家から持ち出したものは二つ。一つは園芸用のスコップ。もう一つは、お母さんの結婚指輪。

 イチョウの木陰にスコップを突き立てて穴を掘り、私は指輪をその底に埋めた。あれは確か――そう、お父さんが家を出ていった日の夜のことだ。



「あ」

 左右にイチョウの木がずらりと並んだ道をまっすぐ歩いていくと、広場がある。子供部屋くらいの大きさの、まん丸の広場だ。縁に数字が並んでて、真ん中には長い針みたいなものが突っ立ってて、日が当たると円形の広場にも時計の針みたいに細い影を落とす。

 近所の公園の中にある、その時計の文字盤みたいな広場は〝とけいじかけのプロムナード〟なんて名前があるらしいけど、小学四年の私にはそもそもプロムナードがなんなのかわからない。ただ、そこへ行くと、時計の上を歩けるみたいでいつも少しわくわくする。時計の周囲には、イチョウの葉の隙間を抜けてくる光が、地面にリーフ柄の影を落として、なんだか絨毯みたいなのだ。飛行機から見ても、きっと一面のイチョウが絨毯みたいに見える。そしてその真ん中にぽっかりと、奇妙な時計とその上に立ち尽くした自分がいるはずで、それを想像するとやっぱり少しわくわくする。

 並木道の奥の方にあるせいか、普段から人はあまり寄りつかない。たまにジョギングしている人や、犬を散歩させている人がいるけれど、たいてい時計の道の手前で折り返して戻っていくから、わざわざ奥までいくのは私くらいだ。そこは文字通り私の場所だった。誰にも会うはずのない、私だけの、秘密の時計。

 だから「あ」と声がしたときも、私はしばらくそれが空耳だと思っていた。反時計回りに、文字盤の上を歩いてくる女の人がいて、やっと我に返った。

 綺麗な人だった。すらりと細く、色白で、長い髪の毛が木漏れ日を受けて、つやつやときらめいていた。五月のイチョウと同じ、薄緑色のカーディガンの袖から、細い両手が伸びている。私が気がついたのに気がつくと、後ろ手に組んでいた両手をほどいてふんわり微笑んだ。

「こんにちは」

 お母さんの声に似ている、と思った。歳的には、お姉さんという感じだけど。

「こんにちは」

 私は答える。知らない人としゃべっちゃいけません、なんて学校で教えられた気もするけど、この人は大丈夫な気がした。

「ごめんね。もしかして秘密の場所だった?」

「え。なんでわかったの?」

「私を見たときの顔が〝誰だコイツ!〟って感じだったから」

 お姉さんが笑うと、頬にえくぼができる。それは私の知っているえくぼとは違って、すごくキュートだ。私もえくぼはできるけど、自分のはあんまり好きじゃない。なんだかひどく子供っぽい感じがするから。

「本当は秘密だけど、じゃあ、お姉さんは特別ね」

「ほんとに? やった」

 お姉さんは笑うと、日時計の縁に置かれたベンチに腰掛けて、トントン、と隣を叩いた。それもお母さんがよくやる仕草だ。子供扱いされているのがわかって、私はちょっとむすっとする……座るけど。

 おしゃべりでもするのかなと思ったが、私がベンチに腰掛けても、お姉さんは口を開かなかった。私がよくそうするように――日時計に余計な影が落ちないように、そこだけぽっかりと遮る物のない五月の空を見上げて、なにかを見通すみたいに遠くを見る目をしていた。

