第一章 ワケあり中古車にご用心


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 その中古車屋はバス通り沿いにあった。看板によじ登ったゴリラの模型が、道行く車を迫力ある顔で威嚇している。広い敷地内にはたくさんの中古車が陳列してあった。どの車も、売りだし価格と、驚きの値引き価格は店員まで! という大袈裟なポップ広告がフロントガラスいっぱいに貼りつけてある。

 菱見悠人は通路を何度も往復しながら、価格と睨めっこを続けていた。通勤途中によく目にするこの店に足を運んだのは正午過ぎで、すでに三時間が経とうとしていた。ずっと立ちっぱなしなので膝の裏が少し痛い。組んだままの腕も痺れてきた。背伸びをし軽く身体を解す。

「どうです、お客さん、お眼鏡に適う車は見つかりましたか?」

 太った店員が呆れたように声をかけてきた。来店した当初こそ悠人について、一台一台丁寧に説明してくれていたこの男も、一向に決断する様子の見えない厄介な客を見限り、他の接客に当たっていたのだ。

「うーん、どれも一長一短で。迷っちゃうよね」

 再び腕を組み、首を捻る。

「いい車が入荷したら連絡しますから、今日は一旦引きあげたらどうです? 車選びってのも一種の出会いですからね、タイミングってものもあるし」

「そんな悠長なことを言っていられないんですよ、どうしても来週末には車が必要だから」

 悠人がきっぱりと言いきる。厄介払いをし損ねた店員は、面倒くさそうに頭を掻いていた。

「でもね、お客さんの希望している予算だと、正直ちょっと無理があるんですよ。どうしてそんなにワンボックスカーにこだわるんです? 軽自動車ならその予算でもいいものを買えますよ」

「自転車を積まなくちゃならないんです。それにテントとかいろいろあって。あの、ここにある車以外に、掘りだし物とかってないんですかね?」

 理不尽な要求に、店員は一層表情を曇らせた。

 悠人が立っているのは、ワンボックスカーばかりが並べられているコーナーだった。最近の流行もあって、家族向けに売りだされたそれらの車種は、中古車市場にも多く出回っていた。供給が多い分、需要も多いわけで、中古車でもかなり値が張った。悠人に許された予算で手が届くのは、走行距離十万キロ以上の旧型車か、訳ありと書かれた事故車くらいなものだ。抱いているイメージとのギャップは、価格差以上のものがあった。

「来週末までに希望に沿った車が入荷する、なんてことはありませんか?」

 悠人が自分なりに譲歩して尋ねた。

「例えあったとしても、来週末までに引き渡せるかどうか。中古車ってのは、買ってすぐには乗れませんからね」

「え、どうしてですか? 車庫証明に必要な書類も持ってきたのに」

「それだけじゃ足りないんですよ。乗用車の場合、車庫証明に加えて、平日の陸運局に届けでて名義変更もしなくちゃいけない。それに任意保険への加入だって必要だ。個人ならともかく、うちみたいに会社が代理業をする場合、手続きに早くても四、五日はかかりますから」

「そんなの困りますよ……やっぱり、この中から選ぶしかないのか」

 悠人は並べられたワンボックスカーに再び向き直った。更なる長期戦の様相に、店員はあからさまに肩を竦めて見せた。

 上司に無理を言って半休をもらい、わざわざやってきたのだ。このまま帰るわけにはいかない。同僚の白い視線を浴びながら、来週末からは一週間の長期休暇まで頼んである。もう後戻りはできないのだ。

「はぁ、参ったなぁ、どうしよう……」

 悠人は丸めた拳を唇にあて、深い溜息をついた。幾ら真剣に見ていても値段が下がるはずもないのに、価格表を睨みつけずにいられない。少しでも希望の買い取り価格に近づけないかと、悠人は再び電卓代わりのスマホを叩きはじめた。

 そのとき、店員が大きく鼻息を吐きだした。辺りの様子を窺いながら言う。

「仕方ないなぁ……お客さん、本当に困ってるの?」

「え、はい。どうしても来週末までに車が必要なんです」

「そう。それじゃあ、ちょっと、ついてきて」

 店員はそう言うと、背を向けて歩きだした。店の敷地を出て、横断歩道を渡っていく。悠人はその背中を追いながら、来店してすぐにもらった名刺をポケットから取りだした。名刺には顔写真と共に、販売アドバイザー、西牟田祐一、と書かれていた。

 五分ほど歩きたどり着いたのは、五台ほどの駐車スペースを持った小さなコインパーキングだった。一番端に一台のワンボックスカーが停まっていた。何世代か前の型だが、黒い車体は綺麗に磨きあげられていて、悠人の抱いていたイメージを十分に満たしていた。

「いいじゃないですか、これ、この車も売り物なんですか?」

 西牟田はもう一度辺りに目を配り、身を寄せて小声で囁いた。

「実はね、これ、俺が個人的にオークションで落とした車なんだよ。中間マージンがない分、お客さんの予算でも十分に買えるけど、よかったら譲ろうか? もちろん店には内緒で頼むよ。見つかったら俺、即クビになっちまうからさ」

 手刀で首を刎ねる動きをしながら、西牟田が幾分フレンドリーな口調で言った。その言い方にはどこかこなれた感じがあった。小遣い稼ぎに、こういった裏のアルバイトを普段からしているのかもしれない。

「ちょっと見せてもらっていいですか?」

「ああ、もちろんいいよ。自分で乗ろうかと思って車検も通したばかりだし、掘りだし物だと思うけど」

 悠人は車を見て回った。後部ハッチの右端にワックス焼けしたマグネット跡が薄く残っている程度で、外観に大きな傷はない。

 ドアを開けてもらい、車内を点検する。運転席に座りハンドルを握る。少し固めのシートが身体にピタッとフィットする。まるで悠人の訪れを待っていたかのようだ。以前はかなり神経質な人が乗っていたのか、綺麗に使われた内装も申し分ない。タバコの匂いもしなかった。

 悠人は車を降り、後部ハッチを開けてみた。荷台スペースは十分に広く、自転車を積むのに最適な固定用のバックルまでついている。床には専用のマットが敷いてあり、そのままでも自転車や荷物を載せられそうだ。ふとサイドポケットに差しこまれているリボンマグネットが目に入った。先ほどのワックス焼けはこいつのせいらしい。

「どうよ、いいでしょう。これも何かの縁だろうし、バイザーもマットも標準でつけてあげるよ。足回りにちょっと錆ついてる箇所もあるけど、掘りだし物だと思うよ。それに、この車、ナビゲーションシステムまでついてるんだ。エンジンかけてみようか?」

 西牟田が運転席に乗りこみ、エンジンキーを回した。快適な始動音と共に、インパネに明かりが点る。ダッシュボード中央にはめこまれたナビの液晶画面にメーカーのロゴが浮かびあがった。

「―――お酒を飲んだら車の運転はやめましょう」

 いきなり女性の声が流れた。画面が地図に変わり、現在地を示す赤い矢印が点滅をはじめる。

「今どきは、こんな心配までしてくれるんだよ。うちの奥さん以上に俺の身を案じてくれるんだ。まったく便利な世の中になったもんだよねぇ」

「わぁ、凄いね」

 悠人は三十歳を越えた今まで、自分の車を持ったことがなかった。大学時代に免許を取ったきりだ。市内に住んでいれば、車よりも公共の交通機関を使った方が便利な面もある。社用車を運転することはあっても、AMラジオしか流れないような軽自動車だったから、ナビの進化がとても新鮮に思えた。

「本当に予算内で譲ってくれるんですか?」

「これも何かの縁だ。このあと、陸運局に行く予定があるから、ついでに登録まで済ませてきてあげるよ。車庫証明に必要な書類まで用意してくるくらいだから、本当に急いでるんだろ? 見たところ身元も堅そうだし、そうだなぁ、来週の月曜日には引き渡せるように手配するよ。個人取引の特権だ」

 悠人は来週の水曜日にいれてある予定を思い描いた。待ち合わせ場所に車で現れたら、朱莉はどんな顔をするだろうか。悠人は決心した。

「この車、買います」

「毎度あり!」

 西牟田が柔和な笑顔を見せた。事務所に戻り必要書類を記入して、悠人は人生で初めて自分の車を手に入れた。


***


 翌週の水曜日。帰宅ラッシュ時間帯の地下鉄出入り口付近には、迎えの車両が数台ハザードを焚いて駐車していた。悠人は空いているスペースにどうにか車を停めた。目的の人物を見つけ、軽くクラクションを鳴らす。

 壁にもたれかかり、文庫本に視線を落としていた小瀬朱莉がびくりと顔をあげた。会社帰りだから、薄いベージュのスーツ姿だ。助手席側のパワーウィンドウを下げ、運転席から軽く手を振る。朱莉は怪訝な表情を浮かべて近づいてきた。

「何で車なのよ?」

「まぁ、いろいろとあってさ。とにかく乗りなよ」

 朱莉はドアを開けて乗りこんできた。微かに化粧品の匂いがする。ちらりと横顔を盗み見て、しっかりと化粧が直されていることに少しだけ安堵する。まだ一人の男として見られている気がしたから。

