窓越しに響く強い雨音で目を覚ますと、すぐ傍にミケのおしりがあった。

 ミケは我が家で飼っている三毛猫だ。

 僕らは姉弟のように育った。ミケが姉で、僕が弟だ。ミケは僕が生まれるよりも前から綿貫家の飼い猫だった。両親が共働きで家を空けることが多かったから、この十八年間、僕は親よりも長い時間をミケと過ごしてきたことになる。

 多くの猫がそうであるように、ミケはわがままで気まぐれな猫だった。

 家で一番よい椅子は彼女の特等席だし、安いエサを出すと「別のにして」と皿を突き返してくる。僕が宿題やサッカーの練習をしていると何としてでも邪魔をしてくるくせに、こっちから遊ぼうとすると「今はそんな気分じゃないの」と構ってくれないどころか「邪魔っ!」とパンチをかましてくることもあった。まったく傍若無人である。

 だけど、僕が落ち込んでいるときは「情けないわね」なんて言いながら頬を擦り寄せ、優しく慰めてくれるのだ。

 そんなミケが、僕は大好きだった。

「おはよう、ミケ」

 僕は寝ぼけ眼を擦りながら、枕元で丸くなっているミケに声をかけた。

 しかし、いつもなら面倒臭そうに動くミケのしっぽが、そのときはぴくりともしなかった。

「……ミケ?」

 ベッドから身を起こし、枕元のミケを見つめる。

 様子がおかしい。

 思わず触れたミケの体は、ぞっとするほど冷たかった。揺さぶった。反応しない。ぴくりとも。

「ミケ!」

 すでに両親は仕事に出ていて、家には僕しかいなかった。

 僕は動かなくなったミケを抱えて、昔からお世話になっている近所の動物病院へ向かった。

 院長先生は雨の中ミケを抱えてきた僕を見て、すぐに何事か察してくれた。診療時間前だというのに「入りなさい」と院内に通し、寝間着の上から白衣を羽織って、ミケを診てくれた。

 今までどんな病気に罹っても、先生のところに連れて行けば元気になった。だから、きっと先生なら今回も何とかしてくれる――そんな僕の馬鹿げた願望を、先生はシャボン玉を割るようにあっけなく散らせた。

「恭平くん、ミケはもう亡くなっているよ」

 最近、ミケの調子がよくないことは知っていた。

 昔のようにボールに飛びつくようなことはなくなり、ベッドや椅子でじっとしている時間が増えた。毎日のようにおやつをねだっていた彼女が、エサを残すようになった。もしかしたら――と嫌な予感が頭をよぎったことも一度や二度ではない。

 だけど、こんなに早くその日が来るなんて。

「……嘘だ」

 子供じみた言葉が口から突いて出た。

 嘘であってほしかった。

 せめて嘘だと言ってほしかった。

 だけど先生は何も言わない。言ってくれない。

 胸の内で言葉が膨れ上がっては消えていく。

 結局、僕はわかっているふりをしていただけで、ミケが死ぬなんて考えたこともなかったのだ。

「嘘だ!」

 立ち上がった拍子に撥ね飛ばした椅子が床に叩きつけられて派手な音を立てた。それでも診察台で眠るミケが目を覚ますことはなかった。たとえ体があっても、ミケはもうここにはいない。そんな現実を突きつけられた気がして、僕は呆然と立ち尽くすしかなかった。

 先生は言った。

「私は十年以上も前から君たちのことを見てきた。君の悲しみも理解できるつもりだよ。だけど、猫は人間ほどには長く生きられないんだ。別れの日は必ず来る。ミケはもう二十歳だった。年齢を考えれば、十分に寿命を全うしたと言っていい。本当によく頑張ったよ」

 いつになく穏やかな口調で話し、先生はミケの体をそっと撫でた。

「恭平くん……今はただ苦しくて悲しいだけだろう。それでも、いつの日かミケとの別れを受け入れて、前に進みなさい。ミケもそう願っているはずだ」

 その後、先生から連絡を受けた母親が病院に迎えに来てくれた。

 翌日にはミケを火葬場に連れて行くことになった。葬儀屋はペットの火葬までやっているのだと、僕はそのとき初めて知った。

 焼かれて灰になったミケは、彼女がよく日向ぼっこをしていた庭の片隅に埋められた。少し盛り上がった土の上に、油性マジックペンで名前を書いた石を立てて、彼女の墓は作られた。