「お姉さん、どこから来たの?」

 私の質問に、びくっとしたように肩をすぼめる。

「遠いところ」

 と、おどけたように答える。

「でもね、昔この辺に住んでたの」

 そう付け加える。

「お姉さんにとっても、ここ秘密の場所だったの?」

「え、どうしてわかるの?」

 お姉さんの答えで、それが自分のされたのと同じ質問だということに気づいた。

「気づいたわけじゃないけど……カン?」

「カン、かあ。怖いなあ」

 お姉さんの横顔は笑っている。私はふと、その目がどことなく空っぽなのに気がついてしまう。

「お姉さん、なんか元気ない?」

 お姉さんはゆっくりと、私の方に目を向けた。なんだか水たまりに似た瞳だと思った。

「……またカン?」

「ううん。そういう目に見えたから」

 ぱちぱちっと瞬きした後も、その目には確かに、秋の水たまりみたいな揺らぎが漂っているように見えた。

「私ね――」

 初めて、お姉さんが困ったみたいに笑った。

「――今度結婚するんだ」



 小さい頃に、両親が離婚した。本当に、小さい頃のことだ。小学生に、なったかならなかったくらいかの。私はお父さんの顔をほとんど覚えていない。気づいたときには家にはお母さんしかいないのが当たり前で、そのお母さんも私が小学校に上がると同時に家にはほとんどいないようになった。ここ数年、玄関にはぼそぼそとした「ただいま」だけが埃と一緒にこんもりと積もっている。

 私はお母さんの仕事をよく知らない。いつも朝早くに出かけていって、帰ってくるのは夜。お父さんと結婚したときに一度辞めたけど、離婚して私が小学校に上がってからまた同じ仕事に戻ったらしい。お父さんの役目がお母さんに移ったので、お母さんの役目は自然私に移って、結果的にいくつかの家事は私の仕事になった。洗濯、掃除にご飯炊き。友だちでこんなことしてる子はいない。でも文句を言おうにもお母さんは帰ってくればさっさとご飯を作り、さっさと食べ、さっさとお風呂に入って、死んだように眠ってしまう。離婚のことも、今のそういう態度も、なんだか勝手で、私はときどき無性に家を飛び出してしまいたくなる。


 小学四年のゴールデンウィークは盛大な寝坊から始まった。昨日はお母さんの帰りがいつも以上に遅くて、夕飯も遅くなり、結果的に寝るのも遅くなったのだ。目が覚めると、部屋はカーテン越しにもわかる昼時の日差しで明るく染まり、時計の針は二本ともほぼ十二を指している。

 ダイニングにはお母さんの姿があったが、ボサボサの頭を見るにあちらも寝坊したらしい。テーブルにはサラダが出ていて、キッチンからはじゅーじゅー焼けるソーセージのいいにおいがしている。休日の朝って感じだ。

「おはよ。朝ご飯パンでいい?」

「もうお昼だけどね」

 私はあくびしながら、少し突っかかるような口調になった。誰のせいで昨日が遅くなったと。

 気づいたのか気づかなかったのか、お母さんはフライパンを振りながらあごをしゃくる。

「二枚焼いて」

「ん」

 パンをオーブントースターに突っ込んで、冷蔵庫からバターとジャムを出す。お母さんはフライパンの火を止めて、コーヒーを淹れている。香ばしい豆の香りがふわっと台所に広がると、休みの日だなあと思う。平日は仕事前にコンビニで買ってるらしいし、夜はノンカフェインしか飲まないから、この香りは休日しかしない。

 コーヒーのにおいにぼんやり浸っていたら、右側のパンが少し焦げていた。ヒーターの具合が悪くて、右側の熱が強いのを忘れていた。焦げた方を自分の皿に置いて、手を洗いにいく。戻ってくると、ちょうどお母さんがフライパンからソーセージを取り分けるところで、私のお皿に乗っていたはずの焦げたトーストは、いつのまにか当たり前の顔をしてお母さんの皿の方に移動している。チラリと視線を上げると、お母さんは知らんぷり。ちょっとだけ可笑しくなって、胸の中のチクチクが治まるのを感じる。

「いただきます」

「いただきます」

 手を合わせる。

「ごめん、パンちょっと焦げた」

「いいよ、トースター買わないとね」

「真ん中で焼くとちょうどいい。いつも一枚しか焼かないから」

「そうね。朝ご飯一緒なの久しぶりね」

 お母さんは焦げたトーストの端っこを齧って、サクサクでおいし、と微笑む。私は肩をすくめて、自分のトーストにバターを載せる。いつもよりちょっと、多めに載せる。

「テレビつけてくれる?」

 お母さんが言った。

 リモコンに手を伸ばすと、テレビの横に伏せてある写真立てが目についた。たまにお母さんが立てて眺めているのを私は知っている。お父さんとの結婚写真が入っているのを知っている。お母さんがその写真を眺めるとき、見ているのはお父さんだ。でも私はいつも、真っ白なお母さんの花嫁姿の方に目が吸い寄せられてしまう。仕事着姿ばかり見慣れているお母さんの、白い晴れ姿。写真越しにもわかるくらい、キラキラとしてまぶしくて、お母さん自身が輝いているみたいに、それは見るほどに私の目に深く深く焼きつく。

