二階の窓から、興福寺の五重塔が先端部分だけちょこんと見える。

 時おり元興寺の鬼が登って奈良市街を見物しているが、最近は姿が見えない。たぶん寒いからだろう。

「ま、どっちにしても普通の人には見えないから、いいんだけどね」

 仕事の前に空気を入れかえようと、シノブは窓を開けた。パラリパラリという音に振り返ると、座卓においてあった数枚の御札がゆっくり舞い上がるところだった。

 御札には「鎮宅霊符神社」とある。家のすぐそばにある、陰陽師の仕える社。この奈良町に点在する小さな神社の一つだ。

「うわ、重石忘れてたっ」

 幼なじみのゆかりに「サラサラすぎてくやしい」と言われる髪を振り乱し、シノブは急いで窓を閉めた。

 しかし御札は一枚、また一枚と宙に躍り、こちらに向かってくる。

「諦めろって。窓閉めたんだから」

 紙切れとはいえ、風でこんな動き方をするわけがない。早くどこかの家に貼られたいと、出番を求めて窓から出ようとしているのだ。

「待て待て。止ーまーれー」

 舞う雪をつかまえるような手つきで、御札を捕らえた。全部で五枚。

「陰陽師はおれ一人しかいないから。よそへ行っても有効活用してもらえないよ」

 シノブは独り言を言いながら御札を座卓へ持っていき、文鎮で重石をした。

「ただし、奈良県内に限る……」

 自分の独り言に少し悲しくなる。

 京都に行けば有能な陰陽師が何人もいる、と噂には聞くのだが、自分は彼らの顔や名前さえ知らない。

 ――シノブ、二十歳でそれは心配だよ? だって、有名な陰陽師の安倍晴明を生んだ京都だよ? そこの事情を知らないってことでしょ? あと今日も髪サラサラでうらやましい。わたしと取り替えて。

 つい最近、ゆかりにそう言われたことがある(髪うんぬんは無茶な要求なので無視した)。

 シノブとしては、厳しいな、二十五歳くらいにまけてくれないかなあ、と思う。

 ――シノブの目、ちょっと緑色が入ってる。きっと、強い陰陽師だからだよね?

 まだ中学二年生の頃、ゆかりにそう言われて嬉しかった。

 明るい茶色に緑が交じる独特な虹彩は単に先祖が異国の出身だからで、この家の仕事には関係がない。それでも、ゆかりに褒められた記憶を思い出すと強くなった気がする。

 もっと気合いを入れようと、シノブは本棚から一冊の本を取り出した。

『近世陰陽道研究の理論と実践』。

 祖父が遺した、一般人には見向きもされない本だ。


《……そもそも、陰陽道とは何か。

 祭祀、否。暦法、否。まじない、否。それは陰陽道を構成する一部にすぎない。

 陰と陽。突き詰めれば世界はこの二つで構成される。すなわち陰陽道とは、祭祀や暦法、その他の方法を用いてこの世界のすべてを探求し、それらを生み出した唯一の「完全なる一者」と相対し一体化することを目指す道である……》


 このあたりの記述でもう、世間一般の人々は不可解だと言うか、呆れるか、場合によっては怒りだす。

 祖父もその点は重々承知していたため、縁のある地方出版社に原稿を持ち込んだのだ、とシノブは本人から聞いたことがある。

 元になった本は家に代々伝わる『南都要集』という秘伝書なのだが、こちらは世間に出すわけにはいかない。

「おじいちゃん、何かを遺したかったんだよな」

 シノブは本を閉じて、元通り本棚に収めた。世間に何と言われようと、祖父が後の世のために書き残してくれた本だ。昭和に生まれた、奈良の陰陽師として。

「京都はどうあれ、今はただ、粛々と家業のお手伝い」

 シノブは室内を眺めた。

 小学生の時から使っている学習机やベッド、高校一年生の時体育の授業用に買ったテニスラケット。

 祖父の蔵書も一緒に収めた本棚。

 組紐で封印された漆塗の箱。

 細かい気泡の混じった、古いガラスの器。

 異国の文字が彫りつけられた石版。

 水と、なぜか魚型の薄い金属片が入ったガラスの球体。その他もろもろ。

 何も知らない人間がこの部屋を見たら、勉強部屋が古美術店の物置を兼ねていると勘違いするかもしれない。

 しかしここにある古物は商品ではなく、シノブの家が営む和菓子屋の装飾品でもない。先祖から受け継いだ呪物だ。最も古い物は、六百年以上前に異国から渡ってきた先祖がもたらしたらしい。

