プロローグ



 ……おかしい、僕は生まれたてじゃないのに。


 一八七九年、夏のロンドン――――。

 往来に降り注ぐ朝日とちょっとした異変に、新人刑事のアッシュは目をすがめた。

 土埃を舞い上げがらがらと行き交う辻馬車。大通りの両脇に立ち並ぶ店。ステッキをついて先を急ぐ薄いラウンジスーツの男たち。お喋りに興じるストローハットをかぶったご婦人たち。

 アッシュは、絶え間ない喧騒の隙間をくぐり抜け、ロンドン警視庁へと続くアーチ道へ踏み出す。

 汗ばむ体よりもずっと、今この状況は不快だ。

 アッシュの頭に、いつだったか仕事上のパートナーから聞いた話が浮かぶ。

 人間という種は総じて早産なのだそうだ。

 本来、胎内にいるのにはもう一年ほど時間が必要なのだ。そうすれば一人で生きていける程度に成熟して生まれて来られる。しかしそれではとても母体が耐えられない。かくして不足した状態でこの世に放り出されることになる。

 人間は、子宮という檻から出ても、世界という檻の中ではまだ胎児も同然ということだ。生まれてくるのが早すぎる。頼りなく、ふがいなく、みすぼらしく、庇護してくれる他者がいなくては生きていかれない存在。

 片時も目を離せない存在。

 ……でも、今の僕はほっといてもすぐ死にやしないんだから、そんなに見ていてくれなくてもいい。二十歳を過ぎてるんだぞ。

 独身寮からここまで、じろじろと無遠慮な視線を注いでくるものが幾人もいる。人々の眼差しには気の毒そうな色がある。だが、口元にはにやにや笑いが添えられている。慈悲や憐憫という名の糖衣で包んでいるが、下種な好奇心が隠せていないのだ。

 しかし、心当たりがまるでない。

 首をひねりながらもアッシュは直属の上司の元へ急いだ。

「おはよう、ドン・ジョバンニ」

 犯罪捜査部派生部署、スナーク班の班長執務室。入室した途端、部屋の主であるキング・スパーキングがひらひらと手を振ってくる。

 聞き慣れないあだ名だ。

 ドン・ジョバンニ。

 モーツァルトの作曲したオペラのタイトルで、主人公の男の名だ。色事師の代名詞。奔放な性生活と無縁であるアッシュには似つかわしくない。

「おはようございます、班長。アッシュです。僕の名前はアッシュ・グレイブフィールドです」

「知っているよ」

 当たり前だ。ここに所属して五か月。普段はきちんと呼ばれている。

「ちゃんと来たか。勇敢だな、お坊ちゃん」

 次に飛んで来たのは聞き慣れたあだ名だ。

 キングの机に半ば尻を預けて、だるそうにもたれかかっていたのは、アッシュのパートナー、ジジだ。無精ひげを生やした長身猫背の三十路の男。

 青みがかった黒の蓬髪、眠そうに半分閉じられた琥珀色の瞳。縁をすべて銀色の蛇の耳飾りに覆われている右耳。警官らしく見えないのは警官ではないからだ。非公式の雇われで、普段はその日暮らしの自由人。

「いたんですね、ジジさん。勇敢ってどういう……」

 アッシュがそばに寄ると、ジジは自分の首の付け根を二本の指で叩いた。

「なかなか色っぽいものをつけている」

「こ、……れは別にそういうんじゃない! ……です!」

 アッシュは青ざめた。ジジが指し示したところをとっさに掌で覆う。きわどくも上着でぎりぎり隠れているだろうと油断していた。

 静脈が透き通るほどのアッシュの白い肌にうっすら刻まれているもの。

 紫色の歯型の痕。

 数日前、初対面の相手から噛みつかれたものだ。

「やましいことを指摘されたからってそう睨むなよ」

「睨んでないです。僕の目つきが悪いのは生まれつきだ。やましくもないです。なんなら心の音を聞いてもらってもいい」

 アッシュは腰に両手を当て胸を突き出す。

 ジジの右耳は人の感情の音を聞くことができるのだ。感情感知の力がある。だから、嘘をついているかどうかもわかる。彼はスナークなのだ。

 スナーク。犯罪者の臓器を移植され、身体能力が拡張した能力者のことを指す。

「残念ながらね、アッシュ。彼の力を使う必要はないんだ。きみの言い分が真実かどうかは今やもうどうでもいいことなんだよ」

 キングはいつも通りの柔和な笑みを浮かべると、手元の週刊誌をアッシュに投げて寄越した。

「は……、はあ!? はあ!? な、なんっ……、なんですか、これ!」

 アッシュは週刊誌をぐしゃりと握りつぶす。

「なんですかねえ」と、ジジ。

「なんですかだよねえ」と、キング。

 こんなときだけ息を合わせないでほしい。

「こっ、こんなのでたらめです、これにはきちんとした事情があって! 被害者ですよ、僕は。班長に直接報告はしませんでしたけど、その、後ろめたかったわけではなくて、寮の部屋長にはきちんと伝えていますし……」

「こういうかたちで報道されちゃったら、もうきみの真意なんて取るに足りないものなのさ。世論には負ける。きみのやったことは著しく公序良俗を乱す行いだった、そう判断されてもしょうがない。いやあ、僕ねえ、関係各位からかなり叱られちゃった」

 参ったよ、とばかりにキングは自分の短い銀髪をかきあげる。

「……僕、免職ですか」

「だったらどうする?」

「やです」

「子供か、お坊ちゃん」

「これが聞き分けよくいられるかよ。冤罪なんだぞ」

「お前はくび、俺は自由。実に素晴らしい」

 ジジは目を閉じてわざとらしく陶酔した表情を浮かべている。パートナー関係の打ち切りを喜ぶその姿に、アッシュはむっとした。

 半年足らずとはいえ、配属以来ずっと一緒にやってきたのにあんまりだ。そりゃあ第一印象はお互い最悪だったが、今はそうじゃないはずなのに。

「……ジジさんの股ぐらを蹴り上げてやりたい……」

「痛そうだな」

「僕の蹴りくらい余裕で避けられるでしょうに」

「どうかな。標的が大きいからな。お前でも当てられるかもしれない」

「じゃあ大きくてもいいことないですね」

 ジジとアッシュのやりとりに、キングはにこにこしている。きみたち意外にお似合いなんじゃないの、と。今度はジジが不服そうにした。

「冗談はよせ」

「いえ、班長の言う通りですよ」

 アッシュはキングの机へ両手をついて身を乗り出した。

「班長。僕はこんな根拠のない記事で警察を辞めたくなんてないです。僕は必要な人材です。証明しますよ。機会さえあればいくらでも!」

「うん、その言葉を待ってたよ」

「へ?」

 キングの眼鏡が心なしかきらりと光っている。

「僕もね、粘ったんだよ。免職だけは回避できたとも。……けれど、状況はあまり芳しくない。きみは今日から無期謹慎処分だ。事実上名目よりもっとひどい。警察としての権利はほぼ剥奪だ。もはやきみは刑事ではない。でもね、アッシュ」

