暮れの膳~宝と掛取りと師弟の年越し蕎麦~


 大晦日。東京都、某所。

 駅から伸びる商店街の、さらに一本奥の路地へ入ったところにある店の軒先で、飾ったばかりのしめ縄飾りを見上げた若き店長、御所雄里は満足げに白い息を吐いた。

「今年も一年間、おおきにな。来年も、よろしゅう頼むで」

 雄里が声を掛けたのは、自身の店「とりい」。落ち着いた雰囲気と、家庭的な料理が売りの小さな居酒屋である。

 昨晩は通常営業していたため、閉店後に調理場だけを徹底的に掃除し、大晦日の今日、早朝から客席や表に取り掛かってようやく今、全ての掃除を終えて、しめ縄を飾ったところだった。

「雄里くん。おはよう」

 聞き馴染んだ声に振り返ると、とりいの裏に住む妙が愛犬のタロと共に立っていた。お気に入りである雄里との遭遇に、喜びを隠しきれない様子でタロが突進してくる。しゃがんでそれを待ち受け、熱烈なタロの挨拶を笑顔で受ける。抱擁を交わしてから視線を上げると、妙が持つ大きめの荷物が目に留まった。

「あれ、妙さん。どっかお出かけですか?」

 尋ねると、妙は柔らかな笑みを湛えて頷く。

「えぇ。年末年始は息子夫婦と一緒に箱根に行くのよ。今は犬も一緒に泊まれるお宿があるんですって。すごいわねぇ」

 頬に手を当てて言った妙に、どこか誇らしげな様子でタロがクンと鼻を鳴らす。犬を飼っていると旅行に行けないという話をよく聞くが、一緒に連れていけるのであれば、妙も安心だろう。

「へぇ、一緒に行けてよかったなぁ、タロ。妙さんも、息子さんらとゆっくりしてきてくださいね」

「うふふ。ありがとう。雄里くんも、どうぞよいお年を。コトちゃんによろしくね」

 駅に向かう妙とタロを見送ってから、雄里はあらためてしめ縄飾りを見上げた。

「さてと、店はこれでええとして。次は二階やな」

 朝早くから動き出したおかげでまだ午前中ではある。だが、掃除というのは不思議なもので、取り掛かるまでは手早く終わらすつもりであっても、やり始めると、徹底的にやりたくなる厄介なものなのだ。自分の性格もあるのだろうが、気合を入れなくては今年中に終わる気がしない。

「昼食までに、せめて半分は終えたいなぁ」

 言いつつ大きく肩を回した雄里の耳が、こちらへ近づく靴の音を拾った。

「雄里、掃除は終わったか?」

 背後から掛けられた声に、雄里は敢えて渋い表情を伴い振り返った。

 予想した通り、そこに立っていたのは一風変わった若い女。黒いダウンジャケットに同色の細身のパンツ、足元を固めるゴツめのブーツもまた黒く、唯一ジャケットの下から覗くニットだけがかろうじてグレー。そんな全体的にモノトーンのクールな装いだが、それが彼女の整った容姿を際立たせていた。

「朝っぱらからどこ行っとったんや、コトハ」

 責めるように低く言うと、見慣れた無表情が、視線の先でこくりと首を傾げた。女性にしては精悍な、しかし女性らしくもある大きな青灰色の瞳が、からかうように僅かに揺れる。同時に耳下で切り揃えたワンレングスの金髪が、首の動きに合わせてサラリと広がった。

「町内会長のところだ。昨日ついた餅を分けてくれるというのでな」

 そう言って、コトハがビニール袋を掲げて見せる。そう言えば昨年も商店街の年末イベントで餅つき大会を行っていた。今年はそれが昨日だったらしい。

「それにしても、まるで掃除が終わるんを狙ったかのようなタイミングでのご帰宅やなぁ?」

「何だ、手伝ってほしかったのか? それは悪かったな。おれが居ては邪魔になるだろうと、気を利かせたつもりだったのだが」

 信憑性の欠片も見えない台詞に、雄里は眉間を押さえて小さくため息をついた。居ても戦力にならないことは間違いないが、こうもいけしゃあしゃあと言われれば腹が立つのがヒトの性というものだ。しかし、彼女を相手にこれ以上の言及が意味を成さないこともまた事実。それが雄里の長年の友人、葛城コトハという存在なのだった。

 腹立たしさをため息一つで収めると、雄里はコトハを見遣って言う。

「他はえぇから、お前はちょお自分の部屋片付けや。どうせ散らかし放題で足の踏み場もないんやろ」

 居住区である店の二階の一室をコトハに明け渡しているのだが、いつ覗いても大量の服や書物でごちゃごちゃと散らかっている印象しかない。しかし、いくらコトハといえども、一応は女性である相手の部屋を勝手に掃除するのは躊躇われて、実は内心でやきもきしていたのだ。

