バルとは、スペイン風のカフェ兼居酒屋のようなもの。

 うちは移動式のバルです。

 さわやかに風を切るキッチンカーで、都内のあちこちに出店します。

 例えば昼に大手町でお弁当を売っていたかと思えば、夕方は三ノ輪橋で仕事帰りの会社員にビールを飲ませ、深夜には六本木で外国人にワインを提供していたりする。

 ちょっと珍しい営業スタイルでしょう?

 でも、料理もお酒も素敵なものを取りそろえていて、日替わりで変わるメニューもあるんですよ。

 見かけた際は、ぜひお立ちよりください。



 完熟トマトの冷製スープ



 スマートフォンのアラームと振動が、昼の営業時間の終わりを告げた。

 貝原圭がキッチンカーの外に出ると、一陣の風が心地よく頬をなでる。

 胸のすくような秋晴れの午後。まわりでは、ほかの移動販売の店主たちが仕事を終えて、すでに撤収の仕度をはじめていた。

 ここは港区芝公園にあるオフィスビルの前。顔をあげると建物の背後に東京タワーの先端と、澄み切った水色の空が見える。

 だが貝原のパートナーの姿は、どこにも見当たらない。

「あいつ、どこをうろついてるんだ……?」

 散歩に行くといって出ていったきり、いつになっても帰ってこないのだった。個人用の電話を持たない男だから連絡もできない。

 やわらかな髪を手櫛ですいて嘆息すると、貝原はまわりの立て看板を折りたたんで車内へ運びはじめた。

 あいつのことだから十中八九、さぼっているだけだろう。帰り支度ができた時点で戻ってくるはず、などと頭の片隅で考えながら。

 貝原は端整な顔立ちに、どこか人懐こい雰囲気をにじませた細身の男。今日はシンプルな長袖シャツの上から店のエプロンをつけている。

 荷物の積みこみ先のキッチンカーは、もともとは中古で買ったフランス製のバンを改装したもので、店名を『ウツツノバル』という。

 バルとはスペイン風のカフェ兼居酒屋のようなものだが、この店は特定の国に固執しているわけではないので、何食わぬ顔で時折ピッツァやパスタも出せば、ときにはガパオライスを出したりもする。手軽でおいしいものなら手広くあつかい、自由気ままに都内各所へ出向くスタイルだ。

 実際には、いうほど気ままではないが、ルーチンワークにならないようには気をつけている。なぜならそれが、こんな店をやりたいと夢見ていた人の望みだから――。

「それじゃ貝原さん、お先に失礼します」

 ふいに隣のキッチンカーの店主に声をかけられて、貝原は我に返った。とっさに営業用の笑顔をつくろって挨拶する。

「お疲れさまです」

「うん。貝原さんも」

 同業者は軽く手をあげると車を敷地の外へと走らせる。

 それを引き金に、ならんでいたキッチンカーは一台、また一台と出発して、やがてビルの前に残っているのは貝原の車だけになった。

 お仲間は去ったが、相棒は戻ってこないな、と貝原はつぶやく。相変わらず職業人の自覚に欠けているというか、自由奔放といえばいいのか。

 移動販売とはいっても、許可がない場所での営業は基本的に道路交通法で禁止されているため、じつは出店すること自体がわりと難しい。

 私有地の管理者と個人で交渉し、契約までこぎつけるのには時間がかかるので、今日の出店場所は、加入しているイベント運営会社に斡旋してもらったものだった。

 近所にランチスポットが少ないオフィスビル群の前に、和食、洋食、スイーツなど、内容のかぶらないキッチンカーが数台まとめて出店するという形である。

 時間は十一時半から十三時半まで。終了時刻になったら、なるべく早く撤収する取り決めだ。あまり悠長にはしていられない。

 車に荷物を積み終えた貝原はそそくさと運転席へと向かうが、くさっても業務上のパートナーを置き去りにするのは、やっぱり気が引けた。

「……仕方ないな」

 きびすを返し、貝原は東京タワー方面へあてもなく歩きはじめる。

 探していた相手、阿南礼二の姿はすぐにみつかった。私立高校の近くの角を曲がった先で、見知らぬ男と談笑していた。知り合いだろうか?

