目を閉じて、歩いてみた。

 なにも見えず、暗闇だけがそこにある。無性に不安だった。そんなものはないはずなのに、目の前に壁があるような気がしてならない。なにかに、ぶつかるかもしれない。そう思うと、ただ歩くだけなのに足が竦んだ。

 思いきって、普段の勢いで足を踏み出してみる。すると、意外と歩けた。調子に乗って、ずんずん歩き回っていると、つま先が床に引っかかった。

「あっ」

 声を上げた頃には、バランスを失い、前に倒れていく。転ぶのを覚悟して身構えた瞬間、体の傾きが止まった。腹部に温かい感触を覚えた。

「なにしてんだ、お前?」

 呆れたような声が普段よりはっきり聞こえ、本河わらべは目を開けた。

 至近距離に、短く髪を切り揃えた男の顔があった。巻島だ。テーラードジャケットとジーンズ、白シャツを身につけている。右腕でわらべを支え、白けた視線を送ってくる。

「その……目が見えない人の気持ちってどんな風なのかなって思ってですね」

 なに言ってんだ、こいつ、というような目で見られた。

「ほ、ほら、今回担当する自伝本の作者さんは、盲目の方じゃないですか。なにか参考になるかもしれませんし……」

「目つぶって歩いてこけたら、装幀ができるってか?」

 すげなく言われ、わらべは不満に思った。装幀というのは本のカバーや表紙、帯、本文などのデザインを指す。イラストレーターや写真家と同じく、外注の装幀家に依頼する出版社も多い中、仰木社には装幀室という装幀を専門に取り扱う部署が存在している。

 業務内容は装幀を作ること、またそれに付随する雑務全般である。社内に装幀室があることにより、本のデザインに関して編集者との意見交換を密にでき、また関連業務を肩代わりできる。その他にも、外注には頼めない急な仕事や、無茶ぶりに対応することができたりと、会社としてはメリットも多い。締切を守れない作家は多く、出版スケジュールは伸び縮みするため、出版社は常に柔軟な対応を迫られるのだ。二人は装幀室に所属していた。

「でも、なにかわかるかもしれないじゃないですか」

「わかったのか?」

「そんなにすぐには……あ、だけど、一つだけわかりましたよ」

 はっと気がついたように言うと、巻島は興味深そうに視線で問いかけてくる。

「すっごく危ないです」

「当たり前だ」

 そんなにつれなく言わなくてもいいのに、とわらべは唇を尖らせ、巻島の腕に思いきり体重をかけた。

「おい……なにしてんだ?」

「あれ? 疲れてきました? 巻島さんって思ったより力がないんですねー」

 子供じみた仕返しに、巻島がまた呆れた表情になった。

「そんな挑発に乗る歳か。大体、俺の力がないんじゃなくて、お前がお――」

「え? お前が、お、なんですか?」

 にっこりとわらべが笑う。危機を察知したかのように、巻島は閉口した。

「巻島さん。お、の後、なんですか?」

「……大間違いだ。別に疲れてない」

 苦しい言い訳に、「へー」とわらべは楽しそうに笑った。

「疲れてないんですか」

 そう言って、全体重を預けるように巻島の右腕にもたれかかる。彼はなんでもないといった表情をしているが、視線だけはどんどん険しくなっていく。

「謝ってくれてもいいんですよ?」

「わかったわかった。悪かった」

 巻島が謝罪するも、わらべは更に体重をかけるために、ぴょんぴょんと飛び跳ね出した。

「……こ、ら……謝っただろ……」

「前から思ってましたけど、巻島さんの謝罪って口だけですよねー」

 楽しそうに飛び跳ね、全体重を巻島の右腕にかけるわらべ。彼も彼で意地になったように、歯を食いしばって持ちこたえている。始業前の装幀室に人はおらず、二人はまるで学生のようにじゃれていた。

「巻島さん。腕ちょっと、ぷるぷるしてきてません?」

「……ちょっと待て……誰か来たぞ」

「そういうこと言って逃げようとするってことは、もう限界な感じですか?」

 あと一押しだとばかりに、わらべは更に勢いをつける。ガチャ、とドアが開き、年配の男が入ってきた。編集者の長瀬だ。巻島の右腕にしがみつき、わらべは楽しそうに何度も飛び跳ねている。そんな二人の様子を彼は真顔でしばし眺めた。