「年に一回くらい、あの部屋をすっきりさせたれや」

「ふむ。雄里は、どうやら大きな勘違いをしているらしいな」

 こちらを見上げたコトハが、腕を組んで不服そうな口調で言った。

「何やねん、勘違いって」

「いいか、雄里。あの部屋はな、決して散らかっている訳ではない。あれは、絶妙に計算し尽くされた、おれにとって有益で完璧な配置なのだ」

 ふんと鼻を鳴らし、片付けられない人間の常套句を言い放ったコトハへと、雄里は素早く手を伸ばした。

「下らんこと言うんは、どの口や? あぁ?」

 不穏な空気を察したコトハが逃げるよりも早く、その頬を両手で掴むと、そのまま左右に引っ張る。白く柔らかな頬が伸びて、普段は硬化したかのように動かない彼女の表情に、感情の伴わない笑みが浮かぶ。

「――痛い。最近、口よりも先に手が出ているぞ。少々ツッコみが手抜きになってきたのではないか?」

 何とか雄里の手から逃れたコトハが、両手で頬を押さえつつ恨みがましく言う。そんな友人へと、雄里はにっこり笑って言ってやる。

「毎回律儀にツッコんどったら、こっちの身がもたんでな」

「あぁ、嫌だ嫌だ。帰って来るなりお小言とは。これではまるで姑じゃないか。口うるさい男はもてないのだぞ、雄里」

「片付けられへん女よかマシや。ええから、さっさと掃除してこい」

 低めた声から雄里の静かな怒りを察したらしいコトハは、反論を諦め小さく肩を竦めるに留める。姑どころか、これではまるで小学生の母親ではないか。

 気だるげな様子で店内へ入っていくコトハにため息をつきつつ、雄里もその後に続く。店内の掃除は終わったが、居住区である二階はほぼ手つかずの状態だ。コトハと違って自室はある程度片付いているが、風呂場やトイレなどの水回りは、風を通すためにも日の高いうちに掃除しておきたい。

「何とか、日が変わるまでには終わらせんとやな」

 自分を鼓舞するように言った雄里は、パーカーの腕をまくりながらまずは風呂場へと向かった。


 タイル目地の黒ずみと格闘し始めて、十分ほど経った頃だろうか。水音に混じって、何かが聞こえた気がして、雄里はタワシを動かす手を止めた。

「――? 何の音や?」

 不思議に思いつつシャワーの水を止める。さては、片付けに飽きたコトハが何かしているのではと耳を澄ますと、今度ははっきりとその音が聞こえた。木琴のような、しかし間違いなく電子音だと分かる音が、一定の間隔で響いている。一瞬何の音かと考えて、そしてようやくその出所を思い出す。

「俺のスマホか!」

 店内に持ち込むこともあるので、普段はマナーモードが常なのだが、今日は店がないのでマナーモードを解除していたのを忘れていた。音を聞いても久々すぎて一瞬ピンとこなかったのだ。

 そんなことを思っている間も、コロンコロンと規則的な音は続いている。

「はいはいはい!」

 慌てて風呂場を飛び出した雄里は、濡れた手を拭いつつ、脱衣籠の中に置いてあった端末を掴むと、ろくに画面も確認しないまま応答表示をタップした。

「はい、もしもし?」

「よーう、雄里! 元気かー?」

 端末から聞こえてきたのは、よく通る張りのある男の声。聞き覚えがあるその声から、雄里の脳が無意識に該当する人物を検索し、そして一人の男の顔を浮かばせる。

「……水無瀬先輩?」

「おう。久しぶりだなー」

 楽しげに言った声の主は、雄里の短い大学生活の中で得た友人、水無瀬新汰だった。

 水無瀬は雄里の三年上の先輩にあたる。大学にいる時間よりもバイクで日本中を旅している時間の方が長いような自由人でありながら、誰とでも打ち解けるコミュニケーション能力の高さで縦にも横にも交友関係が広く、学内ではちょっとした有名人だった。雄里とは学部も学年も違ったが、同じアパートだったことで仲良くなり、先輩後輩というよりも友人と呼べる関係だ。

 さらに、水無瀬はそのコミュニケーション能力を生かして旅先で出会った人々との会話を取材と称し、フィールドワークとしてまとめることでゼミの単位もしっかりと取得していた。最終的にはフットワークの軽さと取材力を武器に、第一志望の大手新聞社への就職まで決めてしまったのだから、その要領の良さには雄里もただただ驚かされるばかりだった。