 テレビにリモコンを向けると、お昼のニュースをやっていた。カンジョウセンで引っ越しのトラックが横倒しになったという数日前のニュースだ。運転手が居眠りしていたらしい。

 見ていたお母さんが、コーヒーを飲みながら思い出したようにポンと言った。

「あ、そうだヨーコ。来月引っ越すからね」

「……は?」

 食べかけていたパンの表面を、溶けたバターがすすーっと滑って、ポトリとソーセージの上に落ちた。肉の脂と混じって、白いお皿にベトベト垂れた。ちょうどいい焼き具合のはずのトーストが、突然口の中で焦げたかのように苦みを増した気がした。ニュースではまだ居眠りをしていたトラック運転手の話が続いていたが、内容はもう耳に入ってこない。

「……なにそれ聞いてない」

 お母さんは平然とコーヒーに砂糖を混ぜている。角砂糖を一つ、二つ。

「仕事の都合なのよ。来月の、十日。今日家決めてきちゃうわ」

 三つ。四つ。

「だから、聞いてない」

 ミルクを少々。なにを呑気に入れているのかとイライラする。

「急だったから」

 ずずっと啜って、角砂糖をもう一つ足した。視線はずっとコーヒーカップの中だ。

「納得できない」

「私だって納得してないわよ。でもしょうがないじゃない」

「しょうがないって、」

 私は失笑して、手にしたままだったパンを乱暴に皿に置いた。角砂糖の入った硝子の器がコトン、と倒れた。

「学校はどうなるの」

「近々手続きしてくるわ――砂糖入れ、立てて」

「そうじゃなくて、」

「ヨーコも自分の荷物片付けておいてよ。前日に荷造りでバタバタするのはごめんよ」

 はあ、と私は大げさにため息をついた。自分のお皿の上で、ひび割れたトーストとバターをかけられたソーセージが恨めし気にこっちを見ていた。違うよ、私のせいじゃない。いつしかお母さんのコーヒーの香りを、どこか甘ったるく感じる自分がいる。きっと砂糖を入れ過ぎてるせいだ。その甘い香りに、ごまかされる気がする。いつもこれだ。聞いてないんだ。私の話なんて、全然。目だって合わない。

「そんなんだから、」

 声が震えていたかもしれない。あるいは、いつになく刺々しかっただろうか。

 ふっとコーヒーから目を上げたお母さんの瞳を睨みつけて、私は怒りを放った。「お母さんがいつもそんなんだから、お父さん出ていったのよ!」



「――今度結婚するんだ」

 そう言ったお姉さんの顔を、私はまじまじと眺めた。

 綺麗な顔。整った顔。お化粧の上手な顔。きっとたくさんの男の人が、この人を好きになっただろうと思った。お父さんが、お母さんを好きになったように。

 お母さんに捨て台詞を吐くなり家を飛び出すと、自然と足がこの場所へ吸い寄せられた。足早にぐんぐん進むと、ゴールデンウィークだからか少し賑わっていた並木道もだんだん寂しくなっていって、やがて時計の広場にたどり着く頃にはいつも通り誰ともすれ違わなくなっていた。とけいじかけのプロムナード。私だけの場所。

