階下から聞こえた物音に、光は目を覚ました。壁に掛けられた時計に目をやると、時刻は夜の六時をさしていた。おそらく母親が仕事から帰ってきたのだろう。父親の方はもう少しだけ帰りが遅い。

 職安から帰ってきて、その後色々考えながらベッドに横になって……大体二時間ほど寝てしまっただろうか。

 光はジャケットを羽織ると、なるべく物音を立てないように階段を下り、玄関で靴を履いた。

「光、こんな時間からどこ行くの?」

 肩越しに後ろを見ると、そこには母親の姿が。彼女はきょとんとした顔で光を見ている。

「ちょっと兄貴の所」

「智樹の店行くの? だったら持っていってほしい物があるんだけど」

 小さく「ん」と答えると、その場に座ったままの姿勢で待つ。

 戻ってきた母親は赤いナプキンに包まれた容器を一つ光へと差し出した。

「これ、桃のシロップ漬け。付け合わせか何かでお客さんに出せるかなと思って作っておいたの。傾けると汁がこぼれるから、気をつけてね」

 先ほどと同様に「ん」と言い、素っ気なく受け取る。

「ご飯はどうする?」

「帰ってきてから食べるから、冷蔵庫にでも入れといて」

 これ以上何か言われるのも面倒だと思い、まるで逃げるように自宅を後にした。


 光の兄、智樹は、岐阜駅の近くで『フォレストリバー』という喫茶店をしている。高身長に中性的な顔立ち、大きく分けた長めの黒髪に物静かな立ち振る舞いは、木肌の温かな店の雰囲気にとてもよく合っている。

 店長である智樹と、もう一人アルバイトの女の子とで店を回しているのだが、店自体それほど大きくないので、何とかなるらしい。

 扉を開け店内に入ると、光はカウンターの向こうで食器を洗う智樹へと歩み寄った。

「なんだ、光か」

「これ母さんから。桃のシロップ漬けだってさ」

 智樹は前掛けで手を拭うと中身を確認し、冷蔵庫へと入れた。

 そのまま仕事に戻ってしまったため、光は手持ち無沙汰になる。とにかくどこかに座ろうと思い、出入り口付近に置いてあった雑誌、『東海RUN』を手に取ると、あいている席へと向かった。とは言うものの、この時間店内には客が誰もいなかったため、全ての席があいているのだが。

「いらっしゃいませ!」

 アルバイトの女の子、伊藤茜がお冷とおしぼりを持ってやってきた。

 大学生の彼女は、今年長野から岐阜のこの町に出てきたばかりだ。ゆるふわショートボブの髪は栗色で、整った顔にはくるりとしたどんぐり眼が並んでいる。小柄であり、活発で元気なその姿は、店に活気を与える重要な存在だ。

「ご注文、どうしますか?」

「えーっと、じゃあフォレストブレンドで」

「かしこまりです。フォレストブレンド、一点……っと」

 言いながら、彼女は一生懸命に伝票に書き込んだ。

 コーヒーが運ばれると、光は一口飲んでから雑誌のページを開いた。

 季節的なものなのか、花見の特集記事が目立った。愛知県ならどこどこがいい、岐阜県ならどこどこがおすすめといった具合に、地区ごとにページが割り振られている。

 元印刷会社出身の性なのだろう。気が付けば、光は雑誌の仕様を追っていた。

 製本は中綴じ、紙はコート、厚さは五十キロぐらい? 印刷は……大日本、やっぱり大手か。うわっ、料金表とか宿泊プランとか凄い細かいな。これ校正大変だっただろうなー。


「妻が、だいぶ昔に本を作ったんですよ」


 店内で囁かれた一言に、光は思考を中断し、とっさに声のした方へと顔を向ける。

 いつの間にか、カウンター席に一人の客が座っていた。歳はおそらく六十代半ばぐらい。白髪交じりの短髪を眉毛の上辺りで分けている。テーブルの上で手を組み、どこか困ったような顔をしていることからも、カウンター越しに、茜と何かを相談しているのだと予想できる。

「いえ、まあ、自費出版なんだけどね。以前妻は詩人クラブなるものに入ってまして、そこで書いたものを、本にしたみたいで」

「そのうちの一冊を、金治さんは誕生日プレゼントとしてもらったんですね。凄く素敵だと思います!」

 目を輝かせ、小さく頭を振る茜。智樹はカップを磨きながら、そんな二人を横目で見守っている。

「ただ、当時は愛知の方に住んでたんですが、その際に大規模な水害に見舞われてしまいまして。二冊作ったうちの妻の持っていた方の本が泥水に浸かってしまったんですよ。とても大切にしていた物だったので、相当ショックだったようで」

「そうなんですね……。奥さん、かわいそうです」泣きそうな顔をする茜。「でも、まだ金治さんの本があるじゃないですか!」

 微苦笑を浮かべると、金治は言いにくそうに口を開く。

「実を言うと、私の持っていた方も、もうないんですよ。言い訳にしかならないのですが、当時は仕事が本当に忙しくて、転勤も度々あったものですから、いつの間にか紛失してしまって。せめて内容だけでも読んでおけばよかったかなーと、今更ながら後悔してます」

「まさか、本は読んでいないんですか?」

「恥ずかしながら。どうせ初心者が書いた物だろうという偏見もあったんですが、身内の書いた物を読むことに抵抗がありましてね。それで」

 ええーっと、驚いたような声を上げる茜。

「私だったら嬉しくて、きっとその場で読んじゃいますけどね」

 金治は目を細めて微笑むと、続きを話し始める。

「なので、もしも今度の妻の誕生日に、その失われた詩集をプレゼントできたら、どんなに喜ぶだろうと思ってね。まあ、どだい無理な話なんだけど」

 話を聞く限りでは、どうやら金治という男は、妻に贈る誕生日プレゼントの相談をしているようだ。ただし一番贈りたかった物、『自費出版した詩集』については、二冊のうちの一冊は金治が紛失、もう一冊は水害の際に泥水に沈み、読めないような状態になってしまったらしい。

 金治自身、もう諦めたというような雰囲気を醸し出してはいるが、その哀愁を帯びた表情、声のトーンからは、諦めきれないというのが誰の目にも明らかであった。

「光」

 不意に呼ばれ、顔を向けると、腕を組んだ智樹がこちらを見ていた。

「こっちこい」

 光は自分自身を指さすと、何がなんだか分からないといった顔のまま、恐る恐るカウンターの方へと歩を進める。

「え? 何?」

「お前、元印刷会社だろ」

「うん。それが?」

「相談に乗ってあげろ」

「は? そんなこと突然言われても」

「お前、たまにコーヒー代払わずに帰るよな?」

 ぐっと顔を寄せ、耳打ちする。

「見逃してやってるんだ。こんな時ぐらい客のために尽くせ」

 そんな滅茶苦茶な、と思ったが、茜も、そして当事者である金治も、すがるような眼差しを光に向けている。

 これは断れないな。光は諦めると、その場で軽く自己紹介を済ませ、金治の隣の席に腰を下ろした。

「えーと、あの、以前自費出版した本を、奥さんに贈りたいんですよね?」

「ええ。もう一度初めから、順を追って説明した方がいいですかね?」

「いえ、大丈夫です。大体は聞こえてましたので」

 カウンターに肘をつくと、光は残された可能性を模索するため、頭をフル回転させた。

「二冊のうちの二冊が、現在贈ることのできない状態にある、と先ほど仰られていましたよね」

「ええ、妻の詩集はこの世にたった二冊しかない物です。なので、どうあがいてもプレゼントは不可能なんですよ」

「まだ分かりませんが、もしかしたら、たった二冊とは言い切れないかもしれません」

 光の発言に、眉間にしわを寄せる金治。智樹も茜も、手を止めて光へと視線を送っている。

「僕は以前、東京の、とある印刷会社に勤めていました。そこでは社内ルールがありました。製品見本は、納品日から三年間は、所定の場所にて保管しなければならない。端物は最低十部、ページ物は最低三部」