 しかし、新聞社に就職した水無瀬は三年前に仙台支局へ異動になり、今も記者として忙しく働いているはずだ。それが、急に電話をしてくるとは、何かあったのだろうか。

「先輩から電話してくるやなんて、珍しいやないですか。何かあったんですか?」

 久々の声に嬉しい反面、若干の不安を感じた雄里に、だが水無瀬は無邪気に言い放った。

「実はさー。今俺、店の前に居るんだわ」

「……は? 店って、何の?」

「だーから、お前の店の前に居るんだって」

 考えるよりも先に洗面所から飛び出して店へ続く階段を駆け下りた雄里は、先ほど閉めたばかりの扉を引いた。

「よっ」

 そこに立っていた男が、片手を上げて短く言う。顔の半分を隠していたネックウォーマーを下げると、六年前から変わらない健康的な顔が満面の笑みを向けた。

「来ちゃった」

 語尾にハートでも付きそうなセリフを吐いた水無瀬に、雄里は思わず脱力する。

「来ちゃったって……どんだけいきなりやねん!」

「近くまで来たもんだから久々に雄里の顔を見に寄ってみたら、休みって札が出てて焦ったわ。あ、これ土産」

 雄里の困惑など気にも留めず、マイペースに水無瀬が土産を差し出す。

「……先輩、今日が何の日か分かってます?」

 手渡された包みを受けとりつつ、引きつる笑みで尋ねると、へらりとした笑みを浮かべたまま、水無瀬の首が傾げられた。

「え? 雄里、誕生日だっけか?」

「アホか! 大晦日や、大晦日!」

 多忙な仕事のためなのか、本人の特性か、どうにも世間的な時間の流れに疎いところは、どうやら今も変わっていないらしい。しかし、こんないい加減な感覚でちゃんと記者の仕事が務まっているのか、はなはだ疑問である。

「あー。そっか、世間一般では今日が大晦日なんだな。どうりで閉まってる店が多いと思ったぜ」

「世間もくそも、日本全国一律で大晦日やから。ちゅうか、来るなら先に連絡してくださいよ」

「いやー、夜中にコイツ飛ばして今朝東京に着いたんだけどさー。連絡する前に目的地に着いちまったって訳」

 そう言って水無瀬が親指で示した先には、彼の学生時代からの愛車である、カワサキW800が停められている。

「って、バイクで来たんですか!? 仙台から!? このクソ寒い中!?」

 信じられない思いで叫ぶも、言われてみれば水無瀬の着ているジャケットは一見お洒落なミリタリー風だが、よくよく見ると防風素材で腕には革の肘当てがついている。そして、厚い生地のジーンズに革のブーツとくれば、ライダーの定番スタイルだ。

「……タフやなぁ」

「そうか? 言うほどの距離でもねぇだろ」

 思わず呟いた雄里に、しかし水無瀬は軽く笑って言う。

 どこまでも自由な先輩を前に、ついため息が漏れるが、しかし変わらないその様子にどこか安心もする。

「相変わらずですね、水無瀬先輩」

「おう、雄里もな」

 日に焼けた顔で楽しそうに笑う水無瀬に、つられて雄里も笑みを零す。

「それにしても、大学を辞めた雄里がまさか居酒屋を開くとはなー。確か、俺が仙台に異動になった翌年からだから、もう二年になるんだっけか?」

「丁度丸二年ですわ。あぁ、ほら先輩。とにかく中入ってください」

「ん、さんきゅー」

 雄里に続いて敷居をまたいだ水無瀬だったが、店内に入ると同時にピタリとその足を止めた。

「先輩?」

 怪訝に思って振り返ると、健康そうであったはずの水無瀬の顔から血の気が引いている。

「ゆ、雄里……。俺、今、見ちゃいけないものが見えてるのかもしれねぇ」

「は? 何を言うとるんですか」

 眉根を寄せつつ水無瀬の視線の先を辿った雄里は、瞬時に理解する。厨房の奥にある居住区に続く階段の側面。そこに添えられているのは、白く細い女の手。そう言えば、見かけによらず水無瀬はオカルト的なものが大の苦手だったと思い出し、眉間を押さえた雄里は上に向かって呼びかける。

「――コトハ。ンなとこから覗いとらんで、こっち下りてこい」

 すると、白い手がすっと消えて、代わりにトントンと軽やかな足音が下ってくる。

「何、珍しく雄里が電話で取り乱していたようだったのでな。色のある話なのかと気を利かせて隠れてみたのだが、その必要もなかったか」

 厨房を回って、いつものカウンター席へと腰を下ろしたコトハが悪びれずに言う。

「期待に沿えんで悪かったな。ちゅうか、そう思ったんなら放っとけや」

「そんな面白そうな場面を前に、このおれが放っておくと思うか?」

 相変わらず身も蓋もない台詞を吐くコトハに、最早言い返す言葉もない。ため息を吞み込んでから、雄里は再び背後を振り返った。

「先輩、ビビらせてもうてスミマセン。ほら前に、探偵やっとる奴にうちの場所を貸してるって言うてたでしょ」

「あっ!? あぁ!!」

 呆けていたらしい水無瀬が、器用に使い分けた音程で疑問と納得を続けて表現する。

「上の一部屋に住まわせてますねん。一応、幽霊ではあらへんから」

 実際のところ、コトハは幽霊でこそないが、ヒトでもない。だが、それこそ説明できないので黙っておくしかない。

「聞いてねぇ! いや、探偵の話自体は聞いてたけど……これは聞いてねぇぞ!」

 勢いよく叫んだ水無瀬が、雄里の両肩を掴んだ。そして、叫ぶ。

「探偵って、女の子じゃねぇか! 住まわしてるじゃない! 同棲だろ!?」

 お約束のように傍迷惑な勘違いをしている水無瀬に、雄里は苦い笑みを浮かべて片手を振った。

「ちゃうちゃう。コイツが一寸変わった仕事の受け方をしとるさかい、俺は場所を提供しとるだけですわ」

「何だよー水臭ぇな! それならそうと早く言えって。一人で店を始めたと聞いたときは驚いたが、なるほど、こういうことだったか。いやー、つくづく俺の想像の斜め上を行く奴だな、雄里は!」

