逃げ惑う民衆、上がる叫び声に燃える建物。嗄井戸の家の迫力のスクリーンで繰り広げられるスペクタクルは、以前の俺には縁遠いものだった。日常ではあまり目にすることのない光景を観られるのも映画の楽しみの一つだと思う。恐慌を体現する街を観ながら、俺は隣にいる嗄井戸に尋ねた。

「こういうのってやっぱりCGなのかな」

「いや、その映画では実際に全てを再現してるんだよ。爆発するビルも大量の民衆も、全部本物だ。〝ゴッサム〟という特徴的な街の名前の看板に至るまで、全部作られたんだよ」

「てことはこの人間とかも全部本物ってこと?」

「そうだね。流石の奈緒崎くんもエキストラの存在くらいは知ってるだろ?」

 何だか凄く舐められているような気がするのだが、黙って頷いてやった。

「現代の映画では、効果的にエキストラを使われているからね。扱いにも細心の注意が払われていた。一九一八年制作の『ノアの箱舟』という映画では、エキストラの扱いによって酷い悲劇が起きた。人間が洪水に襲われるシーンを撮る為に、一体何が行われたと思う?」

「……さあ?」

「何トンもの水が入った貯水槽を作り、五十人以上ものエキストラをその下に配置して、実際に水を振り掛けたんだ。そこを撮影した」

「そんなの危なくないのか?」

「ああ。そう言って止めたスタッフもいた。けれど、監督の答えはこうだった。『ああ、そんなものは運次第だ』ってね。結局、その撮影で一人が片足を失い、二人が一生治らない怪我を負った。それでもこれらは映画の為の必要な犠牲だとされたんだ。でも、映画という素晴らしいものを生み出す為に、そういうことが起こるのは心苦しいと思う」

「……だよなぁ」

「大量といえば、僕も最近気になっているものがあるんだけど」

「あ? どうした?」

「最近僕の部屋に大量に要らないものが増えている気がするんだけど」

 さっきの神妙な雰囲気とうって変わって、じっとりとした視線が向けられる。

「奈緒崎くんさあ、自分の部屋に要らないものをどんどん僕の家に持ち込むのやめてくれない?」

「寄贈だよ、寄贈。第一この部屋広いからいいだろ。こんだけ散らかってるし……何があるかもわかんないだろ」

「少なくとも僕の家に流しそうめんの機械とか、かき氷機とか無かったんだけど。どうせ買ったはいいけど、いざ家にあると邪魔なものを持ち込んだんだろ。いい加減持って帰ってくれない? ねえ、聞いてる?」

 俺は嗄井戸の言葉を無視する為に、ボリュームを一段階上げた。




第一話「再演奇縁のオーバーラップ」(『スタンド・バイ・ミー』)




 英知大学後期授業開始日。

 俺は大学内の諸々の手続きを一手に担う学事センターに、転居届を提出した。何故か? 家が燃えたからである。転居届には、簡単な引っ越し理由を書くところがあった。とりあえず空欄で出す。上品に空いたその場所は、映画のようなあれそれを書くには少々慎み深すぎる。

「転居届ですか。この時期に」

 学事の受付に座る若い事務員さんが、熱の籠っていない声でそう言ってきた。聞き覚えのある声だけれど、確認するのが恐ろしい。電話越しに聞いた熱度と寸分違わぬ調子だった。なんというか、冷や汗が出てくるお声だ。

「あ、はい。そうです」

「理由は?」

 空欄を見咎めたのだろう。短い言葉が飛んでくる。

「え、いや……人災?」

「そうですか。それでは承りました。人災により、下北沢へ転居」

「あ、はい。すいません……」

「どうして謝るんですか?」

「ひっ」

「それでは、勉強頑張ってくださいね。奈緒崎さん」

 わざわざ名前を呼んだのはどうしてだろうか。深読みをすればキリがない。一気に十年くらい歳を取ったような気分で、そそくさと去る。


 二ヶ月ぶりに訪れた大学は、秋色の風をふんだんに取り入れて装い新たに麗しかった。夏休み前から工事が始まった新校舎・英知タワーの高さもぐんぐんと伸び、時間の経過を感じさせる。思えば色々なことが起こったものだと思う。例えばこれが映画の続編なら、ここで簡潔なダイジェストが挟まれることだろう。