「それってつまり!」

 茜が勢い込んで割り入る。

「本を作った印刷屋さんに言えば、もしかしたら何冊かとってあるかもしれないってことですよね!?」

 首を縦に振って答える。

 しかし金治は小さく溜息を吐き、光とは逆に、真横に首を振った。

「……いえ、やっぱりだめですね」

「なぜです?」

「だって、妻が本を作ったのはもう随分昔、数十年も前のことです。君の言うことが正しいなら、もう処分されてしまっているということになる。それに……」

 光はとりあえずコーヒーを手に取り、金治の次の言葉を待つ。

「残念ながらうちの妻は、もうどこの印刷会社に頼んだのか覚えてなかったんですよ。頼んでからそれきりだし、物凄く小さな会社だったみたいだし」

 カタンと、光は音を立ててカップを置いた。まるで落胆の空気を断ち切るかのごとく。

「そうですか……。ただ、先ほどお話しした社内ルールですが、あれはあくまでも僕が勤めていた会社でのことです。なので、保管期間や部数など、細かなことに関しては、それぞれの会社によってルールが異なると思われます。たとえば保管期間が三年ではなく十年以上であったり……」

 それに、と言い、光は続ける。

「一つ言えることは、当時幾らか同業他社と関係を持っていましたが、『製品見本をしばらく保管する』という大枠のルールに関しては、どこの会社にも共通にあったように思います。つまり少なくとも過去には、奥さんの詩集は二冊以上存在していた、ということです」

 無言のまま、相槌を繰り返す金治。

 少しばかりさしでがましかったかもしれない。そうは思ったが、何とか安心させてあげたいという思いが勝ったため、若干感情的ではあるが、自分自身の意見を補足として付け加えることにした。

「人は感情の生き物です。社内規定に縛られない、その人独自のルールなんかもあるかもしれません。人が写っている物は捨てられないとか、お世話になったお客さんの物はとっておきたいとか。事実僕も、一番初めに担当したページ物に関しては、今も何となく持っていますし。思い入れがあるというかなんというか。自費出版の詩集だったらなおさらじゃないですか。マスプロダクツから外れた、心のこもった物なわけですし」

「君の言いたいことは分かりますよ。しかしね」

 両肘をつき、口元で手を組むと、金治は光から視線を逸らす。

「どこの印刷会社に頼んだのか、それが分からないのでは、もうどうにもならないのではないでしょうか」

 すぐには答えられなかった。誰しもが口を閉ざしたため、周囲には店のBGMとして流されているインストゥルメンタルのみが小さく聞こえた。

 自費出版……。何もかもが手探り……。もし自分が本を作ることについて、ほとんどなにも知らなかったら……。

 その人の立場に立ち、イメージすることにより、初めて見えてくる答えもある。

 光は頭の中を整理するように、一つひとつ並べ立ててみた。

 二冊、ということはオンデマンド? だったらデータ入稿のみで校正等のサービスはなし? 未経験で一から本の原稿を作るとしたら、世に出回っている本を参考にするはず。ということは……。

 ――奥付。

「奥付」

 心の声が、思わずそのまま口から出た。

「おくづけ?」

 小首を傾げ、人差し指を顎に当てる茜。口を小さく開けており、ふらふらと視線を中空に彷徨わせている。

 見兼ねたのか、店長である智樹が代わりに答える。

「本の後ろにあるあれだ」

「あれ? 分かんないですよー」

「発行日とか印刷会社とか、書いてあるだろ」

「あーあの部分ですね! あの部分! あそこって奥付って言うんだ。初めて知りました。……あっ、てことは」

 つーっと、視線を光へと送る。

 頷き、茜から話を引き継ぐと、光は言わんとするところを口にした。

「金治さん、奥さんの方の詩集って、まだ捨てずにとってありますよね? 汚れ具合はどの程度でしょうか? 奥付の有無は確認できますか?」

 金治は腕を組み、考えるような表情を浮かべる。

「確か、大部分は茶色くなっていましたね。少しは読めるかもしれませんが……。奥付は、どうだったかなー」

 はっきりしない。このままでは埒が明かない。どうしようかと迷ったが、一度乗りかかった船だ。光は次のような提案をした。

「奥さんのその本、持ち出すことは可能ですか? もしよろしければ僕が見てみましょうか? 一応元印刷会社出身なんで、他に何か分かることもあるかもしれませんし」

「それはとてもありがたい。お願いできますか」

「はい。で、いつにしましょうか? 明日のこの時間、この場所でよろしいですか?」

「いや、できれば昼とかがいいんですが」

「昼?」

 とっさに聞く。

 金治は言いにくそうに手の平を擦り合わせる。

「私は定年を迎えてるんで、いつでも大丈夫なんですが、妻はまだパートに出ておりまして。できればギリギリまでプレゼントのことを知られたくないと言うか。何て言うんでしたっけ、突然で驚かすみたいな」

「サプライズですね!」

 茜が声を張り上げる。

「いいと思います。とってもロマンチックです。素敵です!」

 はっきり言われて照れくさいのか、金治は気まずげに居住まいを正す。

「妻がパートに出かける昼に持ち出して、帰ってくるまでには元の場所に戻したいんですよね」

「分かりました。では十三時にこの店でいいですか?」

「はい、それで。では、また明日」



 時刻は夜中の十二時。金治が店を後にしてからは、他に誰も客がこなかったため、智樹は茜を早めに上げ、早々に閉店の準備を始めた。ちなみに通常は一時ラストオーダー、二時閉店である。閉店時間が遅いのは、名古屋方面から終電で帰宅した人の憩いの場になれば、という智樹の計らいであったが、残念ながら見ての通り、あまり機能を果たしているとは言いがたい状況だ。

 まだ親起きてるだろうなー。物憂げな気持ちは、光の帰宅への足を重くする。

 何となく雑誌のページを目で追ったり、何となく携帯電話をいじったり、何となく水のおかわりをしたり。言うまでもなく無為な時間が流れてゆく。

「光」

 テーブルの砂糖を補充して回りながら、智樹が言った。

「ん、何?」

「就活、どうだ?」

「やってるし。今日だって職安行ってきたし。まあ、なんもなかったけど」

「なんもないことは、ないだろ」

 棘のある言い方に、光は若干嫌な気分になる。

「あと、あれはどうだ?」

 気持ちを汲まずに、ずけずけと質問を続ける智樹。

 不機嫌さをあらわにしつつも、光は「何?」と無愛想に聞き返す。

「報告したか? 二郎さんに。仕事辞めたって」

 ――二郎さん……。

 耳に入り、心の中で復唱すると同時に、ぎゅっと締め付けるような感覚が、まるで蝕むように胸中に広がった。

 林二郎。彼はフォレストリバーのすぐ裏手で、『林印刷』という中規模の印刷会社を経営する社長だ。光の父親の友人であり、小さな頃からお世話になっていた。

 二郎の仕事に対する真摯な態度、直向きな姿勢は、少なからず光に印刷業を選ぶきっかけを与えたといえる。特に印象に残っているのは、刷りたての印刷物にルーペを当てる彼の目だ。鋭い視線も、眇めた時にできる目尻のしわも、何もかもが幼い光にとっては尊敬の対象として映った。

