その時が来たのだと感じていた。

 放たれた『願い』を受け止めて、よみがえらせて、発現させる時。

 神様といっても万能ではない。

 御伽噺のように望んだこと全てを実現できるわけではなく、叶えられるのは想いによって力添えをされたほんの僅かな事象だけだ。

 そこから考えると、今回の『願い』は少しばかり荷が重いように思われた。

 いやいや、と真っ白な部屋の中で首を振る。

 それでは願いを司る猫神の名がすたる。

 どんな時にでも、どんな状況であっても、その相手の『願い』を叶えることこそ、自分たちに与えられた役割だ。

 考える。

 果たしてどうすれば、今回の『願い』を遂行することができるであろうか。

 そして一つの結論に達した。

 たとえそれがはかない泡沫のようなものであっても。

 目覚めれば消えてしまう胡蝶の夢であったとしても、為し遂げる義務があるのだ。

 そのために、利用できるものは少しばかり利用させてもらうとしよう。

『縁』があるものに、一方的であるが、協力してもらおう。

 そう決めて、白い部屋から飛び出したのだった。




**


 そこは、夢のような場所だった。

 端が見えないほどの広大な敷地の中、あちこちに不思議な形状をしたオブジェが立ち並んでいる。

 塔、巨人、鐘、太陽、倒れ伏す人間、捻れた石。

 その中の、たくさんの大きなシャボン玉が寄り集まったような場所で、女の子は尋ねた。

「これって、夢の中なの?」

「どうなのであるかな。夢と現実とは表裏一体。どちらが夢でどちらが現実であるのかは、危ういものなのである」

「なにそれ。よく分かんない」

「ふむ、お嬢にはまだ難しかったのであるか」

「でもここ、とっても楽しい。何だかきらきらしてる」


『ひとり旅の神様第二巻 古木誠一郎』




 青と白のツートンカラーが特徴的な電車が、朝礼のように整列して規則正しく並んでいた。全部で七面五線ほどあるホームには、親子連れやカップル、女性のシングルや年輩のグループなどの大勢の人たちが行き来している。

 小田急線新宿駅。

 一日におよそ三百五十九万人の人たちが利用するという、都内でも三本の指に入る巨大なターミナル駅だ。小田急線だけでなく、JR各線、東京メトロ、京王線、さらに地下通路で繋がっている西武線など、片手で数え切れない数の路線が走っている。またその入り組んだ通路の複雑さから、東京の三大迷宮の一つに数えられている場所でもある。

「ふう、着いた着いた」

 一月上旬の午前十一時。

 私はその新宿駅のホームに、駆け込んでいた。

 傍らにはバッグとキャリーケース。

 これから十一時十分発の特急ロマンスカー『はこね19号』に乗って、ある場所へと〝ひとり旅〟に向かうのだ。

「よかった。ちょっと危なかったけど、何とか間に合いそうかな」

 視線を上げると、ホームにはちょうど入ってきたロマンスカーの姿。

 これがそのまま折り返し運転となるのである。

「ちょっとではなくかなりギリギリであろう」

 と、そこでバッグの中から声がした。

 ごそごそと音がして、毛並みのいい顔が飛び出す。

「本来ならば三十分前に到着して、お茶でも飲みながらのんびりと待つと言っていたではないか。それをあんなに駅弁を買い込むから時間がなくなるのである。まったくあいかわらず食い意地が張っている……」

「えー、いいじゃない。せっかく京王百貨店で『元祖有名駅弁と全国うまいもの大会』をやってたんだから。どれにしようか目移りしちゃって、つい」

「目移りしたというわりにはしっかり四種類も買っていただろうに」

 この口の減らない同行者は、猫のニャン太。

 見た目はどこにでもいそうな普通の黒猫なのだけれど、実はこう見えて旅を司る猫神様……であるらしい。らしいというのはそれが自称であることにくわえ、言葉を喋るという点を除けば、とても神様なんて高尚な存在には見えないからなのだけれど。