 シノブは再び窓を開けると、風通しの良い場所に脚付きの双六盤を置いた。

 これも、事情を知らない人間が見れば「正倉院の宝物?」と言うかもしれない。

 鹿の角や貝で細かな文様が装飾された木製の双六盤は、確かに東大寺正倉院に収蔵されている宝物に似ている。

 碁石を入れる碁笥によく似た、丸い容器の蓋を開ける。中に入っているのは双六のコマだが、丸く平たい形とカラフルさのせいで、おはじきかキャンディーに見える。黒、青、緑、黄色、透明。色がついたコマはガラス製、透明な物は水晶でできている。

 コマを祖父に教えられた通りに双六盤に配置して、願文を唱える。

「南都にいます菓子の祖、林浄因に教えを請う。くすば菓子店の主の、新たに作り出せる菓子について問う。形相因は甘味を抱えたる桃色の椿。質量因の決まりたるは白いんげんの餡、白砂糖、米の粉。抱える甘味の質量因を問う……」

 陰陽道が「完全なる一者」との接触を目指す道ならば、果たしてこのように日本語で願うところを唱えるのは理にかなっているのだろうか?

 シノブは時々気になってしまうが、とりあえず今問いかけているのは、奈良市街の一角にある林神社だ。日本で初めてまんじゅうを――言い換えれば初めて和菓子を作った人物、林浄因が祀られている。

 双六盤の上でコマが小刻みに揺れる。シノブは親指の先ほどの、ガラスでできた一匹の魚を盤上に置いた。

 青く透き通った魚もまた、小刻みに揺れて音を発した。人の声によく似た音を。


 キナル、モノ、ヲ、ウチニ、カカエヨ。


「『黄なるものを内に抱えよ?』」

 魚の言葉を口に出してみる。秘伝書『南都要集』にあった通りのやり方で占っているのだが、もっと詳しく教えてくれてもいいのに、と思う。

「シノブ」

 女の声で呼びかけられて、シノブは窓辺を振り返った。

 一階の瓦屋根に乗っているのだろう、黒くしなやかな猫が窓から顔を覗かせている。古い猫又で、名を墨香という。墨香をここへ寄越した人物の話では、年齢は四百歳らしい。つまり年上だ。

「まだまだ寒いねえ、墨香さん」

 窓の外へ腕を伸ばし、墨香を抱き上げようとした。が、黒い前足でパシリとはたかれてしまう。

「抱かれてやらへん。うちで暖を取らんと、綿入れ半纏でも着ときや」

「綿入れ半纏。セレクトが微妙におばあちゃんぽいな」

 シノブが碁石を指でもてあそびながら言うと、墨香はじろりと睨んできた。

「何の占いや、今日は?」

「父さんと母さんに頼まれた。新作の生菓子について」

「ほう」

 墨香は興味深げにしっぽを振り動かした。シノブの家は現在、「くすば菓子店」という和菓子屋を営んでいる。この奈良で陰陽道の一翼をになっていた楠葉家ではあるが、それも昔の話だ。