「ああ、失礼。まだ始業前だったね」

 さっと踵を返し、長瀬は装幀室から出ようとする。「そうか。そういうことか」などと小声でわざとらしく呟いている。慌てて、わらべは引き止めた。

「ち、違います違いますっ。全然、そういうんじゃありませんからっ。ね、巻島さん」

「こいつが子供っぽい悪戯を仕掛けてきただけだ」

 二人が弁解すると、長瀬はニヤニヤと笑った。

「な、なんですか?」

「いやいやいや。二人とも、ずいぶん早く出勤すると聞いていたからね。なにをしているのかと思えば、どうりで、それは早く来たいわけだ」

「だから、違うんですって」

 つきあっていられないといったように、巻島が自席の椅子を引く。

「え、ちょっと。巻島さんも誤解、解いてくださいよ」

「やめとけ。ムキになっても、からかわれるだけだ」

「そういう巻島はポーカーフェイスができなくなると、すぐ逃げる。顔が赤いんじゃないかな?」

 長瀬がそう口にすると、わらべは巻島の正面に回り込み、顔を覗いた。赤くない。まったくいつも通りだ。

「なに見てんだっ!」

「い、いえ。巻島さんでも、こういうとき恥ずかしいのかと思ってですね」

「なんでお前との仲を勘繰られたぐらいで顔を赤くする必要がある?」

「……言われてみればそうなんですけど」

 そんな論外みたいに言われると、それはそれで落ち込んでしまう。少しぐらい気を遣ってくれてもいいのに。わらべは肩を落とした。

「……どうした?」

「別にどうもしてませんけど……」

「じゃ、普通にしてればいい」

「だって、そんな冷たい言い方ってあるのかなって思いますよね」

「本当のことだ」

「そうですね。本当のことですね」

 わらべも椅子を引き、席に座った。自席には本が山積みされている。すべて彼女の私物だ。おもむろに手を伸ばし、取り出したのは『前向きになれる素敵な言葉』という本だ。ページを開き、目を落とす。

「お前は馬鹿かっ。自分で誤解を解けって言ったんだろうが」

 彼女は反射的に振り向く。遅れて、ようやく意味がわかった。

「あ、じゃ、長瀬さんの追及を逃れるために、わざと冷たい言い方をしたんですか?」

 顔を輝かせてわらべが言う。投げやりに巻島が応えた。

「そうかもな」

「なんだ、じゃ、そう言ってくださいよ。急にいつもより冷たくなるから、びっくりしました。巻島さんっていつも唐突なんですよね」

 呆れたようにため息をつき、巻島は顎をしゃくる。見れば、長瀬が二人を見守るような温かい微笑みを浮かべていた。

「い、今のはですね。違うんですっ。そういう意味じゃありませんから」

「いやいやいや。よくわかったよ。からかった私が悪かった」

 長瀬は素直にそう言うが、どこか釈然としないものを感じる。

「本当にわかったんですか?」

「もちろん。ああ、打ち合わせまではまだちょっと時間があるから、下の喫茶店でコーヒーでも飲んでくるよ」

 装幀室のドアを開け、長瀬は退出する。ドアを閉める直前、ひょっこりと顔を出してまたニヤニヤと笑った。

「ごゆっくり」

 静かにドアが閉められた。

「……あれ、絶対、誤解してますよね?」

「お前のせいでな」

 わらべは身を小さくして、「すみません」と呟く他なかった。



 始業後、わらべたちはタクシーに乗り、都内の打ち合わせ場所へ向かった。出版社では、午前中に打ち合わせが入ることは希だ。大抵が先方の都合だが、今回の相手も例に漏れず多忙のため、この時間しかスケジュールが空かなかったのである。

 国際コンクールでの優勝経験を持つ世界的なヴァイオリニスト、瀬尾透。盲目のヴァイオリニストとしても知られる彼の半生を描いた自伝『光をなくした目に、見えた音』を仰木社から出版することになった。その装幀を担当するのがわらべと巻島だ。

 時間通り、透の自宅に到着する。チャイムを鳴らすと、「はい」と女性の声がした。

「仰木社の長瀬です」

「はい、お待ちしておりました。少々お待ちください」

 しばらくして、ドアが開けられた。出迎えてくれたのは、背が高く、どこか繊細そうな面持ちをした青年だ。テレビや雑誌で見たことがある。瀬尾透本人だった。

「お久しぶりです、瀬尾さん。よろしくお願いします」

 長瀬がそう言って、頭を下げる。

「どうも。いつも来てもらってすみません。上がってください」

「失礼します」

 わらべたちは靴を脱ぎ、家へ上がった。透は「どうぞ、こっちです」と言って、奧の部屋へ案内してくれる。目が見えないのに、よくそんなに普通に歩けるものだ、とわらべは驚いていた。

「いらっしゃいませ」

 部屋でお茶を用意して待っていてくれたのは、髪の長い女性だった。音楽家特有の品の良い雰囲気を漂わせている。透の妻、みのりだ。本を出版するにあたって、視力の殆どない透のサポートをするため、毎回打ち合わせに同席している。

「お久しぶりです。本日もよろしくお願いします」

 長瀬とみのりが互いに頭を下げる。

「本日は装幀のお打ち合わせということで、前回お話ししました通り、装幀室の者を連れて参りました」

 長瀬がそう切り出すと、わらべは頭を下げた。

「仰木社装幀室の本河です。瀬尾さんにご執筆いただいた自伝の装幀を担当させていただきます。どうぞよろしくお願いしますっ」

「同じく巻島です」

 愛想良く挨拶したわらべに対して、巻島は事務的に述べた。名刺を渡すと、みのりに促され、彼らは着席する。

「装幀家の方はお二人で担当されることもあるんですね。てっきり一人かと思ってました」

 ふとした疑問という風に透が言った。

「ああ、彼らは少し変わった仕事のやり方をしてましてね。うちの装幀室でも二人で仕事をしているのは他にいないんですが、なにかと都合がいいようですね」

 仰木社は、仰見書房と楠木社という二つの出版社が合併してできた。二社の装幀室が一緒になるにあたり、業務のすり合わせを目的に二人一組で仕事をする期間があったのだが、現在はもう終わっている。しかし、わらべと巻島はそれ以降も一緒に仕事をしているのだった。