「……お主、今、何か失礼なことを考えていなかったか?」

 ニャン太が不穏な声でジロリと睨んでくる。う、変なところで鋭いのよね、この猫神様。

「……考えてないよ。うん、ぜんぜん」

「目が激しく泳いでいるのだが……」

「いいのいいの。細かいことは気にしない。あ、清掃が終わったみたい。ほら、乗ろう」

「むう……」

 釈然としない表情を浮かべるニャン太。

 この吾輩な猫神様と、今から半年以上前に梅雨明けの鎌倉でひょんなことから出会い、それから私はひとり旅の魅力にはまってしまったのだ。それはもう初めてのコースでハイスコアを叩き出してしまった世のお父さんがゴルフにのめりこむのと同じくらいにどっぷりと。それ以来時間があればひとり旅について調べて、休みができる度にこうしてひとり旅に出ているのである。

「それで、このろまんすかーとやらで今回はどこに行くのであるか?」

「そんなの決まってるって。小田急小田原線の終点で、日本でも屈指の有名な温泉地。新宿から僅か一時間半の桃源郷。そう、それは――」

 座席のシートポケットに挟まっているフリーペーパー『るるぶFREEロマンスカー箱根 小田原』を目にしながら、私はこう口にした。


「――箱根よ!」



「温泉に行きたい……」

 一週間前。

 喫茶店の触り心地のいい木製テーブルに突っ伏しながら私の口から出ていたのは、そんな言葉だった。

「温泉に行って、ふやけるまで露天風呂とか炭酸泉とか岩盤浴とかに入り倒して、溺れるくらいビールが飲みたい……」

 頭の中にホワンホワンと温泉のイメージ図が浮かぶ。

 湧き上がる湯煙、山裾の向こうに広がる雄大な景色、疲れたお肌に染み入る熱いお湯、そしてお風呂あがりの黄金色の液体。ああ、極楽よね……

 半笑いを浮かべながら頭の中で理想郷を思い描いていると、ふと頭上から声がかけられた。

「……景気の悪い顔でブツブツと気味の悪いことを口にするのはやめろ。営業妨害だ」

「景気の悪い顔って何よー」

「鏡を見てないのか? 目の下のクマがすごいぞ」

「う……」

 カモミールのハーブティーを出しながらそんな失礼なことを言ってきたこの人物は、北条という。会社の近くにあるお気に入りの喫茶店『Dieu de voyager seul』の店長で、三十代半ばくらいの彫りの深い顔立ちをした男である。ちなみに口と性格がかなり悪い。知り合ったのは一年ほど前だけれど、実は亡くなった私の父親の友人であったことも最近になって判明した。さらには私のお気に入りのホームページ『ひとり旅の神様』の管理人であったことも。とはいえそれ以外のことはいまいちよく分からない、謎の男である。

 私は顔を上げて答えた。

「だって、忙しいんだもの。心を亡くすと書いて忙しいとはよく言ったものだわ……」

 ここのところ仕事が立てこんでいて、あまり寝ていない。お肌のゴールデンタイムと呼ばれる二十二時~二時の間もパソコンと睨めっこしていることがほとんどだ。このままじゃお肌の曲がり角を通り越して袋小路までまっしぐらになってしまう。……それにここ最近、仕事に関することで少しだけもやもやとしていることもあったりなかったりで……

「忙しいのはいいことだろう。それだけ社会から求められているということだ」

「む、この昭和生まれの社畜め……」

「お前も昭和じゃないのか?」

「いやギリギリ平成ですから!」

 失礼な。それは平成も一桁台前半の生まれだってことで部下の三波からは旧世紀の遺物扱いされてますけど!

