「まだ泣いているのかえ」

 限られた従者のみを連れて弟の元を訪れた女神は、輿を降りるなり開口一番呆れ気味にそう言った。

「あれが泣くといろいろ面倒くさい。せっかく熟した山河が枯れてしまう」

「姉者、仮にも泣いているのは我らの末弟なのです。もう少し言い様があるでしょう」

 弟は苦笑し、銀砂を敷き詰めた庭へ姉を招き入れた。そのまま宮の入口へ向かおうとしたが、姉は弟の背中を追わず、庭の端にある白い石を積み上げた石垣に近づいた。その向こう、眼下には薄い雲越しに末弟のいる地上が見える。

「さすがに私の宮まであの声は届かぬが、ここにいるとよう聞こえるな」

 姉の隣に並んで、弟神も地上を見下ろした。

「いつまで泣くかと見ているのですが、一向に泣き止まず……」

「いっそ頬のひとつでも叩きにいくかえ」

「おやめください。余計泣いてしまいます」

「どの口が言うか。あれの幼い頃に木の上から飛べとけしかけて、泣かしたのは誰ぞ」

「強くなりたいと言うので、少々鍛えたまでのこと」

「あの後私まで父上に叱られた」

「私が姉者にされたことを、そのまま末弟にやったと正直に報告しましたので」

 姉弟らしい気安さでそんな会話をして、神々は喉を震わせて笑う。父からそれぞれの支配領域を任されて以降、姉が我が家を訪ねてきたのは初めてのことだった。決して仲が悪いわけではなく、遠慮しているわけでもなく、率いねばならない者としての責任が、姉弟に自然と距離を置かせていた。

「頑固なところも、融通が利かぬところもお前らしくはあるが、妻はさぞ苦労していることだろうな」

「生憎妻は、こんな私を愛してくれております」

「とんだ物好きよの」

「娘もすくすくと育っておりまして」

「父親に似ないことを祈ろう」

 姉神は淡く燐光を放つ衣の袖で、口元を押さえて笑った。髪に挿した簪の飾りが、繊細な音をたてて揺れる。本来であれば、必要以上に着飾ることを好まない姉だが、今は権威づけのために様々な装飾を身に着けていた。

「神の命も、人の子の命も、獣も、鳥も、蟲も、比べようがないほどに尊いものよ。それをあの末弟は、わかっているのだろうかね」

「頭でわかっていても、体が追い付かないのかもしれません」

 微かな風に、神々の艶やかな黒髪がさらさらと流れた。

「……しかし、ああも自由に泣かれると、少々嫉妬を覚えるな」

 衣の袖を合わせて、姉神はつぶやくように口にした。

「今の私は古参どもの機嫌を取りながら、神の世と人の子の世の均衡を保たねばならん。泣いている暇などない。物分かりがよく、聡明な女神をやるのは骨が折れるぞ」

「おや、姉者は元から聡明な女神だと思っておりましたが」

 しれっと口にする弟を、姉神は軽く睨みつける。

「頭領として座るからには、それ相応の振る舞いが求められる。強く出れば、当然反発もくる。それを最小限にとどめるための立ち回りが必要だ。お前と取っ組み合いをして、簡単に勝敗を決めていた頃とは違うものよ」

 姉神はため息を吐いて、もう一度地上に目をやった。

「今の私は、お前が思っている以上に無力ぞ。どんなに力を尽くそうとしても、ことごとく大きな壁に阻まれて霧散する。そのうち宮の最奥で、あまづらを啜っているだけの生活になるやもしれんな」

 気の強い姉だが、その根底にある慈悲心は、決して彼女を幼い頃のような暴挙には走らせない。自らを律する力は、三姉弟の中でも一番強いだろう。今は何事にも、古参の神々にいちいちお伺いを立てる毎日だと聞いていた。聡明がゆえに、自由にならないことを歯がゆく思っているのは、誰よりも彼女だ。その気になれば、政の仕組みそのものさえ変えてしまえる力を父から授かったとはいえ、彼女が望むのはあくまでも穏やかな権力の移行だった。