「……おい、ヒトの話聞けや?」

 徹底的に勘違いを貫く水無瀬に、雄里は口元を引きつらせる。どうして自分の周りにはこうも話を聞かない者が多いのか。

「ぐふふ。なかなか個性的で面白い友人だな、雄里」

 面白さの欠片も見えない表情で奇妙な笑い声を上げたコトハは、席から立ち上がると水無瀬の前へ立つ。

「水無瀬さんと言ったか。おれは、葛城コトハ。ここで探偵をしている」

 コトハが右手を差し出すと、その細い手首に絡まった太い鎖がジャラリと鈍い音を立てる。一瞬驚いたようにそれに目をやった水無瀬だが、コトハの服装から、それもアクセサリーの一つと見なしたらしい。すぐにいつもの健康的な笑みを湛えると、コトハの手を握り返す。

「水無瀬新汰だ。雄里の大学時代のダチってところ」

 型通りの挨拶を交わしてから、興味津々の様子で水無瀬が尋ねる。

「――で? コトハちゃんと雄里は、いつから付き合ってんの?」

 やはり、ヒトの話は聞かない性質らしい。これで本当に記者が務まっているのだろうかと余計な心配をしつつも、この場をどうしたものかと額を押さえた雄里だったが、雄里が答えるより早く小さく首を傾げたコトハが答える。

「ふむ。いつからの付き合いかと問われれば、昔すぎて正確には分からんが……雄里が生まれるずっと前だということは間違いない」

「へ? 生まれる前?」

「じ、地元が一緒なんや! コイツが居ったんが、うちの実家のすぐ近くやったんで、俺が生まれる前から家族ぐるみでよう知っとる奴やねん!」

 怪訝な表情を浮かべた水無瀬に、慌ててフォローを入れる。横目でコトハを睨むも、当の本人は己の発言が常人から逸脱していることに気づいた様子もない。いつものことではあるが、こういう時に肝を冷やすのが雄里だけであるという理不尽さに、ため息は自ずと深くなる。

「随分と婉曲な表現だな」

「お前は黙っとけ」

 何故か不満気に呟いたコトハを小声で一喝する。これ以上話をややこしくしたくはない。

「えーと。つまり要約すると、コトハちゃんは雄里よりも年上で、所謂幼馴染ってやつか?」

 気の抜けた様子で言った水無瀬に、雄里は頷く。コトハが年長者であり、雄里のことを幼い頃から知っているという意味では、幼馴染と称しても嘘にはなるまい。ただ、その年長者がとんでもなく年上であるというだけだ。

「……まぁ、大体そんなとこですわ」

 体の良い逃げ口上を告げた雄里に、水無瀬はがくりと肩を落とした。

「なんだよ、色気のねぇ」

「せやから、最初からそう言うてますやん」

 肩を落としたいのはこちらの方だが、何とか誤解は解けたようでひとまず安心する。

「まぁ、とにかく座って。昼飯まだでしょ? 俺らも今からなんで、よかったら食ってってください」

 水無瀬にカウンターの席を勧めると、昨晩掃除したばかりの厨房へ入る。

「助かる。実は、朝から食ってないんだ」

 顔を綻ばせる水無瀬に、雄里は苦笑を向ける。

「まだ正月の準備もなんもできとらんから、大したもんは作られへんけど、材料はたんまりありますで」

「あ。そんならリクエストしてもいいか? 俺、久々にテリヤキのアレが食いたいんだよ」

「テリヤキって、……アレか? え、あんなんでええんすか?」

「アレがいいんだって。たまに食いたくなって自分でも作ってみんだけどさ、どうやっても雄里のみたいに美味くねぇんだよ、これが」

「今やったらナンボでもええもん食えますやろに、物好きやなぁ」

 水無瀬へ苦笑を向けてから、雄里は冷蔵庫の扉を開く。正月用にと買っておいた食材は多々詰まっているものの、下準備ができていないこの状態で使えるものは存外少ない。雄里が取り出したのは、どこにでも売っている油揚げと卵、そして玉ねぎだ。

 薄切りした玉ねぎをフライパンで炒め、そこへ熱湯をかけて油抜きをした油揚げを移し、軽く焦げ目をつける。続けて酒、みりん、醤油、砂糖を入れると、じゅわっと醤油が焦げる音と同時に香ばしい匂いが広がった。

「美味そうな匂いだが、随分と質素な材料で作るのだな」

 興味を持ったらしいコトハが、カウンター越しにこちらを覗き込んで言った。

「所謂、貧乏飯やでな」

「びんぼうめし?」

 首を傾げたコトハへと、水無瀬が苦笑しつつ説明する。

「学生時代って常に金がねーじゃん? だから、必然的に食費を削ることになるんだけど、雄里の作る飯は金がかかってないのに美味くってさ。よくこう次から次へとアイディアが出るもんだと、いつも感心してたんだ」