「は、はい」

「僕が話をつけたよ」

「班長……!」

 キングは、ずい、と、掌を上にして差し出してきた。

「へ?」

「戻ってきたかったら、なにか手柄を持っておいで」

 もちろん、スナークにまつわるものを、だ。

 なぜならここはスナーク班。名前の通り、スナークの専門部署で、スナークに関係する各管区の仕事のすべてが回されてくるところ。

「早々に寮を出るように言われるだろうし、スナーク班はなにも力になれないけど、その代わり警察の勤務規程には縛られないから、ぞんぶんに頑張ってね」

「え」

「俺は手を貸さないぞ。これは依頼じゃないんだからな」

「え」

 なんの権力も持たない一般人の身で、ひとりで事件を見つけだし、あまつさえ解決してこいと命令されている(遠回しに免職を言い渡されているのではないのか?)。

 免職一歩手前。

 パートナーと一時的に関係解消。

 つまり、窮地に陥ったわけだ。――――しかし。

「……承知しました、班長、ジジさん。僕を誰だと思ってるんですか。僕ですよ?」

「きみだね」

「お前だな」

 しかし、アッシュ・グレイブフィールドは諦めない。

「ええ、僕です! すぐに手柄を持って戻ってきますからね!」

 キング、そして、ジジ。

 順にまっすぐ視線で射抜いてから、アッシュは部屋から飛び出した。



一章OUT!――失声セイレーン――




 どんなどしゃぶりだって最初はたった一滴の雨粒から始まる。

 アッシュに起こったこともまさにそうだった。始まりはちょっとした親切にすぎなかったのだ。

 無期謹慎処分になる少し前のその金曜日。

 朝から雨が降っていた。非番のアッシュは、惰眠をたっぷりむさぼったあと、午後、街へ出かけた。前々日は給料日だったし、窓際に置くウォーディアンケースに新しい仲間でも迎え入れようと思ったのだ。

 市場で望みのものを手に入れ、夕方ごろ帰途につく。

「うわっ」

 がしゃん、と足下でガラスの砕け散る音。

 若い女性が正面からぶつかってきたのだ。反射的に受け止めたせいで傘とウォーディアンケースを取り落としてしまった。

「も、申し訳ありません!」

 女性は叫ぶように謝ってくる。アッシュの目つきの悪さを、激怒して睨んでいると勘違いしたのかもしれない。

 アッシュの腕の中、上目遣いの女性は、傘もケープもなくびしょびしょだ。ふくよかな唇が特徴的な美人。次々と降り注ぐ滴が、彼女の長いまつげを濡らしている。

 アッシュの上着にすがりつくようにぎゅっと握られた女性の指には、結婚指輪が光っている。服も高級、アクセサリーも高級。雨ざらしになっているのは不自然だ。

 あとから考えればこの違和感にもっと真剣に向き合うべきだった。だが、アッシュ・グレイブフィールドという男は良くも悪くもまっすぐで、行動が先に来る。だから、このときもまず女性に向けて自分の黒いシルクの傘を差し出した。

「よければ、これ、どうぞ……って、どっ、どうしました? 体調でも悪いんですか?」

 女性は傘の柄ではなく、アッシュの手に手を重ねてきた。

「あの、私、お詫びを」

「え? ああ、ウォーディアンケースのですか? 安物です。気にしないでください」

「そんなことおっしゃらないで。……私の家、ここから近いんです。ぜひいらして」

 女性はしつこかった。押し問答を繰り返したあげく、耳元に口を寄せられ、恥をかかせないで、とせっぱ詰まったように囁かれた。その必死さに、アッシュが譲歩した。

 ……ところで、恥ってなんなんだ?

 少しくらいの下心があれば、その指し示すものに気付けただろう。決して女性について行くような真似はしなかっただろう。清廉さというのは美徳だが、生きていくためにはいささか障害になるものだ。たいていの美徳がそうであるように。


 ローズと名乗った女性に連れてこられたのは、ペル・メルの高級住宅街に建つ四階建ての立派な屋敷だった。

 おかえりなさいませ、奥様、と頭の禿げあがった従僕に出迎えられる。

 ローズは、ありがとう、もう下がっていいわ、と、従僕に微笑みかけた。なにか拭くものを持ってきて、などとは言わず、床が濡れるのもお構いなしで螺旋階段を上がり、突き進んでいく。そうして案内されたのは、三階にある応接室……ではなかった。

 なんと、寝室だったのだ。

 四柱式の天蓋つきのベッド。見るからにふかふかの分厚いマットレス。

 アッシュはローズに困惑の視線を送る。ローズは口元に小さく笑みを浮かべ、とっておきの内緒話をするかのように囁いた。

「今日は主人が留守なんです」

「へえ、そうなんですか」

 間。

「……留守なんですよ?」

「え? はい。聞こえてましたよ、って、わっ」

 ローズがアッシュにしなだれかかってくる。

「ど、どうしたんですか?」

「ごめんなさい。あなたの服も濡れてしまいましたわね」

「いえ、別にこれくらい……」

「お互い、脱ぐべきではありませんこと」

「平気ですよ。あ! 着替えたかったんですか。それなら僕は失礼しますね」

「意地悪なかた。これ以上、私の口から言わせないでください」

「なにをですか?」

「わかってらっしゃるくせに。グレイブフィールドさんって駆け引きがお好きなの?

