衝動買い、だった。

 駅前の本屋。雑誌コーナーに平積みで並べられた女性誌。その中に、ファッション雑誌『ルメーク』はあった。目に入った瞬間、

 撃たれた。

 と、玲夢は思った。

 表紙を飾っていたのは玲夢の大好きなファッションモデル、夕映だった。彼女と言えば、わりとポップな服を着て、くしゃっとした笑みを浮かべている。そんなイメージが強かった。ところが今月号でピン表紙を飾った夕映は、まさかの大人っぽ路線。ニット生地のセットアップこと「ニットアップ」がノースリーブでセクシーだ。色は暗めの紺。リップには赤。そして、挑発的な瞳。玲夢はこの瞳に撃たれた。

 雑誌をめくる。部屋のベッドに寝転がりながら。

 夕映が登場したのは「シーンに合わせた《リンクコーデ》のススメ」という見開き。ファッションや髪型を、場所の性格に合わせて考える。そういう企画だった。夕映はあらゆる場所を訪れ、それぞれで、まったく異なる自分を見せていた。

 買ってよかった。玲夢は、しみじみと思う。

 それくらいに好みの企画だった。

 玲夢が早々と雑誌を閉じたのは、一日だけで堪能するのはもったいない、と思ったからだ。これから毎日、寝る前に眺めよっと。

 ん?

 何かが引っかかる。

 玲夢は例のページを、また開いていた。違和感があったのは、隅っこ。スタイリングを担当した人の、小さな顔写真が並んでいるのだが、その一人。ヘアメイク担当の男性が、何というか、こう。あまりに、

「無愛想すぎる……」

 服のスタイリストの女性が満面の笑みだからとか、そういう比較を抜きにしても、無愛想だった。笑みなど一切ない。どころか俯きがち。黒い前髪の隙間から覗く目は、つまらなそうに斜め下を向いていた。

 写真の横には彼の名前。

 葉所日陰。

 これ、笑っていいのかな……と玲夢は思う。写真を見るかぎり、彼は、本当に日陰のような人だった。


 カットモデル?

 玲夢が聞き返すと「そーそー」と夏海は言って、化粧を直しにかかる。カフェの中でもお構いなしだ。

「やらないかなと思って」

「えーっと」

 聞いたことはある。カットモデル。でも、そこまでよく知らない。美容師の卵の練習台的な? そんな感じだろうか。

「のんのん」夏海は否定する。

「いや、そーいうカットモデルも多いんだけどね。今回のは違うの。だって、ハサミ握んの、表参道のカリスマ美容師だよ」

「何それ。逆に怪しくない?」

「怪しくないっての」

 美容室のホームページをリニューアルするのに合わせて、看板美容師のヘアカット動画を載せる。そのためのカットモデルを募集しているのだそう。

 条件は「黒髪」で「鎖骨下まで髪の長さがある」女性。夏海は赤茶のマッシュショートのため対象外。でも、だからといって、

「どうして私なの?」

 素朴な疑問だった。すると夏海は、

「地味すぎる」

 と、ため息まじりに答えた。アンタは何もかもが地味すぎる。イメチェンしてきなさい。これを機に少しくらい、おしゃれになってよ。

 間延びした黒髪のストレート。

 化粧は化粧水のみ。

 ダサくはないが無難な服選び(今日の服装。ダークグレーのTシャツに紺色のスキニーデニム。カジュアルといえばカジュアル。地味といえば地味)。

「おしゃれには興味がないから」が玲夢の口癖だった。

「また、それ」

 夏海は呆れ返る。

「高一の途中まであんなにおしゃれだったのに」

「気のせい気のせい」

「髪も巻いてたじゃん」

「そうだった?」

「だった」

「じゃあ、そのときがピークだったんだよ。今は興味ないもん」

 ショップ店員の夏海から服をもらったこともある。けど、まだ着て出かけたことはなかった。

「それでも花の女子大生かよ」

「うっ……」

 もったいない、と夏海はまくし立てる。

「顔はかわいいのに」「いや、かわいいって言っても『ふつう』に毛が生えた程度だけどさ」「要するに落ちつくかわいさよ」「スタイルはいいじゃん?」「胸はないけど」「磨けば光るのに一切、磨かないんだもん」

