彼女を見た瞬間、思考が固まった。

 床の間を背にして、少女が端座している。

 赫々たる着物に身をつつんだ居づまいは清廉な巫女を彷彿させながら。

 目蓋を閉じ、嫣然と微笑む横顔は情欲を撫でるように艶めかしくて。

 気がつけば、僕は彼女に絡め取られた憐れな蟲の一匹となっていた。


 どれだけ浸っていただろう。

 誘蛾灯に酔う飛来虫のごとく、忘我混沌の態で彼女の前にへたり込んでいた。

 見飽きることはなかった。

 むしろ眺めれば眺めるほどに、彼女という仄暗い水底に沈んでいくようだった。

 呼吸さえおぼつかず、歓喜にふるえ、また幾度となく戦慄した。

 彼女は完璧だった。

 完璧なまでに欠落していた。

 彼女は万人に称賛される、満ち足りた美ではない。

 純然たる害意に根ざした、見るものを総毛立たせる凄絶なる魔性。

 それが彼女であった。


 彼女は決して語らない。

 しかし、呪詛とも福音ともつかない想いを喉元に秘めている。

 彼女は渇望している。狂奔さえしている。

 閉ざした口ではなく、彼女の窪んだ目蓋が如実に物語っている。

 故に、彼女の視線に気づいてしまったのなら。

 あなたは奉じなければならない。


百目鬼紗庵 著『眼球蟲聞』より 


 この奇書は現在、福岡市総合図書館の閉架図書の一区画に蒐集され、厳重に保管されている。

 しかし、その一切を一般市民が読むことは出来ない。この奇書にまつわる一連の猟奇事件を鑑みて、福岡県、県教育委員会、および福岡県警察が福岡県健全育成条例の下、県の告示なしに有害図書指定を断行、観閲禁止となっている。

 私は今回の供述調書の作成を任された折、その回収を唯一免れた、博多署が証拠品として保管していた一冊に、改めて目を通すことが出来た。

 改めて読み返してみると、その記述のおぞましさと捜査当時の困惑がふつふつと甦ってきた。

 私自身、あの事件の渦中に身を投じた重要参考人であり、禍々しい狂気の枷から逃げ出すことの出来た数少ない生き証人でもある。だからこそ、多くの犠牲者を出したあの事件のもつ禍々しい雰囲気を払拭し、合理的な解釈のもと、事件の全容を明らかにするつもりで、眼球蟲聞をめくった。

 ところが、事件の顛末を理解している今となっても、この事件にまとわりつく黒いシミのような不可解さを取り払えないでいる。

 なぜ被害者の眼球を抉り取るという、痛ましい猟奇的な事件に発展したのか。

 矢神武人は何に突き動かされ、埴谷由佳は何に脅かされ、そして私――花霞紅莉はなにゆえに、あの不条理と対峙しなければならなかったのか。

 その答えは一応の解決を得たが、その解釈はどうしても多くの事柄に目をつぶる必要があった。

 しかし、その一方ですべての疑問を解き明かす真実は、すぐ真後ろに立っているのではないかと思い始めている。

 ただし、その真実は何よりも理不尽で非合理な現象群だ。

 ――怪異。

 荒唐無稽な現象と、あの少女の悪意を呑み込むことが出来れば、絡み合った奇怪な事件は一本の真実となる。

 けれど認めてしまえば、私に安息日はない。

 継ぎ接ぎだらけの常識をとるか、精巧で恐ろしい悪夢をとるか。

 今も尚、私は決めかねながら、真後ろに立つ、誰とも知れない存在に怯えている。


                ある七月の中旬 花霞紅莉の走書きより


第一章 矢神武人

 博多区連続通り魔事件の容疑者として、福岡私立南武高等学校三年、矢神武人の名前が挙がったのは、梅雨が明けた七月一日のことだった。

 犯行を裏付ける情報が博多署に設置された特別捜査本部に次々と提供されたのだ。

 花霞紅莉は手口の凶悪さに反して、呆気ない幕引きに驚きを隠せなかった。容疑者が未成年者ということもあり、明朝をもって、捜査員が自宅へ任意同行を求める手筈となった。

「拍子抜けな事件でしたね」

 未明、車内のセンターコンソールさえ見えない暗闇のなか、紅莉は助手席で眼をつぶっている捌津茅晋助に呼び掛けた。さっぱりと短く切り揃えた頭髪に面長で目鼻のはっきりとした精悍な刑事は、連日の聞き込みで無精髭が伸び放題だった。

 事件について考えているのだろうか。律儀に返答を待つが、いつまで経ってもウンともスンとも言わない。目の前で手を振ってみたがまったく反応がない。

 耳をすませてみると、かすかに寝息が聞こえた。

「先輩ッ!」

「うるさいぞ、肘置き」

 リクライニングを下げた助手席から起き上がると、紅莉が見上げるほど上背があった。運転席から乗り出した彼女の頭はちょうど彼の胸元ほどの高さで、肘を置くには十分な身長差だ。現に捌津茅は紅莉の頭に肘置きにして、左手で寝ぼけ頭を掻いた。

 この体格差はなにも捌津茅が大男だからではない。彼が一八○㎝の高身長であるのは事実だが、花霞紅莉は彼と対照的に警察の身長規定ギリギリの一五五㎝なのだ。

 しかし彼女が所属する福岡県警捜査一課の面々は、彼女が身体測定時にわずかに踵をあげて身長を底上げたのだと推理していたし、現に身長は一五二㎝なのだが、当の本人が刑事としての迫力に欠けることをコンプレックスに思い、毎食後に牛乳を飲み、身長が伸びるという妖しげなサプリに手を出してまで涙ぐましい努力をしていることを知っているので、一課の公然の秘密として内々に処理されていた。