 悠人は上半身を捻り、後方を何度も確認してから、ゆっくりと車を発進させた。久しぶりの運転に緊張し、手の平はひどく汗ばんでいた。

「夕飯、まだでしょ? せっかく車だし、久しぶりにちょっと遠出してみない」

「それはいいけど。何か無理してない? いつもの悠人らしくないよ」

「いつもの、っていつもはどんなだっけ」

 朱莉は微妙な間を置き、一瞬だけ横顔を盗み見てすぐに前を向いた。

「さぁね、私の口からは言えないわ。あなたのこと、何でも知っているわけだし」

「あまり嬉しくない答えらしいね。運転に支障をきたすといけないから、今は聞かないでおこうかな。こう見えて、僕、打たれ弱いから」

「知ってるわよ、そんなこと。四年も一緒に暮らしてたんだから」

 朱莉は膝の上に置いたバッグから煙草を取りだし、吸ってもいい? と尋ねた。その手にはすでにライターが握られている。悠人は応える代わりに、助手席側の窓を少しだけ下げた。朱莉がぎこちない手つきで火を点す。立ちのぼる煙が加速度を増して車外へと流れでていく。朱莉は小さく咳をした。

 半年前に家を出て別々に暮らしはじめた妻は、すっかりやり手のキャリアウーマンに変貌していた。タイトスカートから伸びた細く綺麗な足を組み替える仕草さえ妙に様になっている。隣に座るこの美しい女性が、半年前までは一日中パジャマ姿でソファに寝転がり、テレビを見て笑っていたと誰が想像できるだろう。

「ご飯、何が食べたい?」

「悠人は?」

「うーん、何でもいい」

 二人の声が重なる。悠人が答えるのと同じタイミングで、朱莉も、何でもいい、と口にしたのだ。「言うと思った」と朱莉が笑う。

 悠人は少しだけ唇を尖らせた。

「本当に何でもいいんだって。朱莉の好きなものでいいよ」

「そうね、それじゃあ、フレンチ、とかは?」

「いいよ。どこかいいお店、知ってる?」

「知らないよぉ、そういうのは男の人が調べておくものでしょ。釣ってさらに逃げられた魚には餌を与えないつもり?」

「そういうわけじゃないけどさ」

「まぁ、デートってわけでもないし、大目に見るか。この車、ナビついてるじゃない。それで調べたら?」

 朱莉がはめこまれたモニターを指差す。画面上では地図の上を赤い矢印が移動していた。

「ナビってお店とかも調べられるの?」

「たぶんできると思うよ。私もよくは知らないけど」

「やってみてよ」

「どうやって?」

「タッチパネルでしょ、適当に触ってみて」

 朱莉が指を伸ばす。画面に触れるとメニュー画面が浮かびあがった。

「わっ、出た。えーと、検索、お店、レストラン……」

 指でタッチするたびにピロロンと間の抜けた電子音が応える。朱莉は一つひとつの動作を声に出し、しっかりと確認しながら進んでいく。昔から変わらない朱莉の癖だった。新しい電化製品を買うと、説明書を全ページ読破しなければ気が済まないほどの慎重派だ。触って覚えるフィーリング重視の悠人とは大違いだ。結婚相手に取扱説明書がついていれば、即刻返品されていたことだろう。

「あ、お店がいっぱい出てきた。でも、これってその店が美味しいかどうかまではわからないのね」

「まぁ、そこまで親切じゃないんだろうね。エスコートまでされたら、それこそ男の立つ瀬がない」

「こっちの方がよっぽど紳士的だったりして。で、どのお店にする? 適当に選んじゃっていい?」

「いいよ。ピンとくる名前のお店で」

「それじゃ、これにしよ。悠人の持つ唯一の武器かも。フレンチ料理店、ボン・スゥリール!」

 朱莉が画面をタッチする。―――案内を始めます、交通規則を守り、安全運転を心がけましょう、とナビが律儀な忠告をくれた。

「そっか、朱莉って学生時代、フランス語を専攻してたんだっけ。それってどういう意味なの?」

「―――よい笑顔」

 朱莉が滑舌よく言い、身体を揺すって笑った。完全におちょくっているらしい。悠人の専攻していたインドネシア語で言えば、セニョム・ヤン・ベイだ。

 悠人はナビの案内に従い、交差点を左折した。

「それで、どうしてこんな大きな車に乗っているわけ?」

 笑いやんだ朱莉が、身体をシートにもたれ直して尋ねる。悠人は少しだけ胸を張った。

「前にも話したと思うけど、僕さ、旅に出ようと思うんだ。ほら、自転車を積んで一人旅に出たいって言ってたでしょ。たまたま有給が長期で取れたから、この機会に実現しようと思って」

「そっか、よかった。―――私に対するあてつけかと思った」

「何それ? どういう意味?」

「こんな大きな車なら、家族で旅行ができるかなぁって……」

 そう言って朱莉は窓の外に目をやった。車内に沈黙が落ちる。すれ違う車のヘッドライトが、朱莉の顔を白く照らしては影を落とす。悠人は、そんなわけないよ、とハンドルに向かって小さく呟いた。

 小瀬朱莉は大学時代の同級生だ。三回生のとき、同じゼミになったことをきっかけに知り合った。背も高く、華やかな雰囲気を持つ朱莉はキャンパス内でも目立っていたから、悠人自身は入学当初から彼女の存在を知っていた。ゼミ選びに彼女の動向が影響したことは言うまでもない。

 一年間のお友達期間を経て、悠人は交際を申しこんだ。当時、朱莉にはゼミ内に年上の彼氏がいて、ちょっとしたすったもんだがあった。分厚い障壁が恋を燃えあがらせるのは人類創世記からの真理だ。悠人の熱意はやがて彼女の気持ちを解し、三ヵ月後、二人は晴れてつきあいはじめた。

 大学を卒業し、二人は就職した。朱莉が第一希望の広告代理店にすんなり内定を取りつけたのに対し、悠人の就職活動は世に言う氷河期そのものだった。就職浪人を選ばなかったのは、彼女に張りあおうとするちっぽけなプライドからだけだったろう。悠人は父親のコネを使い、どうにか中堅の機械工具会社に潜りこんだ。悠人の父親は大手企業の重役で、様々な業界に顔が広かった。親に対するプライドは早々に白旗を揚げたのだ。

 二十六歳のとき、四年間の交際期間を経て二人は結婚した。仕事に対する情熱がようやく芽生えはじめた頃だったから、朱莉は仕事を続けることを望んだ。悠人もあえて反対はしなかった。ただ一人、悠人の母親だけが最後まで強く反対した。嫁は家庭を守り子育てに専念すべき、という姑の忠告を聞き入れ、朱莉は仕事を辞めて専業主婦になってくれた。仕事よりも自分を選んでくれた気がして、そのときは素直に嬉しかった。

 二人の前途には明るい未来ばかりが待っているのだと、あの頃は確かに信じられた。二人で居られればそれだけでいいと―――。

 ナビに従い何度か交差点を曲がる。ナビは迷うことなく二人をフレンチ料理店、ボン・スゥリールまで案内してくれた。暖色系の明かりが点る洒落たお店だった。見栄を張って八千円のコースを注文してみたが、味の方はよい笑顔というより、苦笑う真顔程度のものだった。高性能なナビゲーションシステムも確かな味までは判断できないらしい。もっとも、料理を味気なくさせたのは、二人の関係が冷えきっていたせいかもしれないけれど。

 一ヶ月ぶりの再会だというのに、一通りお互いの近況を報告しあうと、話す話題はなくなった。車で来ていたのでお酒に逃げることもできず、悠人は早々に後悔した。コース料理が運ばれてくるたびにほっと安堵する自分が情けなかった。

 会計を済ますとき、朱莉が財布を取りだした。割り勘にしましょ、と提案する朱莉を押し退け、悠人は無理やり自分で支払った。朱莉は口を開きかけたが、結局、何も言わなかった。

 車に乗りこんでからも状況はあまり変わらなかった。前方の信号が赤に変わり、悠人は車を停止させた。

「今月末にでも、もう一度会えないかな。お土産も渡したいし」

「ごめんなさい。……月末は仕事で東京に行ってるから」

「そうなんだ」

 それきり会話は途切れた。嘘をつかれたのかもしれない。そう疑ってしまう自分が嫌だった。

 ラジオでも流そうかとナビに手を伸ばす。しかし、雑音が流れるだけで選局すらまともにできない。以前は他の地域で走っていたのだろう。最初に地域別の登録局を設定し直す必要があるらしかった。中古車屋から引き渡されて以来初めて乗車したこともあり、車内には音楽CDの一枚すら積んでいなかった。

 悠人の手際の悪さは小学生時代の通知表の中でもすでに評されていた。―――気持ちの優しい子ですが、もう少し先を見越して手際よく物事に対処できるといいですね。

 沈黙に同情するように、朱莉が口を開いた。

「お義母さん、お元気にしていらっしゃる?」

「うん、相変わらず、ね」

 ずっと黙っていたから、応えたその声に痰が絡んだ。小さく咳払いをする。

「この間、電話をもらったわ」

 悠人は無意識に舌打ちをしていた。次に来る言葉は予想がつく。

「……もう会わないでくれって」

 当たりだ。どうせ興信所を使って調べさせでもしたのだろう。あの人はそういう人なのだ。

 横を向かなくても、朱莉が浮かべているであろう顔は想像がついた。別れ話が浮上してからの半年間、何度も見てきて未だに見慣れない顔だ。自分が悪いとわかっていて怒られている幼い子供のような顔。泣きだしたいのに泣きだせない、逃げ場を失った顔。その顔を見ると、悠人はいつだって何も言えなくなる。

