世界は神様によってたった七日間で創られた。そんな話を聞いたのはいつの頃だっけ。きっと世界の広さなんて考えもしなかった頃で、世界の中心は自分だと思っていた頃で、恋も仕事も格差も知らない守られた世界にいた頃だ。

 一週間で全部創っちゃうなんて神様はすごいや。単純にそんな事を思ったはずだ。

 けど。今は違う。断じて違う。

 私は神様に言いたい。創るのなら責任を持って、もっとよく考えて、先を見据えて計画を立てて、仮説を立てて実験して、模索して考察して、焦らずゆっくり何週間でも何ヶ月でも何年、何十年、何百年でも時間をかけて創るべきだと。

 夜道を一人、とぼとぼと歩いている私の名前は神尾祈里。職業は契約社員ですが、もうすぐ無職になります。

 神様。あなたが創った世界は理不尽と不公平と孤独を生みだしました。ご覧ください。今の私を。敗北感と絶望感に打ちのめされて、それを誰かのせいにしたくてもできなくて、所在の知れない神様に八つ当たりをしているこの哀れな女を。


 十月十日の今日は清々しい秋晴れの朝から始まった。

 いつもよりちょっといい服を着て出社して仕事に励んでいた私は、部長に呼び出されて会議室へ向かった。きっと時期的に契約更新希望を提出するか否かの話だろうという心当たりはあって、それは的中した。勿論、更新は希望すると告げたのだが、次の瞬間予想もしていなかった出来事が起こった。部長が顔を露骨に渋らせたのだ。

 申し訳ないんだけどさ、と切り出した部長は、全く申し訳なくなんてなさそうな態度で淡々と継続希望を引っ込めろという。契約社員を減らす必要があるからと。それはつまりクビを意味する。

 私の仕事はほとんどが雑務だけれど、だからこそ無駄なく効率よくスピーディーにと心がけて努めてきた。周囲からも「神尾さんの仕事は正確なのに早くて助かる」と嬉しい声を貰っている。これは決して妄想なんかじゃない。私とペアを組んでいるともえさんの仕事の遅さと比較されている事も大きいだろう。

 ともえさんの仕事はとにかく遅い。その上ミスも多いから余計な時間までかかってしまう。そんな彼女が契約更新されたと聞いた時は驚きを通り越して背中にゾクリと冷たいものが走った。社内には「やっぱりな」という無言の空気が漂っていた。

 正社員達は知っていたのだ。誰かが切られる事を。そしてその誰かが私である事を。高卒だけれど仕事は早い私と、大卒だけれど仕事は遅い美人なともえさん。美人への贔屓がえげつない部長がどちらを採るかなんて明白だ。

 落ち込む私に更なる不幸が積み重なる。何度か二人で食事へ行き、いい雰囲気になっていた同じ職場の正社員、奥宮さんからの連絡が途絶えた。縋る思いで送ったメッセージは既読もつかない。彼も、私が消える事を知っていたのだ。数日前から急に態度が冷たくなっていた原因はこれだったんだ。

 私は振られたんだ。奥宮さんにも。会社にも。

 二十三回目の誕生日であるこの日に。


 帰宅途中。進んでいるはずなのに一向に家に辿り着けない。私の爪先はちゃんと前に向かっているんだろうか。見下ろした足元にポツリ、ポツリと水滴が落ちる。雨かな。予報にはなかったのに。今日は予想外に嫌な事がよく起こる日だ。冷たい夜空を見上げた頬が濡れる。しかし雨は降っていなかった。

 落ちた雫は私の涙だった。

 私の目はまるで壊れてしまった蛇口のようにぽたぽたと涙を流し続けている。周りに人は見当たらないけれど明かりの灯る家々が並んでいる。こんなところでわんわんと泣くわけにはいかないや。少し先の橋まで進んだ私は欄干に両肘をついた。ここで少し気を休めていこう。

 心細い水の流れる音。他には何もない真っ暗な河川を眺めるでもなく眺める。そうやってしばらく何も考えないでいたら涙は一先ず止まった。今夜は冷える。ただでさえ心が冷え切っている今、これ以上立ち止まっていたら風邪ひきそう。

「帰ろう」

 ひとり呟いて歩き出そうとしたその時。突然誰かの足音が耳に飛び込んできた。走っているようだ。それもかなりの勢いで。何だろうと振り返った瞬間、私の体は宙に浮いた。何が何だかわからないうちに今度は地面に叩きつけられる。

「バカな真似はよすんだ!」

 男の怒声が頭上から降って来る。

「こんな小さな川でも落ちたら、下手したら本当に死んでしまうぞ!」

 くらくらする頭を上げた先には男が立っていた。息を切らせながら眼鏡のズレを直すその顔はどうやら怒っているようだ。

 どうしてこの人は怒っているの。どうして私を見下ろしているの。どうして私は地面に倒れ込んでいるの。一体全体何なのこれは?

 状況を把握する糸口を探ろうと私は耳に残っている男の怒声の断片を集めた。バカな真似……? 落ちたら……? 死んでしまう……?

 左手にじわりじわりと迫ってくる痛みを感じて、止まっていたような私の時間が動き出した。見ると手の甲に血の滲んだ擦り傷がある。

「大丈夫か?」

 不意に男の声が優しさを帯びる。そこでピンときた。

 この人、私が橋から飛び降りようとしてたって勘違いしてる!?

 街灯の明かりを反射させている眼鏡の奥は、まるで腫れ物に触るような目をしている。そう感じた途端に込み上げた怒りは炎となって顔を燃やし、こめかみ辺りがカッと熱くなった。「立てるか?」と差し出された手を私はキッと睨んだ。理性にまで飛び火していたらきっと噛みついていたに違いない。

 欄干に捕まって立ち上がった私は、スカートが少し裂けている事に気が付いた。止まっていたはずの涙が再び頬を流れ出す。

「君、家はどこ? 近いなら送っていくし、遠いならタクシー呼ぶから。住所は?」

「……この」

「この?」

 今度は男の目を睨む。男は明らかに狼狽した。

「この、ばかぁぁぁっ!」

 ありったけの声で叫ぶと私はその場を走り去った。

 今日はなんて日だ。

 なんて日だ。なんて日だ。なんて日だ!

 走って、走って、悪夢から逃げるように走って、ヒールが折れて、それでも走って、息が続くまで静かな住宅街の中を走り続けた。走り続けて疲れ果てて、立ち止まったところで今度は本当に雨が降ってきた。折れたのはヒールだけじゃない。私の心も折れていた。燃えるような怒りはいつの間にか鎮火していて、どうしようもない虚しさだけが焼け残っていた。

「うえーん。私が何したっていうの? 神様のばかぁ」

 堪え切れずに泣きじゃくりながら、身も心もボロボロになって歩く私はきっとゾンビに見えたに違いない。談笑しながら手を繋いで歩いていたカップルが「ひぇっ」と声を漏らして小走りに去っていく。

「誰か、助けてください。ぐすん」

 脳裏に真っ先に浮かんだのはお母さんだった。神奈川にある実家を離れて一年半。ここ福岡に家族はいない。友達もいない。恋人もいない。私には誰もいない。こんなにも悲観的になって、こんなにも故郷が恋しくなった日は他にない。

 高かったお気に入りの服は雨に濡れて重くて冷たいし、折れた靴は歩きにくい。それでも家を目指して前へ繰り出す私の足が何かにゴトッとぶつかった。電柱の横に置かれたそれは段ボール箱だった。ぶつかった拍子に開いた隙間から「ミー」とか細い声のようなものが聞こえた。気になった私はその場にかがみ込み、そっと蓋を開ける。

 中を覗き込んで息を飲んだ。そこには生後間もなさそうな三匹の子猫と、一回り大きな親らしき猫が温め合うように身を寄せ合って丸くなっていた。

「……一緒に、帰ろっか」

 すると一匹、白毛の子猫が小さな顔を上げて「ミー」と鳴いた。私はヒールの折れた靴をバッグに入れて裸足になると、段ボール箱をそっと持ち上げて抱えた。そして眠っている二匹の子猫と親猫を起こさないよう揺れに気を付けながら、そのまま家に連れ帰った。



 閑静な住宅街の一角に建つ古い木造の一軒家。色褪せた瓦が重たげな屋根の平屋、その丁度中央にある八畳の部屋が私の寝室だ。

 けたたましく鳴り響く目覚まし時計を叩いて停止させ、体に圧し掛かる重たい和布団からのそのそと這い出る。あくびをしながら畳んだ布団を押し入れに詰め込み、冷蔵庫みたいに冷たい縁側に出るとぼやけていた世界の輪郭がはっきりとしてくる。水しか出ない洗面台で顔を洗えば更にスッキリとした頭で現実に降り立つ。鏡に映る泣き腫らした顔を見た途端、どこか遠くへ逃げ出してしまいたい気持ちになった。