 そんな小柄な紅莉は、頭にのった肘を払いのける。

「先輩はここに何をしに来たのか自覚はありますか?」

「無論だ」

「……へぇ」

 紅莉は挑戦的な目つきで見上げると彼に幾つかの質問を投げかけた。

「では問います。今回の博多区連続通り魔事件の概要と捜査方針は?」

 捌津茅は面倒臭げに頭を掻いた。彼も紅莉と同じく今回の事件を捜査している刑事だ。事件概要と捜査方針など、自分の生年月日と血液型を述べるぐらいに容易い。それをあえて訊かれたのだから、煩わしく思うのも無理ない。

「……六月二十四日の未明から博多区で連続して起きている通り魔事件。最初の被害者は阿波和子三十二歳。中央区のマンションに帰る途中、住吉四丁目の路地で通り魔に遭った。その二日後、深夜の博多区の路上生活者の椎木健矢五十九歳が美野島一丁目で襲われた。そして一昨日の夜、三十日、未成年ながら泥酔していた小此木翔太十九歳が竹下五丁目の月極駐車場で死体となって発見された。事件は直径にして約三キロ半圏内で発生しており、被害者に共通点はなく怨恨の線は極めて薄い。唯一の共通点は右眼を執拗に傷つけられていること。小此木翔太に至っては右眼を抉り取られていた。彼の右眼はいまだ発見できず。捜査本部は周辺に聞き込み調査を行い、四件の極めて有力な情報提供を得て、犯人の目星もついた。そして二日の早朝五時に自宅に任意同行を求める手筈になっている。……これでいいか、ルーキー」

 すらすらと事件概要と捜査方針を言ってみせる。

 そんな彼に、紅莉はニヤリと笑ってみせた。

「勿論ですともベテランさん。捜査会議でも惰眠を貪っていたことが分かりました」

「職務中に居眠りなどしない」

 横柄に鼻をならす彼に、紅莉は人差し指を突きつけた。

「ダウト。貴方は稚拙な嘘をついている」

 すると捌津茅は非常にうんざりとしながら彼女の愛称を口にした。

「でたな、手乗り嘘発見器」

 花霞紅莉は学生に見られるような小柄な身体的な特徴のほかにひとつ、刑事としてずば抜けたスキルを持っていた。

 嘘を見抜く、いわば人間嘘発見器。

 とはいえ、彼女はオカルト的超能力者ではない。非言語行動という、感情に根ざした無意識の仕草から人の内心を見透かす、優れた観察眼を持っていた。

 例えば向かい合った相手が爪を噛んでいれば、不安やストレスを感じていることは一目瞭然だろう。そのように顔の表情、身振り手振り、身体の動き、互いの距離感、身体の触れ方、姿勢、さらには服装の情報を鋭い洞察力と情報処理能力で精査することによって、人が何を恐れているのか、何を偽ろうとしているのかを暴き出す。

 そのような微かな心の仕草を読み取る技術を、弱冠二十四歳で習得していた。

 それゆえに本人は不服ながら愛嬌のある身長を含めて名付けられたのが、手乗り嘘発見器。彼女はわずか二年で捜査一課の信頼を集め、いわばその証明ともいえる二つ名を持っていた。

 そんな彼女がいま確かに捌津茅の嘘を見て取った。彼がすらすらと言うなか、一箇所だけ視線が記憶を探るように左上を彷徨ったことを。

「先輩、容疑者の名前を言えますか?」

「……や、やがみ。そうだ、矢神だ」

「フルネームで」

「花霞。珈琲が飲みたくないか? 吐くほど甘いやつだ。五百円やる。釣りは駄賃だ」

「結構です。それで容疑者の――」

 手渡された五百円玉を返そうとすると、捌津茅の手元が急に光った。

 アラームを設定していた携帯がバイブレーションする。

 紅莉は携帯に表示された時刻を確認すると、悔しそうに鼻をならした。

「時間に救われましたね」

「なんのことか、サッパリ分からん」

 ふたりは覆面パトカーから出ると少しばかり歩き、新興住宅街にならぶ真新しい一軒屋のひとつに立った。ステンレス板に筆文字で刻まれた表札には『矢神』とある。

 七月二日日曜日、午前五時。

 二人の刑事は予定通り、矢神邸のインターフォンを押した。



 インターフォンを押して暫くすると、二階から足音がした。

 ただ紅莉と捌津茅は一様に「おや?」と眉間をせばめた。二階から下りてきた足音はまっすぐに玄関へやってくる。早朝五時の来訪者を不審におもい、インターフォン越しにコンタクトをとるのが普通の対応だろう。

 足音はドアの手前で一旦止まった。ドアスコープを覗いているのだろう。ややあってドアチェーンをはずす音が響き、扉の隙間から警戒心にみちた中年の男が現れた。

 矢神達郎。今年四十五歳を迎えた、大手信託銀行で働く営業マン。捜査会議で確認した写真よりも少々神経質さが際だって感じられるのは、無論、早朝にやってきたスーツ姿の男女への不審感によるものだが、それに加え、目の下に縁取られた隈の青さのせいもある。