 もちろん光が印刷会社への就職を決めた際には、彼は大いに喜んでくれた。そしてなんと入社までの数ヶ月の間に、貴重な時間を割き、印刷の基礎のレクチャーまでもしてくれた。

 全ては光が、社会人として活躍できるように。人生の次の舞台で、大きく羽ばたけるように。

 だが光は、そんな二郎の思いとは裏腹に、たった三年で会社を辞めてしまった。よりにもよって、仕事のミスで逃げ帰ってきた。

 二郎に合わせる顔がない。申し訳ない、と思うのは、当然の感情だろう。

「もう知ってるぞ」

「え? 僕が会社を辞めたこと? 何で?」

「伝わるだろ。地元だし」

 これだから地元は……。光は一度深呼吸をし、心を落ち着ける。

「というか、二郎さんに会ったの?」

「常連。いつもランチ食べにきてくれる」

 智樹はカウンター内へと移動し、水回りの片付けを始める。

 ほどなくして、光は聞いた。

「で、何か言ってた? 僕のこと」

「あいつは甘い。だめだ」

 やっぱり。自分への不甲斐なさが広がる。

 溜息を吐くと、光はゆっくりと立ち上がった。こんな話をされるようでは、自宅にいるのと変わらない。

「まだレジ閉めてないよね? コーヒー代ここに置いとくから」

 財布から四百円を取り出し小銭受けに入れると、扉の取っ手に手をかけた。

「光」

 智樹が不意に呼び止める。

「自分の口からも言えよ」

「自分の口から? 何で?」

「何でって……」

 カチャカチャという、食器の触れ合う音が止んだ。

「それが、筋を通すってもんだろ」


 四月の中旬とはいうものの、やはりこの時間になるとまだまだ肌寒い。光はジャケットを掻き合わせると、自転車のペダルをゆっくりとこいだ。

 人の姿はほとんどなかった。都会とは違い、建物の明かりもそれほど灯っていないため、どこか物悲しい気分にさせられる。時折前方からやってくる自動車のヘッドライトがやたらに眩しく感じるのは、このためかもしれない。

 ――筋を通す。

 脳裏に浮かぶのは先ほどの智樹との会話。

 確かに、印刷会社への内定を報告したのであれば、退職の報告もするのが筋なのだろう。だがそれは同時に、二郎への裏切りにならないとも限らない。あるいは印刷業からの、永遠の決別か……。

 どうすればいいのかなんて、分かるわけがない。

 だって僕は、この先について、まだ迷っているのだから。

 決めかねているのだから。

 大きな橋を渡り、もう少しで自宅に着くという辺りで、光は自転車を止めた。

 目を落とすと足元には、どこかから飛んできたであろう桜の花びらが、地面に張り付き色褪せていた。



 翌日。約束の時間の五分前に、光はフォレストリバーにやってきた。昼食の時間からは少しずれているため、店内には数名の客以外はほとんど見受けられなかった。

 窓際の四人がけのテーブル席に座ると、お冷とおしぼりを持った茜がせかせかとやってきた。

「あれ? 茜さんどうしているの? 大学は? 一年生だとまだまだ講義忙しいよね?」

「光さん、私を誰だと思ってるんですか」

 胸を張る茜に対して、光は曖昧な仕草で応える。

「この店、私がいないとだめなんです。ランチタイムが回りません! 頼りにされてるんですよ。こう見えても私」

 流石は茜さんだかっちょいいと冗談めかして言うと、彼女はにかっと白い歯を見せ、素敵な笑顔を浮かべた。

 金治が店にやってきたのはそれからすぐ、約束の時間ちょうどのことであった。

「すみません、おまたせして」

 手早くホットコーヒーを注文。金治は光の正面の席に腰を下ろすと、さっそくといった体で持ち出した詩集を差し出す。

「これがその、昨日お話しした妻の詩集です」

「それでは拝見させていただきます」

 手に取り、まずは表と裏と、慎重な手つきで全体の体裁を確認する。

 サイズは文庫本と同じくA6。上製本ではなく無線綴じであり、カバーなどはついていない。今風の言い方をすればソフトカバー本というやつだ。厚い紙で本文を包み、それを表紙にしている。

「あーやっぱりかなり汚れていますね」

 泥水の影響だろう。白い表紙の大部分が茶色に染まり、ガサガサとした手触りになってしまっている。

「これ、開いてみても大丈夫ですか?」

「ええ。ただ、引っ付いてしまっている部分はやめていただけます? 多分やぶれますから」

「もちろんです。では……」

 ゆっくりと開くと、パリパリという、乾いた紙がしなるような音が鳴った。同時に、博物館などに漂っていそうな、あの何とも言えない古い匂いが鼻を突いた。

「やっぱり、ほとんどのページが読めない状態になっていますね。最後の方はかろうじて読めなくはないですが、それでも内容までは分からないですし」

「はい……」

 弱々しい声で返事をする金治。分かってはいるが、人の口から言われると、また違った感覚で心が痛むのだろう。注文のコーヒーが運ばれたが、彼は手をつけなかった。

「ページ数の表記がありますね。本文自体は四十ページ。なるほど、ページ数の割に本が分厚く見えるのは、厚い紙を使っているからですね。多分九十……いや百十キロ?」

「九十キロ? 百十キロ?」

 当然、金治には何を言っているのか理解できない。

 光はすぐに簡単な説明を始めた。

「紙の厚さは重さで示すんですよ。全判の紙を千枚重ねた時の重さです。紙が薄ければ千枚重ねても軽い。逆に紙が厚ければ千枚重ねると重い。普通の文庫本とかに使われるのが大体五十キロ前後なんで、奥さんの詩集は通常の倍ぐらいある紙を使っているということになります」

「でも、なぜ妻は分厚い紙を使ったんだろうか」

 顎に手を当て考える。こればかりはセオリーがない。状況や目的、しいてはその人の感情によって選択が変化する部分だ。

「おそらくは、立派な本にしたかったからじゃないでしょうか。同じページ数でも、紙を厚くするだけでしっかりとした本になります。値段もそれほど変わらないなら、そのような選択をするのも、全然ありかと」

 ページをめくり、汚れていない白い部分に目を通してゆく光。昔の癖なのか、何となく指で、文字の印刷された部分を撫でてみる。

 ――おや?

 違和感。何かが違うような気がする。見え方? 感じ方? ただ単に古いだけか? それとも気のせいか?