 貝原が近づいていくと、いち早く気づいた阿南がふり向く。

「やあ貝原、どうしたの?」

 サングラスを指でさげて阿南は目くばせした。「さぼり? 暇なんだ?」

「おまえにいわれたくない。呼びに来てやったのに、いうにこと欠いてそれか」

「いいね。俺にだけは妙に恩着せがましい貝原のそういうところ、嫌いじゃないよ」

「うるさい」

「あと、いつも敬語で良識派ぶってるのに、俺にだけはタメ口で罵倒。これもいいね」

「そうでもない。いいねいいねって、おまえはフェイスブックか」

 貝原が冷たい視線を注いでも、どこ吹く風という顔で阿南はにやけている。昔からこういうやつだから、ある意味、割り切ってつきあうしかない。

 阿南は貝原の幼なじみだ。もともとは小学校の同級生。そのせいか、ふだんは丁寧な貝原の口ぶりも、彼に対してだけは昔と同じ遠慮のないものになってしまう。

 事情があって長年ふたりは会っていなかったが、数ヶ月前、阿南は唐突に貝原の店に来た。なんでも、帰るところと行く場所をすべて失ってしまったらしい。

 さすがに無視はできず、店の仕事を手伝うという条件つきで、貝原は寝泊まりする場所を提供。最初はずいぶん揉めたものの、いまでは業務上のパートナーとして、やっぱりそれなりに揉めながらも、どうにかいっしょにやっている。

 いろんな意味で正反対のふたりだから、さもありなん。外見も対象的だ。

 人当たりがよく、さっぱりした印象の貝原と対照的に、阿南はいかにも自由人という雰囲気。背が高く、今日はサングラスをかけて派手な柄の長袖シャツを着ている。

 陽気で無防備で、人を惹きつける魅力があり、しかしそれでいて謎めき、つかみどころがない。ひと言でいえば、阿南礼二は「不思議な大人」というところか。

 その不思議さの奥にあるものを解明し、問題があるなら助けになることが貝原のひそかな望みだ。当の阿南がそれを望むかどうかは皆目見当もつかないが。

 と、そんなことを貝原が考えていたとき、「すみません、少々よろしいですか?」と男が話しかけてきた。

 先ほどまで阿南と談笑していた男だ。貝原にとっては初対面。顔だけ見ると二十代だが、微妙に若白髪が目立つ。

「バルのお店のかたですよね。少々うかがいたいことがあるのですが」

「なんでしょう?」

 すると若白髪の男は懐から写真を一枚取り出して、貝原に差し出した。

「あなたのお店に、このかたがお見えになったことはありますか?」

 とまどいまじりに貝原が写真を見ると、四十代とおぼしき女性が写っている。

 右目の下に泣きぼくろがあり、目立つ特徴といえばそれくらいだろうか。どこにでもいそうな、いい意味でふつうの女性の顔のアップだ。客として来店したことがあるのかもしれないが、とくに印象には残っていない。

「この人がなにか?」

 貝原が尋ねると、若白髪の男は「探しています」と、いわずもがなのことをいう。

 貝原は目の前の男をすばやく観察した。

 まぶしそうに両目を細めた、人の好さそうな笑顔の男。身につけているのは上品なネイビースーツ。ネクタイもして一見まともそうだが、どこかに違和感があった。

 私服警官? 刑事だろうか? いや、そもそも警察関係者なら先にそれを表明したほうが仕事が早く済むはず。

「失礼ですが、あなたは?」

 貝原の問いに、若白髪の男は妙に上品なため息をついてみせる。

「あなたと同じく、毎日ひたいに汗して働き、しかし報酬の大部分を問答無用で国に持っていかれている、人のいい納税者です。とはいうものの、働かなければ生きていけません。難儀なものです」