 ひどい顔色を化粧で誤魔化し、パンをかじりながら身支度を整え、私はいつも通りに家を出た。会社に着くと私のデスクにはいつも通り指示がメモ書きされた書類がどっさりと積まれていて、今日も美しいともえさんがいつも通りに「おはようございます!」と元気に愛嬌を振りまき、そんな彼女をにこにこと眺めていた部長がいつも通りに私を手招いてコーヒーを注文してくる。

 あと三日で期間満了となり退社する私の事など、もう誰も気に留めていないようだった。世界は私を置き去りにしていつも通り進んでいく。同情してとは言わないけれど、ちょっとくらい残念な雰囲気を醸し出してくれないものだろうか。ここは学校でもなければ私は転校していく生徒でもない。ここは会社で私は切られる契約社員だ。分かってるよ。そんな事は分かっている。けれどそれはないでしょ奥宮さん。彼もまたいつも通りでいるけれど私とは一度たりとも目を合わせようとはしない。勿論あれからひとつも連絡はない。

 私は既にいない者とされている。あと三日もこの居づらさを覚悟しなくてはならないなんて。あんまりだ。

 定時ピッタリに会社を出て、重い足取りで帰路に着いた。誰に気遣われる事もなかった左手の包帯の奥で乾いたはずの傷が疼く。それでも泣いてばかりはいられない。運良く座れた電車の車内でスマホを取り出し、求人情報サイトを開いた。

 最寄りの駅から徒歩八分。昨夜、見知らぬ男に突き飛ばされた忌まわしき橋を渡り帰宅した玄関先で「おや?」と首を捻った。古びた引き戸の擦りガラスから明かりが漏れている。

「消し忘れちゃってたかな」

 ガラガラと音を立てて開けた玄関の先で、廊下とその奥にある居間の明かりが点いているのが見えた。

「おかえり」

「……?」

 靴を脱いだところで、奥から声が聞こえたような気がして顔を上げる。男の声だったような。そんな訳ないか。この家の住人は私ひとりだ。やだな。テレビまで点けっぱなしだったのかな。

 暖を求めて炬燵のある居間へ進む。夏は涼しく冬は寒いこの家では十月に入ると早々に暖房器具を出さなければうっかり凍死してしまう。あぁ。やっぱりテレビ点けっぱなしだ。呆れた事に炬燵までもが点いたままだった。

 いくら暗黒バースデーのショックが尾を引いているからって暖房器具を消し忘れて出かけてしまうなんて危ない、危ない。

「……!」

 反省しながら炬燵に潜り込んだ途端、何かが足に触れた。今のは何? 捲り上げた炬燵布団の隙間から、勢いよく飛び出てきた三匹の子猫が部屋の中を走り回る。私は呆然として暫くその様子を眺めていた。

「……あ。猫! 拾って来たんだった……」

 そこでようやく、昨夜捨てられていた四匹の猫達を連れ帰っていた事を思い出した。光熱費を自分で払うようになってからは消し忘れに気を付けていた私が、何もかも点けっぱなしで出かけてしまうなんておかしいと思ったよ。きっとこの子達の仕業だな。

 ミー。ミー。ミー。私の存在に気が付いたように駆け寄ってきた三匹の子猫は、競い合うように鳴きながらジタバタと私の足によじ登ってくる。

「すっかり忘れてたよ。何も用意してなかったからお腹空いてるよね、ごめん」

「それなら冷蔵庫にあった冷や飯に、味噌汁をかけて食わせたから大丈夫でござる」

「ほんと? 良かった。ありがと……。って誰!?」

 男の声に驚いて振り返ったけれど、誰もいない。当たり前だ。前にも言いましたが私は一人暮らしです。

「……なんだテレビか。ビックリした」

 傷だらけの柱にかけられた振り子時計や年季の入った和箪笥。昭和の影が色濃く残る部屋の中で全く馴染んでいない薄型テレビは、腰に刀を下げたちょんまげ姿の侍を映し出している。

「やだなテレビに話しかけちゃった」

 ん? 待てよ。時代劇だよねこれ。冷蔵庫、とか言ってたけれど。

「それがしテレビではござらん」

 また声がした。さっきと同じ声だ。反射的に振り返ったテレビはハロウィンパーティーを促すお菓子メーカーのCMに切り替わっていた。

「……だ、誰かいるの……?」

「ずっとここにおるでござる」

 声は確かに部屋の中から聞こえるのに誰も見当たらない。炬燵の中にもいない。押し入れの中にもいない。他に人が身を隠せるような場所はない。誰もいない。

 これはもう、アレだろうか。足がないっていうアレだろうか。この家を見た時から何かいそうだなとは思ってたんだよね。やっぱりここはお化け屋敷だったのね。

 やばい。ちょっと楽しいかも。泥棒だったらどうしようかと思った。良かったそっちの方じゃなくて。お化けより生きてる人間の方がよっぽど怖いや。

「あの。悪霊とかでなければ隠れてないで出てきてもらってもいいけど。怖がらないから」

「それがし悪霊ではござらん。隠れてなどおらぬ」

「そうなの?」

 見えないんだけれど。霊感とか持ち合わせていないとダメなんだろうか。再び時代劇に戻ったテレビが合戦シーンを映し出し、ふと脳裏に恐ろしい落ち武者の姿が浮かぶ。見えない方がいいのかもしれない。

「そうだ。猫、知らないかな。この子猫達の親猫。一緒に連れて来たんだけど」

「それがしずっとその三匹と一緒におったが、他に猫はいなかったでござる」

「そんなはずないよ。確かにもう一匹いたんだから」

 ミー。ミー。ミー。私の足元で遊んでいた子猫達が一斉に駆けだして視界から消えた。後を追うと、それまで死角になっていた和箪笥の脇に子猫達が集まっていた。そこにも親猫はいなかった。

 でも狸がいた。

 抵抗虚しく子猫達にほっぺをすりすりされている一匹の子狸は、何故かその両前足にマヨネーズを抱えて私をじぃっと見上げていた。

「……どうして狸が?」

「それがし狸ではござらん」

「喋った……? やだ怖っ!」

「先刻怖がらないと申したではないか」

「あれ。待って。その声、さっきの……」

 お化けの声と一緒だ。これが、お化け? この狸が?

「何を見ておるのだ」

「さぁ。夢でも見てるのかな私は」

 私が見ているのは狸だ。マヨネーズを持っていて、子猫達に懐かれていて、男の声でしゃべっている紛れもない狸だ。

「隠れてないとか言っておいて、それ隠れてるよね」

「お嬢から隠れておったのではない。こやつらから隠れておったのだ。ええい、離れるでござる。これは玩具ではないでござる」

 子猫達が興味を示しているマヨネーズを死守している狸。何これ。いや狸なのは分かるけれど。何これ。

 後ずさりながら隣の台所へ出る。ぽかんと開けていた口が乾いた。お茶でも飲もうと冷蔵庫を開ける。

「空っぽなんだけど……」

 無駄に大容量の古い冷蔵庫の中はほぼ空の状態だった。

「こやつらが随分と腹を空かせておったのでな」

「子猫三匹の胃袋に収まる量じゃなかったと思うよ?」

 一度にたくさん炊いたご飯や作り置きしたおかずを入れておいたはずなのに。

「それがしの胃袋には収まる量でござった」

「食べたの? 全部? 三日分は作っておいたのに?」

 振り向いた先で狸がこくりと頷いた。

「あなた何者?」

「それがし神様でござる」

「…………」

「その目、信じておらぬな」

 妖怪だろうなと身構えていた。想像以上の回答だった。

「食料食べつくして、まさか貧乏神じゃないよね?」

「何を申すか」

 あ。むくれてる。やばい。ちょっと面白い。

「笑うでないわ。日本一有名なお爺さんが柴刈りをしたと語り継がれる名高い山の神様にござるぞ」

 えっへん。と、言わんばかりに胸を張り、ぶんっと振った尻尾に子猫達が反応してじゃれ始める。

 有名なお爺さんって誰? 名高い山ってどこ? 全然話が分からないや。どうしよう。会話が続かない。

「……えっと。美味しかったかな、私のご飯は?」

「不味くはないが美味くもない。イマイチでござる」

「お帰り下さい今すぐに」

 心の声が口をついた。

「殺生な。どこへ行けと申すか。それがしの山などはとっくの昔に欲深い人間どもによって切り崩されておるというのに」

 追い出されちゃったんだね。私と一緒だ。

「恨んでる? その、人間どもを」

「そんな事はどうでもよい。それより、お嬢よ。こやつらをどうするつもりだ?」

 振り払えど尻尾にじゃれつく子猫達を、狸は忌まわしそうに見下ろしてる。

「連れてきちゃった子を今更追い出すような事はしないよ。全員まとめてここで飼う」

 茶色。薄茶色。真っ白。それぞれ毛の色が異なる三匹の子猫達は今日からここの猫だ。この家は古いけれど私一人では広すぎると思っていた。広い庭だってあるし、一度に三匹増えたってどうってことないだろう。

