若者と老人の二人連れが、一匹の犬とともに、山道に停車した自動車の中で焼死しているのが、通りかかった登山客によって発見された。遺体の損壊が激しいため年齢や性別は判断できず、身元は不明。自殺と推定される。なお、現場には三つの目を描いたカードが残されており、当局は遺書の代わりかと見ている。


 とある地方紙のWEBサイトに掲載されていたその記事を、あたし、湯ノ山礼音が読んだのは、前期試験を控えた七月の最終週のことだった。

 場所は文学部四号館四階、四十四番資料室。あらゆる妖怪伝承の正体を暴くべく編纂された幻の大著「真怪秘録」のために集められた資料がぎっしり並ぶ部屋の奥、本棚と壁に囲まれた畳敷きスペースに、いつものように顔を出したら、テーブルの上に置いてあったノートパソコンに表示されていたのだ。

「え? これって――」

 生協で買った弁当を置くのも忘れ、あたしは思わず声を出した。それを聞き付け、部屋にいた二人が寄ってくる。

 一人はワイシャツに黒ネクタイ、黒い羽織を重ねた、色白で痩せぎすの二十代後半の青年だ。もう一人はブルーのTシャツに腕まくりした白衣姿の学生で、明るい色の髪は短く、細いフレームの眼鏡を掛けている。この部屋の主にして妖怪学徒の絶対城阿頼耶先輩と、その貴重な友人、理工学部四年生の杵松明人さんである。

 ちなみにあたしの出で立ちは、いつもながらのタンクトップにショートパンツ。胸元には絶対城先輩お手製の、真怪「覚」の能力を抑えるためのペンダントが揺れている。

 先輩と杵松さんが、あたしの左右から液晶画面を覗き込む。身長こそ近いものの印象は対照的な二人の青年に挟まれながら、あたしは記事を読み返した。

 ニュースの日付は二日前。亡くなった人達の詳しい素性は記載されていないが、若者と老人と犬という組み合わせは、先日のあの事件でかかわった三人組のことを――正確には「二人と一匹」のチームのことを、否応なしに想起させる。先輩達も同じことを思ったのだろう、少し沈黙した後、杵松さんがぼそりと言った。

「……『狐』と仲間達……?」

「やっぱり、そう思っちゃいますよね……」

 前屈みの姿勢でモニターを見つめたまま、あたしは小さくうなずいた。

 年齢も性別も不詳の元天才マジシャンであり、詐欺師を専門に狙う詐欺師であり、人を化かすテクニックの追及に魅せられた怪人「狐」と、声帯模写の達人・貉屋金長、そして化け狐伝承の由来となった動物「バケギツネ」のタマ。つい二週間前まで先輩とやりあっていた一味である。

 最終的には先輩が狐の力の正体を見抜いた上で一杯食わせて、「狐」にまつわる一件は――その前後に個人的な色々はあったものの、その話は今はいい――終わった。消えようとする「狐」に、先輩が「白澤」のことを調べてくれと頼んでいたことは記憶に新しい。「白澤」とは、最近あたし達が巻き込まれた事件の裏に見え隠れしている存在で、先輩はその正体を探っているのだが……。

「でも、この『三つの目を描いたカード』って何でしょう……?」

「――白澤だ」

 あたしの疑問に、バリトンの効いた声が即答した。

 絶対城先輩である。あぐらを組んで背筋を伸ばした先輩は、懐から煙草を取り出そうとした手を止めた。煙草の匂いが苦手なあたしに気を遣ってくれているのか、この人、あたしの前では基本的に吸わないのだ。

「人面獣身の全知の神獣である白澤は、二つの目に加えて額に第三の目を有しており、左右の脇腹にも三つずつの目を持つとされている。三つの目は白澤のシンボルと考えていいだろう」

「じゃあこれは、白澤の警告? つまり――『狐』達は、その……消された、ってことかい? 白澤のことを探ろうとしたから……」

「……考えたくはないがな」

 語尾を濁し、先輩は悼むように目を閉じる。あたしは言葉を発せないまま、杵松さんと視線を交わした。「狐」は決して善人ではないものの、どこか憎めない性格だったし、何よりタマは可愛くて賢い犬だった。少なくとも外見は。あたしが絶句していると、先輩は長い前髪の下の視線をあたしに向け、「それにしてもユーレイ」と感心したように言った。ユーレイというのは、湯ノ山礼音の姓名の一文字目を繋げたあたしのあだ名だ。

「よくこのニュースに気付いたな」

「え? これ先輩が開いたページでしょ? このパソコンって先輩のですし、あたしが来たらこうなってましたし」

「何? いや、俺は今日はそれには触っていないぞ。明人か?」

「違う違う。僕、ついさっきここに来て、二人分のパスタ作って阿頼耶と一緒に食べて、本読んでただけだよ。阿頼耶は知ってるでしょ」

「確かに――しかし、なら誰が」

「私でーす!」

 いきなり場違いに明るい声が響き渡った。あたし達が反射的に立ち上がって振り返ると、畳の上に小柄でスレンダーな少女が立っていた。

 年齢は中学生くらい。きつね色のパーカーとオレンジのミニスカートに白のニーソックスという服装で、三角形の耳が付いたフードを被り、自慢げにニヤニヤ笑っている。初めて見る顔に初めて聞く声だったが、この背格好、そして何より、人を食ったようなこの雰囲気には覚えがある。まさか、と心の中で叫びながら、あたしはその名を口にしていた。

「きっ――『狐』?」

「正解! いやー、すぐに気付いてくれて良かったよ。念のため狐っぽいコーディネートで来た甲斐があったね。というわけで、久しぶりだね、お姉さん! それに絶対城さんと杵松君のお二方も。どう? 元気してた?」

「お前……どうやって――いや、いつからここにいた?」

「三十分くらい前かな。お姉さんが来るタイミングを見計らって、こっそりパソコンを立ち上げて、そのニュースを表示しておいたのさ! 大成功だったね!」

 ピースサインを出した「狐」がニイッと笑って胸を張る。このキャラクターは初めて見るが、この人の演技の幅についてはよく知っているので、今さら驚くこともない。どうやって気付かれずに忍び込み、今の今までどこに隠れていたのかについても同様だ。元天才マジシャンにはそれくらい朝飯前なのだろう。と言うか、それよりも聞きたいことはあるわけで。あたしは、左右に立つ先輩、杵松さんと視線を交わし、代表するように口を開いた。

「あ、あの……」

「何、お姉さん? タマなら今日は金長と一緒に留守番してるよ。今日は私一人だけ。会いたかったのならごめんね」

「あ、そうなんだ――って、いや、だからどういうこと? このニュースは何? あなた達は、その――」

「白澤の怒りに触れて焼き殺されたんじゃないか、って? うん。とりあえず、そういうことにしたんだよ」

 苦笑した「狐」がフードを脱ぐ。短く切りそろえた髪をくしゃっと撫で、「狐」は舞台俳優のように大げさに肩をすくめてみせた。

「白澤を調べ始めてから――じゃないな。調べてみるよって言った直後から、誰かに監視されてる気はしたんだよ。タマもそう言ってたし。でも、さすがにいきなり仕掛けてくることはないだろうし、何なら手を出してきてくれた方が尻尾を掴みやすい……とか思ってたんだけど、まさか急に車が火を噴くとは思わなかった。甘かったね」

「車が火を……? 一体、何をされたんだ」

「それがねえ絶対城さん。恥ずかしい話だけど、どこで誰に仕掛けられたのか、さっぱりなんだよ。とりあえず逃げるのが精一杯だった。ついでに言うと、どうしてこっちが探り始めたことにすぐ気付かれたのかも謎」