 気の毒なものを見る目でこっちを見ていた部下のことを思い出して心の中で荒ぶっていると、北条がため息を吐いた。

「……だったら、ここはどうだ?」

「え?」

「温泉、行きたいんだろう。それなら箱根に知り合いがやっている旅館がある。週末にでも行ってきたらいいんじゃないか」

 北条が差し出したスマホの画面に映っていたのは、生い茂る木々の中に建つ古びた建物だった。いい感じに鄙びていて、いかにも歴史のありそうな趣きあるたたずまいである。

「え、ここ? ここに行っていいの?」

「ああ。こう見えて創業四百年の老舗温泉旅館だ。その気があるなら、話は通しておいてもいい」

「あるある! あります!」

 即答。

 こんな素敵な雰囲気の老舗温泉旅館なんて、ニャン太を質に入れてでも行かない手はない。

「それに老舗温泉旅館なら取材にも使えそう」

 頭に浮かんだのは、私が勤めている出版社で担当している連載のことだった。『編集Kのひとり旅の街角』。不定期連載だが、ありがたいことに評判は悪くない。取材という名目があれば、大手を振って温泉に行けるというものだ。

 ……よし、決めた。週末は温泉に行こう! 箱根に行こう!

 そう決めたら、何だか心の奥からもりもりと力が湧いてきた。

「……うん、何か元気出てきた。これで週末まではがんばれる気がする」

「現金なやつだな……」

「だって、温泉ですから」

 何と言われようと心がワクワクと沸き立つものは仕方がない。

 温泉にはそれほどの癒しとパワーがあるのだ。

 さ、そうと決まったらさっそく準備を始めないと!



 そういうことがあって、今回の目的地は箱根に決まったのだった。

 箱根といえば行きたい温泉地ランキングで第一位の常連であって、温泉地の代名詞のような場所だ。その中の、強羅温泉に目指す老舗旅館はあるらしい。ふふ、楽しみだなあ。

 とはいえそれは到着してからの話。

 今は今で、楽しむべきものがある。

「駅弁、駅弁♪」

 特急列車の楽しみといえばやっぱり駅弁。今回は新宿の京王百貨店で『元祖有名駅弁と全国うまいもの大会』が開催されていたということで、少し奮発して四種類ほど買ってきてしまった。ついでに缶ビールも。簡易テーブルの上に置かれたビニール袋から幸せの匂いがして、思わず笑顔になってしまう。

「ふふふ、どれから食べようかなあ」

「……こんなに買ってきて、到着するまでに食べきれるのであるか?」

「え? そんなの余裕でしょ。一つ十分もあればぜんぜんいけるし」

「…………」

 深刻な面持ちで黙りこんでしまったニャン太を横目に、鼻歌を歌いながらビニール袋を開く。

 今回買ってきたのは、西明石駅淡路屋の『金色のひっぱりだこ飯』福井駅番匠の『黄金のウニ・かに合戦』京都駅立鮮調進なかがわ『黄金のはもめし』姫路駅の『黄金の穴子一本寿司』の四つだった。吟味して吟味して、黄金の弁当対決と称された四つを選んだのだ。

 どれから手を付けようか迷ったけど、最初は『黄金のはもめし』からいくことにする。

「いただきます」

 箸を持って手を合わせて、ゆっくりと蓋を開ける。まず目に飛びこんできたのは、雪のように真っ白なハモの身だった。ハモには添付のタレと食用金箔をかけて食べるようになっており、金箔には創業三百余年の『堀金箔粉』の食用金箔を使用しているとのことだった。金箔が振りかかり車窓からの光でキラキラと輝くハモの身を口に運ぶ。うわ、ぷりっぷり。肉厚で弾力があり、ハモ特有の骨っぽさは微塵も感じられない。さらには濃いめの味つけのご飯が、さっぱりとしたハモの身との相性抜群である。付け合わせの柴漬けも美味しい。平らげてしまうのに五分もかからなかった。

「よきかな……」

 思わず万福の言葉が漏れる。これだから駅弁はやめられない。他の三つもどれもそれぞれの特徴が出ていて、これ以上ないというくらいの至福の味だった。うーん、幸せ……

 満腹になったお腹を抱えて、シートにもたれかかる。

『はこね19号』は新宿から、町田、本厚木、小田原を経て、およそ一時間半ほどで箱根湯本駅に到着する。缶ビールを飲みながら車窓の風景を眺めていると、あっという間だった。