「ふーん。そんな頃から、雄里の料理馬鹿は健在だったのだな」

 呆れたように言ったコトハを睨みつけつつ、雄里は冷蔵庫からもう一つの調味料を取り出した。

「あ! 味の違いはソレか!」

 目ざとく気づいた水無瀬が声を上げた。にっと笑った雄里が、フライパンへ投入したのはマヨネーズだ。味を調え、さっと卵でとじると、ご飯の上に乗せて青ネギを散らせば完成だ。ご飯を炊いていなかったので、冷凍していたものを使ったのだが、図らずもそんなところまで当時と同じになってしまった。

「はい、ご所望の薄揚げのテリヤキ丼です」

「うわー、これこれ! 懐かしいなぁ。雄里は、〝油揚げ〟じゃなくて、〝薄揚げ〟って言うんだよなー」

 両手で丼を受け取りながら、水無瀬が嬉しそうに言う。

「俺は、薄揚げっちゅうんが方言やて、こっちに来て初めて知りましたわ」

「薄揚げ薄揚げって言うから、最初は何のことかと思ったぜ」

 笑いながら、水無瀬はさっそく焦げ目のついた油揚げを箸で割る。中の白地が見えると同時に、ふわりと湯気が上がった。

「いただきます!」

 油揚げでご飯を挟んで口へと運ぶ。熱さをものともせず咀嚼して、ごくりと飲み込むと同時に、水無瀬の相好がふにゃりと崩れた。

「んあー、美味い! 絶妙な甘じょっぱさと、こってりしたこのテリヤキ加減! 油揚げの焦げたところが香ばしくて、また美味いんだー」

 掻き込む勢いで箸を進める水無瀬を満足げに見下ろした雄里は、待ちわびた様子のコトハへも丼を手渡してから、自分の分を持ってカウンター側へと回る。二人の間に並んで座ると厨房の中から見ている景色が反転する。たまには、客の視点で食事をするのも悪くない。

「うむ。材料を見た時はどんな精進料理が出て来るのかと思ったが、これは所謂精進料理と対極にある味だな。この揚げは麦酒なんかにも合いそうだ。何なら、今からおれが試してやってもいいぞ?」

 口一杯に頬張りながらコトハが言う。ややこしい言い方をしてはいるが、要はコトハもお気に召したらしい。

「ビールに合うっちゅうんは、とっくに検証済みや。せやし、気持ちだけ有難く受けとっとくわ」

 しれっと返すと、ほんの僅かだけ口元を尖らせたコトハだったが、しかしすぐに箸を動かすことに意識を集中させた。そんな友人を横目に、雄里もまた、両手を合わせてから箸をとる。

「うん。やっぱ、決め手はマヨネーズだな。普通にテリヤキにするだけじゃ、コクが足りねーんだよな」

 隣で勢いよく飯を掻き込んでいた水無瀬が、確認するように改めて言う。

「十代の頃は薄揚げの油だけやと、ちょっと物足らんやないですか。ガッツリさを出すために入れとったんですわ」

「はは。貧乏飯、ここに極まれりって感じだな」

「ふむ。他にも、その貧乏飯とやらはあるのか?」

 興味を持ったらしいコトハが顔を上げ、笑う水無瀬に向かって尋ねた。

「もちろん。レパートリーは多かったぞ。月末で金欠になるだろ? そしたら、白飯だけ持って雄里の部屋に行くんだ。すると、もれなく美味いおかずが出てくるって訳。実は、それが何気に月末の楽しみでもあった」

「そら、仮にも先輩が、何か食わせろ言うて乗り込んで来たら、何しか出さんとしゃあないでしょ」

 眉根を寄せつつ言うと、隣でコトハがからかうような視線を向けた。

「と、仕方がなさを装いつつ、内心では自分の料理が美味そうに食べられるのを見て、一人ほくそ笑んでいたのだろう?」

「人聞きの悪い言い方すんなや」

 反論しつつ、しかし悔しいことに完全否定ができない雄里である。

「他にも、もやしチャンプルーだろ? 豆腐ハンバーグだろ? あ! はんぺんカツ丼とかも好きだったなー」

 水無瀬が言うメニューは、どれも材料費が格安の超貧乏料理だ。

「俺、料理するってこと自体が割と苦手なんだけど、雄里の飯は簡単だし、美味いし、最高だったな」

「水無瀬先輩は、大雑把すぎるんですよ」

 精密さが必要となる菓子作りとは違い、料理はある程度適当でもそこそこ様になるものなのだが、水無瀬の場合は適当が過ぎるため、美味とは言い難い料理を作ることが多々あった。

「あ、けど先輩も一個だけ得意料理があったやないですか。ほら、とろろ昆布にお湯かけて、醤油入れただけの超簡単お吸い物! 酸っぱい梅干しとか、じゃことか入れて、バリエーションも豊富でお得やーっちゅうて」

 笑って言った雄里に、水無瀬は少々バツが悪そうに目を細めて苦笑した。

「料理って言える代物じゃねーだろ、あれは」

「でも、一応昆布出汁やし、吸い物の条件は満たしてますやん」

 冗談めかして言うが、とろろ昆布が出汁と具材を兼任するという、ある意味究極の貧乏飯だ。雄里の言葉を受けて、一瞬虚をつかれたようにこちらを見つめてから、水無瀬は堪えきれなかったように、ふはっと笑った。

