プロローグ



 夢を見ている最中に「ああ、これは夢だ」と気付いてしまうあの感覚、と言えば理解してもらえるだろうか。

 現実ではないと知った途端、浮遊感にも似たぞわりとした悪寒が体を貫き、喜びも悲しみも一瞬で凍りついてしまい、あとには空しさだけが残される。そんな感覚だ。彼女の追及を受けた俺が味わったのは、まさにそれだった。

「――あなたが元座敷童子だというのは、本当ですか?」

「いえ……。その、それは」

 どうしようもなく喉が震えて、続く言葉が出てこない。

 ただ顔を伏せて、血の気の引いた頭で漠然と、夢から覚めるときが来たのだな、と俺は考えていた。

 ここは岩手の老舗旅館、迷家荘の事務所だ。十二月に入ってからますます冷え込みは厳しくなり、窓の向こうには雪がちらちらと舞っている。けれど、外の寒さと隔絶されたこの場所は、つい先程までとても温かかった。そのはずだった。

 しかし今や、ツンドラ気候もかくやといった冷気が立ちこめる場所と化している。石油ストーブに乗せられたヤカンがしゅんしゅんと音を立てるのどかな昼下がりに、コーヒーカップを傾けながら楽しく彼女とお喋りをしていたはずが、どうしてこうなってしまったのだろう。

「教えて下さい緒方さん。わたし、知りたいんです」

 思い詰めた表情で訴えかけてきたのは、この旅館の若女将である白沢和紗さんだ。

 桜色の着物に身を包んだ彼女は、普段は清楚で可憐で、慈愛の権化のような女性なのだが、今は悲痛な面持ちをこちらに向けるばかりだ。

 まるで俺の答えを確信しているように。どんな事実でも受け止めるという強い覚悟を胸に宿したように……。

 なのに俺は、息を吞むばかりで、彼女に何も答えることができない。

 和紗さんが言っていることが、全て事実だからだ。

 何を隠そう、迷家荘の番頭を務めるこの俺――緒方司貴は、かつてはこの旅館に棲まう〝座敷童子〟という妖怪だったのである。

 いや、正確に言えば、緒方司貴というのも俺の本名ではない。事の起こりは今から十七年前。不治の病に冒されていた緒方司貴という少年と、座敷童子であった俺が、互いの〝存在の器〟を入れ替えたことに端を発する。

 座敷童子とはその名の通り、少年の姿のまま成長しない妖怪である。だから妖怪になったことにより、本物の緒方司貴の肉体の時計は止まり、病気の進行も止まった。一方、自由を欲していた俺は人間として生きていくことになった。ちょうどマーク・トゥエインの『王子と乞食』のようにだ。

 事実は小説よりも奇なりと言うが、これが俺たちの過去に秘められた事情である。俺は元妖怪であり、人間社会においては異端と見なされる存在だ。そんな揺るぎない現実を頭の中で再確認していると、和紗さんはさらに続けた。

「答えにくいこと、なんですね」

 沈鬱なトーンで言い、目を伏せる彼女。いつも朗らかで、優しくて、眩いばかりの笑顔で接してくれていた彼女を曇らせたことに、強い罪悪感がこみ上げてきた。

 けれど俺には、沈黙せざるを得ない理由もある。

 実を言うと、この先も俺が人間でい続ける保証はないのである。

 ずっと考えていたことだ。現在の座敷童子――本物の緒方司貴の肉体を蝕んでいる病を治す術は、今は存在しない。だが将来、その治療法が確立されるときが来れば、俺は速やかに人間の器を返上し、元の座敷童子に戻るべきだと思っている。

 このことはまだ童子には伝えていない。そう口にしたところで、彼には「別にいいよ」と一笑に付されるかもしれない。「妖怪の方が気楽だし」と拒まれるだろうことも想像に難くない。だけど、それでも俺は、彼を人間に戻せる可能性を捨てたくはなかった。選択肢の一つとして保持しておきたかった。

 だから迷った。言い淀んだ。口籠もった。

 和紗さんの質問に答えようとすれば、俺がいつか妖怪に戻ってしまう可能性にまで言及することになる。そうなれば当然、彼女が俺のことを「好きだ」と言ってくれた気持ちには応えられない。

 もちろん俺だって、和紗さんのことは好きだ。彼女の好意は素直に嬉しい。本当は飛び上がりたいくらいに嬉しかった。

 けれど今は、その衝動は押し殺さなければならない。この場で全てを詳らかにするのなら、何もかもを失う覚悟が必要だ。その決断は俺にとって何よりも辛く、耐え難いものだった。

 だから視線を床に落として、たっぷり数十秒の沈黙を置いて、考え込んだ挙げ句にこう切り出したのである。

「……わかりました。説明します。全てを」

 やはり真実を告げなくてはならないという結論に達した。ここまで真摯に向き合ってくれた彼女に嘘をつくこともまた、俺にはできそうになかった。

「……? 緒方さん?」

「すみません。長い話になるかもしれませんが、どうか聞いて下さい。俺は――」

「いえ、違います!」

 そのとき彼女の声が、さらに切迫したものに変わった気がした。

 和紗さんが椅子から弾かれたように立ち上がり、俺に人差し指の先端を向ける。

「緒方さんの、その、手! 手がっ!」

「手?」

 慌てふためく彼女の様子に尋常でないものを感じつつ、言われるままに自分の手を顔の前まで持ち上げて確認してみた。

 不思議なことに、手の平の向こう側に、うっすらと和紗さんの顔が見える。

 さらに驚愕に開かれた彼女の瞳孔を見て、ようやく気付いた。

 透けている。

 俺の手が氷のように透けて、あちら側の景色が見通せるようになっている。

 いや、手だけではない。もう腕全体が半透明になってきているではないか。

「なっ、なん、これ」

 混乱のあまり、何と口にしていいかわからなくなる。悪寒が毒蛇のごとく全身を這いずり回り、通り過ぎた箇所から汗がぶわっと噴き出してくる。

 しかし、動揺している間にも、透明化は音もなく進行していく。やがて視界までがうっすらと白んできて、

「え、嘘っ!? 緒方さんっ――!?」

 和紗さんの悲痛な声が耳に届き、それが最後になった。

 その瞬間、世界から俺の意識は、一片の思念も残さず消失してしまったのである。

 