 終点の箱根湯本駅で、ロマンスカーを降りて箱根登山鉄道に乗り換える。

 箱根登山鉄道は、赤い車体が目を引く、全体で十~十五メートルほどの短い車両だった。何でもカーブの多い山の中腹を走っているため、あまり車両が長いと脱線してしまうことからこうなっているのだという。

 四人がけの座席の窓側に座ってトートバッグをヒザの上に置くと、すぐに電車は動き始めた。

 ゆっくりだけど力強い走り。最初は箱根湯本の温泉街が見えていたけれど、トンネルを抜けてしばらくすると、一気に視界が開けた。都会では見られない山々と渓谷の光景が車窓の向こうに現れ始める。

「すごいすごい! ほんとに山の中を走るんだあ……」

「山肌から湯気のようなものが出ているのであるな」

「ほんとだ、きっとあれは温泉の蒸気だよ。うーん、温泉に近づいてるって気分になってきた!」

「吾輩も温泉に入れるのであろうな?」

 バッグから顔を出したニャン太といっしょに、興奮しながら窓の外の景色に目を奪われる。この景色を見ることができただけでも、ここまでやって来た甲斐があるというものだ。

 途中でスイッチバックという、険しい斜面を登坂、降坂するため折り返し進むように線路が敷かれている箇所を何回か挟み、のんびりと揺られることおよそ四十分。終点の強羅に到着した。

「んー、着いた!」

 強羅駅はそれほど大きくはなかった。だけどその狭い構内に多くの観光客――主に外国人観光客がひしめいている。改札の右手には早雲山方面へと続くケーブルカーがあり、さらにその終点にはロープウェイの駅もあるけれど、それはひとまず置いておいて、駅舎の外に出る。

 ええと、確か送迎の車が来てくれているはずなんだけど……

 どれだろう。駅前の小さなロータリーにそれらしい車が何台か停まっていて、見分けが付かない。北条から教えてもらった旅館の名前を探していると、ふいに後ろから声をかけられた。

「あの、神崎さん、ですか?」

「あ、はい」

 振り返ると、そこには着物姿の小柄でかわいらしい女の人が立っていた。

 見たところ私と同じくらいの歳だろうか。女の人は着物の帯の前で手を揃えると、にっこりと笑って言った。

「あ、やっぱりそうでしたか。はじめまして、『強羅翠光楼』で若女将を務めております緑川若子と申します。ようこそ、強羅へ」

「あ、はじめまして、神崎です」

 慌てて挨拶を返す。若女将さんが直々に迎えに来てくれるとは思わなかった。

「東京からだと遠かったでしょう。どうぞ、こちらへ」

「あ、すみません」

 横にいた運転手らしい年輩の男の人にキャリーケースを渡して、『送迎』と書かれたワンボックスの車に乗り込む。

『強羅翠光楼』は、強羅駅から車で五分ほど走ったところにあった。

 山を少し登ったところにあるためか、周りは深い緑に囲まれていて、鳥の声とわずかに響く川のせせらぎ以外に音は聞こえない。駅前のいかにも観光地といった雰囲気とは異なり、保養所とか別荘地とかがありそうな静かで落ち着いた環境だった。

「こちらになります」

 その中でも、ひと際緑が深まったひっそりとした場所に『強羅翠光楼』はあった。

「うわぁ……」

 車から降りると、思わず声が出た。

 目の前にあったのは、まるで大正時代にタイムスリップしてしまったかのような光景だった。

 見上げるほどに立派な高楼建築、それに見合ったレトロな玄関と、そこに飾られた木象嵌の扁額。あちこちに細かく刻まれた傷や汚れでさえある種の装飾のように見えてしまう。ただそこにあるだけで、積み上げられてきた歴史の重みに圧倒されてしまう気がした。