 光は一度本を閉じ、再び表紙を見てみた。

『雨の後に、架かる橋』

 本のタイトルだろう。よく見ると微かにへこんでいるため、茶色に染まっていても読むことができる。

 箔押しでもしたのか? いずれにしてもこの状態ではなんとも……。

「で、どうです?」

 会話の間が気になったのか、金治が口を開いた。

「奥付にある印刷会社、分かりそうですか?」

「あ、ということは、名前があったんですね」

 言いながら、裏表紙をめくる。

 そこには横文字で、『印刷:岐阜北方印刷』と記載があった。

「岐阜じゃないですか。もしかしたら結構近いかもしれませんね。連絡は取ってみましたか?」

「いや、それが」

 困ったような顔をし、小さく首を横に振る。

「奥付にあるのは会社名だけで、住所や電話番号といったその他の情報は、なにも記載されていないんですよ。一応こちらで調べてはみたんですが、どうも出てこなくて」

 念のため、光は携帯電話を取り出し、『岐阜北方印刷』で検索をかけてみた。しかし金治の言うように、それらしい検索結果は表示されない。

「番号案内サービスにはかけてみましたか? 確か104でしたっけ?」

「ええ。しかしそんな会社はないと言われました」

 一体どういうことだろう。光は腕を組み、詩集に目を落としながら考えた。

「あ、二郎さんいらっしゃいませ! 今日はちょっと遅めなんですね」

 威勢のいい茜の声に、光は一瞬びくりとした。

 顔を向けると、そこにはカウンター席へと向かう一人の男性の姿が。

 短い白髪に日に焼けた肌。骨張ってはいるが逞しい身体。林印刷の社長、二郎その人であった。

「今日は機械動かしててね。止められないから昼は交替制なんだよ」

「そうなんですね。といいますか、二郎さんって社長さんですよね? その立場で現場もやるなんて、なんかとっても素敵です!」

 まんざらでもない顔をする二郎。彼はメニューを取ると茜へと視線を送る。

「あ、すみません、私もう大学戻らなきゃなんで、注文は店長の方にしてもらってもいいですか。ほんと、ごめんなさいです!」

「あー了解。頑張ってね」

 茜が出て行くと、ゆっくりと扉が閉まった。半身の姿勢であった二郎は、正面を向くため、少しだけ腰を浮かせた。

 ――不意に、二郎と目が合った。

 緊張感から、まじまじと見すぎたためだ。

 何か言われるかもしれないと思ったが、二郎の視線はそのまま通過、カウンター奥にいる店長の智樹へと向けられた。

 ほっとしたような残念なような。この感覚は、幼い頃に父親に対して抱いた、あの畏怖の念に近いような気がする。

「やっぱり、だめなんですかね」

 金治が言った。

 思わず「え?」と返してしまう光。正直現実に意識が戻された心地だ。

 この時点で、次に取れる行動は絞られていた。同業他社との関係を探る。地方でなおかつ中小企業なら、その繋がりは首都圏よりも強いかもしれない。つまりは林印刷の社長、二郎。彼こそが最後の頼みの綱だ。

 ――だが、しかし。

 光は一度大きく息を吸い、ゆっくりと吐き出す。

 二郎さんは僕に怒っている。失望している。はたして、相手にしてくれるのだろうか。相談に乗ってくれるのだろうか。分からない。分からないが……。

 水を手に取ると、ネガティブな考えを断ち切るように、一息に飲む。

 いつまでもこうしているわけにはいかない。こそこそと逃げ続けるわけにはいかない。なによりも、僕がそれを望まない。僕は二郎さんとの関係を取り戻したい。これはチャンスなんだ。いい機会なんだ。これを逃したら、もう……。だから――。

 自分を追い詰め勇気を奮い起こすと、光は覚悟を決めて席を立った。

「……あの、お久しぶりです」

「なんだ、腰抜けか」

 先ほどの、茜に対する態度とは一変。二郎は低い、どこか倦怠感を帯びた声で返した。

 いつも通りといえばいつも通りだ。彼は昔気質であり、基本女には優しく男には厳しい。だが現在の光の心情からすると、正直かなり堪えるものがあった。

 光は逃げ出したいという衝動を何とか抑え、拳を握り締めた状態で言った。

「二郎さんにお尋ねしたいことがあります。とある印刷会社のことです」

 あからさまに顔をしかめた。この期に及んでまだ印刷か、とでも言いたげに。

 相手の気持ちを意識的に無視し、光はなるべくそのままの調子で続ける。でなければおそらく、言葉に詰まってしまったことだろう。

「『岐阜北方印刷』さんという会社、ご存知ありませんか? 僕たち」ちらりと金治に視線を送る。「どうしてもその会社に連絡を取らなければならないので」

「岐阜北方印刷だ?」

 組んでいた腕を解き、テーブルにのせる。

「知ってるよ。昔何度かやり取りがあったからな。何だってんだ?」

「本当ですか。ではあの、電話番号とか住所とか、教えてもらうことは可能ですか? どう調べても情報が出てこなかったもので」

「もうねーよ」

「え?」

「もう何年も前に廃業したって言ってんだよ」

「え?」

 予想外の言葉に、軽率にも同じリアクションをしてしまう。

「だーかーらー、岐阜北方印刷はもう何十年も前に廃業したから、今はそんな会社ないっつってんだよ」

 ここまでか。諦めの感情が広がる。

 光は「そうですか。ありがとうございました」と言うと、力なく二郎に対し背を向けた。

「おい、ちょっと待てや。事情ぐらい話すのが、筋ってもんじゃねーのか? あ?」

 立ち止まり、今一度二郎に正対する。どうしようかと迷っていると、不穏な空気を感じ取ったであろう金治が、慎重な足取りでやってきた。

「すみません、私は綿谷金治という者です。実は今、とある本について色々調べておりまして。今回の件に関しては私が光君に協力してもらってるんですよ」

「ああ、そうですか」会釈をする二郎。「つまり、そのとある本というのが、岐阜北方印刷と関係がある、そんな感じですかね?」

「はい、そういうことです。カウンターではなんですので、申し訳ないんですが、テーブルの方に移動しませんか?」

 金治は二郎を自分たちの席へと招くと、過去に何があったのか、現在何をしようとしていたのかを、かいつまんで話した。

 以前妻が自費出版で詩集を二冊作ったこと。一方を誕生日プレゼントとしてもらったが、読む前に紛失してしまったこと。妻の持っていた方に関しても、水害に遭い、読めない状態になってしまったこと。何とか見つけ出し、次の妻の誕生日に贈りたかったこと……。

 金治が話し終えると、足りない部分の補足として、光が一言付け加える。

「詩集の奥付に、『印刷:岐阜北方印刷』という記載がありました。なので、もしかしたら見本誌が幾らか保管されているかもしれないと思い、連絡を取りたかったんです。しかし既に廃業しているのでは……」

 二郎は腕を組むと目を閉じ、うつむいた格好でしばし黙考した。

「ちょっと待ってろ」

 命令口調だ。金治にではなく光に言ったのだろう。

 二郎はポケットから携帯電話を取り出すと、そのまま外へと出て行った。

 数分後、電話を終えただろう二郎が戻ってくる。彼は先ほどと同じ席に腰を下ろす。

「おー。もしかしたら、見本誌あるかもしれんぞ」

「え? 本当ですか!?」

 思わず大きな声を出してしまう光。

「でも、どうして」

「電話で聞いたんだよ。別に会社がなくなっても社長本人はまだ生きてるからな」

 二郎は軽く咳をして喉の調子を整えると、説明を始めた。

「製品見本の保管期間は三年だったそうだ。だから通常であれば既に廃棄されてしまっているということになる。だが今回に限り、幸か不幸かイレギュラーが起きた。会社の廃業だよ」

 詩集の裏表紙をめくり奥付を開くと、二郎は発行年月日の部分を指でトントンと示す。

「『1998年11月1日』と書いてあるだろ。そして岐阜北方印刷の廃業は1999年だ。つまり、製品見本を処分する前に、会社はその機能を失ったつーことになる」

「ということは、まさか」

「そのまさかだ。工場を閉めてからは、ほとんど何もさわっていないそうだ。1998年に作った物なら、おそらく倉庫に何冊かそのままになっているだろうと、電話口で言っていた」

