ちょっとした事情で開けた机の引き出しは、自分の記憶をそのまま覗くようだった。小学校に通う間に使い切れなかった鉛筆に、数字の剥げた分度器。定規は母親の作った文具入れにしまわれて、引き出しの中にずっと入れてあったのに埃をかぶっていた。手に取ってみれば、それなりに思い出も釣り上がる。関係のないことまで連鎖するように思い出していた。目と記憶が右往左往して、なかなか目当てのものを見つけることができない。やや焦るほどの時間をかけて、ようやく見つける。

 探し物を済ませたら、母さんに頼まれた使いのために荷物を持って家を出る。最初の信号に引っかかるまではいつも通りに歩いていたけれど、待たされて、焦燥が一気に募る。

 青に変わったら、足は自然に忙しなくなっていた。

 早歩きな自分は、しかし今の町に違和感なく溶け込んでいるのだった。

 ここのところ、慌ただしい。わたしだけでなく、町全体が。せかせか、時計まで針が早まっているように錯覚する。

 でもそれも当たり前のことだった。

 星がその鼓動を早めるように生き急いでいる。

 わたしたちもそれに乗り遅れるわけにはいかない。

 宇宙船は待ってくれないのだから。

「皐月」

 名前を呼ばれて、振り返る。

 ややくぐもった声の主は昨日と同じように美しかった。

「きみは完全ジモティーのメイじゃないか」

「あんたもでしょ」

 頭より高いところからの声は、少し距離があるように聞こえた。背伸びするように頭を上げる。メイは肩にかかる髪を邪魔そうに払いながら、わたしに向かって微笑む。

 澱んだ空を向こうに広げながら、それでもメイの端々が輝いて映る。

 憧憬は時として環境や科学を超越する。あり得ないものを、脳に訴えかける。

「外で会うのもちょっと久しぶり?」

「ね」

 メイが短く同意する。一人で歩いてきたってことは多分また、こっそりと抜け出してきたのだ。もしくは遠くから監視しているのかもしれない。

 しかし、人混みの中でよくわたしを簡単に見つけられるものだと感心した。

「メイは背が高くて羨ましいですな」

「んー、高いっていうか……姿勢の問題?」

 メイが軽く考え込むようにしながら言う。姿勢、と我が身を省みる。まぁ確かに。

「もう少し背中伸ばした方がいいかな」

「低くてもええやん」

 みんなそんなもんよ、とメイが適当に慰めてくれた。みんなってどの辺のみんななのだ。

 少なくとも、そのみんなにメイはいないのだなぁと思う。

 メイと並んで歩く。用事があったはずだけど、メイと出会ったので概ね忘れた。

 忙しない足取りは、少しでも長く一緒にいようと自然、落ち着く。

「出歩いていていいの?」

「ちょっとなら平気。固いこと言わない」

 なはなは、とメイが肩を揺らした。まぁ、マスクをしているなら大丈夫か。

「やっぱ目立つかな。視線を感じる」

「そりゃあねぇ」

 色々な意味で注目を集めて当然だった。隣を歩くわたしも若干気恥ずかしい。

「用意は進んでる?」

「大体。私がやること自体は多くないし、荷物も勝手に纏めてくれたし」

 メイが若干気まずそうに首を掻く。

「いいなぁお姫様」

「んー」

 そんなことないよ、と否定するかと思ったらメイが俯いて、それから。

「王子様つきなら姫も悪くないかも」

「おうじぃ? どんな?」

「頼りになるのがいいかも。なんかこう、勇ましいというか」

 やぁ、とメイが剣か槍でも構えるように腕を掲げる。今時そんな人がいるものか。

 まぁ、別の星に行けば分からないけど。文明のレベルの差もあるだろうし。

「という感じの姫ちゃんです」

「そっすか」

 てこてく歩く。姫の要求は理解しがたい。でもまごうことなく姫だ。多分、今、この星で一番堂々と道を歩いていいのがメイだ。我が古き友には今や、それくらいの価値がある。

「当然ではあるよね。メイは特別だから」

 羨望とやっかみと、憐れみ。胸中に巡る複雑なものは、大まかに分けてその三つだと思う。

「時々、羨ましく思う」

 メイがわたしを見下ろす。マスクの奥から感じるものは硬く、柔らかい風に晒されながらも崩れない。しまった、と言いながら感じつつも避けることはできなかった。

「時々って、ついさっきも羨ましい言ってなかった?」

「わはは」

 メイの指摘を笑って流す。場の空気が弛緩したのと同時に安堵する。

「けど地元→宇宙ってすごい進出だよね」

「うんうん。高2→将軍くらいの飛躍だよね」

「いや意味が分からない」

 メイの発言は大体、その場の勢いに任せたものが多いので全部付き合うと疲れる。でも長く知り合っていても、会話の取り分けというか、必要なものの選択が難しい相手だった。

 だから結局、ほとんど付き合ってめいっぱい疲れていく。

「ああ疲れた」

 そのメイの方が先に音を上げる。歩き疲れたよとよろめいた。

「良い若い者が情けない」

「仕方ないじゃんおばあちゃんや」

 メイが自分の足を軽く叩く。わたしはそれを見届けて、やっぱり少しだけ羨んだ。

「そうね、仕方ない」

 その言葉を契機としたように、二人揃って頭上を仰ぐ。

 空は昨日と同じようにくすんで、艶がなく、広がらない。

 五月の日は鋭く、しかしどこか場違いな明るさなのだった。

 眩くて、目を細める。

「早くまた、人がたくさん増えるとええなぁ」

 人類のためというのは実感が湧かない。でも、わたしの夢見るもののためなら。

 成功を願ってやまないのだった。

 わたしたちは、この星を見限る。

 海の底よりも深い夜空を越えて、新天地へと旅立つ。

 生きるために。

 あるべき姿を生むために。



『人は水の中でも、空の向こうでも息苦しくて生きられない。大地を愛せ』

 それが現在に至るまで受け継がれた部族の教え。

 だけどわたしは海を愛した。

 今もその海を見下ろしている。ちゃぽり、ちゃぽりと穏やかに崖を撫でる水の音。残照のように耳の側に寄せてくる。崖下から訪れる、水気を含んだ風を浴びているといつしか、陸の上にいながらも海面に揺られる錯覚を引き起こす。流れに沿い、敢えて酔うように、幻の海に浸る。