 それからしばらく経ったある日、僕は両親に「家を出たい」と伝えた。大学合格が決まったときは電車で通うと言ってあったから、突然のことにふたりも驚いたようだった。

「大学進学を機にひとり暮らしを始めたいんだ」

 両親にはそう説明したけれど、本当は違った。

 実家にいたくなかったのだ。

 家にいれば、どうしてもミケのことを思い出してしまう。我が家で一番よい椅子に誰も座っていないのを見たとき、ご飯をねだる声が聞こえないとき、机に向かって勉強をしているとき、嫌なことがあって落ち込んでいるとき――ふとした瞬間にミケの姿を探して、その度に、もういないのだと思い知らされる。代わりに思い出すのは、雨の日の朝、枕元で眠るミケの冷たい手触りだ。張り裂けそうな胸の痛みに僕は我慢できなかった。

 両親は反対したけれど最後には家を出ることを認めてくれて、僕は四月の初めに大学付近のアパートへ引っ越すことになった。

 ミケが死んでから引っ越すまでの間、僕は庭に作られたミケの墓を一度だって見ようとはしなかった。



 まどろみの中で、甲高いメロディーを聞いていた。

 携帯電話の着信音だ。

 枕に顔を埋めたまま手を伸ばし、枕元にあるはずのスマートフォンを探した。指先に触れた硬い感触を頼りにそれを掴み取り、ようやく顔を上げる。

 ディスプレイには『母さん』と表示されていた。

「……はい」

 通話ボタンを押して耳に当てると、電話口から母さんの声が聞こえてきた。

『おはよう、恭平。あんた、まだ眠ってたの?』

「起きてるよ……」

『そんなこと言って。今起きたんでしょ。今日は入学式なんだから遅刻しないようにね』

「大丈夫だよ。開式は十時半だから……」

 ちょうどそのとき、ヘッドボードに置いてある目覚まし時計のベルが鳴った。時刻は九時を指している。僕はベッドから体を起こし、時計を叩いてアラームを止めた。

『今日は行けなくてごめんね。お父さんも謝っておいてくれって』

「ふたりとも仕事じゃ仕方ないよ。それに、もう子供じゃないんだから、入学式ぐらいひとりで出られるって」

『ご飯はちゃんと食べてる?』

「食べてるよ」

『洗濯と掃除は?』

「やってるって」

『それならいいけど……それじゃあ母さん、仕事に戻るから』

「うん」

『たまにはうちに帰ってきなさいよ』

「……うん」

『じゃあ、またね』

 電話が切れた。

 プー、プー、プーと、断続的に流れる電子音を聞いてから、僕はスマートフォンを耳から離した。

 家を出てから一週間が経った。

 東京都府中市にあるアパート『Bコーポ』の二○一号室が、僕の新しい住居だ。

 ちなみに『Aコーポ』は存在しない。なぜ『Bコーポ』という名前なのか知らないけれど、どこぞの作家の名前のように、大して深い意味はないのだろう。

 Bコーポは築十五年、二階建ての木造アパートだ。1K。バス・トイレ別。ペット禁止。家賃は月五万円。好条件だけれど、唯一『一階に大家さんが住んでいる』という点が、人を選びそうなところだった。実際、二階にある四部屋のうち半分は空き部屋だ。一番奥の二○四号室には誰かが住んでいるようだけれど、まだ一度も会ったことがない。

 僕はベッドから立ち上がり、顔を洗おうと洗面台に向かった。

 鏡で自分の顔を見ると、目の下に大きなくまができていた。ミケがいなくなってからの一ヶ月間、まともに眠れた日がない。昨夜もなかなか寝つけず、ようやく眠れたのは空が白み始めてからだった。

 冷たい水で顔を洗ってから、僕はトーストにバターとジャムを塗っただけの簡単な朝食を取った。

 トーストをかじりながら、スーツをクリーニングに出し忘れたことを思い出したけれど、他に入学式に着る服もない。クローゼットから出してみると、たいして汚れてもいなかったから、そのまま着替えることにした。

