#DAY1 TAKE1


 ――今日一日を、やり直したいと思った。

 ――納得のいくまで、何度でも何度でも。


「……はぁ」

 鍵盤から指を離すと、自然とため息が漏れる。

 耳に残ったかすかな残響。

 力み過ぎていたのか、肩と指には重たい鈍痛がわだかまっている。

 軽いストレッチをしながら、カレンダーを見あげた。

 七月九日までの日付がバツで消され、今日は七月十日、月曜日。

 同じ週の日曜日。七月十六日の欄には「コンクール当日」という書き込みがある。

 ――六日。

 あと六日しかないんだ。

 それなのに――俺の演奏は未だに目標レベルに届く気配がない。

「あと一回だけ……」

 反省点を確認して、もう一度鍵盤の上で指を走らせ始める。

 午後十一時半前。今日はこれが最後の通し練習になる。

 指先に感じる黒鍵と白鍵の重み。

 加えた力がハンマーに伝わり、二百三十一本の弦たちが震える。

 振動は音となり、寄り添って旋律となり、クルクル表情を変えながら防音室に響く。

 俺はこの曲が――「胡蝶のスケルツォ」が大好きだった。

 ランゲ作曲。印象的な主題が形を変えながら繰り返される、精緻で繊細な超絶技巧ピアノ曲。初めて聴いたのは五歳の頃で、あれから十一年経った今も、俺にとって特別で大切な一曲だ。

 だから今回のコンクールで演奏するのは、この曲しかないと思った。

 どうしても、「あの人」のために一番好きな曲を演奏したかった。

 なのに、

 ――トリル、薬指が躓いた――

 ――手首に痛み。力入り過ぎてる――

 ――くそ、ミスタッチ、これで四度目――

 ――まずい、アーティキュレーション、めちゃくちゃに――

 繰り返される悪循環。苛立ちが熱になって身体中に溢れる。

 そしてついに、

「――ああもう!」

 譜面の最後にたどり着く前に、たまらず鍵盤から指を離してしまった。

「なんでこんな、ボロボロなんだ……」

 焦りに任せて、ガシガシ頭をかきむしる。窒息しそうに息苦しくて、制服のシャツのボタンを一つ開けた。

 酷過ぎだ。

 高難度なのはわかっていた。自分には背伸びが過ぎる曲であることも。だからこそ、この曲を演奏すると決めてからは、寝る間を惜しんで練習してきたつもりだ。

 なのに、ここまで苦戦するなんて。

 今回こそは必ず一位入賞を果たさなければいけないのに、こんな調子じゃ一位どころか入賞だって怪しい。

 顔を上げると、戸棚に飾られたトロフィーや盾が目に入る。

 本棚にぎっしり詰まった、楽譜や解説書、CD。

 そんなものを通じて、今は不在のこの部屋の主が情けない俺をじっと見ているような気がした。あの人なら――先生なら、きっと今の俺を絶対に許さない。こんな演奏じゃ、満足してくれない。

 せめて、もっと時間があれば、例えば自己ベストの演奏ができるまで、毎日延々練習を繰り返すことができればいいのに。

 イメージするのは、小さい頃に見学したレコーディングだ。

『最良の演奏』だけを選び出して、一枚のアルバムを作る作業。

 あんな風に毎日を過ごすことができれば、きっと演奏は目標レベルに仕上げられる。

 コンクールの日まで、最良の一日だけを繋げていくことができれば。

 けれどそんな風に思うのはつまり、入賞は絶望的だと自覚している証拠でしかなくて。思わず口にしないつもりだった弱音がこぼれてしまった。

「どうすればいいんだ……」



「……どうすればいいんだろう」

 ずっと友達で。これからも、ずっと友達なんだと思ってた。

 相談事はいつでもまっさきに話したし、ジュースの回し飲みだって気にせずしてた。寒いときには、勝手に上着を借りたことだってある。

 だからそう。十年後も二十年後も、いまのままでいられそうな気がしてたんだ。

 なのに。

 なのに突然……「好きだ」なんて。

「はぁぁ……」

 アスファルトに伸びる自分の影を眺めていると、自然とため息が漏れた。

 順番に視界に入る、左右のローファーの足先。気にしたことなんてなかったけど、元気がないときは足取りも弱々しくなるんだと初めて知る。

 七月十日。月曜日。

 返事をすると約束しちゃった日まで、あと六日。

 それなのに、わたしは答えを出せずにいた。

 これまで何度もくりかえしてきたように、あいつの顔を思い浮かべて考える。

 付き合った方がいい? それとも、ことわるべき?