「すげー。俺がそれを教えてもらったヒトと同じこと言ってるぞ、雄里」

「そら、料理の何たるかを知ってはるおヒトやっちゅうことですわ」

 しれっと返した雄里に、箸を持ったまま水無瀬が口を尖らせる。

「そうかぁ? おれは、偏屈じいさんの単なる屁理屈だったと思うけどな」

 だが、続けて水無瀬は懐かしむような口調で言った。

「――まぁけど、どんだけ貧乏臭くとも、屁理屈料理であったとしても、俺にとっちゃ、どれも思い出深い一品ってやつなのさ」

 すると、聞きに徹していたコトハが、思わせぶりに腕を組んだ。

「ふむ。貧乏飯とはなかなかに奥が深い料理のようだな。これは、後学のためにも是非色々と食してみる必要があると、おれは思う」

 言いながらコトハがわざとらしく横目でこちらを見遣った。この台詞は想定の範囲内だったので、小さなため息一つで承諾する。

「分かった、分かった。そのうちな」

 そうこうしているうちに、皆の箸は止まり、カウンターの上には空の丼が並ぶ。

「あー美味かった! ごちそうさん」

「いやいや、むしろ店まで来てもろうたのに、こんなもんで申し訳ないわ」

 言いつつ、雄里はふと気づく。そう言えば、水無瀬がどうして突然店へ現れたのかを聞いていなかった。いくら自由な水無瀬であっても、単に顔を見に来ただけにしては突然すぎる。

「落ち着いたところで、水無瀬先輩。此処に来たんは、何か用があったんとちゃうんですか?」

「え!? あ、あぁ。えーっと……」

 何故か歯切れが悪くなった水無瀬は、ふいにコトハへと視線を向ける。そして僅かな逡巡の後、驚くべきことを言い放った。

「あのさー、コトハちゃん。ちょっと、俺の依頼を受けてくんねぇかな?」

「先輩!?」

 驚いて声を上げるが、水無瀬の視線はコトハの方へ向いたままだ。

「それは、探偵への依頼ということで良いのだな?」

 確かめるように言ったコトハへと、水無瀬は頷いた。

「うん。コトハちゃんが、一風変わった探偵だってことは、前に雄里から聞いている。まさか、女の子だとは思わなかったけどさ。つまり、えーっと何だっけ」

 宙を見つめて水無瀬が言葉を探す。

「ちょお待って先輩! 一旦! 一旦落ち着きましょ!?」

 何とか思い止まらせようと雄里が叫んだのと、水無瀬がぽんと手を打ったのが同時だった。

「そうだ! 俺に、とりいをくぐらせてくれないか?」

 間に合わなかった落胆から、雄里は渋い顔で額を押さえた。

「――ほう、今年の依頼は雄一の件が最後かと思っていたが、まさか延長戦があるとはな」

 ぐふふと怪しい笑い声を上げると、コトハは不敵な微笑を湛えて水無瀬へと向き直る。

「とりいをくぐったからには、おれは、あなたが依頼したどんな内容でも必ず達成する。ただし、依頼は一言に限らせてもらうがな」

「うん、それも聞いてる。確か依頼達成の報酬は酒なんだろ? ってことは、この店でコトハちゃんに酒を奢ればいいんだよな?」

「うむ。その通りだ。条件を理解しているならば話は早い。では早速、あなたの依頼を聞かせてもらおうか、水無瀬さん?」

 頷いた水無瀬が、すぅっと息を吸う。そして、それを一気に吐き出すようにして言った。

「今日中に、宝を見つけてほしい!」

「宝!? しかも、今日中って……!?」

 予想の斜め上を行く一言に、聞き返した雄里の声は裏返る。またもや裏がありそうな依頼を前に、しかしコトハの目は燦然と輝きを放つ。宝探しなどという小説の中の探偵が好みそうな依頼は、まさにコトハの好みど真ん中だ。