「あい分かった。では」

 くるりと一回転して群がる子猫達をかわし、立ち上がった狸が廊下へ出ていく。

「帰るの? 狸さんの山はもうないんでしょ?」

 慌ててその小さな背中を呼び止める。

「誰が狸だ。風呂に入るだけでござる」

「そっか。……え、お風呂入るの?」

「心配無用。既に掃除して沸かしておいたでござる」

 掃除した? 狸が? いや今はそれは置いといて。

「……もしかして、狸さんもこの家に住み着こうとしてる?」

 首を傾げる私に、狸も真似して首を傾げた。

「それがし神様でござる。連れて来た者は追い出さぬのであろう?」

「それはこの子猫達や親猫の事だよ」

「親猫など最初からおらぬ。それがしとてお嬢に連れられて来たのだぞ」

「連れて来た? 私が?」

 狸の言葉に昨夜の記憶を手繰り寄せる。雨の降る中、段ボール箱の中で身を寄せ合っていた三匹の子猫と親猫の姿。はいストップ。親猫にクローズアップ。顔をうずめる様にして丸まっている毛の塊。一緒にいたのが子猫だったから親猫だと思い込んでいたけれどこれは、これが目の前の狸だったんだ。

「追い出すと申すか?」

「……いいえ」

 連れて来ている。完全に私がこの化け狸を連れて来ている。

「お嬢。バスタオルはどこだ?」

「……脱衣所にある棚の、下から二番目のカゴの中です」

 さようか。と頷きお風呂場へ向かう自称神様。

「あ。ねぇ、そのマヨネーズはうちのだよね? 返してよ!」

 ぽてぽてと走ってきた子猫達と一緒になって、マヨネーズを抱えたままの狸を追いかけた。

 こうして私と子猫達。そして神様?との生活が始まった。



 同居二日目。はっと目が覚めた。

 夢を見ていたように思うのに内容はもう忘れてしまった。障子の雪見窓から覗く縁側はまだ薄暗い。鳴り出す三十分前の目覚まし時計を横目に、からだを起こした私は布団から出ると、そうっと襖に近付いて静かに開けた隙間から隣の部屋を覗き込んだ。

 そこには敷布団の上で毛布にくるまり眠っている四匹の小動物の姿があった。三匹の子猫と、自分は神様だと言っていた喋る狸。

 本当にいる。夢じゃなかったんだ。

 私は昨夜、寝室と襖で仕切ってあるだけの隣の部屋を神様に与えた。子猫達は神様から離れようとしないため結果的には四匹の相部屋となり神様は不満気だったけれど、くっ付き合って眠っている四匹は八畳の広さがある畳部屋の、一畳分も使いきれてはいない。

 神様と子猫達が食べられそうな物を居間に用意して家を出た。居場所を失った会社へ向かう足取りは重たかったけれど、いざ会社に着いてみれば、使えるものは最後まで使おう精神に取り囲まれて次から次へと降ってくる雑務に多忙を極め、勤務時間はあっという間に過ぎていった。

 途中でスーパーに寄り、買い物袋をぶら提げて帰宅する。明かりの漏れている家は、それだけで自分の家ではないような気がして不思議だ。玄関を開けると一匹の子猫が廊下に飛び出てきた。白毛の子猫は私を見るなり「ミー」と鳴いて居間へと戻っていく。その姿を追うようにして居間に入る。

「おかえり」

 テレビを見ていた神様がこちらを振り返った。

「た、ただいま……」

 久しぶりに口にしたこの言葉も、狸相手だと何だか化かされているみたいだ。

「外から帰ったら手を洗うでござる。それとうがいも忘れるでないぞ」

 お母さんか。心の中で突っ込みつつ、正しい意見なので従う。

「さてと。ご飯作るからね」

 居間の隣の台所に立った私は、ご飯を炊いて味噌汁を作り、鮭を焼いてほうれん草のおひたしを作った。神様だか化け物だかよくわからない狸は昨日、冷蔵庫の中を空にしたくらいだから人間と同じ食べ物でいいかな。炬燵の上に並べていくと、騒ぎ出す子猫達を尻尾で押さえつけながら神様はよだれを垂らしている。子猫達には買って来たキャットフードを与えた。

「では。ご相伴にあずかろう。いただきます」

 いつの間にか積み上げていた座布団に座り、神様が手を合わせた。

「行儀いいんだね」

「箸はどこだ?」

「狸さん、箸使うの?」

「それがし神様でござる」

 半信半疑で箸を差し出すと、神様はそれを難なく使いこなす器用さを見せた。右利きなんだね。

「美味しい?」

「悪くはないが物足りぬな」

 そう言うと神様はどこからか取り出したマヨネーズを鮭やほうれん草にかけだした。第一印象で薄々は気づいていたけれど、好きなんだねマヨネーズ。

「こうすれば、どんなにイマイチな飯も上手くなるでござる」

「イマイチとか言わないでよ。え、嘘でしょ。味噌汁にも入れちゃうの?」

「これでイマイチな汁も美味な汁になるでござる」

「二度もイマイチとか言わないでよ」

 まったく変なの連れてきちゃったなぁ。衝撃のマヨ味噌汁に落ちた食欲を取り戻すべく、白米に色鮮やかな明太子を乗せた。どんなに落ち込んでいたってこれさえあれば何杯でも……は無理だけど、美味しくご飯が食べられる。すると神様が興味を示した。

「たらこか?」

「明太子だよ。まぁ、元は同じだけどね。たらこを加工した物だから。食べる?」

 うむ。と頷いた神様に、小皿に乗せた明太子を差し出した。まさかとは思ったけれど、やっぱり神様は明太子にもマヨネーズをかけた。そして混ぜた。

「明太マヨだね」

 ぺろりとひと舐めした神様の目が途端に輝きだす。

「たらこや味噌に混ぜても美味だが、これもなかなか。白米が進むでござる」

「けっこうグルメなんだね」

「何杯でもいけるでござる」

 あっという間に口周りを明太マヨに染めた神様は三杯おかわりをした。四杯目で私が止めなければ本当に何杯でもいけていただろう。

「あ。猫達寝ちゃってる」

 お腹が満たされ安心したのか、神様の傍らで三匹はスヤスヤと夢の中。

「可愛いなぁ。でもすぐ大きくなるんだよね。実家で飼ってる犬も、兄がもらって来た時はこれくらい小さな子犬だったなぁ」

「実家というのはここではないのか?」

「うん。ここは祖父母の家なんだよね。四年前におばあちゃんが亡くなってから暫く空き家だったんだけど、なんやかんやあって今は私が一人で住んでる」

 この家を空き家にしたくないという親族の希望で、学生でも正社員でもない当時派遣社員だった実家暮らしの私が選出され、親族間で軋轢が生じるのを恐れた両親に追い出されるかたちでやって来たのだった。

「道理で。お嬢はこの家に馴染んでいるように見えなかったのだ」

「子供の頃から何度かこの家には遊びに来ていたけれど、あの頃はまさか自分がこの古屋敷に住む事になるなんて夢にも思ってなかったよ。住んでみたところで仕事も恋も定着しなくて根も張れないや」

「ほう」

 真っすぐにこちらを見上げる神様に気付けば私は会社に切られて、それに伴い奥宮さんにも切られてしまった話をしていた。

「真面目に働いてきたのになぁ。奥宮さんともいい感じだったのになぁ」

 雑用ばかりの仕事でも、誰かの何かの役には立つと思うと遣り甲斐があった。あまりタイプではなかった奥宮さんも、気弱そうに見えて実は責任感が強いところとか細かい気遣いが出来るところとか、知れば知るほど惹かれていった。

「私がもし美人だったら、どちらも失わずにすんだのかな……」

「美人がそれだけで必ずしも幸せになるとは限らぬ。さて。そろそろ風呂に入るでござる」

 神様は今日も風呂掃除をして既に沸かしていた。

「ここの風呂は広いからな。手足を伸ばしてゆっくりと湯に浸かれるでござる」

 神様の言葉に、湯船にぷかぷか浮いている狸の姿が目に浮かんだ。

「よく溺れないね狸さん」

「それがし神様でござる。しかし人間の世においては人間の姿でなければ面倒な事も多い。風呂もまた然り」

「人間の姿って? もしかしてなれるの?」

「いかにも」

「さすが化け狸だね」

「それがし神様でござる」

「見てみたい」

「よかろう」

 あっさりと頷いた神様は、どこからか取り出した一枚の葉っぱを頭に乗せ、ぽっこりとしたお腹を三回リズミカルに叩いた。次の瞬間、狸の姿は跡形もなく消えて一人の男が現れた。