 ――さる七月、俺は所属するドイツ文学科の学科長である高畑教授に呼び出され、留年の知らせと奇妙な救済措置を同時に聞かされた。その救済措置とはずばり、休学中の秀才・嗄井戸高久を連れ戻すことだった。

 教授の甘言に惑わされ、俺は結局下北沢に住む嗄井戸に会いに行くことになる。しかし、そこにいたのは日がな映画を観て過ごす筋金入りの引きこもりで、学校に行くどころか家から出ることもない男だった。その上、初めて会ったときの嗄井戸のひねくれ具合といったら凄まじいもので、結局一縷の望みは一瞬で潰えてしまう。

 本来ならそこで終わってもおかしくない交流だったというのに、何の因果か、俺と嗄井戸の縁は今でも続いてしまっている。面倒臭い性格をしている奴ではあるが、優秀なのは本当のようで、嗄井戸はその非凡さを俺にまざまざと見せつけてきた。具体的に言うなら、奴は俺の前で鉄壁のアリバイを崩したり、大学で起きた不可解な事件を解決してみせたりしたのだ。

 正直な話、俺はその一連にすっかり魅せられてしまい、どういうわけだか奇妙な引きこもりと友達になってしまったのだ。だって、凄く、面白いし。それに、気難しいだけだと思っていた嗄井戸も、いざ一緒に過ごしてみると結構良い奴だ。好きな映画を俺に語るときや、些細な物事でけたけた笑っているところは、これで存外好ましい。

 嗄井戸に出会わなかったら、俺は映画というものを観ずに過ごしていただろうな、と思う。『バック・トゥ・ザ・フューチャー』の面白さや『ニュー・シネマ・パラダイス』の感動を知らずに生きていたのかと思うと、多少なり偶然に感謝してしまう。

 そうして嗄井戸の家で映画を観ながらぐだぐだ過ごしたり、合間に不可解な事件を解決したりしている内に、頭のおかしな犯人が起こした事件に巻き込まれ、俺の住んでいた家は燃え、俺は嗄井戸が二階に暮らす銀塩荘に引っ越して来たのだった。以上。

 とまあ、こんな具合だろうか。最後の辺りが雑なのはご愛嬌ということで。だって、俺にだってわけがわからない展開だ。

 現実は映画のように美しく〆られるわけじゃないし、人生はそうそう終わることなく続いていく。よく「留年したら人生おしまい!」なんて言説も耳にするが、ところがどっこい、終わらないのだ。

 どれだけ酷いことが起こっても、そうそう人生は終わらない。

 ともあれ、全部が全部目まぐるしく過ぎていった所為で、まだふわふわと足元が覚束ない。非日常と日常が逆転してしまった悪例だ。俺の夏はわけのわからない流れのままに終わり、得たものはささやかな映画知識のみだ。本当に何なんだろうか。

 いくつかの講義に出て、しばらく会っていなかった友達と会うと、ようやく日常が戻ってきたような気がした。「おー、奈緒崎! ひっさしぶりー!」と話しかけてくる同級生の肌が焼けているのを見て、余計わが身の不健康さを思い知る。今年、海とかそんな行けなかったな。九月は九月で大変なことになってたし。

「なんだよー、九月らへん全然予定合わないし、付き合い悪いから心配してたんだって! なあなあ、やっぱ新しい彼女とか出来たん?」

「出来てねーよ」

「隠すなよ。お前のことだしなんかあんだろ。どんな子?」

 日がなスクリーンの前でだらだら過ごしてました、という灰色の現実を申告するのは気が引けた。だって、目の前の充実加減が眩しい。何かないか、何でもいいから。ややあって、口を開いた。

「……肩くらいの黒髪で、セーラー服が超似合う」

 俺はフリーエージェントという肩書きを持つ、とある女子高生、矢端束のことを思い浮かべる。フリーエージェントの言葉を『お金を払えば何でもする』という意味で用いる彼女は、嗄井戸高久の身の回りの世話を有償で請け負う、キッチュでキュートな女の子だ。最近関わりの出来た女の子なんてそれこそ束くらいなもので、口を衝いて出てきてしまったのが悔しい。

「えっ、マジで!? 年下かよ!」

 俺は適当な相槌を打ちながら意味ありげに笑ってみせる。奴は自分の想像の中だけで勝手な物語を作り上げ、恨めしそうな視線を向けてきた。よし、これでいい。別に『付き合ってる』とは言っていないのでセーフだろう。嘘じゃない。