 颯爽と立ち上がったコトハは、腕のバングルをジャラリと鳴らし、水無瀬へ指を突き付け言い放つ。

「今の一言、しかと聞き届けた。葛城コトハの名にかけて、必ずや達成してみせるぞ」

 こうなれば、もう誰にも止めることなどできはしない。雄里は深くなる眉間の皺を指先で伸ばしながら、今年中の大掃除を諦めたのだった。



「――で。具体的に、その宝ってのは何なんですか?」

 いつもの如く、詳細確認を怠るコトハに代わって、雄里が水無瀬へと尋ねた。

「ちゅうか、そもそも今日中ってのはさすがに急すぎやしな」

 つい本音を零した雄里に、水無瀬がパンと両手を合わせる。

「スマン。一寸訳あってさ、時間がねぇんだ。だから、この通り、頼む!」

 そんな先輩の様子に、雄里は小さくため息をつく。理由はどうであれ、コトハが依頼を受けてしまったからには無茶ぶりだろうが探すしかない。

「ふむ。ヒトが欲する宝と言えば、代表格は埋蔵金か」

 水無瀬が口を開くより先に、腕を組んだコトハが言った。

「徳川家康に豊臣秀吉、武田信玄なんかも埋蔵金を隠していると言われているな。真実のほどは、おれにも分からんが」

「ふーん、お前でも分からんねや?」

 別段興味がある訳では無いが、コトハが知らないと言い切ることも珍しい。不思議に思っての問いだったが、コトハは小さく肩を竦めて言った。

「ヒトの宝がヒトの世でどれほど価値があろうとも、それがおれにとって貴重だという理由はないだろう」

 コトハの言葉に、雄里はちらりと隣を見る。普段はつい失念しがちだが、コトハはヒトのようであって実はヒトではない。古事記にもその名を記す古の神――葛城一言主がかつてのコトハの姿だ。

 そして、神であった当時のコトハが、金銀財宝に興味を持ったとは思えない。それは、報酬を金銭ではなく酒でもらうという今のスタイルにも如実に表れている。

「……要するに、興味がなかったんやな」

 ため息交じりに雄里が一言でまとめると、コトハがふんと鼻を鳴らした。

「だが、家康が愛した酒ならば、おれもよく知っているぞ? 忍冬酒と言って、忍冬――今は吸い葛と言ったか、それを用いた酒なんだが、家康の健康に一役買ったと言われている」

「あ、俺それ飲んだことあるぞ。確か愛知を放浪中だったかで見つけてさ、試しに飲んでみたけど、何か甘苦くって不思議な味だった」

 あまり美味しいものではないのだろう。薬酒とは得てしてそういうものだが、それでもコトハの目はどこか羨ましそうだ。

「そういや確か、大神神社は今でも薬祭の際に忍冬を供えとったな」

 奈良にある日本最古と言われる神社の祭典を思い出し、ぽつりと呟くと、何故かコトハが悔しげに言う。

「あぁ、大物主大神。奴とは、もっと懇意にしておくべきだった」

「は? なんでやねん」

「む、知らんのか? 大物主は酒造を司る神でもあるのだぞ! それに京都の松尾神もそうだな。奴らと懇意にしておけば、美味い酒がいつでもたらふく飲めたかもしれんものを……全く、惜しいことをした」

 言い放った理由の下らなさに、呆れて怒る気にもなれない。

「――なぁ、二人とも」

 神妙な様子で口を挟んだ水無瀬の声に、雄里ははっと気づく。今の会話こそ、怪しいことこの上ないではないか。

「せ、先輩……あのですね」

 どう言い繕うべきか。そんなことを考えていた雄里に、水無瀬が勢いよく言った。

「やっぱさ、関西人同士の会話ってのはすげぇな! 即席コントかよ!」

「失敬な。寸劇ではないぞ。おれは、ただ本当のことを――」

「せやなぁ! 関西人の血がそうさせんのかなぁ!? なぁ、コトハ!?」

 反論しようとするコトハの口を両手で塞いで、勢いで丸め込む。そんな雄里の様子に、コトハはやれやれといった様子でこちらを見上げて肩を竦めた。一体、誰のためにフォローをしていると思っているのか。コトハのその態度には腹立たしさを感じなくもないが、何はともあれ誤魔化せたこの場にホッとする。全く、いつもながらに損な立場である。

「そんなことより、依頼の内容や! 水無瀬先輩、あんたも喜んどらんで、早よ本題を話してくれますか?」

「おー。すまん、すまん」

 軽い調子で謝った水無瀬だったが、更に続けてとんでもないことを言い放った。

「実はさー、俺もその宝が何なのか、具体的に知らねーんだわ」

「知らんって……え。ほな、何を探せて言いますねん!?」

「だからさ、宝が何なのかを突きとめることも、依頼の内っつーことで」

 思わず声を荒らげた雄里に、しかし水無瀬は安穏とした口調で言う。

「ブツが何かは分かんねーけど、一応ヒントはあるんだよ」

 そして、ポケットから取り出した紙を広げて、読み上げた。

「えーっと、それは、とある旧家に代々受け継がれている、とにかく美しいもの……らしい。形状は、ヒトの背丈ほどだったり、手のひらに乗るくらいだったりと定まらないし、色も白や赤だったり、黄色の場合もあったりと、これまた一貫性がないんだ」

 まるでなぞなぞのようなヒントに、雄里は腕を組んで眉間の皺を深めた。

「大きさが変わって、色も変わる……? それって、ほんまに実体のあるもんなんですか?」

 単純に大きさが変わってカラフルなものを考えれば、風船など該当しそうだが、まさか風船を宝などと言うはずがない。

「うん、俺が聞いた感じだと、ちゃんと実体はあるような口ぶりだったからな」

 水無瀬の言葉に引っ掛かりを感じ、雄里は小さく首を傾げた。

「あれ? 聞いたってことは、正解を知っとるヒトが居てはるっちゅうことですよね? ほな、そのヒトからもう一回聞き取りをした方がええんとちゃいます?」

「いや、その――昔、取材の関係で、ちょこっと聞いただけなんだよな」

 困ったように笑って水無瀬は言う。近道だと思ったが、そううまくはいかないらしい。しかし、仮にもプロの記者がそう感じたのであれば、宝に実体があるということは間違いないのだろう。だが、そうなると、ますますその正体が浮かばない。