 仮に付き合うとして、友達から急に恋人になるなんて無理じゃない?

 中学で初めて同じクラスになってから、今年で四年。その間、あいつをそんな目で見たことなんてなかったし。

 でも、だからってことわるの? そんなことしたら、これまでどおり友達でいることもむずかしくない?

 だいたい、付き合うって何なんだろう?

 具体的に何がかわるんだろう?

 どうしてわたしと付き合いたいなんて思ったんだろう?

 わたしのどこがよかったんだろう?

「うーん」

 考えれば考えるほど、疑問はふえていく。

 最近はあいつにどう接すればいいのかもわからなくて、今日だって、距離が測れなくてぎくしゃくしてしまった。

 ……ふと頭によぎる、悲しげなあいつの顔。

「あーもう!」

 やけぎみに見あげると、空は水彩画みたいな淡い色合いの夕焼けだった。

 いつもの帰り道。もうすぐ夏本番。

 どこかでヒグラシが鳴き、かたわらの公園では小学生たちがゲームをしている。

 これが他人事なら、なかなかキュンとくる青春の一ページじゃん! なんて思うんだろう。けど、あいにくわたしは当事者で、心は「キュン」どころか「ずどーん……」と重い。

「……正解がわかればいいのに」

 気付けば、そんな言葉をこぼしていた。

 どうすればあいつを傷つけずにすむのか。ふたりとも幸せでいられるのか。それがわかれば、こんな風に悩むことなんてないのにな……。

 例えば、さっき小学生たちがしていたゲーム。

 小さいころは、わたしもよくあんな風に公園で友達とゲームをした。

 特に気に入っていたのは当時流行っていたアクションゲームで、全ステージノーミスクリアできるまでくりかえし遊んだのを覚えている。

 この毎日も、あんな風にノーミスでクリアできるまでくりかえせればいいのに。

 誰も傷つかない方法を探して、うまくいった日だけを並べて、そしたら、告白の答えだって自然と出てきそうなのに。

 だから、できることなら、


 ――今日一日を、やりなおしたいと思った。

 ――納得のいくまで、何度でも何度でも。


 そして、わたしたちの毎日は廻りはじめた――。



#DAY1 TAKE2


「――あれ」

 思わず、小さく声を上げてしまった。

 目が覚めて、ベッドを出て。何となく視線をやった机の上のピアノ譜。

「書き込み……消えてる?」

 昨晩の練習でそこに書き込んだいくつかの注意点が、ごっそり消えている……ように見える。

 気のせいか?