「一つの本のデザインを二人でするということは、逆に大変になりませんか?」

 興味があるのか、続けて透が訊いてくる。

「装幀家さんというのは、指揮者に似ていると思っていたんですが。譜面にはフォルテと書いてあっても、それがどんなフォルテかというのは人それぞれ違いますから、本を読んでもそういった解釈の違いってありませんか?」

「ええ、やはりありますね」

 相槌を打つように長瀬が言った。

「僕はこの目ですから、オーケストラを演奏することはありませんが、もし指揮者が二人いたら、どうなるんだろうなって思って」

「と、おっしゃっていますが?」

 長瀬はわらべたちに水を向けた。巻島を見るが、我関せず、ノートにペンを走らせ、何事かを考えている。仕方がなく、わらべは口を開いた。

「ええと、でも、それなりにうまくやってます……」

 若干、歯切れは悪くなる。

「相性が合うんでしょうか?」

「あはは……どうなんでしょうね? ね、巻島さん」

 机の下で肘を当てて、少しは話すように要求する。すると、彼は顔を上げた。

「私は譜面を見ませんからね。フォルテの解釈は本河に任せてます」

「譜面を見ない……ですか」

 透は驚いたような反応を見せる。

「それはどういう……?」

 あんまり作者の前で堂々と口にすることではないが、もう言ってしまったのだから仕方ない。わらべは説明することにした。

「普通はゲラを……ええと、その、作家さんが書かれた原稿を読み込んで、その本のイメージに合った装幀をデザインします。ただ巻島は原稿を読むと客観的になれないっていうことで、代わりにわたしが読むんです」

「代わりに……?」

 透は訝しげだった。音楽家が譜面を読まないということはありえないからだろう。

「装幀家はデザイナーですからね。ヴァイオリニストのような芸術家とは違いますよ。自分の個性はいりません。必要なのはその本の個性、そしてなによりも売ることです」

「本を売るために、原稿を読まないということですか?」

「ええ。つまり、その本を読んでいない人が、その本を欲しくなるような装幀を作らなければなりません。本のファンから見た良いデザインが、本を知らない読者にとってそうとは限りません。読んでしまっては、ファンの立場にしかなれない。それでは、売れる装幀は作れません」

 それじゃ、売ることばかり考えていると思われてしまう。わらべは慌ててフォローする。

「よ、要するにですね。巻島はゲラを読んだらその本が大好きになっちゃって冷静にお仕事ができないので、わたしが代わりに読んで、どんな内容だったのかを教えてあげるんです」

 若干唖然としていた透も、それを聞いて、くすりと笑った。

「わかりました。本河さんが指揮者で、巻島さんが演奏をなさるんですね」

「あはは……ですかね? わたしは、そんなに大したことないですが」

 そうだとしたら、こんなに指揮者を無視する演奏家もいないだろうとわらべは思う。

「でも、ちょっとなに考えてるかわかんないなって思われるかもしれませんが、巻島はすごいんですよ。ベストセラー作家の湯川春仁先生が書いた『パンドラの箱』っていう小説の新装版をデザインしたんですけど、先生の新刊よりも売れちゃって、こないだ五○万部を突破しましたから。なんといっても、デザインが本にぴったりでとっても素敵なんです」

「それ、私持ってます。あの箱の本ですよね?」

 みのりが言った。

「それですそれですっ」

「本屋さんで見かけて、すごく気になって思わず買ってしまいました。作られた方にお会いできて嬉しいです」

「こちらこそ、ありがとうございますっ。作ったのはぜんぶ巻島ですけど」

 わらべがちらりと巻島を見ると、みのりもそちらを向いた。

「指揮は本河です」

 それだけ言い、巻島はまたノートにペンを走らせ始める。ただの社交辞令だろう。その方が今回の装幀も円滑に進められる。そう思うのにどうしても嬉しくて、わらべは顔を隠すように俯いた。打ち合わせ中なのに、なんだか頬が緩んでしまう。

「おわかりになったかと思いますが、二人とも仲良く、信頼しあって仕事をしておりますので、なにか装幀についてのご要望がありましたら、なんなりとお申しつけください」

 余計な含みを交えつつ、長瀬が本題へ話を移した。要望といっても、透は目が見えない。厳密には視力が極端に低いのだが、それでも譜面の音符が読めないほどだ。自伝も口述筆記で書いているぐらいだし、装幀を確認するのは無理だろう。

「先程、巻島さんが、本を読んでいない人が本を欲しくなる装幀を作るとおっしゃっていたかと思いますが」

 はい、とわらべは相槌を打つ。意外にも、なにか要望があるようだ。

「逆に、なんて言うんでしょう? 特定の、こういう人に読んでもらえるといった装幀にすることはできますか?」

「読者層を絞りたいということですか?」

「いえ、もっとこういう人っていうのがありまして」

 どういうことだろう、とわらべは小首をかしげる。ペンを止め、巻島が言った。

「具体的には?」

「……一人、お礼を言いたい恩人がいまして。その人に手にとってもらえるような本にしたいと思って、今回、自伝を書くことにしました。もし、装幀でそういったことができるのでしたら、是非お願いしたいと思っています」