 年は同じくらいか、もしくは年下だろう。長めの髪は明るく染まっていて、アイドルみたいな顔立ちを白いシャツが明るく爽やかに演出し、似合っているデニムパンツのオシャレ感が半端ない。

「狸さん、だよね?」

「それがし神様でござる」

 声は間違いなく神様だ。

「本当に人間になれるんだね」

「朝飯前でござる」

「やり直し」

「何がだ?」

 普通だ。普通の人だ。期待させておいてそれはない。

「そんなピアスやネックレスを光らすバイタリティがあるなら、刀振って侍とか手裏剣投げて忍者とか、キャラを守るガッツも出せるはずだよ。やり直してよ」

「戯けた事を申すな。この平成の世に侍も忍者もおらんでござる」

「よく言うわ」

 想像を勝手に膨らませたのは私だけれど腑に落ちない。しかし、これでひとつ謎は解けた。お風呂は神様が言う通り掃除済で綺麗だったし、縁側に干していた洗濯物まで畳んであった。いくら器用とはいえ狸にそれは無理だろうと解せずにいたのだ。

 人間の姿のままお風呂へ向かう神様を見送りながら私は思った。

 ひとつ屋根の下で突然始まったイケメンとの同居生活。まるで恋愛ドラマのありがちな設定だけれど、相手が化け狸となると、全く萌えない。



 同居三日目。ふと目が覚めた。

 目覚まし時計が鳴る直前だった。浅い眠りを繰り返していたように思う。パジャマの上から一枚はおり、そっと隣の部屋を覗く。寄り添う子猫達の中心で眠っている神様は狸の姿に戻っていた。

 クビ。失恋。足枷を引きずるように出社し、デスクに着けば最終日だろうが関係なく仕事が積まれて忙しく時間は過ぎていった。退職手続きも済んで挨拶もそこそこにデスクを片付けていると、引き出しから身に覚えのないお菓子が出てきた。「お疲れ様」「今までありがとう」「次でも頑張って」お菓子の一つ一つにメッセージが添えられている。この粋な計らいが分からない私は直接言ってよ、と思ってしまう。

 社員証を返却して会社を出た私は、その瞬間から無職になってしまった。

 帰ろう。お菓子で膨れたバッグを手に私の心は案外落ち着いていて、それが却って不安にさせる。最寄り駅に着いてからは、からだが覚えている習慣に身を任せて無意識に歩いていた。

 橋に差し掛かった時、ふとある人の事を思い出した。この橋で私を突き飛ばしたあの男。一帯が住宅地であるこの場所を歩いていたという事は、近隣住民である可能性が高い。包帯の取れた左手にはまだ絆創膏が残っている。あの人に悪気が無かったのは分かる。とんでもない誤解をされたけれど、見ず知らずの私を心配してくれた。でも私はつい感情的になって怒鳴ってしまった。もしご近所さんだったとしても、どうかもう二度と会いませんように。

 制服姿の高校生達が肉まんを頬張っているコンビニの前を通り過ぎ、大きな洋風の建物である歯科医院の前を通り過ぎ、犬の散歩をしている人と何人かすれ違い、明かりの灯る古屋敷に辿り着いた。

「おかえり」

 埃を取るハンドタイプのモップで、テレビ周りを掃除している狸の神様が振り返る。

「ただいま。掃除好きなんだね」

「何を申すか。四角い部屋を丸く掃くお嬢に代わって仕方なくやっておるのだぞ」

 その割には楽しそうだけど。弾むように振っている尻尾に三匹の子猫達がじゃれついて遊んでいる。

「飯も掃除も中途半端で、お嬢は嫁入り前の自覚がないと見えるが是いかに」

「嫁に入るより今は会社に入らなきゃ。中途半端なご飯も今日からおかわり禁止だからね。節約しなきゃ」

 台所に立つと子猫達がミーミーと騒ぎ出す。

「人間になれるならご飯作るの手伝ってもらえないかな」

「神様に台所へ立てと申すか」

「明太マヨのマカロニサラダを作ります」

「早うエプロンを貸すでござる」

 押し入れから引っ張り出した風呂敷を貸すと、昨日と同様あっという間に人間になった神様がそれを腰に巻いた。肩を並べてご飯を作る神様は、料理の経験は無いと言うけれど何故か私より手際がいい。

 出来上がったオムライスとマカロニサラダを炬燵の上に並べると、いつの間にか狸の姿に戻っている神様がスプーン片手にスタンバイしていた。「いただきます」と、手を合わせた神様は小さな前足でこれまた器用にスプーンを使いこなす。その隣で子猫達は夢中になってお皿に顔を突っ込みキャットフードを食べている。

「料理出来るんだね」

 神様が作ったマカロニサラダは茹で加減も丁度良く、少しマヨが多めだけれど美味しく出来ている。

「お嬢のオムライスも。べちょべちょのチキンライスと固い卵が、互いの短所を上手い事消し合っているでござるな」

「それ褒めてないよね」

 ケチャップの代わりにマヨネーズをかけたオムライスを完食した神様は、座布団の上で丸くなった。

「そうだ。会社の人達から貰ったお菓子があるんだった。折角だし食べよっか」

 バッグから出したお菓子を炬燵の上に広げた。箱に直接書いてあったり、袋に付箋を付けていたりするメッセージに改めて職を失ったんだと実感させられる。

「お嬢を捨てたという男からのは無いのだな」

「どうして分かるの?」

「顔に書いてあるでござる」

 神様の言う通り。奥宮さんからのお菓子は無かった。つい探してしまった自分が虚しい。

「せめて最後に一言くらいあってもよくないかなぁ」

「捨てた相手に一言も何もなかろう。嘘の優しさを押し付けないだけ利口な男だ」

 鼻歌を歌いながら神様が器用にクッキーの箱を開ける。お菓子はどれも美味しそうなのに食べる気がしないのは、神様がクッキーをマヨネーズにディップしているからでも、食後でデザートが入らない程お腹がいっぱいになっているからでもない。

「……その鼻歌。レールスターズだね」

「いかにも。レルスタにござる」

 人気バンド、レールスターズの新曲はテレビでもよく流れている。けれど神様が歌っているのは「君が好き」というタイトルの少し古い曲だ。よりによって片思いの歌を今ここで歌わないでほしい。

「お嬢。食わぬのなら風呂に入ってまいれ」

「うん。そうする」

 今日もお風呂は綺麗に掃除されていた。壁や床までピカピカなお風呂は気持ちが良くて、神様が日中庭に干してくれていたタオルからは微かにお日様の匂いがする。たったそれだけの事なのに「明日からまた頑張ろう」という、小さいけれど確かな活力がぽつりと胸に湧くから不思議だ。

 お風呂から上がるとお菓子は全部なくなっていた。


 同居四日目の土曜日は、何冊もの情報誌とにらめっこしをしながら何枚もの履歴書を書き、同居五日目の日曜日は、何故か神様と家の大掃除をする羽目になった。

 神様は人間の姿になる度に葉っぱを使うのだが、その葉っぱの出所がようやく分かった。祖父母の趣味の名残でこの家には至る所に植物が置かれていて、庭にも木が生えているから葉っぱなんてそこら中にあるのだけれど、縁側にいくつか置いてある観葉植物の中で、パキラの葉だけが著しく減っている事に気が付いた。でもまぁ、毎日この家を掃除してくれている神様なら祖父母も許すでしょ。



 同居六日目。自分の発した寝言で目が覚めた。

 何を言ったのか分からないけれど、夢の中で就職活動をしていたのは記憶に新しい。

「お嬢よ。こやつらに名前を付けてはどうだ」

 朝食の席でマヨネーズトーストを齧っている神様が、居間の中を走り回っている子猫達を顎で指した。

「そうだね。いつまでも『子猫達』じゃ可哀相だよね」

 目玉焼きを乗せたトーストを齧り、千切ったレタスにハムとトマトを添えたサラダをフォークで突きながら考える。

「うん。決めた。あの子は毛が白いからシロ」

「ひねりがないな。見たままではないか」

「あの子は茶色い毛だからチャールズ」

「あやつはメスだぞ。お嬢はセンスの欠片も持ち合わせてはおらぬのだな」

「薄茶色のあの子は、秋に拾ったからタム」

「色は? 色はどこにいったのだ?」

「みんなどうかな?」

 ミー! 仲良く同時に鳴いて返事をするシロとチャールズとタム。交渉成立です。

「狸さんはポコ侍ね」

「誰がヘッポコだ。それがし神様でござる」

 気に入らなかった様だ。見た目はポンポコ中身は侍。これ以上にお似合いな名前は他に思い浮かばないのにな。残念です。


 午後から曇りだした天気は回復しないまま、肌寒い夕方に帰宅した。

「おかえり」

「ただいま。お腹すいちゃったよ。ちょっと早いけどご飯作ろう。手伝ってね」

 仕事探しに歩き回ってくたくただけれど、一度炬燵に入ってしまったらもう動けなくなる。家着に着替えて台所に立ち、余っている野菜と肉を切り刻んで炒める。人間になった神様は頭にシロ、両肩にチャールズとタムを乗せながら卵を茹でた。最後に袋麺を茹でて出来上がった野菜ラーメンとキャットフードを居間へ運んで、ようやく炬燵に根を張れた。