「お義母さんに言われたから言うわけじゃないけど、このままじゃ、お互い前に進めないと思うの。―――もう会わない方がいい。正式に離婚しましょ」

 想像はしていたが、実際に口に出して言われると、その言葉は悠人の気持ちを軽々と圧しつぶした。微かに繋がっていた瘡蓋を一気に剥がされた感じ。悠人は身動き一つ取れず、ただじっとハンドルを見つめていた。

 背後でクラクションが鳴った。いつの間にか信号は青に変わっていて、悠人は慌てて車を発進させた。

「―――やっぱり、やり直せないのかな」

 何度も口にした台詞に、自分でも嫌気が差す。

「……何度も話し合って、二人で決めたことじゃない。私のせいにしないで」

 悠人がいつも口にする、最後の答えを相手に託す言い方を、朱莉は嫌っていた。それきり、二人の間に会話らしきものは生まれなかった。

 悠人が自宅まで送ることを朱莉は強く拒否した。地下鉄の入り口に車を横づけする。迎えの車はもう一台もいなくなっていた。

「ご馳走様。美味しかった。それじゃあね」

 社交辞令以外の何物でもない賛辞を残して、朱莉は車を降りた。ドアが閉まる直前、その背中に声をかける。

「ねぇ、さっきの答え、何だったの?」

「さっきのって?」

 朱莉が身を屈め、顔を覗かせて言う。

「車に乗りこんだとき、いつもの悠人らしくない、って言ってたでしょ?」

 朱莉は、少し考えてから口を開いた。

「―――優柔不断でお人好し」

 その瞬間、後方でクラクションが鳴った。高校生の女の子が後方の車に駆け寄っていく。そちらに注意を引かれ、朱莉がどんな顔をしてその言葉を口にしたのか、悠人は確認することができなかった。朱莉は軽く手を振り、一度も振り返らずに地下鉄へと繋がる階段を下りていった。

 悠人は脱力し、背もたれに身を預けた。追い越していく車両のタイヤの音がやけに大きく響く。

 人の声が聞きたくて、ラジオの選局に再チャレンジする。適当に触っていたら、「案内を開始します、到着予定時刻は七時零分頃です」と優しい女性の声がした。どこに案内してくれるというのか。ナビさえも自分の思い通りにはなってくれない。

 すべてが面倒臭くなって、悠人はきつく目を閉じた。


2


 鴨井芳夫はガードレールに腰かけ、物憂げに煙草をくゆらせていた。周りには同じように敷地を追いだされた愛煙家たちが屯している。中には点滴スタンドを転がすパジャマ姿の入院患者までいた。

 道を挟んだ先には広大な敷地を有する都内有数の大学病院があり、その繁栄ぶりを誇示するように幾つもの病棟が聳えたっていた。病院屋内はもちろん敷地内全域が禁煙である。

 まったく愛煙家には肩身の狭い世の中になったものだ。鴨井の場合、愛煙家、という表現は少し可愛すぎる。現に今もフィルターを焼かんばかりに短くなった煙草を摘まむ手は微かに震えていた。典型的なニコチン中毒症状だった。

 青い空に煙が拡散していく様を鴨井は美しいと思う。風に連れ去られた煙がフッと消える瞬間、その儚さに自分の姿が重なる。

 あんな風に一瞬で消えることができたなら……。

 靴の裏で揉み消した吸殻を携帯用灰皿に押しこみ、煙草の匂いの染みついたジャケットを羽織った。違法駐車した車のガラスに首元を映し、ネクタイをキュッと締め直す。何度も左右に揺らし、わずかな歪みもないように修正する。遠目にはドット柄に見える紺色のネクタイは、近づくとたくさんのミッキーマウスから形作られていた。強面の鴨井には似つかわしくない代物だ。四ヶ月間ずっと着け続けているせいで、折れ目の端がわずかに解れはじめていた。よし、と心で呟いて、鴨井は敷地内へと足を向けた。

 二重になった自動ドアを抜け病棟内へと進む。大きなモニターの前に設置された待合椅子には、診察を待つ外来患者が数人座っていた。その後ろを通り抜ける鴨井の足取りに迷いは一切ない。四ヶ月も通い続けているので、病棟内の地図は大方頭に焼きついていた。鴨井は購買ショップの脇を抜け、さらに奥へ奥へと進んでいく。やがて、増改築を頻繁に繰り返しているために天井がやたらと低くなった狭い通路に出た。その先に、鴨井の目指す閉鎖病棟がある。

 受付の看護師に家族証を見せ、面会用紙に記入する。施錠が外された音を聞き、鴨井は重いドアを押し開けて病棟内に足を踏み入れた。エレベーターで四階まで上がる。扉が開いてすぐ目の前に事務所があり、受付から連絡を受けていた顔見知りの女性看護師が待ち構えていた。

「こんにちは、鴨井さん」

「お世話になります」

 鴨井は深く頭を下げた。

「それじゃ、行きましょうか」

 看護師のあとに続き、消毒液臭い廊下を歩いていく。鴨井は看護服の背中に声をかけた。「変わりはありませんか?」

「ええ。今日は落ち着いてますよ」

 看護師が立ちどまったので、鴨井も足を止めた。ドアの右上に、鴨井史菜、という名札がかけられている。看護士がノックをし、ゆっくりとスライドドアを開けた。鴨井は大きく息を吸いこむ。

「鴨井さん、お父さんがお見えになったわよ」

 看護師の呼びかけに返事はない。ドアを支えた看護師に促され、鴨井は病室内へと入った。背中でドアが閉まる音がする。

 さほど広くはないが清潔感のある室内に、ベッドが一つだけ置いてある。黄緑色のパジャマを着た史菜が半身を起こし、窓の外を呆然と眺めていた。その窓は針金入りの一枚ガラスで開閉はできない。鴨井はいつものようにパイプ椅子を引き腰を下ろした。

「今日はいい天気だぞ。散歩にはうってつけだ」

 父親の訪問に気がついているのかいないのか、史菜の様子に変化はまったく見られない。それでも鴨井は話し続ける。

「ちゃんとご飯は食べているのか? お父さんの今日の昼飯は牛丼だ。汁だくで注文したんだが玉葱が少なくてなぁ、店員に文句を言ってやったら、逆に睨まれちまった」

 我ながら中身のない話だなぁ、と思う。反応がないだけに行き場を失くした台詞は、音のない室内をただ虚しく彷徨っている。他に話す話題も見つからず、鴨井は史菜の視線を追って窓の外を眺めた。四角く切り取られた窓には、薄水色の空が見えるだけだ。樹木もなければ飛行機すら飛んでいない。せめて飛行機雲でも浮かんでいたなら、少しは史菜の感情を揺り動かすことができただろうか。

 史菜がこの病院に入院してから四ヶ月が経とうとしていた。史菜はどんな声をしていただろうかと、最近よく思う。最後に史菜の声を聞いたのは一年と四ヶ月前、父親の小言に珍しく文句を言ったときだった。

「お父さんなんか大嫌い! もう夕飯だって作ってあげないんだから!」

 そう言って史菜は玄関扉を乱暴に閉め、高校へと出かけていった。部活動に使うテニスラケットを入れた袋を担ぐ後ろ姿が、なぜか鮮明に記憶に残っていた。あのとき、どんな理由で小言を言ったのか、今でも思いだすことができない。本当ならすでに高校を卒業し、今頃はどこかの女子大生にでもなっていたはずだろうに。史菜の時間はあの日あの瞬間に止まったままだ。

「それじゃ、また来るよ。先生の言うことをよく聞くんだぞ」

 小学生を諭すような台詞しか思い浮かばない自分が、滑稽に思えてならない。扉を開けて病室を出ていこうとし、もう一度だけ史菜の様子を窺った。史菜は入ってきたときと同じ体勢で窓の外を眺めている。その左手の手首には厚く白い包帯が巻かれていた。

 明日も変わりなく生きていてくれることを祈り、鴨井はドアを閉めた。


***


 廊下を歩いていると、携帯電話が『太陽に吼えろ』のテーマソングを流した。窓際に寄り、看護師の目がないことを確認して電話に出る。

「鴨井だ」

「でしょうね。知ってて電話してるんですから。今、玄関先に着きました」

「そうか。悪いな、すぐ行く」

 それだけ言って、鴨井は携帯電話を切った。白衣を着たインターンらしき若い学生が、鴨井の持つ旧型の携帯に視線を投げながら横を通りすぎていった。

 鴨井は、事務所から顔を背けるようにしてエレベーターホールに立ち、下りボタンを押した。到着を待っていると、先ほど案内してくれた看護師が近づいてきた。

「鴨井さん、担当医が少しお話をしたいと言っているんですが、今から少しだけお時間取れませんか? それほどお手数はおかけしませんので」

 どことなく懇願するように看護師が言った。チン、と音がして扉が開く。

「すみません。その、ちょっと急な仕事が入っちまって。また、今度お邪魔したときにお願いできますか」

 返事を待たず、鴨井はエレベーターに乗りこんだ。扉がゆっくりと閉まりはじめ、看護師の困った顔ごと空間を閉ざした。一階のボタンを押す。動きだした四角い箱の中で、鴨井はふぅーと長い息を吐きだした。