 寝汗を拭い目をこすり、譜面を手に取る。

 ページをめくってみるけれど、間違いない。

 冒頭に書き込んだ楽曲解釈のメモも、苦手なフレーズに書き込んだ注意点も、すべて最初からなかったかのようにきれいさっぱり消えている。

 窓の外では、早起きの蝉たちが情緒もへったくれもなく大合唱を繰り広げていた。エアコンのついていない東向きの部屋は、空気に粘度を感じるほど蒸し暑い。

「……疲れてるのかな、俺」

 昨日は学校が終わってすぐ先生の家にお邪魔して、日付が変わるギリギリまで練習をした。防音室があるおかげで、あそこでは時間を問わずにピアノが弾けるのだ。

 家に帰ってベッドに入ったのは、確か午前二時過ぎ。

 このところ、ずっとそんな生活が続いていて慢性的に睡眠不足だ。

 ……寝ぼけてるのかも。

 書き込みをしたのは夢の中の出来事だった、とか。

 実際、最近よく見るのだ。延々練習してるのに、全然上手くいかない夢を。

 両手が異常に重かったり、なぜかこれっぽっちも曲を思い出せなかったり、ピアノのチューニングが信じられないほどめちゃくちゃだったり。

 あれ、苦手なんだよな。心臓に悪いし、目覚めも最悪だし……。

 なんて考えていると、

「――あらー、やっちゃった!」

 部屋の外。リビングの方から、母さんの慌てた声が聞こえた。

「もう……やっぱり古くなってて……新しいの……」

 壁越しに途切れ途切れに続く、嘆きの声。


「……んん?」

 何だろう。同じような台詞を少し前にも聞いた気がする。

 確か、そう。昨日の朝に。

「ああ、おはよう辿」

「おはよう。どうしたの? またなんか壊れた?」

 キッチンに顔を出すと、母さんは残念そうにトースターを指差し、

「そうなの、ごめんね、パン焦がしちゃったからもう一度焼き直すわ」

「……え?」

 見覚えのある光景と台詞に、一瞬フリーズした。

「それ、また使ったの? 昨日あんなに騒いでたのに」

「昨日? 何言ってるのー。トースター使うのなんて、数ヶ月ぶりよ」

「いやいや、昨日も朝パンだっただろ。で、焦がしたー無駄にしたーって」

「ちょっと辿?」

 替わりのパンをトースターに入れながら、母さんは怪訝な表情になる。

「昨日はご飯だったわよ? ねえお父さん! パンなんてひさしぶりよね?」

「ん? ああ、そうだな」

 カップを手にワイドショーを眺めていた父が、限りなく気のない様子でそう答えた。

「今日はひさしぶりにコーヒー飲みたくてな。俺が母さんに頼んだんだよ」

 朝のお茶を日課にしている父さんだけど、どうやら今朝は珍しくコーヒーを飲んでいるらしい。

「ほらやっぱり! お父さんたら急に言うから、朝から慌てちゃったわよー。辿、何か勘違いしてるんじゃないの?」

「そう、か?」

 ……いや、そんなはずはない。と思う。

 昨日も間違いなく朝は食パンで、母さんは壊れたトースターに文句を言っていた。リビングに漂っていた焦げ臭い匂いまではっきり思い出せる。

 けれど、母さんたちが嘘を言っているようにも思えない。そんなことしても何の得もないし。

 なんだ? これ。さっきの楽譜の書き込みの件といい。

 寝ぼけてるにしても、こんな勘違いありえるか?

「……って、やべ、もうこんな時間か」

 壁の時計がちらりと目に入った。気付けば、家を出るまでもうそんなに時間がない。

 ひとまず朝ご飯を食べてしまわないと。

 慌ててテーブルにつき、フォークに手を伸ばした。

『――というわけで、昨晩各社に報告のFAXが送られてきたのですが、芸能界を代表するビッグカップルの誕生に各界からお祝いの声が――』

 テレビから流れている、俳優とアイドルの結婚のニュース。

 これも……昨日聞いたような気がする。

 クラスにアイドルの方のファンが何人かいて「俺の青春は今日で終わった!」なんて騒いでいたのも覚えている。

 そして、

『――さあ! 続きまして本日のお天気です』

 ニュースが終わり、映像がスタジオでしゃべるキャスターに切り替わる。

『夏も本番が近い本日七月十日、月曜日! 日本列島は――』

「……え?」

 そのアナウンスに、フォークを操る手が止まった。

 本日、七月十日「月曜日」?

 ちょっと待て。さすがにそれは、ありえない。

 昨日俺は確かに、学校で授業を受けたあと、制服のまま先生の家でピアノを練習したんだ。

 教室で友達とした会話も、練習の内容もはっきりと思い出せる。

 けれど、もしも今日が月曜だというなら。

 昨日が日曜日で、学校が休みだったのだとしたら――その記憶はすべて間違いということになってしまう。

 話はもう、「寝ぼけてた」「勘違いしてた」じゃ済まない。

 もしかして、キャスターが言い間違えたのか?

 一瞬そう期待するけれど、画面の左上。

 表示されている日付は、確かに「7月10日(月)」で。

 あまりにわけのわからない事態に、俺は思わず――、



「――うわっ!」

 と声を上げてしまった。

 ちょ、ど、どうしよう。

 ヤバい、たぶん顔引きつってる……!