  第一話 あやかしが消えた日



 ――どこだ、ここは。

 気が付くと俺は、満開の桜の木の前で、一人立ち尽くしていた。

 頭上には無数の花弁が宙を舞い、春の匂いをまとった穏やかな陽気が体をそっと包み込んでいるのがわかる。

「夢……じゃないよな」

 一応、自分の頬を軽く叩いて確かめてみる。微かに痛覚はあるが、それより違和感の方が遙かに強い。

 何故なら、先程まで俺が過ごしていたのは、十二月の岩手だからだ。雪まじりの白い寒風が吹き荒び、防寒着なしでは一分だって外にはいられないくらいの東北の厳冬。そんな季節のはじまりを肌で感じていたからだ。

 となると、一体ここはどこなのだろう。焦燥感にかられつつ辺りを見回す。

「……見覚えは、あるよな。桜も同じだし」

 意識を強く保つために、わざと口に出して確認していくことにした。

 正面には、桜の洪水みたいに枝をしならせた枝垂れ桜の巨木がある。薄紅色の花弁に包まれた数多の枝が、静止した花火のような大迫力で俺の情緒に訴えかけてくる。風に散りゆく儚さまで伴って、美しさが胸にじんわり染み込んでくるようだ。

 そんな、見るも荘厳な巨木の幹にはぽっかりと洞が開いており、中には木製の小さな社がある。あれは紛れもなく童子神社だ。あんなうら寂しくも風情のある社がこの世に二つと存在するとは思えない。となるとやはり、ここは迷家荘の裏手にある桜の丘なのだろう。

 だとすれば、飛んでいるのは場所ではなく時間か。もしくは記憶か。

「とりあえず、落ち着け」

 深呼吸して、神経の昂ぶりを鎮めることに全力を尽くす。

 俺の身に一体何が起きたのか、それはわからない。だがここで一人悩んでいても埒があかないと思えた。何よりここが迷家荘の裏山なら、誰かに訊ねてみるのが手っ取り早いだろう。桜の丘の西側には、麓へ降りる石段があるはずだ。旅館に帰り着くことさえできれば、きっとどうにでもなる。

 心を決め、額に浮かんだ汗を拭いながら歩いていく。焦りのせいか、もはや全身に湿り気を帯びていたが、厚着したまま春の陽気に晒されればこうもなるだろうと自分に言い聞かせる。その事実からしてすでに異常と言えるのだが、これ以上混乱しないよう余計なことは考えずにおく。迷家荘に戻って座敷童子や河童たちに会うことさえできれば……。それだけを念頭に置いて足を進めたのだが、しかし。

「――なん、だ。これ」

 丘の端まで行ったのだが、そこに期待していた風景はなかった。

 吹き抜ける風まで柔らかく感じるほどの春の気配と、新たな命の息づかいが聞こえそうなほど濃密な緑。涼しげな水音を響かせる渓流。それはいい。

 ただ、迷家荘が、あるべき場所になかった。

 いや正確には、似たような建物が代わりに立っていたのだ。

 雑草まじりの茅葺き屋根を頂く、古びた曲がり家が一軒。渓流のほとりにぽつんと佇んでいるのである。

 しかしその傍には、野趣溢れる岩造りの露天風呂が湯気を上げているのも見えた。あれこそは紛れもなく迷家荘のトレードマークである、加温なし加水なし、源泉掛け流しの自慢の温泉ではないか。

 だとすれば、あの家は何だ。迷家荘の場所に立つ、迷家荘でない家。混乱しすぎて頭痛までしてきた。

 一体ここは――

「……おいそこの。何をきょろきょろとしておるか」

「えっ?」

 不意に背後から聞こえてきた声に、俺は心臓を高鳴らせつつ振り返る。

 そして、そこに立っていた人物を見て、さらに体が震えるほど喫驚した。

 黒塗りの紋付き――喪服のように黒い女物の着物を着た、怪しげな人物である。

 彼女の顔は、お面で隠されている。石膏で作られたと思われる白いお面には、墨で複数の目が描かれていた。額に一つ。両眼のあたりに二つ。合計三つの刮目した眼が不気味にこちらを見据えている。