「いただきます」狸の姿に戻った神様と一緒に手を合わせる。

 作って食べる。そんな当たり前な事が、誰かと一緒というだけで何だか少し楽しいや。それと同時に、家族で食卓を囲んでいた実家が恋しくもなるけれど。

「お嬢の飯はどうも薄味だが、この歯ごたえを失った野菜炒めがマヨネーズによく合うでござる」

 マヨネーズ無しでも美味しいって食べてくれたらもっと楽しいのにな。

「ため息などついていかがした。マヨネーズが欲しいのならば素直にそう言えばよいものを」

「いらないよ。そうじゃなくて。たぶんこれホームシックだ。懐郷病だね」

「和訳せずとも分かるでござる」

 マヨネーズを構える神様から自分のラーメンを遠ざける。

「仕事も見つからないし、こっちには友達もいないし。あぁ。実家に戻りたいよぉ」

「恋人もおらぬでな」

 狸鍋にして食べちゃうぞ。という言葉をぐっと飲み込む。

「帰りたいなら帰ればよい」

「今更帰りたいなんて言えないよ」

 子供じゃないんだし。

「ほぉ。その意地には貫き通す価値があるのか?」

 返事に困った私は「ぬぅ」と無意味な言葉を発した。

 この家に居続ける価値を問われたように思った。祖父母は優しくて好きだったけれど、この家に思い入れはない。ここで生まれ育った父親や親戚にとっては唯一無二の実家であっても、私にとってこの家はただの古屋敷でしかない。

「……帰ろっかな」

 状況を素直に話して泣きつけば、いくら私を追い出した両親でも受け入れてくれるだろう。親戚だって無職になった私に無理強いするような人達じゃない。犬を飼っているけれど実は猫派である母親は、きっと子猫達を歓迎するだろう。

 問題は、狸だ。

「狸さん。ずっと人間のままでいられるなら、私の彼氏って事で連れて帰れるかも」

「それがし神様でござる。すまぬがお嬢はタイプではござらん」

「うちのご飯は美味しいんだよ。ほらこれ。お母さんがブログにあげてる料理の写真」

「お嬢の彼氏になるでござる」

 スマホ画面に出した母自慢のローストビーフを見せていると、噂をすればのお母さんから着信が。思わずスマホを落としそうになる。なんてタイミングだろうとドキドキしながら居間を出た。

 十分程の通話を終えて、私は神様の待つ炬燵へと戻った。

「兄がね。結婚するんだって」

「めでたいな。おめでとう」

「ありがとう。同居する事に決まったから家を二世帯住宅に建て替えるんだって」

 お母さんの声は幸福感に満ちていた。

「実家に私の居場所はないみたい。帰れなくなっちゃった」

 新しい家に私の部屋はないらしい。その事を心配しているお母さんに私はこう言うしかなかった。『私なら、こっちでうまくやってるから心配しないでね』

「無職になったなんて、とてもじゃないけど言い出せる雰囲気じゃなかったよ」

「ローストビーフは?」

「夢と消えましたね」

 私と神様は同時にため息をついた。



 同居七日目。目から零れた涙が耳に入って目が覚めた。

 子供に戻った私が迷子になる。そんな夢を見ていた気がする。まだ静かな隣室に配慮しながら身支度を整えて、私は家を出た。自転車に跨り五分程で着いたのは、ワークサイトで見つけたアルバイト先の神社だ。

 家賃の心配がいらないのは助かるけれど、子猫達のキャットフードとポコ侍のマヨネーズを買い続けなければならない私の味方は心許ない預貯金のみ。はっきり言って頼れない。頼れるのは自分しかいない。働かなくちゃ、やっていけない。心がギスギスしているせいか、何だか歯がズキズキしているような……。


 同居八日目。歯の痛みで目が覚めた。

 一度は収まった痛みが、朝食のおにぎりを頬張ったところで再発。

「……痛い。この痛みは尋常じゃない」

 お味噌汁も無事に飲める気がしない。

「虫歯でござろう。お嬢は歯の磨き方が雑だからな」

「ちゃんと歯磨き粉で磨いてる私が虫歯になって、マヨネーズで磨いてる狸さんが虫歯にならないなんておかしいよ。そもそもマヨネーズで歯磨きとかおかしいよ」

「それがし神様でござる。神様は虫歯にならぬからしてそもそも歯磨きの必要はない」

 神様の説は怪しいけれど、猫は虫歯にならないと聞いた事がある。

「神様のチカラでこれ治せないかな?」

「神頼みより医者に頼むでござる」

 食事もままならない歯痛に項垂れる。

「歯医者行ってくる。良かった今日のバイトが午後からで」

 シロとチャールズとタムが羨ましい。私は猫になりたい。元気に遊びまわる子猫達を横目に、痛む右頬をさすりながら立ち上がった。


 近所の歯科医院「福禄デンタルクリニック」は住居一体型の大きな洋風の建物だが、中に入れば然程広さは感じないこぢんまりとした医院だった。平日であるせいか予約なしで飛び込んでも待つこと三十分で診察室に入れた。

 清潔感のある室内には微かに音楽が流れている。この痛みを何とかしてほしい一心でやってきたけれど、パーテーションに区切られて三台並んでいるうちの真ん中の診察台に座った途端、不安がじわじわと迫ってくる。そういや歯医者なんて来たのは何年振りだろう。やばい。緊張が痛みを上回ってきた。これは心臓に悪い。

「神尾祈里さんですね。今日はどうされましたか?」

「はい。あの、歯が痛くて……?」

 やって来た歯科医は私の顔を見た瞬間、眼鏡の奥の目を見開いた。同時に私も言い知れぬ何かを感じて、マスクでよく見えないその顔を、痛みを堪えてじぃっと見つめる。そうしてぼんやりとしていたフォーカスが鮮明に現実と合わさった時、思わず悲鳴を上げてしまう程の衝撃が歯を、いや心臓を貫いた。


 助勤さんと呼ばれる巫女のバイトとは違って、掃除やお茶出し、簡単な事務仕事を任されている私は麻酔の痺れも難なく業務を終えて、明かりの灯る家へと戻った。

「おかえり。随分痛い目にあったようだな」

「ただいま。そりゃもうすごいダメージだよ。精神的にね」

 虫歯はかなり進行していて治療は一日では終わらなかった。処方された薬で取り敢えず歯の痛みは治まったけれど、私は虫歯よりも厄介なものに直面していた。

「ちょっと遠くても違う歯医者に行けばよかった」

 神様と一緒に作った卵とじの雑炊を食べながら、私は神様達を拾う前に起こった出来事を話した。橋の上で突き飛ばされ、手の甲を擦りむき、お気に入りの服を台無しにされた、あの「自殺じゃないですから事件」だ。

「あの人、近所の人かもって思ってはいたけど。まさか歯医者さんだったなんて」

 福禄デンタルクリニックで私の前に現れた歯科医が、私を突き飛ばしたあの男だと気付いた瞬間、きっと私の心臓は止まっていたに違いない。

「私に気付いてあの人なんて言ったと思う? 『生きてたんだな。良かった』だよ。迷惑な勘違いが現在進行形だよ」

 直ちに始まった診察で何も言い返せず、誤解を解くタイミングを完全に失った。

「そんな人の所にしばらく通わなきゃいけないなんてあんまりだよ。あの事件はもう封印してたのに」

「端を発したのはお嬢の虫歯。起因は雑な歯磨きでござる」

「マヨ磨きに言われたくないよ。でも確かに虫歯になんかなった私が悪いんだけど。あー嫌だなぁ。もう行きたくないよぉ。会いたくないよぉ」

「お嬢を助けようとしたのだ。悪い奴ではあるまい」

 卵とじをさらにマヨネーズでとじる神様の言い分は分かるけど。

「……泣き顔見られた」

 あの男には、ブラックバースデーに打ちひしがれて垂れた鼻水を拭いもせず泣き叫ぶ私の最悪な姿を見られている。

「口を開けた間抜けな顔も、虫歯菌が巣を作った口の中も、更にその奥にあるのどちんこまで見られておるのだぞ。泣き顔など気にするでない」

「それ全然フォローになってない」

 治療中の歯に注意しながら、小皿に取り分けて冷ました雑炊を食べる。冷たい物や熱い物を食べるときは気を付けるように。それが私の担当医であるあの男、福禄先生のお言葉だ。