「どんな菓子や?」

「桃色の椿の形をしてるんだけど、中身をどうするか迷ってるって。こしあんが第一候補らしい」

「おいしそうやないか、こしあん」

「でも占いでは、『黄なるものを内に抱えよ』って。林神社の神様が」

 墨香は「ふうむ」とつぶやき、ピンクの舌を出して毛づくろいを始めた。まるで食欲を抑えかねているようだ。

「中身は黄色いもの。つまり黄身あんやろか?」

「さつま芋かもしれない。墨香さん、今日は何の用事?」

「ああ、そうやった」

 毛づくろいを中止して、墨香はきちんと前足をそろえて座り直す。

「シノブ、三ヶ月くらい前に町内の乾物屋で女将さんが亡くなったの、知ってるやろ」

「うん。八十五歳の大往生で。お葬式に行ったけど……。もしかして、まだ?」

「せや。まだあの世へ行ってはらへん。薬屋の横の地蔵堂で、行かへん言うてねばってはる」

「それを早く言ってほしいな」

「すまんすまん。菓子と聞いてつい」

 先ほど鎮宅霊符神社の御札が外へ出て行こうとしたのを思い出した。女将が居座っているのは人間の住宅ではなく地蔵堂だが、御札は異変を察知して動いたのかもしれない。

「行かないって、何で?」

「お水取りの儀式が見たいんやて。最後まで」

「あー……。奈良市民には、重要だね」

「そういうこっちゃ」

 墨香は「くああ」と口を開けてあくびをした後、山吹色の瞳に鋭い光を宿らせた。

「ここでおさらいテストや。お水取りを、一般人風に説明してみ?」

「おばあちゃんを何とかしなくていいの」

「少年老いやすく学成り難し。うちはあんたのじい様とご先祖様からお目付役頼むて言われとるんや」

「分かったよ」

 一般人と共存しつつ、奈良の神仏あやかしにまつわる相談役を務める。近現代の奈良の陰陽師はそういう位置にいるのだ、とシノブは生前の祖父から言い聞かされている。

「お水取りは、奈良時代から東大寺の二月堂で行われている修二会という行事の一つ。修二会そのものは春を迎える行事の名前なので、他の寺院でも行われる」

「せやな。東大寺の修二会で何やるか、まとめてみ」

 まだあるのか、と思いつつ答える。

「東大寺での正式な儀式名は『十一面悔過』。選ばれたお坊さんたちが参籠をして」

「あかん。参籠言うても一般人は分かれへん」

 指導が入ったので、言い直す。

「選ばれたお坊さんたちが、お寺に籠もる。別火といって、食事に使う火も他の人たちとは別にする」

「よろし。続けてや」

「で、一ヶ月くらいにわたって色々な行事をする。行事全体がお水取りと呼ばれることもある。夜に大きな松明を持って行ったり来たりする『お松明』が有名」

「よろし、よろし」

 墨香が満足そうに毛づくろいする。

「だんだんうまいこと言えるようになってきたやないか」

「そりゃ良かったけどさ。乾物屋のおばあちゃん、最後まで見たいって言ってるんだよね?」

「せやで」

「気持ちは分かるけど、最後までは難しいかもなあ。生きた人間の行事や生活って、魂をあるべき場所に送る働きがあるから」

「せやろ? そのへん説明してあげてや。うち、下で待ってるし」

 言い終えると、しっぽを立てて屋根から飛び降りていく。シノブは碁石を元通りにしまい込み、紙に先ほどの占いの結果を書き、コートをつかんで一階の土間に降りた。

「シノブ、どや?」

 障子を開けて、白い作業着姿の父親が顔を出す。

「『黄なるものを内に抱えよ』だってさ。メモしといた」

「おう、ありがとう! ……しかし林神社の神様、そこまでしか教えてくれへんかったか」

「店主なんだから、後は自分で考えろってことじゃないの。知らないけど」

「知らんのかい! ってお前、漫才の落ちみたいになったやないか。まあええわ、ほんなら黄身あんか、さつま芋か……」

「それ、おれと墨香さんも思いついた」

「ほうか。ほんなら、白あんの中心にりんごの甘煮をひとかけら入れてもええな」

「あっ、うまそう! それ、やってやって」

 シノブが本気で頼むと、父親は小鼻をふくらませて「よっしゃ」と答えた。

「せやけど、上着持ってどこ行くんや?」

「乾物屋のおばあちゃん、まだ近所にいるって。墨香さんが知らせに来た」

「えっ、そら大変や。父さんも母さんも、亡くならはった人は見えへんしな。シノブ、はよう行ってあげてや」

「うん」

「うまいこと行ったら、帰りに紅玉りんご買うてきて。今言うたりんごの甘煮試作するさかい」

 亡魂との対話と八百屋へのお使いを同列に扱って、父親はさらりと障子を閉めた。

 父に限らず、この奈良町界隈の人間は知っている。

 奈良には奈良の不思議あり、奈良町に一人の陰陽師あり、と。



 シノブは菓子店の売場を通り抜け、格子戸を開けて外に出た。

 一階の屋根には「くすば菓子店」と看板がかけられ、玄関脇には小さく「奈良の神仏、怪異に関するよろず相談事承ります」という看板もある。ただし名刺ほどの大きさしかないので、こちらの看板に気づく観光客はあまりいない。