「何を惚けたような顔をしておる。汝を呼んだのは私だ。約定を忘れた座敷童子よ」

「……座敷童子、ですって? なら、俺のことをご存じなんですか?」

「当然だ。全て知っておる。でなければ、わざわざ呼び出すわけがなかろう」

 お面のせいで表情は窺えないが、何やら憤慨している様子だ。

 肩まで伸びた艶のある黒髪を揺らしながら、苛立った口調で彼女は続ける。

「汝は忘れておるようだが、約定は消えたわけではないぞ。必要以上に人間に肩入れをするでない。あの娘にこれ以上近づくことも許さん」

「……約定、ですか。すみませんが、俺には心当たりがなくて」

 座敷童子だった頃の記憶は、今の俺にはない。動揺しながらも言葉を返す。

「というより、あなたが誰なのかも覚えていないのですが」

「我こそは真なるマヨイガの主、〝ハクタク〟である」

「……ハクタク、さんですか?」

 妖怪小説家をもう一つの生業としている俺には、ハクタクに関する知識があった。ハクタクとは中国に伝わる聖獣であり、〝麒麟〟や〝鳳凰〟と同様に、聖人が生まれ落ちる前兆として出現すると言われるものだ。

 全身に九つの目を持ち、妖怪や薬学に関する膨大な知識を保有し、黄帝に天下太平の道筋を説いた神に近い獣だというが……。しかしどう見ても仮面の目は手描きだし、姿は女性のようだし、遠野に伝わるマヨイガの逸話との関連性もわからない。

 正直この人、かなり胡散臭い。

 怪訝な目で見ていると、彼女はさらに言った。

「迷家荘で起こる事象の全ては我の管理下にある。己が使命を忘れし者よ、汝は分をわきまえねばならぬ」

「はぁ……。でも、分をわきまえろと言われましても」

「では簡単に言ってやろう。とにかくあの娘に近づくな。わかったか」

「え。いや、ちょっと待って下さい。近づくも何も、俺は」

「馬鹿者! 口答えするでない! わかったかと訊いておる!」

「は、はぁ」

 強い語調で念を入れてきたハクタク。威嚇するように前傾姿勢になった彼女の勢いに押され、返答を濁してしまう俺。何だかやけに『あの娘』部分を強調している気がするのだが、どうしてだろう。

 続けて彼女は、呆れたように首を振りながら溜息をついた。

「嘆かわしい。貴様がどれだけ大それたことをしているか、わかっておらぬようだな。しかし、いいか? これ以上禁忌を犯すようなら、迷家荘に大いなる厄災が降りかかると知るがよい」

「大いなる、厄災ですか」

 鸚鵡のように復唱しつつ、災いとは一体何かと考える。その言葉の響きには脅威を感じるが、何だか漠然としているな、そう思っていると、

「よいか、もう一度言うぞ」

 ハクタクは仮面をつけた顔をさらに近づけてきて、すごむように言った。

「あの娘に関わるな。必要以上に近寄るな。可能な限り言葉を交わすな。触れることなどもっての外だ。いいか! わかったな!」

「……いや、そんなこと言われましても、さすがに無理では」

 一歩退いて顔を逸らした。和紗さんへの好意云々の話はこの際置いておくとしても、俺たちは迷家荘に二人だけしかいない接客係だ。全く近寄りもせず、言葉を交わさないことなどできはしない。

 反論しようとしていると、ハクタクはこほんと咳払いを放ち、

「可能な限りと言っておる。ともかく、更なる悲劇を招きたくないのであれば言動には気をつけることだ」

「はぁ……」

 何度目かわからぬ生返事。先程から彼女が口にしている悲劇とか災いというのは、具体的には何なのだろうか。思い切って訊いてみようかと考えていると、ハクタクは話を打ち切るようにこちらに掌を向け、

「とにかく警告はしたぞ。ではさらばだ」

「さらばって、ちょっと待ってくだ」

「待たぬ。もう去ね」

 そう口にしたかしないかというタイミングで、眼前の光景がぐにゃりと歪んだ。

 覚えのある感覚だ。つい先刻も味わった、意識が混濁していくこの感じ。

 何かに吸われていくように全身の力が抜け、胸の中が所在なさで埋め尽くされて、この世から消滅してしまうかのようなあの感覚。

 たちまち視界は幕が下ろされたかのように暗転し、足元は地盤から崩れ去ったかのように不確かなものとなり、俺は世界の底へと自由落下した。



 目蓋の上に、仄かな日の光を感じる。

 いまだ意識は眠りの泥に囚われていた。しかし、何かが頬にこすりつけられる感触が俺を現実に引き戻そうとする。とてもくすぐったい。

 うっすら目を開けると、焦茶色の物体が視界いっぱいにうごめいていた。洗車機のブラシみたいだなと思っていると、ふさふさした感触が右頬から首筋にかけて何度も往復する。中にちょっと硬めの毛もまじっていて、ちくちくもする。

「空太……?」

 名前を呼ぶと、くりくりとした愛らしい眼がこちらを向いた。

 先程のこそばゆい感触の正体は、化狸の空太らしい。彼が子狸特有の柔らかな冬毛で、執拗に頬ずりを繰り返していたのだ。ちなみにちくちくしていたのは髭である。

 もこもこした毛皮の向こう側には、見慣れた板張りの天井が見えた。どうやら知らぬ間に、自分の部屋に戻ってきていたようだ。

 今、何時なのだろう。畳から首だけ起こして周囲を見回した。窓の外から西日が差し込んでいるところを見ると、時間はそれほど経っていないらしい。続けて床の間に目をやると、目覚まし時計の針は午後三時を指していた。

「……何だったんだ、さっきのは」

 黒衣の人物と話したあの場所は、一体どこだったのだろう。ただの夢だと考えるには生々しすぎる体験だった。風の匂いも太陽の暖かさもまだ覚えている。

 状況だけを見れば、部屋でこたつに当たっているうちに眠ってしまったように思えるが……。頭を捻りながら体を起こすと、胸に乗っていた空太が畳に降り、ぺたんと腰を落とした。