 メイン病棟の玄関を出てすぐの車寄せに、新車のアウディが停まっていた。漆黒のボディが嫌味なほど磨きあげられている。運転席を覗きこむと、背広を着た齋藤比呂志が欠伸を噛み殺していた。鴨井に気づき軽く手を振る。鴨井はそれを無視して、助手席のドアを開け乗りこんだ。

「待たせたな。お前、また車変えたのか?」

 触り心地のいい革張りのシートを擦りながら鴨井は尋ねた。車内には映画音楽のサントラが流れていた。『ゴッドファーザー』のテーマ曲だ。

「唯一の趣味みたいなもんですからね。僕、子供の頃から飽きっぽいんですよ」

「ボンボンにしか吐けねぇ台詞だな。俺も一度くらい言ってみたいよ。それより、悪かったな。急に呼びだしちまって」

「別に構いませんよ。非番だからって、車を洗い終わっちゃったら趣味の映画鑑賞くらいしかやることもありませんし。それもレンタル屋で借りてきたDVDですから」

 齋藤は車好き特有の少し大袈裟な操作で車を発車させた。

「お前、非番の日には子供たちに剣道を教えているんじゃなかったか?」

「ええ、それは夕方からです。そういえば一度、鴨井さんの車で送ってもらったことがありましたよね」

「刑事が副業なんかしていいのかよ」

「お金なんてもらっていませんもん。市民に対する奉仕活動ですよ。今の上司にもちゃんと報告してありますから問題ないんです」

「今の上司ねぇ。昔の上司にまでアッシーに使われて、公務員とはいえサラリーマンってのは大変な職業だな」

「自分で呼びだしておいて、そういうことを言います? だいたい自分の車はどうしたんですか?」

「売っちまった」

 鴨井がゆっくりとした口調で言う。

「えー、勿体ない。鴨井さんが黒のセドリックに乗っている姿って、いかにも渋い刑事っぽくて好きだったんですけどねぇ。まぁ、休職中の刑事ではありますけど」

「どっちにしろ、不良中年には変わりないだろうがな」

「ひと昔前に流行ったちょいワルオヤジですか。そういえば、どことなくジローラモに似てるかも」

 この辺りでおちょくられていることに気づき、鴨井は齋藤の脇腹にキツめのパンチを見舞った。お調子者なのは警部に昇進した今も変わらないらしい。笑顔で身を捩った齋藤が尋ねる。

「それで、史菜ちゃんの具合はどうだったんですか?」

「相変わらずだよ。俺が何を話そうと窓の外を眺めているだけだ」

「そうですか。きっと時間がかかるんですよ。あんなことがあったんですから……」

 口にしてしまってから、齋藤の顔に後悔の色が浮かんだ。すみません、と小さく呟く。沈んだ空気を嫌って、齋藤はナビの設定をラジオに切り替えた。

 AM局にチューニングされたラジオから、雑音に混じり人生相談が流れてくる。世の中、悩み相談をもちかけたい輩には事欠かないらしい。刑事なんて職業を長年やっていると、音楽ばかりが流れるFMラジオよりも人情味溢れるAMラジオの方が肌に合ってくる。張りこみ中に鼻歌もあるまい。

 鴨井は胸の内ポケットから煙草を取りだし火をつけた。窓を少しだけ開け、吸いこんだ煙を車外へと吹きだす。

「煙草、やめた方がいいんじゃないですか?」

 齋藤がちらりと鴨井を盗み見て言う。

「今の俺から煙草を取りあげちまったら、何も残りゃしないさ。そんなことより、杉村の証言はどうなってるんだ。お偉いさん方は動いてくれそうなのか?」

「かなり厳しいと思いますよ。なんたって強盗犯の証言になっちゃったわけですからね。法律上は証言者の資格を明確に制限してはいませんけど、やっぱり心証がね。刑事だって人間ですから、どうしてもそういう目で見ちゃいますし」

「まったく、何で逮捕なんてしちまうんだ、あいつらは」

 そういって、鴨井は齋藤の頭を軽く叩いた。

「一課の俺に当たらないでくださいよ。それに捜査二課の奴らも、刑事の職務を全うしただけですからね。犯人を捕まえたら、たまたま杉村だったってだけの話じゃないですか。奴らだってきっと後悔してますよ。荒ワシの鴨井を敵に回したくはないですからね」

 齋藤が情けない声で言う。荒ワシの鴨井とは、刑事時代のあだ名だった。犯人を捕まえるためなら違法行為も辞さない、そんな捜査スタイルから生まれた異名だ。

 唯一の目撃者である杉村泰三が強盗の容疑で逮捕されたのは、一ヶ月ほど前のことだった。何度も証言内容を確認し、これでようやく警察も捜査を始めてくれるだろうと思った矢先の出来事だった。拳銃を所持していたなら、杉村の頭を撃ち抜いてやるところだ。

「それで、例の車の方はどうなんだ?」

「今のところ進展なしです。やっぱりもう処分されちゃってるんじゃないですかねぇ。だいたい、全国の陸運局に網を張って、新規に名義変更された中古車をすべて洗おうなんて、数が多すぎて無理がありますって。そっちの方は捜査二課の間宮に頼んであるんでしょ」

「ああ、ヒットするたびに連絡をくれてるよ」

「でも、その型式の車が史菜ちゃんの事件と結びつく可能性って本当にあるんですかね? 杉村が目撃したという誘拐劇も、未だ事件にはなっていないわけでしょ。死体もあがってなければ、身代金の要求もない。おセンチになったOLの単なる失踪ってことはありえませんか。ほら、自分探しの旅、とかよく聞くじゃないですか」

「どうかな? どっちにしろ、俺には他にすがる情報がないんだ。少しでも可能性があるなら、それに賭けてみるしかない」

「繋がると、いいですけど……」

 車は地下鉄駅付近の交差点にたどり着き、赤信号で停まった。

「ここでいいや。ありがと、助かったよ」

 ルームミラーでネクタイの歪みを直し、ドアのレバーに手をかけた。ドアを開け片足を下ろした鴨井に、齋藤が声をかける。

「鴨井さん、これからどうするつもりなんですか?」

 やけに神妙な言い方に、首の後ろ辺りがヒリヒリする。

「これから、例の依頼者との打ちあわせだよ。やはり刑事ってのは、探偵業に向いてるらしい」

 喫緊の予定を訊かれたのではないことくらい気がついていたが、鴨井はワザと勘違いしたフリをして答えた。本来の意味でのこれからの展望など、どう目を凝らしても見えてきはしなかった。

「あの、怒らないで聞いて欲しいんですけど……、もしよかったら、お金貸しましょうか?」

「馬鹿野郎、お前に借りるくらいなら腎臓の一つでも売るよ。じゃあな、何か新しい情報が入ったらすぐに知らせてくれ」

 後輩の優しさを冗談交じりの強がりで掻き消し、鴨井はもう一度礼を言って車を降りた。昔の鴨井なら殴り倒しているところだろう。今の鴨井には同情に抗う気力すら残っていなかった。


3


 仕事を定時で終えた金曜日。悠人はアウトドア専門店の入った大型モールを訪れ、一人旅に必要な道具を買い揃えた。中でも一番気合を入れて選んだのは、折り畳み式の自転車だった。以前からずっと欲しかった十万円以上する限定販売のブランド品だ。色は派手な赤色を選んだ。自分のイメージから最も遠い色だったから。

 予算的にはかなり無理をしたが、今回だけは妥協するわけにはいかなかった。朱莉に語った自分の夢を実現する。そうすることで、自分の中の何かが変わる気がした。朱莉が家を出ていった夜、彼女が残した最後の言葉を思いだす。

「悠人は口ばかりで、何も動こうとはしないじゃない」

 その言葉は今も事あるごとに鼓膜を揺らし、耳鳴りのように悠人を苦しめ続けている。

 立体駐車場まで大きなカートを転がし、後部ハッチを上げて荷物を積みこむ。折り畳み式自転車、テント用品一式、真新しい下着を押しこんだキャリーバック。それらを載せると荷物室はいっぱいになった。その様子を見ただけで充実感が込みあげてくる。その感覚は、定期テストを前にして、綿密な予定表を書きあげたときの満足感に似ていた。最後には、返された惨憺たる成績のテスト用紙に泣きを見るはめになるのだ。大事なのは計画ではなく、中身の伴った実践だ。旅行そのものを楽しめよ、と改めて心を戒め、悠人は勢いよくハッチを閉めた。

 運転席に乗りこみナビを操作する。朱莉を見習い、説明書を通し読みしたので(後半はぺらぺらと速読の真似だったが)、一通りの操作はできるようになった。すでにラジオ局も登録済みだ。地デジのテレビ放送まで見れることには驚かされた。悠人の知らないうちに、先端技術は確実に進歩しているらしい。ただ走行中にときどき雑音が混入することがあった。アンテナの接続に問題があるのかもしれない。おまけでついてきたナビだ。そこまで贅沢は言えないだろう。

 悠人は行き先に、先日さっそく登録しておいた自宅マンションを選択した。道順を知らないわけではないが、せっかくなので使ってみたかったのだ。例のごとく、優しげな女性の声が、案内開始を告げた。ちなみに今日乗りこんだ時の忠告は、そろそろ暗くなります、ライトの確認をしてください、だった。