 好きにしてよろしいのよ」

「さっきから一体なにを、……うわあっ!」

 いきなりベッドに突き飛ばされて、押し倒された。

 背中に当たる柔らかいマットレスの感触に、ああ、昔ながらの四柱式のこの手のベッドは、見た目は豪華だが湿気が多くて南京虫がよくいるから好きじゃない、手入れも大変だから、うちの実家だって僕が幼いころに真鍮製のシンプルなものに変えたんだよな、などと余裕のあることを考えていられたのはほんの一瞬だけだった。

 体に乗り上げてきたローズが、アッシュの上半身の衣類を左右に引っ張って脱がせにかかってきたからだ。まるで引き裂くかのような性急さだ。

 あらわになったアッシュの胸に、ぽたり、ぽたり、と、ローズの髪の毛先から雫が落ちる。呆然としていたアッシュはその冷たさに我に返った。

 ローズの手が今度はベルトに掛かっている。

 ことここに至って、アッシュは自分がなにを期待されているのかに気が付いた。

 ざあっと血の気が引いていく。

「い、いやっ、いやいやいやっ、おちつ、落ち着いて、ちょっ、ちょっと待、待って、待ってくださ……!」

 混乱しているせいでろくな抵抗もできず、アッシュはもはや涙目だ。ずるりと下ろされたズボンを膝にひっかけたまま、四つん這いになって逃げだそうとした。

 見られてはいけない。人前でおいそれと肌を晒すなど、アッシュにとってはひどく罪深いことだ。恐怖だ、悪夢だ、冒涜だ。

「あら……? 痛いのがお好きなのね」

 アッシュのむき出しの尻を見てローズが言う。アッシュの尻には大型の獣に爪で引っかかれたような痕――家庭や学校で、しつけの名目において、時には気を失うまでさんざん振るわれた鞭のものだ――が幾筋もある。屈辱の醜い痕跡。それが趣味のものだと断定されたわけだ。その白い肌を快楽に火照らせた記憶など一切ないのに。

 上流階級の間で鞭打ちが流行していたのは事実だ。そのお役目で稼いで豪邸を建てた娼婦さえいる。

 好色な遊戯も陰惨な思い出も、傷痕だけでは両者の区別がつかない。

 世の中には、見た目だけで判断できないことがあまりにも多い!

「誤解です!」

「隠さなくても結構よ」

 のしかかってきたローズの豊かな胸がアッシュの背で柔らかくつぶれる。

「痛って…………!」

 ローズが首の付け根に噛みついてきたのだ。血が滲む。遠い昔、仕置きだと閉じ込められた小屋を思い出す。ねずみにかじられるんじゃないかと震えていたことを。

 ローズをはねのけ、上着を奪い返して下半身に巻きつけつつ駆け出す。直後、つんのめって床に倒れる。あっさりと追いつかれ、ひっくり返され、上に乗っかられる。ドレスの裾がふわりと舞い、ローズのゆったりとした下穿きが覗く。

「うあっ、あっ、あの! ぼ、僕、こんなつもりじゃなかったんです!」

「自分をごまかさないで」

「心のままに生きてますう!」

 アッシュは生娘のように、手を祈りの形に組んで、ぎゅっと目を閉じて震える。

 ローズの唇がアッシュの唇に近付いて、触れる――――――その刹那。

 どん、どん、どん!

 ノックの音が飛び込んできた。

 はっと飛び起きたローズが、扉を細く開け、従僕と二言、三言交わしてから慌てて戻ってきた。

「大変……! 夫が帰って来てしまったみたいです」

「そ、それは良かった」

「見つかったら、グレイブフィールドさん、あなた、殺されてしまうかもしれないわ」

「はあ!?」

「頭に血が上りやすい人だから。でも心配しないで。あの人には眠ってもらうことにします。今夜、今すぐ、別のお部屋で」

「あの、きちんと説明をですね……」

「待っていてください、グレイブフィールドさん。ローズは一刻も早くあなたの腕の中へ戻って参ります。それまでこちらに隠れて静かにしてらして」

 上着を奪われ、代わりにシーツを押し付けられ、奥の部屋へと押し込まれる。狭い物置部屋だ。

「ちょ、ちょっと!」

 扉にすがりつく。しかし、なにをどうしてももう開かない。鍵がかけられている。

「…………嘘、だろ…………」

 ずるずるとその場にへたりこむ。

 しかし、閉じ込められたことより衝撃だったのは、いくら待てども暮らせどもローズが戻ってこないことだった。

 時間は刻々と過ぎていく。深夜零時の寮の点呼時間どころかそろそろ夜が明ける。トイレに行きたい。この室内には排泄道具はなにもない。寝室のベッドの下ならばおまるが置いてあったろうに。

 窓から? アッシュは鉄格子付きのそこに目をやる。いやいや。気が引ける。と思いつつもアッシュは窓を開ける。……いやいや。しない、しない。トイレに行きたい。

 まったく、この鉄格子さえなければ、三階とはいえ、うまくシーツを使ってここから脱出できたかもしれないのに。いやいや。素っ裸でどうする。しかしなにか行動を起こさなければ。トイレに行きたい。

「…………あっ!?」

 シーツを広げてみたら、うっかり足を取られて前のめりに滑った。そのままどういう具合か、窓の鉄格子の間をぎりぎり頭部がすり抜ける。しかし、もちろん肩までは通りっこない。頭だけが窓の外、押しても引いても戻れない。ここから動くことができない。トイレに行きたい。

「……だ、誰か……」

 誰かに頼るのも助けを求めるのも苦手だ。第一、自分の裸を不特定多数に晒すなど正気の沙汰ではない。気分が悪くなってしまうだろう。吐くかもしれない。だが、今は急を要する。なにより、薄々気付いているのだ。

 ローズには夫なんかいないことに。

 きっと、彼女の目的は、最初から、アッシュをここに監禁することだったのだ。

 他人にこんな姿を見つけられたくはない。穏便に事を済ませたい。だからこそ大人しくしていた。だが、もう、なりふりかまっていられない。トイレに行きたい!

「誰かいませんかあ――――――――!?」

 アッシュは声の限り叫んだ。


 駆け付けた屋敷の住人たちはアッシュを見て目を丸くした。

 その中のひとりが、こういうときはこれだよ、と、おせっかい、いや、親切にもバターを持ってきて、アッシュの首に塗りたくって救出してくれた。

 抜け出すまでは冷やかしの眼差しが痛かった。まんまと美人局まがいの犯罪に引っかかった、欲求不満の馬鹿男へ向けられるそれ。

 端的に言えば、ローズは詐欺師だったわけだ。

 この屋敷だってローズのものではなく、ただの借家だ。しかも借りているのは例の寝室と物置だけで、そこの使用料も未払いときた。他の部屋にはそれぞれ別の住人が住んでいる。ローズはそのうちの一人に、ほんのお遊びだという口車と少しの謝礼で従僕役を頼み、出迎えと扉を叩くことを指示していたのだ。

 アッシュの心のうちはどうあれ、この一連の出来事での彼を客観的に見るとこうなる。『人妻の色香に惑わされてほいほい家までついて来て、すっかりその気になっていたところに付け込まれ、身ぐるみ一式剥がれて、おまけに逃げようとして窓にはまって、バターまみれになり、あげく、自分をはめるために用意された借間の賃料まで押し付けられた、哀れでまぬけでこっけいな間男』。