 恩人のことは自伝に書いてあるのだろうが、まだゲラは上がっていない。詳細を確認するため、続けて巻島は尋ねた。

「手にとってもらえるような本にしたい、というのは?」

「その人の名前も顔も知りません。男性か女性かすらわかりません。子供の頃、僕は事故で視力を失い、生きる気力を失っていました。通っていた病院には音楽室があったんですが、そこでヴァイオリンを弾いてくれた人がいたんです」

「その人が、恩人さんですか?」

 わらべが訊く。

「はい。もっとも、僕のために弾いてくれたわけではないでしょうけど。だけど、そのヴァイオリンが、すごく僕の胸に響いたんです。まるで僕に生きろと言っているみたいで。僕にもまだできることがあるんじゃないかと思ったんです」

「それで、ヴァイオリニストを志されたんですか?」

 深く透はうなずいた。

「その人がそこにいなかったら、ヴァイオリンを弾いてくれなかったら、僕は夢を持つことすらないままでした。一言、お礼を伝えたくて、ずっと捜しているんですが……」

 相槌を打ちながらも、わらべはその恩人に興味を覚えていた。なにせ世界的なヴァイオリニストの瀬尾透が、ヴァイオニストを志したきっかけになった人物なのだ。

 考えが顔に漏れている彼女に対して、巻島はごくごくいつも通り、事務的に話をノートに書きとめている。

「主人の話をまとめて、ホームページなどで情報提供を呼びかけてはいますが、めぼしい連絡はなくて。もしかしたら、あまりネットは見られない方かもしれません」

 みのりが補足する。続けて、透が言った。

「だけど、その人は本を持ち歩いていました。重たいハードカバーの本で、だから、きっと本が好きなんだと思ったんです。自伝を出せば、もしかしたら気がついてもらえるかもしれないと考えたんですが……」

 長瀬を見るが、彼もこの話は初めて聞いたようだ。どうしたものかと思案するような表情を浮かべている。

「なんとかお願いできないでしょうか。できる限りでいいんです。お願いしますっ」

 透は深く頭を下げる。余程、その恩人に感謝しているのだろう。そうしているだけで彼の切実な想いが伝わってくる。

「ええと、どこまでできるかわかりませんが、やれるだけやってみようと思います」

「どうかな?」

 わらべの言葉を打ち消すように、巻島が言った。

「装幀で表現できるのは、目に見えるものだけです。たとえば、その持ち歩いていたという本のデザインやタイトル、また恩人が気がつきそうな手がかりを、瀬尾さんは具体的に説明できますか?」

 その言葉でわらべははたと気がつく。透は申し訳なさそうに言った。

「……ヴァイオリンの音色でしたら」

 彼は盲目だ。恩人の手がかりになるようなものを見ていないのだ。だが、巻島が言う通り、装幀に載せられるのは目に見えるものだけだった。



 僕の人生が変わったのは、とても暑い夏の日でした。その頃住んでいた家は、住宅の密集している場所にあって、入り組んだ細い道路には滅多に車が入ってきません。そこに住む人たちの通勤時間と帰宅時間を除けば、一日に一台も車が通らないという日が殆どでした。

 家の近くにあるその道路は子供たちにとっては格好の遊び場で、当時八歳だった僕にとってもそれは同じでした。もちろん、親がそれを放置するわけもありません。父子家庭だったためか、父は特に厳しく、道路では絶対にボール遊びなどをするなと釘を刺されていました。他の子供たちが遊ぶのを横目で見ながら、仕方がなく少し離れた公園まで歩いていくのが日課でした。

 子供心にどうして他の家の子はあそこで遊んでいるのに、自分だけだめなのか。そんなことをいつも思っていたような気がします。

 公園のすぐ近くに立派な豪邸があるのですが、壁を相手にキャッチボールをしていると、いつも決まってその庭から覗いてくる女の子がいました。クラスの同級生で、みんながみーちゃんと呼んでいたので、僕もそう呼んでいました。みーちゃんはいつもじーっとボールを見ていて、不思議に思いました。キャッチボールがしたいのかとも考えましたが、みーちゃんは女の子です。僕は女の子はキャッチボールなんてしないだろうと思い込んでいました。そうすると、ますますどうして見ているのかがわかりません。色々と考えましたが、結論は出ませんでした。

 あるとき、僕は思いきって彼女に手を振ってみました。そうすると、窓を開け、みーちゃんは「楽しい?」と聞いてくるのです。やっぱりキャッチボールがしたかったのかと僕は納得したように、「楽しいから一緒にやろう」と誘いました。だけど、みーちゃんは指に怪我をすることはできないと言います。楽器のお稽古があるから、ママに叱られるそうです。僕は「怪我なんかしないから一緒にやろう」と言いました。すると、みーちゃんは嬉しそうに笑いました。ですが、今日はお稽古があるからできないそうです。僕たちはまた今度という約束をしました。