「にゃーん」

 まるで普通の黒猫のような可愛らしい鳴き声を上げながら、墨香が駆け寄ってきた。

 まさに猫をかぶる――などと言えばズボンの裾をかじられそうなので、シノブは我慢した。

「行こう、墨香さん」

「にゃんっ」

 歩きながら視線と言葉を交わす一人と一匹に、通りかかった観光客が「あらあら」「仲良しだね」と笑いかけた。シノブは笑顔で会釈して、墨香の二、三歩後ろをゆく。

「寒いけど観光客来てくれてるね、墨香さん」

「にゃっ」

 同意するかのように、墨香がしっぽを立てた。

 観光客で賑わう興福寺や東大寺の南側には、奈良町と呼ばれる古く静かな町がある。

 江戸時代に建てられた町家や、奈良時代に創建された神社などが路地に並び、小さなカフェや雑貨店も点在している。

 町家の軒先に下がっている紅白の丸っこいぬいぐるみは、身代わり猿と呼ばれる魔除けだ。小さいのが四匹連なった身代わり猿もいれば、巨大な身代わり猿を一匹だけ飾っている家もあり、古い町並みに独特の雰囲気を醸し出している。

 もちろん、商店街で流しているような宣伝アナウンスやBGMは一切ない。観光客は野鳥の声を聞き、春日山を間近に眺めながらのんびりと散策できる。

 その穏やかな奈良町の一角、かつて陰陽師が集まり住んでいた陰陽町という地区に「くすば菓子店」はある。

「にゃ、にゃっ」

 路地の角を何度か曲がり、だんだんと地蔵堂に近づいていく。急かすように墨香が鳴く。

 シノブはつい大股になった。早く行ってやりたいが、このゆったりとした奈良町で走れば観光客に何事かと思われそうだ。細い路地が入り組んでいる町なので、危ない、という理由もある。