 光は思わず金治を見た。

 金治は驚きを隠せないといった顔をし、小さく一度頷いた。

「これは元岐阜北方印刷社長、渡辺徹さんの電話番号と住所だ」

 二郎は自分の名刺の裏に書いたそれらのメモを差し出す。

「いつでもいいってよ。どうしても見本誌を見つけ出したいなら、一度連絡を取ってみるこったな」

 メモを受け取ると、ボールペンで走り書きされた文字に一度目を通してみる。


 ――渡辺徹 090‐8576‐×××× 岐阜県岐阜市…………


「ありがとう、ございます」

 自然と、感謝の言葉が口からこぼれる。

「本当に、ありがとうございます」

 二郎は手をひらひらさせながら立ち上がると、昼食を食べるため、既にランチの用意されたカウンター席へと戻って行った。



「今からでも大丈夫みたいなんで、ちょっと私行ってみますね」

 渡辺徹との通話を終えた金治が、携帯電話を手に持ったままの状態で言った。

「あ、いえ、僕も一緒に行きますよ」

「しかし、もう十分お手伝いしてもらったし、これ以上は……」

「多分ですが、多少は人手がいると思うんです。どのような規模かは分かりかねますが、元企業の倉庫からある特定の物を捜すというのは、意外と骨の折れる作業だと思いますので」

 金治は少しだけ戸惑ったような表情を浮かべたが、その後に首を縦に振り、「そういうことなら、お願いしてもいいですか」と言った。

 インターネットの地図で元岐阜北方印刷の場所を調べてみると、ここから車で約数十分の所にあると分かった。実際に行って見なければ何とも言えないが、長良川をずっと北上した所にある、おそらくは閑散とした地域だろう。

 詩集を自宅の本棚に戻すついでに車を出してくれるということだったので、光は素直に頼ることにした。


 駅のロータリーにて落ち合うと、光は「お願いします」と言い車に乗り込んだ。

 目的地までは少しばかり距離がある。平日の、昼下がりのドライブとでも言えば聞こえがいいだろうか。

 日差しの中を戯れる鳥たち。新緑を台座に綺麗な花を咲かせる花たち。そんな陽気な春の風景を横目に、光を乗せた車はゆっくりと走り出す。

「金治さんは、奥さんと仲がいいんですね」

 混雑する駅周辺の商店街を抜けた辺りで、光は金治に話しかけた。

「え? どうして?」

「いえ、結婚してからだいぶ経つご夫婦って、誕生日にプレゼントとかを贈らない人が多いのかなと思いまして。しかし金治さんは、贈るばかりでなく奥さんが喜びそうな物を真剣に考えてらっしゃる。だから何となく、仲がいいんだろうなーと」

 少しの間があく。あまりいいとは言えない、居心地の悪い間が。

「贖罪……みたいなもんですよ」

「贖罪?」

「ええ」

 ハンドルを握り、前方に視線を向けたままの状態で、金治が答えた。

「私はね、正直いい夫ではなかったんですよ。当時は仕事も忙しく、ストレスもあってか、妻にはいつも怒鳴り散らしてばかりでしたし。共働きにもかかわらず、家事や育児は女の仕事だ、と無茶を言い、家のことを全て押し付けてましたし」

「え? そうなんですか? 全然そんな風には見えませんけど。こうやって話してても、金治さん言葉遣いとても丁寧じゃないですか。あと何て言うか、雰囲気も穏やかだし」

「それは、長い間営業をやっていたから。人当たりのよさ、みたいなのが癖になってるんですよ。家ではこうはいかない。典型的な内弁慶ですね」

 人差し指で鼻の下を擦り、愛想笑いを浮かべたが、すぐに戻す。

「全てを押し付け、してもらっていたのに、家の中では食事がまずいと文句を言い、掃除が行き届いていないと愚痴を垂れる、私はそんな人間だったんです」

 頷き返事をする光。どのようなコメントをするのが適切なのか、よく分からない。

 金治は続ける。

「そもそも結婚自体、親同士が決めた見合いがきっかけでした。顔合わせをした後は、何となく流れに任せて結婚。好きとか愛とか尊敬とか、あって然るべき感情とは無縁だったと、言えなくはないと思います」

「あ、いえ、でも……」

 何か言わなければと思い口を開くが、言葉が続かない。尻切れトンボになり、かえって気まずい雰囲気が広がる。

「私は去年定年を迎えて退職したんだけど、心にゆとりができたのか、考える時間が増えたのか、これまでの妻との生活を思い返すと胸が痛むんですよ」

「胸が痛む?」

「どうしてあの時喧嘩をしてしまったんだろう。どうしてもっと優しくできなかったんだろう。どうして素直になれなかったんだろう。どうしてもっと思い出を作らなかったんだろう。どうして愛を育む努力を怠ってしまったんだろうって」

「金治さん」

 無理をして言う必要はない。言葉を遮ろうと、光は金治に呼びかける。

 だが金治は、話すのをやめなかった。立て続けに感情を吐き出し続けた。

「あれは、ちょうど十年目の結婚記念日でした。私は妻の懇願に折れ、有給を取り、家族で旅行に行くことにしたんです。しかし前日の夜、取引先からの一本の電話により、旅行をキャンセルせざるを得ない状況になってしまった。妻は私にこう聞きました。『家族と仕事、どちらが大切なの?』と。正直私はこれを卑怯な質問だと思った。憤りを覚えた。だから思わず言ってしまったんです。『仕事に決まってるだろ』と。投げやりな口調で。初めてだったんじゃないかな。妻が涙を見せたのは。その時の表情、目は、今でもはっきりと脳裏に焼き付いてます」

「考えすぎですよ。奥さんだって、もしかしたら金治さんと同じで、一時的に感情を爆発させてしまっただけかもしれませんし。といいますか、普段はどんな感じなんですか? 喧嘩ばかり、というわけではないんですよね?」

「ええ、まあ。確かに、額面通りに捉えれば、別に夫婦の間に問題があるようには見えないかもしれない。会話もあるし、妻はいつもニコニコと、私の話に相槌を打ってくれるし」

 だけど、と言い、力なく首を振る。

「私の知る限りでは、妻が私の前で本音を語ったことは、今までに一度もないように思います。結婚してからの三十六年間、一度も。おそらくですが、ずっと我慢しているんじゃないかな。私の傲慢な性格を、言動や態度を」

 路肩に車を止めた。金治はジャケットのポケットからハンカチを取り出すと、何度か軽く目に当てた。

「無理やりな縁談。断れない結婚。決して幸せとはいえない結婚生活。三十六年ですよ三十六年。もうやり直しがきかない年齢といっても過言ではありません。きっと妻は思ってる。人生を棒に振ってしまったと」

 金治の気持ちは分からない。だからこそ、もうこれ以上は何も言えない。

 光は無言のまま神妙な顔をすると、シートにもたれかかりうつむいた。

「だからせめて、取り戻してあげたいなと思ったんです。妻が心から大切にしていた、あの詩集を。愛していた、あの詩集を」



 車から降りると、光は軽く伸びをし、周囲へと視線を送った。

 背の低い人家が畑の間に点々としている。空が高く感じられるのは、おそらくビル等がないためだろう。すぐ脇には川が流れており、心地のいい瀬音がぽかぽかとした日差しの中に穏やかに響いている。