 夏休みに入った頃、僕がいつものように公園へやってくると、その日は珍しく他の子供たちが先に遊んでいました。それも上級生なので、意気地のない僕はその中に混ざって遊ぶ気にはなれません。今日は帰ろうかと思いました。そのとき、みーちゃんが庭から走って出てきて、「今日は大丈夫っ」と僕に声をかけました。ですが、公園は上級生が使っています。僕はどうしたものかと考え、「他の場所でやろう」と言いました。向かった先は、自宅近くの道路です。父の言いつけはありましたが、せっかく、みーちゃんと遊べる機会を逃したくはなかったのです。ついでに家から、もう一つグローブを出してきて、僕たちはキャッチボールをしました。みーちゃんは初めてボールに触ったようで、投げるのはとても下手くそでしたが、そんなことは気になりません。僕たちは楽しく遊んでいました。

 みーちゃんが段々慣れてくると、少し離れてキャッチボールをすることにしました。思いきって投げたみーちゃんのボールが明後日の方向へ飛んでいき、僕は慌ててそれを追いかけました。運悪くボールは路地を抜け、少し広めの道路まで転がっていきます。そこを抜けた先にあるのはドブ川で、絶対に落とせないと思い、僕は脇目も振らずに走りました。ようやくボールを捕まえると、高い音が聞こえました。振り向けば、目前まで車が迫っていました。急ブレーキが間に合わず、僕は大きな衝撃を感じました。体が空を飛んだように思います。

 気がつけば、僕は暗闇の中にいました。同居している祖母が、交通事故に遭ったことを教えてくれました。眼球が傷ついているため、まだ包帯が取れないということでした。このときの僕は、また時間が経てば治るんだろうと軽く考えていました。それよりも、道路でボール遊びをしていたことを父に叱られてしまう、とそんな心配ばかりをしていました。

 しかし、一週間経っても、二週間経っても、父はお見舞いにやってきません。病院に来るのは決まって祖母か祖父でした。言いつけを守らなかったから、父は怒ってしまったんだと思い、僕は泣き出しました。謝るから許してと言う僕を祖母は必死に慰めました。そして、父はちょっと忙しいから来られないだけだと言いました。けれども、僕はそれを信じず、駄々をこねました。それでも、結局、父が来てくれることはありませんでした。

 一ヶ月後、そろそろ包帯が取れるというとき、祖父と祖母が父に会わせてくれると言いました。僕はどうやって謝ろうと、そればかりを考えていたように思います。祖父の車に乗って、到着したのは線香の匂いのする場所でした。まだ包帯があったのでなにも見えませんでしたが、一度も来たことのないような雰囲気を肌に感じました。

 祖母が泣き出しそうな声で言いました。今日はお父さんにお別れをしなきゃいけない、と。父が死んだのだと祖母は告げます。僕は信じられませんでした。「どうして?」と口にすると、父も交通事故に遭ったことを教えてくれました。脊髄を損傷し、手術後に敗血症性ショックで亡くなるケースは多いそうです。一ヶ月の間、父がお見舞いに来られなかったのは、手術後、すぐに重篤な症状に陥ったためでした。父もがんばったようですが、この前日に亡くなりました。

 僕はそれまで忘れていた事故の記憶を、唐突に思い出しました。あのとき、目の前に迫っていたのは父の車だったのです。僕が覚えていることを知ると、祖母はただ僕を抱きしめて泣きました。そうして、父の遺体が目の前にあることを教えてくれました。お別れをしよう、と祖母は言います。僕はまだ認めることができませんでした。ですが、目の前にある亡骸に触れたとき、命を失ったものの冷たさを手の平に感じました。父じゃない。そう思いました。きっとなにかの間違いだと、これが父のわけがないと思い、僕は自分で包帯を取り外しました。一ヶ月も経ったのだから、もうすっかり治っていると思いました。ですが、僕の目にはなにも映りませんでした。

 代わりに見えたのは、事故の瞬間、車に乗っていた父の姿です。それが、僕の目に鮮明に焼きついて離れず、なにもかもが暗闇に閉ざされました。

 父の葬式をきっかけに、僕は喋ることができなくなりました。思っていることを伝えようと口を動かしても、声が出ないのです。あるいは声は出ても、言葉になりません。精神的なショックで一時的なものだろうとお医者さんは言いました。ですが、僕はそれから二年が経過してもまだ喋れないままだったのです。

 僕はその頃、自分がそれほどショックを受けているのか、よくわかりませんでした。食欲もありましたし、目が不自由ながらも音楽を聴いたり、ラジオを聴いたりして、それなりに楽しくやっていたように思います。ただ一つだけ、唐突にわけもわからない大きな感情が津波のように押し寄せてくるのです。そんなときは、目に焼きついた父の顔が頭から離れません。

 けれども、それは父と会える唯一の機会で、僕は嬉しく思っていたような気がします。一人になりたくて、家を出て、通っている病院まで歩きました。その頃には杖があれば、慣れた道のりを行くのにそれほど苦労はしなくなっていました。その病院では音楽療法などを取り入れており、少し広めの音楽室があります。階段を上り、僕はいつもその場所へ向かいました。特定の時間以外は患者が自由に出入りできるのですが、あまり使っている人はいなかったのです。静かな空間で、僕は一人、目に焼きついた父の顔を思い出していました。

 あるとき、その場所で、ふと風が顔に当たるのを感じました。防音のため、普段は窓が開いていないのですが、その日は誰かが閉め忘れたようです。僕は風が吹いてくる方向へと歩いていきました。杖が壁に当たり、僕は窓際に立ちます。