「すごいですね、言葉にならないです……」

「ありがとうございます」

 若女将――若子さんが小さく頭を下げる。

「こんなの、初めて見ました。重厚で歴史が感じられて……確か創業百年以上なんですよね?」

「はい。慶長十九年から湯治場として開湯しております」

「慶長……」

 それってどれくらい昔なんだろう? とりあえず日本史の教科書に出てくるくらい古いってことしか分からない。

 目をパチパチとさせる私に、若子さんはどうしてかそこで少しだけその表情を曇らせた。

「確かに歴史と由緒はあると思います。ですが、言ってしまえばそれだけで……」

「?」

「あ、い、いえ、何でもありません。どうぞこちらへ」

 若子さんに案内されて、『強羅翠光楼』の中へと足を踏み入れる。

 建物の中も、外観から想像される通りの風格と落ち着きが漂う造りだった。あちこちに置かれたアンティークの調度品や装飾品が往時の面影を現代に伝え、廊下に敷かれた赤い絨毯がそれらを華やかに彩っている。ほんのりと漂うお香のような匂いも心地好い。歩くと床が少しだけ鳴るのも味だろう。うんうん、これぞ老舗の温泉旅館って感じだよね。

 旅館の中もよく見て回りたかったけれど、ひとまずはチェックインの手続きと荷物の預かりだけをお願いすることにする。

「観光に行かれるのですか?」

「あ、はい。強羅は初めてなので色々と見て回りたいと思って」

「左様ですか。かしこまりました。どうぞ、楽しんできてくださいませ」

 そんな若子さんの声を受けて、ニャン太の入ったトートバッグを手に『強羅翠光楼』を出た。せっかく来たのだから、まずは箱根観光を楽しまないと。



「それで、今回はどこに行くのであるか?」

 バッグから顔を出したニャン太がそう尋ねてきた。

「うん。実は私、箱根って来るの初めてなんだよね。だから、割とオーソドックスでシンプルなプランを用意してみたの」

 そう答えて、スマホに保存しておいた今回のプランを立ち上げる。


*一日目

 START新宿駅

 ↓

 ↓ロマンスカー、箱根登山鉄道でおよそ二時間十分

 ↓

 強羅:まずは旅館にチェックイン。

 ↓

 ↓箱根登山鉄道、徒歩でおよそ十分

 ↓

 箱根彫刻の森美術館:所要一時間半。ここの前に、駅前にあるお蕎麦屋さん「N」で昼食!

 ↓

 ↓バスでおよそ二十五分

 ↓

 星の王子さまミュージアム:所要一時間。星の王子さまの世界観を楽しむ。

 ↓

 ↓バスと徒歩でおよそ十五分

 ↓

 箱根強羅公園:所要一時間半。白雲洞茶苑で点茶をいただく。ソフトクリームも。

 ↓

 ↓

 ↓

 旅館へ


*二日目

 START旅館

 ↓

 ↓ケーブルカーとロープウェーでおよそ二十五分

 ↓

 大涌谷:所要一時間。黒玉子は外せない!

 ↓

 ↓

 ↓

 GOAL箱根湯本駅:ロマンスカーの時間まで駅前を散策。お土産を買う。揚げかまぼこと珈琲ソフトも食べなきゃ!



「……相変わらず、食欲に満ち溢れた計画表であるな」

「え、だって、やっぱりせっかく箱根まで来たからにはできるだけ色々なものを食べたいじゃない」

「それはそうであろうが……まあ、もういいのである。これに関しては諦めた」

「?」

 ため息を吐いたニャン太がバッグの中に潜りこむ。

 よく分からないけど……さ、それじゃあレッツゴー箱根!