「空太。俺がいつ部屋に帰ってきたか、知ってるか?」

「きゅうん?」

 可愛らしい声を上げ、無垢な瞳のまま空太は首を傾げる。人の言葉は理解しているが、質問の意図はわからない。そんな様子だった。

「ハクタク……。あのひと確か、そう名乗ってたよな」

 目を閉じれば、目蓋の裏に焼き付いた映像が蘇る。不気味な仮面をつけたハクタクの姿。満開の桜と春の陽気。もう一つの迷家荘。

 が、天井を見上げながら思い返すうちに、何かを忘れてしまっているような気分になった。胸をちくりと刺すような不安を感じた直後、

「そ、そうだ! 和紗さん――!」

 直ちに腰を跳ね上げ膝を立てると、驚いた空太が一歩飛び退いた。だが俺は構わず部屋のドアに向けて駆け出す。

 全てが現実だとすれば、俺は強制的に昏睡させられた挙げ句、部屋に連れ戻されたことになる。となれば残された彼女が無事だという保証はない。あのハクタクの口振りからして、和紗さんに何か害を加えた可能性は低いだろうが、ゼロとは言えない。

 スリッパも履かず廊下を駆け抜けて、突き当たりで左へ曲がり、そのまま事務所のガラス戸に手をかける。

 ちらりと、奥のデスクに突っ伏した桜色の着物を着た女性が見えた。果たして無事なのだろうか。動悸を抑えつつ声をかける。

「和紗さん! 大丈夫ですか?」

「……ん。……あ、おはようございます」

 ゆっくりと体を起こしながら、彼女は焦点の合わない目でこちらを見た。

 外見的には、特に異常は見られない。俺のように半透明にもなっていない。桜色の着物に乱れはなく、後頭部でだんご状に丸めた黒髪もいつも通りだ。

「あの、平気ですか? 意識はしっかりしてますか? どこか体に異常は」

「え? わたし、どうして……」

 彼女はぼんやりした声を出し、少しの間、きょろきょろと辺りを見回していたが、

「――ええっ!」

 突然、何かに気付いたように真顔になり、慌てて口元に手を当てた。

「わ、わたし寝ちゃってました? 嘘!? いつから……」

「無事、みたいですね」

 胸を撫で下ろすと、急に体の力が抜けた。どうやら眠っていただけらしい。

「ちょ、ちょっと待って。こっちを見ないで下さい!」

 異常はないようだが、何故だか和紗さんは取り乱す。

「わたしったらどうしてうたた寝なんて!? 緒方さん、ずっとここに居たんですか?も、もしかしてよだれとか? うわごととか」

「ああ、大丈夫です。落ち着いて下さい」

 このままでは事情を説明することもできない。俺は何とか宥めようとする。

「俺も自室で寝ていたらしくて、今ここに来たばかりなんです。だから寝顔なんて見る余裕は……」

「本当ですか? 本当に? 何も見ていませんか?」

「え? ええ。本当ですから、とにかく落ち着いて下さい」

「お、お、落ち着けなんて無理です! 仕切り直し! ちょっと仕切り直しでお願いします!」

 そう言って椅子ごとくるりと背を向けてしまった。もはや耳たぶが真っ赤になっている。

 何をそんなに気にしているのか、わからない。女性にとって寝顔を見られることは、そんなにも恥ずかしいことなのだろうか。事務所に入る前にちらりと見えたが、実に幸せそうで、天使のように可愛らしくて、写真に撮って保存したいくらいだったのに。

 まあ、ともかく無事で良かった。それが確認できただけで良しとしよう。眠る前にしていた話が有耶無耶になってしまったのは、良かったような悪かったような、微妙なところだが。

 少なくとも今は、お互いに時間が必要なようである。だから恥じらい続ける彼女の背中に「またあとでお伺いします」と声をかけ、俺は一旦部屋に戻ることにしたのだった。



 まっすぐに自室に戻ってドアを開けた途端、空太が駆け寄ってきて出迎えてくれた。「どうしたの?」と言わんばかりのきょとんとした眼差しが、わからないことばかりの現状では何よりの癒しだった。

 彼を抱き上げ、肩に乗せると、くるんと首にまとわりついて襟巻きのようになった。高めの体温と小さな鼓動の音が、こんがらがった感情の糸をほぐしていく。

 とりあえず、先程体験した不思議な出来事について、座敷童子に相談してみよう。あいつならたちどころに疑問を解消してくれるに違いない。そう思って俺は押し入れの戸を引いた。中には万年床に体を横たえた少年の足が見える。

「悪いけど、ちょっと起きてくれないか。今さっき不思議な出来事があってさ」

「……うるさいな。何だよこんな時間に」

「いや、こんな時間って、真っ昼間だぞ?」

 すると彼は眠たげに目をこすりながら寝返りをうち、薄目をこちらに向けた。

 その目鼻立ちは端正そのものだ。きりっとしていれば紅顔の美少年と言えなくもない容姿なのだが、左目を覆い隠すほどに伸びたぼさぼさ髪と、ふて腐れたようにむくれた表情が全てを台無しにしていた。