「なるほど……。だが、だとしたら、このニュースは一体どういうことなんだ。そういうことにしたと言ったが、身代わりの死体を用意したのか?」

「あ。それ心外」

 先輩の問いかけに、「狐」が頬を膨らませる。じろりと先輩に横目を向けると、「狐」は本棚にもたれて腕を組んだ。

「私は腐ってもマジシャン、騙して化かすプロなんだ。誰かをダイレクトに傷つけたり、人の尊厳を無視したりはしないってマイルールがあるんだよ。本物の死体を使うなんて、そんな無粋なことはしないさ」

「じゃあどうやって」

「簡単な話さ、お姉さん。現場検証に来た警察が上げた報告書の内容を、ちょっと改変してやったんだよ。今の時代、現場を確認する人とその報告を受ける人、それを広める人はそれぞれ別で、直接顔を合わせたりもしないでしょ? 情報が流れる過程にこっそり介入するだけで、いくらでも事実は作れるんだ。いつものルートで来た正規の情報って、慣れてる人ほど疑わないからね」

「へえ……。そういう手もあるんですね」

 しみじみ感心する杵松さんである。その眼差しが心地良かったのか、「狐」は上機嫌でうなずき、背筋を伸ばして先輩へと向き直った。

「というわけで、本題だ。白澤は予想以上に得体の知れない相手で、その手駒がどこに潜んでいるのか見当も付かないと来た。とりあえず、ここにはいないけどね」

「分かるんですか?」

「それもまた簡単な話だよ、お姉さん。ここには私と君達しかいないし、君達のリアクションに不自然なところがあったらすぐ気付く。これでも私は詐欺師でマジシャンで、しかも君達には一度騙されているから、注意は怠っていないよ。で、その白澤は、自分のことを探る相手にはどうも容赦しない性質らしいと来た」

「そのようだな。しかし、だとすればどうして俺達は無事なんだ」

「そこは謎だよねー。君を軽んじてるのか、面白がってるから放任してるのか……。口封じする気ならとっくにやってるだろうしさ。さすがに気付いてないってことはないと思うけど――ともかく、今はこっちの話。いくら何でも相手が悪すぎる。一度は受けた依頼だけど、私達はここで身を引くよ。許してほしい」

「ああ。分かった」

 丁寧に頭を下げられ、先輩は素直にうなずいた。冷淡でぶっきらぼうな口調のままだったが、そこそこ付き合いの長い身には先輩が安堵しているのがはっきり分かった。

 他人には無関心で冷徹で不愛想に見える絶対城先輩だが、これで案外知人の安否を気にする優しい性格の持ち主なのだ。で、あたしは、そんなところも好ましく思っているわけだ。そんなことを考えているうちに顔がほころんでしまっていたらしく、先輩はあたしを不思議そうに横目で見た後、「狐」に向き直った。

「これからどうするつもりだ?」

「ほとぼりが冷めるまで身を隠すかなあ。私達を追っていた詐欺グループの連中も、あのニュースを知ったら諦めるだろうしね。そういう意味では助かったよ。もう君達とは会うことはないかもね」

「そうか……。最後に、一つだけ聞かせてほしい」

「何だい?」

「お前は、白澤とは何だと思う? 個人か。それとも組織なのか」

「んー……。そういうのじゃない気もするなあ。何となくだけど」

 腕を組んで首を捻った「狐」が、つかみどころのない答を口にした。そういうのじゃないと言われても、じゃあどういうのなんだ。顔を見合わせるあたし達を前に、「狐」は「根拠も理由もないんだけどね」と言い足し、どこからともなくシルクハットを取り出した。

「――では、お名残は尽きませんが、これにて」

 シルクハットを胸に当てた「狐」が、深々と頭を下げる。元芸人だけあって堂に入った一礼だ。あたしは「うん」とうなずき、見送ろうとしたのだが、その時、「狐」が思い出したように顔を上げ、好奇心を全開にして無邪気に尋ねた。

「そう言えばさ。お姉さん、この絶対城さんに告白して、付き合うことになったんだよね」

「え。なっ――何でそのことを!」

「何でって、私、あの場にいたんだよ? 消えた後のことは見てないけど、どう考えてもフラれる展開はなさそうだったし、てかその顔見れば分かるし。で、どうなの? 大丈夫? 問題なく恋人やれてる? ラブラブ?」

「な――」

「ぬ」

 爛々と目を輝かせた「狐」の問いかけに、あたしと先輩は全く同時に短く呻いた。いきなり何を聞きやがるんだこの子は! いや、「この子」も何も、年齢は分からないんだけど! 答に迷ったあたしは、助けを求めるように先輩を見たが、先輩も気まずげに目を逸らしたまま何も言わない。押し黙るあたし達を見比べ、頬を掻いて苦笑したのは杵松さんだ。

「いや、それがですね。聞いてくださいよ」

「杵松さん言わなくていいです! と言うか! 『狐』! あなたに心配される必要はないですから!」

「へえー。じゃあ上手くいってるんだ?」

「そ、そうだけど? 何の問題も起きてませんし!」

「それは良かった! 変にぎこちなくなってないかな、ってタマがすごく心配してたんだけど、それを聞いて安心したよ! じゃあ、仲良くね!」

 あたしを見上げる「狐」の顔に、腹立たしくなるほど明るい笑みが浮かぶ。同時に、ボン、と小さな音が響いて白煙が広がり、それが晴れた時にはもう、きつね色のパーカーの少女の姿はどこにも見当たらなかったのだった。


***


「とは言ったものの……実は上手くいってないんだよね……」

 プラスチック製のレンゲを片手に、あたしは重たい息を吐いた。

「狐」が去った翌日のお昼、学食の四人掛けテーブルである。向かいの席に座っているのは入学以来の知人、波平友香だ。

 くるくると巻いた長い髪、空色のワンピースにフリル付きの黄緑のベスト。最近は可愛い系で攻めている友人と、自分で注文した大盛中華定食を前にして溜息を落とすと、友香はパンをちぎる手を止めて首を傾げた。友香は背丈も見た目もいかにも女子なので、相席すると自分の背の高さや腕の硬さなどが痛感できてしまう。羨望の溜息を漏らすあたしに、友香が不思議そうに問いかけた。

「どうして? 礼音とあの黒い人って」

「絶対城先輩ね」

「その先輩って、結構長い付き合いだよね」

「うん、まあ……。先輩と知り合ったの、入学してすぐだし」

 相槌を打ち、去年のことを思い返す。最初は妖怪研究のサンプルでしかなくて、あの頃は随分雑な扱いだったっけ。覚の力の検査だの訓練だのはいつの間にかなくなったけど、それにしても、まさかあの人と付き合うことになるとはね。他人事のように感心していると、でしょ、と友香が反応した。

「最近出会ってとりあえず付き合ってみた! とかならともかく、お互いのこと知ってる同士なのに、どうして? 大体、礼音から告ったんだよね」

「う、うん、まあ……。そうなんだけど、何だか最近ぎこちなくってね……? 元々、先輩とあたしって、趣味も合わないし話も合わないし……」

「あの人、礼音と違ってインドア派っぽいもんねー。だから、付き合い始めてみると、何をしていいのか分からなくなっちゃって悩んでる感じ?」

「なっちゃって悩んでる感じ……」

 静かに小さくうなずくあたし。白澤のことも怖いけど、そっちについては「『狐』も言っていたろう。俺達の命を狙う気ならとっくに仕掛けられている。直接手を出してきていない以上、適度に用心すればいい。過剰に恐れることはない」と先輩は言っていたし、そう言われるとまあそんなもんかなとも思う。というわけであたしの当面の悩みは圧倒的にこっちなのであった。

「何か話題があるとちゃんと喋れるんだよ? でも、何でもない時間ができると、どうしたらいいのか分からなくて……。前はそんなことなかったのに、最近、普通に話すのすらぎこちなくなってるし」