 モールの駐車場を出て県道を東へ走る。高速道路と併走するように作られた環状線道路は先日開通したばかりで、道幅も広く走りやすかった。新しい道のおかげで、以前は四十分近くかかっていたものが二十分で帰り着ける。悠人はお気に入りのCDをナビに挿入した。一度再生した音源はハードディスクに取りこまれるらしく、画面の右下に録音マークが表示された。まったくもって至れり尽くせりである。悠人は鼻歌混じりにハンドルを握った。

 ―――五百メートル先、信号を左に曲がってください。

 いきなりCDの音量が小さく絞られ、ナビのお姉さんが話しはじめた。悠人は不思議に思う。今走っている環状線をひたすらまっすぐ進んだ方が確実に近道のはずなのに。

 ―――次の信号を左です。

 お姉さんはなおも言う。当たり前だが、その言葉に迷いはない。

 ―――左です。

 悠人はナビを無視して信号のある交差点を直進した。電子音が鳴り、新しい経路を設定しました、とお姉さんが告げる。

 画面に目を向け、悠人は理由を悟った。画面上に映しだされた地図には新しい環状線道路が表示されていないのだ。データが古く、この道の存在自体を認識していないらしい。赤い矢印は道なき山林地帯をひたすらに突っきっている。

 ―――五百メートル先、信号を左に曲がってください。

 再び、ナビのお姉さんが同じ言葉を口にした。ナビの案内を取り消そうと画面をタッチするも、いまひとつよくわからない。

 ―――次の信号を左です。

 赤信号にも引っかからず、車を停めるわけにもいかない。

 ―――左です。

 悠人は交差点をまた直進した。新経路の設定を知らせる電子音が鳴る。

 まぁ、あと三つも交差点を過ぎれば自宅マンションの近くだ。それまで、勝手に言わせておくか。ドライブのお供に、女性の声を聞くのも悪くない。悠人は取り消し操作を諦め、運転に集中した。

 その音を聞いたのは、ナビが、左です、と三度目に告げた直後だった。

 はぁ―――。

 その質感のリアルさに、悠人は思わず室内ミラーで後部座席を確認した。溜息? 首を回し車内を見渡すが、特別何があるわけでもない。もちろん人など乗っていない。空耳だろうか。

 ―――次の信号を左です。

 ナビは同じ台詞を繰り返す。やはり気のせいだったのだろう。

 ―――左です。

 悠人は身構えて溜息を待った。何も聞こえない。ふっと笑みが零れる。慌てた自分が可笑しくなった。そんなことあるわけないじゃないか。車は交差点を通りすぎた。

 ―――もう、左だってば。

 悠人は唖然としてナビの画面を見つめた。確かに聞こえた。画面上では相変わらず赤い矢印が山林を突っきっている。悠人は必死に考えた。

 何度も誘導に従わないでいると、こういう変わった案内を始めるものなのだろうか。ナビの語り手を、女性から男性に、標準語から関西弁に、と変えられる機種もあると聞く。そういったサービスのひとつだろうか。

 悠人は次の交差点を待った。タイミングが悪く車は赤信号で停車する。設定を見てみようと手を伸ばすも、映しだされた設定メニューの中に話し手の変更設定などなかった。

 信号が青に変わる。悠人はナビを無視して車を直進させた。電子音が鳴り、新たな経路が設定されただけだった。いったいどういうことだ?

 車は本来左折すべき交差点にたどり着き、悠人はようやくナビの誘導に従った。

 それきり、奇妙なアナウンスが流れることはなかった。

 ―――目的地付近に到着しました。これで案内を終了します。

 どうも、と思わずお礼を言ってしまう。どういたしまして、という台詞は返ってこなかった。

 機械の不具合? ラジオ放送の誤受信? それとも、かなり深刻に心を病んでしまったのか?

 納得のいく答えは見つけられなかった。駐車場に車を停め、ナビの説明書を取りだして、困ったときは、のページでQ&Aを斜め読みする。今回のような症状はまったく載っていなかった。

 助手席のシートに説明書を放り投げ、ま、どっちでもいいか、と開き直る。ナビが勝手に話しだしたからといって、実害があるわけでもない。それよりも明日に備えて睡眠を取ろう。明日の朝には初めての一人旅に出発するのだ。

 旅の道連れに女性の声があってもいいか―――そんな発想が浮かぶこと自体かなり疲れているのかもしれない。自嘲気味に笑いながら、悠人は両手に荷物を抱えてエレベーターで上がっていった。

 翌日、実害は思わぬ形で悠人の前に現れることになる。


4


 雑居ビルの地下へと続く階段を、鴨井が下っていく。薄暗い通路には、空き瓶のケースや明かりの消えた電飾看板が無秩序に置かれている。そんな中、一つだけ明かりの点った看板があった。太く逞しい二本の腕が腕相撲をしているイラストが描かれ、その下に〝ラブバトル〟という店名がピンクの文字で記されていた。

 分厚いドアを開けると、いらっしゃーい、と野太い声の合唱が出迎えた。店内はサラリーマンの団体客で賑わっていた。鴨井がいつものようにカウンター席の一番端に座ると、注文もしていないのにウイスキーのロックが目の前に置かれた。

「鴨井ちゃん、今日は早いのね。そんなに私に会いたかったの?」

 陽気な声で健気な台詞を吐いているのは、クルクルと巻かれた金髪のウィッグを被った厚化粧の中年オヤジである。ファンデーションを突き破って太い髭が伸びはじめていた。

「会わずに済むなら、万亀男には一生会わずにいたいものだな」

「ひどーい! それと、本名で呼ぶのはやめてよ。みんなみたいにマッキーって呼んでって何度も言ってるでしょ。もぅ、イケズなんだから!」

 ねぇ、と隣でグラスを磨いていた和美に同意を求める。

「そうよぉ、マッキーに会いに来るのは、助けてやった亀くらいなものなんだから」と和美がいい、げらげらと笑う。当然、和美も八割方禿げあがった中年オヤジである。サイドに残った髪はなぜか三つ編みにしてあった。

 鴨井は言葉を返さぬまま、グラスに口をつけ唇を濡らした。

 和美が続ける。

「まぁ、鶴の恩返しが綺麗な娘さんなら、亀の恩返しがイケメンだったって私たち的には大歓迎なんだけど。そういえば、マッキー、縁日で買ってもらった緑ガメはどうしてるの?」

「もちろん大切に飼ってるわよ。鴨井ちゃんからもらった初めてのプレゼントですもの、ねぇ?」

 万亀男が鴨井に向かって微笑んで見せる。

「何がプレゼントだ。無理やり支払わせただけだろ」鴨井が無愛想に言う。

「アントニオはスクスク育ってもうじき二十センチにはなるわね。一匹だけ売れ残っているなんて、あの子もきっと苦労してきたのよ」

 ハンカチを目尻に這わせ、万亀男は本気で涙ぐんでいる。

「また大層な名前をつけたものよね。私はてっきりディカプリオって命名すると思ってたわ」と和美が言う。

「そんな薄味の軟弱男より、私は濃ぉーいワイルド系が好きなの」

「そうよね、ママは鴨井さんみたいな、渋ーい男性が大の好物なんだもんね」

 そう言って、万亀男の脇腹を肘でつつく。もうバラさないでよぉ、と万亀男は腰をくねらせて照れていた。

 まったく、この人種の会話はどこまでが本気なのか、わかりゃしない。鴨井は鼻で笑い、ウィスキーを呷った。

「俺がワイルド系か? どうみても落ちぶれたオッサンにしか見えないと思うが」

「そんなことないわよぉ。刑事っていう肩書きだけで充分ワイルドなんだから。その鋭い眼光にハートを射抜かれたいオカマはわんさかいるわ。ま、冗談一つ言えない堅物だってところがたまに傷だけど」

 あまり喜ばしくない褒め言葉に、鴨井は苦笑いを浮かべた。

 和美が他の客に呼ばれたのをきっかけに、鴨井は本題を持ちだした。

「例の依頼だが、やはり警察は動いてくれそうもない。強盗犯の証言に信用は置けないからな」

 万亀男の顔が真剣なものに変わる。

「そう、残念ね。せっかく見つかった唯一の目撃者なのに」

「お前が追っている時計の方はどうなんだ? オークションサイトに出品はないのか」

「ええ、相変わらずね。お店の子たちにも手伝ってもらって見張ってはいるんだけど、これというものは何も」

「そうか。お母さんの方は相変わらずなんだろ?」

「うん。何度もやめるように言って聞かせてはいるんだけど……。あの人も頑固だから」

 万亀男が悲しそうに長すぎるつけ睫を伏せた。

「当面は、俺たちだけで動くしかなさそうだな。それと……」鴨井は煙草に火を点けた。「調査費用の方だが、もう少し上乗せしてもらえるかな」視線を逸らした鴨井が大きく煙草を吹かす。

「もちろんよ。実業家マッキーを甘く見ないで。鴨井ちゃんの五十人や百人、簡単に囲っちゃうんだから。私の肉体触り放題券もつけちゃうわ」

「それは遠慮しておく」

 えーっ、何でー? と万亀男は下唇を剥いて残念がった。

 これで当面の入院費用はなんとかなるか……。鴨井はホッと息をつきはしたものの、こんな生活がいつまでも続けられるわけがないとも思っていた。前金でもらった報酬はとうの昔に使い果たしてしまっていた。職場の後輩から受けた甘い融通話に、頷きそうになる自分が情けなかった。闇金融に手を出さず、どうにか踏みとどまっていられるのは、史菜に対する父親のちっぽけなプライドのためだけだったろう。史菜が心を取り戻したときに、自分を責めないように。