 とはいえ、こいつは博識の上に頭脳明晰で、時折見せる機転の𠖱えには敬意を抱かざるを得ないときもある。口に出して褒めるのは癪だが、有能な相棒なのである。

「おまえ、また夜更かししたのか」

「……五時には寝たよ。朝の」

「朝のって……。じゃあもういいだろ。十時間は寝てるぞ。いい加減に起きろ」

「嫌だよ。十時間がどうした。そんなのただの目安じゃないか」

 不満げな彼が、押し入れの奥で唇を尖らせたのが見えた。

「いいかい。時間の奴隷になるか、時間を支配できるかで男の価値は決まるんだよ」

「意識高いクリエイターみたいなこと言ってんなよ。ほら起きろ」

「嫌だね」と彼は布団を抱きしめる。「まだ日が出てるじゃないか。妖怪が夜行性で何が悪いっていうのさ。僕は断固闘うからな」

「都合のいいときだけ妖怪ぶるなよ。俺におやつやゲームを買わせるときは『子供の特権だ』とか言うくせに。大体、妖怪歴で考えればおまえが一番浅いんだからな?」

 彼が俺と入れ替わりに座敷童子になったのは十七年前。一方、俺が座敷童子だった期間は六十年ほどあるらしい。

「それはそれ。そもそもあんたが騒がしいせいで眠りが浅いんだよ? さっきもどたばたしてたようだし……。とにかく僕は今死ぬほど眠いんだ。後にしてくれ。夜なら付き合ってあげるから。墓場で運動会してあげるから」

「夜は俺が寝てるんだよ! どうせ朝までテレビでも見てたんだろ。あのな、さっき事務所で和紗さんと話してたんだけど、途中で急に意識がなくなって――」

 もはやクレームには耳を貸さず、一方的に彼に事情を語ることにした。

 のどかな昼下がりのコーヒータイムに、和紗さんの口から飛び出た仰天の告白――彼女に「好きだ」と言われたことは一応秘密にして――俺が元座敷童子だというのは本当か、という質疑の流れについて。

 それに答えようとした途端、腕の先から半透明になって意識が消失。次に気付いたときには別の場所に転移していたこと。そこで出会ったハクタクという謎の人物と、彼女が語った内容について。

 全てを聞き終えた童子は、気怠げに吐息を放ちながら一言、

「普通に夢でしょ」

「そうかもしれないけど、そうじゃないかもしれなくて」

「はっきりしないなぁ」

 寝転んだまま、面倒げに彼は眉をひそめた。

 まあ気持ちはわからなくもない。俺だって寝起きにいきなりこんな話をされたら、真剣に取り合おうとはしないだろう。寝惚けてただけだろと笑い飛ばしてしまう可能性もある。

 ただ、童子にも少し引っ掛かる部分があったらしく、

「……さっきさ、和紗が僕の手紙を読んだって言ってたね。それは本当かい」

「ああ。童子神社の掃除をしたときに見つけたんだって」

「ふうん」

 何やら怪訝な顔つきをして、童子はようやく上体を起こした。

「確かに、手紙は童子神社に隠してたよ。だけどすぐに見つかるような場所じゃないはずだ。誰かが故意に目に付くところに置いたとしか考えられないけど、この僕以外にそんなことができるやつなんて」

「なら、あのハクタクってひとが」

「ハクタクねぇ」

 童子は肩をすくめ、鼻から長く息を吹いた。

「それって確か、九つの目を持つ神獣の名前だよね。顔に三つ、体の両側に三つずつ目があるんだっけ? ……でも先生が見たやつは、喪服を着た女で、お面に目を描いてただけなんだろ? 胡散臭いことこの上ないね」

「そりゃ俺も怪しいと思ったけど、本人がそう名乗ったから……。それにここは遠野だし、今までのことを考えれば何が現れても不思議じゃない気がして」

「いくら妖怪の聖地でも、ハクタクなんて見たこともないよ。というかさ、そもそもハクタクは妖怪じゃないだろ? 先生の方が詳しいんじゃないの?」

「まあ、そうだけど」

 童子は何事においても博識だが、妖怪の知識のみに限定すれば、妖怪小説家である俺に多少のアドバンテージがある。

 彼の言う通り、ハクタクを妖怪にカテゴライズすることは適切とは言えない。どちらかといえば神様に近い存在だ。

 森羅万象に通じる獣として知られ、人語を解するだけでなく人界の幅広い知識をも有し、徳の高い為政者のもとに現れては救世の知恵を授けるといわれている。そんな伝説上の存在が、どうして俺の前に現れたのだろう。

「大体、そいつさぁ」

 こみ上げてくる欠伸を噛み殺すように童子は言う。

「本当の迷家荘の主だって名乗ったって? 何だよそれ。守り神であるこの僕をさしおいて、随分と不遜な物言いじゃないか」

「いや、迷家荘じゃなくて、マヨイガって言ってたんだ。俺の聞き違えじゃなければだけど」

「へえ。そいつはまた奇妙な話だ」

 童子は首を捻った。

「マヨイガねえ。それなら有り得るかもしれないけど……。何にせよ、僕が存在すら知らないなんて有り得ない。これでも十七年くらいここに棲んでるんだから」

「だよな」

 以前に聞いた話によれば、座敷童子とは家屋を依代とした付喪神の一種だそうだ。さらに代替わりを繰り返して記憶を継承する妖怪でもあり、当代の座敷童子である彼は歴代の知識を全て受け継いでいるらしい。その彼が知らないと言うなら、なるほど本当に夢であったのか、もしくは――

「一番有りそうなのは、ハクタクを名乗る別の妖怪に化かされた、ってとこだね」

「やっぱりか」

 相談するうち、俺もそうではないかと思うようになっていた。

「また変なのにちょっかい出されてるのかい」童子は薄く笑う。「酒吞童子の騒動が終わったばかりだってのに、飽きないよねぇ」

「酒吞童子か。……あいつ、元気にしてるかな」

 口にすると不意に、頭に痩身の鬼王の姿がよみがえった。

 つい一月前のことだ。この迷家荘で、来年夏頃に公開が予定されている『まれびとの花宿』という映画の撮影が行われていたのだが、酒吞童子はその主演女優の式神に身をやつしていたのである。