 夏海っ、と玲夢が割って入る。

「いずれにせよ」

「うん」

「私はカットモデルに行きません」

 気持ちはうれしいけどね。

「そういうのってさ、やっぱおしゃれな女の子とかがやらないと。私なんかじゃつとまらないよ」

 夏海から目をそらす玲夢。その、視線の先では白い光が、飛んでいた。

 そこはカフェ内のガラスで囲われた個室で、撮影場所としても貸し出しをしているようだった。破片のように鋭いフラッシュが、飛ぶ。飛ぶ。モデルなのか何なのか、きれいな女の人がカメラを向けられていた。

 仕切りは、たったのガラス一枚。しかし、玲夢にはそのガラスが途方もなく分厚いもののように感じられた。

「あっそ」夏海もさすがに無理強いはしないか。

 と、思いきや。

「でも、もう予約入れちゃってるから、ちゃんと行ってね」

「はー?」

 カットモデルの予定日は、夏海に事前に「空けといて」と言われていた日だった。はめられたのだと知る。

「そんなヘコむ? むしろ感謝してほしいよね」

 夏海は例のカリスマ美容師について、

「昔、杏香の専属ヘアスタイリストだったらしいよ」と補足。

 杏香は、二〇代女性の憧れとも言えるモデルだ。女優でもある。彼女に憧れてモデルの世界に入った人は多い。夕映だって、その一人だ。

「無理無理無理無理」玲夢の逃げ腰に拍車がかかる。

「あとね」

「今度は何」

 ここだけの話、と言わんばかりに夏海は顔を近づけてくる。そして、わざとらしく声をひそめるのだった。


「彼のシャンプーには人離れした、不思議な力があってさ……」



 寝る前に『ルメーク』を開くのが日課となっていた。夕映の出ているページを堪能してから布団に入る。そうするとよく眠れた。

 玲夢は夢を見ない体質だった。

 いや、正確には見ているのかもしれない。が、思い出すことができない。寝ている間、夢はすごく近しい存在なのに、起きたとたん、よそよそしく離れていく。掴もうとしても夢の欠片は、指と指の隙間をすり抜けてしまうのだ。

 あーあ。

 私もたまには夢の一つくらい見てみたいな。

 と、心底、玲夢が思ったのは授業中だった。後ろの席の女の子たちが昨夜の夢の話をしているのを、聞いてしまって。俳優の綾野剛と菅田将暉に言い寄られるという最強の夢を見たらしい。羨ましすぎた。

 都内の私大に入学して、三ヶ月。予想はしていたが、キャンパス内は足の先から頭のてっぺんまで華やかな人たちばかりだった。

 玲夢は浮く。

 水に垂らした絵の具のようにじわっと。

 午前ラストの講義が終わって、教室のあちこちで「群れ」が作られていく様子を静かに眺める。とはいえ、玲夢にだって、

「ノート見せて」友だちはいた。彼女を友だちと呼ぶならば。

「いいよ」

 あるいはノートを貸している間だけの友人関係なのかもしれなかった。ノートを書き写したら、離れて飛んでいくのだから。彼女には、友だちがたくさんいた。玲夢とは正反対の「イマドキ女子」勢の。

 一冊のノートだけが、二人をかろうじて繋ぎとめている。玲夢もそんなことくらいわかっていた。いや、わかっていたからこそ、

「今日の夜ヒマ?」と言われたときは、うれしかった。

「暇だよっ」

「じゃーごはん食べに行こ」

「行く。絶対に行く」

 放課後、大学の正門の前で待ち合わせることに。

 ところがその放課後、友だちの姿が見当たらない。それでも待っていると、メッセージが届いた。ごめん、先に店にいる、とあった。指定されたお店は、大学通りの坂を上ったところに。玲夢は走った。

 居酒屋だった。

 迎えに出てきた友だちは、玲夢の手を捕まえるや暖簾をくぐった。店の中は人でごった返している。友だちは慣れたようにずんずんと進んでいく。

 奥には個室が。友だちが靴を脱ぎながら、あ、そうそう、と言う。言い忘れてたけど、今日、他にも友だちいるの。大丈夫。玲夢ならすぐ仲良くなれるから。

「……そうだったんだ」それなら先に言ってほしかった。

 扉を開ける。と、中には女性が一人、男性が三人。いずれも玲夢の知らない人たち。

「ねえ、これって」

 耳打ちする玲夢に「男作るチャンスだよ」と友だちは小さく言う。やはり、合コンのようなものらしい。遠慮がちに、端っこの座布団に座る玲夢。チャラついた金髪の男が意気揚々と仕切って、全員分の飲み物が新たに運ばれてきた。