 元岐阜北方印刷の建物は、川から道路一本挟んだ向かい側にあった。自宅に隣接する形で工場が建てられているのだが、その様がまた一興で、まるで花畑の中に立つ廃墟のようになっていた。元社長である渡辺徹の趣味なのか、はたまた奥さんか誰かがガーデニングをやっているのか。今日という日がまさしく春の真ん中であったため、もしかすると一番いいタイミングで訪れたのかもしれない。

 光たちはすみれ色に咲き乱れるハーデンベルギアのアーチを抜けると、そのまま玄関の方へと移動、チャイムを鳴らした。

「金治さんと光君だね。待ってたよ」

 渡辺徹と思しき濃緑のハンチング帽をかぶった老人が、引き戸の向こうから出てくる。

「はじめまして、神田光です」

「綿谷金治です。今日はよろしくお願いします」

「よろしく。何でも、以前うちで自費出版した見本誌を捜したいとか」

「はい。ご迷惑でなければ」

 金治は申し訳ないといった顔をすると、小さく頭を下げる。

「迷惑なんてとんでもない。こちらは毎日することもないボケ老人だからね。たまのお客さんなんていい刺激でしかないよ」

 徹は顔の前で手を振り謙遜すると、「ではさっそく」と言い、光たちを製品見本がそのままにされている倉庫へと案内した。


 ――ボロい。

 近くで倉庫を見た、光の第一声がこれだ。もちろん心の声だが。

 外壁は錆びてボロボロになってしまっている。地面に近い部分は劣化が激しいのか、崩れてしまっている部分も多数見受けられる。シャッターが下りており、扉にもしっかりと施錠がされているようだが、正直どこからでも入れそうなため、意味がないのではないかと思わずにはいられない。よく見ると屋根の一部がはがれ、雨ざらしになっている部分がある。思わず聞いてみると、徹は笑いながら、「去年台風がきた時に飛ばされたんだよね。今年は建物自体が吹っ飛んで、チラシが舞うかもね」と、冗談交じりに語った。

 中に入ると、かびの臭いが鼻を突いた。窓から差し込む光にチラチラと埃が舞っているため、相当空気が悪いと見て取れる。

「えーっと、手前の物がそうですか?」

 木のパレットにうず高く積まれた、何らかの印刷物を手で示し、光は聞いた。

「いや、違うよ。手前のは未出荷だった在庫だよ。よかったら持ってく?」

 丁寧にお断りすると、見本が保管されているという奥へと歩を進める。背の高さほどあるそれら在庫の脇を通り抜ける際、崩れてこないだろうかとハラハラした。

 倉庫の左端、入り口からは最も遠い場所に、製品見本置き場があった。だが光は、その光景を目の当たりにし、心の底から唖然としてしまう。

 まるで雪崩だ。当初は綺麗に積まれていたのだろうが、敷かれていた木のパレットが腐りバランスを崩したのか、現在は見るも無残な状態になってしまっている。しかもあの屋根の飛ばされた部分のちょうど真下であったため、露出している部分の印刷物に関しては、言わずもがな酷い有様であった。

「ここですか?」

 ごくりと、音を立てて唾を飲み込むと、金治が呟くように聞いた。

「うん、ここだね。あちゃーまさかこんな状態になってるとはね。どうします?」

「うーん、これは……」

 予想外の惨状に、即座に次の行動を導き出せない。沈黙が、辺りを支配する。

 光は携帯電話を取り出すと、時間を確認した。時刻は十六時前。今からなら何とかなるかもしれない……。

「あの、捜しませんか? いえ、多少時間がかかると思いますし、この辺りをいじることになるので、徹さんから許可が下りればなんですが」

「私は別に構わないよ。どうせこんな有様だし」

 徹の許可が出ると、光は金治へと顔を向ける。

「金治さん、どうですか?」

「捜したいのは山々だけど、流石にこれ以上、光君を巻き込むわけには……」

「いえ、こういうことがあり、人手がいるかもしれないと思ったから、今日僕は付いてきたわけで。それに、まあ、大した用事もないんで」

 ジャケットを脱ぎその場にかがんだのもあるのか、金治は目を伏せると、申し訳なさそうに「じゃあ、お願いしてもいいですか?」と言った。


 瞬く間に時間が流れ、現在は夜の八時。壊れた屋根の向こうには、闇に染まった暗い空が広がっている。

 昼の暖かさとは打って変わり、明らかに気温が下がった。四月も折り返し地点に差しかかったとはいえ、やはりこの時間になるとまだまだ肌寒くなる。建物の隙間から入る少しだけ冷たい風は、ようやく過ぎ去った冬の余韻を、今ここに運んでくるようであった。

 幸運にも電気が生きていたため、白い蛍光灯の下で作業を進めることができた。左端にある製品見本を、右側のあいているスペースに移動させながら、例の詩集を捜すといった具合なのだが、これがなかなか体力を使う。現在は半分ぐらいのところだろうか。ちょうど同じ大きさの山が二つできているといえばイメージしやすいかもしれない。

 ちなみに徹だが、彼は作業が始まると同時に、「じゃあ、何かあったら言ってね」と言い、早々に去って行った。当然といえば当然だ。彼に見本誌捜しを手伝う道理は、これっぽっちもないのだから。

「光君、時間、大丈夫です?」

 肩の部分で頬を擦りながら、金治が聞いた。

「ええ、僕は大丈夫です。それより金治さんの方は大丈夫ですか? 奥さん心配されるんじゃ」

「きっと、心配なんてしないですよ」

 独りよがりな自己完結。それから思い直したように言う。

「でもまあ、一応電話入れてきますね。友達と飲んでるから遅くなる、みたいな感じで」


 作業を再開し、更に半時が過ぎた。

 今日はもう無理かもしれないと、流石の光も諦めかけたその時だ。金治が「あっ」という意味ありげな声を発した。

「どうしました? もしかして見つかりました?」

「ええ、おそらく。ちょっと光君も見てくれます?」

 駆け寄ると、金治から本を受け取る。A6の文庫本サイズ。表紙に書かれた『雨の後に、架かる橋』という黒文字のタイトル。間違いなく、過去に金治の妻が自費出版したという詩集だ。

 だが……。

「雨に濡れて、ボロボロになってしまっていますね。見本誌の山が崩れた際に変な風に力が加わったのか」

 本を開くとベリッと鳴り、表紙からページがこぼれ落ちそうになる。

「糊がはがれて、既に本の体裁を保っていませんし。かろうじて内容は読めるのですが……。他にもう何冊かありませんか?」

「あるにはあるけど……」

 金治の視線をたどると、そこには更に状態の悪い見本誌が数冊。酷い物はかびにより、色が変わってしまっている。

「内容が読めても、流石にこんな状態の物を、誕生日プレゼントとして贈ることはできないね」

 確かに……。光は本の表紙に目を落とし、口をつぐむ。

「さあ、もう行きましょう。御礼といってはなんですが、何かおいしいものでもご馳走しますので」

 金治は溜息混じりに言うと、軽くズボンをはたいた。

 ――ん?