 海とは、不安になるほど身を自由にするものだった。

 確かに息がずっと続くわけではない。

 けれど大地を駆けるよりも、海底へ沈んでいく方が怖くなかった。

 底へと近づくにつれて、自らを脅かす敵が減っていくからだろう。

 陸地というものはとかく生きやすい故、敵の繁殖も早いのだった。

 しばらく、海を眺めていた。

 やがて名前を呼ばれて、顔を上げる。振り向くと、同じ集落の仲間が立っていた。目に浮かぶものにはわたしに対してやや呆れているような感情が読み取れた。飽きもせずこんなところにいるからだろう。

「長が呼んどる」

「分かった」

 肩にかけていた石槍を杖の代わりとして立ち上がる。長に呼ばれるのは大概、厄介な用を押しつけられるときだった。気は重たいが、長の言葉を無視するわけにもいかなかった。

 海に背を向けて集落へと引き返す。わたしを呼びに訪れた仲間は少し先を歩いている。歩幅が違うので距離が段々と生まれるが、走って追いつく気にもならなかった。崖から離れると植物の匂いが強まる。淡泊な風の中に枯れた樹木の香りが混ざった。

 陸地の大部分は草に覆われて、集落から少し離れると広大な森が大地を埋める。背の高い森だ。その森の向こうへと日が沈むので、この土地では夕方が少しだけ短い。

 森は多くの恵みと、そして危険を与える。

 二つの『なくてはならない』をわたしたちに授ける。

 一つはそのまま。もう一つは、戦わなくてはならない、だ。

 膝まで隠れる草の中を移動する最中、なにかを軽く蹴る。屈んで草を掻き分けると、歪んだ欠片を見つけた。ああこれか、と拾い上げる。かつて空から落下してきたとされる星の欠片だ。大半は腐食して消えてしまったが、時折、こうしてその姿を覗かせる。

 なんの価値もなく、使い道もないが握りしめると指が綺麗に引っかかったのでそのまま持って帰ることにした。手触りは非常に悪い。これは、人の作り出したものだと昔聞いた。

 人はかつて、その空の向こうに星を作り上げたというのだろうか。

「…………………………………」

 海は分かるけど、空の向こうとは具体的になんなのだ?

 古来の教えを、教え以上に読み解こうとするものは今のところ誰もいない。

 大過なく集落に帰還する。草地を円形に大きく刈り取った生活の場は土の茶褐色が主となる。その刈った草木で編まれた三角形状の住居が、遺跡を中心として点在する。布でできた建物も奥に少しあるが、そこで暮らせるのは極一部だ。

 長の住まいの入り口に立つ男が、わたしに急げと手招きしている。慌てることなく向かったら舌打ちされた。気にせず、長の住まいへと入る。

 長の住まいは埋もれている。過去より存在したと思しき建物は入り口が土に埋まり、屋根は草が茂っている。その入り口を掘り返して、地下に広がる空間を住居としているのだった。他の建物はほとんど崩れ去ってしまったが、これは半ば埋まっているのが幸いしたのだろうか。

 やや窮屈な入り口を、身を捩って通る。すぐに、長の顔が灯りに浮かんでいるのが見えた。屋内はその仄かな灯りだけで、隅の暗がりまでは払拭できない。ただ長以外にも複数の人影が蠢いている。補佐役や古株が控えているのだろう。

「来たか」

 槍を先に置いて腰を下ろすと、歳は四十を越えて高齢を迎えた長がヒゲと顎を撫でた。長は我々よりたくましい。肩幅も、背丈も。食べているものの質の差が見た目にも表れていた。

「また海に行っていたのか」

「うん」

 素直に頷くと、長の口もとが苦みを訴えるように曲がるのが見えた。長は、いやここに住む者たちは海に近寄ろうともしない。大地を愛せという教えと、畏怖のせいらしい。

 わたしにはどちらも関係なかった。

「最近のことは分かっとるな?」

「どれのことだ」

 一口に纏められるほど取り巻く問題は少なくない。食料に、天候に、侵略に。

「そうさな」と長が足もとに頬杖をつき、頭を傾かせながら目を泳がせる。なにか言いづらいことがあるときの癖だった。ますます、この場にいるのが嫌になる。

「まず東の部族はほっとけん。活動する範囲が顕著に広がっとる」

「……そうだね」

「大地の傷を越えてくることも多い。いずれ、集落まで直接乗り込んでくるやもしれん」

「それも流れの一つだ」

 抗って尚滅ぶとしたら、そういう定めだったのだろう。珍しいことでもなかった。

 長がそうした意見を聞いて、今度は口ではなく目もとを潰す。

「俺は、そうは思えん。上に立つ者として出来る限りのことはやらないかん」

「ふぅん」

 出来る限りという前置きが少し気になった。

「なにより、東の部族だけは討たねばならん」

 そう語る長の目と声はどこか乾いたものを連想する。

 地面を掘り返して、古いものを露出させるように。

 あいつらを相手にすると長だけでなく、他の連中も躍起になる。因縁でもあるのだろうか。

「だがやつらと正面からやり合ったところで敵わん。どうすればいいと思う?」

「知らん。わたしは頭が悪い」

 海の中なら勝ち目もあるだろうが、やつらもなかなか近づこうとはしない。

 神の光がそんなに怖いものだろうか。……まぁ、怖いけど。

 肉体が丸ごと消えるというのは一体、どんな感覚なのだろうか。

「やつらと同じ力を授かればいい」

「……どうやって?」

「あれは神の岩のそれに近いと俺は思っている。やつらが神の使いであるかは分からんが、それならば神の岩の元へと赴き、我々も力を賜る。それしかない」

 長の話が続いても、どうやっては解消されない。

「そんな簡単に力など授かれるわけがないだろう?」

「確かに、簡単ではない。相応のものを捧げねばならんだろう」

 捧げる、という言い方に感ずるものがあった。思わせぶりに、長がわたしを見る。

「そして、お前しか神の岩の元へは行けん」

 長のやや硬い口ぶりから、少しの時間を経て理解に至る。

 自分が呼ばれたわけも、なにをしようというのかも。

 また、めちゃくちゃなことを言い出したものだ。

「つまり、わたしに贄にでもなれと?」

「贄とは……まあ結果としてはそうなる」

 それに、と長が続ける。ようやく、言いづらい部分に触れるようだった。

「お前は大地を愛しておらん。それは我らの信仰の濁りになる」

 長以外の目が、影からわたしを批難するのを感じた。ああそう来るのか、と笑う。

 周囲の意見を代弁しなければいけないとは、長も辛い立場である。

「分かるな?」

「よく分かる。神に縋るようでは部族もお終いだ。神とは心の安寧をもたらすもの。祈りは日々を生きる糧にまでは及ばない。そんなものに費やす手間を増やすなら、森に向かうべきだ」