 場は盛り上がる。

 誰かの話を誰かが繋いで。

 落ちそうになっても誰かが拾って。

 見えないバトンパス。ただ、そのバトンは一向に玲夢には回ってこなかった。玲夢も玲夢で、バトンをもらうための構えを知らなかった。

「何だよ、その服」

 金髪の言葉に玲夢はびくつく。しかし、男の視線の先にいたのは、さっきまで奥に座っていた女性。トイレから戻ってきたところのようで、彼女は背中の大きく開いたワンピースを着ていた。

「エロすぎじゃね? 挑発してんの」

「ばか」

「そういうのって背中きれいな人しか着れねーよな。絶対」

 すると男の一人が首をふった。

「いや、まず自信がないと」

「わかる」と友だち。

「何よ、それ。私が自信満々みたいじゃない」

「そういうことそういうこと」金髪の言葉が哄笑を生む。

「あ、でも」

 口数の少なかった、メガネの男が声を発する。

「僕は露出、少なめの女の子のほうがよかったりして」一瞬にして、玲夢は磁石のようにみんなの視線を集めることができた。金髪が鼻で軽く笑ってみせた。

「彼女みたいな感じがいいって?」

 玲夢は半袖チェックシャツのボタンを、いちばん上まで留めていた。

「まあ、どちらかというと」

「変なの」

「玲夢ちゃんってさ」と、奥の女性が言った。玲夢は身構える。「彼氏とか、いたことあるの?」

 玲夢が首をふると「お前と一緒じゃん」と金髪がメガネの男の肩を叩いた。男は恥ずかしそうに「やめろよ」と笑った。ぴったりだな、お互い服も地味系だし。それは関係ないだろ。そんな男たちのやりとりに紛れて聞こえた、

(ほんとちょうどいいの捕まえてきたね)