「お前、年下の可愛い系より綺麗めなのが好みだったのになー。ちょっと強気で我儘でさあ……振り回してくるような……変わるもんだな!」

「……いや、そこは変わってない……」

「マジかよ! 理想じゃん!」

 願わくば、フリーエージェント要素とかは抜きにして頂きたいんだけど! 脳内に過った矢端束のキラキラ名刺を振り払う。これ以上突かれてボロが出てもまずいので適当にあしらって終わらせた。

 こうしたくだらないやり取りも、かつての俺が過ごしていた日常だ。嗄井戸と会ってから、矢端束と会ってから、訳のわからない流れにしまったが、本来こっちが正しいはずだ。

 日常を手繰り寄せるように噛みしめていく。

 初回の授業は、どれも短めで終わった。


「日焼けしてないんですね」

 高畑教授は、開口一番そう言った。なかなか良い長期休みだったようで、という言葉が後に続く。そう言う教授の方も休み前と何にも変わっていないように見えた。草食動物のような目と、のっぴきならない雰囲気が、部屋の中を包んでいる。

 『講義が早く終わったから』という浮かれた理由で、俺は高畑教授のもとへやってきていた。目的は勿論、近況報告である。俺のことはともかく、嗄井戸のその後については知っておきたいだろう、という配慮だ。

 俺は要点をかいつまんで、夏休みの間に起こったことの殆どを話した。文化祭の密室事件から、花本例司の起こした事件まで。教授は穏やかに相槌を挟みながらその全てを聞き終えると、にっこりと笑った。

「ああ、じゃあ君は今、嗄井戸くんと住んでるんですか」

「あ、いや。あれは二階で俺は一階です」

 ついでに言うなら、あっちは三部屋分で、こっちは慎ましく一部屋だ。三倍の余裕があるからいよいよ同じものとは思えない。そういえば、三部屋分使ってる場合って家賃とかってどうなってるんだろうか。三倍払うのか?

「でもよかったですね。嗄井戸くんと同じアパートだと、今度家が燃えるときは嗄井戸くんも一緒でしょう」

「……はあ」

「そうすれば、引きこもりも治るかもしれませんよね。荒療治っていうか。ははは」

 ジョークなのか本気なのかよくわからない言葉だった。合わせてとりあえず笑っておく。確かに、今度焼け出される時はあいつ諸共なのだと思うと少しだけ面白い。

「でもまあ、無理に出す必要もないかなって思ってるんですよ。今は」

「ほう」

「嗄井戸も嗄井戸なりに思うところあるみたいですし……それに、なんか家の中にいる嗄井戸、結構楽しそうっていうか……。うん、時間かかるかもしれないですけど、大丈夫じゃないかなって思うんですよね。俺もいますし」

 少なくとも壊滅的に酷いことにはなっていないと思う。映画を観ているときや蘊蓄を語っているときのあいつは、引きこもっていることを忘れるくらい元気だ。映画によって、嗄井戸は少しずつ立ち直っている。とりあえずはそれを信じたい。

「それは奈緒崎くんの留年が確定したからですか?」

「え、いや、そういうわけじゃ……」

 それが無いと言ったら嘘になる。元はといえば留年の掛かった戦いだったわけだ。今の俺に、嗄井戸を外に出したい理由は無い。出た方がきっと楽しいだろうとは思うが、それ以外の気持ちは無い。

 でもこれ、嗄井戸を出したがってる高畑教授の前で言うことじゃないかもしれないな、と言った後で気が付いた。心の中を見透かしたように、高畑教授が言う。

「嗄井戸くんを復学させたい私の前で言う言葉じゃないですね」

「いやもう仰る通りです」

「焦らなくてもいいという部分には賛成ですけれどね。時間は有限で、モラトリアムには終わりが来ます。そのことを忘れて欲しくないんですよ、こちらは」

 高畑教授の言葉が耳に痛かった。結果的に俺のモラトリアムは一年延長されるわけだが、俺も俺で人生の袋小路に嵌ってしまったきらいがある。永遠にこうしていられるわけじゃない。わかっているけど、そのいつかの為に、今日をどうしていいかわからないのだ。