 身支度を整え、十時前に部屋を出た。

 玄関に鍵をかけて階段を下りていくと、アパートの入り口で大家の鳩村さんに出くわした。

「あら。綿貫さん」

 佇んでいるだけでどこか気品が感じられる小柄で綺麗な老夫人だ。僕は彼女のことを、心の中で『鳩村夫人』と呼んでいる。

 鳩村夫人は買い物をしてきたところらしく、スーパーの買い物袋を手に提げていた。左手の薬指に嵌められた古い指輪が鈍く光っていた。

「これから大学?」

「はい。入学式です」

「まぁ、そうなの! おめでとう!」

「……ありがとうございます」

 僕は笑った。うまく笑えているかはわからなかった。

「あの、すみません。僕、もう行かないと」

「あら。引き止めちゃってごめんなさい」

「大丈夫です。それじゃあ、いってきます」

「いってらっしゃい」

 鳩村夫人に見送られて、僕はBコーポを出た。

 閑静な住宅街を歩きながら、僕は深いため息をつく。

 大学に合格したときはあんなに嬉しくて、この日が待ち遠しかったはずなのに。ミケがいなくなってから、何もかもどうでもよくなってしまった。

 このままどこかへ行って、入学式をサボってしまおうか――そんな考えが頭をよぎったとき、向かい側の路側帯を一匹の猫が覚束ない足取りで歩いてくるのが見えた。

 白と黒の毛が交じったブチ猫で、首輪をしていないところからすると、おそらく野良猫だ。左後ろ足が赤く染まっていて、怪我をしているのだとわかった。

 そのとき、ブチ猫が僕に気づいて怯えるように足を止めた。近くの塀に体を寄せて、向かい側の歩道にいる僕の様子をじっと窺っている。

 僕はブチ猫に駆け寄ろうとして、思いとどまった。

 せっかく家を出てまでミケのことを忘れようとしているのに、この猫に関わればすべて無駄になってしまう気がした。

「……ごめん」

 迷った末に僕はブチ猫から目を逸らし、逃げるようにその場をあとにした。


 それから黙々と歩き続けて、僕は会場の入り口に着いた。

 間もなく入学式も始まる頃合いだ。

 会場に入ろうとしたとき、ふいに左足が痛んだ気がした。

 僕は立ち止まり自分の足を見下ろす。ゆっくりと体重を乗せ、痛まないことを確かめた。

 何ともない。はずだ。

 一年前、僕は交通事故に遭い、左足に大怪我をした。居眠り運転をしていた車と接触したのだ。そのときに折れた骨が歪んでしまい、完治した今でもうまく走ることができずにいる。普通に歩いている分には問題ないけれど、時折、思い出したように疼くのだった。

 立ち止まった僕を、他の新入生たちが次々と追い抜いていく。

 まるでブチ猫を見捨てた僕のようだった。

 ブチ猫の垂れたしっぽや、赤く染まった後ろ足、よたよたと歩く痛ましい姿が頭をよぎる。

 ひどい怪我だった。あのまま放っておけば、命に関わるかもしれない。

 それをわかっていながら、僕はあのブチ猫を見過ごした。

「あぁ、もう……!」

 僕は踵を返し、歩いてきたばかりの道を早足で引き返した。

 あのブチ猫は、すれ違った道の近くにまだいるだろうか。

 足を怪我しているのだから、そう遠くへは行けないはずだ。

 とにかく早く保護して、病院に連れて行かなければならない。最初に見つけたときにそうすべきだった。

「……どこに行ったんだ?」

 ようやくブチ猫を見かけた場所まで戻ってきた僕は、息を落ち着かせながら辺りを見回した。

 周囲にブチ猫の姿はないけれど、路側帯のアスファルトに肉球の形をした緋色の足跡が点々と残っていた。あの猫が残したものに違いない。これを辿っていけば、いずれブチ猫に行き当たるはずだ。

 緋色の足跡は、近くにある府中公園に向かって続いていた。咲き誇るソメイヨシノに囲まれて、公園は美しい薄桃色に彩られている。

 桜の花びらがちりばめられた公園の入り口で、ブチ猫の足跡は途切れていた。

 しかし、そこにいたのは怪我をしたブチ猫ではなく――。

 パイプのように曲がったカギしっぽを持つ、見知らぬ黒猫だった。



 真っ黒な毛並みのその猫は、途切れた足跡の臭いを嗅ぎながら、周囲をゆっくりと回っていた。痩せた体はすらりと長く、歩く姿はしなやかだ。パイプみたいに先が曲がったカギしっぽが、おしりの動きに合わせてゆらゆらと揺れていた。

 ブチ猫が化けた、なんてことはもちろんない。別人ならぬ別猫だ。

 それなら、あのブチ猫はどこに消えたのだろう?