 という声。

 奥の女が友だちに言った言葉である。それで、わかった。いや、もっと前から気づいていたのかもしれない。彼女たちの引き立て役としての自分の存在に。

 ……帰りたい。

 玲夢がそう思ったとき。

 暗くなったり、明るくなったりする個室。金髪の男が、壁についた照明スイッチをいじって遊び始めていた。やがては真っ暗に。

「何も見えなーい」と友だち。

「ふははは」

「笑ってんじゃないわよ。でも、楽しいかも。あはは」奥の女の笑い声。

 玲夢さん。

 耳元で声がした。

 えっ。

 僕、ぶっちゃけ玲夢さん、ありなんですけど。

 メガネの男だった。真横に来ている。玲夢にしか聞こえないような、小さな声で続ける。僕じゃ……ダメですかね。

 男が肩に手を回してくる。

 鳥肌が立った。

 限界。玲夢は男の手をふり払うとバッグを掴んだ。


 冷たい夜風を想像していたら、まとわりつくようなぬるい空気だった。少し遠回りしながら駅へと向かう。

 玲夢を引き止めに追ってくる人はいない。

 走ろっかな。

 何となく、そんな気分。スニーカーだった。下り坂をダッシュしてみる。と、これが意外に爽快。ダッシュしては休み。ダッシュ。休み。を繰り返した。

 最後は、たっぷりと休む。セレクトショップの前のベンチで。店は閉まっていたがショーウィンドウの明かりは灯ったままだ。

 ウィンドウケースの中には、

「あっ……」

 夕映が今月号の『ルメーク』表紙で着ていた、紺色のサマーニットアップ。ブランド名も同じだった。

 光沢がきれい。

 生地に触れたくって、手が勝手に伸びる。けど、止まる。ガラスに、地味な自分の姿が映っているのに気づいたのだ。

 どうせ似合わないんだから。

 ガラスに映った彼女が、玲夢にそう囁く。

 家に帰ると、父と母の笑い声が茶の間から聞こえてきた。お風呂に入ってるときも階段を上っているときも聞こえた。

 自分の部屋の中が薄暗い、と思ったら。

 父がやってくる。その手には電球が。玲夢は父から受け取ると、自分の手で部屋の電球を新しいものに交換した。

 ふっと明るむ視界。

 父は、ゆっくりと階段を下りていった。その足音が消えれば、また笑い声。

 一時期は笑い声の絶えた家なのだ。そのことを考えると今は幸せに違いなかった。二人がこれからも笑って暮らせますように。玲夢は祈った。



 夢を見た。印象的な夢だった。内容は暗くない。それなのに見ている最中、ずっと心が浮かなかった。不安。落ち着かない。どこかへ逃げたい。玲夢は目を覚ましてからしばらく天井を見つめ、心が鎮まるのを待った。

 夢を見る、いや、夢を覚えている、こんな経験は何年ぶりだろう。とはいえ、歯を磨くと夢のことなど忘れてしまった。

 ……が、その夜も同じ夢を見た。

 次第に、この夢には意味があるのでは、と思うようになる。インターネットの夢占いを利用してみた。しっくりとくる結果は出なかった。玲夢はパソコンを閉じ、夏海からもらった名刺を掲げた。


 ――美容室《夢やうつつ》


 カットモデルを予定している日だった。名刺の裏には、簡単な地図が載っている。最寄りは表参道駅。

 改札階から地上に出ると杏香の広告が目に入った。ビルの屋上。化粧品を手に、アンニュイな表情を決める彼女からは、みずみずしさと同時に、据わったような色気が漂う。二〇代半ばとは思えなかった。

 杏香の元専属ヘアスタイリストに、髪を切られる。想像するだけで足がすくんだ。カットモデルって、どんな髪型にされるんだろ。あーもう……無理。

 昼間の表参道を歩く。

 海外の高級ブランドの路面店が立ち並ぶ通りだ。言うまでもなく、おしゃれな人が多かった。サングラス率も高い。モデルばりのルックスの女性とは何度すれ違ったことか。一歩、一歩、進むたびに体が小さくなる。そんな心もとない気分を、玲夢はひたすら味わった。

 高級ブランド店「COACH」の手前で、地図の指示に従って曲がると「ロハス通り」に出た。脇には雑貨屋やカフェが。緑も多い。進んでいくと住宅が増え、人もまばらに。

 突き当たりまで来て、こう思わずにはいられなかった。

 ここって、まだ表参道なの……?

 横へ折れる。そのまま弓なりに道を進み、後はコンクリートアーチの細い路地を抜ければ到着だった。

 が、迷った。

 見当たらないのである。そのコンクリートアーチの門とやらが。

「もしかして」

 声をかけてきた男性がいた。三〇代前半くらい。優しげな顔立ちをしていて、真夏なのに白衣を涼しげに羽織っていた。華奢な銀フレームの丸メガネの縁をくっと持ち上げながら、

「《夢やうつつ》に行こうとして、迷ってる人?」

「え、どうして」

「ふふ」男性は笑うと、さらに優しげな顔つきになる。「このへんでキョロキョロしてる人は《夢やうつつ》を探してる人だから」

 案内しますよ、と付け加えてきた。

「え、いいんですか?」

 男性は「あ、ちょっと待っててください」と、そばにあった店の中へ入っていく。看板には「トール」と書かれてあった。戻ってくるや、彼は玲夢に小さな紙コップを渡した。

「何ですか? これ」

「冷たいピーチティーですよ。うちの店の自信作」

「……おいしい」

「よかった」

 紅茶の風味と桃の甘味が程よかった。果肉も入ってた。一口でぐい飲みしちゃったけど、もっと女の子っぽく飲めないのかよ、私。

 道を引き返していた。どうやら見過ごしていたようだ。でも、目印となるコンクリートアーチなんてなかったはず。

「ここです」

「え?」

 指差す方向にきちんと、

「あった」木の枝葉にすっぽりと隠れていたのだ。

「この奥ですから」

 吸い込まれるように路地に足を踏み入れる玲夢。あっ……お礼。気づいたときには遅く、ふり返っても彼の姿はなかった。さっきの「トール」ってお店で働いてるはずだ。今度、寄ってみよっと。