「なにか?」

「朝早くすみません。我々はこういうものです」

 捌津茅が警察手帳をみせる。その隣で紅莉はつぶさに矢神達郎の観察を始めた。

 達郎はパジャマの襟元をかるく正す。

 不快や不安をなだめようとする反応だ。首は迷走神経が豊富にあり、触れたり撫でたりすることによって血圧がさがり心拍数も安定する。

 紅莉はそれをめざとく見つけたが、大して重要視もしなかった。自宅に警察官が現れたら誰だって不安を覚える。当然の非言語行動だ。

「捜査のことでお伺いしたいのですが、矢神武人君はご在宅ですか」

「武人? 武人に何か用ですか」

「ええ。最近、福岡市界隈で起きている事件のことでお話が聞ければと思いまして。彼を呼んでいただけませんか?」

 いつもの怠惰な態度とは打って変わって、捌津茅は丁寧な口調で話しかける。相手に不要な反感を抱かせず、かといって付け入る隙を与えないように言葉を選んでいる。

「いま寝てるんだ。改めて来てくれ」

「起こして頂けますか。迅速な捜査を行う上で彼の協力が必要です」

「君ね、いま何時だと思っているだ。警察だから何でも許されると思っているのか」

「そこを折り入ってお願いします。速やかな事件解決が皆さんの不安の解消に繋がります」

「これは任意だろう。断る権利が国民にはある」

「ええ、だからこうしてお願いに参っているのです」

 話は平行線上をたどる。

 達郎がいうように任意同行は被捜査対象者の任意であり、国民は断る権利がある。また同行を強要した場合、犯罪が立証できても不起訴となる判例もある。そのため自宅に赴くときは基本的に令状をもつのだが、今回は目撃情報だけで令状を申請するほどの証拠はなかった。

 会話の途中、ちらりと捌津茅が紅莉を一瞥する。

 ――なにかあったか。

 指の苛立ち。口角の硬直。目蓋のかすかな痙攣。

 実にわかりやすい非言語行動だ。少々過敏にみえるのは、わざとその仕草をみせてせっついているからだろう。

 無論、紅莉だってサボっていたわけではない。達郎の一挙手一投足をつぶさに観察していたが、最初の首元を触れた仕草以外、達郎は捜査の取っ掛かりになる非言語行動を見せていないのだ。

 指で頬を触っていないか。足先は小刻みに揺れてるか。目蓋の下がり加減は――。

 記憶にある何百の非言語行動と照合するが、一向に手がかりは見つからない。

 口の中に苦々しい唾液が溜まっていく。

 紅莉の苛立ちと焦りが、非言語行動として、無意識に足のゆすりとなっていく。

 そのときだ。コツコツと二度、靴を小突かれた。足元に目をやると、捌津茅の爪先が当たっていた。この催促のように見えるサインは、しかし真逆の合図だ。

 パートナーとして行動する二人は幾つかの簡単なサインを決めていた。紅莉が捜査する上で重要な非言語行動を見抜いた際、それを捌津茅に伝えるものや、捌津茅が紅莉に指示を与えるものなどがあり、これは後者だった。

 ――落ち着け。

 靴で二度小突く仕草は「冷静さを取り戻せ」のサイン。

 焦っているのは捌津茅も同じはず。執拗な訪問は強要になるため、達郎がドアを閉めれば任意同行は中断される。それでも紅莉に催促することなく、冷静さを求め、手がかりを見つけることを疑わず、出来るだけ時間を引き延ばしてくれる。

 その相棒としての信頼が、彼女本来の鋭敏な知性を呼び戻した。

 ――嗚呼、そういうことか。

 瞬間、まるで解けなかった複雑怪奇な数式に一つの解法が導き出されたように、矢神達郎の致命的な非言語行動を見抜いた。

 以前、それこそ紅莉が捌津茅と組み始めて間もない頃、これと似た様なことがあった。たしか児童誘拐事件の事情聴取をしたときだ。西区の大きな児童公園で遊んでいた子供が目を離した数分の間に居なくなったと涙ながらに語る母親に対して、紅莉は妙な違和感を覚えた。

 母親の非言語行動が異常に少なかったのだ。

 涙ながらに訴えはするが、身振り手振りが小さい。もしも子供を攫われたのなら、親としての感情は凄まじく、その感情にともなう非言語行動も顕著になるはず。

 にもかかわらず、彼女は感情に起因する仕草が異常なほど少なすぎた。

 母親に同情的な意見が多数を占めるなか、紅莉は母親の証言を信用すべきではないと提言した。若手として、まだ実力を認識されていなかった新米の意見は多くの刑事から失笑されたが、彼女の提言を笑わなかった一人の刑事によって犯人は特定された。

 犯人は母親だった。誘拐は自宅で殺害した子供を隠蔽するために考えた狂言だった。

 その時から、彼女は隣にいる無愛想な相棒を信頼している。

 いま、紅莉は静かに発奮している。

 矢神達郎もまた嘘をついている。

 首元を触った最初の仕草以降、非言語行動は極端に減少した。

 ならば、嘘はその直後にある。

「そういえば達郎さん。武人君の靴がありませんね」

 途端、達郎は目を見張った。勿論、紅莉は武人の靴など知るはずもない。

 鎌をかけたのだ。彼の非言語行動が極端に減少し始めたのは、武人の所在を訊いたときだ。紅莉はそこに嘘があると、揺さぶりをかけた。

「武人は、寝ている」

 達郎は否定する。だが、彼の足はそうは言わなかった。

 捌津茅と向き合っていた右の爪先が外に逸れ始めたのだ。達郎の両足がL字を描く。ここから立ち去りたい、逃げ出したいという非言語行動のひとつだ。

 紅莉はほくそ笑んだ。平然を装う彼には知る由もないが、身体で一番正直な部分は、その実、足なのだ。

 非言語行動を捜査の必須技術としていち早く導入した米国の連邦捜査局は、まず参考人の表情を探るのではなく、下から上へ、つまり足からアプローチをかけていく。

 足や脚辺りというのは、人間が言葉を会得するずっと前からまわりの脅威に即座に反応し、意識せずとも動いていた器官なのだ。大脳辺縁系に受け継がれてきた足の危機察知の反応は、例えば、目前に脅威が現れたとき、誰もが固まり、逃げる動作からも分かる。また脅威へのストレス反応だけではなく、喜ぶときでさえ、人は飛んだり跳ねたりと足で感情を表す。