 辺りを見渡しても、その姿は見当たらない。

 ふと気がつくと、足跡の臭いを嗅いでいたはずの黒猫が、いつのまにか僕の足元にいた。ぎくりとして、一歩あとずさる。

 夜空に浮かぶ満月のような瞳が、ほんの一瞬、じぃっと食い入るように僕を見つめ――そして、黒猫は言った。

「……T大学の新入生。左足に大怪我をしたことがある。三毛猫を飼っている」

 突然のことに戸惑う僕をよそに、黒猫はくるりと背を向けて歩き出す。

 僕は思わず呼び止めた。

「どうしてわかったんだ?」

 黒猫がぴたりと足を止めて、振り向いた。今度は黒猫が戸惑う番だった。

 周りに人がいないことを確認してから、僕は続けた。

「T大学の新入生……左足に大怪我をしたことがある……三毛猫を飼っていた……全部当たってるよ」

 怪訝そうにこちらを睨む彼に、僕は言う。

「信じてもらえないかもしれないけど……僕には猫の言葉がわかるんだ」

 そう――僕には、猫の言葉がわかる。

 嘘じゃない。

 犬や猫を飼っている人なら、彼らのちょっとした仕草や鳴き方、もっと漠然とした雰囲気で、彼らが何を伝えたいのかわかった経験があると思う。

 赤ん坊の頃からミケと一緒に暮らしていたせいか、僕は猫に対するその感覚が人より優れているようだ。ミケはもちろん、野良猫や、ペットショップのショーケースに並んでいる子猫たちまで。物心ついたときから、彼らが何を話しているのか完璧に理解することができた。

『別のにして』『今はそんな気分じゃないの』『邪魔っ!』『情けないわね』といったミケの言葉は、僕の想像ではなく、実際に彼女がそう言っていたのだ。

『恭平は猫に生まれるはずだったのに、間違えて人に生まれちゃったのよ』

 と、ミケはよく言っていた。

 真偽のほどは定かではないけれど、僕は自分以外に猫語を理解できる人に会ったことがない。両親も猫の声は聞こえないらしく、僕とミケが話していても「あんたって本当にミケが好きね」と微笑ましく見守るだけだった。

 この機会に一つ忠告しておこう。

 猫たちの方は人間の言葉を理解しているから気をつけてほしい。彼らの前で内緒話をしようものなら、あっという間に町中の猫たちの間で噂になる。井戸端会議なんかは最悪で、そのせいで僕は「誰それの旦那がリストラにあった」だとか「どこそこの奥さんが不倫をしているらしい」だとか、知りたくもない情報を知る羽目になった。壁に耳あり、障子に目あり、塀に猫ありということを、どうか覚えておいてほしい。

 カギしっぽの黒猫は、しばらく僕を観察してから言った。

「君、名前は?」

「綿貫恭平」

「年齢」

「十八……」

「飼っていた猫は、なんて名前だい?」

「ミケだけど……」

「ふむ」

 黒猫は納得したように、しっぽを緩くくねらせた。

「実に興味深い。会話が成立している。頭がおかしいのかと思ったが、『猫の言葉がわかる』というのはどうやら本当のようだ」

「試したのか?」

「なぜわかったか、だったね」

 黒猫は僕の質問には答えず、面倒臭そうに耳の後ろを足で引っ掻いた。

「君の年齢が十八歳前後であることは、容姿から推察できた。加えて、今日はT大学の入学式だ。となれば、君がスーツを着ている理由を『T大学の新入生だから』と推し量るのは、そこまで不自然じゃないだろう?」

「なんで今日が入学式だって知っているんだよ?」

「大学の掲示板に日取りが貼り出されていたからだよ。あの大学にはよく行くんだ」

「大学に? というか、文字が読めるのか?」

「君たちに読めるものを、どうして僕が読めないと思うんだ」

 黒猫が不機嫌そうに歯を見せた。どうやら彼は本当に大学に行き、掲示板に貼られていた入学式の日取りを読み取ったようだ。

「足の怪我のことは?」

「君が左足を庇っていることは、あとずさったときの動きを見れば明白だ。一方で杖は持っていないし、痛みもなさそうに見える。したがって、左足に大怪我をしたがすでに完治していて、精神的な理由で足を庇っているのだろうと推理した。簡単なことだよ」