 現役警官のこんな不祥事は、低俗風刺週刊誌の『マン・イン・ザ・ライムライト』にでも目をつけられたら、誇張したイラストを添えて、さぞおもしろおかしく書き立てられることだろう。

 事実、そうされたのだ。

 一体どういう経緯を辿ったのか、マン・イン・ザ・ライムライトにアッシュの特徴を捉えた似顔絵と実名が掲載されてしまったわけだ(屋敷の家主に名前と住処を尋ねられ、正直に答えたのが悪かったのかもしれない)。

『スコットランドヤードのへなちょこドン・ジョバンニ』と煽り文句までつけられて。

 さらには、アッシュの名前に引っ掛けて下品なジョークまでも披露されていた。

『詐欺師にいっぱい食わされた、おまぬけでおさかんな警察官の名はアッシュ。おお、トネリコ! 世界創造の木、万物の父! なるほどさすがはアッシュ巡査、子作りの真似事がお好きなのもこれで納得』……。

 そのせいで、こうして、あわや免職、それが嫌ならスナークにまつわる手柄を持ってこい、という事態に陥ってしまったのだ。

 独身寮も追い出されるはめになった。出て行くときには、同期や先輩にさんざん揶揄された。

 軟弱なやつめ。あるいは、七光り様でもかばってもらえなかったんだぁ。または、退室の書類まとめんのめんどくせえなあ。

 ただでさえ独身寮というところは男所帯で閉塞的、一触即発のひりついた空気を持つところだ。同期の一人とは喧嘩にまで発展してしまった。

「なんで追放されることに不満そうなわけ。自分に権力があるって勘違いしちゃった? すべてが自分の思い通り! って? お前さあ、自分のことなんだと思っちゃってるわけ? ねえ、七光りの馬鹿息子様」

 中性的な可愛らしい外見に反して、口の悪い同い年の男。毒舌エンジェルフェイス。

 スナーク班は掃き溜め班とはいえ、腐っても犯罪捜査部の派生班だ。つまり、構成要員は、各管区から抜擢されたエリートであるという意味だ。しょせん雑用班なので憧れられるような立場ではないのだが、内情を知らない一般の制服巡査からしたら、鼻もちならない連中の集まりに見えるのかもしれない。事実上優遇されていることもいくつかある。同じ職位でも少しだけ給料が高い、私服捜査が許されている等々。

 だから、警察学校を卒業した直後にスナーク班に所属したアッシュのことを、この同僚はことあるごとに目の敵にしてくる。警視長であるアッシュの父、ホークが特別な取り計らいをしたのだと思い込んでいるのだ。

「二度と顔を合わせなくていいなんて最っ高だね」

「一時退室だ」

「戻って来なくていいよ。嫌いなやつと同室って精神衛生上よくないもん」

「お互い様だろ」

「あっそ。じゃあ、もしお前が戻って来たら、今度は僕が出て行ってあげる。まあ無理だろうけどね? 僕の親切心をむげにするなんて馬鹿息子様はさすがだねえ」

 管理責任者である部屋長が、そのへんにしとけよ、と制しても、毒舌エンジェルフェイスは止まらない。

「警視長はお前の不祥事にさぞかし落胆したんだろうなあ」

「いちいち父の話を持ち出して来ないでくれ。父と僕とは関係ない」

「なんで。本当のこと言ってるだけじゃん。警視長も目が覚めてるといいけど。愛す価値なんかない息子だったってね」

「最初から愛されてなどいない」

「なにそれ、今までが気まぐれだったとでも言いたいわけ? そりゃ確かに警視長って、犯人にも容赦ないし、基本的には冷血っぽいけどさあ」

 アッシュの顔色が変わる。気付いたときには、毒舌エンジェルフェイスの胸ぐらをつかみあげていた。

「な、なにすんの」

「父を悪く言うな」

「……はあ?」

 こっちだって、はあ? だ。

 なぜホークのことをかばわなければいけない。冷血だという評価にはアッシュも賛同できる。他人から言われるとしゃくだなんてそんな馬鹿なことがあるか。愕然として固まっていたら突き飛ばされ、取っ組み合いになり、それが運悪く見回りに来ていた管区警視に見つかり、大管区警視にまで報告された。最終的には父の耳にまで届いてしまい、ひどい目に遭った。最悪だ。

 ――――どんな不遇な扱いをされたって、僕は、絶対刑事に戻ってやるからな。

 己の経済状況と相談して見つけた住み心地の悪い薄汚れた借家で、アッシュは決意を新たにした。


 キングに手柄を持ちかえれと命じられてから数日後。

 アッシュは朝方からニューゲート監獄の花崗岩造りの壁の前に立っていた。そばにあるガス灯のうちの一本をひたすら見つめている。

 日が暮れてからガス灯の近くに、猫背であるにもかかわらず長身の男が現れた。声をかける。振り返った男は、アッシュの顔を見た瞬間にものすごく嫌そうな顔をした。

「どちらさまですか」

「それはないだろ、ジジさん。ずっと待ってたんですよ」

「知るか」

 足早に去って行こうとするジジを追いかけて隣に並ぶ。ジジはこうして一日に一度、時間こそ決まっていないがニューゲート監獄前のガス灯に必ず現れるのだ。接触する手段があって助かった。

「約束なんかしてなかったろうが。なんだ? 手っ取り早く俺をとっ捕まえてキングに差し出そうって?」

「違うよ。……その手があったか」

「おい」

「冗談だってば。あのですね、ひとりでやみくもに探し回っても思うようにスナークの情報が得られないんですよ」

「捜査が下手すぎやしないか。一般人でも手がかりのひとつやふたつ手に入るぞ。ああ、お前の人相が悪いからか。それともへなちょこドン・ジョバンニだと気付かれるからか」

「う……」

「どちらにせよ警戒されるわけだ。それをどうにかできるほど口が回るわけでもない。正面突破ばかりしようとする。そろそろ自覚しろ、お前は嘘をつくのがうまくない」

「……だから、ですね。少しお力を貸していただければと思いまして」

「お前からの仕事を受ける義理はない」

「僕とジジさんの仲じゃないですか」

「どんな仲だ。俺を従僕だとでも思ってるのか」

「まさか。パートナーってことですよ」

「今は違うと言ったはずだ。友人でもない。お前と、俺の、間には、なんにも、ない」

「またそんな。それなら今から友達になればいい。はい」握手しようと横から差し出した手を叩き落とされた。「痛い! なにするんですか!」

「こっちの台詞だ。お前は今までこんな強引に友人を作ってきたのか」

「知りませんよ、友達なんていたことないんだから。もしかして、段階を踏んで親交を深めろとでも言いたいんですか。それならいかがです、今夜、僕とお食事でも」

「なるほどな。さすがドン・ジョバンニだ。そういう誘い文句がさらっと出る」

「ドン・ジョバンニって呼ばないでください」

「悪かったな、お坊ちゃん」

「お坊ちゃんって呼ばないでください!」

 ジジは鬱陶しそうに両耳をふさいだが、アッシュを撒くようなことはしなかった。


 パブの入り口には小さな木の看板が揺れている。ペンキで書かれている店名は『星屑と白い翼亭』。ジジは一部が腐りかけている木製の扉を開けて中に入っていった。アッシュも続く。