「自然体でいいと思うんだけど」

「同じことを杵松さんにも織口先生にも言われた」

 でもそれが難しいんだよ、とあたしは付け足し、上背を縮めてエビチリを食べた。

 今まで通りに自然に接すればいいということは、頭では理解している。

 だが、今はこの人が自分の恋人であり彼氏なのだと意識してしまうと、もう駄目だ。ぎこちなくなり、言葉が見つからず、気まずくなり、距離が遠のく。もう完全にタマに心配された通りである。犬に――いや、狐に恋路を心配される学生というのもどうなんだ。「明らかに前より会話が減ってる」とこぼすと、友香は眉根を寄せた。

「だから、どうしてそうなるの? 礼音はあの先輩のことをよく知ってて、その上で好きになって、付き合ったわけでしょ? いちゃいちゃしたくないの?」

「い――いちゃいちゃって……!」

「どうなの」

「う。いや、まあ、その、そういうわけでは……ないんだけど……ほら、そういうのは、ずっと、別の世界の話だと思ってたから……ね?」

 この上なく歯切れの悪い答をつぶやきながら、視線を必死に泳がせる。友香は心底呆れたようで、子供か、と言いたげな視線をこちらに向けた。

「……ほんとにもう。彼女の方が奥手なら、男の子の方から構ってあげればいいと思うんだけど――あの先輩、そういうことはしなさそうだよね」

「うん。先輩、基本的に個人主義で、用もないのに他人に話しかけたりしないから……。それに」

「それに何?」

「先輩の方も、あたしと同じで、戸惑ってる気がするんだよね……。あたしとの間合いを掴みかねてる、みたいな」

 首を捻りつつあたしは言った。これは思い込みではない……はずだ。実際、この前も杵松さんに「素直に、自然に接すればいいんだよ」とか諭されているのを見てしまったし。と、それを聞いた友香が目を丸くした。長い睫毛が広がる。

「あの人、そんなシャイなの? もっと余裕ある大人だと思ってた」

「案外そうでもないんだよ。そういうところが人間味があって良いんだけど……」

「礼音? 私、相談なら乗るけどのろけは聞かないって言ったよね」

「う。す、すみません」

 友香に睨まれあたしは縮こまった。のろけているつもりはなかったのだが。内心でつぶやいて反省し、箸を取って春巻きに手を伸ばす。そのまましばらく無言で食事をした後、あたしはサラダを食べる友香に改めて尋ねた。

「あの――友香、確か彼氏いるよね……? 部屋に行ったり、二人で過ごしたりしてるよね」

「うん。それが何?」

「どう接してるの」

「どうって――別に、普通に?」

「参考にならない!」

 素っ気ない返事があたしを打ちのめす。何だその達人みたいな回答は! 怒りに駆られて白米をがつがつと掻き込んでいると、友香は少し考え、口を開いた。

「やっぱり、向こうが来ないなら、こっちから行くしかないんじゃない?」

「こっちからって」

「だから、自然な感じで接触するの。嬉しいことしてくれた時に『大好きー』って抱きついてみるとか、ふにゃーってもたれかかってみるとか」

「無理無理無理無理無理無理無理!」

 思わず大きな声が出た。何て恐ろしいことを言うんだこの子は。あたしはぶるぶると首を横に振り、「絶対無理」と真顔で付け足した。

「そんなのできるわけないって……! それならまだ、暴れるダチョウを素手で取り押さえろとか、千年続く暗殺集団の本拠地に殴り込めとか、人質取られた状態で電気の流れる木刀を使う剣士に勝てとか、雨の降る夜の森で野獣の群れと戦えって言われた方が! 全っ然ましだから!」

「何その具体的かつ非現実的な例え」

「実は全部実体験で、ってそれはともかく、無理なものは無理だからね? あたしがそんなことしたら、何かに取り憑かれたと思われかねないし……」

「やっぱり湯ノ山先輩! お久しぶりです」

「恥ずかしくて死ぬ――って、え?」

 不意打ちのように呼びかけられ、あたしは視線を横に向けた。

 そこに立っていたのは童顔の男子学生だ。身長は百六十センチ弱、座っているあたしと目線の高さはあまり変わらない。もじゃもじゃした髪は短く、大きめのTシャツにカーゴパンツ、リュックを背負い、空のどんぶりの入ったトレイを持っている。食べ終えた食器を返しに行く途中だったらしい少年は、友香にもどうもと会釈し、改めてあたしに向き直って笑った。

「『無理無理無理』って聞き覚えのある大きな声が聞こえたので、もしかしてと思ったんですよ」

「え。そ、そんな大きな声だった……?」

「大きな声だった」

「ですよね。ご無沙汰してます、湯ノ山先輩。俺のこと、覚えてます?」

「……うん。こちらこそ久しぶり、若林君」

 照れ臭さを苦笑でごまかしながら、あたしは挨拶を返した。この少年は若林直央君。一見すると中学生に見えなくもないが、れっきとした農学部の一年生だ。

 知り合ったきっかけは、春先に起こった「こそこそ岩」事件。彼の祖父が買ってきた彫刻が慢性頭痛を引き起こし、インチキ霊能者の阿賀スティアがそれに付け込もうとした一件である。あの時は絶対城先輩も杵松さんも不在で、あたし一人で事に当たらねばならなかったので、よく覚えている。

「三か月ぶりくらいだよねー。元気だった?」

「ええ。ところで湯ノ山先輩、何が『無理』だったんです? 何かあったんすか?」

「へっ?」

「あー、心配しなくていいわよ。単なるのろけだから。礼音、最近――」

「言わなくていいから友香! え、えーと、とにかくあたしは全然大丈夫だから心配しないでね? ほんとに」

「そうですか? なら良かったですけど……それに、丁度良かったです」

「丁度いい? どういうこと?」

 若林君の意味ありげな言葉に、あたしはレンゲを持った手を止めた。と、あたしに見据えられた若林君は急に神妙な顔になり、声を潜めて言った。

「あの、湯ノ山先輩。相談したいことがあるんですが……今、少しいいですか?」


 隣の席に座った若林君が持ち掛けてきたのは、農学部の先輩である女子学生の義理のお姉さんについての相談だった。名前は南戸茉利奈、専業主婦。その人が今、とある占い師に入れ込んでるらしくて……と若林君はあたしに語った。

 先日行われた農学部の実習打ち上げで、若林君が祖父母がインチキ霊能者に騙されかけた話をしたところ、南戸という先輩が「うちの兄の奥さんもそれに似てる」と切り出したのだそうだ。

「その人――南戸先輩の義理のお姉さんの南戸茉利奈さんは、完全に占い師を信じちゃってるそうなんです。でも、家族から見ると、あれはカモにされてるようにしか見えないって」

「カモにされてるって、どういう風に?」

「はい。その占い師、確か汲陀部全って名乗ってるそうですが……そいつは、予言をするんです。会員と言うか、お客相手に、定期的に一斉送信で予言メールを配信するんですよ。明日地震が起きるとか、どこどこの方角で事故があるとか……。で、それが、びっくりするくらい当たる」

「え。当たっちゃうの?」

「当たっちゃうらしいんですよ」

 驚いた友香に若林君がうなずいた。どう判断すべきか決めかねているのだろう、うーんと言いたげに首を傾げつつ、童顔の農学部一年生は続ける。

「最初は、知人に紹介されて占いサイトに気軽に登録したんだそうです。半信半疑だったんだけど、あまりに当たるので気味悪くなってきて。そんなすごい人なら一度自分も占ってもらおうと思って汲陀部のお店に行ったら、何から何まで見抜かれてしまって、もう完全に信用しちゃったらしいです」