「あれっ、シノブ、墨香ちゃん、急いでる?」

 元気の良い声が呼んだ。

「ちょっと相談したいことがあったんだけど」

 横の路地を歩いてくるのは、ゆかりだった。

 近所の女子大に入って以来、何となく雰囲気がおしとやかになっている、とシノブは思う。

 黒いタイツにミニスカート、つま先の丸い革靴、ロングコート。つややかな髪がしっとりと肩に流れている。

「ゆかり、大学のサークルは?」

「今日は講義だけ」

 答えながら歩いてくるゆかりの後ろに、奈良時代を思わせる青い衣の女性がいる。

 年の頃は二十五、六だろうか。

 長いスカートのような裳を着け、腰のあたりは細い帯で絞っている。平城京や『万葉集』を扱った本に載っていそうだ、と地元の書店の品ぞろえに思いを馳せてしまう。

「相談したいことって……。後ろにいる人のこと?」

「うん。遠慮しないでこっち来て、こっち」

 ゆかりに手招きされて、青い衣の女性は近くに寄ってきた。

「毎度毎度、面倒見がいいなあ、ゆかりは。この間は車にはねられた鹿の霊を連れてきて、その前は巣から落ちた鳥のヒナの霊で」

「何か問題ある?」

 ないでしょう、と言いたげな顔でゆかりは尋ねてきた。

「ないよ、ないけどいつも言ってるように、放っておいてもあの世へ行く霊だってたくさんいるんだからな?」

「ほうっておけないよ。見えるんだから」

 見えるんだからと言われて、良心が痛む。もう十年以上経っているが、自責の念はなかなか消えない。

「連れてくるなとは言わないよ。みんな、困ってるのは本当だから」

「そうだよそうだよ。この人もね、困ってるんだって。水に青って書いて水青さんていうの」

 二人の言い合いを見守っていたその女性は、突然名指しされて苦笑を浮かべた。

「あ、いえ、われは、困っているほどでは。お忙しいでしょうし、やはり自力で」

 長い両袖で口元を隠して、水青は遠慮がちに言った。

「気にしないで、シノブの用事が終わるまで待てばいいんだから。晴れの舞台でおしゃれ、大事でしょ?」

 晴れの舞台とは何の話なのか気になるが、今は用事の途中だ。

 シノブは「ごめん、二人とも」と両手を合わせた。

「話を聞くのは、もうちょっと後でいいかな。亡くなった乾物屋のおばあちゃんが、まだこの世にいるから」

「え、ほんと? あそこの女将さん亡くなったの、去年の正倉院展の後だよね?」

 十一月……ではなく奈良国立博物館の催しが出てきてしまうあたり、ゆかりも地元民である。

「今年のお水取り、最後まで見たいんだってさ」

 シノブの言葉に、水青は「まあ」と切なげな声を漏らす。

「この奈良町にいるんだよ。地蔵堂にいるって、さっき墨香さんが教えてくれて……。三叉路の薬屋のところ」

「えっ、すぐそこじゃない。行こう! ごめん水青さん、後回しにしちゃって」

「いえいえ……!」

 人間二人と猫又と、人の姿をした人ならぬ者。

 妙な取り合わせだが、善は急げだ。

 連れだって路地を曲がると、三叉路に出た。四角いランタン型の看板を掲げた薬屋と、小さな地蔵堂がある。

 その地蔵堂の壁に寄り添うようにして、エプロンをつけた白髪の老女が座っていた。

「おばあちゃん、座布団もないとこで何してるんだよ」

 シノブがしゃがみ込んで話しかけると、老女は「あれっ! 見えるんかいな」と眉を大きく上下させた。

「見える見える。楠葉家の陰陽師だから、見えますよー」

 あえて軽い調子で言う。深刻になっても、こういう問題はうまく行かない。

「いやあシノブ君、ほんまに死んだ人が見えるんやねえ。素質があるからおじいさんのお仕事を継がはったって聞いてたけど、ほんまにねえ。陰陽師なんやねえ」

「おばあちゃん、自分のこと死んだ人って、もう分かってるんだね」

「そら、分かるわぁ。病院にいてたし、奈良町に戻ってきたら仏壇の前に遺影が置いてあるし」

「そっか」

「シノブ君、今日は女の人二人も連れてどないしたの。ゆかりちゃんと……その格好は、何かお祭りに行かはる人?」

 ゆかりが「友だちだよ」と言い、水青が「初めまして」と会釈する。

「あ、せやけど、ゆかりちゃんも見える人やったん? お友だちも?」

 乾物屋の女将は生前と変わらず、話好きであった。

 シノブは「まあまあ、その話はあとで」とさえぎった。

「おばあちゃん、お水取り最後まで見たいんだって? 厳しいよそれは」

「何であかんのや。小さい頃から寒いの我慢してやな、家族で坂のぼって二月堂まで行って、お松明が燃えるの見たんやで」

 女将が憤る気持ちは、シノブにもそれなりに分かる。

「思い出がいっぱいある、大切な行事なのは分かるよ。おれだってお水取りの行事を全部見たわけじゃないけど、でっかいお松明が闇の中を走っていって、火の粉がバアーッと降り注いで、見物してるみんながオオーッて歓声あげちゃうところ、面白いし好きだよ」