 箱根彫刻の森美術館は、強羅駅の隣の『彫刻の森』駅にある。

 強羅駅よりもさらにこじんまりとした駅舎を出て、辺りを見回した。まずは腹ごしらえしなきゃ。ええと、この辺りのはずなんだけど……あった。駅を出て道路を渡った目の前にあるお蕎麦屋さん『N』に入る。ここは石臼で挽く純国産蕎麦で有名なお店だ。

「とろろ蕎麦をお願いします」

 辛味おろし蕎麦と迷ったけど、どちらかといえばオーソドックスなとろろ蕎麦を注文。

 お茶を飲みながら待っていると、すぐに頼んだとろろ蕎麦はやってきた。うん、いい香り。美味しそう。

「箱根はお蕎麦の美味しいお店が多いことで有名なんだって」

「そうなのであるか?」

「うん、箱根には名水が至るところに涌いていて、美味しい水は美味しいお蕎麦には欠かせないから、その水を求めて蕎麦処が集まってくるらしいよ」

 そんなことを話しながら蕎麦を口に運ぶ。うーん、とろろの淡泊な味わいとめんつゆの濃い旨みが香り高い蕎麦に絡み合って、絶妙なバランスを醸し出している。いっしょに頼んだ天ぷらもサクサクで美味しい。うん、よきかなよきかな。ニャン太も器用に前脚を使ってチュルチュルと蕎麦をすすっていた。

 締めの蕎麦湯を飲んで、お腹は八分目。

 ごちそうさまでした、と挨拶をしてお店を出る。

 箱根彫刻の森美術館は、『N』から歩いて五分もかからない場所にあった。

 箱根を代表する有名観光地でもあるここは、七万㎡という広大な敷地の中に、近代・現代芸術を代表する巨匠の名作をおよそ百二十点も展示しているのだという。敷地の大半が屋外で、美術館というよりも公園のような作りであるようだ。

 入り口で入場券と園内マップを受け取り、敷地内へと入る。

「うわ、広い……」

 公園は公園でも、ちょっとした自然公園のようだった。グルリと首を動かさなければ全景が見渡せないほどの広大さだ。ガイドにあった通り、様々な場所にオブジェのような作品が配置されているのが見える。

 マップによると左回りと右回りの二つのルートがあるみたいだった。

 少し考えて、何となく左回りで行ってみようかと決めて、歩き出す。

 するとすぐに、特徴的なオブジェが目に入ってきた。

『しゃぼん玉のお城』

 強化プラスティック製のたくさんの透明なカプセルが蜂の巣のようにいくつも繋げられたそれは、中に入って遊ぶことができる遊具にもなっているらしい。

「わ、面白そう。ちょっと入ってみたいかも」

「中に入れるのは小学生までと書いてあるようであるな」

「あ、ほんとだ、残念」

 大人用のも作ったら、絶対に人気になると思うのに。

 肩を落とす私の横で、ニャン太がキラリと目を光らせた。

「だが……猫は禁止とは書いていないのである。なので代わりに吾輩がお主の分も満喫してくるとしよう」

「あ、ずるい!」

 思わず声を上げる私を尻目に、透明なシャボン玉の中をニャン太が楽しそうにニャフニャフ鳴きながら走り回っていた。いいなあ……っていうか、もう完全に猫だよね。

 しばしニャン太が野性に返るのを羨ましげに眺めてから、『しゃぼん玉のお城』を後にした。

 敷地内には本当に至るところに作品が展示されていた。彫像、オブジェ、ちょっとした絵画。犬も歩けば棒に当たるじゃないけど、ニャン太も歩けば彫像に当たるといった感じだ。とはいえ彫像は本当に色々な種類のものがあって、見ていて飽きない。

 しばらく歩くと、緑とアートに囲まれた空間の中に真っ白な建物があった。マップで確認すると、どうやらあれはピカソ館らしい。

 ピカソってあれだよね、ゲルニカとかで有名な……

 ちょっと興味があったので入ってみることにする。

 館の中は、一階と二階に分かれてそれぞれ展示がされていた。

「うーん、これは……」

「吾輩でも描けそうであるな」

「それはいくら何でも失礼……でもないような」

 私に絵心がないせいかもしれないけれど、どう見ても子どもの落書きにしか見えないようなものも何点かある。ピカソといえば教科書に載るほど有名な画家なのに。とはいえもちろんここでしか見られないような展示もたくさんあって、見ごたえは十分だった。