「へえ! そんな当たる占い師なら私も行ってみ」

「友香。それで若林君、続きは? 困ってるってことは、何か具体的な問題が起きてるんだよね」

「はい。汲陀部、それまでは比較的当たり障りのない予言ばっかりだったのに、先週、『近いうちに大災害が起きる』『でも、私のところでお札を買えば救われる』って言い出して、変な動物の描いてあるお札を売りつけてきたらしいんですよ。あからさまに怪しいんですが、茉利奈さんは汲陀部を信じちゃってるわけで、家族は困ってるそうで……。『インチキ霊能者を追い払ったことあるなら、何かいいアイデアない?』って聞かれたんですが、追い払ったのは俺じゃなくて湯ノ山先輩ですから……」

「あたし一人でやったわけでもないけどね。みんなに手伝ってもらったし」

「でも、阿賀をやっつけてくれたのは湯ノ山先輩じゃないですか。あの時の先輩、すげえかっこよかったですよ!」

「ど、どういたしまして」

 憧れの眼差しを向けられ、あたしは照れながら苦笑し、同時に納得した。似た被害に遭いかけた若林君としては他人事ではないし、かと言って対策も思いつかないのだろう。と、友香が興味ありげに身を乗り出し、若林君に問いかけた。

「ところで、変な動物ってどういうの?」

「動物って言うか、妖怪ですかね。体は狸みたいな動物で、顔がお爺さんで……あ、写真がありますよ」

 そう言うと若林君は携帯電話を取り出して操作し、あたし達に示した。


***


「クタベだな」

 若林君や友香と食堂で別れた少し後の四十四番資料室にて。あたしが若林君から送ってもらったお札の画像を見たとたん、絶対城先輩はさらりと言った。

 先輩的には知っていて当然の名称らしいが、そんな名前は初耳だ。文机で読書中だった先輩の隣に座り込んだまま、あたしは自分の携帯の液晶画面を改めて眺めた。

 若林君の言った通り、獣の体で老人の顔の怪物の絵が表示されている。白黒の古めかしい画風は、詳しいことは分からないが、江戸時代くらいのものだろう。体は黒い毛で覆われており、四つん這いで、顔は皺だらけだ。禿げた頭頂部は尖っていて、耳の上には長い毛が伸び、眉毛と髭も相当長い。少なくとも可愛くはないそれを見ながら、あたしは文机に向かっている先輩に問いかけた。

「くたべ? この妖怪の名前ですか? てかそもそもこれ、妖怪?」

「ああ。クタベは人面獣身の妖怪だ。越中、即ち現在の富山県の山中で、薬草を採取していた者の前に現れ、『今から四、五年のうちに病気が流行って大勢が死ぬが、自分の絵姿を見れば助かる』と告げたとされている。この話は文政十年から十一年、つまり一八二七年から二八年にかけて大阪や江戸などの都市圏で流行したらしく、六例ほど記録が残っている。この絵は、その中でも一番詳細で達筆なもの――文政十年発行と思われる摺物からの転用だな」

「へえ……。相変わらず詳しいですねえ。さすが先輩」

「まじまじ見るな」

「す、すみません」

 横目で睨まれてしまったので頭を下げ、視線を逸らす。杵松さんもいなければ来客もないので、今は完全に二人きり。例のぎこちなさはあるが、話題があるのでまだましだ。

「クタベって名前、汲陀部と似てますね……。あ、汲陀部ってのは、これを売ってる占い師の名前なんです。予言が得意で、このお札を買えば災厄から逃れることができるって言ってるそうで」

「だとすれば、それは似ているのではなく、実際クタベに因んで名乗っているんだろうな。絵姿の描かれた護符が厄除けになるという触れ込みも妖怪クタベと同じもの。もっとも、これはクタベだけでなく、予言獣全般に通じる特性だがな」

「よげんじゅう?」

 また聞き慣れない言葉が出てきた。きょとんと眼を瞬くと、先輩は小さく肩をすくめ、読みかけの本を置いて体ごとこちらに向き直った。ちゃんと説明してくれる気になったらしい。

「予言の獣と書いて予言獣。その名の通り、未来を見通して予言をする動物型妖怪の総称で、近世から近代にかけて多く採録されている。行動パターンは似通っていて、何年間豊作が続く、疫病のような災厄が来るなどと目撃者に告げ、自分の絵姿を持ち歩けば災厄から逃れられると教えるんだ」

「へー。そういう種類の妖怪がいるんですね。その予言って当たるんですか?」

「当たるわけがないだろう。予言獣の予知の結果について調べた記録はこの資料室にあるが、該当する災厄が結局起こっていないか、何か起こってから『以前予言されていたんだ』と誰かが言い出すか、このどちらかのパターンばかりだ」

「何だ。ちょっとがっかりしました」

「現実はそんなものだ。絵姿に効力があるという設定は、天台宗の角大師信仰の転用と思われるものの、規定のデザインが存在する角大師と異なり、予言獣の場合は素人の手による絵が多く、ありていに言えば全体的に稚拙だ。それが信憑性を増しているわけだが……。なお、予言獣はクタベのように人面であることが多いが、首から下の容姿は牛だったり魚だったりと様々で、名称もそれぞれ異なっている。出現場所も山から海から人里まで幅広く、このクタベは山中に現れるもので――」

 そこまでを流暢に説明したところで、先輩はふと思い出したように言葉を止め、眉根を寄せて「ところでクタベがどうかしたのか?」と尋ねた。その純朴な質問に、あたしはほんの少し呆れた。普通は解説する前にそれを聞きませんかね、先輩。

「まあ、それでこそ絶対城先輩って感じですけど……」

「何がだ」

「こっちの話です」

 というわけで、あたしは若林君から受けた相談を先輩に語った。先輩は関心があるのかないのか無表情で聞いていたが、あたしが「インチキだったら放ってもおけないですし、南戸茉利奈さんがお札を買いに行くときに付き添うつもりです」と話すと、いきなり大きな溜息を吐いた。羽織の下の薄い肩がげんなりと揺れる。

「――どこまでお人好しなんだ、お前は」

「だ、だって、知らない仲でもないですし……」

「知らない仲だろう。三か月前に一度かかわっただけの後輩の先輩の兄の妻は、一般的には赤の他人だ。違うか?」

「……おお。言われてみればそんな気も」

「だろうが。それに、そのカモにされている女性」

「南戸茉利奈さんですか?」

「それだ。素性は知らんが、いい年の大人だろう? 占い師に入れ込むのは本人の勝手だ。本人どころか家族から頼まれたわけでもないのに出しゃばるのか? どうせ相談料も取っていないんだろう」

「ま、まあ、そうですけど……」

「それにだ。怪しければ指摘すると言っていたが、汲陀部なる占い師がインチキの詐欺師だとして……十中八九そうだろうが、その手口をお前に暴けるのか? 暴けたところで相手が素直に引き下がる保証もないんだぞ。若林の祖母の事件の時は成功したからと言って、今回も成功するとは言い切れまい。下手に根に持たれたら、それはそれで厄介だ。お前の今後の学生生活に支障が出る可能性もあるだろう」

「う。それは……はい……」

 淡々とした先輩の言葉を受け、あたしの背が縮こまる。分かってはいたことだけれど、指摘されると自分の浅はかさが浮き彫りになっていたたまれない。あたしは崩していた足を思わず正座に組み替え、むき出しの肩を狭めた。

 と、そんなあたしを前にした先輩は、物憂げに再度溜息を落とし「……言い方が悪かったな」とつぶやいた。長い前髪の下、細く冷たいけれどどこか人好きのする目があたしを見据え、しっとりと重く低い声が口から洩れる。

「俺は別にお前を責めているんじゃない。お前のその抱え込みすぎる性格を、心配しているだけなんだ。頼まれごとや相談をどんどん受けていると、いつか自分のキャパシティーを超えるぞ」