 先史時代から、脳の反応を如実に映し出すのは、表情ではなく足だ。

「武人君、まだ帰っていないんですね」

 捌津茅は落ち着いた口調でいう。彼も紅莉と同様に嘘を覚ったのだろう。

 なぜ達郎が早朝に鳴ったインターフォンを室内でとらず玄関までやってきたのか。

 それはつまり、いまだに帰ってこない武人が帰宅したと思ったからだと。

「そ、それは」

「あなた。お話しましょう」

 奥から酷く窶れた女性の声がした。姿は達郎の身体でみえないが、おそらく妻の妙子だろう。

 達郎の神経質な顔が苦渋に歪み、そして観念したように項垂れた。

「……実は――」

 そういって語ったのは、矢神武人が忽然と姿を消したというものだった。


「金曜日の夜から帰っていないんですね?」

 捌津茅は玄関で父の達郎に確認をとった。その顔はいつもの無表情に戻っている。もはや玄関口を跨いだら愛想笑いなど無用と仮面を脱ぎ捨てたのだろう。残ったのは被疑者の足どりを絶対に掴もうとする徹底された冷静さだけだ。

 だが、紅莉はこの夫婦が武人の足どりについて知っているとは思えなかった。父の達郎は稚拙な嘘が露呈した反動か、先程とは打って変わって従順に質問に答えている。どうやら世間体というのを過剰なほど意識するタイプで、転勤してまだ日の浅い支店に警察の調査が入るのかという質問を繰り返していた。

 紅莉達を追い払おうとしてたのも、自身で息子を見つけ出して内々で処理しようという浅はかな考えの発露だった。どうやら任意同行の意図を些細な窃盗事件程度と思っている節があった。

 母親のほうは世間体を気にする夫の横で、所在なさげに立っているだけだった。

「では、詳しいことはリビングでお伺いしても宜しいですか」

「ええ、勿論。こちらです」

 大口の顧客を案内する銀行員のごとき腰の低さで、達郎は廊下の奥にあるリビングを隔てた磨りガラス戸を開けた。その奥へ妻の妙子と捌津茅がつづく。

「ああ、それと花霞」

 捌津茅がくるりと振り返ると、矢神夫婦に隠すように腹の前で右手を広げてみせた。

「署に連絡をとれ。この時間だから少々手間取るだろうが」

 そういってすぐに踵を返すと「何のために連絡をとるのか」と不安そうに尋ねる達郎に「捜索願いですよ。矢神君の帰宅を促すための」と述べつつ、仕切り戸を閉めた。

「大嘘つきめ」

 紅莉は鼻で笑った。捜索願いなど、ただの方便だ。

 彼が本当に紅莉に求めたこと。

 それは五本の指が開かれた右手――つまり五分以内に矢神武人の自室を探って失踪先に繋がる手がかりを探せという、違法捜査の指示だった。


 矢神武人の部屋は二階の階段をあがった道路側の部屋だった。

 紅莉は外観から眺めた間取りと玄関に立った印象で大方目星をつけていたが、ドアにネームプレートがぶら下がっているのを知って拍子抜けした。

 二階は武人の部屋を含め、三部屋あった。道路側の玄関を南側として南北に走る廊下の西側にふたつと、北側の突き当たりにひとつ。武人の部屋からやや離れた西側の小部屋はトイレで、おそらく北側突き当たりの間取りの広い部屋は夫婦の寝室だろう。

 紅莉は指紋をつけないよう携帯していた白い綿手袋をとりだすと、部屋のネームプレートを揺らさないように、ゆっくりと取っ手を下ろした。

 武人の部屋はやや簡素ながら、至って一般的な学生の部屋だった。入口の向かいに簡易ベッドがあり、右側の壁に嵌め込みのクローゼット。左の壁面に沿うように学習机と組み立て式の本棚がある。

 紅莉はさっそくベッドから手をつけた。シーツをめくり、ベッド下の空間を覗いたが、埃っぽい床には何もない。本棚は図鑑や画集、漫画やライトノベルなど高校生の読み物としては特別に目を引くものはなく、ホームセンターで購入できる組み立て式の本棚は奥行が浅いため、書籍の奥に隠すスペースもない。

 紅莉はさして本棚に執着せず、学習机のほうに向かった。

「ん?」

 一番上の抽斗がビクともしなかった。よく見れば抽斗の上部に鍵穴があった。

 紅莉は一旦その抽斗を無視して中段と下段を漁ってみたが、学校のプリントの他には刷毛や絵筆、アンティーク染みたポラロイドカメラなど、事件に関連しそうなものは見当たらなかった。

 もう一度、上段の抽斗に目をやって、紅莉は苦笑した。

「なるほど。あの性悪男、ここまで読んでいたわけか」

 紅莉は署内の防犯対策講習をうけた際、そこでピッキングの実演をみて捜査に生かせると思い、講師にお願いしてピッキングの方法を伝授してもらったことがある。以前それを鼻高々に一課で実演してみせたことがあったが、どうやら捌津茅は聞き及んでいたらしい。