 直感的に、何かが違うと察する。

 この違和感はなんだろう。そういえばフォレストリバーで本文を見た時も……。

 パラパラとページをめくると、例のごとく印刷部分に触れてみる。

 全部ではないが、所々、裏に印刷された文字が浮かび上がっている部分がある。立体的に、まるで点字のように。

 通常、版のいらないオンデマンドはもちろんのこと、オフセットですら、印刷の際に紙に圧力がかかることはほとんどない。しかしながらこの詩集に関しては、文字の部分に明らかに圧力がかかっている。そう、まるで印鑑で、上から思いっきり体重をかけたみたいに。

「もしかして」

「はい?」

 周囲を整理していた金治が、光へと顔を向ける。

「すみません、ちょっと確認したいことがありますので、徹さんの所に行ってきます」

「あ、はい。分かりました。じゃあ私は、ここら辺を片付けとくから」

 金治の返事を背中で聞きながら、光は急ぎ足で倉庫を後にした。


 チャイムを鳴らすと、昼間と同じ格好の徹が姿を現す。お酒でも飲んでいたのか、微かだが頬を赤らめているようにも見える。

「終わった? どう? 見つかった?」

「はい、見本誌は見つかったんですが……」

 傷み、崩れてしまった本を差し出す。

「あーこりゃーだめだね。まあ何十年もほったらかしになってた物だし、仕方ないよね」

「ええ、荷物が崩れてしまっていたという、不運が重なったのが大きいです。ところで」

 おもむろに、光は本題を切り出す。

「一つお尋ねしたいのですが。この本の印刷は、どのような方法で行いましたか?」

 口元に笑みを浮かべる徹。その表情から確信を得た光は、畳み掛ける。

「もしかして岐阜北方印刷さんは、『活版印刷』で、印刷物を刷ってたんじゃないですか?」

「光君、もしかして君印刷に詳しい?」

「はい、つい数ヶ月前、今年の二月までは、印刷会社で正社員として働いていました」

 なるほど、とでも言いたげな顔で、顎に手を当て何度か頷く。

「印刷機とか、あと『活字』とかって、もしかして残ってたりします?」

「うん、向こうの工場に全部そのままになってるよ」

「もしよろしければ、見せてもらうことってできますか?」


 工場の建物は、年相応の経年劣化はあるものの、倉庫とは比べ物にならないほどに綺麗であった。

 シャッター脇の扉を開け中に入ると、眼前に広がる光景に光と金治は息を呑んだ。

 背の高さほどの棚が、壁に沿ってずっと奥まで続いている。そこには四角柱の印鑑のような物が、膨大な数、棚を、更には壁を埋め尽くすかのごとく、積み重ねられ、所狭しと並べられている。

「……凄いなー」

 見回しながら、金治は一歩二歩と慎重に足を踏み出す。

「私、印刷のこと全然知らないけど、こんな感じなんですね」

「いえ、版においては、これは二世代前のものです。現在はデータから直接版を焼く、CTPが主流です。一世代前が写植。そして二世代前が活版です」

 光は「手に取ってみてもいいですか?」と徹に断りを入れると、その四角柱の印鑑のような物を一つ棚から抜き出した。

「この印鑑のような一つひとつの文字を、『活字』と言います。活版印刷は、この活字をたくさん並べて版を作るんです」

 上手くイメージできないのだろう。金治は首を傾げ、眉間にしわを寄せる。

「そうですね。分かりやすく言うと、たくさんの印鑑を集めて一つの大きな印鑑を作り、それで紙にスタンプする感じです」

「あーそれだと何となく分かりますね。ちなみにCTPというのは?」

「コンピュータ・トゥ・プレートの略で、データを直接一枚のアルミ板に焼きます。それがオフセットで言う版です」

「アルミ板? オフセット? すみません、無知で」

 いえいえ当然ですよと言うと、光は素人にも分かるように説明するにはどうすればいいのかについて考えた。

「先ほど、たくさんの印鑑を集めて一つの大きな印鑑を作ると説明しました。アルミ板は、一枚でその大きな印鑑一つと考えてください。ただし本物の印鑑や活字と違い、凹凸はありません。感光剤により表面に特殊な加工がされており、水と油が反発し合う力を利用して、紙ののせたい部分だけにインキをのせるんです。それを印刷機でいう版胴、筒状の部分に巻き付けます。テレビなどで新聞とかが印刷される場面を見たことはありませんか? 機械がぐるぐると回っているじゃないですか。あれは輪転印刷機です。広義にはオフセット印刷機と言います」

「なるほど。何となく分かりました。ようは版が違うと」

「版も違いますが、一番の違いは用紙に直接版が触れるか否かですね。オフセットの場合、版から紙に直接インキがいくのではなく、一度ブランケットと呼ばれるゴムロールに転写され、それが紙に印刷されるんです。インキを版からブランケットに『オフ』して、それを紙に『セット』する。つまりそういうことです」

「ああ、だから」

 気付いたように、金治は手の平に拳を打ち付ける。

「オフセットって言うんですね」

「はい。その通りです」

 光は活字を元の場所に戻すと、すぐ隣にあった植字台を手で撫でてみた。

 それほど埃は積もっていない。備品等も、状態は悪くない。

「徹さん、そちらの作業台に手動の印刷機はあるみたいなんですが、自動機とかはないんですか?」

「あるよ。こっちきて」

 手招きをすると、徹は光たち二人を工場の更に奥へと案内する。そこには車一台ほどの大きさの、黒い機械があった。ページ物も刷れる、大型の活版印刷機だ。

 光は駆け寄り、背伸びをしたりかがんだりしながら、機械の状態を確認。やっぱりという思いで徹に聞いた。

「徹さん、これ、日頃から整備してますよね?」

「あ、やっぱり分かる? いやー工場閉めてからも何となく放っておけなくてね。ちょくちょくいじっちゃうんだよね。……ていうのは建前」

 ハンチング帽の上から頭を撫でる。

「今の時代ネオクラシカルでしょ? やっぱり音楽はLPとかカセットがいいとか、印刷も手作り感のある活版とか凸版がいいだとか。だがら綺麗な状態でとっておいたら、そのうち博物館とかが大金積んでやってくるんじゃないかなーと思ってさ」

 たははと乾いた笑い声を上げたが、流石は元会社の経営者だ。どこか抜け目ない。そんな冴えた頭の持ち主だからこそ成せるのか、光の思考を汲み取り、先回りして聞いてきた。

「あれ? もしかして機械、動かしたかったりする?」

 チャンスだ。相手の気が変わらないうちに、少しでも早く。

 光は直ちに声を張り上げる。

「はい! 動かしたいです! お願いできますか?」

「いいよ。何か面白そうだし。ていうか、久しぶりに動かしてみたくて仕方ないし」

「ちょ、ちょっと待ってください」

 慌てた様子で金治が話に割り込む。

「機械を動かすって、もしかして詩集をもう一度印刷するってことですか?」

「はい。だって見てください」

 腕を伸ばし、空中に半円を描くように動かす。

「ここには詩集を作った物と同じ器材がそのまま残っているんですよ。デジタルではなくアナログなので、労力を厭わなければもう一度同じ版を組むことは可能です」

「いや、でも、そんなすぐにできるもんじゃないですよね? お金だってそれなりにかかるだろうし」

「お金はいいよ」

 印刷機を触りながら、徹が言った。

「商売でやるわけじゃないし。ただし私は印刷機を動かすだけ。文選とか組版は、基本光君たちでやってもらうことになるけど」

「いや、しかし……」と言い、手で額を拭う。

「金治さんは、もっと自分に正直になってもいいんじゃないでしょうか」

「正直?」

「はい、正直です」

 何となく目を逸らすと、光は続きを話し始める。

「昨夜のフォレストリバーでの会話、そして先ほどの車の中での話を聞き、金治さんは本当に奥さんのことが大切なんだなと分かりました」

「大切? それは違うよ。大切だったら、言葉通りにするでしょ」

「大切にしているじゃないですか。今現在の奥さんを。過去を清算しようと、頑張っています」

「だからそれは」と口ごもると、大きく頭を振る。

「すみません。これは完全に僕の考えです。気に障ったのであれば謝ります。ただ、奥さんの誕生日に詩集を贈りたい。本当に大切だった物を取り戻してあげたいというその思いは、どう考えても嘘であるとは思えないんです」