 前を向き直る。

 路地というよりも小道だった。都会の中とは思えない。風の音しかない。葉の影が地面に絨毯を作っている。そして、その絨毯もいつか途切れる。

 顔を上げると美容室《夢やうつつ》はあった。


 白のモルタルに覆われた外壁と大きなガラス窓が、アトリエを連想させる。背後の木々が緑のスクリーンとなって、余計に白が映えた。

 形はボックス状の、平屋。

 驚いたのは、その白のモルタル壁に直接、施術のメニューが黒い字で書かれていることだった。すべて英語である。

 壁のメニューを眺めていると人が横にいるのに気づかず、

「よっ」

 と頬に冷たい缶ジュースを当てられて、

「きゃあっ」

 少女のように叫んでしまった。

「ははっ」男はのんきに笑っている。ヒゲ面。ロン毛。やんちゃな虎柄シャツ。三〇代半ばくらいだろうか。

「何するんですか」

 警戒心むき出しの玲夢に、ぷしゅっ、と缶ジュースを開けては、飲んでいいよ。そう言って、桃の炭酸水を渡そうとする。

「ピーチティー飲んだばかりなので」それも、すごくおいしい。

「じゃー俺が飲む」

 玲夢の前で喉を鳴らしながら飲み、

「てか、お客さんだろ」

 と男は言った。

「えっ」

「俺、こう見えても、ここの店長だから。今は昼休憩という名のナンパ帰り。いいよ中入んな」

「ナンパ……」

「まあ、釣れなかったけどな。ははっ」

 本当にこの人が店長さん? 疑わしかった。でも、何となく悪い人ではないような気がした。

 磯貝春という名前らしく「春ちゃんか春ちんって呼んで」と言うので、

「じゃあ、磯貝さんで」

 玲夢は冷静にかわしてみせた。

 扉までもが白く、ほとんど壁と同化していた。真鍮のドアノブを握って、引く。と磯貝は「ん。入んな」と玲夢を中へ促した。

 美容室の中に足を踏み入れる。

 すると目の前で、

「こけますっ」

 と予告しながら転ぶ女の子。腰付けのシザーケースから美容師の道具、ハサミやらクシやらが音を立てて床の上に流れ出る。

「だっ、大丈夫ですか」

 心配する玲夢とは対照的な磯貝。

「お前は一日に何回こけりゃ気が済むんだよ」

「すいませんっ……」

 床に散乱した道具をせっせと集めると、女性は一旦、店のバックヤードへ消えた。でも、すぐに戻ってきて、

「あのっ。いらっしゃいませ」と飴玉を口に含んだような甘い声で言った。

 彼女は、アシスタントの庄司桃子だった。色白で、あどけなさの残る顔立ちがかわいらしい。金~ベージュ色の髪をお団子のように結い上げている。スニーカーにデニムオーバーオール、ビッグサイズの白Tというカジュアルな格好だった。

 玲夢はカットモデルの件で来店したことを伝えた。

 すると磯貝が、

「俺、呼んでくる」

 と店の奥へ消えていった。

 桃子に促され、二人掛けのソファーに座る。そのソファーもそうだが、店内は基本的に白かった。床も壁も天井も。無機質な印象を受けないのは木造だからだろうか。白いペンキがところどころ剥げたりなんかしている。

 桃子が、お茶を運んできた。

「ルイボスティーです。美肌効果があって、それに、すっごくおいしいんですよー」

 彼女の手が震えているわけでもないのに、お茶は、これでもかっていうくらいこぼれる。テーブルの上に置かれたときには、ほとんど残っていなかった。

「あれ……なくなってる」

「いやいやいや」

 笑うしかなかった。

 美容師として致命的では……と、客が不安になるレベルの不器用人間。それが桃子のようだった。

「今すぐ淹れてきますごめんなさい」

「あっ……いや。大丈夫ですよ。喉渇いてないので」

 テーブルの上には雑誌が積まれていた。ヘアカタログ系もあれば、ライフスタイル系まで幅広く。その中に今月号の『ルメーク』もあった。引っ張り出さずにはいられない。

「もしかして『ルメーク』お好きなんですか?」と桃子。

「好きです。この号も買いました」玲夢は夕映の登場する企画がお気に入りだと言い足した。桃子も、うんうんと頷く。

 めくろうとして気づく。

 ……付箋?