 ここで気持ちが落ち着くまで待って、それからどうするか考えるつもりだったのに――私は少し恨めしい気持ちになりながらお姉さんを見上げる。

「結婚するの?」

「うん」

「それが悩みなの?」

 答えないお姉さんは微笑んだままだった。

「ねえ、名前なんていうの?」

「なに、いきなり」

「呼びづらいかなって。お嬢ちゃん、って呼んでもいい?」

「やだ」

 即答すると、クスクス笑われる。心の底がバレているみたいで、なんだか悔しい。

「……ヨーコ」

 聞き取れないくらいぼそぼそした声で言ったが、お姉さんはきちんと聞きとったみたいでうなずいた。

「おねーさんは?」

 やり返すように訊ねる。

「お姉さんでいいよ」

 お姉さんは悪戯っぽく人差し指を唇に当てる。指が白いせいで、唇の桜色が鮮やかに映える。

「ヨーコちゃんは、好きな子いる?」

「今度は何?」

 いないけど。男の子は嫌いだ。子供っぽくて。

「ううん。聞いてみただけ」

「お姉さんは……いるよね」

 結婚するんだから。

 そう思ったけど、お姉さんはうなずかなかった。

「相手の人のこと、好きじゃないの?」

 そう訊ねると、変な顔で笑う。

「まさにそれがね、よくわからないの」

「結婚するって決めたのに?」

「そうだね。好き……だったはずなんだけどね。今も好きなはずなんだけどね」

「……全然わかんない」

「じゃあこれは社会勉強。今のお姉さんみたいなの、マリッジブルーっていうの。覚えておいて」

「よくわかんないけど、じゃあ結婚しなきゃいいじゃん」

 私がそう言うと、お姉さんは一瞬目を丸くしてから、似合わない声でケタケタ笑った。

「極端だね、ヨーコちゃんは」

「お姉さんがどっちつかずなんだよ」

 そうかもねえ、と他人事のようにつぶやいている。

「嫌ならやめればいいじゃん。お姉さん大人なんだから、それくらい選べるでしょ」

 お姉さんが少し窺うような目になった。優しいのに体を貫いて胸の奥まで見通していそうな鋭い瞳で、私は思わず目を逸らす。

「……大人ってみんなそうじゃん。自分の都合で、自分のしたいように、なんでも決めれるじゃん」

 そのぼやきは、口にしてみるとひどく子供っぽい感じがしたが、お姉さんは笑わずに聞いてくれた。

「大人が嫌いなの?」

「……嫌い」

「どうして?」

「大人は勝手だもん」

「どういうところが?」

「いつだって子供の都合なんておかまいなしじゃない」

「……親と喧嘩でもした?」

 ぐ、と言葉に詰まってしまう。お姉さんは優しく微笑んでいた。

 気がつくと、ずっと昔に両親が離婚したこと、小学校に上がって以来お母さんの帰りが遅くて色々家事をやらされたこと、今度引っ越すことを、洗いざらいぶちまけていた。それはまるで壊れたダムからあふれ出た水のように、荒れ狂う大波となってお姉さんに襲い掛かった。そしてお姉さんは表情一つ変えずに、それを受け止めてくれた。ああ、この人は大人だ、と思った。

「私も小さい頃よく喧嘩したよ」

「お母さんと?」

「うん。高校生とか、大学生になってもたまに喧嘩してた」

「……仲悪かったの?」

「ううん。仲は良かったよ。でも昔はちょっと微妙だったかな。小学生の頃、一番派手に喧嘩したことがあって、そこからなんだかお互いに距離を埋められたの」

「喧嘩するほど仲がいい?」

「親子で使っていいのかわかんないけどね、その言葉」

 お姉さんはまたケタケタと笑う。彼女は大人のはずなのに、コロッと子供の顔になったり、かと思うとふっと大人の顔に戻ったりする。

「お姉さんは、いつ大人になったの?」

「んー? わかんないけど、大学生くらいかな?」

「それって、私だったら何年後?」

「きっと十年後くらいかな。ヨーコちゃんは、早く大人になりたい?」

「……なりたくない。一生なりたくない」

「それは無理だよ」

「やだ。ならない」

「そうなの? 夢とかないの?」

 夢?