 恵みから滋養を、木々から武器と道具を得て抗えばいい。

「それではどうにもならん。今の繰り返しになる」

「繰り返しでは不服か?」

「衰退しかせんよ」

 長は引かない。どうしてもわたしを海に沈めたいらしい。

 半分は建前で、本音は体の良い人払いということか。

 わたしは疎まれているからな、と横を向いて笑う。影の奥の吐息が伝わってくるようだった。

「わたしの手足でも縛って海に放り捨てるのか?」

 槍に指を添える。長も薄暗い中でそれを一瞥するが、腰は上がらない。

「できれば、お前が望む形であってほしい」

「無茶を言う……」

 誰が好きこのんで死にたがるものか。そんな献身を持ち合わせてはいない。

 ただ、ここで拒否して全員を敵に回して外へ追いやられるのも面白くない。

「……分かった。では今から向かおう」

 おぉ、と長を含めた大人の声が影から上がる。その歓喜はわたしを集落より取り払うこと、神の奇跡に近寄ること、どちらに向いているのか。

「どうせわたしが断れば、他の誰かを海に沈めるんだろう?」

「助かる」

 長は顎を撫でながら否定しなかった。呆れつつも、ごまかさないことには感心する。

「もっとも、わたし一人を捧げて神が満足してくれるかは知らないよ」

 そんなものいらん、なんて言われることは考えないのだろうか。

 槍の柄尻で床を押して立ち上がり、さっさと外に出た。長の住処は空気が土臭くて息が詰まる。いくら他の住居よりは安全とはいえ、こんな場所に住もうとする長の気が知れない。

 外に出てから、拾った星の欠片をまだ握っていることに気づいた。放り捨てる。指先に残るのは微かな汚れと土。払うことなく、ぎゅっと、指を寄せて握りしめる。

 今から死ねばこの指の感覚も消え失せるのか。

 想像すると、外の澄んだ空気も身体の隙間から抜け出ていく気さえした。

 そのまま自分がほつれてばらばらになっていく様を強く思い浮かべる。

 眠りに落ちるように、指先を意識できなくなっていく。

「…………………………………」

 消えるのはまだ早い、と顔を上げる。正面にはいつも通りの集落の景色。

 疎まれる者が招かれたのだ。

 こんなことだろうと思った。



 来た道を引き返すように、海に面した崖へと戻ってくる。ただし、今度は一人じゃない。

 集落の人間がこぞってわたしの背後を固めていた。

 多くの見送りという名の監視だ。駆けて逃げ出すには隙間がない。眺めると、海に畏敬を払うように腰の引けている者が多かった。大抵の者は泳ぐことすらできないのだ。

 少し足を踏み外せば、海底に叩きつけられるのを避けたとしても助からない。

「槍を持っていくのか」

 肩にかけたそれに、長が難色を示す。

「護身のためだ。神の岩に辿り着く前に食われるわけにもいかない」

 長の指摘に半分うそぶく。布で槍の柄と、握る手を強く巻き付ける。海中で離してしまうと回収はまず諦めることになる。いつもよりきつく結んで、指先に血が溜まっていくのを感じた。

 海面は今日も穏やかだ。きっと、本当に静かなる海がわたしを待っている。

 涼やかな風に下から煽られて、足もとが軽くなった。

「じゃあ行くよ」

 振り向いて宣言すると、全員が手を合わせて黙祷してきた。なにも分かっていないような子供まで動員されていた。その内の一人が目を開けていて、視線が合う。集落でたまに話をする子供だった。不思議そうに目を丸くしてわたしを見つめている。軽く手を振る。

 他の連中が目を瞑っている間に飛び込んでしまおうかと思ったけれど、一応、待った。

 黙祷が終わり、長が一歩近寄って声をかけてきた。気まずそうにはしていた。

「すまんな」

「……心にもないことを」

 しかし、言われないよりは気分が晴れた。

 崖を蹴るようにして身を投げ出す。悲鳴のような声を背景に、海面へ叩きつけられた。

 着水して、最初は身体が痺れる。水の激しく動く音が、泡と共に耳を打つ。勢いのままに沈む間、目を瞑った。暗がりに大した違いはない。肌が海の冷たさに染まる中で、これまでのことを思い返す。自分が暗い海の底にいるのは正しいのか。ここまでになにかを間違えたのか。

 息をする必要もなく、たくさんの必然から放たれた水中でぼんやりと考える。

 分からないな、といつものように答えは出なかった。

 目を開く。

 手足が動くのを確認してから水中で足を振り回し、姿勢を整える。身体の向きを変えて、海底を見下ろす。浅い海域なので日は底まで朧ながら届く。濁った緑色がわたしを出迎えた。

 いつもの海の風景に安堵して、ざわついていた心が居場所を得た気分だった。

 生憎と、ただ漫然と死にに行くつもりはない。

 海とはそのような場所ではない。目をやれば、溢れるほどの命が芽吹く。

 水中は命が流れを作っている。無数の小魚や水棲生物が、人の挟まる隙間を埋めるほどに。その流れが途切れる先を目指す。そこに神の岩がある。

 魚の群れを掻き分けるように、水中を強く蹴って進んでいく。いつまでも壁がなく、辿り着く場所もなく、不透明な景色が続くのは精神を蝕む。支えは強く結びついた槍の柄だった。

 やがて水中の流れが変わるのを感じ取る。抵抗があった。目を凝らした先に、水のうねり。距離を詰めていけば、その大きな蛇腹に生物の力強さが浮かぶ。いつものように遊泳している大蛇だった。海の中でしか生きられないその巨体を悠々とうねらせる。胴の鱗一枚でわたしの全身を包めるのではないだろうか。鋭い尾、長いヒゲのような触角、そして前足。……蛇に足のようなものがあるのはなにか違う気もしたが、便宜上そう呼んでいる。

 全長はどれほどあるのか、上から眺めたことがないので測りきれない。光の強まる海域まで上がってはこないので、正確に把握することはできない。ただ近寄ると、臭う。藻のような青臭さを錯覚する。鱗で隠れているあたりに茂っているのかもしれない。巨体の世話など誰もしてくれないのだろう。いつ見ても食い出がありそうだが、仕留められそうもない。