 そんなふうに話の矛先をそらし、男は貝原の質問にこたえない。

 隣の阿南がふいにいった。「あのさ、貝原」

「わかってる」

 写真の女性がだれなのか、時間をかければ思い出せるのかもしれないが、仮にそうだとしても怪しい者に率先して情報を教えるほど親切ではない。

 貝原が口をつぐんでいると、意図を察したのか男はぼそりとこぼした。

「ご理解いただけなくて残念です。でも、今日のところはこれでもいいでしょう」

 そして軽く一礼すると、「次の予定がありますので失礼します。ごきげんよう!」と挨拶して歩き出し、あっという間に若白髪の男は貝原と阿南の前から立ち去った。


「なあ。いまのってだれだ?」

「知らない」

 そういって肩をすくめる阿南に、貝原は少しむっとする。「知らないわけあるか。俺が来るまで仲よく談笑してただろ」

「なにそれ。嫉妬?」

 しゃあしゃあと人を食ったことをいわれ、「嫉妬の意味がわかってるのか?」と貝原は一蹴する。阿南は小憎らしいあひるのような口をしてこたえた。

「べつに、初対面でたまたま話が合っただけだよ。営業中、物陰から俺たちを見てる人がいたから、なにをやってるのかと思って、こっそり近づいてみたんだ」

 そんなことが、と貝原は思う。散歩というのはそういう意味だったのか。

 さぼりだろうと決めつけていたことに内心淡い罪悪感をおぼえていると、阿南は片手をひらひらさせて南国的な陽気さのようなものを演出した。

「せっかくだから驚かせてやろうとしたんだけど、うしろに忍びよった時点で気づかれちゃって。そしたらさっきの貝原と同じように、この人を知ってますかって写真を見せられた。あれはたぶん、ストーカーだな」

「じゃあおまえ、ストーカーと談笑してたのか?」

「そうらしい」

「らしいってなんだ。というか、どういう神経してる?」

「いやあ、だって興味あるじゃない。人をつけまわすのって楽しいのかな? そこまで好きになるのって、どういう精神状態なんだろうって。ふつうの神経の持ち主なら気になるでしょ。だからその質問を直接ぶつけてみた」

「なに……?」

 眉をひそめる貝原に、くすくすと愛嬌のある含み笑いをしながら阿南は語る。

「そしたらあの人、突然ぷっと吹きだしてさ。それから腹を抱えて大笑い。俺もなんだかおかしくなっちゃって、それをきっかけに会話がはずんだわけ。ストーキングとは関係ない世間話だけどね。政治の話とか国際情勢についてとか」

「……あきれたやつだな」

 正確には、あきれたやつら。その話題のどこに笑う要素があったのか知らないが、どっちもどっちだと貝原は指で眉間をもみほぐす。

 しかし、今回はたまたま相手も酔狂な性格だったようだからいいものの、逆に怒り出す可能性だってあっただろう。その場合はどうするつもりだったのか? おまえは危機意識がなさすぎる、と説教しかけて貝原は思い直す。

 まあ、べつにストーカーと決まったわけではない。怪しいことは怪しいが、いまのところ、ただ人探しをしているというだけ。口ではああいったものの、きっと阿南はあっけらかんとしたふうを装い、相手に探りでも入れていたのだろう。

「なんにしても」

 したり顔で阿南がまとめに入る。「大義名分のもとにさぼれて、よかったよ」

「結局それか! いいから、もう帰るぞ」

 貝原と阿南はキッチンカーまで戻ると、運転席と助手席に乗りこんだ。ややあって風のように車が走り出し、首都高方面に向かう。


     *


 社会人にとって、あるいはそうでない者にとって、「夢」とはなんだろう?