 窓を閉めようと思ったのですが、手を伸ばしても、どこにそれがあるのかがわかりません。こんなこともできないのか、と僕は思いました。こんな僕のせいで、父は死んだのかと思いました。突然、得体の知れない罪悪感に胸をきゅうと締めつけられました。漠然とした不安が、わけもわからずどんどん大きくなっていくのです。目も見えず、喋ることすらできず、いったい自分にこの先なにがあるのだろう。父の葬式の日以来、感じていなかった暗闇を僕は突きつけられていました。

 いいえ、きっと僕は見えなかったのだと思います。怖くて、恐ろしくて、心を麻痺させていなければ、とても生きていけなかったのです。だけど、気がついてしまえば、もう元通りにはなれません。忘れたくても、目を背けたくても、いつも暗闇は僕と一緒にあるのです。

 風が顔を撫でました。まるで僕を誘うように、温かく。この風の向こう側へ吸い込まれれば、そうすればこの暗闇から逃れることができるのだろうか? 目に焼きついた父の表情を二度と見ないで済むのだろうか? それは僕にとって、とても安易で、なによりも甘い誘惑に感じられました。

 ほんの少し身を乗り出せばいい。なにもない世界でじっと耐え続けているよりも、遥かに心が安らぐ場所がそこにある。そんなことを考えたように思います。

 僕はゆっくりと窓のサッシに手を置きました。

 そのとき、光が見えたのです。なんだろう、と僕は必死に目の前を見ました。キラキラと輝くものがそこにあるのです。それは音でした。誰かがヴァイオリンを弾いていたのです。曲はモーツァルトのヴァイオリン協奏曲第五番『トルコ風』でした。今にして思えば、奏者はそれほど上手というわけでもなく、ところどころ弾き損じていました。ですが、その曲はなによりも僕の胸に響いたのです。生きろ、と。キラキラと輝く音の光が、僕に訴えかけてくるかのようでした。それはあの交通事故の日以来、僕が二年ぶりに目にした光でした。

 もちろん、本当に光が見えたわけではないと思います。そのヴァイオリンの旋律が、キラキラとした音が、僕にまるで光が見えたかのように錯覚させたのでしょう。演奏が終わると、その光は目の前からすっと消えてしまいました。とても衝撃的な出来事で、僕はしばらくその場から動くことができませんでした。

 家に帰った僕は、ヴァイオリンの曲を聴き漁りました。父は音楽CDを沢山持っていて、祖母に頼んでそれを出してもらいました。片っ端から再生していると、あの音楽室で聴いた曲が聴こえてきました。祖母に曲名を尋ねると、モーツァルトのヴァイオリン協奏曲第五番『トルコ風』ということを教えてくれました。

 あの音楽室で聴いたときよりも、ずっと上手な演奏です。ですが、僕の目に光は見えません。他のどんな曲を聴いても、それは変わりません。やっぱり錯覚だったのかと思い、僕は無性に落胆しました。

 けれども、どうしてもそのときの体験が忘れられず、僕は病院の音楽室へ通いました。そうしていれば、またそのときの奏者に会えると考えたからです。何度目のことだったか、僕がそろそろ帰ろうかと思ったとき、ヴァイオリンの音色が聞こえてきました。

 今度は以前の曲ではありません。相変わらず、上手とは言い難い演奏です。ですが、また見えたのです。僕の目に、キラキラした音の光が。その人は僕が聴いているのがわかったのか、前よりも長くヴァイオリンを聴かせてくれました。演奏が終わると、僕は思いきって拍手をしました。お礼を口にしたかったのですが、相変わらず僕の声は喉の奥に引っ込んだままです。頭を何度も下げて、必死に身振り手振りでアピールしました。

 ですが、不思議なことにその人もなにも言わないのです。僕が頭を下げると、代わりにヴァイオリンの音を出してくれます。どういたしまして、勝手な解釈かもしれませんが、そんな風に聞こえた気がしました。僕はしばらくして、ようやく自分がいる場所が病院だということに思い至りました。僕と同じ症状の人もそこに通っているはずです。その人も喋ることができないのだと気がついたのです。

 そして、こう思いました。もしかしたら、僕にもできるのではないか、と。目が見えなくとも、喋ることができなくとも、ヴァイオリンなら弾けるのではないかと思いました。その人がこの目に光を見せてくれたように、どういたしまして、とその音で会話してくれたように。自分の意志を伝える術が、表現する術が、生きていく術がここにあるのではないかと思いました。

 気がつけば僕は、なにかに取り憑かれたように、いつか父につれられていった演奏会で見たヴァイオリニストを思い出し、見よう見まねでヴァイオリンを弾く仕草をしていました。すると、僕の手に硬い物が触れました。ヴァイオリンです。弾いてみるといい、と言われた気がしました。その人は僕にヴァイオリンを持たせてくれました。ヴァイオリンは右手の弓で、弦をこすって、音を鳴らします。その人は最初、僕の腕を持って、音の出し方を教えてくれました。それから、今度は自分でやってみろというように、手を放しました。