「そういえば覚えておるか、末弟が初めて我らに歯向かったときのことを」

 ふと思い出した様子で、姉神は弟を振り向いた。

「忘れるはずがありません。姉者と私が盛大な喧嘩をしたときでした」

「仲直りしろと、有無を言わせなかったな」

「実は末弟が一番強いのでは、と思っています」

「同感だ」

 二柱は密やかに笑って、未だ聞こえてくる末弟の泣き声に耳を傾ける。

「……そして、一番心優しい」

 姉神がぽつりと口にした言葉は、柔らかな羽のようだった。

「父上があれを、人の子の住まう地上へやったのも、今はわかる気がする」

 そうつぶやく姉の横顔を、弟は黙って見つめていた。凜とした目はいつもと変わらないはずなのに、なぜだか今は、どこか頼りなげにも見えた。

「しかしいささか泣きすぎよの。頃合いを見て止めに行ってくりゃれ」

「頬のひとつでも叩いてきましょう。姉者からの伝言だと言って」

「どうせお前のことよ、今度は崖から突き落としでもするのであろう」

 再び音色のような美しい笑い声が漏れる。

「末弟の恨み言を聞けるのはいつになるか。また、三柱集まれる時がくればよいが」

 それぞれに支配領域を任された今、姉弟で回顧することより、役目を果たすことに集中しなければならない。すべてはそれからだ。

「瑠璃の満月が昇るときにでも、きっとまた顔を合わせましょう」

 神々の庭は月光に抱かれて、ただ穏やかな空気で満たされていた。


          *


 一月も半ばを過ぎて、正月を迎えた京都の街も、ようやくいつもの様相を取り戻しつつあった。とはいえ国際的な観光地であるがゆえに、この時期でも名所は混雑している。今や地下鉄やバスに乗り込んで、外国人を見ない日の方が珍しい。真冬だというのに、時折驚くほど軽装のバックパッカーを見かけることにも、随分慣れてきた。

 その日良彦は、四条通の西の突き当たりにある神社の摂社へ向かおうとしていた。曇天の空は、今にも雪が降り出してもおかしくない様相で、盆地特有の芯から冷える寒さが良彦を自然と早足にする。徒歩で向かうには遠く、バスで行くか私鉄に乗るかを迷いつつ、結局地下にある駅を目指す。乗り換えが面倒だが、この際仕方がない。そんなことを思いながら、青信号になると同時に一斉に交差点を渡る群衆の中に、黄金を連れた良彦も紛れていた、はずだった。

 周囲からざわめきが消え、車のエンジン音も、足音も、風の音さえ聞こえなくなってしまったことに気付いて、良彦は立ちすくんだ。混然とその場を歩いていた人々は、そのままの格好でぴたりと動きを止め、瞬きひとつしない。話しかけても、目の前で手を振ってみても、一切反応はなかった。

「何を嗅ぎまわっている?」

 慌てていた良彦の前に巨大な男が現れたのは、その直後だった。

「尋ねたいことがあるなら、直接その口で申せ」

 二メートルはあろうかという身長と、頑丈な筋肉を纏った身体に、黒々とした八拳髭。腰に下げた金細工の施された太刀と、首から下げた翡翠の玉や瑠璃色の勾玉の首飾りが、いっそう彼の威厳を際立たせていた。発せられる声は低く腹に響き、感情の読めない瞳で見下ろされているだけで足がすくむ。威圧、などという簡単な言葉では括れないほどの空気が、その場を支配していた。

 良彦の足元から、かつてない緊張が這い上がる。

 今まで会った神々の誰とも違う、とんでもない畏怖が心臓を締め上げた。

「それともその口は、都合の良い飾り物か?」

 そう挑発的に口にしたのは、紛れもなく蒼き貴神・須佐之男命だった。


          *


「須佐之男命の望むもの?」

 共闘したオンラインゲームが一段落した後で、良彦が投げかけた質問に、一言主大神は怪訝に問い返した。

「そう、今回の御用神の依頼がそれ。恩返しがしたいんだけど、自分が訊くと遠慮して何も言わないから探ってきてくれって」

 良彦はヘッドセットの位置を調節しながら、傍らに置いた宣之言書にちらりと目をやる。新たな神の御名が浮き出たのは一昨日のことだ。早速社に向かい、本神にも会って来たのだが、まさか須佐之男命に関することを頼まれるとは思わなかった。

「そんなの僕が知るわけないでしょ。須佐之男命なんて、前に会ったのがいつだったかも覚えてないのに」

 一言主大神とは、月に何度かオンラインでの通話を繋いだままゲームに興じている。近況なども聞けるのでちょうどいいのだが、ついつい時間が経つのを忘れてしまうのが玉に瑕だ。

「僕に訊くより、適任がいるだろ?」

 クリアな音質が、一言主大神の呆れた声を伝える。

「それはそうなんだけどさ……」

 良彦は頭を掻いた。こちらも無策だったわけではない。須佐之男命の実子には何人か心当たりがある。

「大年神は連絡先知らない上、常に巡回しててなかなか会えないし、宗像三女神は連絡手段持ってないし……」

 良彦の背後にあるベッドの上では、丸くなったままの黄金がこちらをねっとりと見つめている。もちろん彼を介せば、他の神々と連絡を取ることは可能だろう。しかしそれをこのモフモフした神はよしとしない。御用とはあくまでも、御用人である人の子の力のみで解決するべきだと。

「そもそもいんたーねっととやらで、一言主大神と連絡を取れること自体が異常なのだ……」

 黄金がぼそぼそとつぶやくのを、良彦は聞こえないふりをしてやり過ごす。ゲームを始める前にきなこ餅で機嫌を取っておいたのだが、足りなかっただろうか。

「じゃあ須勢理毘売は?」

 何か食べているのか、一言主大神の話し声に交じってバリバリと咀嚼音が聞こえる。おそらくスナック菓子だろう、と予想したところで、一言主様御食前ですよ! と諫めるお杏の声がした。