「せやろ、せやろ」

 郷土愛を確認しあったところで、本題に入る。

「お祭りを見てると思うんだけどさ、生きてる人の力って、なんだかんだ言って強烈だよね」

「ああー、くやしいけど、そうなんやろなあ」

 怒りを諦めで押し流しているような調子で、女将は言った。

 さあ、ここが重要だ。

 シノブはわざと言葉を区切りながら、ゆっくりと言った。

「おばあちゃん。強烈な力を持ってる生きた人たちが、信仰を持って、規則通りに行う行事はね。この世界の、あるべき流れを強めているんだってさ」

「はぁ……何やら規模の大きな話やねえ」

 女将の言うことは当たっている。シノブが今しているのは、あの世とこの世の仕組みの話なのだから。

「うん、だからね。お水取りみたいにダイナミックで古くから続いてる行事を、この世にとどまってる人が見ていると……」

「どうなるんや?」

「よほど強い未練がない限り、あるべき流れの中に……あの世へ押し出されちゃうんだよ。たとえるなら、川に落ちた花が海へ流れていくみたいに」

 あえて美しい比喩を使う。女将は「へえ、花!」とまんざらでもない様子だ。

「だからおばあちゃんもね、お水取りの行事を見ている内に、あちらへ行っちゃう可能性が高いわけ」

「ほんまかいな」

「本当だよ。夏に京都でやってる大文字の送り火にもそういう効果があるし、お寺さんや神社の御守りをみんなが大事に持っていることにも、同じ効果がある……って、うちの秘伝書に書いてあった」

 言い聞かせているうちに、女将の表情はまた不満げになってきた。

「そう言わんとシノブ君、お地蔵様に一緒にお願いしてや」

「いやごめん、あの世と交渉する力はない」

「何やもう、使えへんな」

 ――幽霊と交渉できる時点で、そこそこ使えるんだけどね?

 悲しみを込めて振り返る。

 ゆかりが淡々と「頑張って」と言う。

 水青はこっくりとうなずく。

 墨香はわれ関せずといった風に、毛づくろいをしていた。

 誰かかばってくれてもいいのに、仕事ってつらいなあ、と思いながらも思案する。

 要は、女将はお水取りを見て郷愁を満たしたいのではないか。おそらくは、人恋しさもあるに違いない。

「そんならおばあちゃん、明日うちが閉店してから、一緒にお水取りの円盤見よう。親戚が録画したのがあるんだよ」

「円盤?」

「えーと、映像が入ってる奴。ビデオみたいな。テレビで見られるの」

 テレビ、と聞いてようやく女将の瞳に理解の光がともる。これがジェネレーションギャップというものだろう。

「シノブ君家で見せてくれはんの?」

「うん。吉野山の修験者が使ってる、お香もたいてあげよう」

 お香の代金は、両親がもってくれるはずだ。昔から楠葉家の食卓を支えてくれている、乾物屋の女将のためなのだから。

「おばあちゃんが今年のお水取りを全部見たいなら、見に行ってみればいいと思う。だけど映像なら、あの世に送るほどの力は絶対ないからさ。保険として、最後まで見ておこうよ」

「ほな、お邪魔しよかなあ」

「うん、父さんと母さんにも話しておく。おばあちゃんの姿は見えなくても、二人ともきっと歓迎するからさ」

「ああ、そんなら、明日まで暇やし、店で孫の顔でも見てくるわ」

 ふうわりと女将は立ち上がり、滑るようになめらかに路地の奥へ歩いていく。

「案外、すんなり聞いてくれたね」

 ゆかりが拍子抜けした声で言う。

 墨香が満足げに毛づくろいをする。

「ゆかりちゃんは若いさかい知らへんやろな、年を取ると、かまってくれるだけでええ、と思うことがあんねん」

「ああ、陰陽師の技量あんまり関係ないんだ」

「そこで納得されるとおれ、つらいんだけど……ひとまず、明日おばあちゃんを家にお迎えするまでこの件はペンディング……っと」

 シノブは、青い衣の女性が路地の奥に熱い視線を送っているのに気がついた。女将が消えていった方角だ。

「どうしたんですか、えっと……」

「名前でしたらお気軽に、水青とお呼びくださいませ」

 にこりと笑みかけられる。技量は関係ないと言われた悲しさが、少しほぐれた。

「あのように、お水取りを楽しみにしている方がいる。それならわれは必ず、美しき衣装で参上せねばなりません」

 決意の表明を応援するかのように、ゆかりが「うんっ」と拳を固めた。

 ――お水取りに関係する、青い衣の女の人……って、あの人しかいないよな。奈良では有名人だから、ゆかりも何となく分かってるみたいだ。

 シノブはコートのポケットに手を突っ込み、財布があるのを確かめた。

 八百屋で紅玉りんごを買った後、水青を家へ招待せねばならない。