 ふっと頭に浮かんだ写真があった。ダイニングの、テレビのすぐ横に伏せておいてある結婚写真。写っているお母さんの、雪の花みたいな花嫁衣装。

「お嫁さんになりたい、トカ?」

 頭のどこかでは、そんな子供っぽい夢は幼稚園までだ、と思っていた。でも確かに、ぎくり、ともした。お姉さんは悪戯っぽい光を、キラキラと瞳に躍らせている。

「ち、違うよ」

「そう? 女の子はみんな夢じゃない?」

「私は、結婚したくない」

 勝手なお母さんみたく、なりたくない。なりたくないんだ。

「そういうお姉さんは?」

 訊きながら私は、お姉さんの手をチラリと見た。細く白い、綺麗な薬指。指輪の光は、そこにはない。

「うん?」

「小さい頃、お嫁さんになりたかった?」

 お姉さんは私のことをなんとも言えない眼差しで見ていた。

「……どうだったかな。もう覚えてないや」

 お姉さんと話していると不思議と時間は飛ぶように過ぎ、時計の文字盤の針はどんどんとその影を伸ばしていく。


 お姉さんと別れて家に帰るとお母さんはいなくて、ダイニングのテーブルの上に簡単なメモがあった。行き先と帰りの時間、家事の指示、それから短く――「帰ってきたらゆっくり話しましょう」。

「……ふん」

 私は乱暴に洗濯物を畳み、ご飯を炊いた。結局メモの時間を過ぎてもお母さんは帰ってこず、私は夕飯も食べずに先に寝た。



「五月いっぱいで、一瀬さんが転校になります。寂しくなるけど、みんな最後まで仲良くしてあげてね」

 担任の先生からクラスに対して、そうアナウンスがあったときも、私はまだ引っ越しのことを受け入れられていなかった。だから先生が決定事項のようにそれを伝えたことも、自分がなんだか可哀想な人間になっていることも、納得がいかなかったし実際納得しなかった。友達には「えー、寂しい」とか「新しい住所教えてね」とか言われて、それは嬉しかったけれど、そうなるとますます私も寂しくて、引っ越しが嫌で、お母さんへの反抗心が募っていくのだった。

 家では毎朝起きるたびに少しずつ物が片付いていて、右側が焦げやすいトースターもいつのまにか姿を消していた。しかたなくパンはそのままで食べることにした。私の部屋はまったく片付いていなかった。お母さんはヒキツギとかでますます帰りが遅くなることが増え、私は作り置きのご飯を一人で食べることが多くなった。だいたいはカレーだ。お母さんは他にもあっちこっちと飛び回っているようで、私にとってはありがたいことに、ゆっくり話す機会はなかった。ほんの一瞬の隙に「ヨーコ」と声をかけられても、私は逃げるように学校へ行ったり、散歩に出かけたりしていたし、そのうちお母さんにはそんな余裕もなくなったようで、家にいてもバタバタと荷造りをしたり、パソコンや紙束に向き合って難しい顔をしている時間が多くなった。そして私はときどきそんなお母さんの姿を、目をほそーくして睨むように見ている。眠る前に布団の中でふわっと気が緩むと、頭の中にお母さんのことばかり浮かんでくる。そういうとき、お母さんはいつも後ろを向いている。最近目を合わせていない。エプロンをしている台所の後ろ姿。パソコンに向き合っている、少し丸まった背中。荷造りの最中に背中を伸ばしている、細いシルエット。お父さんがいれば、きっと引っ越し作業だって半分で済むのだろう。

 ――お母さんにも、お母さんの苦労があるんじゃない?

 あのお姉さんに、そんなことを言われた覚えがある。

 そりゃあ、大変なんだろうなって思うけど。普通の家ではお父さんがやっていることを、お母さんがやって、お母さんがやっていることも――一部は私がやっているけれど――やって、だからいつも死んだようにぐうぐう眠って、朝はコーヒーで無理矢理目を覚ましながら仕事へ行く。

 だけど、それだってジゴウジトクでしょ。お母さんがあんな性格だから、お父さんと喧嘩になって、それで離婚したに決まってる。身から出たサビ。私はむしろ被害者だ。巻き込まれたんだ。私にだって、私の苦労がある。お母さんはそれをわかってくれない。