「したよ。したんだけど……」

 良彦は頬杖を突いて、ため息を吐いた。彼女は唯一連絡先を知っている須佐之男命の娘だ。しかも御用以降も何かと交流があるので気安く、当然すぐに連絡は取った。

「あらー良彦久しぶりね! 私に連絡をくれるなんてどうしたの、珍しいじゃない!」

 そんな明るい挨拶から始まったのはいい。

「え、お父様の望むもの? 欲しい物とか、そういうこと? いやだ良彦、須佐之男命が手に入れられないものなんてあると思ってるの?」

 そう言って、笑い飛ばされたのもある意味予想通りだ。

「それに美しくて優しい妻と、その美貌を受け継いだ娘がいるのに、これ以上何を望むっていうのかしら」

 この自信が青天井の自画自賛も、事実なのでしょうがないと納得できる。

「……ねぇそれより、こんなにも麗しい妻を一柱にして、夫の姿が見えないんだけど、そっちにお邪魔してないかしら?」

 この辺りで、不穏な空気が漂い始めたのだ。

「それから須勢理毘売の愚痴にどれくらい付き合ったと思う? 二時間だよ? 二時間!」

 昨夜の悪夢を思い出して、良彦は頭を抱えた。延々と大国主神の女性遍歴を聞かされ、二時間を超えたところで多少強引に電話を切ったが、それでもまだ神代で天孫降臨まで至っていない。平成まで話を聞いたら、一体何日かかるのだろう。それを思えば、日常で出くわすたった数十年前の武勇伝を語る年寄りの話など、澄み切った眼差しで拝聴できる。

「結局参考になるようなことは何にも聞けなかった……」

 いっそ大国主神にも訊いてみようかと思ったが、夫婦の問題に巻き込まれそうなので触れないことにした。そもそも彼は、義父とは距離を置きたがっているので、参考になりそうにない。

「でも、須勢理毘売が言ってることは一理あるよ」

 ヘッドセット越しに、一言主大神の落ち着いた声がする。

「神代からいろんなことを乗り越えてきた須佐之男命が、今更望むことってそうそうないんじゃない?」

「そうかもしれないけど、そういう御用なんだよ」

「恩返しがしたいっていう御用なんだっけ? それなら別のやり方を探ってみるしかないね」

「でも御用神はあんまり社から出られないみたいで、方法が限られててさ……」

 煮え切らない良彦の返答に、呆れたように息をついた一言主大神が、満を持して尋ねる。

「それで、その御用神って誰なの?」

 良彦はもう一度宣之言書に目をやる。古事記を読むようになったとはいえ、神様には疎い良彦ですら、その名前には見覚えがあった。

「……月読命」

 紙面には須佐之男命の実兄の御名が、濃い墨で刻まれていた。


          *


 古事記によれば、伊耶那美神を追いかけて黄泉の国へと赴いた伊耶那岐神が、この世に戻って来て禊を行い、左目から生まれ出たのが天照太御神、右目から生まれ出たのが月読命、最後に鼻をすすいだ際に生まれ出たのが須佐之男命とされている。この三柱の神は三貴子と呼ばれ、伊耶那岐神が生んだ子の中でも別格の扱いとなっている。しかし姉・天照太御神と、弟・須佐之男命に比べ、月読命の知名度は今ひとつ低い。名前を聞いたことがあっても、具体的に何をしたか知る人は少ないだろう。なぜなら記紀に彼が登場する場面はほんの一部分に限られ、エピソードがほとんどないからだ。それが、ここ数日の間に良彦が仕入れた知識だった。

 桂駅での乗り換えを経て松尾駅で降車すると、すぐに道路を跨ぐ巨大な朱塗りの鳥居が目に入る。しかし良彦は、それをくぐりつつも本殿へは向かわずに、住宅街の中を南へと歩いた。参拝者用の駐車場を過ぎ、園庭で遊ぶ園児たちの声を聞きながら幼稚園の横を通る。大きな一軒家が立ち並ぶ路地を行き、小さな公園が見えてくると、向かい側にその社は姿を見せた。その境内へと続く石段を、良彦は上る。

「ごめん、ばれた」

 石段を上りきって門をくぐると、すぐに四方に壁のない祈祷殿が目に入る。そこに腰かけていた銀髪の男に、良彦は苦い顔で切り出した。

「こっそり探ろうと思ってたんだけど、どっかで耳に入ったみたいで……」

 先ほど、往来で須佐之男命と遭遇した興奮と畏怖が未だ冷めない。いきなり目の前に立ちふさがれ、逃げ出すことなくその場にいるだけで精いっぱいだった。そういえば須勢理毘売には口止めすることを忘れていたので、そこから漏れてしまったのかもしれない。