「悩んでいるみたいですね。箴言を与えましょうか」

「お願いします!」

「君はまず単位を取るべきです」

 教授がにこやかにそう告げる。……いやもう、仰る通りである。とりあえず、後期は死ぬ気で単位を取らなくちゃいけない。やるべきことが明瞭であるってなんて素晴らしいんだろうか! 少なくともぼんやりとした感傷を強制的に殺すだけの力はある。

「はい、それはもう、頑張るんで……」

「期待していますよ」

「既に留年しちゃってる人間に何を期待するっていうんですか」

「人並みの単位取得ですかね」

「あの、やっぱり怒ってます?」

 高畑教授は何も言わず、ただただいつものように微笑んでいる。深追いすると手酷い傷を負いそうな笑顔だった。

「ああ。後退ったついでにそこの棚のファイル取って貰えますか」

「う……はい。……ファイル多いですね」

「そのアジュール・ブルーのやつです」

「ちょっ、どれかわかんないんですけど! ……高畑教授、やっぱり俺に怒ってます?」

「滅相もない」

 似たような青色のファイルが何冊も並ぶ中からどうにかそれっぽいものを手渡す。部屋に備え付けられた棚は天井に届くくらい大きい。その大きな棚を埋め尽くすように大量のファイルやら文献やらが差さっている。青色のファイルというだけで軽く三十はあるだろうか。見慣れない系統の青だけでも八冊はある。

「こんなにあって大変じゃないですか?」

「まあ、どれも重要なものですからね。いずれ片そうとは思っているんですが」

 高畑教授がにやりと笑う。ファイルの他にも本だとか、外国製らしき置物だとか、意外なことに映画のDVDも置いてある。もしかすると、高畑教授も映画好きなのかもしれない。知らないタイトルばっかりだけど、これも嗄井戸なら観てたんだろうな。

 その棚の一段に、面白いスペースがあった。

「教授って写真とか撮るんですね」

「そうですね」

 一段丸々が、大小様々な写真立ての陳列にあてられている。古いものもあれば新しいものもあるし、集合写真もあれば教授と誰かとのツーショットもあった。きっと教え子達との写真だろう。誰も彼もがカメラに笑顔を向けていて、一緒に写る高畑教授も心なしか嬉しそうだった。それらに、何となく目を滑らせる。

 その中で一人、やけに斜に構えた表情で写っている男がいた。

 殆ど棒立ちに近い格好で、レンズのことを睨みつけるような目つきをしている。不遜な表情だ。一秒でも愛想を振りまいたら死ぬ、とでも言わんばかりに引き結ばれた唇。その癖、整った顔立ちがその全てを愛嬌に昇華させているからいけ好かない。高畑教授の横でそんな態度を取っている、その男に、見覚えがあった。

「……嗄井戸じゃないですか」

「うん? 写真ですか? そうですよ」

「……えっ、あ、マジ!? ですか!? 双子の兄弟とかじゃなく!?」

「どういう意味ですか。彼の写真がそんなに不思議ですか」

「別に写真が意外ってわけじゃないですけど、だって、これ……」

 どんな人間にだって過去がある。嗄井戸は英知大学文学部ドイツ文学科の学生で、高畑教授の教え子だった。別に不思議なことじゃない。

 でも、俺には不機嫌そうな男の髪の色が白くないことが、如何とも受け入れがたかったのだ。人混みの中に紛れても今ほど目立ちはしないだろう、普通で平均的な黒髪。

「……髪が……」

「ああ、髪の色ですか。……まあ、人間の自我は髪の毛に宿るものじゃありませんから。多少色が違っても嗄井戸くんは嗄井戸くんですよ」

「いや、それで通るわけないじゃないですか! 百メートル先からでもわかりますよ、あの派手白髪! 特徴の八割を担ってる部分が違うじゃないですか!」

 黒髪の嗄井戸、略して黒井戸をもう一度見る。逆に言えば髪の色以外は俺の知っている嗄井戸と全く同じだった。あいつの顔はそうそう忘れるようなものじゃない。

「…………自分で染めたってわけじゃないんでしょうね、やっぱり」

「そうだったらアヴァンギャルドな趣味だと思いますけどね。そうじゃないでしょうね」

 高畑教授が何でもないことのようにそう話す。その態度に少しだけぞくっとした。高畑教授は何も知らないわけじゃない。嗄井戸に何が起こったかを知った上で、俺をあの部屋に向かわせたのだ。