 わたしや他の生物のことなど厭わず、悠々、進んでいる。人を食らうつもりはないようだがなにしろ大口だ。うっかり呑まれることはあり得た。その大蛇の尾に弾き飛ばされないよう、慎重に近寄る。神の岩へ近寄るにはこの蛇の助力が不可欠だった。

 緩慢に進む蛇に並走するように、海を泳いだ。

 徐々に早まる鼓動と、水の巡る音が耳の側で次第に一致していく。水の塊が喉から腹部へと滑らかに流れていく感覚があった。調子が良いらしい、どこまでも泳げそうだった。

 これなら息が切れることもなく、神の岩の元へ辿り着ける。

「…………………………………」

 海の底に、いつからか、神の岩と呼ばれるものがあった。

 外観は石槍の先端のように尖っている。表面は切り出した岩そのもののように黒ずみ、その隙間から時折、淡い光を漏らす。瑠璃色の美しい輝きだ。しかし、それに惹かれて近寄ってはならない。神の岩は、近寄るものの無礼を罰するように、光で焼き払う。

 生物であれば例外はない。太陽よりも眩く、鋭い光が水中を一閃する。大体は狙い以外の周辺も巻き添えになる。その圧倒的な力強さは部族の信望の対象となり、またみだりに近寄ってはいけないという教えも生まれた。

 その光に対抗できるものは多くない。この海でその例外となるのは、大蛇くらいだ。これだけの体躯のある生物は、一瞬では溶かしきれないようだった。万能に及ばない神らしい。

 そんな頼りない神に、矮小なる我が部族といえども救える力があるのか。

 まあ、会ってみれば分かることか。

 どうせ消えるなら、神の岩の光に近寄ってみる。そう決めていた。

 大蛇の子のように、その巨躯に連れ添う。

 長々と夜のように暗い海を泳ぎ、そして、淡い光が遠くで揺らいだ。

 その輝きは、生命の連なりを遠ざける。周囲を気泡のように巡っていた小魚も姿を見せなくなり、光へ近づくのはわたしと蛇だけだ。この大蛇は、決して自分の泳ぐ場所を変えようとはしない。この海に自分以上の存在はいないという自負があるのかもしれなかった。

 瑠璃の光が滲みながらも見えてきて、そろそろか、と大蛇の胴の後ろへと身を潜める。見計らい、耳を塞ぐ。目も瞑る。

 直後、塞いでいても尚、目の奥に飛び込む光があった。

 神の光だ。

 硬く閉じきった自分の身体を意識する。瞳が光に満ちても、身体は決して消えない。証明するようにすぐ訪れる、身を焼かれる大蛇の悲鳴に耐える。塞いでいてもその衝撃が、頭の奥を狂わしく振り回すようだった。強く閉じた瞼がぶるぶると震えている。その波に身体が慣れるまで、少しの時間が必要だった。やり過ごすことはできない、このままその叫びは暫く続くのだから。頭のぐらつきに慣れて身体が動けると確信した後、目を開いた。

 野太い光が大蛇の胴を焼いていた。大蛇は頭を激しく暴れさせながら猛っている。早めに離れないと、こちらにも巻き込まれてしまいそうだ。蛇の胴を蹴るようにして離れ、神の岩を目指す。

 何度か眺めていて知ったのだが、神の岩からの光は一筋しか出せないらしい。それが大蛇に放たれている間に海底より接近する。急げ、急げと気が急き、身体の動きが激しくなる度、息苦しさも相応のものとなっていく。

 空気を吸うと、より長く潜れる。人の身体は空気と血に満たされているのかもしれない。

 その空気を焼き尽くすように使い切りながら、わたしは、神に迫る。

 底から上へ、上へと神の岩に沿って巡る。淡い光に近寄る度、目の端が滲んだ。

 古くより畏怖される存在。心が独りでに頭を垂れる相手。

 いるかも不確かなまま、確かに語り尽くされるもの。

 神。

 その神の寝床、住まい、神聖なる園。

 そのような、絶対的な神の岩をここまで間近で見上げることになるのは初めてだ。近づけたのも人としてはわたしが初めてだと思う。大蛇が離れてしまえば、すぐにでも光に溶かされることだろう。溶け合い、光となったわたしは一体どこへ向かうのか。

 息苦しく、考えの及ばない頭は目の前の景色をぼんやりと受け止めることしかできない。

 漏れる光は近づけば、その分だけ美しさが増す。ぴかぴか、磨き上げられるように。

 そのまま光の側へと浮かび上がり、ものはついでと好奇心にそそのかされて神の岩の表面に触れてみる。岩のようであるが、手応えに重厚なものはない。腐った食い物の手触りに似ていた。案外すかすかなのか。そう思ってぺたぺた触っていると、突如、ぐもん、と内側へ歪んだ。おぼ、と油断して泡を多量に吐いた後、その大きな口が開かれた。

 岩に生まれた闇に、身体が、溶ける。

 おぼ、ぼ、ぼが、「うわわぁおああああおいあいあいあいあいあいあい」

 ずるりと、吸い込まれた。狭苦しい空間へと引きずり込まれて、悲鳴まで細長く整えられる。途中から溢れるのは泡でなく、声となっていた。ごとごとごと、と筒にでも肉体を詰め込まれるようにしながら下っていく。真っ暗闇だけど落ちている感覚だった。

 手足は動かせないし、反転もできない。一切の自由なく、運ばれる。

 長々、延々。海よりずっと深く、暗い場所が続いた。

 その暗闇を転げ落ちた先は、硬い地面だった。細長い隙間から投げ出されて、右腕を強くぶつけて転がり回り、苦悶する。頬を伝い、右目の奥まで上擦るような強い痛みだった。しばらく動けなくて、転がっていた。