「しかしまさか本神が出てくるとはな」

 良彦の足元で、黄金が尻尾を揺らす。須佐之男命を前にして、良彦がかろうじて冷静でいられたのは、この狐神のおかげだ。三貴子の一柱が相手でも、太古の神である彼は怯むことがない。須佐之男命でさえも、黄金にとってはひよっこなのかもしれなかった。

「そんなわけだから、何か別の方法を……」

 そう言いかけた良彦を、長い銀髪を揺らし両手に黒い手袋をはめた男神は、ゆっくりと腰を上げながら困惑して制した。

「失礼だが、君は、誰だ?」

 細切れに尋ねる言葉に、抑揚はない。髪と同じ白銀の目が、戸惑って瞬きする。

「誰って……あ、そうか!」

 三日前に会っただろうと言いかけて、良彦は思い出した。彼が、昨日の記憶すら保てないことを。

「日記見て! 日記!」

「日記……」

「懐に入ってるやつ」

「これか」

 白の地に月光を思わせる銀粉が散った狩衣姿の月読命は、良彦に促されるまま懐から文庫本ほどの大きさの冊子を取り出した。そこには、その日の出来事を書きつけてあり、月読命の大事な記憶の保管場所になっている。生活するためのものの使い方や、名称などは覚えているが、過去の出来事や、会った相手の名前や何を話したかなどの記憶は、夜が明けるごとに消えてしまうという。

「難儀なことだな」

 ページをめくる月読命を、黄金が複雑な表情で見上げた。銀の双眼は冴え冴えとし、感情は読み取れない。長い髪は後ろでひとつに括り、肌は透き通るような白だ。その外見は若いのか年老いているのかさえわからない。動きも至極ゆっくりとしていて、時折足元もおぼつかない。良彦が初めて目にしたときは、ロボットではないかと疑ったほどだ。

「……なるほど、三日前の私は、君に、こんなことを、頼んだのか」

 ようやく良彦が何者かを悟った月読命は、ぎこちなく頬を歪める。それが笑っている表情なのだと、良彦はようやく気付いた。

「そう。でも結局、須佐之男命にばれちゃって……」

「それは、仕方がない」

 言葉を濁す良彦に、月読命は無表情ながら気にするなと首を振る。

「弟は、勘がいい。そして、誰よりも、繊細だ。こちらの動きなど、すぐに把握されて、しまう」

 記憶を保てない彼が、唯一覚えているのが実弟である須佐之男命のことだ。弟のことであれば、どこか嬉しそうに話すのが印象的だった。

「繊細、ね……」

 こちらを威圧する空気すら隠さないあの男神のことを、良彦は苦く思い出す。どうも月読命とは見解の相違があるようだ。これが身内の欲目というやつだろうか。


 先刻、突然姿を現した須佐之男命に、良彦はできる限りの勇気を振り絞って、素直に御用のためだと告げた。気分を害したのであれば申し訳なかったが、あなたに直接訊くと素直に答えないのではと依頼神側が心配していたので、実子たちに探りを入れていたのだと。

 途中までは、多少興味深そうに聞いていた須佐之男命だったが、依頼主が実の兄だと知ってにわかに顔色を変えた。それは、決して喜びや嬉しさからくる表情ではなかったように思う。

「……兄に会ったのか?」

 問われて、良彦は戸惑いつつ頷いた。

「はい、三日前に……」

 須佐之男命は何か思案げに視線を落としたが、すぐに変わらぬ眼光で良彦を射抜く。

「あの通り兄は病がちだ。時折おかしなことも口走る」

「で、でも……」

「恩返しなど不要」

 良彦の言葉を遮り、須佐之男命は空気を断ち切るほどの強い一言を放つ。その迫力に、良彦は一歩後ずさった。見下ろす双眼の底が見えず、感情が読めなくて胸がざわつく。意思疎通ができない、凶器を持つ未知の生物と出会った感覚に似ていた。

「これ以上、周りをうろつくな」

 須佐之男命はそれだけを言い残し、太い腕を横へ薙ぎ払ったかと思うと、そのまま姿を消してしまった。


 そもそも須佐之男命とは、兄・月読命と違い、記紀から拾い上げるだけでもそのエピソードに事欠かない。大泣きするだけで大地を枯らし、高天原では姉である天照太御神の田畑を荒らした上脱糞まで披露し、大気都比売神を問答無用で斬り殺している。八俣遠呂知を倒し、妻を娶った以降は丸くなったのかと思えば、娘可愛さに大国主神を殺しかける試練を与えた神だ。当の大国主神からさんざん話は聞いていた上、それらの印象から『怖そう』というイメージだけが膨らんでいたが、いざ会ってみて、それが『怖そう』などではなく『確実に怖い』のだと確信した。