「その段の横に写真があるでしょう。二、三人で写ってるやつです。そこに写っているのが嗄井戸くんのお姉さん、嗄井戸叶さんですよ」

 そこに写っているどれが、という指定はなかった。理由は簡単、見ればわかるからだろう。何人かが写る中で、一際目立つ女の人がいた。ウェーブをかけた茶髪を長く伸ばし、こちらに向かって柔和に笑いかけている。写真の中の表情こそ似ても似つかないが、過度に美しい顔立ちがどこか嗄井戸を思わせる。有り体に言えば、二人はよく似ていた。一目で二人が姉弟だとわかるくらいには。

「これが……」

「よく似ているでしょう。嗄井戸くんは否定していましたけどね。まあ、その顔立ち以外はそう似てもいなかったんですけどね。嗄井戸くんはどちらかと言えば気難しい方ですが、彼女は人懐っこくて、誰とでも仲良くなれるような子でした」

「お姉さんの方も同じ学部だったんですか?」

「いや、叶さんは英文学科でした。その日は偶然、ここへ話を聞きに来ていたんですよ。そのとき、その場にいる皆で撮ろうかってなったんですけど……嗄井戸くんは映りたくないと駄々をこねて、結局別々に撮ったのがその二枚の写真です」

 大方、姉と一緒に映るのが恥ずかしかったとかそういう理由だろう。嗄井戸姉弟が同じ写真にいたら、何だかやけに目立つだろうし。それで教授とのツーショットっていうのもまた微妙な感じではあるけれど……。

「というか、話聞きに来てたんですか? 他学科なのに何で……」

「私の教え子に一人、映画関係に就職した子がいましてね。ほら、その左隣に置いてある写真の……DVDを持ちながら写っている子。彼がちょっと面白い職に就いたんですよ」

「面白い職?」

「フィルム・アーキビストです。いわば、映画の保存師ですね。映画を後世に残す為、フィルムの劣化を防ぎ、全ての映画を守る仕事です。……まあ、まだまだこの国はそういったフィルム・アーカイブの点では遅れているんですが。そういったのもあって、叶さんも同じ道に進みたいと言っていて。彼の就職を手助けした私に、話を聞きに来ていたんです」

 視線を少しだけ左にずらすと、高畑教授の言った通り、何かの映画のDVDを持った男の写真があった。若干天然パーマ気味なのか、毛先がふわふわとしている。なんていうか、保育士の似合いそうな柔和な美丈夫だった。――映画関連の面白い職か。そして、嗄井戸のお姉さんも、同じ道を歩もうとしていた。

 夢があった。

「その彼も優秀な学生でね。映画好きだった。もし嗄井戸くんが大学に来ていたら、いずれ映画繋がりで出会うかもしれなかったんですけど」

 全てはもう失われてしまった可能性だった。俺は、こちらに微笑む彼女がどうなってしまったかを、斜に構えた黒髪の男がどうなってしまうのかを、知っている。

「事件の話は聞きましたか」

 不意に高畑教授がそう尋ねてくる。多分、俺のわかりやすい反応で諸々を察したのだろう。何て言っていいかわからないまま、頷いた。

「彼女に起こったことは不幸でした。それも、壮絶な不幸です。けれど、それをいつまでも抱えていていいわけじゃありません。デヴィッド・リンチ監督は地下室に籠り、自分の置かれた環境の悪辣さをインスピレーションにして映画製作に打ち込みました。マイナスがプラスに転じる場合もあるでしょう。彼もまた、密室の中で成長しなければいけない」

 それとはまた違うような気がするのだが、高畑教授の顔は真剣だった。

「つまり嗄井戸は、……お姉さんの分まで生きなくちゃいけないってことですか」

「いいえ。死んでしまった誰かの分まで生きろなんて押しつけがましいことは言いませんよ。ただ、彼は彼の人生くらい全うするべきなんです」

 高畑教授はそう、きっぱりと言った。そして、おもむろに立ち上がる。

「さて、話はここまでですかね。私はこれから講義がありますから」

「あ、講義……」

「君が落とした必修ドイツ語ですから。君は暇でしょう?」

 にこやかな笑顔と共に高畑教授がそう言い放つ。ナチュラルにこちらを攻撃してくるこの感じは、ストレートに罵倒されるよりもずっと心にくる。そのことを教授自身もわかっているような気がした。