 彼は一悶着も二悶着も引き起こしてくれたのだが、やがて千年にも及ぶ因縁に決着をつけ、愛しい人の待つ場所へと戻っていった。今は東京で二人仲良く暮らしているはずである。

「はは。先生といると飽きないよねぇ、本当に」

 童子は愉快げに表情を緩める。

「ともかく、話の続きはまた今度ね。僕はまだ寝たりないから、もう一度眠るとするよ。なんか最近、体がだるくってさ」

 言葉の最後の辺りは、消え入りそうなほど弱々しい声になっていた。布団をたぐり寄せようとする彼の姿に、本当に調子が悪いのではと俺は心配になる。

「大丈夫か? 俺の毛布、一枚貸そうか?」

「ああ、悪いけど頼むよ。……やっぱり風邪かな」

「妖怪のくせに風邪なんかひくなよ。ほら毛布」

「ありがとう」

 手渡した毛布に童子は顔を埋め、ほっこりと息を吐きながら体を横たえていく。

「……じゃあ、おやすみ」

「ああ。また後でな」

 俺はそっと襖を閉めた。童子が素直に礼を言うなんて、やはり重篤かもしれない。妖怪になったとはいえ、彼は元来、病弱な体質なのだ。

 結局、ハクタクの正体については何もわからなかったわけだが、そもそもまだ情報が少なすぎる。これ以上考えたところで答えは出ないだろう。

「さて。俺たちも、もう一眠りするか」

 襟巻きになった空太の頭を撫でると、彼は喜びに目を細め、猫のようにぐるぐると喉を鳴らした。

 毎度のことながら、知らぬ間に妖怪絡みのトラブルに巻き込まれてしまったようだ。つくづく遠野とは不思議な場所だと思う。

 しかし、これまで幾多の事件を乗り越えてきた俺には、相手が何であれ、最後には何とかなるだろうという自信があった。

 いや、俺一人では対処に困るかもしれないが、ここにはみんながいる。空太や童子だけではない。温泉好きの河童や、頼りになる妖狐もいるのだ。俺たちみんなで知恵を出し合えば、解決できない問題などないはず。これまでと同じように。

 妖怪が引き起こす事件なんて、もはや珍しくもない。この遠野の地で生活していく以上、俺が迷家荘の番頭を務める以上、これから先もどたばた賑やかに日常は続いていくのだろう。

 ――そんなふうに思っていたのだ。まだ、このときまでは。



 やがてチェックイン受け付け時刻となり、午後五時過ぎに最初の宿泊客が迷家荘の門をくぐった。その瞬間から俺の、番頭としての時間が始まる。

 迷家荘の従業員は総勢五名。その中で接客係を務めるのは俺と和紗さんの二人だけなので、客数が多いと夕食時にはてんてこまいになる。まず若女将がお客さんを部屋まで案内し、到着時間と要望に合わせて夕食時間を決める。それを俺が板場に伝達し調理をオーダー。料理が出来上がれば配膳をし、食事中には飲み物の注文を受け付け、

合間に手の空いている方が客室の布団を敷き、時間に余裕ができればフロントに戻ってルームサービスの対応などもしていく。

 年末年始は旅館にとって一番のかき入れ時だ。これからもどんどん宿泊客は増え、忙しくなっていくだろう。そう考えると大変だなとも思うが、少し楽しみでもある。いつの間にか俺も、一端の旅館従業員になったものだ。

 やや興奮状態のまま雑多な仕事に追われるうち、あっという間に消灯時間となり、自室に戻ると電気もつけずそのまま布団に入った。

 それでも翌朝五時には目覚まし時計が鳴る前に目がさめ、分厚い防寒着を羽織って門前の掃除と雪かきに出て行く。

 朝一の仕事を終えると、旅館に隣接する白沢家の食卓でまかない朝食を頂き、宿泊客への朝食の準備と配膳。食事が始まったのを見届けてから客室に入り、布団の片付けと設備のチェック。それが終わればチェックアウトの時間を待つのみである。

「――ありがとうございました。行ってらっしゃいませ」

 最後の宿泊客をお送りするために門前まで行き、和紗さんと二人並んで頭を下げた。

この瞬間のお客さんの笑顔と、「また来ます」という言葉が何より嬉しい。

 お客さんの背中がバス停へと続く下り坂をゆっくり進んで行く。それが見えなくなるまで見送ったあとで、

「……あのう、緒方さん」

 和紗さんが声をかけてきた。何やら恐る恐るといった様子である。

「昨日の、お昼のことなんですけど」

「ええ。ああ、はい」

「あの、わたしたち、事務所でお話ししてましたよね、二人で」

「はい。確かに」

「その……あのときわたし、もしかして、変なこと言いましたか? ……変なことというか、何というか、告白っぽい話というか」

「う……。まあ、はい」

 言葉に迷いながらも、はっきりと俺は首肯した。

 正直に言えば、有耶無耶のままにしておきたい気持ちもある。しかし和紗さんの身になって考えると不安になるのも仕方がない。正体不明の何かによって強制的に眠らされ、記憶が曖昧になっているのだ。原因を知りたいと思うのが当然だ。

 しかも、俺とあんな話をした直後のことなので、妖怪の仕業だと考えるのも普通。ここでしっかり説明しておかねば、怪異への苦手意識に繋がりかねない。そんなことを思案していると、