「ホント、猫になりたいや」

 とろんとした顔の子猫達は、おねむなのか神様の周りでごろごろし始めた。



 同居九日目。尻尾で顔面を叩かれて目が覚めた。

 目覚まし時計が鳴り、それを神様が止めに来る夢は現実だった。ぽさぽさと顔に当たる毛が鼻を擽るから大きなくしゃみが出て「汚いでござる!」と怒鳴られた。

 精神的ダメージから昨夜はなかなか寝付けずにいて、ついさっき眠ったばかりだと思ったのにもう朝が来ていた。薄明るい縁側には、軒に打ち付ける雨音が響いていた。

 傘を差し、徒歩でバイト先へ向かう。今日は授与所の受付仕事。この神社に常勤の巫女はおらず数名の助勤と私が交代制で入る事になっている。雨の日の参拝者は少ないけれど、書道部に属していた腕を買われて宛名書きを頼まれた、三百枚の封書の束と向き合う私に暇なんて言葉はない。

 雨が降り続ける昼下がり。誰も来ない受付で一人、黙々と作業を進めていたところで近付いて来る足音に顔を上げた。

「こんにちは。神尾さん」

 目の前に立った男に呆然となる。

「……こ、こんにちは。先生……」

「外で先生はよしてくれよ。福禄でいい」

 福禄先生の登場に手から筆が転げ落ちる。

「……参拝ですか?」

「いや。学会の帰りでね。神尾さんがここにいるって聞いたから寄ってみたんだ」

「……誰に聞いたんですか?」

「うちの受付は院長の奥さんでね。宮司の奥さんと仲が良いんだ。丁度、真面目そうなお嬢さんが入ってくれたって話を聞いていて君の名前を憶えていたらしい」

 恐るべしご近所マダムのネットワーク。

「歯、痛まないか?」

「いえ。大丈夫です」

 今日はマスクをしていない。落ち着いている雰囲気からぐっと年上のように感じていたけれど、よく見てみると若い。四つ上の兄と同じくらいだろうか。

「良かった。それじゃ、これ一つ貰うよ」

 え。買うの?

「……開運守りですね。お色は青でよろしいでしょうか」

「いや。ピンクの方がいいかな」

 一昔前にナンデモカンデモハッピーという名前の御守りが全国的に流行った。それに肖ろうと若い女性も持ちやすいような可愛らしいデザインの御守りが増えたらしいが、それは正に可愛らしい開運守りで、男性が持つにはちょっと……。

「そのお守りは君にあげるよ。それじゃまた」

「……え?」

 有無を言わさず福禄先生は御守り代の千円を置いて行ってしまった。


 午後三時の雨上がりに神社を出て、買い物を済ませてから帰宅した。

「おかえり。風呂を沸かしておいたでござる。先に入られよ」

「ただいま。そうしようかな。今日はちょっと冷えるね」

 自分で掃除もしていないのにピカピカのお風呂に入れる。実家にいた頃は当たり前だと思っていた贅沢を味わいながら湯に浸かった。

 お風呂上がりは、からだを冷やさないよう直ぐに炬燵に入る。

「こら走るでない。埃が舞うでござる」

 ハンドタイプのモップをかけている神様と、走り回る子猫達を横目にテレビを見た。夜になると神様と作った夕食を囲む。うどんを啜りながらふと感じる安らぎのようなもの。何だか妙に落ち着く。古臭くて好きになれない家なのに。

「それが福禄とやらに貰った御守りか」

 もうそれは海老天とは呼べず、マヨネーズにエビの尻尾が刺さっている謎の物体に齧りつく神様に今日の出来事を話し、福禄先生が置いて行ったピンクの開運守りを見せた。

「正直いらないや」

「罰当たりめ」

 御守りなんて高校受験の時以来持った事がない。

「あの先生の中では、私は自殺未遂の女でしょ。そんな相手に、雨の日にわざわざ会いに来て開運のお守りをあげる心理って何?」

「お嬢を心配しておるのだな」

「困るよそんなの。余計なお世話だよ。私は自殺未遂の女じゃないよ」

「お嬢の事を気にかけてくれる男がいるのだ。素直に喜ぶでござる」

「素直に言うなら奥宮さんに気にかけてほしいよ」

「未練がましいな」

「未練……。未練かぁ。未練だね、これは」

 もう終わっている。分かっているのに、スマホを手に取っては来るはずもない奥宮さんからの連絡が来ていないかと探してしまっている。本当に未練がましいや。気持ちは虚しくなるばかりだけれど、お腹は天ぷらうどんで満たされていく。



 同居十日目。目元にじんわりと温かい熱を感じて目が覚めた。

 私の寝室に迷い込んだらしいシロが、私の顔に乗っかりアイピローになっていた。

 バイトが休みである今日は一日仕事探し。星の数ほど、とは言うけれど。これと言った収穫は一つも掴めず星空の下でため息を零して帰宅した。

「おかえり」「ただいま」のやりとりも自然になった。これって一人プラス四匹暮らしなのか。それとも二人プラス三匹暮らしなのか。今更ながら思う。神様って一体、何?

「今日はカレーライスだよ。狸さんはジャガイモの皮を剥いてね」

「それがし神様でござる。ところでお嬢よ」

 何やらそわそわした様子の神様は残りわずかなマヨネーズの容器を抱えている。

「昨日買い物したであろう。新しいマヨネーズはどこだ?」

「あ。ごめん。忘れてた」

「な、なぬぅーーーー!?」

 顎外れたかな、と心配になるほど口をあんぐり開ける神様。

「もうすぐなくなりそうだから買ってくるね、と申していたではないか!」

 良かった。外れてなかったね。

「ごめん。忘れてた」

「二度も言うでない!」

「そんな、泣かないでよ」

「神は泣きはせぬ!」

 吊り上げた目に涙を溜めている神様を宥めるには買いに行くしかない。神様に子猫達のご飯の準備を任せて家を出た。家から一番近いコンビニに行くには福禄デンタルクリニックの前を通らなくてはならない。何となく嫌だな。

 実家にいた頃は、コンビニは飲み物やパンを買うところだと思ってたし、調味料が揃っている利便性を知ったのは自炊を始めてからだったな。なんて思いながら無事にマヨネーズを購入してコンビニを出た。直後、肩を叩かれて振り返る。

「こんばんわ」

「……こ、こんばんは」

 目の前にいたのは福禄先生だった。

「帰るところ? 僕もだ。送っていくよ」

 大丈夫です。と断る前に福禄先生は歩き出した。

「この道、真っすぐでいいのか?」

「……はい」

 仕方なく後ろを歩く。福禄先生は時折振り返っては道を確認して前を歩いていく。妙な距離感を保ったまま会話らしい会話もなく家に着いた。

「それじゃ。また明日」

 手を振り去っていく福禄先生の背中を、首を傾げながら見送る。あれ? そっちはクリニックとは反対方向だけど。あの家に住んでるんじゃないのかな。



 同居十一日目。布団の中の違和感で目が覚めた。

 背中のあたりが湯たんぽを入れているみたいに暖かい。中を覗くと、そこにはシロとタムが眠っていた。

 今日のバイトは午後から。午前中は歯の治療の予約を入れてある。福禄先生に会うのは今日で四日連続。会いたい人には会えないのに、会いたくない人にはよく会う。神聖な場所で働いているというのに私は呪われているんだろうか。

 治療の前に衛生士から正しい歯磨きのレクチャーを受けた。

「ブラシは小刻みに動かしてください。こう、毛束を歯と歯の間に押し込むように」

 分かりやすく丁寧に教えてくれる衛生士さんには好感が持てた。くっきりした目元と色素の薄い瞳は外国人、もしくはハーフかもしれない。マスクで顔が隠れていても綺麗な人だというのが分かる。