 僕は緊張しながら、音を出してみました。瞬間、光が目の前に現れたような気がしました。ヴァイオリンというのは音を出すのが難しく、素人ではギギィというただただ不快な音しか出せません。このときの僕には音の善し悪しはまだわかりませんでした。不快な音が出ていたのかもしれません。それでもその音に、僕はかつてないほどの光を感じたのです。

 これだ、と思いました。僕はこれで生きていける。この光を見ていれば、きっと生きていける。気がつけば、父の葬式でも流さなかった涙が目からこぼれ落ちていました。すると、その人は僕に固いものを差し出しました。手探りで確かめてみると、それは本でした。突然泣き出してしまった僕を慰めようとしてくれたのだと思いました。

大丈夫。きっとできる。そんな風に言われた気がしました。もちろん、本は読めませんがその人の気持ちが嬉しくて、僕は何度も何度も頭を下げます。その人はまたヴァイオリンで返事をして、音楽室を出ていきました。

 僕は家に帰ると、すぐ祖父母にヴァイオリンを習いたいと伝えました。ヴァイオリニストになりたいと打ち明けたのです。プロになることは、もちろん並大抵のことではありません。祖父母は急に言われ、驚いたようです。ただでさえ困難な道へ、目の見えない僕を進ませるのか。不安は数えれば、きりがありません。けれども、それは祖父母にとって小さな希望でもありました。二人にはその頃の僕が、表情をなくしてしまったかのように見えていたそうです。ですが、ヴァイオリニストになりたいと打ち明けた僕は、生き生きとした子供らしい表情をしていたのです。もしも、それが叶うのなら、どんなに素晴らしいことかと祖父母は思いました。

 幸いにも、僕の家系は音楽に明るく、アテもありました。僕の叔父にあたる瀬尾夏樹は、現在は作曲家で、当時はヴァイオリニストでした。ちょうど作曲家への転身を考えている時期で、時間に余裕があったようです。甥である僕のことを気にかけていたということもあり、叔父は祖父母の頼みを快く引き受け、ヴァイオリンの先生になってくれました。

 僕のヴァイオリニストとしての人生は、あの病院の音楽室から始まりました。あの日、あのとき、僕にモーツァルトのヴァイオリン協奏曲を弾いてくれた人に、僕にヴァイオリンを弾かせてくれた人に、せめて一言お礼を伝えたいと思っておりますが、それはまだ叶っていません。僕の恩人とも言えるその人が、どこの誰なのか、未だ見つけることができないのです。



 装幀室。

 今日上がってきたばかりのゲラから一旦目を離し、わらべは椅子にもたれかかる。

気になったのは恩人が透にプレゼントした本だった。どうして恩人は目の見えない透に本を渡したのだろうか? 泣き出した子供を慰めようとして、と透は思ったようだが、それにしても不自然な気がする。

「読んだか?」

 席を外していた巻島が帰ってくるなりそう言った。

「さっき届いたばかりですし。いくらなんでもそんなに早く読めませんよ」

「じゃ、なにしてんだ?」

「ちょっと気になることがあって。ほら、恩人さんは本を持ち歩いてたって話だったじゃないですか。その本を瀬尾さんにプレゼントしたって書いてあるんですけど、でも瀬尾さんの目が見えないことはわかってたはずですよね?」

「恩人も喋れなかったんだろ?」

 わらべは一瞬きょとんとした。

「なんで知ってるんですか?」

「瀬尾さんから聞いた。ヴァイオリンが聴けたんなら、耳が無事なのはわかる。恩人も瀬尾さんが自分と同じ症状だと思ったんだろ。子供なら本を家族に読み聞かせてもらってておかしくない」

 喋れないということは耳が不自由な可能性もあるが、ヴァイオリンを聴けたため、恩人は透の耳が正常なことがわかったのだ。

「目が見えないんだったら、他のおもちゃより、よっぽど嬉しいだろう。別に本をあげたって不自然なことはない」

 言われてみれば、確かにそうだ。まだ字が読めない子供だって、母親に読み聞かせをねだる。目が見えなければ、これ以上ない楽しみに違いない。

「じゃ、もしかしたら、その本が瀬尾さんへのメッセージだったとかないですか?」

「考えすぎだ。会ったばかりの見ず知らずの子供にメッセージもなにもあるか。泣いてたから本をやった。それだけだ」

「……でも、なにかのヒントがあるかもしれませんし」

「あったとしても、その本は瀬尾さんの手元にない」

「どうしてですか?」

「本のデザインやタイトルはわからないって言ってただろ。手元にあるなら、見ればわかる。なくしたってことだ」

「それも訊いたんですか?」

「わざわざ確認するほどのことじゃない」

「でも、じゃ、どうやって恩人さんが手に取るような装幀を作る気なんですか?」

 そう口にすると、巻島は呆れたような視線を向けてきた。

「お前、本気であんな馬鹿な要求を聞くつもりだったのか?」

「え……でも、そういう巻島さんだって、瀬尾さんに色々恩人さんのことを訊いてるじゃないですか」

「当たり前だ。わざわざ波風立てるようなことじゃない。努力したポーズぐらい見せて、気持ちよく諦めてもらうのが仕事だろうが。だから、やる気はあるが、現実的に厳しそうという雰囲気を出した」