 総合電機メーカー、山之内電機で働いていた貝原圭が会社をやめたのは、二年前。学生時代からつきあっていた恋人、桜木うつつが亡くなったのが発端だった。

 生前の彼女の夢だったキッチンカーのバルを実現するために脱サラしたのである。

 その後ゼロから移動販売のノウハウを学び、試行錯誤を重ね、やがて貝原はウツツノバルという亡き恋人の名を冠した店をはじめた。

 おいしい料理と酒をつんで風のように走る、しゃれた移動式バル。そこで恋人と夢を共有したような快い心境を味わいつつ、しかし裏ではひそかに彼女のあとを追いたいとも考えていた。

 いうなれば、それは貝原の表向きの夢と、裏の夢。

 何事もなければ、裏の夢もいつか叶えて、すべてに終止符を打つはずだった。

 だが数ヶ月前のこと。長年会っていなかった阿南礼二が突然あらわれたのを契機に意識が変わりはじめた。

 昔から変人ではあったが、輪をかけてつかみどころのない男に成長した幼なじみと同じ時間をすごすうちに、なぜか世界がふたたび魅力的に感じられるようになったのだ。それにつれて貝原の裏の夢は色あせ、現在はきれいに消えてなくなった。

 残ったのは表向きの夢だけ。

 うつつの名を冠したこの店を、よりよいものにしたい。そんな健全な望みだ。

 客との一期一会を念頭に、ささやかなうるおいの時間を味わってもらえる場所にしよう。天国のうつつが心から満足するような素敵な店をつくりたい。

 それがいまの貝原の目標であり、理想には少しずつ近づいているはずだった。

 そしてふと脳裏に問いが浮かぶ。――おまえはどうなんだ?

 首都高速を走る車のハンドルをにぎった貝原は、助手席の阿南をちらりと見た。鼻歌まじりに窓の外を眺めている彼の心中は、うかがいしれない。

 貝原はちいさく息を吐く。

 いまの貝原の人生の目的は、このウツツノバルという店そのものだ。

 では阿南にとってそれに相当するものはなんだろう。生きていく上で自らに課した目標、夢、望みなどが彼にはあるのだろうか? あるとしたら、それはなにか?

 くわしい事情は語らないが、初夏のある晩、阿南はふらりと身ひとつでやってきて現在も貝原のもとに居候している。

 人には自暴自棄にならざるを得ないときもあるから、そのこと自体を非難する気はない。どんなことだって人生には起こり得るのだと貝原は身に沁みて理解している。

 でも、だとすれば、だれかが阿南に手をさしのべるべきではないのか。

 いつまでも、いまの状態でいいわけがないと思う。阿南は最終的に、なにをどうしたいのだろう? 人生を地図に喩えれば目指す地点はどこなのか?

 それを推察するには、この男の正確な過去を知る必要がある。

 とはいえ、単刀直入に訊いても、はぐらかされるだけだから、なるべく周辺の話題から切りこんでいこう。

「考えてみれば、おまえとも長いつきあいだよな」

 いかにも何気なさそうな貝原の言葉に、うわの空の態度で阿南は応じる。

「そうだね。長すぎる春だ」

「いまは秋だ。って、こんなやりとりも、もう何度目になるか。たまにはそうやって過去を懐かしむのも一興だろ? おまえ、ここに来る前は――」

 貝原が本題を切り出そうとしたとき、ふいに阿南が「あっ」と声をあげる。

「どうした?」

「あーっ……」

 阿南はひたいに手を当てて数秒じっとしていたが、やがて首を左右にふった。

「だめだ。近くまで来てたんだけど、あと一歩のところで取り逃がした。あとはもう遠ざかっていくだけ。はい切断。おかけになった番号は電波の届かない場所にあるため、かかりません」

