしのことはみんな『茂中』って呼ぶから、そうしてよ」

 手際よく仕事の準備をしながら、係長――茂中さんは気安く言った。

「女同士、わからないことがあればなんでも訊いてね。しばらくはこの黒井くんが教育係も兼ねてコンビを組むことになるけど」

「えっ!? 初耳なんですけど……」

 黒井先輩が一転して情けない顔でうめいた。だが茂中さんは、「課長の命令だから」となに食わぬ顔で、有無を言わさず流す。「課長」というのは、きっと刑事課長のことだ。いくつもの係と刑事たちを束ね、絶対的権力を握っているはず。文句を言ったところで逆らえるわけがない。

「じゃあ、そろそろ課長が来ているはずだし、顔見せに行きましょうか」

「え? あそこのデスクじゃないんですか?」

 私は、奥まったところにぽつんとある、一番片づけられている机を目で示した。いかにも上役の席という配置だし、なにより『刑事課長』のプレートが置いてある。

 だが、茂中さんは困ったように首を振ると、「あそこは暑いし、冷蔵庫がないでしょ? 生ものには大敵だって言って、ほとんど課長は座らないの」と意味のわからないことを言った。

「冷蔵庫? 生もの?」

 なぜそんなものが出てくる? まさか、いくら強行犯担当だからといって、遺体を刑事部屋に運ぶなんて恐ろしいことをするはずがない。だとすれば……食べ物?

 心の奥底を、ふっといやな予感の風が撫でていった。しかし、それも一瞬のこと。私はその課長がいるという場所へ案内してくれる茂中さんのあとに続き、大部屋を出た。茂中さんに促されて、不満顔の黒井先輩もついてくる。

「課長、いつもは資料室で朝の一服してるよね」

 階段を下りながら、茂中さんが独り言のようにこぼす。

「一服? それって大丈夫なんですか?」

 資料室とは、紙がたくさんあるのではないだろうか。そこで煙草を吸ったら危ないのではないかとさすがの私でも思った。それ以前に、さきほど黒井先輩が「署内禁煙」と言っていた。

 茂中さんは私の問いに、「うーん……」と苦笑いで応じる。

「あの煙でむせるから正直やめてほしいんだけどねぇ。とくに、ダイエット中のときは殺意が湧くわ」

「ダイエット?」

 ダイエットと煙草と、なんの関係があるのだろうか? 断食中の繊細な体に煙がこたえるとか? ただ、初対面でとても尋ねる勇気が出ない。私が知らないだけで、ダイエットと煙草の相関は社会常識の可能性が高い。

「でも、あれがないと課長、仕事ができないのよねぇ。一日何箱買ってきてるのか知らないけど」

 ヘビースモーカー? 煙草依存症? 私は混乱しながらも、昔のドラマに出てくる眼光鋭いハードボイルド刑事を想像した。それなら煙草をスパスパ吸っていても絵になる。いいか悪いかは別として。

「……課長って、どんな人なんですか?」

 怪しむ気持ちが表に出てしまったようだ。茂中さんは階段を下りたところで私に振り返り、「うーん……。見てると胸やけしてくるかも」と、困ったように首をかしげた。

「む、胸やけ?」

 凄い言われようだが、それはどんな人間だ。もの凄く脂ぎっているのだろうか。少なくともハードボイルドとは縁遠そうだが、茂中さんは詳しく説明するつもりはないようだった。「悪い人じゃないし、人間まで取って食ったりはしないよ」と、悪戯っぽく微笑んだ。

 ……人間までって、なんのことだ?