「よい勉強になったのではないか?」

 睨まれるだけで動けなくなるあの蒼い双眼を思い出して身震いしていた良彦に、黄金がどこか得意そうに顔を上げた。

「お前と友人のような関係を望む神ばかりでないことを、しかと肝に銘じておくがいい。あの威厳、畏怖、堂々たる佇まい、あれこそが本来の神であるのだぞ。いんたーねっとやらすまーとほんやらを使っているなど、神として嘆かわしいにもほどが……」

「おや、もしや、そこの狐は、方位神様では?」

 再び日記に視線を落としていた月読命が、ようやく黄金に関する記述にたどり着いたのか、わずかに目を瞠った。

「今頃気付いたのか」

「あいすみませぬ。どこぞの、稲荷かと」

「稲荷の遣いは白毛、方位神は美しい金色の毛並みだと、日記に付け加えておけ」

「承知、した」

 月読命は生真面目に深々と頭を下げて、筆を探して社の方へと歩いていく。本殿のすぐ後ろには山が迫り、絶えず湧き出る水音が聞こえていた。

 この社は、駅前にある大きな神社の摂社にあたり、ご祭神は月読命となっている。しかし彼曰く、もともとは壱岐にあった社で、そこでは航海、または山に関する信仰だった。それが勧請される際に日本の月神である月読命と重ねられ、今に至るという。良彦が初めてここを訪れたとき、彼は自分のことを書き記した書物をひとつひとつ読み返しながら、そんな説明をしてくれた。そして、こんなふうになってしまった自分の面倒を見てくれているのが、弟の須佐之男命だと。だからこそ、恩返しがしたいと良彦に申し出たのだ。

「……それなのに、あんな言い方しなくてもなぁ……」

 恩返しなど不要、と言い切った須佐之男命を思い出し、良彦は腕を組む。月読命の方は須佐之男命を随分慕って、信用しているようだが、弟はそうでもないのだろうか。しかしあの猛々しい男神が、気に食わない相手の世話を焼くとも思えない。

 社の扉を開き、書物が雑然と積まれた部屋の中で硯と筆を見つけた月読命は、言われた通りに黄金のことを詳しく日記に書き記した。

「私が、不完全なばかりに、迷惑をかけて、申し訳ない」

 筆を置いて、月読命は良彦に目を向ける。

「私は、自分のことを、どこまで君に、話した、かな」

「結構聞いたよ。毎日日記をつけてること、全国にある月読命を祀る社をひとつずつ順番に巡回してること、そういうやり方を全部、須佐之男命から教えてもらったこと、それから――」

 指折り数えて、良彦はわずかに声のトーンを落とす。

「荒魂を、失くしていること……」

 黄金曰く、本来の月読命は夜を映す黒々とした髪と、月光のごとき金色の目を持つ姿だったらしい。銀髪に銀色の瞳となったのは、力が削がれたことだけが原因なのではなく、彼の中に荒魂が存在しないからだという。

「神様っていうのは、陽や雨の恵みをもたらすような、優しくて平和的な和魂と、天変地異を起こしたり、病を流行らせたりする、猛々しくて暴力的な荒魂があって、今の月読命は和魂のみで顕現してる……ってことだったと思うけど、合ってる?」

 そもそも良彦は、和魂と荒魂という存在さえ知らなかった。神社によっては、荒魂のみを祀っていたりするところもあるようだが、正直なところ今まで全く気にしたことがなかった。

「ああ、間違い、ない」

 伏せた目を縁取る睫毛も、陽の光に透けてしまいそうな銀色だ。月読命は、時々痛むのだという両手を合わせて、手袋越しにそっと摩る。爪先も同様に痛むらしく、どこかに腰かけていることの方が多かった。

「昔の、記憶がないのは、そのせいでも、あるようだ。気が付いた時には、もう、この姿だった。荒魂が、どこへ、いったのかも、わからない」

 伊耶那岐神から生まれた三貴子の一柱であるというのに、伊勢で祀られている天照太御神や、全国に神社があり知名度の高い須佐之男命と違い、月読命だけがこのような痛々しい姿になってしまっている。そのことが、良彦により同情を抱かせた。

「それで、今後はどうするのだ?」

 良彦の足元で、あくまでも御用遂行に目を光らせる黄金が尋ねる。

「あんなふうに言われると、無理矢理何かを贈って喜んでもらえるとも思えないしなぁ……。かといって、直接何かするのもハードルが高そう……」

「御用人、殿」

 考え込む良彦に、月読命が単調な声をかける。

「困らせて、しまって、すまない」

 表情は変わらないが銀色の切れ長の目が、しっかりと良彦に向けられていた。

「須佐之男命は、こんなになった私を、気にかけてくれる、大事な、弟。彼がいなければ、私は、独りだ」

 頬を歪め、月読命は文机の上に積まれた日記に目を落とす。今までの膨大な年月の間、彼が書き留めてきたほんの一部だ。

「幸か、不幸か、私の記憶は、一日と持たない。よって、寂しいなどと、思うことは、本当に、少ないが、それでも、不意に、たまらなく、孤独を、感じることがある。そんなときに、唯一覚えている、弟のことを想うのは、とても、心強い」