 ランプの薄暗い光に照らされた狭い店内に、けたたましい笑い声が飛び交っている。目がかすむほどの煙草の煙。むっと鼻をつく酒の臭いのする空気。

 いくつかあるテーブル席は満席だ。カウンターには少し余裕がある。

 ジジの隣にアッシュも座る。客は労働者階級のものばかりで、アッシュの見るからに上等な生地でできた服は少し浮いている。

 カウンターの中では、酒の瓶が並んだ棚を背に、双子の若い娘の給仕が忙しそうに動き回っている。

「すみませ、――――んんっ!?」

 軽く手を挙げたアッシュは、後ろから押されて顔面をカウンターに打ち付ける。

「体が、熱っつくなる酒くれる?」

 ジジとアッシュの間から、ふざけた調子の注文が飛ぶ。二人の肩に馴れ馴れしく腕を回して、思い切り体重を預けてきた酔っ払いの男がいるのだ。

 男は、注がれた強い酒を一気にぐいっと飲み干す。コップをカウンターに叩きつけ、かあああっ、と喉を鳴らす。

「お礼におれの熱くてぶっといのあげよっか?」

 けらけらと笑って、双子の物静かな娘のほう(髪の毛を右で束ねている)に声をかけている。娘はなんの反応も返さない。ちぇー、と唇を尖らせる男に双子の元気な娘のほう(髪の毛を左で束ねている)が、期待に満ちた視線を送っている。そちらはきれいに無視をして、男は自分の下敷きにしているアッシュとジジを見ると、あれっ、と声をあげた。

「ジジの旦那だあ。久しぶりだね」

「ああ。会いたかないんだがな」

「わあ、手厳しいなあ、傷付いちゃう」

 軽薄そうな垂れ目のぼんくら男は、言葉とは裏腹に大笑いする。年齢も身長も体型も、すべてがアッシュとジジのちょうど中間くらいだ。

「……ジジさんのご友人ですか?」

「残念ながらそうらしいな」

 ジジは他人事のように言った。

 ゆーじん、とアッシュはぽつりと繰り返す。

 男は先にいた客を半ば無理やり押しのけて、ジジの横に腰を下ろした。

「旦那のお連れさん、ここじゃ初めて見る顔だね。旦那、どういうご関係? あ、待って待って、当てるから。友人関係じゃないよね。子弟関係って感じもしないし。……ああっ!? わかった、肉体関係だ!」

「無関係、だ」

 むかんけー、とアッシュは再びぽつりと繰り返す。

「どうした、お坊ちゃん」

「別に。どうもしてませんけど」

「言っておくが、お前はこの男と無関係じゃないぞ」

「はい?」

「こいつはお前の記事を書いた記者だ」

「……はい?」

「あらららら。じゃあもしかして、きみ、アッシュ・グレイブフィールド巡査?」

「いいかげん白々しいにもほどがあるぞ、J・P」

 ジジの呆れた視線に、J・Pと呼ばれた男はへらりと笑う。そのまま身を乗り出し、アッシュの顔を覗きこんでくる。

「やあやあ、こんなところでお目にかかるとは。はじめまして、グレイブフィールド巡査。お会いできて光栄だ。まさか旦那と知り合いだったなんてなあ。我こそは『マン・イン・ザ・ライムライト』の敏、腕、記者! J・Pって呼んでくれていいよ」

「貴様、でたらめを書き殴っておいてよくもぬけぬけと!」

「おい、立つな立つな」

 ジジの言葉に座り直したものの、むかむかした気持ちは抑えられない。

「事実無根の情報を垂れ流すろくでもない三文誌め。恥を知れ!」

 この男が記事を寄せる『マン・イン・ザ・ライムライト』は、醜聞を売りにしている、耐え難いほど俗悪で扇情的な週刊誌だ。だが、悲しいかな、世間では高尚なものよりもよっぽど受けがいい。五年ほど前に創刊されたばかりなのに、四十年の歴史を持ち何十万部も刷られる風刺週刊誌の『パンチ』や『イラストレイテド・ロンドンニュース』と比肩するほど持てはやされている。

「嫌だなあ、人間が真実を知りたがっているとでも思ってるのかい?」

 アッシュの剣幕などJ・Pはどこ吹く風だ。教え諭すように続ける。

「おれはね、読者の皆様を――決して物事の当事者にはなりたくない子羊ちゃんたちを、みじめで退屈な日常から救い出してあげてるんだよ。自分の人生に暇な時間が存在するのが耐えらんない人々への旅の提供だ。頭で行く旅」

「なんだって?」

「人々は待ってるんだ。栄光の台座から引きずり下ろされる神を、転落する成功者を、失墜するスターを。みんなね。おれもね。これ、常識だよ」

「どこの常識だ」

「すましたお顔見てるとさ、引っぺがしたくなんない? なんでわからないかなあ」

「お育ちがいいからかもな」ジジが口を挟んでくる。「J・P、お坊ちゃんはエクスワイアのお家柄であらせられるぞ。名家の出だ」

「ちょっとジジさん、余計なこと言わないでくださいってば」

「上のやつらだって似たようなものなんじゃないのかな。必要なのは、火種、ドラマ、刺激! 楽しいのならなんでもあり。真実かどうかは関係なし。好奇心を満たせればいい。しかも、自分は傷つかず、危険を冒さず、ね。他人の人生なんて消耗品なのさ。もちろん巡査のだって。素晴らしきは、大量生産、大量消費のこの世の中。今回は運が悪かったってだけだよ、巡査くん。恨みっこなし、なし」

「なにを無責任な!」

 立ち上がったアッシュはJ・Pの襟元をつかんで引き起こした。間に挟まれたジジが迷惑そうに、おい、やめろ、といさめる。アッシュではなく酒の心配だろう。ジジはいつの間にか頼んでいたパンチ酒をかばっている。あまりにも悠長な態度に八つ当たりしそうになる。そっちこそ飲むのをやめろ。やめろ、やめろ。