 雑誌の中盤あたり。緑色の付箋が挟まっているのだ。

「あ、それはですね」桃子が説明しかけるも、

「お待たせ」磯貝が折悪しく戻った。

 後ろには、背の高い男性の姿が。二〇代後半くらい。体格のいい磯貝と並ぶと、その細さが際立った。

 室内の色とは対照的に、真っ黒な服装の彼。ネオンや夜光虫を思わせるような光がデザインされた、モード寄りの長袖シャツを着ている。

 おいっ……挨拶。

 磯貝に耳打ちされて、

「葉所日陰です」

 彼は名乗った。冷たい言い方だった。本当に美容師なんだろうかと思ってしまうほど愛想がなかった。右手で左腕の肘を抱えるようにして俯き、一切、玲夢の目を見ようとしない。

 今回のカットモデル、こいつが切るから。と、磯貝は言った。玲夢は、

 ……大丈夫かしら、

 と思う。

 美容師といえば気さくなイメージなのに。真逆の印象。

 客と視線を交わそうとしない、そんな美容師に髪を切られると思ったら、不安というか、怖いというか。それが、正直な気持ちだった。

 でも、葉所日陰っていう名前。どこかで覚えがあるような。聞いたことがあるのか見たことがあるのか。気のせいだろうか。

 玲夢はソファーから立ち上がる。

「叶木玲夢です。今日は、あの、よろしくお願いします」

 日陰は控えめに頷く。

 無造作で、ゆるめのパーマのかかった黒髪。重ためのニュアンスが彼の雰囲気に合っている。前髪を、彼は手で分けた。

 顔が、はっきりと見えた。

 メンズノンノの専属モデルにいても、おかしくないような顔立ちだった。黒い背景に美しく映えそうな、色白の小顔。惹きつけられる、くっきりとした二重。薄い唇。華奢な顎は、涙がきれいに滴るのを予感させた。

 と、日陰はおもむろに歩き出した。白のカットチェアに手を添え、くるっとこちらへ向ける。

「えっと」まごつく玲夢に、

「『お座りください』っていう彼なりの意思表示だから」と磯貝。

「なるほど……」

 玲夢は笑みを繕ってみせる。でも、内心は「え……この人、客と喋らない主義? わからん」と戸惑いまくりだった。

 玲夢はカットチェアまで移動し、おそるおそる座る。椅子は正面に向き直った。縦長の鏡が目の前に現れる。

「髪、触ります」あ、……普通に喋った。

「はい」


 大丈夫かしら。

 そんな不安は髪を触られた途端、散ってしまった。

 薄いガラスを撫でるような。優しく、髪一本、一本をいたわる手つき。人の髪の毛に対する愛、のようなものが彼の指先から伝わってくる。

 ……もっと触れて。

 こんな気分は初めてだった。髪を触られているだけなのに、気持ちよかった。髪の毛も喜んでいる、そんな気がした。


 日陰の手はきれいだった。清潔感があって、細長く、別の意思を持っているかのごとくしなやかに動く。

 目線を上げる。

 絵になるような横顔だと思った。無表情の中に繊細さと力強さが、あった。前髪の隙間から見え隠れする、七分咲きの瞳。それすらも絵になる。

 まだ、目は合っていない。

「あの、私」

 いつもの口癖が発動する玲夢だった。

「おしゃれとか、興味なくって。髪型も、きっと地味ですよね」

 気の利く美容師だったら「全然そんなことないですよー」とか言ってくれるはずだ。それか「うん、地味だね」とか、さっぱり言って、笑いに持っていったり。

 日陰は違った。肯定も否定もしないで、

「パーマもカラーも未経験」

 などと言う。

「それ、どうして」

「髪の毛に触れたら、わかります」

 触診じゃ、あるまいし。ちょっとばかにされたような気分だった。でも、当たっているのだから、ぐうの音も出ない。

 そんなことよりも気になる。

 彼の喋り方。

 ……淡々としすぎている。冷たくて、思わず、手を引っ込めたくなるような喋り方だった。これが、この人の普通なのだろうか。

 磯貝が口を挟む。カットモデルについての説明だ。鎖骨上まで切るとのこと。流行りの「ブラントカット」がメインだと言うが、それがどういうものなのか、玲夢にはピンとこない。