「す、すみません。わたし何だか、いろいろ早まっちゃったみたいで」

 彼女の顔は、はっきりと紅潮していた。もちろん寒さのせいではないだろう。

「あれはその、違うんです」

「あ、そうなんですか?」

「い、いえ、違わないんですけど、そういう意味で言ったんじゃなくって」

 彼女は両手で顔を覆い隠し、何やら言い訳じみたことを言い始める。

「あれはその、何と言いますか、決意表明みたいなものだったんです。だってその、自分の気持ちも明らかにせずに、一方的に緒方さんの事情を詮索するだなんてズルいって言うか、不誠実というか、フェアじゃない気がして」

「……ああ、はい。なるほど」

 生真面目な彼女らしい発言に、少々不謹慎ではあるが、頬が弛んでくる想いだ。

 やはり和紗さんは、いい人だ。清廉で可憐で、愛すべき人だなと思う。

 彼女の目が、指の隙間からちらりと俺を見る。にやけていることがバレてしまっただろうか。そう思った次の瞬間、和紗さんはすとんとその場にしゃがみ込んでしまった。

「ど、どうしました? 大丈夫ですか?」

「違うんです! あのときは、驚かせちゃったかもしれませんけど、深い事情があるってわかってますから! 簡単に話せるようなことじゃないってことも」

「和紗さん……」

「わたし、知りたいって言いましたけど。それは本心ですけど、急いではいません。話せるようになったら話して下さいってだけで……緒方さんの秘密を暴きたいんじゃなくて、黙ってるのが辛いんじゃないかって、そう思ったんです」

「…………ありがとうございます」

 彼女の思いやりに、今度は不意に涙腺が弛んだ。

 確かに俺の中でも、まだ整理がついていない事柄だ。俺自身がどうしたいか、座敷童子がどう思っているのかもまだわからない。全てをちゃんと処理した上でなければ、彼女に真実を告げることはできないだろう。だからこう答える。

「いつか必ずお話しします。すみません」

「…………はい」

 するとはにかんだような微笑を見せながら、和紗さんはゆっくり腰を上げた。

「あの、ついでで構わないんですけど」

 彼女は何やら、顔の前で指先を擦り合わせながら、

「そのときにできれば、もう一つの方の返事も頂けると、嬉しいかなって……」

「もう一つって」

 言葉の意味を理解した瞬間、俺の頭も沸騰状態になる。

「……も、もちろんです。必ず」

 それだけ言って俺も顔を逸らす。完全に油断した。きっと燃え尽きる直前の線香花火みたいに真っ赤になってしまっていることだろう。

 ともかく、彼女の優しさのおかげで、当面の間は答えを保留できたらしい。

 少々胸を撫で下ろしていると、不意にあのハクタクという人物が発した警告が脳裏を過ぎった。

 和紗さんにこれ以上秘密を打ち明ければ、旅館に大いなる災いが訪れる。そういう意味にもとれる発言をしていたが、保留ならそれにも抵触しないだろう。……まあ、あれから一日経って、未だに夢かどうかグレーゾーンの認識ではあるのだが、用心にこしたことはない。

「じゃあそろそろ、事務所に戻りましょうか」

 鼓動を宥めるように、胸の前に手を当てて彼女が言う。

 はい、と俺は笑顔で応え、二人並んで踵を返したところで、

「――た、大変だ! 緒方くん!」

 迷家荘の支配人、白沢絃六さんが、何やら慌てた様子で玄関からこちらに駆け寄ってきた。白髪交じりの髪を角刈りに揃えた強面の偉丈夫にも拘わらず、何やら呼吸も不安定なほどに取り乱している。

 まさか話を聞かれていたのでは、と一瞬心配になったが、どうやらそんな様子でもないらしい。「どうしたんです」と訊ねる俺に、初老の域に差し掛かった大黒柱は震える声でこう返した。

「お客さんが書き置きを残されてて……。お、温泉が、朝から止まってしまっているらしいんだ!」

「温泉が……? またですか」

 思わず「また」と言ってしまって口を押さえる。俺が知る限り、一昨年の春先にも温泉の湧出が止まったことがあるのだ。

 迷家荘自慢の露天風呂は、百パーセント源泉掛け流しである。江戸時代よりも以前から自然に湧出している温泉を使用しており、旅館内には汲み上げ施設や循環器などは存在しない。もし地下水脈に何らかの異変が起きたとすれば、温泉が止まってしまうという事態も往々にして有り得るのである。

「わかりました。すぐに河童に言って、原因を探ってもらいます」

 絃六さんを安心させるため、努めて冷静に俺は声をかけた。

 するとあちらは「頼む」と頭を下げてすぐ微笑を浮かべ、「緒方くんがいてくれて本当に良かった」と呟くように言った。

 実際、以前温泉が止まった際には、河童がすぐさま解決してくれたのだ。

 いや、正確に言うと、これまで何度か同じ事態になったことがあり、その都度人知れず河童の手を煩わせていたらしい。

 迷家荘は妖怪でも分け隔てなくくつろげる、彼らにとっても大切な宿だ。だから持ちつ持たれつというやつで、あちらもいろいろと助けてくれている。施設の老朽化に伴う修繕作業なども、毎年湯治にくる天狗が知らぬ間にやってくれているくらいだ。