 捌津茅の掌で踊らされるのは不本意だが、事実究明のためと、ポケットから二種類のピッキングツールを取り出した。

 覗いた鍵穴は円盤状のタンブラーのなかに鍵穴があるディスクシリンダー錠で、ピッキングでは超初心者級の鍵だ。彼女は手慣れた手つきで先端が九十度曲がっている平べったい金属棒を鍵穴に引っかけると、耳かきのような金属棒を鍵穴にいれこみ、引っかけていた金属棒を一回転させた。

 カチャリと解錠する。

 ゆっくりと抽斗をひくと、紅莉はほくそ笑んだ。

「……ビンゴ」

 出てきたのは一冊の黒い単行本だった。

 一切の装幀が排除され、表紙も裏表紙もなく全面がのっぺりとした黒に染色されている。市販の単行本に比べて厚みが薄く、また少ない頁数の嵩を補うように黄色の付箋がベタベタと端から飛び出ていた。

 紅莉はさらに矯めつ眇めつ観察したが、他にはとくに書籍の特徴といえるものはなく、また頁の後ろ半分が紅茶をこぼしたような水染みが酷く、読めたものではなかった。

 ――これを押収できれば。

 頭をかすめた欲求を、ぐっと抑える。現状、任意同行という名目で半ば強引に矢神宅に押し入っている。いまでもグレーゾーンに近いのに、令状もなく証拠品としてこの書籍を押収してしまえば、違法捜査として立件できなくなる可能性もある。

 せめて内容の一部だけでも。

 そう思って頁をめくった紅莉は、中表紙に書かれた書籍名に目を奪われた。

「眼球、蟲聞」

 それは余りにも今回の事件に即し過ぎた題名だった。

 この書籍は一体何なのか。訝しみながらも次の頁に指を這わせると、書籍のなかに挟まれていたものがぽろりと抜け落ちた。

 眼球蟲聞を一旦閉じて、床に落ちた一枚を拾い上げる。

「……ポラロイドフィルム?」

 暗闇で撮影したと思わしき一枚は一面の闇色で場所はおろか距離感さえ判然としなかった。唯一見て取れたのは、フラッシュに反射した、写真の下部に映る小さな楕円形の白い陶器。それはまるで浮遊する霊魂のようで、不気味な暗闇も相まって、人の気配など一切感じさせない。人の目から逃れる隠れ家としては一級品だろう。

 矢神武人はここに潜んでいる?

 断言はできない。しかし、居所を突き止める手掛かりである可能性は高い。

 押収しないまでもスマートフォンで撮影しておこうと、そう紅莉が携帯を取り出したときだった。

 突如、後ろから耳を抓まむような強烈な視線を覚えた。まさか矢神夫妻にバレたのかと息を呑んだが、すぐに頭を振る。

 視線は学習机をむいている紅莉の背中を突いている。

 つまりクローゼットのほうから向けられているのだ。

 紅莉はゆっくり振り返った。だが、そこには誰もいない。存在感のある視線も消えている。その代わり、閉じていたはずのクローゼットの扉がわずかに開いていた。

 隙間は今にも何者かの目が、ぎょろりと覗き込みそうな気配があった。

「だれか、いるの?」

 クローゼットに伸ばす手が強張る。もしもこれがホラー映画のワンシーンなら、観客の数人に一人は「なぜ、あからさまに怪しい箇所を開けるのか」と失笑するだろう。

 だが紅莉は刑事だ。怪しさや違和感にこそ捜査に繋がる物証は潜んでいる。

 ――ええい、ままよッ。

 紅莉は一気にクローゼットを開け放った。

 すると、そこに包丁を握った矢神少年が――、いるわけもなく洋服が並んでいた。

 けれど、なぜだろか。眉をひそめるような違和感は残った。

 試しにクローゼットをかき分けるが、詰め襟の制服や私服が斜め向きに吊り下がっているだけだ。

 しかし、刑事の嗅覚が「見逃すな」と警告する。

 紅莉は勘に従って、クローゼットを俯瞰した。

「…………もしかして」

 もう一度クローゼットに手をいれる。そしてクローゼットにかけてあった服を勢いよく左側に寄せると、奥から違和感の正体が顔をだした。

「二重底か。いや、まあ底というか奥行だけど」

 クローゼットは、内壁と同色のビニールテープで固定した大きなベニヤ板で区切られていた。これがクローゼット本来の奥行を奪っていたため、衣服がまっすぐに入りきらず斜めに傾いだのだろう。

 一般的なクローゼットはこんな奥行はない。しかし矢神武人の自室にあるクローゼットは、隣のトイレと子供部屋の間のデッドスペースをクローゼットの奥行として活用した、広いタイプのウォークインクローゼットだった。

 紅莉はクローゼットに身体を入れ込むと、ビニールテープを剥がした。中を覗くと、暗いクローゼットを埋めるように何かが雑然と置いてある。犯行に使った凶器を隠しているのかもしれないと捜査の手応えを感じつつ、紅莉は持っていたペンライトでクローゼットの大半を占領してた空間を照らした。

 瞬間、光に反射したいくつもの目が、紅莉を睨んだ。

「なんなの。これは……」

 クローゼットの奥、紅莉が見つけたのは小さな異人館だった。

 溌剌とした赤毛の少女や気品を感じさせる金髪碧眼の少女など、可憐な異国の少女たちが狭いクローゼットに犇めきあいながら、不躾な闖入者へ無機質な眼光をむけている。

 薄暗いクローゼットの中で行われていた密やかなる異国少女の展覧会をみて、紅莉は一瞬身構えたが、それは全体的に三十センチもないほど小柄で、腕や足の関節は球体で出来ている。