「じゃ……じゃあ、ミケのことは? いくらなんでも、三毛猫を飼っていたことなんてわかるはずがないよ」

 カギしっぽの黒猫は、やれやれとばかりに首を振った。

「君が着ている、そのスーツだよ」

「スーツ?」

 驚いて、僕は着ているスーツを見下ろした。何の変哲もない普通のスーツのように思えたけれど、黒猫は呆れ気味に指摘した。

「わずかだが、白、黒、茶色の猫の毛が付着している」

「――あ」

「どれも同じ毛質だ。なら、三毛猫に決まっている。これでも『わかるはずがない』かい?」

 僕は呆気に取られて固まった。

 まるで手品の種明かしのようだった。言われてみれば簡単な理屈だけれど、そうと聞くまではどうにも不思議で仕方がない。何しろ彼は、ほんの一瞬僕を観察しただけでそこまで言い当てたのだ。同じことをしろと言われても、僕にはできる気がしなかった。

「すごいな。驚いたよ」

「……ふん」

 黒猫は鼻を鳴らして、ぷいと顔を逸らした。

「それより、君はこんなところで何をしているんだい? 入学式はそろそろ始まる頃合いのはずだが」

「そうだった!」

 黒猫に気を取られて、ここに来た理由をすっかり忘れていた。

 あらためて辺りを見回したけれど、やっぱり怪我をしたブチ猫は見当たらない。緋色の足跡だけを残して、忽然と姿を消してしまった。

「なぁ、足を怪我した白黒のブチ猫を見なかった?」

 僕は黒猫に訊いた。僕より先にいた彼なら、ブチ猫の行方について何か知っているかもしれなかった。

「左の後ろ足を怪我した猫のことかい?」

「そう、その猫! 見たのか?」

「いいや、見ていない。だが、その猫が誰かに拾われて、動物病院に連れて行かれたことはわかる。拾った人物は、おそらく女性だろうね」

「……えっと」

 わけがわからず、僕は聞き直した。

「……見てないんだよな?」

「そう言っただろ」

「じゃあ、どうしてそんなことがわかるんだよ。だいたい、見ていないのなら『左の後ろ足を怪我している』ってこともわからないはずだ」

「明白だよ。説明する方が難しい」

「なんだよそれ」

 むっとして言うと、黒猫は呆れたように言った。

「君だって『一+一が二になるのはどうして?』と訊かれたら、少し答えに戸惑うだろう? 『当然じゃないか』と言いたくもなる」

「数学もわかるのか?」

「一+一は算数と呼ぶべきものだよ」

「……」

 呆気に取られる僕をよそに、黒猫は途切れた足跡に目を向けた。

「僕もこの足跡を追って来たんだが、ほとんどの足跡が道の左側――それも塀際に寄っていた。だとすれば、怪我をしたのは右足ではありえない。そして、もし怪我をしたのが前足だとしたら、前足で付けた足跡を後ろ足で踏む可能性が高いが、地面に残った足跡には一度も踏まれた形跡がなかった。したがって、君が探している猫は『左の後ろ足を怪我した猫』だと推理できる」

「な、なるほど……」

「次に、誰かに拾われたとする根拠だが」

 黒猫は、足跡の途切れた場所に顔を近づけた。

「――見たまえ。最後の足跡は、他の足跡より明らかに血の量が多い。これは、怪我をした猫が立ち止まったことを意味する。それと、ここに広く跳ねた血痕があることには、むろん気がついたろう?」

 むろん、気がついていなかった。

 言われて見ると、確かに広く跳ねた血痕がある。

「一メートル程度の高さから落ちなければ、こうは跳ねない。なぜこのような血が残っているのか? ――誰かが猫を抱き上げたんだ。そう考えれば、猫が立ち止まった理由も、人間に出くわしたからだと説明がつく。その人間がなぜ猫を抱き上げたのかと言えば『助けるため』だと考えるのが自然で、出血の具合からして動物病院に連れて行くだろうということも、容易に想像がつくというわけさ」

「拾ったのが女性だっていうのは?」

「猫が暴れた様子がない。暴れたのなら、もっと広範囲に足跡が残っているはずだ。よって、猫が警戒しやすい男性ではなく、女性が抱き上げた可能性が高いと言える。もっとも、暴れなかったのは怪我で憔悴していたからというのもあるだろうがね」