「ふむ。もしや、生物を指しているということはないか? 例えば、鶍などが当てはまるだろう。雄は紅く、雌は黄色と言えなくもない」

「イスカて、確か鳥やろ? そんなデカい鳥やったっけ?」

 雄里は実物を見たことがないが、成鳥がダチョウほどのサイズであれば、雛を手のひらサイズとして大きさの変化も若干苦しいが条件に合う。しかし、当のコトハがその可能性を否定した。

「成鳥でも、雀より少し大きいくらいだったと記憶している」

 悪びれた様子もなくコトハが言う。

「ほんなら、条件と噛みおうてへんやんけ」

「うん。これが本当の〝鶍の嘴〟だな」

 ぐふふ、と真顔で怪しい笑い声を上げるコトハを見て、単にこの下らない冗談が言いたかっただけらしいと察する。どこまでも不真面目な探偵に後頭部へ無言の鉄拳制裁を加えてから、雄里は水無瀬へと向き直った。

「このままやと埒があかへんな。先輩、何かもうちょいヒントになりそうなことはないんですか?」

「うーん。あるにはあるんだけどさー。そっちはあまりに信憑性がないっていうか……」

 水無瀬の歯切れは悪いが、この際どんな些細な情報でもないよりはマシだ。そう言って促した雄里に、腕を組んだ水無瀬は苦笑を向ける。

「だって、家人を厄災から守ってきただの、神様が宿っているだのって話だぜ? それこそ、眉唾モノだろ」

 水無瀬は小さく肩を竦めるが、眉唾者の存在を知る雄里としては、違う意味で苦い笑みを浮かべるしかない。そんな雄里の隣から、件の者が淡々とした口調で言った。

「まぁ、素直にそれらの条件に当てはまりそうな〝宝物〟と考えれば、黄色は小判、紅色は紅玉、白色は絹などが当てはまるのではないか? 絹を織って布にすれば、等身大にもなるだろう」

「小判にルビーに絹か。そりゃ眉唾を通り越して、まるでお伽噺だな」

 肩を竦めた水無瀬に、しかしコトハは淡々と続ける。

「お伽噺というものは、真実を巧みに隠して何かしらの寓意性を孕むものが多い。単なる作り話だと、一概に馬鹿にはできんぞ」

「はは。それもそうだな」

 軽く笑った水無瀬は、続けて言う。

「無理なお願いだってことは重々承知してるんだけどさ。どうしてもこの宝ってのを見つけたいんだ。だからコトハちゃん、名探偵だって聞くその腕を見込んで、よろしく!」

 ぐっと親指を立ててみせた水無瀬の口調は軽い。だが、口調とは裏腹に、その双眸はどこか真剣さを帯びているように、雄里は感じた。

 ――この感じやと、今回もまた一筋縄ではいかんのやろうな。

 ため息を吞み込んで、心の中でそう思う。しかし、今更依頼を断る訳にもいかない。

「先輩。そう言えば、その〝とある旧家〟ってのは、どこにあるんですか?」

 肝心なことを聞いていなかったと気づき、雄里が水無瀬へと問うた。古い家が未だ多く建ち並ぶ地元であればまだしも、都心から外れているとはいえ、ここは都内だ。そもそも、そんな旧家があるような場所まで今から出向いて間に合うのだろうか。しかし、雄里の懸念を払拭するように、水無瀬はあっさりと言った。

「あぁ、実はここから結構近いんだ。青梅市ってところなんだが、車で一時間くらいかな」

「一時間ってことは関東圏ですよね? 埼玉とかですか?」

 聞きなれない地名に、小江戸と呼ばれる川越や、古民家が多く残る所沢を思い浮かべた雄里だったが、水無瀬は首を振ってその考えを否定した。

「いや、関東圏っていうか、東京都内だぞ」

「え、東京!?」

 この大都会東京に、そんな旧家など果たして存在するのだろうか。思わず驚きの声を上げた雄里を、水無瀬が呆れたような目で見遣る。

「雄里……。お前まさか、東京には二十三区以外の市があるってことを知らないんじゃないだろうな?」

「さすがに知ってますし! ちょ、調布とか、八王子とか!」

 反論したものの、関西育ちの雄里は東京の地理に詳しいとは言い難く、上京して六年経つ今となっても、実際のところ二十三区の配置すら正直、明確ではない。

「とにかく、今日中に宝を発見する必要があるのだろう?」

 声に振り返ると、いつものクールなモノトーンコーデから一転、カーゴパンツにマウンテンパーカーと、まるでバックパッカーのような装いのコトハが立っていた。いつの間にか姿を消したと思っていたら、二階で着替えてきたようだ。どうやらこれはコトハなりの宝探しスタイルらしい。

「ならば、善は急げだ。さっそく、その場所へ向かうぞ」

 腰に手を当て小首を傾げた探偵は、そう言うとほんの僅かだけ口元を吊り上げた。