 胸に手を当てて、月読命はゆっくりと瞬きをする。その姿を、良彦は複雑な心境で眺める。記憶と力を削がれ、それでもなお彼が想うのは、弟のことだけだ。

「何か、彼の喜ぶことをと、思ったが、仕方がない。別の御用を、考えよう」

「でも……」

 何とか力になれないかと食い下がろうとしたが、良彦は結局言葉を切った。本当に須佐之男命が何も望んでいないのだとしたら、それは月読命の真心に反する。

「別の御用として、何か望むことはあるか?」

 自身の脚に尻尾を巻きつけ、黄金が首を傾げる。それにつられるようにして、月読命も首を傾げた。彼にしてみれば、須佐之男命が喜ぶようなことがいいに違いない。

「――あ、それならさぁ!」

 ふと閃いて、良彦は提案する。

「月読命の荒魂を探すのはどうよ?」

「荒魂……を……?」

 考えてもみなかったのか、月読命からの反応は薄い。しかし黄金の方は、あからさまに鼻に皺を寄せた。

「何を言うておる。お前が探せるのなら、とっくに月読命が探し出しておるわ。自身の片割れぞ?」

「そんなのやってみないとわかんないじゃん! 力削がれちゃって、探せないだけかもしんないし! それに荒魂を取り戻すことができれば、須佐之男命だって喜んでくれるかもしれない」

 その言葉に、月読命がわずかに目を見開いた。

「弟が、喜ぶかも、しれない……?」

「そうだよ。兄ちゃんが元気になる方がいいに決まってんじゃん」

 実際荒魂を取り戻したところで記憶は戻らないかもしれないが、少なくとも髪や目の色、それに表情や、痛そうにしている手足は元に戻るかもしれない。

「しかし! 大神は須佐之男命の望むものを与えよという御用を受理したのだぞ? それを勝手に変えては……!」

 その言葉に月読命が迷いを見せたところで、黄金はさらに畳みかける。

「御用人が御用を誘導するようなことがあってはならぬ! あくまでも月読命自身で決めることだ。それに荒魂を探すことが、須佐之男命の喜びに繋がるかどうかはわからぬではないか!」

「えー、絶対喜ぶと思うけど」

「それはお前の希望的観測であろう」

 相変わらず融通の利かない狐だ。渋い顔をする良彦に、黄金は咳払いをしてその場に座り直した。

「まずは、月読命がどうしたいかを聞いてからだ」

 良彦と黄金からそれぞれ視線を向けられ、月読命は無表情ながらも戸惑うように瞬きをした。

「……私が、どう、したいか……」

 細切れに口にして、月読命は目線を落とす。

「荒魂を、探すなど、思いつきも、しなかった……。最初から、ないものと、思い込んでいたのかも、しれない」

 その反応に、黄金が不安げに耳を動かした。

「荒魂を、取り戻せば、少しは、弟に、迷惑をかけずに、済むだろうか……」

 きっと今より良くなるに違いない、と同意したいところを、良彦はかろうじて堪える。御用を誘導してはいけないというのなら、黄金が反対できなくなるまで黙って待つのみだ。

 しばし思案していた月読命は、ゆっくりと良彦へと目を向けた。

「……では、御用人殿、頼める、だろうか」

 その言葉に、良彦はボディバッグの中から宣之言書を取り出す。

「本当に良いのか?」

 念を押して黄金が尋ねたが、月読命は口元を歪めて頷いた。

「私の、荒魂を探すこと、お願いしたい」

 直後、良彦の手の中で宣之言書が光ったかと思うと、月読命の名前が出ているページが自動的に開く。そして墨の入った文字の上から、さらにそれをなぞるようにして光が走り、紙面には黒々とした神名が残った。念のために数秒待ってみるが、それ以上の変化はない。

「……墨、入ったままだからオッケーってことだろ?」

 大神が認めない御用であれば、神名は薄墨に戻るはずだ。にやりと笑ってみせる良彦を、両耳を反らした黄金が何か言いたげに見つめていた。



 その日、日直だった穂乃香は、休み時間に職員室へと呼び出され、担当教師から次の授業で使用するプリントを配っておくようにと頼まれた。休み時間の職員室は、印刷機が稼働する音と、コーヒーとインクの匂いがする。訪ねてきた生徒と親しく話している教師もいれば、黙々とペンを走らせている者もいた。担当教師はかかってきた内線を取り、穂乃香と男子の日直に頼んだぞと目線を送った。