 やがて、ぐらついていた視界がはっきりとしてくる。

 はっとなって、顔を上げる。

「…………………………………」

 またしばらく、動けなくなる。今度は痛みではなく、心に大きな衝撃があった。

「どこだ、ここ」

 洞窟とも異なる、冷たい暗色の壁と天井。凹凸のない線で統一された空間が緩やかに続いている。日は遮られ、火も灯していないのに微かな明かりが目を潤す。

 海から覗けた淡い瑠璃色の光だ。うっすらと、壁や床を泳いでいた。

 自分が転がり落ちてきた、壁の隙間を振り返る。落ちてくる前と組み合わせて、考えて。

 神の岩の中へと、流れ込んだのだと知る。

「なんとまぁ……」

 打ちつけた腕が痛むものの、深い傷もない。槍も先端が欠けていたが、柄が無事だったのは幸運だった。ただ刃を柄に結びつけていた蔓紐が今にもちぎれそうになっている。纏う衣の端をちぎり、巻き付けることで応急処置とした。柄を鬱血するほど握りしめる中指に大きな痛みはあったが、泣き言を漏らしていられる状況でもない。呼吸も整い、脈が戻り、肌が仄かな熱を帯びてから立ち上がった。でもすぐには動かないで、髪や肌の水飛沫を散らしながら周囲を見回す。見慣れない景色に、静かに面食らう。

「あ、あー、あー……陸上?」

 いつまでも息苦しくなる様子がない。海中とは隔絶しているようだった。壁らしきものを軽く突く。重い。左手で叩いても音は反響しない。頑健だった。壁や天井の整い方が、森の奥に微かに残る旧文明の建物と似通っていた。天井の低さも共通しているし。わたしたちの槍や住処のように、人の手が加わったことを物語る。ただし、より洗練されたものだ。

 それと、東の部族の用いる道具とも共通するものを感じる。雰囲気が同じだ。

「であるなら、やはり東の部族は神の信徒か?」

 そうかぁ、とやつらの奇抜さに納得する。その神の使いに攻められるわたしたちは、裁かれるべき存在なのだろうか。本当に神が定めたなら異論はない。しかし、抵抗はするだろう。

 出てきた場所から引き返せる気もしないので、槍を構えながら移動することにした。自分の足音と区切ることを意識して、慎重に音を拾う。そこかしこで、弱々しいながら水の流れ込んでくる音が聞こえる。時間が経てばこの空間も水に満ちることになるかもしれない。

 その前に……えぇと……どうすればいいのだ? わたしの目的は、謎の光に近づくこと。生きて辿り着けたし、こちらはなんとなく達成できたと言えるだろう。そうなると残るのは部族の目的。神より力を託されること。その生け贄となることである。

 運良く生き残ったが結局死ぬのか。いや神が必ず生け贄など欲しがるとは限らない。神と呼ばれるくらいだし、案外あっさり、窮地を救う手立てを授けてくれるかもしれない。つまりわたしが生きて帰るにはやっぱり、神との邂逅が必須だ。となれば、と足にも前向きに力が宿る。

 神の岩が水没する前に神を探すことにした。なにやら藁を掴むような話ではあるが現状、それぐらいしかできないので概ね間違ってはいないだろう。多分。恐らく。いやきっと。

 また少し歩いてみる。微かな足音と、整いつつある呼吸。他に生物の息吹は感じ取れない。神が呼吸をするのか、歩くのかという疑問はあってそちらは不確かだが、少なくとも森の獣のような存在が待ち伏せてはいないらしい。腰まで届く草や森林という遮りがないのは、場所として狭くともかえって安心するものがあった。

 水滴の音を残しながら進む途中で穴ぐらを見つける。壁が丁寧にくり抜かれて、長の住居の入り口に形が似ていた。壁に張りつき、警戒しつつ覗く。人や獣の姿はないようだった。

 開け放たれていたからか、空気も澱んでいない。槍を前に出しながら、入ってみる。

 壁や地面は地続きのように、同じ材質でできあがっている。精巧に線の引かれた空間で、わたしたちの住まいよりずっと整っている。奥に四角い台がある。下には獣の足のようなものが四つくっついている。

「長の寝ている台に似ているな……」

 藁を編んだむしろよりは寝やすいと長は言っていたが……これなど、作るのは大変そうだ。材質もよく分からない。叩いてみるとやや硬質だ。神が横たわる場所なのかと手を添えてみたが、体温は残っていなかった。

 外へと出て少し進むと、隣にも同じような空間が並んでいる。長の住まいと共通するものがあるなら住居、神の家ということか。広いのは確かだが、案外狭い。神秘的ではあるが荘厳に欠ける。神は慎ましいのか。更にその広さから、神というものが大蛇ほど巨大ではないと予想もつく。これなら槍さえあれば戦えるかもしれない。神を殺していいのか分からないが。

 通りかかった穴を覗きつつ、また進む。何度か繰り返して、今までと違う場所を見つける。他よりずっと狭い。入ってみると、寝転ぶことも難しいような狭さだ。しかし縦にはそこそこ、いやかなり長い作りとなっている。なんの用途だろう。長でもこんなとこでは寝られまい。

 見回すと横の壁に細かい凹凸がある。整えられたようにも感じられるそれがいくつも並んでいて、なんだこれはとどかどか叩いてみる。押すとへこむようだ。指で適当に突っついてみる。

「わっ」

 急に目の前の戸が閉じられた。閉じ込められた、と血の気が引いた直後、空間が唸りを上げる。足首が下に引っ張られるような、不愉快な感覚に包まれた。なんだ、とよろめいて壁に手を添えると空間が蠢いているのを知る。これは一体、と身を固くして耐える。

 やがて音と、不愉快な重圧が消えて戸が開く。通ろうとしたら、戸が再び閉じてわたしを真っ二つにでもしないだろうか。槍を突き出してみるが、戸の飛び出してくる様子はない。やや腰が引けながら、外を覗いてみて驚愕する。さっきまでと違う景色が広がっていた。

 色や形は同じでも、空間の構造が異なる。別の場所? そういえば、壁が動いていたが……神の奇跡というやつか? よく分からんな。いやそれより、と警戒することがある。音が聞こえる。水の流れとは違う、妙な音だ。移動するとその音が増えていく。低く唸るような音は途切れることがない。重い羽虫が耳の側を通過するようで不快だ。警戒を強めて、音をたぐるように探っていく。……神の歯ぎしりかな?