 彼女たちはドールだった。

 ドール、もしくカスタムドールと呼ばれるそれは、市販されている知育人形やキャラクターフィギュアと違い、消費者が腕や眼球など互換性のある各部位の素体を購入し、各々で組み合わせて造る三十センチ程度の人形である。ドールは化粧やアイペイント、ドール用のウィッグをお湯によって癖をつけてパーマにしたりと細部まで自分の好みを反映させることができる。

 そのため人形のなかで一番人間に近しいともいえるだろう。

 自分の考え抜いた至高の偶像を造ることができる。それがドールなのだ。

 矢神武人もドール制作に意欲があったらしく、クローゼットの奥には被服用のミシンやドールメイク用の着色料などもあった。瀟洒な装幀のアルバムが数冊あり、一冊を拾い上げてめくると、自慢のドールを撮影したポラロイドフィルムが、撮影日の書かれたスリットの中に整然と差し込まれていた。

 そんな意欲的な彼のドール制作の中で、一際熱心に取り組んでいた作品を、紅莉は本人に訊かずともすぐに分かった。

 それはクローゼットの奥、壁面に背中を預けるように正座していた。

 血のように赤い着物をきて、着崩れのないようにきつく帯を締めている。

 血を舐めたような唇に粉雪のような白い肌。指で梳きたくなるような長い黒髪。

 幻惑的な童女が異国の少女たちを従えるように暗幕の晴れたクローゼットの上座に端座していた。

 しかし紅莉を惹きつけてやまなかったのは、その少女の服装や容姿ではない。

「……まさか、そんな」

 彼女をみた紅莉はそう呟かずにはいられなかった。

 そこに坐する神々しい少女は、やはりというべきか、眼球がなかった。



「莫迦野郎」

 パトカーに戻ると、開口一番、捌津茅の短い罵倒が飛んできた。

 紅莉は甘んじて受けつつ、アクセルペダルを踏む。

 クローゼットの仕掛けを戻す手間もあり、捌津茅が設定していた制限時間を優に越えて二階から下りることになった。無論、矢神夫婦から不審がられたが、息子が猟奇犯の容疑者として捜査されていことを知らないため、とくに追及されることはなかった。

「収穫はあったか?」

 交差点で止まったのを見計らって、捌津茅が成果をきく。

「鍵付きの抽斗に気味の悪い本を一冊見つけました。タイトルは『眼球蟲聞』」

「――眼球蟲聞」

 助手席に深くもたれかかっていた捌津茅が起き上がった。彼も『眼球蟲聞』という題名と右眼を抉り出された連続通り魔事件に関連性を見いだしたのだろう。明け始めた道路をぼんやりと眺めていた彼の双眸に、微かに鋭さが宿りはじめた。

「裏表紙まで黒一色で、流通に欠かせないISBNやJANコードはありませんでした」

「自費出版だろう。その本については俺が当たってみよう。地元の稀覯本に詳しいヤツを知っている。もしかすれば他にも発行された『眼球蟲聞』を入手できるかもしれない」

「それと矢神武人はドール造りに凝っていたようです」

「それがどうした?」

「一体だけ、おそらく矢神武人が最も凝って制作していたドールの目が、なかったんです」

 途端、車内に緊張感がみちた。事件の核心に触れる前の、推理の余剰を切り落とさんとする捌津茅の声が、ゆっくりと怜悧さをおびていく。

「木偶の善し悪しは分からないが、目を入れる前だったというわけじゃないんだな」

「どっちの意味ですか」

 捌津茅はジロリと紅莉の横顔を見据えたあと、鼻で嗤った。

「その木偶がまがい物の硝子玉を入れ忘れた未完成品だったか、ということだ」

「完成品でした」

 紅莉は断言した。

 クローゼットの奥に鎮座していたドールは美醜の観点ではなく、それを造る矢神武人の狂気じみた妄執と情熱の塊という点で凄まじい出来映えだった。

 目がない未完の傑作ではなく、目がないことで完成した怪作。それが彼女だった。

「そうか。で、そいつは何だ?」

「そいつ?」

 振り向くと、捌津茅は訝しげに上着の左ポケットを見ていた。彼は手を伸ばして、そこからはみ出ていた白い四隅の一枚を摘まみ上げると、ますます胡乱げな表情を強めた。

「なんだ。このポラロイドフィルムは?」

 途端、言葉を失った。

 あのポラロイド写真だ。言うまでもなく、紅莉本人に押収した記憶はない。

「どうした、花霞?」

 急に押し黙った紅莉に、捌津茅は怪訝そうに尋ねる。紅莉は蟲が背中に這うようなこの怖気をどう説明したら良いのか分からず、武人の自室で見てきたことだけを話すことにした。