「殴っていいのかい? 警官が。野蛮だなあ」

「残念だが僕は今警官じゃないも同然だ。お前のせいでな」

「そりゃお気の毒に」

「どっちが。今の僕がなにをしたって、ただの市民同士の喧嘩になるんだぞ」

「怖いこわぁい。なにされちゃうの、おれ」

「鳥の羽で足の裏をくすぐってやろうか?」

「出たあ、ひと昔前の拷問」

「心配するな、死ぬほど優しくしてやるよ。お前が気を失うまでじっくりな」

「上のみなさんのやるこた洗練されてるってよりも、単純に変態臭いんだよね」

「黙れ、人様の秘密を暴いておもちゃにすることしか頭にない下衆記者が」

「家庭の私的部分に平気で入り込んでくる下世話な警察がそれ言っちゃう?」

「お前ら、引き分けだ、引き分け。座れ、座れ。いいから落ち着けよ、お坊ちゃん」

 あんたが言うなよ。

 感情感知というジジのスナークとしての能力こそ、心の盗み聞きとでも呼ぶにふさわしいものだというのに。だが、J・Pの手前、力についてのことを口にしていいのかがわからない。葉巻をふかし始めたジジに恨めし気な視線を送ることしかできない。

「そうそう、巡査くん、落ち着きなって。あっ、ほら、ちょうどいいよ、旦那の葉巻でもお尻に刺してもらえば?」

 ジジに同調したJ・Pが調子に乗って煽ってくる。

 ケツから煙でも吸ってろよ、ときたもんだ。

 二十年程度前に出版された薬理学の本にも出ている治療法だ。患者の緊張を和らげたり、痙攣を抑えたりするために、ニコチンを直腸に注入する。適切量の投与が難しく、失敗すると死に至る。だから医者によっては専用の器具を使わずすぐに抜くことのできる葉巻を直腸に挿し入れる。

 世間で実際に行われていることではあるのだが、いかんせん施術を受ける姿が間抜けの極みで、つまりはお前にはそういうのがお似合いだよと揶揄されているわけだ。

「俺の葉巻をそんなことに使われてたまるか。酒を飲めばいいだろうが。今ならお坊ちゃんも怒られやしないだろうしな」

 任務中にパブに入るのも、飲酒するのも、警官だったらしてはならない。

「あら、だったら勝負もかねて飲みくらべでもしたらどうかしら!」

 カウンターの中から双子の娘の片割れが声をかけてきた。元気なほうの娘だ。ダーリンがいっぱい飲むところ見たあい、とJ・Pになついて、はいはいさよならさよなら、と突っぱねられている。

「おれ、もう結構飲んでんだよ」J・Pが不平をこぼす。「飲み比べとかそんなのさあ、おれが不利で」

「いいんじゃないですか。お店も助かります」

「じゃあ、やろっか! ねえ、巡査くん!」

 もう一方の双子の娘の静かなつぶやきに、J・Pはころりと態度を変えた。でれでれしながら承諾する。同じ顔の娘相手にこの対応の違い。追いかけられるのが嫌いなたちなのだろうか。三文記者らしいといえばらしい。

「なんだっていい。僕がお前を打ち負かしてやる!」

「なら巡査くん、おれが勝ったら飲み代払ってね」

「構わない。その代わり、僕が勝ったら、なにかスナークに関する情報を寄越せ。腐っても記者なんだろ」

「敏腕記者、だよ。別にいいけど、きみ、酒、強いようには見えないなあ」

「ふん。せいぜい油断していろ。僕をアッシュだって書いたこと、後悔するなよ。fraxinusがお前に鉄槌を下すんだ」

 学生時代、暗記が面倒で大嫌いだった言語を喧嘩の口上に使うことになろうとは、夢にも思わなかった。

「fraxinus、ラテン語でトネリコ、偉大な火の光という意味を持つんだ。僕の怒りは灼熱の高温、お前を貫く炎の槍だ。紅蓮の業火でその身を焼け!」

「へーえ? それなら巡査くん、ドン・ジョバンニっておれの名付けはぴったりだったんじゃない? 彼の最期、どうなったか知ってる? 炎に包まれて死んだんだよ。焼かれるのはきみのほうだよ」

「うるさい、減らず口はそこまでだ! あとからやめておけばよかったなんて悔やんでも遅いんだからな!」

 アッシュはジジを押しやってJ・Pの隣に陣取り、双子の娘に注文を出した。


「……あのさ、もう、やめといたほうがいいんじゃないの、ねえ」

 J・Pは遠慮がちに苦笑いを浮かべている。

「うるさい、僕の酒が飲めないって言うのかよお、この三文記者あ……」

 泥酔したアッシュに絡まれながら、だ。

 すっかりでき上がってしまったアッシュの目の縁は真っ赤だ。ろれつもあやしい。吐く息はかなり酒臭い。ロンドン・ドライジン。ほかの国のジンより香りが強いのだ。二杯目までは平然としていたアッシュは(だからこそJ・Pは強いねえ、と感心していたのに)、三杯目でいきなり陥落した。

「前後不覚で飲むな、もったいない。お坊ちゃん、そら、ないないしろ、ないない」

「やーめてくださいよ!」

 取り上げられそうになったグラスを守るため、アッシュは大げさにのけぞってジジから離れる。幼児言葉を使われるのにふさわしい子供じみた振る舞いだ。

「……なんでこんなので自分が勝てるって思ってたのさ。巡査くん、見通しが甘すぎ。そりゃあ美人局に引っかかるって。少しはいい思いできたかもしれないけどさあ」

「いい思いって……なんのことだ? 僕はなんにもしてない」

「じゃあやっぱ、その気にさせるだけさせられて、ひとりむなしくお戯れになったわけだ? ご自分の音の鳴らないフルートとさ」

 ひひっ、とJ・Pは好色に笑う。

「なんだそれ」

「またまた。三本の足のうち、いっちばん正直者のそいつのことだよ」

「誰だよ」

「下層の卑俗な言い回しだ。それだよ、お坊ちゃん。その粗末なやつのことだ」

 ジジは目でアッシュの股間を指し示す。

「どこ見てんですかあ、汚らわしい」

「どこを見られていると思っているんだ、汚らわしい」

「絶対見てたろうが! よろしくないです、非常に。……あの、でもですね、ジジさん。ここだけの話、僕の、そんな粗末じゃないんです」

「知ってるか、粗末じゃなくてもいいことはないらしいぞ」

「ところで、ひとりで戯れるってどういう意味ですか? そんなことするわけがない」

 おおっ、とJ・Pがおどけて両手をあげてみせた。

「自慢かい、巡査くん。自らする必要がないくらい相手に困ったことはないよって?」

「なにを言ってるんだ? 知らないのか? 自分で触ったらいけないんだぞ」

 は? とジジとJ・Pのいぶかしげな声が重なる。

「覚えておくといい。浪費するのはよくないことなんだ。精液を自らの手を使って流すのはそれの四十倍の血液を失うのとおんなじことだから」

 アッシュが大真面目に言う。ジジとJ・Pの目に憐みの色が宿った。

 そういう説が百年も前からあるのは確かなのだが、今となってはうさんくさい与太話でしかない。今日日、ここまで鵜呑みにしているものがいようとは。

「……なるほどなあ、お坊ちゃん。お前は無垢な子供として扱われていたってことなんだろうな」

 無垢な子供。幼年期をことさら特別視して、子供というものは神聖で美しく、性などとは無縁だとするロマン派の広めた概念だ。子供は性について知識も、興味も、感情も持たないのが善だ。意思がないことこそ素晴らしい。欲望は排斥せよ。不道徳で不潔な習慣――自慰などもってのほか。