 わざと自分の荷物を片付けなかったり、家事をサボったりしてみたけれど、お母さんは私のささやかな抵抗に気づいた様子すらなく、家の中はどんどん片付いていく。


 五月中旬。今年のイチョウの新芽が、優しい草色から、少しずつ、少しずつ、力強い初夏の色に変わり始める頃になっても、木立の中でひっそりと時を刻む日時計は相変わらず人を寄せつけずにいた。お母さんを避けて、逃げるようにその場所へ足を運んでいた私にとっては都合のいい話だ。誰もいない方が気は楽なのだ。でも――あの不思議なお姉さんといたときの方が、時計の針の進みはずっとずっと早かった気がする。とけいじかけのプロムナードで過ごす一人きりの時間は、本当にこの場所だけ時間の流れが二倍ゆっくりなんじゃないかってくらい、ヒマつぶしには向いていない。日曜日に、一日中お母さんと顔を合わせているのに比べたらマシだけど。

 だからその日も、私の足は気がつくとふらふらとその場所へ引き寄せられていた。週末の午後。人気のない散歩道。プロムナードへ着くと、日時計の影は数字の四のあたりを指し示していた。その影を、針を早送りするつもりでガシガシ五の方に向かって蹴り飛ばす。誰もいないと思って、そんなことを一分近くも続けていると、「そんなことをしても、時間は早く過ぎないぞ」突然声がして、私は飛び上がった。

 ちょうど日時計を挟んで反対側、以前お姉さんと座った木のベンチのところに、小さな人影があった。イチョウの葉のまぶしい緑の中で、赤いワインみたいな色のベレー帽――その下から白髪交じりの髪の毛と、青っぽい瞳が覗いている。雰囲気は穏やかで物静かだが、どこか得体のしれないおじいさんだった。お姉さんのときとは正反対に、全身の肌にぶつぶつが浮かぶ。

「あの……」

 震えた声を出す私は、背中の毛を逆立てた野良猫のようにでも見えただろうか。おじいさんはふっと顔をくしゃくしゃにする。そうすると、さっきまでのピンと張りつめた空気がシャボン玉のように弾けて、途端に気のいい親戚のおじいちゃんみたいになった。

「そんなに警戒しなくても、追いかけっこなら君の方が速いだろう」

 ポンポン、とベンチを叩いたのは隣に座れという意味ではなく、視線を引いたのだろう。見れば横に、杖が立てかけられていた。

「……足が悪いの?」

「歳を取れば誰でもそうだ。まあお嬢ちゃんには早い話だな」

「ヨーコ」

 思わず反抗的に名乗ってしまった。

「うん?」

「あ、えっと、名前」

「最近の小学校では、知らない人には名前を教えるなと言われないのかな?」

「あっ」

 ぱっと口を押さえると、おじいさんは笑う。どうして私が名前を名乗ってしまったのか、わかっている顔だ。

「……おじいさんは」

「名前かね」

 おじいさんは急に、私には聞き取れない言葉で、何事かを早口につぶやいた。

「……外人さん?」

「半分ほどね。フランス語だよ。君に発音するのは難しいかな。まあ、好きに呼ぶといい」

「じゃあ……ぼうしさんね」

 たまにお母さんがサラダに入れるビーツみたいな色をしたそれを指差して言うと、おじいさん――ぼうしさんは、軽く帽子を持ち上げて微笑んだ。それはひどく大人びた仕草に見えて、私は今度真似しようと考える。

「どうして時間を早送りしたい?」

 隣に腰掛けると、ぼうしさんが訊ねた。

「早送り?」

「さっき針を未来の方に蹴り飛ばしていただろう?」

「あー……あれは」

 私は口ごもった。

「家に帰るの、嫌だから。お母さんが寝ちゃうまで時間が飛べばいいのになって」

「お母さんに会いたくないと」

「まあ……そんな感じ」

「喧嘩でもしたのかな?」

「お母さんが悪いんだよ! 私のせいじゃない!」

「とっさに言い訳をするということは、自分が悪いと思っている部分があるということだな」

 穏やかな口調だったがピシャリと言われ、私はぶすっと口をつぐむ。悪くない。私はなんにも、悪くないのに。なんでちょっと、胸がズキッとしたんだろう。ぼうしさんの青い瞳は、あのお姉さんのそれにどこか似ている。