 言い終えると、黒猫は、カギしっぽをくるりと回した。

「以上だ。何か質問は?」

「……」

 理屈は通っているような気がする。

 彼の推理通りなら、ブチ猫はすでに動物病院に連れて行かれたことになる。それならいい。だけど、もし推理が間違っていたら――そう考えると安心できなかった。

「やれやれ。そんなに疑うなら確かめてみたまえ」

「確かめるって……どうやって?」

「あれだ」

 黒猫は小さい顎をくいっと動かした。

 彼の視線を追った僕は、思わず「あ」と声を上げる。

 すぐ傍の電柱に緑色の看板が巻きつけられており、そこにこう書かれていた。

『桜田動物病院 この先二五○メートル』


 数分後、僕と黒猫は看板にあった桜田動物病院の前に立っていた。個人経営の病院で建物はまだ新しく、曇りのないアイボリーの壁が清潔感を漂わせていた。

「猫を拾った人間が電柱の看板に気づいていれば、ここに連れて来たはずだ。さっさと中に入って、例のブチ猫について訊ねてきたまえ」

 そう言って黒猫は入り口の横で丸くなった。

「別に待っていなくてもいいけど……」

「どんなに簡単な謎解きでも、答え合わせはしたくなるものだよ」

 ブチ猫の安否はどうでもいいらしい。

 僕は動物病院のガラス扉を押し開けた。

 獣と薬品の混ざり合った臭いが漂い、奥からは犬や猫の鳴き声が聞こえてくる。入り口の傍にある受付カウンターに、ピンク色の白衣を着た若い女性が座っていた。

「すみません。ここに、足を怪我した白黒のブチ猫が連れて来られませんでしたか?」

 彼女は一瞬きょとんとして、それから頷いた。

「ええ、ついさっき来ましたよ。公園の前で保護した猫を治療してほしいって、スーツを着た女の子が……。今、奥で先生が手当てをしています」

 黒猫の推理通りだ。感嘆と安堵の混ざった息が漏れた。

「もしかして、飼い主の方ですか?」

「いや、そうじゃないんですけど……」

 僕はここに来るまでの経緯を、もちろん黒猫と喋ったことは伏せて、説明した。

「それでうちに? すごい、なんだか探偵みたいね」

 受付の女性は目を輝かせて感心していた。とはいえ、推理をしたのは黒猫だから、なんだか手柄を奪っているような気がしてバツが悪い。

「あの……治療費は?」

 話題を変えると、彼女は柔らかく微笑んだ。

「お金のことは心配しないで。さっき来た女の子にも伝えたんだけど、うちは野良猫の保護活動もしているの。先生の趣味みたいなもので……それより、貴方も大学生?」

「はい」

「学校は大丈夫? さっき来た女の子は入学式があるって言ってたけど……」

 どうやらその女の子もT大学の新入生らしい。

 壁に掛けられた時計に目をやると、開式時刻はとっくに過ぎていた。

 答えに困る僕に、彼女はおかしそうに言った。

「来てくれてありがとう。でも、猫ちゃんのことは先生に任せて、貴方も早く入学式に行きなさい。ね?」

「はい、そうします。あの……ありがとうございました」

 僕は頭を下げて踵を返し、晴れやかな気持ちでガラス扉を押し開けた。



 動物病院を出た僕は早速黒猫に報告しようとしたけれど、入り口の傍から彼はいなくなっていた。

「どこに行ったんだ……?」

 目を凝らして辺りを見ると、向かいの電柱の脇に捨てられた段ボール箱が目に入った。有名な通販サイトのロゴが入った段ボール箱で、折りたたまれておらず蓋もぱっかりと開いている。

 まさかと思いながら、僕は段ボール箱に近づいて中を覗き込んでみた。

 底で丸くなっていた黒猫が、ぴくっと耳を揺らして、箱の中から僕を見上げた。

「終わったかい?」

「……何してるんだよ?」

「病院の前で待っていたら、人間たちが変な目で見てきたものでね。ちょうどよくこいつを見つけたから、中で待つことにしたまでだ」

「僕が気づかなかったらどうするつもりだったんだ?」

「猫を飼っていたんだろう? だったら、僕らがこういった場所を好むことぐらい知っているはずだ。よほどの馬鹿じゃなければ見つけられると踏んだのさ。それで、探していたブチ猫はいたのかい?」

「うん。君の推理通りだった。受付の人も驚いていたよ」

 僕は、ふと気になって段ボール箱の中でくつろいでいる黒猫に訊いた。

「なぁ、さっき『足跡を追って来た』って言ってたけど、どうしてそんなことをしていたんだ?」

 すると、黒猫は大きなあくびをしながら言った。

「暇潰しだよ」

「暇潰し?」

「僕にとって、暇潰しほど大切なことはない。エサや水は少しぐらいなくたって我慢できるが、退屈すぎて死にそうになることはしょっちゅうでね。だから、僕はいつだって暇を潰せる謎を探している」