 魂を穢すな。堕落するな。そのためならどんな奇論でも医学の威光で飾り立てて正当化し、教育する。もとい、恐怖を植え付けて脅す。

 結果、無垢な子供は、最高潮の快楽のそのとき、自責の念にさいなまれる悲惨な体を手に入れる。

「つくづく、お前のまっすぐさには頭が下がるよ。純潔教育のまま今日まで一直線に来てしまったってわけだ。実に禁欲的だな。ドン・ジョバンニが聞いてあきれる」

「だから別に僕はドン・ジョバンニなんかじゃないんですってば」

「そういえばトネリコはウラヌスの千切れた男根からできているなんて神話があったか。けだし象徴的だな」

「……僕が去勢されてるとでも?」

「同然だろうが。あるいは不能だな」

「いやいや、旦那さあ、それは言い過ぎでしょ。寝てるときなんかは巡査くんだってどうしようもないわけだろうしさ」

「それは反応すると刺されるぞ」

「さっ、刺される?」

「ちっちゃいころ、長期休暇とかで家にいるときはずっとそうだったなあ。貞操ベルト……っていうのかなあ、あれ」

「へ?」

「腰に革のベルトを巻きつけるんだけど、それに注射器みたいな筒状のものがついてて、……こう、いれるんだよ、自分のを。で、その筒にとげが仕込んであるんだ。だから、寝てるときに、勃つと、ちくっと、刺される……」

 汝の分身を見るな、触るな。禁欲目的で考案されたこの手の器具は、今世紀に入ってからもはや数えきれないほどだ。特許を得ているものさえある。

 アッシュの思い出話を聞いた途端、J・Pは思い切り噴き出した。ジジはアッシュの下半身をことさらに凝視した。アッシュはカウンターをばんばんと両手で叩く。

「なんだよ! なに笑ってんだ、三文記者! ジジさんもいいかげんにしてくださいよ、なんだその目! 痛いんだぞ。すごぉく。ひとつも面白くない!」

「ご、ごめんごめん。巡査くん、拗ねないでって」

 声も出せないほど笑ってひくひくしていたJ・Pは、目尻の涙を拭ってからアッシュの肩を叩く。失礼だ。よその家庭には奇異に映ろうとも、こちらにとっては単に日常だったのだから。

「笑わせてもらったお礼にいいことを教えてあげるよ」

「いいこと?」

「スナークについての情報」

「……う、え? えっ! 本当か!」

「J・P、その必要はない。飲み比べはお前の勝ちだ。適当なことをふきこむなよ」

「旦那、ひどい言い草だねえ、敏腕記者に向かって。まあ聞きなって」

 J・Pは胸ポケットから一枚の写真を取りだした。

「ブラッドコレクションの声帯を移植した歌姫、メアリーの話をさ」

 カウンターに置いた写真を人差し指でとんとんはじく。

 写真の中の歌姫メアリーは、つぶらな目をしているものの、どちらかといえば地味な印象を受ける。表情が陰気なせいだ。

「せーたい? ……ああ、声帯、か。って、……どこだっけ、ジジさん」

「酔ってるな、お坊ちゃん」

「酔ってまーせーんー」

「そういうところが酔っている。声帯はお前が林檎を詰まらせてるところだ」

「林檎? いつ頼んだんだ? 僕、食べてないぞ!」

「喉仏の内側だ」

 ジジの人差し指が、アッシュの喉元にひたりと突きつけられる。

「……内側あ? どうしてブラッドコレクションだとわかるんだ、それ」

 ブラッド・ロングローゾ、という男がいた。

 二十年程前に絞首刑に処されてこの世を去った狂気の天才外科医だ。新たな生命体を作ることを夢見ていたらしい。犯罪者の臓器――犯罪をするために突出した技術を持った臓器――を摘出して、ほかの人間に移植することでそれを現実のものにしてしまった男。世間から怪物扱いされる特殊能力を持つものたち――スナークと呼ばれる人々――を出現させた諸悪の根源。ジジの養父でもある。

 その彼が青年期から老年期までずっと蒐集していた千件近い犯罪者の臓器。人に特殊な力を与える臓器。それがブラッドコレクションだ。

 たとえば、怪力。たとえば、念動力。たとえば、石化能力。

 人々の喉を握りつぶした連続絞殺魔の手を移植されたとしたら、金属を粉々にできるほどの化物じみた力を得てしまうかもしれない、ということだ。

 ブラッドコレクションはその不可思議な力を発揮しているときに、烙印が浮かび上がる。ブラッドが自ら刻んだものだ。アルファベットBと、臓器の持ち主である犯罪者の囚人番号である数ケタの数字。通称Bの烙印。

 体内にある臓器では当然、その烙印を見ることができない。

「よっぽど異変があったってことなのかな。別人のものとしか思えない美しい声に生まれ変わった、とか。……それって、普通の声帯を移植した可能性はないのか?」

「声帯は人の体の中で一番頑丈であり、一番繊細な臓器だ。たとえばお前の心臓は」ジジはアッシュの胸を指す。「一分間に七十回前後拍動している。声帯は秒だ。こうやって喋っている俺なら毎秒百、女ならその倍振動している。歌を歌うならもっとだ」

 ジジが子守唄の一フレーズを歌ってみせた。鼓膜を甘くくすぐる声だ。

「そういう速い動きに耐えられる反面、粘膜や筋肉をちょっとでも傷めると声を出すのにやたら苦労するようになる。だから取り扱いが難しい。たとえば医療技術が発達して、美しい顔や体に整える美容目的の手術が一般的な世の中になったとしても、声を好き勝手な高さに整形するっていうのは難しいだろうな」