 ともかく、温泉のことなら河童を頼れば間違いはない。絃六さんを宥める役は和紗さんに任せて、俺はすぐに自室に戻ることにした。

 あの世俗に染まった河童は、この時間なら部屋でワイドショーでも見ている頃か。

 待てよ。そういえばここ数日、彼の姿を見ていない気がする。ひょっとしたら何かの会合にでも顔を出しているのかもしれない。まあどちらにせよ、座敷童子に聞けば行方はわかるだろう。そう思いながら部屋のドアを勢いよく開く。

「おい河童。河童は……いないのか?」

 返答はなかった。

 がらんとした部屋の中には、小さなこたつが一つと、壁際に畳まれた布団が置かれているだけ。照明もテレビも消えており、いつもならこたつ布団の上で丸くなっている空太の姿もない。

 が、出不精の座敷童子はどこへも行かないはずだ。いつも通り押し入れの中で眠っているだろう。まだ体調不良を引き摺っているかもしれないが、今は非常事態である。悪いが起こそう。そう考えつつ襖を開けたのだが、

「童子? 河童がどこに行ったか知らないか」

 そこには誰もいなかった。

 いや、それどころか、いつも押し入れの中に広げられている布団一式、全てがなくなっているようである。

「……座敷童子? どこだ? まさか寝床を変えたのか? 昨日は安眠妨害して悪かったよ。でも一大事なんだ。返事をしてくれ」

 押し入れを隅々まで見回す。さらに天井部の戸板を持ち上げて屋根裏まで見てみたが、どこにもいない。それどころか、座敷童子がここにいたという痕跡が何一つ見当たらないのだ。

 さすがにこれはおかしい。いなくなったと言うよりは、最初から存在すらしていなかったような……。

 そのときふと、目の前を砂塵が通り抜けたように、一抹の不安が胸を過ぎる。

 次の瞬間、俺の全身から一気に汗が噴き出した。

「……座敷童子! 河童! 誰かいないのか!?」

 焦燥感に駆られ、部屋の隅々まで捜し回る俺。

 こたつ布団を捲り上げてみても、冷え切った暗黒が内部には広がっているだけだ。誰かが暖をとっていた形跡もない。入口の脇に置かれた冷蔵庫も空。空太専用おやつ置き場も空のまま。窓の外にも影一つ見えない。

「――なあ、緒方くん」

 不意に、背後から心配げな声がした。

「河童様、見つかったかい? 温泉、何とかなりそうかな」

 部屋の入口から、絃六さんがこちらを覗き込んでいた。その表情が物語っている。あちらも気が気ではないのだろう。

 何故なら、今日だって宿泊予約は埋まっている。こんな状態で露天風呂が使用できないとなれば、遠路はるばる来てくれるお客さんたちに申し訳が立たないし、迷家荘の評判にも傷がつく。

「あ、あの、絃六さん」

 額からこめかみを伝って汗が流れ落ちるのを感じながら、それでも頭をフル回転させて、俺は言った。

「すみません。ちょっと俺、カッパ淵まで行ってきます!」



 カッパ淵とは、常堅寺という寺の裏手にある小さな川のほとりのことで、遠野では一、二を争うほど有名な観光スポットだ。市街地にほど近い位置にあるにも拘わらず、昔から河童の目撃情報が後を絶たない場所として知られている。

 絃六さんに事情を説明し、取り急ぎミニバンを飛ばしてカッパ淵にやってきた俺だったが、しかしその思惑は空振りに終わることになった。

 夏場にはあれだけいたはずの河童たちの姿が、今は一匹たりとも見つからないのだ。

 そういえば以前、聞いたことがあった。寒くなるにつれ河童たちは次第に上流へと移動していき、最後には冬眠のように洞穴にこもってしまうのだと。

「どこの洞穴か聞きそびれてたな……。くそっ」

 当てが外れて途方に暮れる俺。

 しかしその裏側で、もう一つの可能性が頭をもたげ始める。

 待て。

 俺が河童を見たのは、いつが最後だ?

 それどころか……。妖怪自体を見たのは、いつが最後なのだろう。

 昨日の夕方、仕事に出る前に一度、押し入れの襖ごしに座敷童子と言葉を交わした。「大丈夫か?」と俺が訊ねると、彼は咳き込みながら「平気だよ」と返した。

 それが座敷童子と話した最後だ。河童とは恐らく三日前に一緒に露天風呂に入ったのが最後。妖狐は一週間前に高天原へ帰るところを見送ったきり……。

「もしかして」

 知らず、口から言葉がこぼれ落ちた。

 迷家荘に住むようになって、ずっと妖怪密度の高かった俺の部屋には、もはや彼らがいた痕跡は何一つ残っていない。がらんとした部屋の光景が頭に浮かぶ。

「あいつらがいなくなったんじゃなくて、俺が見えなくなったんじゃ――」

 嫌な予感が膨らんで、胸を内側からどんどん圧迫してきて、呼吸さえ困難になる。

 一度そう考えてしまえば、もう止まらなかった。辺りをきょろきょろと見回すうち、焦燥感に駆られて足がひとりでに動き出す。

 どこか。どこかに妖怪はいないのか。

 この重苦しい不安を払拭したい。その一心で車に戻り、俺は心当たりを一つずつ当たっていくことにした。これまで妖怪と過ごした思い出の地をだ。

 焦るほどに雪はどんどん強くなり、次第に吹雪のようになったが、それでも縋るような気持ちで車を走らせる。早池峰神社。薬師岳の登山道。六角石神社。石上神社。続石――。

 なのに。時間が許す限り探し続けたというのに。

 結局その日、俺は妖怪たちの影一つ、見つけ出すことはできなかったのである。