 カラオケを歌い終わった客に盛大な拍手が送られる。ひとときの静寂を逃さないように鴨井が口を開いた。

「今度、刑務所の杉村に面会してこようと思う。事件当時の詳しい話をもう一度聞かせておいてくれるか」

 常連客の冗談に相好を崩していた万亀男の顔が、悲しげに引き締まった。真面目な顔を作ってみても、その顔はやはり厚化粧の中年オヤジである。指に巻きつけた金髪が弾力に負けてクルルと跳ね上がった。


***


 昼過ぎに起きだしてきた万亀男は、薔薇の花びらを浮かべたお風呂で入浴を済ませ、脱毛した足にローションを念入りに塗りこんでいた。我ながら綺麗なふくらはぎのラインだと思う。手触りだってすべすべだ。問題なのは、触ってくれる彼氏がいないことだけ。意中の人は堅物で恋愛に鈍い男なので、万亀男の気持ちになどこれっぽっちも気づいていないだろう。

 洗面台の鏡に映った顔はすっぴんである。眉毛が極端に薄い以外は、三十九歳の男性の顔だ。髭剃りを済ませた肌が青く見える。万亀男は化粧袋を取りだし、よしっ、と気合を入れた。これからが腕の見せ所だ。ファンデーションを厚く塗りアイラインを強く引いていく。一時間弱の格闘の末、最後に金髪のウィッグを被れば、出勤準備のできあがりだ。

 万亀男が自分の中の女性に気がついたのは、小学四年生のときだった。初めて好きになった相手は、クラスの中で一番人気だった小泉学君だ。学は他の男子のように、顔が四角いといった理由で万亀男を苛めたりしなかった。三年間想い続け、卒業式の日に勇気を振り絞って告白した。

「き、キモいわ! 化け物よ、去れっ!」

 学君は泣きながらそう叫び、全速力で逃げていった。そのとき初めて、自分は美しくないんだと気がついた。万亀男が親に隠れて化粧をしはじめたのはそれからである。外見が変われば中身も変えられるのではないか。そんな幻想を子供ながらに抱いたのだ。

 中学、高校と暗い青春時代を過ごした。男の子として暮らしていかなければいけないことが何より辛かった。トイレに行くのでさえ、人気のない一番遠い校舎まで足を運んだ。休みの日に女装をして遠くの街に出かけるのが唯一の楽しみだった。社会に出ると、同じ性的指向を持つ人たちが案外多くいることに気がついた。彼らはコミュニティを作り、自らの性を覆い隠さず自由に暮らしていた。その生き方に万亀男は深い感銘を受けた。新宿二丁目のお店で働きはじめ、万亀男は十八歳にして初めて心を許せる仲間を得たのだ。二十年近くがむしゃらに働き、気がつけば自分の店を持つまでになっていた。

 そんな順風満帆に思えた生活に暗い影が差したのは、ちょうど四ヶ月前のことだった―――。

 万亀男は早めに自宅マンションを出た。お店の開店は午後七時からだったが、その前に立ち寄りたい場所があったのだ。タクシーを捕まえた万亀男は、運転手に通い慣れた地下鉄駅名を告げた。流れる景色を眺めていると、窓に雨粒があたった。見あげれば厚く暗い雲が空を覆い尽くしている。雨足は次第に強くなり、やがて世界が滲んで見えるようになった。

 ロータリーに横づけしたタクシーから降り、雨を避けて足早にアーケードに駆けこむ。その駅は、地下鉄に加えJRの在来線も乗り入れている大規模な駅だった。服についた雨粒を払いながら通路を進むと、改札口の手前で声を張りあげている年老いた女性がいた。

「お願いします! どんな些細な情報でも構いません。ご協力お願いします!」

 女性は往来する乗客一人ひとりに頭を下げ、手に持ったチラシを配っていた。受け取る客は十人に一人いるかどうかだ。誰もが一瞥さえくれず、足早に通りすぎていく。

 里村敦子―――万亀男を生んだ女性、つまりは母親である。

 万亀男が近づいていくと、敦子は顔を輝かせた。

「万亀ちゃん、来てくれたんだ。無理しなくてもよかったのに」

 万亀男が自らの性的指向をカミングアウトして以来、敦子は息子のことを万亀ちゃんと呼んでいる。敦子は〝男〟の文字が余分だったかと、朗らかに笑いながら、何一つ万亀男を責めることがなかった。

「―――万亀男が自分で決めたなら、思うように生きなさい。どうせ私の方が先に死ぬんだもの、残るあんたが遠慮することなんてないわよ」

 敦子がくれたその言葉に、どれほど勇気づけられたことか。万亀男は敦子の子供に生まれてこられたことを心から感謝した。

「今日は何時からいるのよ?」

 万亀男が無愛想に尋ねる。

「今朝は寝坊しちゃってね。七時からのラッシュ時間帯に間に合わなかったのよ。一番人が集まるっていうのに、駄目な母親だよねぇ」

「お昼ご飯は食べたの?」

「もちろん。おにぎりを一つむすんできたから」

 確かにそれくらいの量で足りそうな小さな身体である。母が年々小さくなっていくように思える。事件以来、その速度がさらにあがった気がする。万亀男は敦子の抱えていたチラシを奪い取った。

「ちょっと休んでて。私が配るから」

「ありがと。万亀ちゃんは優しいねぇ」

 そう言って、敦子は壁際に置いてある鞄の元へ近づいていった。予想通り新しいチラシを取り出してきて、少し離れた場所で配りはじめる。どうせ文句を言ったところで、「二人で配ったら可能性が二倍になるでしょ」と微笑むだけなのだ。

 万亀男は声を張った。

「目撃情報を探しています! お心当たりのある方は一声かけてください! どうか助けてください!」

 予想通り敦子以上に受け取ってくれない。それどころか、遠巻きに通過する者がほとんどだ。外見が変われば他人の見る目も変わる。オッサンのワンピース姿など、通りすがりの若い母親が子供の目を覆う気持ちもわかるってものだ。

 それでも万亀男は声を張りあげ続けた。

 微かな可能性を信じて―――。


5


 旅路を祝福するように、よく澄んだ青空が遠くまで広がっていた。空の高いところに細長い飛行機雲が一本だけ浮かんでいる。

 六時に起床した悠人は、細かな荷物を車に積みこんだ。運転席に乗りこみ、いざ念願の一人旅に出発しようとエンジンをかけたとき、起動したナビが話しかけてきた。

 ―――携帯電話にブルートゥース接続ができませんでした。携帯電話を忘れてはいませんか?

 胸ポケットを探ると確かに携帯が見当たらない。悠人は思いだした。先日、説明書を片手にナビの設定をしていたとき、運転中にも電話ができる機能があると知って設定しておいたのだ。まったく至れりつくせりな時代になったものだ。

 悠人は携帯電話を取りに一度部屋に戻った。ナビさん、ナイスアシスト。幸先のよいスタートに、階段を上る足取りも軽やかだった。

 そうして、ようやく出発のときを迎えた。

 今回の目的は西日本の縦断だ。悠人の住む名古屋から、四日をかけ最終目的地である鹿児島の桜島まで行く予定だ。一日目のナビの行き先は大阪に設定した。高速道路を使えば三時間ほどの距離だが、下道で行くつもりだった。急ぐ必要はない。昼過ぎに到着して、自転車で街の中心街を回る。道頓堀でたこ焼きを食べ、なんばグランド花月で吉本新喜劇も観たい。大雑把な目的地しか決めていない自由旅行だから、そのときの気分で決めればいい。一人旅なので誰に気を遣うわけでもない。自分のやりたいことだけをやる。そんな旅にするつもりだった。

 おはようございます、今日も安全運転で行きましょう、と恒例のアドバイスをくれたナビのお姉さんも、今のところ、奇妙な言葉を発する様子はない。やはり、聞き違いだったのだろう。しっかり誘導に従って運転しているので、機嫌がいいだけかもしれないが。

 ―――この先、踏切があります。ご注意ください。

 市内をようやく抜けだした頃、ナビが話しだした。ちょうどラッシュ時間帯に差しかかり、車の数も電車の通過本数も多くなっていた。交差する道から右折してきた車が交差点内で詰まり、踏切ひとつ手前の信号をなかなか渡ることができない。もう二度も信号は赤から青へ、青から赤へと変わっている。次こそは無理をしてでも突っこむぞ、と気合を入れたとき、ナビの台詞がまたおかしくなった。

 ―――この信号を左です。

 まただ。やはり、昨日の言葉もナビゲーションシステムの不具合だったのだろう。ナビつきでお得だと煽っておきながら、実は故障した中古品を掴まされたのだ。どうりで値段も安いはずだ。

 ようやく踏切があがり、前方の車が動きだした。交差点内に無理やり突っこんでいた右折車が向きを変えている間に、正面の信号は再び黄色へと変わろうとしていた。悠人は思いきってアクセルを踏みこんだ。

 やっとの思いで交差点を渡りきったとき、「―――停まって!」と叫ぶ女性の声が聞こえた。機械的ではない感情のこもった声だ。悠人は思わず急ブレーキを踏んだ。後方で激しくクラクションが鳴らされ、後続の赤い軽自動車が反対車線に大きくはみだして、悠人の車を追い越していった。中の運転手がこちらを睨みつけ、悪態をついているのが見えた。