 黒猫は前足をぺろりと舐めて顔を洗う。

「今朝、散歩をしていたら例の足跡を見つけてね。面白そうだと思って追いかけてみたのさ。足跡は公園の入り口で途切れていたが、それを残した何者かはいなくなっていた。いったいそこで何があったのか、一通り推理し終えたところで君が来た。あとのことは君も知っての通りだよ」

「僕のことを色々と言い当てたのは?」

「あれはちょっとした訓練みたいなものだ。爪と同じで頭も研がないでいると鈍るから、暇なときは目についたものの素性を推理することにしている。もっとも、人間を推理して、ああして答えが返ってきたのは初めての経験だったがね。――ところで、君の家の三毛猫が亡くなったのは最近かい?」

「え?」

「あのとき、僕は最初『三毛猫を飼っている』と推理した。だが、君は『飼っていた』と言っただろう? つまり、今はもう飼っていないということだ。おそらくは亡くなった――それも、スーツに毛が残っているのだから最近のことだと推測できる」

 言われてみれば単純なことだ。

 僕は自分からミケはもういないと白状していた。

 実家を出てまで忘れようとしているのに、枕元で眠るミケの姿を、あの冷たい手触りを、僕はどうしても忘れることができない。

「一ヶ月前だよ」

 僕は言った。

「朝起きたらミケがベッドの枕元で眠っていた。声をかけても、体を揺すっても、目を覚まさなかった。そのときにはもう死んでいたんだ」

「病気を患っていたのかい?」

「うん……。獣医の先生は寿命だって言っていたけど……」

「その様子じゃ、君は納得していないみたいだね」

「……」

 黒猫が、じぃっと僕を見つめる。彼に隠し事はできそうもない。

 僕は観念して、口を開いた。

「前日の夜、僕が眠る前に見たときは、ミケはリビングで寝ていたんだ。ミケが僕の部屋に来たのは、僕が眠っている間のことなんだよ」

「それが?」

「どうしてミケはわざわざ僕のところに来たと思う?」

 黒猫の言葉を借りるなら、それは明白なことだった。

「ミケは僕に『助けて』って言いに来たんだ。僕が猫の言葉を理解できることをミケは知っていたから。なのに僕は熟睡していて、その声に気づいてあげることもできなかった。もし気づいていれば、ミケを死なさずにすんだかもしれないのに……」

 その夜から僕はまともに眠れなくなった。

 ベッドで横になると、ミケの声が聞こえて目が覚めるのだ。気のせいだとわかっていてもミケを探さずにはいられない。それは、家を出てBコーポに引っ越したあとも続いていた。

「僕はミケを助けられなかった。だから今度は……あのブチ猫は助けたかったんだ。結局、僕は何もできなかったけど、無事だとわかっただけでもよかったよ」

「なるほどね。なぜ見ず知らずの猫を気にするのか疑問だったが、ようするに罪滅ぼしだったというわけだ」

「……軽蔑した?」

「別に。君の動機なんて僕の知ったことじゃない」

 黒猫は軽く伸びをすると、名残惜しそうに段ボール箱から出てきた。よほど寝心地がよかったらしく、どうにか持ち運べないものかと思案しているようだったけれど、さすがに無理だと判断したらしい。近くの塀に歩み寄り、ひょいっと上に飛び乗った。しなやかな黒い体が僕の目と同じ高さに来る。

 黒猫が言った。

「だが――君は間違っているよ」

 満月のような黄色い瞳が僕をまっすぐに見つめていた。

 何のことだかわからず、僕は聞き返す。

「間違っているって……何が……?」

「その無駄に大きな頭は何のためにあるんだい? 少しは自分で考えたまえ」

 黒猫は呆れたように言って、塀の向こう側に飛び降りてしまった。

「あ、おい――!」

 僕は慌てて身を乗り出し、塀の向こうを覗き込む。黒猫は素早く民家の庭を横切ると、建物の陰に姿を消した。

 パイプのように曲がった黒猫のカギしっぽが見えなくなってしまうと、僕は彼を追うことを諦めて塀から離れた。

 追いかけたくても、僕は走れなかった。