「……それは分かってます」

「ならなぜ受ける」

「え? えーと、だって……ほら、まだキャパオーバーしてないですし」

「何?」

「そりゃ自分の許容量を超えて溢れちゃったら困りますよ? でも、えーと、そうなったらそうなった時じゃないですか……? もう無理だーってなるまでは、抱え込みたいし助けたいなー、と言うか……。ほら、あたしだって今まで先輩や杵松さんに助けてもらったわけですし、情けは人の為ならずと言うか、困ったときはお互い様と言うかですね……」

 目を泳がせながらもそもそと歯切れの悪い言葉を紡ぐ。と、先輩は一度眼を瞬き、呆れたような感心したような息を漏らした後、ほんの微かな――それでいて確かな――笑みを浮かべた。え? 何で? 久々に見る先輩の笑顔に、どきんと大きく胸が鳴る。あたしは思わず顔を赤くし、キッと先輩を見返していた。

「な、何です? 何がおかしいんですか」

「おかしくはない。嬉しいんだ。だから俺は、お前の――何でもない」

 誇らしげに語ろうとした先輩だったが、いきなり話を打ち切った。青白い地肌が薄赤く染まり、前髪の下の双眸が文机へと戻る。どうやらあたしを褒めようとしたものの、途中で恥ずかしくなってしまったらしい。

 その意気込みは嬉しかったし、もうちょっと頑張ってくださいよ年上として、とも思ったが、問題は会話が途切れてしまったことだ。できれば手伝ってくださいと持ち掛けたかったのだけれど、話題は既に出尽くしており、話を再開しづらい空気になってしまった。

 もっとも、先輩に言われたことは全部その通りだし、それを踏まえた上で手を貸せと言うのも虫が良すぎる話である。だよね、と自分を納得させると、あたしは文机に置いたままだった携帯を取った。

「……お騒がせしました」

「待て。お前一人でやるつもりなのか」

「だって、あたしが自分で引き受けたことですし――って、先輩? もしかして手伝ってくれるんですか?」

 あたしはハッと顔を上げ、先輩の横顔を凝視した。横から見ると鼻の高さがよく分かる。中腰の姿勢で見つめた先で、先輩は手元の古書に目を落としたまま、ドライな声で先を続けた。

「怪異を無下に否定するのは俺の望むところではないが、粗雑な超常現象をのさばらせておくのもまた不快だ。それに、クタベのような予言獣の特性――『絵姿を持ち歩けば厄除けになる』という特徴は、あの霊獣白澤に通じる」

「白澤に……? そうなんですか」

「ああ。無論、これだけを根拠に、汲陀部なる占い師と『狐』を黙らせようとした何者かとの間に関連があると言い切ることはできないが、万一ということもあるからな。今は何であれ白澤に通じる情報が欲しいし、もしも汲陀部が白澤に繋がっていたなら、お前の身に危険が及ぶ可能性もある。なおのこと一人で行かせたくはない」

 先輩が淡々と言葉を連ねる。普段のぶっきらぼうとはどこか違う、意図的に冷淡に振る舞っているかのようなその語り口に、あたしの目が丸くなり、同時に感謝の念が湧き上がった。

 危険が及んだ場合に助けてるのは主にあたしなんですけど、とは思ったものの、それはそれ。先輩が手を貸してくれるのはこの上なく心強い。ありがとうございます、と言おうとしたその時、ふと、友香にもらったアドバイスが蘇った。

 ――嬉しいことしてくれた時に『大好きー』って抱きついてみるとか。

 今か。あれをやるべきは今なのか! あたしはぐっと押し黙り、口を開いた。

「先輩。だい――だい」

「橙がどうかしたか」

「せ、先輩って、橙色は滅多に着ないですよね」

「着ないが……急にどうしたんだ。おかしな奴だな」

 怪訝な顔で首を傾げた後、先輩は再び読書を再開した。今度こそ話は終わったと言いたいようだ。そしてやっぱりあたしにはこれは無理だ。心の中で友香に告げ、あたしは文机へと近付いた。何だ、と先輩が横目を向ける。

「まだ用があるのか?」

「用と言うか……いや、一緒に来てくれるのはありがたいんですよ? でも、何も調べる素振りがないので、気になって……。言いましたよね? 汲陀部って占い師、予知能力があって、一瞬で初対面の相手のことを見抜くんですよ。持ち掛けておいて何ですけど、もしも本物だったら先輩も」

「馬鹿を言え。そんなことはあり得ない。その手の怪しい能力は、井上円了の時代に既に否定されている」

「井上円了って、妖怪学を始めた明治時代の学者でしたっけ。そんな時代に?」

「ああ。超常的な体質を有し、本来は知りえないことを知覚できる人間がいるという話は、明治四十三年頃に盛んに語られた。いわゆる千里眼ブームだな。この時、多くの学者が超能力の実在を確かめようと躍起になったが、結局何も証明できずに終わった。似たような試行錯誤はそれ以降も何度も行われたものの、結局、確証は得られていないままだ。もっとも、千里眼ブームの時に論争の対象になったのは主に透視や念写であって、予知は対象外だったんだがな」

「へー。どうしてです」

「おそらく、もし予知が実在したとしても、原理を科学的に説明しようがないからだろう。透視や念写は、比較的仕組みが説明し易そうだったので検証対象に選ばれたわけだ。そもそも、予知能力は数多の超能力の中でも、最もあり得ないものの一つだ。まだ確定していない未来のことを知るのは不可能だからな。できるのは精々、予測や予報、あるいは当てずっぽうを口にしてそれが当たるのを待つことくらい」

「そう言われるとそんな気もしますけど……。でも、相手のことを一発で見抜くってのはどうなんです? 汲陀部が、相手の内面を――心を読むとしたら?」

 そう言うと、あたしは胸元のペンダントを掴んで示した。チェーンの先に揺れる竹のリングは、真怪としてのあたしの力、覚の読心能力を封じるお守りだ。心を読む力も予知同様にあり得ないものだけど、何しろここに実例がいる。

「もしですよ? もし万一、汲陀部が覚だったら」

「それもない。心を読む力があって、かつ金が欲しいなら、占い師などやらずとも幾らでも儲ける手段はあるだろう。予知で客を集めて護符を売る必要はない。逆に考えると、そんなまどろっこしい手口に頼っているのだから、実際に能力は持っていないと言える」

「な、なるほど……。うーん、納得できるようなできないような……」

 言葉を濁し、あたしは腕を組んだ。ほんとに大丈夫なのだろうか。先輩が手伝ってくれるのは嬉しいけど、巻き込んだ側としては先輩が失敗してダメージを被るところは見たくない。と、あたしの不安に感づいたのだろう、先輩は軽く首を振り、「お前は優しいな」と小さな声を漏らした。だから不意打ちでそういうのやめてください!

「安心しろ、ユーレイ。お前の話を聞いた時点で、汲陀部の手口の見当は付いている」

「え? いや、でも、あたしの話って又聞きの又聞きですよ? 具体的なことなんか、あたしも全然分かってないのに……」

「俺を信用していないのか?」

「う! ず、ずるいです、その質問……。してるに決まってるじゃないですか」

「なら大丈夫だ。汲陀部の所に出向く前に声を掛けてくれ」

 穏やかに告げ、先輩は今度こそ本に戻ってしまった。集中を示すかのように目が細まり、白い指がリズミカルにページを繰り始める。少しだけ背を丸める先輩を見ていると、またも友香のアドバイスが脳裏に響いた。

 ――ふにゃーってもたれかかってみるとか。

 あれを聞いた時は無理と即答してしまったが、先輩は別に触れた瞬間反撃してくるわけでもないのだから、チャンスがあれば――例えば今なら――行けなくもない。問題は間合いとタイミングだが……! とかなんとか考えていると、先輩がふいにびくっと震え、警戒しながらあたしを見た。え?