 ハンドルを強く握りながら、悠人はナビの液晶画面を見つめた。こいつが叫んだのだろうか? 女性の声は確かに車内から聞こえた。念のため車の外を見渡してみたが、近くに人影はなかった。

「だ、誰か、いるの?」

 悠人は何もない空間に、おどおどと声をかけた。返事はない。視線は自然とナビに向く。悠人は恐るおそる指を伸ばし、画面をつつくようにタッチしてすぐに引っこめた。電子音が鳴りメニューが表示されただけで、特別変わったことは起きない。悠人は急に可笑しくなって鼻で笑った。やはり疲れているのかな。

 右折してきた車が次々に悠人の車を追い越していく。カンカンカンと警笛が鳴りだし、遮断機が降りはじめた。悠人は気を取り直し、車を列の最後尾につけた。先ほど追い越していった赤い軽自動車がちょうど遮断機の手前で停まっていた。悠人の車があのまま直進していても、どの道踏切を渡りきれなかったらしい。

 スピーカーから妙な雑音が鳴りはじめたのはそのときだった。耳障りな高周波がうねるように大きくなっていく。

「私は……あなたを知っている……」

 囁くような声だった。雑音の中にその声の輪郭を捉えた瞬間、後方で幾つものクラクションがけたたましく鳴らされた。驚いてサイドミラーを覗くと、一台の大型トラックが赤信号を突っきり反対車線を逆走してくるのが見えた。物凄いスピードで悠人の乗るワンボックスカーの横を通りすぎ、風圧で車体が大きく揺れる。大型トラックの軌道が不安定になり、ガードレールに横っ腹を擦りつけながら進んでいく。そして、ついに電柱に突っこんだ。フロント部分を軸に回転し跳ね返った大型トラックは勢いそのままにスライドし、先頭に並んでいた赤い軽自動車に衝突した。押しだされた形の軽自動車が、遮断機を越えて線路上に飛びだした。甲高い警笛の音と鉄が擦れるブレーキ音が聞こえる。突如右から現れた巨大な電車車両が軽自動車を轢きつぶすようにしてぶつかった。弾き飛ばされた車体の一部があり得ない大きさで弧を描き空を舞う。そして、逃げ惑う人々の真ん中に落下した。脱線した電車車両が大きく傾き、横倒しになりながらすべてを薙ぎ倒して滑っていく。すべての動きが止まったとき、辺りは大惨事になっていた。

 遠くで絶え間なく女性の悲鳴が聞こえる。車から降りた人々が蛇のように折れ曲がった電車車両を呆然と見つめていた。

 悠人は自分が震えていることにようやく気がついた。もしも、あのまま直進していたら、間違いなくあの惨劇の中に自分がいたのだ。

 悠人はじっとナビの画面を見つめた。

「もしかして……助けてくれたの?」

「―――やっと言うことを聞いてくれたね」

 悠人は仰け反って、シートにきつく背中をぶつけた。はっきりと意思を持った女性の声だった。しばらく声も出せぬまま、液晶画面を見つめる。

「助けてあげたんだから、お礼ぐらい言ってもいいんじゃないの?」

「な、何なんです、あなた。いったい何なんだ!?」

 悠人の声が完全に上擦っている。

「私にもよくわからないのよ。気がついたらこういうことになっていて」

「こういうことってどういうことですか。トランスフォーマーとか、ナイトライダーとか、そういった科学的なやつ? もしかして、どこかから遠隔操作されているとか?」

「ごめんなさい、そういうオタクっぽい話はよくわからないんだけど、違うと思うよ。私、自分が誰だか知っているもの」

「それじゃ、あれでしょ、都市伝説だ! ナビの誘導に従って走っていくと、その先には崖があって……」

「こんな都会のどこに崖があるのよ」

 なるほど、と納得しそうになり、いやいや、と首を振る。さらに問い質そうとしたとき、再び雑音が大きく鳴りだした。遠く太鼓の音がして、エイヤー、アー、と民謡のような声が混ざる。その雑音の中に奇妙な声が聞こえはじめた。

 ―――嫌だ、嫌だ、嫌だ! 何なんだ、お前ら! うわっ、やめろって! その手を離せ! 俺をどうするつもりだ!? た、助けてッ、ギャァァァァァァァァァァッ!

 思わず顔を顰めてしまうような断末魔の声だった。胸の奥を得体の知れない触手がヌメヌメと這い回っているように嫌な感触が広がっていく。悠人は我知らず両腕で身体を包むようにしていた。全身の肌が粟立っている。その雑音は静かに消えていった。

「な、何なんですか、今の声……」

 口の中が渇ききっていた。悠人は慌てて唾を飲みこんだ。

「さっきのトラックの運転手よ。あちらの世界に連れていかれたのね。酔っ払い運転だったみたい」

「あちらの世界ってどこですか? 誰が連れていくの?」

「さぁ、私にもよくわからないよ。死神なのか、鬼なのか、実体が見えているわけじゃないからね。どっちにしろ、それはただの呼び名の違いだし、実際私に見えているものはオーラみたいな色だけだから。つまりは案内人でしょ」

「案内人ってどこへの?」

「悪人が行くところといったら決まってるじゃない―――地獄よ」

 悠人は言葉を失った。そんなものが実際に存在するというのか。死後の世界が……。

「どうしてそんな声が、このナビから聞こえてくるんですか?」

 精一杯虚勢を張って尋ねる。膝が微かに震えていることを悟られないように両手できつく掴んだ。悟られるって誰に? と問い質し、さらに膝が震える。

「私の存在が二つの世界の仲介役になってるのかもね」

「もしかして、事故が起こることを知っていたの?」

「周りの色が変わりはじめていたからね。あいつら死の匂いに集ってくるのよ」

「死期が見えるってことですか?」

「ええ、こちらの世界では、はっきりとオーラが映っているから」

「こちらのって……っ!」

「―――私、殺されたのよ」

 あっけらかんとその声は言った。私、牡羊座なのよ、と同じ口調で。

「殺された!? それじゃあ、幽霊なの?」

「まぁ、そんなとこなのかな。自分でも上手く説明できないけど」

「どうして僕を怨むんですか!?」

「怨んでなんかいないわよ。憑りついているだけでしょ」

「そっちの方が怖いし!」

 悠人は思わず声を荒げ、髪の毛を掻き毟った。きつく目を瞑り、抱えた頭を何度も横に振る。いったい、何なんだ、何が起こっているんだ!

「まぁまぁ、そんなに取り乱さないで。とにかくこの場を離れた方がいいんじゃない。ここじゃ、救助隊の邪魔になるわ」

 ナビの声に、悠人は薄く目を開けた。遠くから消防車や救急車のサイレンの音が近づいてきていた。多くの車両がUターンを始めている。踏切は脱線した電車車両で完全に遮断され、前方には進めそうもない。悠人は浅く息を吐きだし、ハンドルに手をかけた。

 車をUターンさせている間、自らが目の当たりにしているこの奇妙な現象を顧みる。とにかく、落ち着け、落ち着くんだ。きっと何か仕掛けがあるはずだ。だって、こんな非現実的なことがあるわけない。

「―――私、殺されたのよ」

 その台詞が頭の中で何度もリフレインされる。幽霊と知りあいになどなりたくもなかった。


***


 引き返してきた悠人はコンビニエンスストアの駐車場に車を停めた。お揃いの制服を着た店員までもが外に出てきて、事故現場の方を呆然と眺めている。立ち上る黒い煙が青い空を汚していく。認めたくはないが、事故は確かに起こったのだ。

「……まだ、居るの?」

 ストレスから来る幻聴だった事を期待して、思いきって声をかけてみる。

「私? もちろん居るわよ」期待に反し、暢気な声が返ってくる。「私、里村美桜って言います。悠人君の苗字は?」

「な、何で僕の名前を知ってるんですか!?」

「だって、この前乗せた彼女さんが言ってたじゃない。んーと、離婚間近の奥さんだっけ?」

「えっ、あのときから、ずっと聴いていたんですか?」

「まぁね。だって、急に話しかけたら怖がられるでしょ」

「今でも、十分怖がってますけど……」

「今回は緊急事態だったんだから仕方ないじゃない。この車ごとスクラップになっちゃったら、私自身も存在しなくなっちゃうわけだし」

「やっぱり、この車に憑りついているんだ」

「どうなのかな。交信手段はこのナビしかないみたいだけど」

「でも、どうしてこの車なんですか? 今時ナビなんてどの車にでもついているでしょ?」

「想像なんだけど、私とこの車との縁が深かったからじゃないかな。私、この車で拉致されたのよ」

「なっ! それじゃあ、この車、犯罪に使われた車なんですか!?」

「まぁ、そういうことになるのかしら。曰くつきってやつ? 世の中、何もかも値段なりの理由があるものよ」

 そう言われると、なんとなく血の匂いがするような気がしてしまう。悠人は平静を装って窓を少しだけ開けた。外に出ていた大学生風の店員が不思議そうに悠人を見つめていた。視線がぶつかると、店員は慌てて顔を背けた。独り言を呟く中年男性。ああ、怖い。