「そ、そんな不誠実なやり方ってありますか」

「どこの誰だかわからない人間が手に取る装幀をデザインしろっていうのも、誠実とは思えないな」

 とりつく島もない。わらべはムッとした。

「でも、瀬尾さんはどうにか恩人さんに感謝の言葉を伝えたくて、この本を書こうと思ったんですよ」

「それがどうした?」

「本の気持ちになって、本の表情を作るのがわたしたちの仕事ですよね? この本は恩人さんに宛てて書かれているんです。だったら、恩人さんに届けてあげないと、本が可哀相です」

「話にならない」

 巻島はこれみよがしにため息をついた。

「本はたった一人の人間に宛てて作られるものじゃない。著者がそう思って書くのは勝手だ。俺たちの仕事は、そういう思いで書かれた本を読みたい読者に届けることだ」

「それでも、恩人さんに届くような装幀にしたって問題ないはずですっ」

「そもそもだ。手がかりがヴァイオリンの音色だけじゃ、手の打ちようがない。考えるだけ徒労だ」

「巻島さんは諦めるのが早すぎですっ!」

 あまりに頑なな巻島の物言いに、わらべの語調がどんどん強くなる。

「諦めの話はしてない。無駄だと言っている」

「そんなの、やってみなきゃわかりませんっ」

「どうかな?」

「じゃ、巻島さんはなんでもわかるんですかっ? 神なんですかっ」

「……小学生か」

 彼は白けた視線をわらべに向けた。

「巻島さん、言いましたよね。『パンドラの箱』のときはわたしが指揮だったって。それなら、ちょっとはわたしの言うことを信用してくれてもいいじゃないですかっ」

「あれは社交辞令だ」

 あっさりと言ってのけられ、わらべはあんぐりと口を開ける。遅れて、怒りが沸々とたぎってきた。柳眉を逆立て、彼女はキッと睨んだ。

「もういいですっ! それなら、もう巻島さんには頼みませんからっ。わたしがこの本に相応しいデザインを作ってみせます。巻島さんは巻島さんで、勝手にしたらどうですかっ!」

「ああ、そうか、好きにしろ」

 売り言葉に買い言葉とばかりに二人は顔を背ける。わらべはゲラに目を落とし、巻島はパソコンをじっと睨んだ。

 激しい言い争いを見守っていた装幀室の社員たちは、殺伐とした雰囲気に息を飲む。部屋の奧では副室長の藤野と、ちょうど居合わせた編集の三田が心配そうに視線を向けていた。

「ねえ。あれ、大丈夫? フォローした方がいい?」

 藤野が心配そうに小声で言う。三田はしばらく黙考した後にこう聞き返した。

「……フォロー? どんな?」

「気配り上手の三田君の力で、仲直り、みたいな」

 三田は生真面目な顔でまた考える。部署は違えど、藤野の役職は彼より上だ。

「……本気ですか?」

「お願い」

 三田の顔には厄介なところに居合わせた、と書いてある。彼は巻島と仲が良いわけではないし、怒ったわらべが手に負えないことは経験上よくわかっている。どうとりなしたものかと頭を捻った。

 とにかく話してみようと思ったのか、三田は二人の席へ向かった。すると、巻島が立ち上がり、タイムカードを切った。確かにもう定時だが、装幀室の社員は皆忙しそうに仕事をしている。この時間に帰ろうとするのは巻島ぐらいだ。

「本河、お前のタイムカード切っとくぞ」

 ばっとわらべが振り向いた頃には、巻島はもう彼女のタイムカードを打刻していた。

「ちょ、ちょっと、巻島さんっ。なに勝手に人のタイムカード切ってるんですかっ。わたしまだ帰りませんし。そういう仕返しは子供っぽいですよ」

「腹へった。奢ってやるからつき合え」

 面食らったような表情を浮かべるわらべをそっちのけで、巻島はさっさと帰り支度をする。パソコンのシャットダウンを確認し、鞄を手にした。

「なにしてんだ? 来ないのか?」

 わらべはくすっと笑い声をこぼし、巻島のもとへ寄っていく。

「素直に謝ってくれてもいいんですよ?」

「腹がへっただけだ。仕事をしたいなら残れ」

「あそこ行きましょうよ。和牛のお寿司が食べられるところ」

「現金な奴だな。いくら使わせる気だ」

「だって、巻島さんってわたしよりお給料多いじゃないですか。少しは誠意を見せてもらいたいですし」

 さっきの仕打ちの怨念を込め、わらべは下から巻島の顔を覗く。

「わかったわかった。お前の好きな店でいい。行くぞ」

「あ、ちょっと待ってくださいよ。わたしまだ用意できてませんし」

 すぐさまゲラを机にしまうと、パソコンの電源を落とす。バッグを持ち、「お疲れ様です。お先に失礼しますっ」と声をかけ、巻島を追いかけた。

「でも、巻島さんだって、できれば恩人さんに本が届けばいいって思いますよね?」

「できれば、な」

「できますよ。巻島さんなら。不可能はありませんっ」

「能天気な奴だな。少しは常識で考えろ」

 楽しそうに小競り合いをしながら、二人は装幀室を出ていく。三田が振り返って、藤野に言った。

「どんなフォローを?」

「ごめん。ほっといていいわ」

 二人は視線を合わせ、渇いた笑みを覗かせた。