「お母さんは何時に寝る?」

「いつもすぐ寝ちゃうよ。最近は引っ越しの片づけとかで、遅くまで起きてるみたいだけど」

「おや、引っ越すのか」

「お母さんが勝手に言ってるだけ。私は知らない」

「なるほど、それで喧嘩になったと。それは家には帰りたくないだろうな」

 私がまたぶすっとすると、ぼうしさんは朗らかに微笑んだ。

「時間というのは不思議なものだよ。早く過ぎてほしいときほどゆっくり進むし、もっと時間が欲しいときほど早く過ぎてしまう」

「そう感じるだけでしょ。実際は同じ長さだよ」

「そうかな。そもそも君は今、時間を〝長い〟という尺度で測ったが、時間とは長さだろうか? 〝時間が過ぎるのが早い〟なんて言うこともあるし〝時間ならたくさんある〟なんて言うこともないかな? 人によっては〝大きな時間〟なんて言うかもしれないし〝時間が低い〟と言うかもしれない」

「そんなの聞いたことない」

 下唇を突き出しながら答えると、ぼうしさんはうなずく。

「私もない。ただ、私が言いたいのは、時間なんてつかみどころのないものを、人の尺度で測ろうとすること自体無理なのではないか、ということだ。時間は早く過ぎるときは早く過ぎているのかもしれないし、遅く過ぎているときは遅く過ぎているのかもしれない。人によって、場所によって、時間の流れは違うのかもしれない――この場所みたいに」

 ぼうしさんが何を言いたいのか、私には半分もわからなかった。

「みんなの流れる時間が違ったら、ご飯の時間が合わなくなっちゃうよ」

 かろうじてつぶやいたコメントに、ぼうしさんは目を丸くしてから、今までで一番大きな声をあげて笑い出した。

「そりゃそうだ。君が正しい」

 ぶわっと午後の風が吹いて、ざわざわと周囲のイチョウの葉を揺らした。日時計の周囲を緑色の波がうねっていく。ゆらゆら、ゆらゆら、揺らぐ緑をぼんやり眺めていると、時計の周りと時計の中では、確かに時間の流れが違うのかもしれないと思った。

「ぼうしさんも、よくここ来るの?」

 なんとなく訊ねると、ぼうしさんは遠くを見る目になった。

「たまにな」

 それは不思議と、しょっちゅう来ている、という意味に聞こえた。遠くを見ているようで、その瞳は目の前の日時計に向けられているようにも見えた。

「ねえ、ぼうしさん」

「うん?」

「ここに、たまにお姉さんが来ない?」

「お姉さん? 君の?」

「ううん。私のお姉ちゃんじゃなくて。髪が長くて、細くて、すらっとした女の人」

 ぼうしさんはベレー帽のふちをいじる。

「その人が、どうかしたのかな?」

 別にどうも、しないけれど。

「よく来てる人なのかなーって思っただけ。ここ、あんまり人来ないから。お姉さんとぼうしさんくらいしか、会ったことないもん」

「確かにここには、あまり人が来ないな」

 ぼうしさんは苦笑いする。その言い方でやっぱり、ぼうしさんはよくここへ来ているのだと思う。

「その人は、子供っぽい人だった?」

「うん」

 どこか子供っぽい。けれど同時に、

「大人びてもいる?」

「……そう」

 なぜわかったのだろう。ぼうしさんは私の顔を見ている。

「それで、笑うとえくぼができる」

「……ぼうしさん、お姉さんに会ったことあるのね?」

 ぼうしさんはすぐには答えなかった。

「うん」

 やがてゆっくりうなずいたかと思うと、

「それはひょっとすると、未来の君だったのかもしれないな」

 と、それはそれは真顔で、そう言ってのけたのだった。


 気がつくと日時計の針は六時頃を指し示していて、私はぼうしさんに別れを告げて重たい足取りで家へ向かう。

 帰らなければと思った理由は二つある。一つ、今日は母の日だった。そしてもう一つ、その日はお母さんの誕生日でもあった。

 本人は、たぶん気づいていないだろう。去年だって私が言い出さなければ、ケーキを買い忘れるような人だ。自分の年齢だって覚えていないに違いない。ここ最近口をきいていないのに、今日だけ満面の笑みでハッピーバースデーを言えるわけもないけど、せめて家にはいてあげよう――そう思いつつ、できるだけ帰るのを遅らせようとのろのろ歩いているのだから、なんだかムジュンしている。