「え、あ、その『眼球蟲聞』に挟まっていたんです。状態からして褪色もなく真新しい。おそらく最近撮られたものです。先輩はその場所が何処か分かりますか?」

 捌津茅は指紋がつかないように写真をビニール袋に包むと、自分の懐に入れ込みながら首を横に振った。

「鑑識に回す、――ことは無理か。正式な押収品ではないからな。それにしても無断で押収とは立派な違法捜査だ」

「させた張本人がいう台詞ですか。私も押収するつもりはなかったんですが……」

 紅莉は言葉を濁した。まるで何者かが悪意をもって写真を差し向けたような印象が彼女の思考に黒くこびりついていた。

 さらにもうひとつ、その写真に対して、紅莉は無視しがたい懸念があった。

「先輩はあの写真をみて、何か感じませんでしたか」

「漠然とした質問は止めろ。言いたいことがあるならはっきり言え」

「そのですね。写真を撮るとき、誰しも無為にシャッターを切るわけじゃない。人がファインダーを覗くとき、レンズの先には被写体がある」

 紅莉は躊躇いを覚えつつも、矢神武人の部屋で写真を拾い上げたときから知覚していた違和感を口にした。

「その写真の被写体、人だと思うんです」

「この暗闇のなかで?」

「はい。矢神武人は無為に目の前の暗闇を撮ったわけではなく、その奥にいる人物を撮影したんじゃないかって。その写真を見ていると、まるでその――」

 ――目が合っているようで。

 そう言いかけた紅莉の背筋を、ぞわりと悪寒が駆け抜けた。

 反射的に振り返った紅莉に、捌津茅の怒号が飛ぶ。

「花霞ッ、前をみろ!!」

 車は赤信号の交差点へ突っ込もうとしていた。咄嗟にブレーキを踏み、早朝の道路に甲高いブレーキ音が鳴り響く。停止線を優に越えた車体は交差点の中央で止まり、間一髪、耳障りなクラクションを鳴らす大型トラックが目の前を横切っていった。

「…………大莫迦野郎」

 急ブレーキの慣性で大きく振り回された捌津茅は恨み言をはく。

 しかし、捌津茅の非難など紅莉の耳には届いていなかった。

 恐る恐る振り返る。後部座席には、張り込み前に投げ置いたコンビニ袋が散乱していた。シートには誰も座っていない。だが確かに今、矢神の自室で感じた、あのおぞましい不可解な視線が背中を撫であげたのだ。

 まるで尾いてきたぞと言わんばかりに。

 紅莉は二の腕に浮かび上がる鳥肌を撫でながら、来た道を見返した。

 矢神武人の自宅へと続く公道は、いまだ青白いまどろみを残している。道行く人など一人もいない。ましてや自分を監視する目など――。

「顔色が悪いな。お前、何かあったんじゃ――」

「大丈夫です」

 紅莉は捌津茅の言葉を遮った。自分を落ち着かせるために深呼吸をしたあと、アクセルペダルを踏んだ。車はふたたび息を吹き返したように前進していく。

 車通りさえ疎らな道を進みながら、紅莉はふと思った。

 金曜日の夜、失踪した矢神武人が人目を憚るようにこの道を歩いていたとして。

 はたして、彼は捜査の手から逃げようとして失踪したのか。

 彼は何のために凶行に走り、なぜ失踪したのか。

 答えは依然として、藪の中だった。



 動機は犯罪の量刑を決める重要な要素らしい。

 猟奇犯など以ての外だが、情状酌量の余地というやつを認定されると減刑される。極めつけは、責任能力がないと診断された者だ。女子供を殺しても無罪判決を下されるのだから動機というやつは罪深い。

 では、僕の動機はどうだろうか。

 この決意は猟奇的に違いないが、カレーに混ざっているスパイスぐらいには情状酌量の余地は含まれているし、責任能力を問われると苦笑いするしかない。

 どう説明したものか、とても悩む。

 当の本人が首を傾げるのだから、刑事諸君は右往左往するだろう。答えは依然として藪の中である、とか気取った物言いで煙に巻くかもしれない。

 だから物語ろう。僕自身の言葉で。

 なぜ、僕がこのような猟奇的決意を秘めたのか、を。



 人生が狂気を孕んだ日、僕はどこに向かうでもなく夕闇を歩いていた。

 通った路に出会しても進んだ。もし立ち止まってしまったら、理由もない漠然とした自己嫌悪に背骨や肋骨を押し潰されて、二度と立ち上がれない気がしていた。

 そんなことをしているものだから、人気のないオフィス街で途方に暮れた。

 この四つ辻は三度目だ。テラス席を出した喫茶店を目印にしていたから間違いない。

 ぐるりと周囲を見渡すと、西日で大きく伸びたオフィスビルの影がだんだんと夜闇に溶けていた。

 黄昏時。夕陽を背にすると影をおびて、誰か分からなくなる。

 誰彼刻とも呼ばれるこの時間が、僕は一番好きっだった。

 ――いっそのこと、このまま影として溶けてしまえば良いのに。

 そう溜息をついた時だった。

 梅雨の湿った空気をはらう、涼しげな風が首筋をゆっくりと撫でた。

 そのやさしげな感触に振り返ると、四つ辻のなかにもうひとつ狭い小径を見つけた。

 その五つ目の小径をのぞくと、奥で大きな樹木の緑もまた僕を覗き込んでいた。

 青々とした梢が風にゆられて、手招くようにしなる。

 僕は興味をそそられ、その小径に入った。路地の右端から顔を出す梢を目印に歩いて行くと、周囲がぱっと開けた。

 そこには古めかしい武家屋敷があった。

 周囲は瓦と石を波模様のように埋め込んだ二メートルほどの土壁で囲まれ、その内側をなぞるように生け垣が生い茂り、屋敷の全容を覆い隠している。

 奥からは水のせせらぎが聞こえてきた。けれどそれ以外は深閑としていて、人が住んでいる気配はまったくしなかった。

 僕は狐につままれた気分で、この時間から隔絶されたような屋敷を眺めた。

 この武家屋敷は何だろう。その答えを探すため土塀にそって歩くと、茅葺きの門を見つけた。高級な割烹料理店をおもわせる屋敷の門は客人を招くわけでもなく、それであって閉ざすわけでもなく、観音開きの右扉をわずかに開き、人ひとりが忍び込めるような隙間をつくっていた。