 教授棟である七号館から出ると、午後になったからか人通りが随分少なくなっていた。必修を落としてしまった俺は、教授の言う通りもうフリーである。下北沢に帰って嗄井戸を構う時間に充ててもいいわけだ。久しぶりにぶらぶら街を出歩くのもいい。ギターか何かを見に行ってもいい。

 デヴィッド・リンチとかいう監督は地下室で映画を製作した。嗄井戸高久は密室で謎を解いた。俺からしたらどっちもポジティブな行為だと思う。部屋から出なくても出来る才能の発露だ。まあ、俺はリンチ監督がどんな映画を作ったのかすら知らないけれど。今度聞いてみることにしよう。

 自分の人生を生きること。嗄井戸高久がこれからを生きること。今の嗄井戸に、俺がしてやれることって何なんだろうか。嗄井戸があの部屋の中で、それでもなお世界と繋がることって?

 そんなことを考えながら北門の方へ向かう。考えても仕方ないし、とりあえず下北に帰るかー、となった末の行動だった。一朝一夕で答えの出る問題でもない。多少ぐるぐる遠回りをしても、いずれどうにかなるはずだ。多分。

 そのときふと、視界の端をぐるぐると動くものがあった。俺の脳内を反映するかのように、ふらふらぐるぐると何かが動く。よく見ると、旅行用の大きなリュックを背負った男だった。季節外れのバカンスに洒落込めそうな大荷物は、どう考えても大学には似合わない。男は北門の方を窺いながら、行こうか行くまいか迷うように、左右に揺れている。……一体何をやっているんだろうか。

 面白いのでそのまま観察していると、大荷物の男が意を決したように北門へと駆けていく。けれど、いざ門の近くまで行くと、何かに驚いたかのように飛び上がり、まっすぐこちらに引き返してきた。本当に何をしているんだろうか。まるで何かに追われているみたいに男が駆け戻ってくる。そこでようやく、俺はその男が誰かに気が付いた。

「あ、能見?」

「あっ!? 奈緒崎!?」

 文学部ドイツ文学科、同級生の能見だった。まさか知り合いだったとは。完ッ全に不審者染みた男と知り合いだったことに若干の気まずさを覚えながら応対する。秋口とはいえ、まだまだ暑い。荷物を抱えて行ったり来たりするのは骨だろう。能見は汗を滲ませ、肩で息をしていた。

「奈緒崎じゃん! 久しぶり! お前夏休み後半全然音沙汰なかったもんな! なんだよー、元気そうだな!」

「ああ、まあ……ていうか、お前さ、それ何?」

「えー、それって何だよ」

 能見がいけしゃあしゃあとしらを切る。さっきの不審な動きといい、背負っている大荷物といい、明らかに怪しい。

「荷物だよ。どこぞに登山でも行くつもりか?」

「あ、いや、俺、ちょっとこう取り込んでてさ。まあ人生色々あるよな」

「取り込んでる? 何で」

 一体何があったんだろうか。好奇心をそそられる俺の眼前に、能見がびしっと人差し指を突き立てて見せる。

「じゃあさ、その前に一つ頼んでもいい?」

「物による」

「あのさ、悪いんだけど、……一週間くらい泊めてくんない?」

 一週間くらいは余裕で過ごせそうな荷物を背負いながら、能見がそう言って笑う。なるほど、それは本当にバカンス用の装備だったのか。


 こうして俺は能見を家に泊めることになった。バカンスとは程遠い住まいだが、予約不要飛び込み可の宿なだけ上等だろう。

「はー、お前に会えてよかったよ! 急に風呂が壊れちゃってさぁ……修理に少なくとも一週間以上かかるって言われちゃあな。でも、ホテル泊まる金は無いし……ほんっとう持つべきものは友達だな!」

「風呂か……。言っとくけど俺の家には定期的に日用品を買い足してくれる女子高生はいないからな。あんま期待すんなよ」

「普通の家にそんな女子高生いないだろ」

「いるんだよ。いるところにはいる」

 これも一種の資本主義だと思う。一つ天井を隔てた上にそういう夢のような部屋があるのだ。世知辛い。

 それにしても。風呂の故障か。それならこの大荷物も納得がいく。元から泊まる場所を探していたからこその装備だったのだ。俺も結構かつかつの学生だし、明日から急にホテルで暮らせって言われても無理だしな。