 道すがら、ぼうしさんの言葉を思い出していた。

 ――それはひょっとすると、未来の君だったのかもしれないな。

 あのとき、ぼうしさんはそう言った。

「どういうこと?」

 訊ね返した私に対して、ぼうしさんはよっこらせと立ち上がると、杖で日時計を指し示す。

「あの日時計を中心に、この文字盤をぐるりと時計回りに歩いていくと、未来へ行ける。逆に反時計回りに回れば、過去へ行ける。そこで少しの間だけ、未来の自分や、過去の自分と話ができる」

 私はぽかーんとして聞いていた。ぼうしさんが気がついて、顔をほころばせた。

「都市伝説というやつさ。そういう噂があるんだそうだ」

「聞いたことない……」

 そもそもこの場所を知っている人間の方が珍しい。

「君はそのお姉さんと会ったとき、時計回りに歩いていた?」

 少し考えて、私は首を横に振る。むしろお姉さんが、反時計回りに歩いてきた。

「じゃあ、彼女の方から、君に会いにきたのかもしれないな。過去の自分がどうしているのか、見にきたのかもしれない」

「えー、絶対違うよ。全然私に似てなかったもん――」

 そう、笑い飛ばした。だって、そんなのありえない。時間を超えてくるなんて。未来の自分が会いにくるなんて。そんなの、信じられるわけない。

 さらさらした長い髪の毛も。すらりとした手足も。大人びた仕草も。全然似ていない。えくぼだって、ちっとも。そもそもこの世界には、えくぼのある女の子なんていくらでもいる。

 なにより私は、未来の自分が結婚しようとしているのを想像できなかった。

 結婚とは、幸せなことであるはずだ。でも、お母さんとお父さんは離婚した。お父さんは今頃どうしているのだろう。幸せなんだろうか。私はときどきお父さんのことを思い出す。写真でしか顔のわからない、記憶の中では背格好すらはっきりしない父親のことを思い出す。想像するお父さんはいつも後ろ姿で、いつも一人で、寂しそうに見える。勝手な想像だけど。

 お母さんは――少なくとも最近のお母さんも、あまり幸せには見えない。幸せを感じる余裕なんて、忙しいあの人にはなさそうだ。私だって、不幸ではないけど、たぶん幸せでもない。なに不自由ないけど、自由でもない。それはなんとなく、鳥籠の文鳥のような感じだと思う。自分が〝飼われている〟とさえ思わなければ、あの子たちはきっと幸せだ。

 あのお姉さんは、どうなんだろう。悩んでいるようだった。マリッジブルー、なんて言われても、私にはよくわからないけど。あまり幸せなふうには見えなかった。あれが本当に未来の私なら、お母さんとどうなったのかも知っているのだろうか。お母さんとお父さんが離婚したことを遠い未来でも引きずっているのなら、あんなふうに悩んでしまうことにも納得がいくような気はする。

 ――お嫁さんになりたい、トカ?

 見透かすような、いたずらげな瞳が頭をちらつく。

 お姉さん。

 あれが、未来の自分? 私が、結婚する?

 お母さんの花嫁写真を思い出す。そこに笑顔で写っていたはずのお父さんは、けれどもう家にはいない。お姉さんの目はキラキラと綺麗なのに、結婚のことを語るときだけ、五月の気まぐれな空模様のように、さっと雲がかかる。その目はどこか、鏡で見る自分の目に――いや。

 きっと私は、そもそも結婚しようなんて、思わないはずだ。

 だからあのお姉さんは、やっぱり私の未来の姿じゃあ、ない。