 ピカソ館を出て、しばらく道なりに進んでいくと、今度はカフェが入った建物があった。そしてその横には何と足湯。どうやら一休みできるらしい。

「足湯だって! 入ろう入ろう」

 足湯はもう、文句なしの女子ホイホイスポットだと思う。

 湯船脇にあった販売機で記念ハンドタオルを購入して、いざ足湯イン。

 足を入れたとたんに、思った以上に身体が冷え切っていたのが分かった。使われているお湯は源泉百パーセントの温泉であるらしく、ここまで歩いてきて疲れた足に、じんわりと染みこんでいく。

「はあ、たまらない……」

「にゃふう……」

 ニャン太も隣でとろけそうな表情で身体をだらりとさせている。湯上がりのおじさんみたいな表情だ。周りにある緑の芝生やアートをのんびりと眺めながら、十五分ほどそこで至福の時間を味わった。お湯からあがる頃にはすっかり身体中がポカポカになっていた。うん、足湯パワー、すごい。

 足湯の余韻を感じつつ、その後も園内をゆっくりと回った。

 あちこちにあるオブジェや作品に感心しながら、最後に地面にうつぶせでべったりと大の字になった『密着』という面白い彫像を見つつ、散策は終了した。園内一周に要した時間はおよそ一時間半。うん、いい運動になったし、充実した時間だったなあ。

「足湯とはいいものであったな……」

 ニャン太がほっこりとした顔でそんなことを言っていた。




 星の王子さまミュージアムは、絵本『星の王子さま』をモチーフとした展示施設だ。

 実は子どもの頃に『星の王子さま』を読んで以来、絶対に訪れてみたいと思っていた場所の一つである。

 昔から、本を読むのは好きだった。時間はいくらでもあったし、本の中では私はいつだって主人公になれた。自由にどこにでも行くことができた。

 きっと〝ひとり旅〟に憧れるのと、根っこのところでは同じ衝動だったのではないかと思う。

 門をくぐり、美しい庭園を抜けると、目の前にはレトロな街の風景があった。『星の王子さま』の作者であるサン=テグジュペリの暮らした二十世紀初頭のフランスの街並みが再現されていて、あちこちに凝った仕掛けが施されている。それだけで胸がわくわくしてテンションが上がる。

「ええと、メインの展示ホールはこの先だから……」

『ひとり旅の神様』で下調べしてきた地図を頭に思い浮かべて、ミュージアム内を進んでいく。

 途中で教会風の建物に立ち寄ったり街並みを見たりしつつ、十五分ほどで目的の展示ホールへと辿り着くことができた。

「わあ……」

 二階建ての展示ホールの中に入るとまず目に飛びこんできたのは、飛行機の原寸大模型だった。これはサン=テグジュペリが郵便輸送に携わっていた頃に乗っていたものなのだという。さらに二階にはサン=テグジュペリが幼少期に過ごした部屋が再現され、彼が生涯手放さなかったというおもちゃ箱も展示されていた。そこは独特の雰囲気があって、まるでその時代に本当に迷いこんでしまったみたいで……うん、すっごく素敵。

 展示はその後のサン=テグジュペリの生涯をたどる形で展開されていった。パイロット時代、配属された砂漠の基地、パリの街、ニューヨークのマンション二十六階へと続いていく。

 さらに展示スペースの奥には映像ホールがあり、そこではサン=テグジュペリと『星の王子さま』についてのエピソードを映像で鑑賞することができた。最期には地中海コルシカ島から偵察飛行に飛び立ったまま行方不明になったという波乱の生涯。映像ではサン=テグジュペリの肉声も聞くこともできた。