「で、苗字は?」

 美桜が訊く。店員が店の中に入ったのを確認してから、悠人は口を開いた。

「自己紹介って必要でしょうか?」

「そりゃあそうでしょ。お互いの素性を知らなくちゃ、話もできないじゃない」

「菱見」

「菱見悠人。へぇ、かっこいい名前だね。歳は?」

「三十歳」

「年下なんだ。私、三十三歳。これ以上は歳を取らないから、そのうち追い越されちゃうね」

 気のいい親戚のお姉さんと話しているようにしか思えない。恐怖心はすでに薄まりつつあった。

 悠人は一番気にかかっていたことを尋ねた。

「さっき、殺されたって言いましたよね。誰に殺されたんですか?」

「わからない。その辺の記憶がどうも曖昧なのよね」

 嫌な予感が頭をよぎる。首の後ろ辺りがチクチクと痺れる。

「もしかして、この車の中で?」

「それは違うと思う。もっと広い場所だったように思うんだけど、はっきりと思いだせないのよね。頭に靄がかかったような感じで。あれは何の匂いだったんだろう。どこかで嗅いだことのある、埃っぽくて湿気た匂い……。心が思いだすことを拒否してるみたい。もしかしたら、嫌な思い出なのかもね。あっ、殺されたんだから当たり前か」

 美桜は可笑しそうに笑った。笑う幽霊というのもどんなものか。美桜と話をしている限り、悲壮感のようなものはまったく感じられなかった。

「それで、僕にどうしろっていうんですか? 成仏せずに目の前にっていうか、耳の前にですけど現れたってことは、この世に思い残したことがあるってことでしょ」

 美桜は少し間を置いた。

「私を殺した犯人を見つけて欲しいの」

「ああ、やっぱりね―――」悠人は大きく鼻息を漏らした。「でも、どうして、僕なんですか?」

「あなたがこの車を買ったから。縁とかって信じる? 私はそういう見えない力って存在していると思うの」

「悪いんですけど、他を当たってくれませんか。僕だって忙しいんです。せっかくの長期休暇だし、やりたいこともあるし」

「私ね―――時間がないの。もうじき消えてしまうんだと思う。それだけはわかるの」

 美桜が真剣な口調で言う。すがるようなその物言いには切羽詰った感じがあった。泣かれたら嫌だな、と思う。声だけで泣かれたらさぞ怖そうだ。

「消えてしまうって、天国に行っちゃうってこと?」

「さぁ、自分のオーラは見えないし。私のまわりではあいつらの声が聞こえないから、地獄ではないと思うんだけど……」

 美桜だってすべてを知っているわけではないのだろう。その言い方には普通の女の子が示すような戸惑いが感じられた。彼女だって怖いのだ。

「それで、犯人を見つけてどうしようっていうんですか?」

「わからない。でも、理屈じゃなく、本能が犯人を見つけなくちゃいけない、って強く訴えかけてくるのよ」

 もう何が何だかわからなくなってきた。

 悠人は、ああーっ、と叫びながら、耳に手の平を何度もぶつけた。

「ちょっと何してるのよ、急に大きな声出して。もしかして、私の声が聞こえないようにしてるとか? そんな小学生みたいなことしないでよ」

「いいんですっ。僕の勝手でしょ」

「怒ってるの?」

「別に怒ってませんよ! 不思議に思ってるだけです。僕、幽霊と会話しているわけでしょ。誰に話したって信じてもらえそうもない」

「怒ってるじゃない」

「だから、怒ってないって!」

 言葉とは裏腹に口調は自然ときつくなってしまう。悠人はただ、自らの精神が異常をきたしていないことを、声を出すことによって証明したかっただけだ。

「命の恩人の願いをきいてくれたっていいでしょ。ほんと薄情な男だねぇ。そりゃあ、奥さんにも逃げられるわけだ。あぁ、悲しい。あぁ、ムカつく。いっそ呪い殺してやろうかしら」

「逃げられたんじゃない、二人で相談して別々に暮らすことにしただけです! それに、美桜さん、この車に憑りついているんでしょ。人になんて憑りつけないんじゃないですか?」

 痛いところをつかれたのか、美桜が押し黙る。やがて、恨めしや~と小さな声で囁きはじめた。

 それでも黙っていると、美桜が呟くように言った。

「……私だって自分の置かれた状況が信じられないもん。この歳で死ぬなんて思ってもみなかったし」

 そりゃそうか、と不憫に思いもしたが、頭を振った。これは本当に現実なのか? とにかく一度距離を置いて整理しよう。そう思い、悠人はドアを開けて、車の外に出た。

「ちょっと、どこ行くのよぉ? ねぇって……」

 美桜の問いかけを無視し、悠人は後ろ手にドアを閉める。

 悠人はコンビニエンスストアの店内に入り、温かい缶コーヒーを買って戻ってきた。車に向かいかけて立ち止まり、少し離れた場所にあるガードレールに腰かけた。

 空を見上げれば、昇りたての太陽が普段と同じように悠人を照らしていた。ポカポカと柔らかな日光の心地よさにそっと目を細める。

 事故現場では今も救助活動が行われていた。警察によって規制線が張られ、多くのマスコミ関係者も到着しつつあった。現場に踏み入ったレポーターが事故現場の凄惨さを興奮した様子で伝えているのが見える。そのあまりの非現実感に、自分のいる場所さえ不確かなもののように思えてきた。

 プルトップを引き、コーヒーを一口飲んだ。舌に広がる苦味だけが、現実に繋ぎ留めてくれる。いったい自分は、どこに迷いこんでしまったのだろう。本来なら今日の正午には、道頓堀辺りではふはふ言いながら美味しいたこ焼きを食べているはずだったのだ。まったく、計画倒れもいいところだ。あんな車を掴まされたばっかりに。

 辺りを見渡せば、徐々に野次馬たちが集まりはじめていた。人々の中からは、酔っ払い運転だったらしいだの、死傷者はかなりの数に上るらしいだのと、恐ろしい言葉の数々が聞こえてきた。

 ふいに事故直前の状況が思いだされた。サイドミラーに映った暴走する大型トラック。巻きこまれる軽自動車。視界の端から突如現れた電車車両と耳を劈く急ブレーキの音。

 いざ冷静になってみると、自分は本当にラッキーだったのかもしれない。あんな大惨事に巻きこまれるはずのところを無事生還したのだ。自分が死んでいたかもしれないと想像したら、急に背筋が寒くなった。

 自分は今こうして生きていて、呼吸をしコーヒーまで飲んでいる。舌に広がる苦さも、照りつける日光の心地よさも、本来ならもう感じられずにいたかもしれないのだ。この奇跡は幾ら弁明しようと、あの車に憑りついていた美桜のおかげだった。

 冷たく突き放しすぎただろうか。そんな後悔がじわりと心の表面に浮かびあがってくる。彼女は悠人に助けを求めていた。自分を殺した犯人を見つけて欲しいと―――。美桜に聞かされた話は、確かに同情すべき事件で、彼女は明らかに被害者なのだ。

 いったんそう思ってしまうと、後悔の種は悠人の後ろめたさを栄養にどんどん育っていった。美桜と交わした会話を思いだす。悪い奴ではないのだ。若くして未来を奪われた憐れな女性。

 ふと事故の直前、美桜が口にした台詞が思いだされた。

「私は……あなたを知っている……」

 あれは、どういう意味だったのだろう。まさか、以前に会ったことがあるというのか。いや、僕に関わる事実を知っている、という風にも取れなくはない。

「はぁ、仕方ないか。……結局、断りきれないんだよなぁ」

 悠人はガードレールから腰をあげた。気になるのなら確かめればいい。彼女は幽霊のくせに話をできるのだから。

 車内に戻ると、美桜が畳みかけるように話しかけてきた。

「もう、どうして黙って出ていくのよ! 置いていかれるのかと思って、不安になったでしょ!」

「そうしようかとも思ったんですけどね、やめました。ちょっと気になったことがあって」

「気になったこと?」

「はい。美桜さん、さっき、僕を知っている、って言いましたよね。あれって、いったいどういう意味だったんですか?」

「え、私、そんなこと言ったっけ?」

「言いましたよぉ。『私は……あなたを知っている……』って、いかにも意味ありげに」

 悠人は、美桜の口調を真似して言った。

「何か、昔のナンパみたいな台詞ね。うーん、ごめん、全然覚えてないや」

 美桜があっけらかんと答える。その軽さに、悠人はガクリと肩を落とした。

「まぁ、きっと大したことじゃないわよ。それで、どうなの? 手伝ってくれるの?」

 ねぇねぇ、と問い詰める。まったくこの幽霊はっ!

「わかりました! 僕にできることなら手伝いますよ、犯人捜し」

「本当に? やったーっ! 正直、断られたらどうしようかと心配してたのよ、ほら、わたし、一人じゃ身動きできないし」

「やっぱりそうなんだ。いいこと聞いちゃったな」

「だからって、呪い殺すことはできるかもしれないけどね。フフフ」

「……そういうの、やめてくださいって」

「冗談よ。でも、悠人君なら、きっと戻ってきてくれると思ってたわ」

「どうしてですか」

「だって悠人君、お人好しだもの」

 美桜がくすくすと笑った。完全に見抜かれていたらしい。

「勘違いしないでくださいよ。僕はただ一人旅のついでに犯人捜しを手伝ってあげようって言っているだけなんですから。この先は、僕の好きなように行動させてもらいます」

「はいはい、わかってますよ。照れ屋さん」

 相手は年上のお姉さん(少なくともあと三年は)、完全にお子様扱いだった。

 目的地変更―――悠人の一人旅は、ちょっと奇妙な二人旅に変わった。