「ど、どうしました先輩」

「分からんが、殺気を感じたような……と言うかユーレイ、なぜ身構えている?」

「え? あ、ほんとだ」

 言われて初めて気づいたが、あたしは妙な姿勢になっていた。立て膝で両手は太ももに添え、背筋はまっすぐ伸びている。膝行という、合気道において正座から行動に移る際の体勢だ。格闘家の悲しい性で隙を探ってしまっていたらしい。

 その後も結局あのぎこちない空気は払拭できず、あたしは距離を縮めるのを諦め、資料室を後にしたのだった。ああ、自然体って難しい!


***


「いいですか奥さん。貴女はわしを信用してくださった。だからこそわしも、秘密をお教えしておるのです。近いうちに大きな災厄が来る、そこから逃れる方法は一つしかない――と。無論、わしとて大勢の命を救いたい。しかし、お伝えしましたように、未来は常に不確定で不安定なもの。大勢に教えると未来は変わってしまうのです。お分かりいただけますな?」

「……はい」

 中年の占い師の問いかけに、南戸茉利奈は抑えた声でうなずいた。

 部屋の隅の厳めしい鏡には、茉利奈自身の姿が映っている。地味なブラウスにシンプルなスカート、ピンで留めただけの髪、膝の上には学生時代から使っているバッグ。変わり映えのしない容貌から目を背けて顔を上げると、布のかかった丸テーブルに置かれた人面獣のお札と、向かいに座る占い師の顔が目に入った。

 彫りの深い面長の顔をした、五十がらみの男性である。長い髪を左右に分けて顎鬚を伸ばし、大柄な体に纏っているのは紫色のダブルのスーツ。この「占いの館」の主、汲陀部全だ。

 もっとも、館と言っても独立した建物ではなく、ここは雑居ビルの一室だ。客は受付と待合室を通り、この薄暗く狭い部屋で汲陀部と一対一となり、占われる――汲陀部の言葉によれば「クタベ様の託宣」を授かる――のである。おどおどした茉利奈を前に、汲陀部は心配そうにテーブルに肘を突き、口を開いた。

「不安そうですな、奥さん。もしや、わしをまだ信用しきれないと?」

「い、いえ、そんなことは……! メールの占いは、全部当たっていましたし」

 生来の気弱な声で答えながら、茉利奈は今まで受け取った一斉配信メールのことを思い出し、語った。町の北で火災が起きるべし、三日後に大地鳴動すべし、二日後に自動車事故起こるべし……。端的かつ不吉なそれらのメールは、いずれも的中していたのだということを。

 汲陀部のメール会員になったのは、知り合いに誘われて断り切れなかったからに過ぎないし、元々茉利奈はオカルトの類は信じない主義だった。だが、それだけに、受けたショックは大きかった。占いとはそんなに当たるものなのかと一度思ってしまった以上、その衝撃は忘れられない。

 そして、汲陀部から直接届いた「お悩みがあれば一度ご来館を」というメールに誘われてこの占いの館に足を運び、初対面の自分のことを全て見抜かれた時点で、茉利奈の疑念は確信へと変わったのだ。

「あの時は、本当に驚きました……。私は、思い付きで来ただけなのに……先生は、私の性格も、悩みも、全て見通してしまったんですから」

「力を授かったわしには、あの程度たやすいことです。これまたご存知の通り、配信メールはあくまでわしの力を知っていただくためのもの。故に、比較的当たり障りのない予知だけを伝えており、本当に大事な予知……来たるべき『大いなる災い』については、お越しになった方のみにお話ししております。病気の流行なのか天災なのか、はたまた人災かは残念ながら分かりかねますが、災厄が迫っていることは確実なのです。そして、これを手にしていただければ、奥さんとご家族が難を逃れることも、また確実」

 物々しい声で告げながら、汲陀部はテーブルの上の札を両手で撫でた。A4より少し小さいサイズの紙に、老人の顔と獣の体の怪物の絵がモノクロで印刷されている。茉利奈の中に残った常識が、これが、とつぶやいた。これが――こんなものが百万円か、と。

 正直、まだ不安もあるし、「騙されてるに決まってる」と呆れて反対した家族の意見も正しく思う。だがしかし、自分と家族の安全には代えられない。だから自分はこっそり貯金を引き下ろし――結婚前からの自分名義の貯金をこんな形で使うとは思わなかった――一人でここに来たのだ。

 ……これは、もう決めたことだから。

 そう自身に言い聞かせ、茉利奈はハンドバッグに手を伸ばす。だが、現金の入った封筒を取り出そうとしたその時、第三者の声が割り込んだ。

「悪いことは言わない。やめておけ」

 響き渡るバリトンボイス。待合室に通じるドアがいつの間にか開いており、そこに背の高いモノクロの青年が立っていた。

 黒の羽織に白のワイシャツ、黒のネクタイという風変わりな服装で、肌は大理石のように白く、長い髪は烏のように黒い。その傍らには、長身で短髪のタンクトップ姿の少女が不安げに寄り添っていた。驚く茉利奈が誰何する前に、汲陀部がやや語気を強めて問うた。

「何ですかな貴方は」

「俺が話しているのはこちらの女性だ。聞こえなかったのか? やめておけ、金を払う必要はないと言ったんだ」

「ちょっとお客さん! 困りますよ! ちゃんと待っててくれないと!」

 慌てて割り込んできたのは、受付にいた三十代の男だ。「お客さん」? 茉利奈に不審な顔を向けられ、白黒の青年はきっぱりと首を縦に振った。

「ああ。いかにも俺は待合室で待っていた次の客だ。そしてこちらは俺の連れ」

 しれっと言い張り、乱入してきたお客さんこと絶対城先輩は、連れに――つまり、あたし、湯ノ山礼音に目配せした。

 南戸さんにしてみれば、家族が知人に相談していたことは知りたくないだろう。たまたま居合わせた客を装う方が彼女に掛かる負担は少ないはず、ってことですよね。了解です。先ほどの打ち合わせを回想して「連れです」とうなずくあたし。汲陀部は先輩と受付の男を指差して言う。

「何をしている! つまみ出――いや、出て行ってもらえ」

「は、はい! お客さん、こっちへ――」

「断る」

 受付の男の言葉を、先輩がにべもなく拒絶した。受付役の男は、身長こそ先輩より低いものの、スーツの下の肉付きは遙かに良い。荒事にも慣れているように見えるが、先輩を本能的に恐れたのか、びくっと震えて立ち止まってしまった。

 気持ちは分かる、とうなずくあたし。絶対城先輩は痩せぎすの癖に妙に迫力があるのだ。威厳と言うかオーラと言うか、怒らせたら呪われそうと言うべきか。隣でそんなことを思うあたしを一瞥すると、先輩は静止した受付に会釈し、汲陀部と南戸さんに向き直った。

「盗み聞きするつもりはなかったが、待合室で待っていたら話が聞こえてしまったのでな。せっかくなので興味深く拝聴していたが……いやはや、酷いインチキもあったものだな。凄腕の占い師と聞いていたのにとんだ期待外れだ!」

「何? インチキ? わしのことか?」

「他に誰がいる。お前のやり口は――」

「ま――待ってください……!」

 先輩の糾弾を遮るように、小柄な女性の声が割って入った。南戸茉利奈さんだ。ベージュ系の地味な服装に地味な髪形、やや猫背気味で声も小さいが、地顔は清楚に整っているしスタイルもいい。いかにも幸薄そうな美人といった風貌のその人は、椅子から立ち上がって先輩を見据え、おずおずと続けた。