 ただ、引っかかる部分はある。あのとき、どうして能見はあんなに不審な動きをしていたんだろうか。知り合いを探していた、にしては不自然な動きだったように思う。むしろ、誰かを探しているというよりは、自分を探している誰かを警戒しているように見えた。積極的に疑うわけじゃないが、どうにも不思議だ。大荷物。あの動き。……まるで何かから逃げているみたいな。

 なんて、全ては馬鹿げた想像でしかない。映画の観すぎで脳味噌がドラマチックな方向へ向かい過ぎているのだろうか。人はそうそう誰かに狙われたりしない。

「というわけで、一週間くらいよろしくな!」

「ああまあ別にいいけど。泊めるくらいなら……」

 布団を含め来客用のものなんか殆ど無いが、外で寝るよりはマシだろう。シャワーだって機能するし、窓も割れてない。

「それにしても刑務所みたいな部屋だな、ここ。冷蔵庫と布団とテレビしかねえし」

「失礼な奴だな。これには理由があんだよ」

 引っ越したての俺の城を、ずけずけと能見が荒らす。狭い上に物が無いから、エンターテインメント性には欠ける部屋だ。

「なんていうか断捨離失敗したみたいだな」

 能見は部屋を回遊しながら、不躾な評定を下していた。余計なお世話だ。そうして押し入れからトイレ、風呂場の扉までを次々に開けて回る。まるで家捜しのような様相に、若干げんなりした。

「っていうかありえねえ! お前の風呂場リンス無いんだけど!」

「女子かよ」

「キューティクルが死ぬだろ! はー……この辺りにドラッグストアある? そういや歯ブラシとかも無いし、ついでに買ってくるわ」

「下北駅前にあるぞ。ツルハドラッグ」

「よし、なんか適当に揃えてくるわ! この独房みたいな部屋を少しでも快適にする為に!」

 総評まで酷い言い草だった。確かに文化レベルは低いものの、そこまで悪くないはずなんだけどな。

 そうこうしている内に、バタバタと財布だけ持って能見が部屋を出て行く。殺風景な部屋にドンと置かれたリュックは異様な存在感を持っていて、何だか少し威圧感があった。着替えとか大学の用意とかが主な中身だろうが、それにしたって大きな荷物だった。

 さて。他人を家に泊めるにあたって、この部屋に何が無いかを確認しておくか、と思いながら立ち上がる。その瞬間、部屋の隅で充電されている携帯が鳴った。軽快な音楽に誘われて、咄嗟にスマートフォンを取る。こんな時間に電話を掛けてくる相手なんてどうせ嗄井戸だろうと思いながら、画面すらろくに見ずに通話ボタンをスワイプした。

 だが、俺の耳に飛び込んできたのは、聞き慣れた声じゃなく、耳慣れない怒号だった。

『能見!!!! お前だろう! お前が俺の『スタンド・バイ・ミー』盗ったんだな!? ふざけるのも大概にしろよ!! いいか!? 俺は何が何でも取り返してやるからな!! 絶対に捕まえてやる!! あれはなあ、里美が遺した形見なんだからな!! おい! 聞いてるんだろ能見!!』

 残念、聞いていない。ここにいるのは俺だけだ。俺は目の前の小さな機械から発せられる殺意の権現のような声の前に、完全に委縮していた。ゆっくりスマートフォンと距離を取り、改めて手の中にあるものを確認する。思わず舌打ちした。これは俺のじゃない。能見のだ。奴はあろうことか、俺の部屋で平然と充電をしてやがったのだ。せめて一言断ってくれていたら間違えなかっただろうに!

 罵詈雑言と「返せ」のコールが入り混じる中で、俺は一言も発せないままでいた。うっかり取ってしまった電話の向こうで、誰かが能見に怒っている。

『風呂が壊れた』という建前がものの十数分で崩れてしまったような気がした。風呂じゃないものがぶち壊れてんじゃねえか、と少しだけ笑う。数秒で真顔になった。

 冷静になった俺は、とりあえず電話を切った。怒号の雨が無理矢理遮断される。能見の名前が出ていた以上、アクティブな間違い電話、ということもないだろう。

 とった。……盗った? 捕まえてやる。形見。それに、『スタンド・バイ・ミー』。一聴しても訳の分からない話だが、不穏なことに変わりはなかった。

 これを能見が聞いていたら大変なことになるだろうな、と思いながらそっとスマートフォンを置いて振り返ると、なんと素晴らしいタイミングだろう。そこには青ざめた顔の能見が立っていた。