 治療を終え、待合室で会計を待っていると福禄先生がやって来た。

「神尾さん。歯茎が少し腫れているようだからこれを持っていきなさい」

 そういって小さな箱を差し出す。

「ストレスは炎症を抑える抵抗力を減少させる事がある。甘いものを食べて幸福感を得なさい。勿論食べた後は歯磨きを忘れないように」

 ぽかんとしている私の手に箱を乗せて、診察室へ戻っていく先生。一体何だと眺めた箱の正体に、私は驚きを通り越して思わず笑ってしまった。やばい。ちょっと面白い。

 歯医者が虫歯患者にチョコレートを処方するなんて聞いた事ないよ。



 同居十二日目。またも布団の中の違和感で目が覚めた。

 覗き込んだ布団の中には、シロとタムとチャールズの三匹が眠っていた。日に日に寒さが増すなかで暖を求めて潜り込んできたようだ。断熱材が入ってないこの家ではとにかく朝晩が寒い。

 参拝者の団体予約が入っている今日は朝から晩までアルバイト。開運ツアーの女性達が押し寄せて可愛いデザインの御守りが沢山売れていく。女子高生の助勤の鞄にも同じ御守りが付いていた。幸せになる事に前向きな人達が眩しい。拝みたい気持ちになってこっそりと手を合わせる。そこでようやく決心がついた。

 帰宅した私は神様に「忘れます!」と決意表明してから奥宮さんのアドレスを消去した。

 さて夕飯の支度をしますか、と台所に立った時に玄関のチャイムが鳴った。エプロン姿のまま寒い廊下を小走りして戸を開ける。

「こんばんは」

「……こんばんは。先生」

 そこに立っていたのは福禄先生だった。

「歯科医の集まりで街の方へ行ってきたんだ。お土産。美味しいから食べなさい」

「……ありがとうございます」

 気にかけてくれているのは分かる。でもまさか家にまで来るとは。赤の他人に対してここまでするかな普通。差し出された紙袋を受け取ると福禄先生は帰っていった。

「狸さん」

「それがし神様でござる」

「今日はこれでパスタを作ろう。マヨネーズが合うやつ」

「すぐに湯を沸かすでござる」

 紙袋から明太子を出して見せると神様のつぶらな瞳が輝きだした。



 同居十三日目。ただならぬ気配に目が覚めた。

 布団の中には今日もいつの間にか入ってきていた三匹の子猫達が眠っているけれど、今日はもう一匹潜り込んでいた。


「神様であるそれがしを締め出すとは何たる無礼」

 朝食の席で神様がぷりぷりと怒っているのは、よく眠っていた神様を布団から引きずり出して部屋から締め出したから。

「女子の寝室に入り込んで布団の中に入ってくる方こそ無礼だよね」

 狸とはいえ、男の姿にもなる神様と同じ布団で寝るわけにはいかない。毎日洗濯物を丁寧にアイロンまでかけて畳んでは、寝室にある私の箪笥にしまってくれている神様に下着までバッチリ見られている事に今になって気付く。今更恥じても遅い。

 仕事探しに出かけた帰り。手にしたのは仕事ではなく、特売でつい買い過ぎてしまったキャットフード。両手いっぱいに抱え、人通りの少ない夜道を歩いていると前方から男が走ってくるのが見えた。

「こんばんは」

 私の前で立ち止まった男は福禄先生だった。

「ど、どうも。……ジョギングですか?」

「この時間はよく走ってるんだよ。猫を飼っているのか」

 抱えたスーパーの袋から子猫の写真が覗いている。

「僕も猫は好きでね。子供の頃、神奈川にいた時に飼っていたよ」

「え。先生も神奈川出身なんですか?」

「神尾さんもか。喋り方でここの人間じゃないなとは思っていたけど奇遇だな。さぁ帰ろうか。送っていくよ」

「い、いえいえ。大丈夫です。ジョギングの邪魔しちゃ悪いですし、さようならっ」

「いいから。荷物をかしなさい」

 逃げるようにその場を離れたが、追いかけてきた先生は有無を言わさず私の手からキャットフードを取り上げた。人質を取られてはもう逃げられない。

 結局家まで送ってもらい、お礼を言って別れた。

「おかえり。何だその目は?」

「ただいま。これって神の祟りとかじゃないよね?」

 今日で連続六日間、福禄先生と顔を合わせている。いい人なのは分かるけれど、日常に侵食してくる先生のお節介は私の心に影を落とす。先生の顔を見る度に、恋も仕事も失ったあの日がちらつく。左手の傷は跡形もなく消えても、絆創膏を貼れない内側の傷は、先生の顔を見る度にしみてヒリヒリする。

「福禄とやらはお嬢の消毒液でござるな」

 思いの全てを吐き出した私に、それまで黙って聞いてくれていた神様が口を開いた。

「良薬ほど傷口にはしみるものだ。無理や偽りを押し付けて塗り固めても治るばかりか悪化する事もあるでござる」

 無理に忘れようとしても、もう大丈夫だと偽っても、結局それらは応急処置でしかないのかもしれない。それでも何もしないよはりマシなはずだ。

「……先生は関係ないよ。治してくれるのは虫歯だけ。治療が終わればもう会う事もないから、それまでの辛抱だ」

 悪い人じゃない。でも会いたくはない。しかしお世話になっているから無視も出来ない。その日の夜はいつにも増して入念に歯を磨いた。もう二度と虫歯になんてなるものか。



 同居十四日目。目覚まし時計のアラームに驚いたシロが、私の布団の中で飛び起きた。

 今日のバイトは早朝から午後の三時まで。終わったその足で福禄デンタルクリニックへ行き、歯の治療は全て終了した。緩やかな坂の帰り道。自転車をこぐ私の足は軽かった。


 同居十五日目。福禄先生に会う事はなく、連続記録がようやく途絶えた。

 同居十六日目。この日も福禄先生に会う事はなく平和に時は過ぎた。


 同居十七日目。妙な胸騒ぎを覚えて目が覚めた。

 顔を洗っていたらお肌の調子が良くてツヤツヤしていたのに、化粧のノリが悪かった。お茶を淹れたら茶柱が立ったのに、ご飯を食べていたら茶碗が欠けた。

「今朝は何やらそわそわしておるな。今日は誰かと会う約束でもしておるのか?」

「ううん。そんな予定はないけど」

 今日は誰かと会う。何故だがそんな漠然とした予感を抱えてアルバイトへ出かける。風邪で休んだ助勤の代わりに授与所へ入った。ちらほらとやってくる参拝客を眺めながらふと思いつく。今日は木曜日。福禄デンタルクリニックの休診日だ。まさかこの予感。またいつかみたいに福禄先生がふらりと現れるんじゃないだろうか。

 という心配は取り越し苦労に終わり、夕方に帰宅した。神様と一緒に作ったソース焼きそばを囲んだ時、玄関のチャイムが鳴った。朝から覚えた予感はまだ胸底に潜んでいる。お陰で今日は妙にそわそわした一日を過ごしている。まさか今度こそ福禄先生が、またどこぞのお土産を持って来たんじゃないだろうか。

「狸さん。出てくれないかな」

「それがし神様でござる。今は無理」

 神様は真剣な目つきで焼きそばにマヨネーズをかけている。いつまでもかけている。

 諦めて居間を出た。三匹の中で一番好奇心旺盛なシロが後ろをついて来る。ご近所さんとの付き合いはなく、近隣に一人も友人はいない。滅多に人が訪ねてくる事がないこの家のチャイムを押している人物に、心当たりは一人しかいない。

 外へ飛び出していかないようにシロを抱き上げ、玄関の引き戸をゆっくりと開ける。

「久しぶり」

「…………」

 心当たりは外れた。

「奥宮さん……?」

 玄関に立っていたのは福禄先生ではなく、奥宮さんだった。

「急にごめんな。どうしても話したい事があって来たんだ」

 会社で目も合わせてくれなくなった奥宮さんが家まで訪ねてくるなんて、誰が想像できただろうか。

「謝りたいんだ。……俺、急に祈里ちゃんと距離を置いただろ」

 クビを言い渡される前。それまで何度か二人で食事に行くようになっていた奥宮さんの態度が急に冷たくなっていった。

「実は、あの頃から契約社員を一人減らすって話が出ていて、人事は仕事ができる祈里ちゃんを残すつもりだったらしい。でもほら部長はともえさんの事、気に入っとるだろ。ともえさんを残したかった部長は祈里ちゃんの揚げ足を取ろうと狙っとった」

 言われて気づく。道理であの頃の部長はやたらと私の仕事に横槍を入れてきていた。

「俺も、他の社員達も、ともえさんには悪いけど祈里ちゃんに残ってほしいと思ってたんだ。でも部長は是が非でも自分の意思を貫こうとしとった」

 私の事はただのお茶汲みだとしか思っていなかった部長には、私を残す理由が無かったんだろう。

「納得がいかなかった俺は、部長に人事が選んだ祈里ちゃんを残すよう直接訴えたんだ」

 奥宮さんが、私のために?