 神の岩というのは、実は大きな生き物でここは胃袋の中なのかもしれない。

 音と、時折地面を流れる青い光に導かれるようにして、そこへ至る。

「…………………………………」

 そこには、見過ごせないものがあった。

 音の発信源であることも含めて、神の岩の心臓というところだろうか。広間のようである。壁や地面の作りは今まで見てきた場所と変わらない色合いだ。ただ、物が多い。用途の知れない物、変に凹凸の多い物、近づくと変な光を発するもの。知らない道具ばかりで困ってしまう。

 極力、近づかぬよう、刺激しないようにと身を細めるようにして歩く。

 目指しているのは、広間の中央。

 地面や壁を走る青き流れの集約するそれへと、近寄る。

 中央の壁に、人が浮かんでいた。

 細長い水の器の中で、女が漂っている。

「…………………………………」

 水は器に隙間なく注がれていた。……死んでいる? いや、死人にしては顔色が正常だ。図体の割に輪郭に丸みがあり、幼い顔立ち。上下挟んで潰れたように控えめな口もと、なにも捉えることのない閉じられた目。黒く長い髪は意思が行き届いているように、水の中を穏やかに舞う。服もひらひらだ。いや服なのかこれは。着ているからには服だろうが、わたしの身に纏うものとは質感からして異なる。

 繋ぎ目のない、上下に長いひらひらした服だ。

「しかし大きいな」

 わたしより頭半分は大きい。長に背丈が近く、つまり、良い物食べているわけだ。

 これが、神?

 意識はないのか、先程からの声に反応しない。目を瞑り、黙々と浮かび続けている。

 手足をばたつかせないで浮いていられるとは……不思議だ。神は空から来たと言われているが、本当に飛べるのかもしれない。しかし大丈夫なのだろうか、水中で。

 いつからこんなところで生活しているか定かではないが、神になれば海で生きられるのか。

「羨ましいな……」

 器に手をつきながら、思わず羨んでしまう。と、ほぼ同時に足もとがぐらついた。

 お、お、お? と翻弄されて、振動が本格的なものとなって足を取られる。地面で尻を打ち、その後に続く壁や天井の揺さぶりを、身を固くしながら見守るほかなかった。

 なにかが起きている。それは身の危険に繋がり、そしてそいつは外から訪れていると察する。思い当たるのはあの大蛇だ。攻撃されたことに怒り、反撃に転じたのではと想像する。

 あの巨体が本気でぶつかってくれば、神の岩も平穏無事とはいかないかもしれない。崩壊が進んで水が入り込んでくれば、と考えればここに留まっているのは賢明ではない。脱出しなければいけないが、目の前の女はどうしようという話だった。

 女はこんな緊急時にも眠りこけたように目を開かない。よほどこの中が心地よいのか。

 それならば、起こすのも躊躇われる。

「……しかし」

 放っておくわけにも、いかないだろう。

 神の道具の使い方は分からんが、なに、なんとかなるさ。

 槍の先端を確かめる。欠けて、潰れたようになっているが……いけるか? 足もとのぐらつきに迷う時間もないことを知らされて、両手で槍を構える。

 巨体だが東の部族とは似ても似つかない。敵対する可能性は低そうだ。

 器の端に槍先を定めて、踏み込む。突き出す。

 手首の中心から肘まで、重い手応えが走る。親指の皮が剥けた感触もあった。

 そこから生じる血の滲みと共に、槍が確かなものを貫いた。器の表面に小さくない穴を刻み、そこを中心に細かなヒビを入れる。狙った位置に運良く槍先が向かったので、中の女にぶつかることはなかった。槍を引っこ抜くと、水がじょろじょろと漏れていく。

 地面に流れた水に、慎重に足を浸してみる。生温い。屈んで、指にくっつける。舐める。

「……変な味のする水だ」

 舌の上に細かな異物を感じて、吐き出した。

 その水が抜けきると、浮かんでいた女は器にべたりと張りついた。額を押しつけて鼻が潰れて、ぶっさいくだった。神最高にかっこわるい。まぁそれはいいけど、起きる気配がない。外から槍で軽く突いてみるが、音に反応はない。むしろ音の変化を恐れているのはわたしだった。遠くから、流水の迫る音が聞こえた。気がした。少し経つと聞こえなくなったので恐怖からの幻聴かもしれないが、焦燥は増した。

 どうすればいいのだ、と器の脇に回ってみるが勝手がまるで分からない。槍でやたらめったら突いて穴だらけにして壊せば、なんやかんやがどうにかならないだろうか。

 ようし、と槍を腰に構えて、奥の女に当たらないように多少は気を遣いつつ、とにかく突いた。がんがんがんがん、と攻撃的な音を奏でる。水面のように透明な器はさほど硬くないのか、穴を空けることは容易い。集中して一カ所を貫き、大穴を開けた。

 何度か女の足に槍が刺さりかけて、ひやっとした。

 穴に足を引っかけて、器を蹴飛ばして取り外す。

「この手に限る。……あ、しまった」

 外れたはいいが、女ごと地面に落ちた。女は無抵抗に投げ出されて、べたんと不格好に落ちた。尻を突き出す形になっている。さすがに痛かったのか、女の瞼が震えた。次いで、噎せる。水を吐き出して、激しく咳き込んだ。

 目覚めたようだった。

 神の目覚めにしては、なんというか……苦しそうだ。

「おい、大丈夫か」

 屈んで様子を窺う。噎せているのだから起きてはいるだろう。

 女が、長たちの求めた神が、ゆっくりと顔を上げる。

 潰れた前髪を額と鼻にまで張りつかせて、その奥からわたしを捉える双眸がある。

 威厳などと無縁の、幼げな輪郭だった。

「あなた、誰?」

 声は水のように透き通る。そして、わたしの耳に明確な意味を持って届く。

 神もわたしたちと同じ言葉を用いるようだ。意思が通じるなら、とまずは安心する。

「すごい髪に……それに、手と、足、」

 答える前に、神はまた激しく噎せ込んだ。落ち着くまで口を噤んでいると、再び大きな揺れに襲われた。槍を握りしめて天井を見上げるが、幸い、水が溢れてくることはなかった。

 神もこれには驚いたらしく、左右に何度も視線を送る。

「ここは……船。あの日に……というか、私だけ?」

 神が濡れた前髪を掻き上げた。周囲を改めるように見回すが、勿論わたしたち以外にはなにも見つからない。程なくして、神が再びわたしを見る。消耗しているが、瞳は力強い。

「状況が呑み込めない。だから一つずつ質問したいわ、付き合ってくれる?」

「こちらの疑問にも答えるなら」

 わたしの返事に、曖昧ながら笑う。

「結構。じゃあ一つずつ。まずこの揺れはなんなん?」

「大蛇が怒って外で暴れているのだと思う」

 神の岩に巻き付いて、締め付けてでもいるのかもしれない。

「だいじゃ? えぇっと、大蛇……蛇か。そんなんがいるのね」

 神が頭を抱えるようにしながら俯く。「新天地……」と何事かを呟いたが聞き取れなかった。

「これは後で考えるとして、次の質問。……あなたの船員番号は?」

 神が不可解な言葉を交えてくる。せんいんばんごう?