 笑わないと……ていうか、それより先にあいさつか!?

 あー、えーと……、

「……お、おはよう!」

 なんとかそうひねり出したけど、あせってるのはバレバレだったみたいで。

 目の前数十センチのところに立つ忍は、困ったようにほほえみ「うん、おはよう」と答えた。

 ……ずーんと罪悪感がのしかかってくる。

 またやっちゃった。ぎくしゃくした感じになっちゃった……。

 でも、今回はさすがにしょうがないでしょ。登校していきなり、自分にコクってきた男子と鉢合わせるなんて。むしろ逃げなかった自分をほめてあげたい。

 ため息交じりに校内履きにはきかえ、顔を上げる。始業間近の昇降口は、行き交う生徒たちの声でさわがしかった。

 いつもどおりの朝を過ごしている彼ら。ここ数日悩みっぱなしのわたしとしては、「当たり前」を「当たり前」に受け流しているみんながうらやましくもうらめしい。

 しかも今日は、朝からずっと変な感じがしてるしなー。なんか、みんなの会話がおかしいというか、会話だけじゃなくていろいろ変というか。まあ、たぶんわたしのかんちがいなんだけど。

 距離をとるのも微妙な気がして、なんとなく並んで教室に向かう。

 歩きながら、ちらりと忍を盗み見た。

 クラスでも一、二を争う高身長に、ちゃんとご飯食べてる? と心配になるほどすらっとした身体。

 長めの茶色い髪が、ハーフっぽく整った顔をやわらかくひきたてている。

 たれぎみの目にすっと通った鼻筋。薄いくちびるには少しだけ笑みが浮かんでいるけれど、本当はどんな気分なのかはちょっと読み取れない。

 何か話した方がいいかな……? でも、何話そう。ネットで見た猫動画の話? 最近ハマってるゲームの話? ていうか、いつもは何を話してたんだっけ。

「そういえば、観たよ。山田がすすめてた映画」

 迷っていると、忍が先に口を開いた。

「『九月のスローバラード』。よかったよ、スティングが走ってどこか行っちゃうシーン、泣きそうになった」

「……」

「……どうしたの? そんな、驚いた顔して」

 忍がこちらをのぞき込んでくる。

 近い。顔が近い。やさしげな目を縁取るまつげまで、はっきりと見えてしまう。

 一瞬、ドキッとしかけるけれど……いや、いまはそれどころじゃない。

「……あのさ、忍」

「ん? 何?」

「その話……昨日の朝もしなかったっけ?」

 慎重にたずねると、忍はきょとんと目を丸くし、

「え、してないよ。映画は昨日の夜観たし、そもそも学校休みだったよね……」

「……だよね」

 ……やっぱりだ!

 またこのパターンだ!

 目を覚ましてから、ずっとこんな感じなのだ。

 起きることすべて、なんだか昨日と同じな気がする。

 なんだこれ。どうしてこんなことになってるの? 気のせい?

 ……ハッ!? もしや未来予知に目覚めた!? んなわけないか。

「……山田、大丈夫?」

 忍がさらに、そのやさしげな顔を近づけてくる。

「なんだか、ぼーっとしてるけど」

 意識に忍び込んでくる、彼のシャンプーの匂い。

 うらやましくなるほどきめ細やかな肌に、男子のくせにきれいな桃色のくちびる――。

「……ッ!」

 そこでようやく、わたしはバっと後ずさった。

 さすがに近すぎだよ!

 くせなのは知ってるけど、一歩間違えば接触事故だよ!

「ご、ごめん。また俺、距離近くて。でもなんか、山田、調子悪いのかなって」

「あ、そ、そう見えた!? あはは、だいじょぶだいじょぶ! ちょっと考え事してただけで……」

「そっか」

 あわてて取りつくろうと、忍はもう一度悲しそうに笑って、

「考え事、か」

「……あっ! いや! そうじゃなくて!」

 あああ、しまった!

 この状況で考え事なんて、「告白がらみ」だと思われるに決まってる!