 光の言葉に金治は鼻をすすると、ゆっくりと、一度大きな溜息を吐く。

「どうでしょう? 詩集を、刷ってみませんか? 僕は、素直な金治さんの気持ちが聞きたいです」

 しばらくの間、静寂が満ちた。光も金治も徹も、誰も口を利かなかった。

 春の夜風が窓を打つ、カタカタという侘しい音だけが、この場に響いていた。

「……そうだね」

 呟くように、まるで自分自身に言い聞かせるように、金治が言った。

「光君がそう言うなら、私も正直にならないとだめだね。過去を清算するためには、過去と同じ気持ちではいけない」

「では」

「ええ。お願いしてもいいですか? 印刷に無知な私も、できる限り協力するので」

「もちろんです。では決まりですね」

 さっそく、といった体で、光は先ほどの活字棚の方へと歩き出す。

 そんな光の行動を見た金治が、慌てたような口調で呼び止める。

「え? 今から作業を始めるんですか? もう夜中に近いですよ。流石に日を改めた方が……」

「金治さん、奥さんの誕生日ってもうすぐですよね?」

 足を止め、振り返りながら聞く。

「今までの話しぶりからして、そうなんだろうなーと思いまして」

「はい、そうですね。妻の誕生日は来週の二十一日です」

「となると、今日はもうほとんど十五日ですので、一日前の二十日に完成を目指すとなると、実質作業ができるのは六日しかありません。逆算すると、二十日に断裁・折り・製本、十九日に裏面印刷と乾かし、十八日に表面印刷と乾かし、十五日から十七日で文選・植字・組版、ということになります」

「文選は先ほどの棚から文字を捜す。植字というのは、それを文章に並べる。組版というのは、何と言うか、最後の仕上げといった感じですかね?」

 指を折りながら、一つひとつ確認する金治。

 光は肯定すると、説明不足であったことを詫びてから、再び口を開く。

「印刷機は徹さんが動かしてくれるということなので、僕たちの作業は十五日から十七日の文選から組版ということになります。素人同然の僕たちには、三日という時間はあまりにも少なすぎるんですよ。一分一秒も、無駄にはできません。誕生日までに奥さんに詩集を届けることを目指しましょう」

「光君……」

 感激したのか、金治は勢いよく光の手を取ると、大きく何度か首を振る。

「ありが」

「その言葉は」とっさに遮る。「奥さんの笑顔を見てからで、お願いします」


 活字が収められた棚を、通称『馬』と言う。そしてそこから活字を捜し出し集める作業を、『活字を拾う』と言う。拾った活字は『文選箱』と言われる手持ちサイズの木の箱に入れてゆく。

 ちなみに一つの種類の活字自体の数についてだが、常用漢字は多め、表外漢字は少なめというように、必ずしも一定ではない。使用頻度の高い平仮名などについては、他に比べ、当然のことながら多量にストックされるということになる。場所によって様々だろうが、どうやらここ元岐阜北方印刷においては、それら使用頻度の高い活字については、棚の中央、ちょうど肩の高さの辺りに集められ、配置されているようだ。

 光と金治は活字を拾うため、さっそく文選箱を片手に、活字棚の前に立った。

「えーっと、まずはどうすれば」

 文選箱と活字棚を交互に見ながら、金治が聞いた。

「そうですね。まずは簡単な説明と注意事項を」

 光は先ほど倉庫から捜し出した詩集を手に取ると、金治にも見えるように開いた。

「次の工程、植字のためにも、この時点で文章に合わせて順番に活字を拾っていきます。活字は四角いですので、文選箱の角に合わせて、綺麗に並べていってください。傾けるとパタンと倒れますので、こう親指で押さえながら……」実際に指で押さえる真似をする。「……やると、効果的だと思います」

「なるほど」

 頷きながら、金治も同じ動作を繰り返す。

「注意していただきたいのは、版においては面が反転するということです」

「ああ、確かに。一文字一文字反転してますね。よく見ないと間違えそうだ」

「文字もそうですが、重要なのは文章全体が反転するという点です」

 小さく口を開け、そのままの状態で次の言葉を待つ金治。おそらくはもう気付いているのだろうとは思ったが、光は言わんとするところをはっきりと説明する。

「ですので、活字を拾う際は、ページ右側からではなく左側から、文頭からではなく文末からでお願いします」

「なるほど、分かりました」

「あと、この詩集の本文に関しては、使われている活字サイズは五号です」

 数歩横に移動。『五号』という札の貼られた活字棚の前で立ち止まる。

「必ず五号と書かれた棚から捜し出すようにしてください」

「分かりました。……といいますか光君、凄く詳しいですね。活版は数世代前だとか、確か先ほど言っていたような」

「ああ、いや……実は印刷の勉強の一環として、休日などを利用し活版印刷のワークショップなるものに何度か参加したことがあるんですよ。なので完全に素人の人よりかは、ほんの少しだけできると思います。まあ、付け焼き刃といってしまえばそれまでなんですが」

「それは殊勝な心がけですね。感心します。何と言うか光君は、本当に印刷が好きなんですね」

 印刷が好き……。

 印刷が好きだった。

 では今はどうなのだろう?

 分からない。何が好きで何をしたいのか、本当に分からなくなってしまった。

 消極的な考えを頭から振り払うと、光は曖昧に返事をし、すぐに次の話題を持ち出す。

「今回幸運なのは、本文四十ページと一見分量が多いにもかかわらず、文字数が極めて少ないということです」

 持っていた詩集の一番初めの部分を、試しに開いてみる。


    【誕生】


 私がこの世に生を受けたのは

 穏やかな春の季節

 四月だった。

 桜の花は散ってしまっていたが

 庭にはしゃくなげの花が満開だった。

 うららかな春の日差しも

 空に流れる白い雲も

 そんな私を気にかけないように

 いつも通りにそこにあった。

 私はそれが嬉しい。

 世界の一員として

 認められた心地がするから。


 各詩によってページ数はまちまちだ。一ページあたりの行数は大体十行前後であり、改行も多く、文字数も少ないため、文選作業自体は比較的ウエイトが軽いのではないかと思われる。

「とりわけ難しい漢字もないですし、装飾活字や飾り罫も使われていないので、迷うことなく作業は進められると思います」

「分かりました。それでは分担して進めますか。ページごとでいいです?」

「そうですね。組版はページごとに行いますので、それでいきましょう」

 光は携帯電話を取り出すと一ページ目を撮影した。

 意図を察した金治も、携帯電話を取り出し、光にならい二ページ目を撮影する。

「文選箱はたくさんあるみたいなので、ページごとに使い分けましょう。では、作業開始です」


 結局、全ての活字を拾い終わったのは、今まさに太陽が昇らんとする、夜明け寸前のことであった。