「はぁ……楽しかった」

 大満足の一時間だった。

 心から満たされた気分で、私は星の王子さまミュージアムを出た。




 次に向かったのは箱根強羅公園だった。

 強羅駅から、ケーブルカーの線路に並行に続いている坂道を上っていくこと十分弱。

 それなりに急な斜面の途中に、目的地はあった。

「ふう、けっこう大変だったな……」

「そうであるか? そこまで大した坂道ではなかったと思うのだが。運動不足なのではないか?」

「……重い荷物を持ってるからね」

「? 身体についた脂肪であるか?」

「ニャン太だよ!」

 何せこの猫神様、家を出た時からこっち、トートバッグの中に入りっぱなしである。猫を一匹担いでいるんだからそれは重い。他の人にはニャン太の姿は見えないんだから、降りて歩いてくれればいいのに。すっかり運搬生活に慣れきってるんだから、もう。

 心の中で愚痴を言いながら、入り口で入場券を買って園内に入る。

 箱根強羅公園は花の名所として知られている。四季折々の花が咲いていることで有名であり、春になれば桜が咲き誇るお花見のスポットにもなるらしい。

 そこかしこにある花の名前が書かれたプレートを眺めながら、順番に回っていく。

「へえ、ここの噴水公園でデートをすると、恋が叶うっていう噂もあるんだ」

 公園の中腹ほど。今は枝だけの桜の木が立ち並ぶ開けたスペースでは、大きな噴水が日の光を反射してキラキラと輝いていた。

「ほう、お主には縁もゆかりもない話であるな」

「大きなお世話だよ!」

 それはいっしょに来る相手がこの口さがない猫神様である時点で縁があるはずもない。って、私にだってその気になればデートをする相手の一人や二人くらい……一人や二人くらい……あれ、いない、かも……?

 最近接触した異性といえば北条と……副編集長くらい? あとは時々メールを送り合っている鎌倉彫り職人の正臣くんと、あとはいちおう、生物学上はおそらく雄に分類されるであろうこの猫神様だけだ。あれ、よく考えてみると私って、枯れてない……?

「……」

「どうしたのであるか? すっかり花を散らした桜の木に己の姿を投影して、浸っているのであるか?」

「う、うるさいっ!」

「にゃふっ」

 うまいことを言ったというドヤ顔をする猫神様の頭をバッグの中に押し込める。

 まったく、ロクなことを言わないんだから。さあ、次に行こう、次!

 ぶんぶんと頭を振って半ばやけ気味に歩き出す。

 すると視界の端に、あるものが目に入った。

 園内の北側にあるクラフトハウス。

 ここでは陶芸や吹きガラス、フラワーアレンジメントやサンドブラストなどの、様々な工芸体験ができるみたいだった。わ、楽しそう。こういう体験ものって、好きなんだよねえ。

 店員さんに訊いてみると、十分程度の待ち時間でできるということだった。なのでさっそくやってみることにする。どれがいいかな? 吹きガラスも面白そうだしサンドブラストもやったことがないしフラワーアレンジメントも魅力的……悩んだ末に私が選んだのは、陶芸だった。

「うん、作る器に自由に模様を描けるみたいだから、これが一番面白そうかな」

 というのが決め手だった。

 ろくろを回しながら、手びねりで形を整えつつ、器の表面に模様を入れていく。陶芸は初体験だったけれど、やり方はインストラクターさんが丁寧に教えてくれたおかげで、楽しく進めていくことができた。

 ヘラで模様を付ける私の手元を、ニャン太がひょいと覗きこむ。

「それは何であるか? 何やら面妖な生き物であるが……コモドオオトカゲ?」

「ニャン太だよ!」

 もう、失礼しちゃうんだから。どこからどう見てもニャン太……には、見えないかもしれないけど、猫には見える……かどうかも微妙なところだけれど、少なくともほ乳類には見えるはずだ、うん。

 そう自分に言い聞かせて、奮闘すること一時間弱。

「よし、できた!」

 ニャン太模様の器ができあがった。

 全体的にどことなく歪な感じはするけれど、自分ではそれなりに満足のいく仕上がりになった。後日、焼き上げてくれたものを配送してくれるらしい。うん、楽しみ楽しみ。