「あの、あんまり話しかけない方がよければ、遠慮なく言ってね。俺もあんまり、山田を悩ませたくないし」

「そ、そんなことはないよ! ……ないん、だけど」

 あわてて否定するけれど、そこで言葉につまってしまった。

 必死で説明しすぎると、かえってウソっぽくなりそうな気がする。

 それに正直に言うと、確かにいま、わたしは忍とどんな話をすればいいのかわからない。もちろんそれは、決して話したくないってことじゃないんだけど、とはいえ気軽に話しかけられてもどうすればいいかわからないわけで。

 じゃあ、ここはどう答えるのが正解なんだろう?

 思うことを全部言う? うまい感じにオブラートにくるむ? テンパりぎみのいまのわたしにそんなことできるか?

 ぐるぐる考えているうちに、教室に着いた。忍はもう一度さびしげに笑い「じゃあね」と自分の席の方へ行ってしまった。

「……あ~」

 その場に崩れおちそうになる。

 まただ。

 また忍に、あんな顔をさせてしまった。

 毎回毎回、なんでこうなるんだろう。

 もう少し恋愛経験値があれば、マシな反応ができていたんだろうか。けど、あいにくわたしは彼氏いない歴=年齢の純潔乙女だ。男子あしらいスキルなんてゼロに近い。

 凹みぎみに自分の席に着くと、ポケットの中でスマホがンーンと震えた。

 ロック画面にメッセージの着信通知が表示されている。


兄ちゃん「あと五時間で最終面接だよー。うまくいくよう祈ってて…。」


 ああ、そうだ。

 今日兄ちゃんは、就活最後の希望と言っていた企業の最終面接なんだ。

 けれど、いまのわたしに兄ちゃんを気遣う余裕は残されていない。

 がんばれー、という適当な応援メッセージに、カエルが逆立ちしている意味不明なスタンプをそえて返信しておく。こんなもんで十分でしょう。

 第一なんか、このメール見るのも……、

「……二回目な気がするし」



「二回目な気がするな……」

 学校からの帰り道に、この話聞くのも。

「……ん? なんだって? 二回目?」

「ああいや、なんでもない。こっちの話」

 怪訝そうな同級生、相田遼にそう言ってごまかすと、素直な友人はあっさり騙されてくれたらしい。縦横ともに俺の一、二倍くらいある身体を震わせ、彼は怒濤の語りを再開する。