「こっち持っていくから、吉田さんそっち頼む」

 三種類あるうち、何枚かをホッチキスで止めた重そうな二種類を男子の日直が引き受ける。そうなると穂乃香の手元には、B5サイズの軽いものしか残らない。

「あの……」

 もっと持てるよ。それじゃ重いでしょ。喉元まで出かかった言葉は、声になる前に霧散する。穂乃香がまごついている間に、男子生徒は職員室を出て行ってしまった。一人残された穂乃香は、小さく息をついて手元のプリントを抱えた。

 先週末にセンター試験も終わり、卒業までいよいよ二カ月を切っている。新しい制服に身を包んで入学したのが、つい先日のことのようだった。世間の受験生はまだ落ち着かない日々を過ごしているだろうが、年末に附属大学への内部進学が決定している穂乃香にとっては、春休みを待つばかりの季節だ。冬休みが終わって以降の授業は、週に二、三日となり、午前中で終わってしまうことがほとんどだ。今日も次の時間の授業が終わってしまえば、三年生は早々と下校になる。

 自分の教室に向かって廊下を歩きながら、穂乃香はもう背中すら見えない日直の相方のことを思う。一緒に日直を務めるのはこれが最後だろう。決して親しい相手ではないが、最後までこんな感じかと思うと、さすがに自分が不甲斐なく感じた。結局お礼も言いそびれている。三年間の高校生活の中で、比較的気兼ねなく話ができる存在といえば、御用繋がりで知り合った遥斗くらいだ。誰とも馴染まなかった中学時代を思えば、大きな進歩だと捉えるべきだろうか。そんなことをつらつらと考えていた穂乃香は、角を曲がったところで下級生とすれ違いざまに肩をぶつけ、派手にプリントをばらまいた。

「すみません!」

 すぐに下級生の方が頭を下げて、廊下に散ったプリントを拾い集める。

「ごめんなさい、私も、ぼうっとしてて……」

 穂乃香も慌ててその場にしゃがみ込む。休み時間の終了までそれほど猶予はない。早く回収して教室に戻らなければ、クラスメイトに迷惑をかけてしまう。その場を行き交う生徒が興味本位の視線を投げてくる中、せめてプリントが踏まれぬように穂乃香は手を早めた。

「これ」

 目の前にプリントを差し出され、穂乃香は数秒遅れて顔を上げる。最初に、少し癖のある鳶色の明るい髪が目に入った。次いで、こちらを真っ直ぐに見つめる意志の強そうな瞳。見覚えのない女子生徒だった。赤いネクタイのおかげで、かろうじて同学年だとわかる。

「……あ、ありがとう」

 拾ってくれたのだとわかるまで、少し時間がかかった。避けられることに慣れているので、こういうときなかなか状況を把握できない。

「望ー、行くよー」

 少し距離を置いたところで、数人のグループが彼女を呼んだ。校則にぎりぎり引っかからないスカート丈と、ジャケットの代わりに羽織ったカーディガン。整った眉と、念入りに薄色のリップクリームを塗った唇。他の生徒より確実にあか抜けた彼女たちは、穂乃香も見覚えがあった。

 望、と呼ばれた女子生徒は、そちらを一瞥したあと、穂乃香にプリントを手渡してゆっくりと屈めていた体を起こした。女子の割には長身で、すらりと長い脚が目を惹く。グループの女子生徒とは違い制服は着崩しておらず、唇も光ってはいないが、なぜだか佇まいだけで目を奪われた。

 歩き出したグループの後ろを、望がゆったりと追っていくのを、穂乃香はぼんやりと見送る。目立つグループなので、穂乃香も何度か目にしているはずだが、彼女の存在には全く覚えがなかった。それは彼女だけが、どこか異質な雰囲気を纏っているからだろうか。

「あの……」

 プリントを拾い集めた下級生が、遠慮がちに声をかける。穂乃香は我に返り、礼を言ってそれを受け取った。


 学校生活において、類は友を呼ぶという言葉をこれほど噛み締めることはない。特に女子は、集団においての自分の立ち位置を慎重に見極めている。容姿のいい愛嬌のある美人をトップに、メジャーな運動部に属する者、容姿はいまいちだがコミュニケーション能力の高い者がそれに続き、マイナーな文化部員や清潔感に欠ける者が底辺を形成する。学校という狭いコミュニティでしか通用しないカーストだが、その世界で生きている生徒たちにとっては死活問題だ。それは穂乃香も例外ではない。しかし、中学までは確実に底辺にいたはずなのだが、高校に入ってからは枠外に置かれたと感じる。それは扱いあぐねる異分子を、自分たちの管轄外の場所へ放りだすことと似ていた。干渉されない代わりに、仲間だと受け入れられることもない。穂乃香はそれを甘んじて呑み込んでいる。罵倒や暴力で排除されないだけ、随分ましだと思っていた。

 放課後になって、日直の仕事であるゴミ捨ての帰り、穂乃香は一階の昇降口から、雲間から差す西陽に照らされる校舎を見上げた。昼に下校になってから、食事を済ませた後図書室で本を読んでいたので、帰るのが少し遅くなってしまった。本来ゴミ捨ては男子生徒の分担だったのだが、先ほど教室に戻った際、満杯になったままのゴミ箱に気付いて捨てに来たところだった。きっと忘れて帰ってしまったのだろう。