「汲陀部先生はインチキなんかじゃありません……! 出会ったばかりの私のことを、何でも見抜いてしまわれたんです」

「ほう。なら、俺に同じことができれば、貴女は俺も信じるのか?」

「え? そっ、それは――」

「論より証拠。では一つ、占ってみるとしようか」

 先輩が南戸さんに歩み寄る。年齢は同じくらいだろうが、南戸さんと比べると先輩は頭二つ分ほど高いので、相当な威圧感がある。気圧されているのか空気に飲まれたのか、無言で傍観する汲陀部と受付を一瞥した後、先輩は南戸さんに丁重に一礼した。

「申し遅れました。絶対城阿頼耶と申します。お名前は」

「み、南戸茉利奈……ですが」

「南戸さんですか。なるほど」

 冷ややかな目が南戸さんを前髪越しに見下ろす。この先の段取りはあたしも聞いていないので、先輩が何をするつもりなのか、なぜ占いを始めたのかさっぱりだ。てか、今日はインチキを指摘するだけだったのでは……? 困惑しながら見守る先で、先輩は「貴女は」と口を開いた。

「貴女は――とても献身的な性格で、頼りになる人ですね。淡々として見えますが、野心家な面もある。一見すると弱気な印象ですが強い一面も持っており、そして――冷静な人だ。その冷静さゆえに、時に周囲から敬遠されたり、誤解されたりすることもあるけれど、結論を急がずに決断を下す傾向がある……。違いますか?」

「えっ? そ、そうです……けど」

「でしょう。それに……ふむ。貴女は、昔を振り返ることもありますが、基本的には前向きで、過去より未来のことを考えがちですね。変化を好む一方で、落ち着きにも強い魅力を感じている。自分にはまだ活かされていない才能があると知っており、それを活用したいと思っています。また、外交的な面と、人を避けたがる面の両方を備えている……」

「あ――当たりです」

 南戸さんがぽかんと口を開けたが、びっくりしたのはあたしも同じだ。何でそんなことを知ってるんです、先輩? この人とは完全に初対面のはずなのに……。驚くあたし達、そしてなぜか青ざめる汲陀部らに見つめられながら、先輩は「でしょうね」と事もなげにうなずき、さらに続けた。

「では、いくつか質問を。まずは――これを聞きましょう。現在、あなたの関わりの深い人が非常に困難な状況に直面していますね?」

「はっ、はい……! 郷里の母が体を壊して……」

「そしてあなたは、大きな選択を迫られた……いや、迫られていますね」

「選択……? 息子の幼稚園の受験のことでしょうか……?」

「なるほど。見えたのはそれでしたか。あともう一つ……少し先に、扉が閉まるビジョンが見えます。心当たりは?」

「……扉?」

「ええ。とても大きな扉です。立派で、そして新しい」

「あっ、もしかして……! 実は、家を新築する予定があるんです」

「なるほど。それが見えたのでしょう――とまあ、私の占いは以上です。おそらく、貴女がこの汲陀部という占い師に告げられたのも、こんな内容だったのでは?」

「えっ? はい、確かに……。ですけど、どうして」

「それを今から説明します。とりあえずお掛けください。ところで、『バーナム効果』というものをご存知ですか?」

「……ばーなむ効果?」

 椅子に座った南戸さんが困惑する。そんな名前はあたしも初耳だ。だが汲陀部だけはさっと顔色を変え、テーブルを叩いて立ち上った。ばあん、と大きな音が響く。

「お前!」

「黙れ! 俺は今この女性と話しているんだ! ……失敬。さて、一九四〇年代の話です。アメリカの心理学者フォアが実験を行いました。不特定多数の学生を対象に、『これは君についてのことだ』と告げ、ある文面の文章を渡したのです。その文章はどれも同じ内容でしたが、それを読んだ学生のほぼ全員が、自分のことを言い当てられたと感じたそうです。――私が先ほど口にした一連の文章が、それです」

「えっ」

「え?」

 南戸さんとあたしの声が重なった。汲陀部はぶるぶると震えており、受付は雇い主である汲陀部を不安げに見つめ続けている。そんな一同を見回すと、先輩はゆっくりと歩きながら言葉を重ねた。

「多少はアレンジしましたが、文意についてはオリジナルのまま。もうお分かりでしょう、南戸さん? 人間が『これは自分のことだ』と思ってしまう内容には、一定のパターンがあるんです。補足を許していただけるなら、人は自然と自己評価を高くしてしまうというレイクウォビゴン効果、曖昧な物言いに勝手に意味を見出してしまうというプロクルステルス効果、そして、相反する要素を揃って提示されると、より自分にとって好ましい情報を反射的に受容してしまうというダートマス・インディアンズ対プリンストン・タイガース効果なども用いられているわけですが、まあ、そのあたりは長くなるので省略しましょう。要するに、お伝えしたいことは一つです。もう分かりますね」

「は……はい」

「そう。汲陀部全なる占い師が有しているのは、万物を見通す不思議な力ではありません。単なる古典的なテクニックに過ぎないんです!」

 先輩が凜々しく言い切った。南戸さんが息を呑む音が、狭い部屋に響く。ご理解いただけましたか、と先輩が続ける。

「相手の気持ちを的確にくすぐり、どちらともとれる表現を多用し、具体性に欠けた曖昧な質問をする。それだけで、人は言い当てられた、見抜かれたと思い込んでしまうんです。いわゆるコールドリーディングの技術です」

「そ……そうだったんですね」

「待て! お前、盗み聞きしていたなら知っていよう! わしはそもそも予知能力者なんだぞ!」

「あっ、それは……」

「予知?」

「そ、そうです……。汲陀部先生がメールで配信される予知は、実際に当たったんです。一回だけじゃありません。何回も、何回も……。ですから私は」

「この男を信用したと?」

「そ――そう、です」

 先輩の問いかけに南戸さんが弱々しくうなずいた。汲陀部を怪しんではいるものの、まだ信用を捨てきれないようだ。そして実はあたしも同感だった。

 さっき聞こえた……と言うか、待合室で耳をそばだてて盗み聞きした話によれば、汲陀部は事故や地震について、かなり具体的に当てているのだ。大丈夫なんですか、先輩? あたしは待合室に通じるドアの近くに立ったまま先輩を見たが、黒衣の怪人は動じることなく肩をすくめ、溜息を一つこぼした。

「予知は古来から語られてきた超常現象ですが、過去の予言者の記録を見返すと、外れた予知が数多くある。予知とはそもそも、都合の悪いもの、外れたもの、間違ったものが忘れられ、稀に当たった時のことだけを記憶されることで成立する現象なのです。人間は普段から様々なことを口にし、あるいは文章にしている生き物ですから、強い意味を持たない文言は容易に忘れ去られてしまう……」

「外れる? 忘れられる? 馬鹿馬鹿しい! 話を聞いておったのか? わしの予知メールは間違ってはおらんのだぞ!」

「そうだ。お前は確かに間違っていない。しかし予知は必ず外す。この二つを同時に解決する方法とは……まったく、上手く考えたな、汲陀部全」

「……何?」

「大勢の会員に配信しているというお前の予知メール。その内容は、実はばらばらなんじゃないか?」

「――なっ!」

 汲陀部が絶句し、弾かれたように立ち上がる。え? ばらばら? どういうことです? あたしは思わず南戸さんと顔を見合わせた。先輩は「図星か」と漏らすと、壁に張り付くように立つ汲陀部に歩み寄り、淡々と解説した。

「配信メールという形態を聞いた時にピンと来た。一斉配信という形と見せかけて、お前は一人ずつに別の予言を配っていたんだ。予言の内容は地震や事故の話題が多かったんだろう? それらは一定の確率で起こるから、ランダムな内容でも一つか二つは的中する。当たらない予知を受け取った受信者は気にしないか忘れるが――占いなんてそんなものだからな――当たった予知が配られた者は驚くだろう。そして少し時間をおいてまた予言を配る。また当たるのはほんの一握り……。それを何度か繰り返すと、何十人に一人の割合で、全ての予知が当たっていた受信者が――つまり、格好のカモが出来上がるというカラクリだ」