「そうか。でな! 次の試合では絶対にあの野郎から! 桑原から一本とりたいんだよ! まずは一本を!」

「ちょ、つば飛んでるよ! 汚ねーな!」

「同じ剣道部になって苦節一年。まさかこんなに身近に、歯が立たない同級生がいるなんて思ってもいなかった!」

 ライバルに対する思いの丈を、なぜか無関係の俺にぶつけ続ける遼。

 そういうのは桑原くん本人に試合でぶつけてやってくれよ。

 大体、俺はこのあと、こいつがどんな言葉を続けるのか何となくわかっている。

 次に続くのは――もう贅沢は言わない。実力の差はよくわかった。

「だから、もう贅沢を言うのはやめる! 実力の差はよくわかったし、認めざるをえん!」

 だが、このまま負けっ放しというわけにもいかない。

「でも! このまま負けて引き下がるわけにもいかんだろ!?」

 だから、気合いで飛び込んで抜き胴、これで一矢報いてやる。

「だから、渥美先輩直伝の抜き胴を、気合いで飛び込んでぶちかまして、一矢報いてやるんだよ!」

「……そうか、頑張ってな」

「おい!」

 ようやく相づちを打つと、遼はばしんと肩にツッコミを入れてきた。

「なんだぼんやりして! いつにも増して淡泊だな中瀬は!」

 そりゃ、二度も同じ話を聞かせられれば、まともなリアクションなんてできるはずがないだろ……。

 今日は一日こんな調子だった。

「昨日」経験したはずの出来事が、ほとんど同じ形でもう一度繰り返され、俺以外の皆は全くそれに気付く気配がない。

 この遼にとっても他のクラスメイトにとっても、今日は普段と変わらない当たり前の「七月十日」であるようだ。

 本当に、どうなってるんだこれは……。

「全く、これがさとり世代というやつか? いや、でも別に、中瀬は悟り切ってるわけでもないか」

「ああ、全然な」

 悟るどころか、完全に混乱中だよ……。

 思わず顔をしかめると、遼はそれをどう受け取ったのか、

「そうか。そういえば、例のコンクール、近いんだよな? 日付はいつだ? 応援に行くぞ!」

「……おう、今週末。七月十六日だよ。会場は、西角筈の方で――」

 答えながら、考える。

 授業中色々と仮説を立ててみたけれど、常識的に見れば、俺の精神面に問題が発生している可能性が一番高いんだろう。

 強いストレスは、人の記憶能力に大きく影響を及ぼすと聞いたことがある。

 最近の俺は、練習の遅れと不規則な生活でストレスまみれだ。

 そのせいで記憶に不具合が起きて、「同じ一日が繰り返されている」と錯覚している、という仮説。

 だとしたら、今すぐに病院に行くべきなんだろう。症状が深刻過ぎるし、それまで健康だった人がある日突然重い病にかかることだってあるんだ。用心はできるかぎりしておいた方がいい。

 ただ、内心俺は、いまいちその説に納得がいっていなかった。

 記憶がおかしいのは確かだけれど、その他の面で、全く精神的身体的な不調を感じないのだ。

「よしわかった! チケットを予約しておこう! クラスのヤツらも何人か連れて行くかも知れんがかまわんか?」

「ああ、大丈夫だよ。ありがとな」

 それに、俺はついさっき、遼がしゃべることを正確に予見できてしまったんだ。

 大枠の流れだけじゃなく、細かい言葉選びまで。

 これはもう、デジャブや勘違いなんかでは説明が付かない。

 だから、はっきり言ってしまえば、俺は体感的にこう感じていた。


 ――過去に戻ってきてしまった。


 荒唐無稽な話だとは思う。

 オカルト趣味は俺にはないし、SFファンでもない。

 けれど、精神的な不調よりも、そう考える方が俺にはしっくりきてしまう。

 小説や映画なんかでたまに見る「時間跳躍」現象が、俺の身に起こっている、と――。



「――って、んなわけないか! なはは!」

 ベッドでスマホゲーをしながら、わたしは思い付いた考えに自分で笑ってしまった。

 タイムスリップ? この場合はタイムリープか。なんて、あくまでゲームやマンガの中のできごとだし。

 昨日にもどってきちゃうなんて、普通にありえない。

 確かに、小さいころには「いつか不思議な生き物がわたしの前に現れて、魔法の力を授けてくれるかも!」みたいな期待をしたこともありました。

 っていうか、夢見がちなお子様だったから、むしろ当然そうなるんだろうと思ってたところもある。いやーおはずかしい。

 けれど、わたしはもう十七歳。空想と現実の区別は十分に付くのです。

 ということで、わたしが考えるにたぶんこれは、

「デジャブってやつだね」

 いま起きたことを、前にも経験したことがある気がしちゃう、あれだ。

 あれのすごいバージョンみたいなのが起きているだけ。だからなんか、いろんなことが起きる度に「これ、昨日もあったことじゃん!」と思ってしまうのだ。

 うん。われながら、現実的な説だなと思う。

 これで間違いない!

 確信すると同時に、ゲームでもわたしはフルコンボをたたき出す。

「よしっ!」

 難易度はレジェンド、楽曲レベルは32。このレベルの曲のフルコンはひさしぶりだ!

 最近調子が出なかったけど、やっと運気がわたしの方を向いてきたぞ!

 すっきりしたところで部屋を出て、飲み物を取りにリビングへ向かう。

 確か冷蔵庫に、昨日買ってきたコーラがまだあったはず。

 廊下を抜けて扉を開けると、

「――ちーちゃーん。もうダメだー……絶対お祈りだー……」

 リビングのソファでは、兄ちゃんがこの世の終わりみたいな顔で嘆いていた。

「面接最悪だった……緊張して……質問の意味わかんなくて……何もまともに答えられなかった……」

 わたしそっくりの顔なのに、勝ち気と言われることの多いわたしとくらべて明らかに気弱に見える兄ちゃん。部屋着のTシャツはよれよれで、瞳の光はずいぶんとぼやけていて、いまとっくみ合いのけんかをしたら勝てちゃいそうなほど弱っている。