「でも取り合ってもらえなかった。部長はともえさんを残す方針を押し通して、人事も最終的にはそれに合意してしまった」

「でも。私が切られる事が決まった後も連絡くれませんでしたよね。どうしてですか」

 あの時聞けなかった事を、今ようやく口にする。

「結局俺は何もできなかった。その事が後ろめたくて、情けなくて。それでつい祈里ちゃんを避けてしまった」

「それでも、メールくらい出来なかったんですか?」

「部長に刃向かってから仕事量を増やされて忙しくなったんだ。でもそれも、祈里ちゃんと接しない口実を自分に設けとっただけだと思う」

 言葉を選んでいるというより、奥宮さんは前もって考えて来た思いを慎重に言葉にしている。そんな風に見えた。本当の事を話してくれているんだと分かる。

「今思えば、俺は自分の事ばかりで祈里ちゃんの気持ちを考えてなかった」

 俯いた奥宮さんのその言葉に、私も堪らず目を逸らした。

 私も同じだ。奥宮さんの思いに全く気が付かなかった。考えようともしなかった。来ないメールをひたすら待ってただ落ち込んでいるだけだった。

「祈里ちゃんには本当に悪い事したと思っとる。会って直接謝りたかったんだ。本当にすまなかった」

 顔が見えなくなるまで頭を下げる奥宮さんに返す言葉がない。そうならそうと言ってくれていれば、なんて責める事は出来ない。私のために行動に出てくれた奥宮さんを、会社の切れ目が縁の切れ目だと言わんばかりに私を切った冷酷な人だと思い込んで忘れようとしていた私には、彼を非難する資格は無い。

「もし許してもらえるなら、また前みたいに会ってほしい」

 ゆっくりと顔を上げた奥宮さんは、意を決したように私を見た。

「俺の気持ちはあの時から変わっとらん。祈里ちゃん。俺と付き合ってほしい」

「…………」

 何も言えずに突っ立っていると、急にじたばたとし始めたシロが廊下へ飛び降りた。ぱたぱたと奥へ入っていくシロの足音とは違う足音が廊下に響く。

「お嬢。誰だ、その男は?」

 振り返ると、そこには神様が立っていた。なぜか人間の姿で。

「祈里ちゃん、弟いた?」

「それがし弟ではないが、ここに住んでおるぞ」

 私の代わりに答えた神様の言葉に、奥宮さんの表情が固まっていくのが分かった。

「……そうか。そういう人がもうおるんだな。そうだよな。……ごめんな」

 違うよ奥宮さん。神様の発言は正しいけれど、そうじゃないよ奥宮さん。否定する間も与えず奥宮さんは行ってしまった。

「ちょっと狸さん! どうして今出てきたの? 何で今人間なの?」

「それがし神様でござる。お嬢が出ろと申したのではないか。人の姿でなくても良かったのか」

 そう言うと、神様はあっという間に狸に戻った。

「あの人は奥宮さんだよ。私が彼氏と同棲中だと思い込んで帰っちゃったよ!」

「なんと。それがしをお嬢の彼氏と思うたか? それはいかんな」

「そうでしょ」

「お嬢はそれがしのタイプではござらん」

「そうじゃないでしょ」

 追いかけなきゃ。突っかけていた土間用のサンダルを脱ぎ捨て、スニーカーを引っかけると玄関を飛び出した。奥宮さんの姿はもう見えないけれど駅のある東の方向にいるはず。どの道を進んでいても橋で合流できる。今行けば間に合う。

「行かぬのか。お嬢」

 玄関前で立ち止まっている私の足元に神様がやってくる。

「……追いかけて行って私、奥宮さんに何て言えばいい?」

「それがしに聞くでない」

 彼は彼氏ではないです。神様です。と本当の事を言ったところで信じてもらえるだろうか。告白の返事もしていない。私は奥宮さんと付き合いたいのだろうか。

「自分の心に聞くでござる。お嬢は今、何を思うておる」

「ビックリしてる。奥宮さんが来るなんて。しかも告白されるなんて」

 ただ、何かを見逃してるような気がする。何だろうと記憶を遡るように振り返った私の目に、玄関の引き戸が留まった。

 そうだ。あの時だ。

「……玄関を開けた瞬間だ」

「うむ。それがどうしたのだ?」

「私ね、チャイムが鳴った時にまた福禄先生が来たんだと思って。嫌だなぁと思いながら玄関を開けたのね。でも違った。奥宮さんを見て驚く前、福禄先生じゃないって分かったほんの一瞬、私……何故だかガッカリしてた」

 この矛盾がずっと引っかかっていた。

「どういう事だろう」

「福禄は良薬だったという事であろう。恋で負った傷を癒すのもまた恋でござる」

「まさか、私が福禄先生に恋してるって言いたいの?」

「さようにござる」

「……信じられない。否定する言葉が出てこないや」

 初めての出会いはひどいものだった。自殺を図ろうとしているなんてとんでもない誤解をされた挙句に、突き飛ばされてえらい目にあった。その後もバイト先や家にまでやって来るお節介にもうんざりしていた。それなのに拒絶しないでいた理由は?と自問して、分かりません、なんて白を切る事は出来そうにない。家族も友達も誰もいないこの地で誰かと繋がっている事に安心して、誰かが気にかけてくれる事が嬉しくて。福禄先生が本気で私を心配してくれているのが分かると、なんだか胸のあたりがくすぐったくて。心の片隅ではきっと、ずっと福禄先生を求めていた自分に薄々気づき始めていたから。

「して。奥宮は追わぬのか?」

 ゆっくりと頷いた私に、神様も「さようか」と頷いた。

 奥宮さんの事は好きだった。その気持ちは彼に伝わっていたはずだ。でも今の私の気持ちは彼の望んでいるものじゃない。それもきっと、何も言えなかった私を見た彼には伝わったように思う。

「さよなら」

 東の方角に向かって私は小さな声で呟いた。これが本当の終わり。

 どこかホッとしているのは、自分の本当の気持ちが分かったからかもしれないし、足元に感じる神様の体温が安心するほど暖かいからかもしれない。



 同居十八日目。日差しを浴びて気持ち良く目が覚めた。

 朝からよく晴れている今日は、季節が逆戻りしたみたいに暖かい。布団の中にいない子猫達の姿を探して隣の部屋をそっと覗くと、四匹が寄り添い合って眠っていた。

 自転車に跨りアルバイトへ出かけて、夕方になると買い物を済ませて帰宅し、神様と作った夕食を食べた。

「勝負下着なら出しておいたぞ」

「何でよ。いらないよ」

「やはりリボン柄ではダメか。お嬢の下着は安物ばかりで消去法の選出にござったが」

「もっといいやつだって持ってるけど。やばい、そろそろ行かなきゃ。行ってくるね」

「うむ。行ってまいれ」

 神様に見送られて再び家を出る。向かう先は福禄先生のジョギングコース。

「神尾さんじゃないか。こんばんは」

 走ってきた福禄先生が私の前で立ち止まった。

「こんばんは先生。実はあなたを待っていました。お話があるんです」

「どうした。何でも言いなさい」

 走り慣れている様子で息の乱れもなく微笑む福禄先生に、私は出会ってから初めて笑顔を返した。

「今度、うちの可愛い子猫達を見に来ませんか。色々お世話になったお礼もしたいのでご馳走させてください。……イマイチな料理で良ければですけど」

「僕に気を遣う事はないが、嬉しいな。是非そうさせてもらうよ」

 少しは戸惑ったりするかなと思ったけれど即答だった。

 福禄先生は私に気があるわけではないと思う。この人は、こういう人なんだ。

 神様には「恋」だと言われたけれど、福禄先生の事が好きなのかと問われれば、それは難しい。好きと言えるまでにはまだ足りないや。

 私の本当の気持ち。それは福禄先生の事をもっと知りたいという事。この気持ちに向き合っていこうと決めたから、私はここに来た。

 神が七日で創ったというこの世界にはだままだ続きがある。

 私は神ではないけれど、自分の世界は自分の足で広げていける。何日でも、何年でも、何十年でも、自分から目を逸らさなければもっともっと先へ行ける。まだ見ぬ世界へきっと行ける。行き詰まる時は一旦立ち止まって足元を見よう。きっとそこには冷えた足を暖めてくれる神様がいる。


 史上最悪な誕生日に猫だと思って拾ったのは狸だった。

 神様だというけれど、何をもってして神だと名乗り、自分に「様」をつけるのか。どん底にいた私を救い上げるでもなく導き示すわけでもない。

 ただ居座るだけ。

 ただ見守ってくれるだけ。


 故郷には帰れなかったけれど、今の私が本当に帰りたいのは三匹の子猫達が走り回り、マヨネーズ中毒の狸がいつもそばにいてくれる、この家です。