 かじかむ手に白い息を吐きかけ、穂乃香は空にしたゴミ箱を持って再び歩き始めた。ここのところ、最短ルートではない道順で教室に戻るのが、穂乃香の密かな楽しみになっている。普段はあまり通ることのない特別教室や、他学年の教室がある棟を、わざと歩いて帰るのだ。三年間過ごしたはずの校舎でも、もうここに来ることはないかもしれないという思いを込めて歩くと、その景色がやけに新鮮に映ることもあった。決して楽しい思い出ばかりの高校生活ではなかったが、それでも貴重な十代を過ごしたことに変わりはない。

 下級生も帰路に就き、校内に生徒は少なかった。一階から一気に四階までの階段を上がり、一棟を突っ切って自分の教室に帰ろうとした穂乃香は、工作室などが並ぶ一角に明かりがついているのを見つけた。

「……美術室?」

 時刻は四時を回っている。授業で使用しているとは考えにくい。美術部があったかとは思うが、それほど熱心な活動をしているという話は聞いたことがない。いずれにしろ、教室に戻るにはその前を通らねばならないので、穂乃香は普段通りの歩調で廊下を歩いた。廊下に面した磨りガラスの窓が、換気のためかひとつだけ細く開けられている。なんとなく気になって、穂乃香はその隙間から教室の中へ目を向けた。机や椅子を隅に避け、真ん中に広く取られたスペースの中にイーゼルが置かれているのが見える。そこに、一枚の絵があった。

「あ……」

 思わず窓をさらに引き開けて、穂乃香は吐息のような声を漏らした。横幅が一メートルはあろうかというキャンバスには、古代唐風の服装を思わせる、ゆったりとした衣を身に纏った女性が月を見上げ、こちらに背を向けて佇んでいた。まだ色は薄くしか乗っていないものの、月の光を宿すような長い金の髪や、衣装の細かな部分が丁寧に書き込まれているのがわかる。そして何より穂乃香の胸を打ったのは、その女性を見守るように照らすブルームーンだった。漆黒と濃紺が混ざる夜陰の中で、青白く輝く月は完璧な真円を描いている。まだ淡く迷いが見える人物に比べ、はっきりと色が塗られた夜の空は、それだけは絶対に描こうと決めた作者の強い意志が垣間見えた。

「何か用?」

 あまりの優美さに息すら潜めて見入っていた穂乃香は、その声に大げさでなく体を硬直させた。振り返ると、準備室の方に画材を取りに行っていたらしい一人の女子生徒が、訝しげにこちらを見つめていた。ジャケットは脱いでおり、シャツの袖が無造作にめくり上がっている。適当にまとめて結い上げた髪は、目を惹く鳶色。

「……あ」

 プリントを拾ってくれた彼女だ、と気付くまで、そう時間はかからなかった。確か望と呼ばれていたはずだ。望は穂乃香が絵を見ていたことに気付くと、足早にキャンバスに近寄って、それをくるりと裏返した。

「……ご、ごめんなさい。とても綺麗だったから」

 穂乃香は慌てて謝罪する。窓が開いていたとはいえ、覗き見たのは確かだ。

「……あの」

 何か言わねばと穂乃香は口を開くが、うまく言葉が出てこない。

「あなたが、描いたの?」

「……そうよ」

「私、あんなに綺麗な月、初めて見た……」

「それはどうも」

 女子生徒はそっけなく返事をしてから、ようやく穂乃香に目を向ける。

「このこと、誰にも言わないでね」

 意味を把握しかねる穂乃香に、望は続ける。

「私が、絵を描いてること」

 不思議な彩の双眼に捉えられて、穂乃香は無意識に息を呑んだ。

「……どうして?」

 言いふらすつもりなど毛頭なかったが、あえて念を押されるのが気になった。あんなに素晴らしい絵なら、もっと堂々としていてもいいはずだ。

 望は、少し煩わしげに目を伏せる。

「説明が面倒だから」

 それだけを言って、再び準備室へ入っていく。そして運んできた画材を置き、意味を計りかねている穂乃香を振り返った。

「まだ何か?」

 その問いに、穂乃香は自分の鈍感さを呪う。説明が面倒だということは、自分にもそれを告げるつもりなどないということだ。ここにいるのは邪魔でしかない。

「ごめんなさい……」

 もう一度そう口にして、穂乃香は逃げるようにその場を立ち去った。

 廊下を早足で進みながら、邪険にされたにもかかわらず、思いのほか自分の胸が高揚していることに気付く。一瞬でもあの絵を見られたことは、とても幸運な気がした。それほどあの美しい月が、穂乃香の脳裏に焼き付いて離れなかった。