「おまえ、頭だいじょうぶか? そもそもなんの話をしてる?」

「もちろん、さっきの人のことだよ。特定しようと頭をひねってたんだけど」

「ああ……。あの写真の女の人のことか」

「ほかにだれがいる?」

「たしかに」

「見たこと自体はあると思うんだ。でも、それがあの人かどうかはよくわからない」

 貝原は思わず無言でまばたきした。

 こちらも、いま阿南が口にした言葉の意味がよくわからない。

「なんだよそれ?」貝原は尋ねる。

「さてね……。どうなんだろうな」

 とぼけた返事をよこすと、ふたたび阿南は、けだるげに己の内側に埋没してしまう。

 おいおい、と思わず貝原はぼやくが、いつも気楽に見える阿南もいったん考えはじめると案外こだわるところがある。それだけあの写真の件が気になっているらしい。

 嘆息してアクセルを踏むと、貝原も写真の女性の顔を思い出そうとした。

 だが数秒後、不覚にもすでに忘れかけていることに気づく。それくらい特徴のない顔だった。特徴がないということは顔の造形のバランスがとれていて美人だという意味でもあるのだが。

 見たことはあるのに、あの人かどうかはわからない――。

 どういうことだろう? 運転しながら、その言葉が妙に胸にひっかかった。



     *


「へくし!」

 ランチ営業中のキッチンカーの厨房で阿南がくしゃみをした。

「どこかでだれかが、おまえの噂をしている」

 貝原がそういうと、「それはない。たぶんスパイスが鼻に入っただけ」と阿南はいかにも適当な言葉を返す。

 鉄鍋のなかのパエリアを木ベラで丁寧にならしながら、貝原はかぶりをふった。

「それもないな。でも、外の空気を吸いたきゃ行ってきてもいいぞ。いまなら俺ひとりでも余裕あるし」

 ここは昨日と同様、東京タワーの近くにある港区芝公園のオフィスビルの前。時刻はすでに十三時をまわり、もうほとんど来客はない。

 契約上は十三時半までだが、このあたりは昼休みが十三時までのオフィスが多いらしく、それをすぎると客が目に見えて減る。

「貝原がひとりでお留守番できるなら、行ってこようかな」

 長身を折り曲げて、阿南はいそいそとキッチンカーを出た。

「早めに戻れ。昨日みたいに探しまわるのはごめんだ」

 そういって貝原が送り出した直後、なぜか阿南が駆け足で車に戻ってくる。

「いや、べつにそこまで早く戻らなくても……」

「ちがうちがう。あの人を見て!」

 阿南が示した方向を見ると、派手な女性が近づいてくるところだった。

 黄色と黒のチュニック姿で濃いメイクをしたその四十代の女性は、最近よく来るようになったお得意さま。見た目がとても派手だから、いやでも印象に残る。

「だからどうした。いつもの人だろ?」

 貝原の言葉に、いたずらっぽく阿南はささやく。

「肝心なところを見てないね。目の下に注目」

 思わずはっとしたのは、ほくろをみつけたからだ。

 想像すると脳裏で肖像が重なり合う。服やメイクがちがうから気づかなかった。

 昨日、若白髪の男に女性の写真を見せられた際、右目の下に泣きぼくろがあり、目立つ特徴はそれくらいだと考えたことを貝原は思い出す。きっとあの写真は、すっぴんのときに撮ったものだったのだろう。よく見たら顔の造作はそっくりだ。

 つまり、いまキッチンカーに近づいてくる派手な女性が写真の人。

 気づいてしまった以上、看過できずに貝原から声をかけた。

「すみません。ぶしつけですが、お時間少々よろしいでしょうか?」

「わたし? いいですけど……」


 貝原と阿南は車の外に出ると、派手な女性に自己紹介した。

「私は店主の貝原圭。こちらは従業員の阿南です。じつは昨日、気になることがありまして。といっても、人違いかもしれないのですが」

 言葉を慎重に選びながら昨日のことを説明すると、派手な女性は「それ、わたしです」といい、ふだんはこんなに派手な格好じゃないですから、とつけ加える。

「そうなのですか?」

「ええ、いつもは影が薄いといわれるくらいで……。地味なのが、むしろ特徴? だから十中八九、その写真に写っているのはわたしです」

 見た目と裏腹に派手な女性はおとなしく、その態度は弱気と表現してもいいくらいだった。黒と黄色で全身をいろどり、ある意味、阪神タイガースの応援をしていそうな格好だから微妙にとまどわされる。