 ちなみに、この光景にもセリフにも覚えがあった。

 本当に、なかなかしつこいデジャブだな。

「へーそうだったんだ」

 なんだかめんど臭くて、限りなく適当にそう答えた。

 デジャブの中ではまあまあ気を遣ってしゃべったような気がするけど、あれをもう一回やるのはさすがにだるい。

「うん……このままじゃ、ニートになって引きこもりになって、家族のお荷物になるかもしれない……」

「へー」

「……ちーちゃんはイヤじゃないの? 兄がお荷物って……」

「イヤだけど、別に会社なんて他にもいくらでもあるでしょ」

「……そうかな?」

「うん。まあ何とかなるって」

「……そっか。……だよね、うん、そうだよね!」

 コーラ片手に適当にはげますと、シスコンの気のある兄ちゃんは表情を明るくした。

「あきらめるのはまだ早いよね! ちーちゃんが言うなら、きっとそうだ!」

「いや、そこまで信頼されても困るけどさ」

 わたし、まだ高校生だし。就活とかよく知らんし……。

 ていうか兄ちゃん、こんな雑なはげましでも元気になっちゃうんだな。

 わりとがんばってたデジャブの中のわたし、ほんとお疲れ……。

「うん、やってやろう。俺、あきらめないよ! ありがとうちーちゃん!」

「ど、どういたしまして」

 この溺愛ぶりには正直引くけれど、それでもわたしは決して兄ちゃんが嫌いではない。買い物のときには荷物を持ってくれるし、いじめられると身体を張って助けてくれる。わたしは、自分を甘やかしてくれる人が大好きです。

「でもまあ、無理しないようにね~」

 適当に話を切り上げ、部屋にもどって明日の準備をしてからベッドに入る。一晩眠れば、デジャブも起きなくなるでしょう。

 世の中の不思議とは、だいたいの場合そんなものなのである。たぶん。

 ということで、お休みなさい!



#DAY1 TAKE3


『――さあ! 続きまして本日のお天気です。夏も本番が近い本日七月十日月曜日! 日本列島は――』

 テレビでは、今日もキャスターが溌剌と全国的な晴天を予報していた。

 リビングに漂う焦げ臭い匂いと、パンを無駄にしたことを嘆いている母さん。

 テーブルでは父さんが数ヶ月ぶりのコーヒーを飲み――俺の手には、自室から持ってきたピアノの譜面がある。

 一晩経てば、いつも通りになるかも知れないと思っていた。

 何事もなかったかのように日付が進んで、当たり前の日常が戻ってくるかも、と。

 けれど。

 震える指でページをめくり、もう一度譜面を確認した。

 昨日の夜、もう一度いくつか書き込みをしたはずの「胡蝶のスケルツォ」の譜面。

 しかし、ボールペンで書き込んだ文字は、矢印は、演奏記号は、きれいさっぱり消えている。

 ――ようやく、俺は理解した。

 これは、精神的な不調なんかじゃない。

 ましてや勘違いなんかでもない。


 ――七月十日がループしている。

 単に、一度過去に戻っただけでなく。

 俺は、同じ一日を何度も繰り返しているんだ。

「……マジかー」

 口をついて出た声に、朝ご飯中の両親が怪訝そうにこちらを見た。

 でも……ごめん。ちょっとそっちにリアクションしてる余裕ない。

 ……あれ、デジャブじゃなかったの?

 わたしのかんちがいじゃなかったの……?

 信じられないけれど、スマホのカレンダーも、テレビの日付表示も、やっぱり今日が七月十日だと主張していた。

 ……ええぇー。

 夢とかじゃないんだ、これ……。

「……ど、どうしたの? ちーちゃん」

 面接のためらしい、スーツの準備をしていた兄ちゃんが心配そうな顔をしている。

「なんか、顔色わるいよ……?」

「ああ、兄ちゃん……」

 ぼんやりしたままわたしは口を開き、

「わたし、時をかける少女になっちゃったっぽい……」