「あっ……そういう……!」

「なるほど確かに……!」

 南戸さんに続いてあたしの声が響く。そういうことか! それなら確かに筋が通る。大多数の受信者には相手にされないことを前提に、ピンポイントで固定客を作ることに特化した、ある意味賢いやり方だ。先輩の言葉はまだ続く。

「後は言うまでもないだろう。お前を信じた客が店に来たらしめたもの、先の手法で相手のことを見抜いていると思わせれば、従順な信者の完成だ。信頼が薄れる前に脅して金を巻き上げて……」

「いっ――言いがかりだ! わしには本当に、クタベ様から授かった力があるのだぞ! 一体何の証拠があって――」

「違うと言うならメールの送信記録を見せてみろ」

「え」

「お前が送ったメールの記録だ。全て残っているはずだろう」

「ぐっ……!」

 汲陀部が短い悲鳴のような声を漏らした。青ざめ、震える占い師を前に、先輩は大仰に首を振り、腕を懐手に組んだ。

「お前を全否定するわけじゃない。テクニックに頼る手段も、その技法を隠すことも悪いとは言わない。信頼できると思える相手と話すのは、精神安定のためには有用だ。それは超常現象や怪異、怪談や妖怪の持つ機能の一つだからな」

「し、知るかっ! お前……何なんだ、一体? なぜわしの邪魔をする!」

「出来もしない予知を方便に大金をせしめるのは、さすがに見過ごせないから……と言うことにしておこうか。まあ、俺としては見過ごしてもいいのだが、俺のサンプ――いや、俺のパートナーが、そういう性分なんだ」

 あたしを一瞥して先輩が言う。「サンプル」ではなく「パートナー」と、わざわざ言い直してくれたことに、あたしはきょとんと驚いた。一瞬遅れて照れが来て、顔がかあっと赤くなる。先輩も心なしか少し恥ずかしそうで、目を逸らして口をつぐむ。その沈黙を突くように、我に返った汲陀部が怒鳴った。

「何をボーっと見てる! つまみ出せっつったろう! ぶん殴ってもいい!」

「は、はい! てめえいい加減に――」

 受付が慌てて先輩に向かう。太い腕で掴んで引きずり出すつもりのようだが――遅い! 次の瞬間あたしは丸テーブルを飛び越え、先輩の前に割り込んでいた。

「え?」

「大丈夫。怪我はしません!」

 先輩の胸ぐらを掴もうとした受付の手をすかさず取り、勢いを生かして内側に捻る。軽い腕捻りを掛けただけで、受付は体を前につんのめらせ、があっ、と短い悲鳴をあげた。どうやら、暴力を振るうのは平気でも、痛めつけられることには慣れていないタイプのようだ。

「助かった、ユーレイ。いいタイミングだ」

「こういう展開にも慣れましたからね。幸いそんな強い相手じゃ――」

「てめえ舐めてんじゃねえぞ!」

 濁った怒声があたしの言葉を遮り、同時に右肩が後ろから掴まれた。汲陀部だ。キレたのか、あるいはこっちが本性なのか、ガラの悪さをむき出しにした汲陀部は、受付の手を極めているあたしを後ろに引き倒そうとしたが――。

「あいにくっ、そうはいきません!」

「な」

「うおっ?」

 受付と汲陀部の驚く声が連続で響く。受付を引き倒しで投げたあたしが、左手で汲陀部の手を取りながら振り返ったのだ。向き合った直後に汲陀部の腕を両手で掴み、そのまま垂直に立つように押し上げる。バランスが崩れたところで腰を入れて回るだけで、汲陀部の大柄な体はあっけなく床に転がった。受け身を取り損ねたようで、汲陀部は「ぎゃっ」と悲鳴を漏らし、怯える顔をあたしに向けた。

「な――何をしやがった?」

「転回小手捻り、または肩取り。合気道の初歩的な返しです」

 痛みのツボを押し込んで激痛を与えるとか、追い打ちで腕を取って極めることも充分できたが、正直、そこまでやる必要はなさそうだ。先輩を庇いながら軽く身構えるあたしを見て、上体だけを起こした汲陀部はハッと息を呑んだ。

「あ――合気道使いの背の高いガサツな娘……? も、もしやお前! あれか、阿賀スティアの言ってた奴か!」

「そんなに怖がらなくてもいいでしょうに……って、阿賀スティア?」

 聞き覚えのある名前につい目を細めるあたし。ぽかんとして傍観していた南戸さんが、おずおずと首を傾げて口を開いた。

「あ、あの……阿賀スティアって?」

「お年寄りを食い物にしてたインチキ霊能者です。以前ちょっと、追い払ったことがありまして」

「それの知人ということは、やはりお前も同じ穴の狢のようだな、汲陀部全」

 苦笑するあたしの言葉を受け、絶対城先輩が進み出る。前髪の下の冷たい目が震えあがる汲陀部を見下ろし、ドライな声が重たく響く。

「予知能力があるのに、こうなることは予測できなかったのか? 結局お前が正しかったのは、護符の図柄にクタベの絵を採用した点くらいというわけだ。しかし、なぜ力の由来をクタベに求めた?」

「お――お前には関係のないことだろうが!」

「答えないつもりか? 聞きだす方法は幾らでもあるが、手を汚すのも面倒だ。ユーレイ」

「何です?」

「頼む」

 それだけを言い、先輩は自分の胸元を軽く叩いてみせた。ああ、なるほど、そういうことか。怪異を無下に否定したくないと言っていた先輩らしい発想だ。あたしはうなずき、竹のリングのペンダントを外すと、汲陀部を見据えて集中した。

「……ふむふむ。クタベを選んだのは、予知をする妖怪だとネットで知ったからだそうです。適度に胡散臭くてそれっぽくて、あと、特定の寺院なり神社なりに関係がなさそうだったという理由もあるみたいですね。宗教に関係してると後々面倒なことになりかねないので、と言うか、なったことがあったので……」

「つまり、白澤とは無関係なのか?」

「はい、先輩。全然関係なさそうです。ちなみに予言メールはこのお店のパソコンから送信してて、ログイン用のパスワードは『kutabezen』。そのまんまですね。お札は自宅のプリンターで刷っていて、昨夜インクが切れた」

「な――な、なな、なっ――何で? 何でそこまで……!」

 記憶を読まれた汲陀部が目を見開いて仰天した。腰が抜けたのか、へたり込んだままの受付も、立ち尽くす南戸さんも同様だ。そんな二人を眺めた後、先輩はばさりと羽織を翻し、改めて汲陀部を見据え、告げた。

「見ての通りだ、汲陀部全。お前と違って、こちらは本物だ」

「ほ……ほんもの?」

「ああ。先ほどお前は、なぜ邪魔をするのかと尋ねたな? 答は簡単、偽物が蔓延るのは目障りだからだ。オカルトで飯を食うのも結構だが、その道で生きていくのなら、常に本物が出張ってくる可能性があることを覚えておくといい」

「お前、一体……」

「黙れ。そして聞け。話しているのは俺だ。俺達には、お前の全てが見えている。お前のやってきたこと、目論んでいること、その全てを洗いざらいぶちまけるのは簡単だ。仕返ししようなどとはくれぐれも思うなよ? 以上が理解できたなら、おとなしく足を洗」

「わ、分かった! 洗う! 足を洗う! 金輪際手を引くとも!」

 悪魔的な先輩の問いかけに、汲陀部が凄まじい勢いで即答した。何度も何度もうなずく姿を見る限り、その言葉は信用して良さそうだ、とあたしは思った。