 尋ねる神もまた、不安げに眉を寄せている。

「なんだ、それは」

 言葉をどこで句切ればいいのかも分からない。疑問を浮かべていると、神が納得する。

「あー……やっぱり、そうやよね。見覚えないし」

「仲間がいるのか?」

「いるのか、いたのか。そもそもあなた、どこから来たん?」

「どこって、外から。多分」

 暗闇の中を滑り落ちてきたから、確かなことは言えないが。

「……どうも、あなたも大して知らんみたいね」

 神がぼそりと呟いてから、目を泳がせる。「うん」と一度頷いて。

「そっちも聞きたいことがあるのよね」

 促される。それと同じくして、ごぅん、ごぅんと壁が渦に巻かれるように鳴る。恐怖の水位を押し上げるようなそれに、背中が寒気を覚える。

「時間がないから一つだけ確認したい」

「どうぞ」

「お前は神か?」

 それが肝心要なところだった。

 これが神でなければ、わたしは一体ここへなんのために訪れたというのか。

 女はまず、目を丸くした。無垢な顔つきだった。けれどそれから、目つきが切り替わる。険しくなり、わたしをまじまじと見つめる。顔だけでなく、手足、胴、各部を丹念に。それから自分の手を見下ろす。見比べるように一つずつ、わたしと照らし合わせて。

 そして。

「多分、そうよ」

 はっきりと肯定した。

「……そうか」

 そこまではっきりと自信を持っているなら、今は神として扱おう。早速、慈悲を乞う。

「本当に神ならこの状況を解決できるか?」

 このままでは神の岩ごと潰されてしまうのだが。神は振り向いて、目を細める。

「船の防衛機能さえ万全にできれば……ああでも、もう壊れているかも……」

 神がぼそぼそと独り言を並べた後、わたしに答える。

「無理ね」

 あっさりと降参した神に、思わず「使えないやつ」と本音を漏らしてしまった。

「ま、否定はせんけど……」

「それなら、自力で脱出するしかないか。ここに住んでいるなら、構造は分かるだろう。外へ安全に出られる場所はないか? いや、繋がってさえいればいい」

 壁の亀裂から抜け出すのは難しいだろう。どこか出入り口でもないものか、と期待しての質問だった。それくらいはこの神にも分かるのか、空間の入り口を向く。

「まだ無事に残っているかは分からないけど……昇降口ならあるよ」

「しょうこう?」

「入り口のこと。ただ結構遠いから、間に合うかは保証しない」

「よし」

 あるならいい、早速行動だ。槍で地面を押して立ち上がり、入り口へと早足で移動する。しかし足音が自分のものしかないことに気づいて振り返ると、神がよろめいていた。

「おいおい」

「きっつ……」

 神は立ち上がるのもやっとのようだった。寝過ぎて身体が弱いのだろうか。ひ弱な神め、と引き返して、空いている左手を差し出す。

「早くしろ」

 神はわたしの顔と手のひらを交互に見つめた後、手を伸ばしかける。が、その前に。

「ここに来るまでに、誰かと会った?」

 そんなことを聞いてきた。

「いや、誰とも」

「そうね。……えぇいもう、よぅ分からん」

 神が手を取る。関節の骨の柔い、脆い手だ。その手を握りしめて走り出す。神の手は脆いが、図体のせいか身体は重い。引っ張るときに意外な抵抗があった。脱出への気概に重しが加わるようだった。

「構造思い出せるかなぁ……パンフは何回も読んだけど」

「なにをぶつぶつ言ってるのだ」

 内容は聞き取れないが、不安になりそうな調子は止めてほしい。

「そこのエレベーターに乗って」

「えべべ?」

 こっちよと神が誘導した。先程、わたしが迷い込んだ場所だった。突き飛ばすようにわたしを連れ込んだ後、神が壁の細々としたものを弄り出す。わたしと違って指の動きに明確な意図があった。やがて勝手に入り口が閉じて、また動く。

 今度は肩が上へ吊り上げられるようだった。慣れない。

「苦手だ。なんだこれは」

「下の階に移動しとるのよ。まだ動力自体は残っているみたいだけど、いつ切れることか」

 後半の発言は理解できないし、前半は不可解だった。

「下でいいのか、上に行かないといけないのに」

「上に……?」

 神が困惑を見せる。どうも、見解の相違があるようだった。

「海面を目指さないといけないから、そりゃあ上だろう」

 天井を指差す。神がその指の先を追いかけるように顎を上げた。

「海面? ここ、海の中なの?」

 そんなことも知らないのか、と目を丸くする。その視線を恥じるように、神が目を逸らす。

 神のいた場所では浸水の音が聞こえなかったので、やむないのか。しかし、それにしても。

「一体、こんなところでなにをやっていたんだ?」

 神に時間の流れを問うても、むだなことかもしれないが。

 神はぼんやりとした目つきと、掠れた声を伴って答える。

「寝ていたのよ。多分、長い時間」

 なんて羨ましいやつだ。わたしも水の中で長々と漂っていたい。

 しかしそれは、世界のなにもかもが許さないのだった。

「暢気な神だ」

「余裕のない神様なんて嫌でしょう?」

 軽薄な返事をする神の言い分に、「違いない」と同意を示した。

 空間の動きが止まって、閉じた戸が開く。今度はわたしが神を引っ張り、外へ出た。さっきまでとは違う場所に変わっている。最初にここへ来たときとも違う。化かされていないだろうかと不安になる。しかし今は、神の指示に従って走る他なかった。

 神の言うとおりに下へ来た影響か、所々に浸水の気配がある。入り込んではいないが、壁の向こうに水気を感じた。足音までぴちゃぴちゃ、音を立てるように錯覚する。今にも周囲が崩れて、流水に呑まれても不思議ではなかった。

「あとどれくらいだ?」

「そこそこ」

 分からん、と怒鳴りたかったが足を止めたくないので堪えた。

 そこからはとにかく、神の指示通りに動いた。時々迷う素振りを見せて足が止まりそうになるのが不安を煽ったが、空間の軋みがそんな戸惑いを許してくれない。まだ流れてこない海水に背中を押されるように駆けた。動いている方が怖くないのは、陸地と変わらない。