「旦那ってば物知り! それにさ、巡査くん、おれ、ブラッドコレクションって言ってるでしょ。移植されたその瞬間、寄生するも同然で受容者の体に融合する臓器ってことだよ。メアリーの声はメアリーの声のままに決まってるじゃない」

「だからそれならどうしてブラッドコレクションだとわかったんだよって。……あ! 手術した医者が暴露したとか?」

 呪いの臓器。取り換えるというより取り憑かれるというほうが近いそれは、手術痕が不思議なほどに残らないことも知られている。

「はずれだよ、巡査くん」

「なんなんだよ。そもそもブラッドコレクションに声帯の存在があるってのいうのは確実なことなんですか、ジジさん」

 なぜジジに問うのかと言えば、ジジの頭の中にはブラッドコレクションについての全目録が入っているからだ。ブラッド直々に各臓器について教え込まれている。

「さあな」

「意地悪すんなよ、答えてくださいよお」

「黙れ、寄るな、近い、離れろ、触るな、気持ち悪い。お前、今、心底鬱陶しいぞ」

「お? お? 照れんなよ」

 ジジは不快そうに顔を歪め、うんざりとアッシュを引っぺがした。素直じゃないなあ、とにやにやと返事を待っているアッシュに、聞こえよがしに嘆息する。

「ある。ブラッドはあらゆる臓器を取りだしていたからな。声帯を摘出されたのは詐欺師が多かった。完璧な声帯模写で他人を騙すだとかな。あるいは、それこそ美しい歌声の持ち主だ。相手がうっとりと聞き入っている隙に仲間が盗みを働いていた、とかな。魅惑の歌声、さながらセイレーンだ」

 神話の中の怪物の名だ。歌で船乗りを惑わせる。

「セイレーンの声帯! 言い得て妙だよ、旦那。メアリーの歌声はまさしくそれだ」

 J・Pがメアリーについて語り出す。

 メアリーの母親のアンというのが元々有名なオペラ歌手だった。しかし、彼女は娘のメアリーがデビューしてしばらく経ったころに病死してしまった。

 アンの才能を受け継ぐもの。一時期はそう注目されたメアリーだが、これがからきし使いものにならなかった。デビュー以来ずっと鳴かず飛ばすの期待はずれ。恋人なのか愛人なのか、劇場支配人補佐の男からおこぼれの仕事を貰ったり、小さなミュージックホールでエキストラとして出演して日々をやり過ごしていた。

 ところがある日、調子を崩した女優の代役で立った舞台でメアリーの運命が変わる。

『ドン・ジョバンニ』のツェルリーナ役だ。

 彼女はそれまでとはまるで別人だった。声はまぎれもなく彼女のものであるにもかかわらず、しかし、どうしたことか、なにもかもが違うのだ。

 皆がその歌声に魅了された。

 ツェルリーナ。言ってしまえば出てくる女の中では三番手の役どころであるのに、ほかの女優を完全に食ってしまった。

 これ以降、メアリーの名声が高まっていく。

 ヘイマーケットのロイヤル劇場、コヴェントガーデンのロイヤルオペラハウス、ロンドン中のあらゆる有名劇場に立った。メアリーの名があるときにはたちまちすべての席が埋まった。その日食べるものに困ることさえあった彼女に、今では一度の公演でひと月分の食費をゆうに超える出演料が支払われた。

 誰もが彼女の歌を聴きたがった。

 梯子の上、下請け広告屋が糊缶に刷毛をつっこんで貼りつけている大判ビラには彼女の顔が描かれている。週刊誌を買えば、辛辣な劇評を書き立てる批評家たちも、彼女のことをこぞって世紀の歌姫だと褒め称えている。

「さあ、新たな才能、非凡な歌手、生ける伝説のご登場だ。じゃあ、人々は次になにを期待する? おれ、さっき言ったよね」

「……その立場から落っこちること?」

「そうだとも!」

 ほどなくしてメアリーに噂が立つ。あれは実力じゃないんじゃないか、もしかして声帯をそっくり取り替えたんじゃないか、そんな芸当ができるのはブラッドコレクションしかないだろう、と。

「他人の足を引っ張る人々にとって誤算だったのは、みんながブラッドコレクションの声帯を珍しがっちゃって、見世物的にさらに人気が出たってことだけどね」

「……でも、それ、やっぱりブラッドコレクションだっていう決定的な証拠はないよな。頑張って練習してただけなんじゃないのか。歌姫本人の努力の成果だ」

「でもね、メアリーは代役に立つ直近の舞台ではまったく好評も支持も得られなかったんだよ。今までずっと歌手としての成功とは無縁だった子がいくら練習したからって、そんな突然に開花すると思う?」

「それは……。だとしても、犯罪行為ってわけじゃない」

 スナークの情報が欲しいのは、捕まえて手柄を立てることによってスナーク班に戻るためだ。ブラッドコレクションを体内に持つ、それ自体は別に罪でもなんでもない。

「歌がうまくなっただけだ。なあんも問題ない……」

「その素晴らしい歌声のメアリー嬢に出資する人がね、ちらほら出てきてるよ。歌で人の心を惑わせて、操って、まあ、一種の催眠状態にして金を目一杯引き出す。本来は動かなかったはずの大金だ。ブラッドコレクションでの金儲けだよ。これは犯罪にはならないの? 一種の詐欺だよね」

「そう、か……な」

「しかもひどいのが、出資者のひとりの富豪の家のパーティに、個人的にお呼ばれしたのに、土壇場でお断りしてること」

「え?」

「歌声をちらつかせて、食いつかせて、そのくせ肩透かし。絶好調の今はその気まぐれさえも魅力ってことになっちゃってるけどさ。あはは、金だけ取られて期待を裏切られるって、これ、巡査くんのやられたこととそっくりだ。さながら美人局!」

「なんてひどいやつだ!」

 アッシュは椅子をひっくり返して立ち上がった。酔っているせいでいとも簡単に扇動されたことに本人は気付いていない。

「歌姫メアリー! 僕が絶対にとっ捕まえてやる!」

「おっ。いいね、いいね、巡査くん。その意気だあ!」

 J・Pがぱちぱちと拍手する。別に正義の心からメアリーを糾弾したいわけではなく、面白がっているだけだ。自称敏腕記者は刹那的な快楽主義者でしかない。

「ドン・ジョバンニがツェルリーナを捕まえる、ねえ……」

 盛り上がる刑事と記者を横目に、ジジは渋面を作った。

 イタリアでは何百、ドイツでも同じく、スペインでは千といくつか、手当たり次第の恋の目録、無数の女を愛するドン・ジョバンニ。

 彼に関係する女のうち、攻略されなかったのは、ツェルリーナただひとりだけ。