 撮影用のカメラは一台のつもりだったらしいが、心変わりして、もう一台用意するという。磯貝は近所の知り合いから借りるべく外へ出て行った。

 髪の毛から手を離した日陰に、

「ちょっと、いいですか」

 不安だったのだ、玲夢は自分の髪に触れながら続けた。

「どういう髪型になるのか、いまいち、わかんないんですけど、この輪郭周りの髪は切らないでほしいです」

 丸顔気味なのが、コンプレックスだった。輪郭を髪の毛でベタ塗りするように隠してしまえば、ちょっとは細く見える。玲夢は正直に打ち明けた。

「それなら」

 日陰は無愛想に言った。

「輪郭周りは、軽くした方がいい」

「えっ」

 聞き間違いかと思った。

「無理に輪郭を隠せば、顔のバランスが不自然になる。それに、かえって、不可視の輪郭が意識されかねませんから」

「でも……」

「僕に、任せてください」

 声色を変えずに日陰は言うのだった。

 任せてください、だなんて。目も合わせてくれないような人に、言われたくありません。……というセリフをとっさに思いつく。しかし、言えなかった。

 日陰と目が合ってしまったから。鏡越しではあるけれど。

 視線を交わした日陰は、まるで別人だった。

 その目には、光が流れていたのだ。彼の、芯の強さを物語っていた。同時に、人を惹きつける暖かな広がりを有した光でもあった。

 陽だまりに手をかざしているような心地。視線を、外したくない。

 気がつけば、彼を信用していた。この人に、髪を切ってもらいたい……とすら思うようになっていた。

 先に目をそらしたのは日陰。その瞬間、玲夢は視界の明るさが、やや落ちたような気さえした……そんな妙な錯覚から抜け出すことができたとき、玲夢はカーテンで仕切られた半個室の中にいた。シャンプーブースである。流れている不思議な音に心が洗われた。それは音楽のようでもあったけど、ただの自然の音のようでもあった。耳触りがいいのは確かだった。

 柔らかな光が空間を満たしている。天井や壁を注視してみれば、小さな電球がいくつも埋め込まれていた。

 カーテンには遮音性と遮光性があるようだ。外部の音や光が入ってこない。小さな異空間に来たようで心が浮つく。

 シャンプーチェアの背もたれに、玲夢は体を預けた。ゆっくりと椅子が、傾き始める。

 視界に入る、日陰の顔。

 下からのアングルで「メンノン顔」なのだ。きっと、どこから覗き見てもきれいな顔に違いない。余計な肉がついてない。羨ましい。対して自分は今、ちょっと二重顎になってる自信がある。

「何をされてるんですか」

「……え」

 玲夢は無意識に自分の頬をぷに、ぷに、と触っていた。最近、顔が前よりも丸くなった気がしていた。

「髪、流します」

「はい……」ばかなのか、私は。

 玲夢の頭を優しく持ち上げると片手を首の下に差し入れ、髪の毛をすべてシャンプー台の方へ流し入れる。慣れた手つき。それから日陰は白い布切れで玲夢の目元をカバー。果実でも摘むようにシャワーヘッドを手に持った。

 耳のすぐ近くでシャワーの音が鳴った。徐々に、徐々に髪の毛が濡れていく。

 普通、美容師ならここで「温度の方はどうですか?」とか聞いてくれるはずだが、そういうのは一切ない。自信があるのだろう。実際、温度はちょうどよかった。

 髪全体が十分に湿ったところで一旦、シャワーは止まった。

 頭皮に、彼の指先を感じた。

 気持ちいい。なんてものではなかった。日陰の指が玲夢の頭皮を優しく、そして、深く圧迫しながら巡る。その軌跡に沿うように心地よさの波が広がる。シャンプーの泡も浸透。みるみるうちに地肌が柔らかくなっていくのがわかる。しまいには溶けてしまいそうだった。

 ……まぶたが重いと感じる。

 玲夢は気を確かに保とうとする。ところがダメだった。自分が今どこにいるのかもよくわからなくなってくる。

 現実なのかどうかも判然としなかった。五感だけが純化されていた。突然、印象の切れ端のようなものがチラつく。

 ……何か見えた。

 個々の印象は結合し、やがてスムーズな映像となりおおせた。玲夢は次の瞬間には夢の中にいた。