 園村佐知、と彼女は名乗ると、手のひらを頬に当てて不安そうにいった。


「でも、わたしを探してたっていうその人……だれなんだろう?」

 阿南が横からしゃしゃり出る。「またまた。あなたの彼氏なんでしょ?」

「わたし、既婚です……」

「じゃ、若いツバメになりたい人だ」

 園村は口もとを押さえて苦笑した。「まさか」

 話し上手といえば聞こえはいいが、手慣れたふうになれなれしく距離をつめる阿南を死角から肘でぐりぐりつき、「おまえなあ」と貝原は警告する。

「いいから少しだまってろ。園村さんも、ご心配なさらず。もちろん用心に越したことはありませんが、いちおう外見はまともそうでしたから」

「そうだね。成金っぽいスーツを着ていたし、俺に比べたら、ぜんぜん怪しくない」

「おまえと比較しても、怪しくない証明にはぜんぜんならないんだよ!」

 仏頂面でそういう貝原と、「なんで?」と、けろりと返す阿南が対照的でおかしかったのか、園村はぷっと笑う。それをきっかけに打ち解けた空気がひろがった。

 せっかくだからと、貝原は園村に飲みものをごちそうしたい旨を告げる。昼の営業も終わる時間だし、多少なら問題ないだろう。園村は快く誘いに応じてくれた。

 園村と阿南はキッチンカーのカウンターで、貝原は車内でコーヒーを飲む。

 香ばしいアロマでリラックスしたのか、やがて園村は「あ!」と短く声をあげた。

「もしかしたら、同じ教室の生徒かもしれない。わたしを探してたっていう人……」

 貝原は眉をあげる。「学校に通ってらっしゃるんですか?」

「ええ、近くのフラメンコ教室です。通いはじめたのは最近なんですけどね。うん、たぶんそうだ。わたしは受講してないけど、男性用のクラスもありますから」

「フラメンコ……ですか」

 意外な言葉に出会ったことで貝原の脳裏をイメージが駆け抜ける。

 火のような赤いドレスをまとい、華麗に踊る女性ダンサー。そこに猛牛が突進してくるが、ダンサーは赤い布をひるがえして、ひらりと牛をいなす。

 いやいや、それは闘牛だろ、と貝原は思わず頬を指先でかいた。

「素敵なご趣味だと思います。ではそれはフラメンコのための衣装だったんですね」

「はい? この服……?」

 一瞬ぽかんと目をまるくすると、園村は胸の前で小刻みに手をふる。

「や、ちがいますよ! レッスンのときは専用のウェアに着がえます。ファルダっていう長いスカートなんですけど、衣装も踊りを構成する大事な要素ですから」

「失礼いたしました! そちらは私服だったのですね!」

 貝原があわてて謝罪すると、園村がどこか気まずそうに言葉をつぐ。

「ん……。まあその、なんていったらいいんでしょうね。これは一種のスイッチの切り替えのためといいますか。自分の気分を盛りあげるための記号的な服?」

 伏し目がちに、少し逡巡しながら園村はつづける。

「わたし、専業主婦なので……。いえ、このご時世、すごく恵まれたことなのはわかってるんですけど、やっぱりふだん家にこもってると、動くのに弾みがいるんです」

 そういうものかもしれないな、と貝原は無言で考えた。

 園村はつづける。

「フラメンコの教室がある日は特別。そういう感覚ですね。母親から個人に戻る日っていうのかな。レッスンの間だけじゃなく、家を出るときから、その気分を味わっていたいというか……って、すみません。そんなこといわれても意味不明ですよね」