 僕は躊躇った。不法侵入を咎める理性の声も聞こえていた。

 それでも門扉に手をかけたのは、この奇妙な屋敷との出逢いに運命的なものを感じていたからだ。小指に繋がれた何色ともしれない合縁奇縁の糸が、門の奥へと繋がっている気がしたのだ。

 運命の手招きに応じて、門扉の隙間へ滑り込む。

 そうして僕は異界に足を踏み入れた。

 僕を出迎えたのは右手は土塀、左手は竹柵で仕切られた通路だった。整然と敷き詰められた石畳はまっすぐと伸びていて、石畳の両端を彩る苔むした土から、青々とした楓がアーチをつくっていた。

 石畳の絨毯はそこから左に折れていた。僕は恐る恐る進んで、視界を遮っていた竹柵の切れ目から顔をのぞかせた。

 たちまち、僕の瞳に鮮烈な刺激が飛び込んだ。

 そこは日本の風情を凝縮したような自然の箱庭だった。

 来客が集う数寄屋造りの建物が縦に伸び、窓辺から四季の移り変わりが愉しめるように自然石を配した茶庭が広がっている。亭園には瓢箪の形をした池が涼しげな風を広間へ運び、池泉の端に設置された滝口が風流な景観を一層引き立てていた。池のまわりには薄紫の菖蒲がゆれていて、くねる松の力強さも散策する来賓に喜ばれるだろう。

 つまりここは回遊式の日本庭園なのだ。

 数寄屋造りの建物の端には窓口があり、『ようこそ仙願亭へ』とあった。

 途端に心をざわめかしていた冒険心は憑き物が落ちたように消えていった。

 ここは私有地でも忘れ去られた廃墟でもない。公的に管理された亭園なのだ。それならチケットを買って散策してみようと窓口にたつと立て札が立っていた。

《開園時間:午前九時から午後五時まで》

 ポケットにいれた折りたたみ携帯を開くと午後七時半を過ぎている。

 どうやら僕は閉園したはずの日本庭園に迷いこんだらしい。

 どうしようかと逡巡したが、誰かに咎められた場合は「閉園時間を知らず、開いていた門から入ってしまった」ということにしようと決め、少しばかりの間、貸し切り状態の日本庭園を散策することにした。


 僕がその陰影に気づいたのは、池泉にかかる石橋に足をかけた時だった。

 生暖かい空気をはらう、あの涼しげな風が吹いたのだ。例によって振り返ると、右端の窓口から数えて四つある広間のうち、入口から最も遠い左の広間の障子に、左向きに正座をしている人影が映り込んでいた。

 そこは続き間になっている三つの広間より若干狭く、その三部屋より廊下ひとつ離れていた。広間の狭さからして茶室だろう。部屋の中央に灯籠のような光源がぼんやりと茶室を照らし、障子に影を映している。

 影はずっとそこに正座していたかのように身じろぎひとつしなかった。

 僕は茶庭と池泉の散策路を区切る囲いまで歩み寄ってみた。

 障子に淡く浮かぶ影の輪郭は小さな童女のそれだが、子供というには多少の肉付きがあって、まるで大人の階段の一段目に足をかけたような少女だった。

 もしかして人形だろうか。

 それなら閉園した日本庭園の茶室に誰を待つでもなく座っているのも頷ける。

 観てみたいと思った。可能なら間近で。

 柵を乗り越えて、わざと足音を立てて茶室の前まで進んだが、影はまだ動かない。

 やはり人形なのだろう。縁石で靴を脱ぐと、躊躇いなく障子を引いた。


 ――瞬間、思考が固まった。


 床の間を背にして、豪奢な着物をきた少女がじっと目をつむっていた。

 光沢すらおぼえる赤の留振袖に、金糸で帯状の模様が何条にもあしらわれた黒地の袋帯をした少女は「神聖にして冒すべからず」と評されるべき神々しさを放っていた。

 本当に人形なのだろうか。そう訝しんだが、すぐに考えを改めた。

 人じゃない。人であってはならない。

 人のような卑しい生き物では、ここまで鬼気迫る美しさはありえない。

 この総毛だつような感動は狂気ふれた天才の創造力でこそ生み出せる。矮小な人間が何千年と時間をかけても、彼女の凄まじさに匹敵する者など産まれまい。

 そう断言せざるをえないほど、彼女は美しかった。

 それにしても精巧な一品だった。腰まで伸びた髪を指で梳いてみると、背中をざわつかせるほどに官能的な手触りがした。布地もどんな染料を使えば、火焔のなかで舞いのぼる蝶の鱗粉のような燦めきが表現できるのか。

 袋帯で締められた腹部からなだらかなにのぼる胸と、わずかにみえるうなじ。

 そのどれもが清廉な居ずまいなのに、どこか生唾を呑み込んでしまう。

 それらは類い希な技術の粋を結集させた宝石群だった。

 しかしそのどの輝きよりも僕を魅了してやまない部位があった。

 閉じた目蓋だ。

 それに気づいた瞬間、全身に張り巡らされた血管から血の気がひいて、一転、叫び上げるような興奮が喉元をせり上がってきた。

 彼女はあって然るべきものがない。

 閉じた目蓋の奥にあるはずの膨らみがなく、むしろ眼窩の形に陥没している。

 この神々しいまでの聖女は、しかし眼球のない盲の姫だったのだ。


 その夜から、僕は彼女の虜になった。