 途中から、息の完全に上がった神を背負う羽目にもなった。自分より体格の良いものを背負うというのは単純に難しい。槍も手放せないので身体は傾き、確実に速度は落ちる。その頃には振動が酷くなり、自分がよろめいたのか、空間が歪んだのか曖昧になっていた。

 行き先だけ先に教えてもらって捨てるか、と一瞬邪な考えがよぎる。

 しかしそれを実行する前に、神の案内は終わった。

「そこを右に行って……あった、ここよ」

 青息吐息の神が新しい壁を指す。ここがなんだ? と上下に眺めていると背中から下りた神が側の突起を操作し始める。わたしのように殴り飛ばすわけではなく、それぞれの突起を手早く押している。

 神がなにかしらの道具を用いようとしているので、神妙に待った。

 が、成果は芳しくないようだった。

「……開閉操作できないわ。電気が来てない」

 神が嘆くように頭を振った。様子を見ていて、一言。

「分からん」

 神が状況かわたし、どちらかに嘆息する。

 膝に手をついて、声まで薄暗くなる。

「開けられないってこと」

「分かった」

 それならばと目の前の壁を蹴る。足の裏を何度もぶつける。猛然と、叩きつける。

「いやいやいや、無理でしょ」

 神が呆れたのか慌てたのか、手を横に振って否定する。構わず蹴り続ける。

 反響音が心地良い。

「神の岩はどこもかしこもくたびれている。あり得ないことじゃない」

 わたしが入り込んだときのように。

 神を見る。

「お前も一緒にやれ。死にたくないなら」

 他の場所を探している時間は恐らく残っていない。ここが出入り口だというなら、こじ開けるしかないのだ。歯を食いしばって耳たぶが熱くなる。血がざぁざぁと、波のように引いては寄せる音を聞く。頭の後ろ側がぼぅっとなり、こんな時に不思議だが家族のことを思い出していた。

 そんなわたしの横で、神はぼぅっとしている。

「死にたくない? どうだろう……どうかな。生きている理由が分からんし、なんでここにいるかも不透明だし。みんなどこに行ったのか。そもそも、ここ、どこよ」

 神がまたなにか言っている。時々半笑いとなって、肩を揺すっている。

 気味の悪いやつだ。

「あれから何年が経ったのか、大体なにこの野生児みたいなの。でも人間ね、確かに人間。私と同じ。驚いたわ、外に行けばもっとたくさんいるのかな。ああでも、外って……」

「おい」

 尚も口ばかり好調な神に提案する。

「別に助かりたくないなら離してくれ」

 左手が使えなくなるし、気を遣うし、邪魔だった。

 これこれ、と握っている手を掲げて上下に振る。動きに合わせて神の目玉が跳ねた。

 それから、面白くなさそうに唇が尖る。

「そういう言い方、好きじゃないわ。気に入らん」

「む?」

 そういうもなにも、いつも通りに喋っているだけなのだが。

 しかしなぜか、神はやる気になったようだった。折れていた口もとが、晴れる。

「だから、死にたくないってことにしようっと」

 神の細い足が唸り、わたしの足の傍らへと添えられる。

「せーの」

 神の変なかけ声に合わせて、足を突き出した。

 一発、二発、三発。

 なにかの剥がれていくような音がする。石を蹴るのとも違う不思議な響き方をしていた。

 神の住まう世界を今、破壊しているのだ。

 意識が熱い膜に覆われるような、温度の高ぶり。そして、妙な高揚があった。

「おんぼがっ」

 調子に乗って力強く蹴り飛ばした瞬間、逆流の反撃に遭った。開いた隙間から水が流れ込み、足を掬われる。背中を打ちつけ、激流に踊らされて空間を転がる。それでも手は繋がっていると、神の手のひらを熱で感じた。

「いいか、息をしっかり、」

 止めていろと言い切る前に頭まで水に浸かる。やむなく、続きは目で訴えることにした。

 必ず、地上に連れて行く。

 強く睨むと、神は手を握り返した。返事としては分かりやすく、上々と言えた。

 壁の突起を掴んで、水が空間を埋めるまで耐える。埋まってしまえば、流れ込んでも来ない……はずだ。抵抗さえなければ泳いで外に出られる。それまで息を潜めて、待ち続ける。

 槍を入り口の方へと突き出して、流れを測る。強い流れを槍先で捉える。

 それが段々と緩やかになっていくことに、光明を見つけたような気がした。

 やがて、肌が冷えきる頃、槍はその流れが淀み、安定するのを感じ取る。肩を前に突き出すと、身体を動かすことができた。いける、と神の手を引いて前に進む。

 上に生まれた隙間へと身をねじ込み、開けた海へと解放された。

 外に出た途端、巨大な尾っぽの端が暗闇から生えてぎょっとする。大蛇の尾だった。

 やっぱりこいつか、と内心で笑う。

 ここに来るまで世話になった身なので恨むこともできない。神の岩を蹴り、斜め上へと進む。蛇は予想の通り、神の岩に巻き付き、締め上げているようだった。

 その大蛇の胴が作り上げた螺旋から、神と共に抜け出す。

 蛇の苔生した悪臭が流れの中で鼻をつくようだった。暴れる蛇の鱗に巻き込まれたら復帰は難しい。大いに焦りながら水を蹴るが、神を引っ張っているせいか思ったほど前に進まない。より焦る。

 見ると神は意識を失ったように、力なく俯いている。泡を吐いた後、手を離して胴を抱き寄せる。抱きかかえるようにすると、こちらの重さも倍増するようだった。水中をこぐ足と腕が更に精彩を欠く。思えば、人を運んで泳いだことなどない。未知の作業に恐怖が増していく。頭になにかが巻き付き、暗い影が顔にかかるようだった。

 神を捨てれば、確実に泳ぎ切れる距離ではある。

 どうしよう、と一瞬迷ったがまぁいいかと思った。

 槍を捨てる。拘束を解き、感覚のなくなった指で神を抱く。両手で担ぎ上げるようにして神を支えて、再び水中を蹴った。背後から、岩の崩れるような音と流れがゆっくりやってくる。

 神の岩が崩れ落ちていく音だった。

 耳の中で石が転がるように、音はどこまでも続いた。

 音と共に、泳ぎ続けた。

 やがて、瞳は光に満ちていく。仄暗い海に、青いものが混じり出す。

 いつもよりずっと、その光を渇望していた。

 あと少し、と歯を食いしばる。

 足が生きようと必死にばたつく。

 こんなに真剣に、海の終わりを目指したのは初めてだった。