「いえ、わかりますよ。大人になっても細かな感情がなくなるわけではありませんし、自分のやりかたで楽しむのが一番よろしいのではないかと」

 貝原が人懐こく微笑むと、園村も「ありがとうございます」と相好をくずした。

「ふうん。フラメンコか」

 園村の隣でコーヒーをすすりながら、阿南がくるっと黒目をまわしてみせた。

「なかなかいい趣味だ。でもあれって、けっこう激しい踊りじゃない? あなたみたいにおとなしい人が踊れるものなの?」

 決して揶揄する口調ではなかった。それは貝原にもわかったが、園村は濃く描かれた眉をぴくっと不穏に動かし、消え入りそうな声を出す。

「……見てみますか?」

 え、と阿南の口が横に開いた。「見せてくれるの?」

「だって、そうしないと信用してくれないんでしょうから……」

「いやちょっと、誤解しないで! 俺はただ」

 しかし、ふれてはいけないものにふれてしまったのか、園村の態度はかたくな。ふだんはひかえめでも、フラメンコに関しては、ゆずれないものがあるらしい。

 手をかかげて阿南の弁解をさえぎると、やおら園村はスツールから立ちあがった。歩道の広い部分まで歩き、妙にキレのある動きで貝原たちをふり返る。

「踊ります!」

 宣言した次の瞬間、濃いアイメイクをほどこした園村の目が、かっと見開かれた。

 右手を白鳥の首のようにあげて独特のポーズをとり、彼女は足を踏み鳴らす。履いているのがスニーカーだから鈍い音しか鳴らないが、素人ではなかった。

 両手をぱんと打ち鳴らし、彼女は低いうなり声をあげる。

「……デンデデッ、デンデデッ……」

 口ずさんでいるのは、きっと本来はギターが奏でる部分なのだろう。情熱的に自分で伴奏を歌いながら、黄色いチュニックの裾をつかんで園村は舞いはじめる。

「デデンデン、デンデデッデデ……ウォー」

 小柄な園村だが、動きの切れ味は力強く鋭い。独楽のように回転し、かかとで地面を小気味よく打ち鳴らして、小型台風のような迫力がある。

「すごいねー」

 キッチンカーのカウンターで放心気味につぶやく阿南に、「ああ、すごい」と貝原も返す。すごいとしかいえない。月並みな表現だが、ほかの言葉に換言できない熱さがあった。憑かれたように踊る園村に、貝原と阿南はぼんやりと見入る。

 だが一分ほど経ったあたりからだろうか。めまぐるしく回転していた園村の動きが次第に鈍くなっていった。

 あれっと思ったときには限界を迎えていたらしい。一瞬ふらっとすると、たがが外れたように脱力し、「わっ?」と彼女はその場に尻餅をつく。

 貝原と阿南は、あわてて彼女のもとへ駆けよった。


     *


「ごめんなさい。つい熱くなっちゃって……」

 コップの水をそっと飲み、園村は恥ずかしそうにいった。

 幸い、疲れて転んだだけだったらしく怪我はなかった。貝原と阿南は、ほっとして園村をキッチンカーまで運ぶと、カウンターで休ませていたのだった。

「でもあのダンス、よかったよ。疑うようなこといって失礼だったね」

 阿南の謝罪に「あ、いえ……」とはにかむと、園村はひとつ間をはさんでいった。

「でも完全にペース配分をまちがえました。体力、衰えたって痛感したな。まあ実際四十すぎてるわけですけど」

 気落ちしたようにつぶやく園村に、阿南が華やかに微笑みかける。

「だいじょうぶ。まだ平均寿命の半分も生きてない。噂じゃ今後、百歳まで伸びるらしいから、人生これからが山場だよ。ついでにファッションセンスも最高だ」

「おまえはいつも、ひと言多いんだよっ。それはそうと園村さんは昔からダンスをされていたのですか?」

 阿南の言葉をさえぎって貝原が尋ねると、「はい、学生時代に」と彼女はいった。

 やはり素人ではなかったらしい。フラメンコ教室に通いはじめたのは最近でも、キャリアそのものは長かったようだ。

「ピークは大学生のころかなあ。自分でいうのもなんですけど、当時はちょっとしたものだったんです。一日じゅう踊ってても平気だったくらいで」

 どこか感傷的に、「あのころが懐かしい」と彼女はぽつりといった。

「短大を卒業後すぐに結婚して、二十年近く専業主婦をやってきました。結婚生活は平穏で、一人娘はもう高校生。たぶん、しあわせな人生なんでしょう」

 だけど、と園村はちいさな声を出す。

「人生ってそれだけなのかなって、このごろふと考えてしまうんです。わたし、結婚後は、自分の時間をぜんぶ家庭のことに注いできました。夫がそれを望んだこともあるし、自分も納得の上でそうしたんですけど……」

 娘が高校生になって手がかからなくなり、最近ふと自身を省みる余裕が生まれた。それで、昔とった杵柄のフラメンコ教室に通いはじめたのだが、はたと気づかされたことがあると園村はいう。

「いまの自分は、ある意味、抜け殻みたいなものじゃないか? そう感じてしまったんです。家庭のこと、夫のこと、子供のこと……やるべきことは全力でやってきましたが、結婚して二十年。いまは夫とじっくり話すこともなくなったし、娘はすっかり母親離れ。いちどきりの人生で、わたし自身にはなにが残ったんでしょう?」

 貝原が言葉に迷っていると、園村は「若いころの特技だったフラメンコも、このありさまですしね」と自嘲気味につぶやく。

 貝原にも、その漠然とした焦燥感はなんとなく理解できる気がした。

 きっとだれにでもあることだろう。手に入れたと思っていたものが、いつのまにか指の間から徐々にこぼれ落ちていたことに気づき、ふいに心細くなる。

 来た道をふり返り、それがほんとうに正しい選択だったのか、自らに問いかけたくなる時期が人には何度か訪れるものだ。訪れなければ幸運ではあるが、深みを欠く。

 ふいに園村が話題を変えた。

「ところで貝原さん。このバルは、スペイン料理のお店なんですよね?」

 唐突な言葉に面食らいながらも貝原は首肯する。「そうですね。東京にはいろんなタイプのバルがありますが、うちは移動式のスペインバルです」

「看板に書かれているメニューのほかにも、お料理はあったりするんですか?」

「ございますよ。昼はお弁当がメインなので種類をしぼっていますが、夜はお酒をあつかいますから、またがらりとメニューが変わるんです」

「そうなんですか」

「なにか召しあがりたいものでも?」

 貝原は前髪をやわらかく横に流す。「要望がおありでしたら、ご遠慮なく。入魂のダンスを見せてくれたお礼に、融通をきかせますよ」

「うれしい! じゃあ、ガスパチョはありますか?」

 貝原はくちびるをゆるめた。「トマトの冷製スープですね」

 ガスパチョはトマトを主体に、きゅうりやパプリカなど多彩な具材を刻んで入れた冷たい野菜スープだ。

 スペイン発祥のこのスープは、冷たくさっぱりしていて、暑い日でも飲みやすい。野菜豊富で栄養価も高いことから、夏のアンダルシア地方のような気温の高い場所でとくに人気がある。

「もちろんご用意できますよ。次回ここで営業する日にお持ちしましょうか?」

 貝原が人懐こく申し出ると「あの、それがですね」と園村は口ごもる。

「ただのガスパチョじゃないんです。食べたいのは泡立つガスパチョ」