終わりの始まりは、ペインティングナイフがカンバスを切り裂く音だった。

 イーゼルからカンバスが落下し、硬い床に木枠が打ちつけられる。まるでスローモーションのように感じられる目の前の映像を、ナイフを握りしめた朱里は他人事のように見つめていた。

 食べかけのコンビニ弁当や、脱ぎ捨てたままの衣服。空の酒瓶が転がる、フランシス・ベーコンもかくやという雑然としたアトリエ……いや、アトリエなど、洒落た呼び方ができる空間ではない。単に散らばったゴミの山に、カンバスや絵の具が含まれているだけの室内。

 その中に破れたカンバスが一枚紛れたところで、別段どうということもない。そのカンバスに、写真と見紛う自分の顔が描かれていたところで、なんの意味もない。破れた自分の片目がこちらを見つめ返してきた瞬間、朱里は吐き捨てた。

「――もう、諦めなよ」

 それはこのアトリエに暮らして十年……いや、生まれてから十八年間、ずっと口にできなかった一言だった。それが合図だったように、心底に溜めこんでいた言葉は堰を切ったように溢れだす。

「自分が、画壇からなんて呼ばれてるのか知らないわけじゃないでしょう? カメラ・オブスキュラ――時代遅れの投影装置。超写実主義の絵なんて、この時代にはなんの意味もない、誰からも求められてない」

 部屋の中央に座る父は、無言だった。やせ細った顔の中で、目だけが炯々と輝き、まるで別の生き物のようだった。朱里の言葉を聞いているのかどうかすら分からない。

「もしも、父さんが尊敬するフェルメールと同時代に生まれていたら、少しは評価されていたかもしれない。けれど今はもう、写真の存在する二十世紀なの。独創性も創造性もない絵に、一体なんの価値があるって言うの?」

 暖房の効いていない冷たいアトリエに、自分の声が反響する。しかしその言葉に、今まで身動き一つしなかった父が顔を上げ、朱里の背後を見つめた。

 彼の視線の先にある一枚の絵を、朱里は知っていた。雑然としたアトリエの中で、その複製画が飾られた場所だけは、まるで聖域のように清潔さが保たれていたからだ。振り向かずとも分かる、その肖像画の視線から逃れるように、朱里は喉の奥で呻く。

「私は絶対に、父さんのようにはならない」

 それが、別離の言葉だった。愚かなまでにひたすら絵を描き続け、おそらくは誰にも認められずに死んでいく父親に対しての。朱里は少ない荷物の詰まったボストンバックを肩にかけ直し、踵を返す。

「そうだな。俺は結局、何者にもなれなかった……お前の父親にすら」

 その時、父が呟いた。それは呵責と、そして何がしかの希望がない交ぜになった、掠れた声だった。

「ただ、一つだけ覚えておいてほしい。常にお前たちには、絵の加護があることを」

 父に背を向けた朱里は、自然と一枚の肖像画と相対することになった。

 暗い背景から鮮やかに浮かび上がる輪郭。微かに濡れた艶やかな唇、あどけない表情、真っ直ぐに向けられる視線。誰もがその姿を知っている、しかし誰もその名を知らない、モデルすら定かではない肖像画……

「世界で最も濁りのない、純粋な目だ。彼女はいつも、お前たちを見ているよ」

 その絵はただ簡潔に『真珠の耳飾りの少女』と呼ばれていた。

 場違いなほど穏やかな父の声、そして少女の視線から逃れるように、朱里は一歩を踏み出した。足元に転がる、自分が切り裂いた自分自身の姿を見ないように、前だけを見て歩きだす。

 何が絵の加護だ、これは呪いだ。父が囚われたその呪いに、絡め取られてたまるものか。いつしか駆け足になりながら、朱里は奥歯を噛みしめた。


 次に朱里がこの場所に足を踏み入れたのは、その六年後。

 父がアトリエで孤独に死んだ、寒い初冬のことだった。




 序章 掃討作戦




 ――朱里ちゃん。正しいことをするのが、常に正しいとは限らないのよ。

 いじめられていた子を庇って、次なるいじめの対象になった時。理不尽なクレームをつける客に異を唱え、バイトをクビになった時。騒音のひどい上階の住人に注意して逆恨みされ、嫌がらせを受けるようになった時。

 思いだすのは、幼い日に聞いた母の言葉だった。子供の道徳教育という観念からいえば褒められたものではないが、それが真理だ。正義感の強さは、時に理不尽な鎖となる。それは自分をがんじがらめにして、どんどん悪い方向へ引きずっていく。

 そうしてたどり着いたのがこの町なら、ここにも朱里を期待させるような出来事が待っていてくれるとは思えない。

 東京の外れ、練馬の一角。池袋駅から各駅停車の電車に揺られること数分。古びた駅舎に降りた黒峰朱里は、改札に続く階段をげんなりとした心持ちで上り始めた。

 甲高い声で喋る女子学生の集団や、何が入っているのか定かではない巨大な荷物を背負った男子学生。逆側のホームに滑りこんできた電車からも学生らしき若者たちが次々と吐きだされ、自分の場違い感に大きな溜息をつく。

 改札を出ると、古めかしい商店街が広がっていた。営業しているのかすら判然としない純喫茶や、店番のおばちゃんが昼寝をしている八百屋、学生街に似つかわしくない仏具屋、電柱の間に渡された花飾りに昭和の香りが漂う。やはり一昔前のセンスを感じさせるデザインの街路灯フラッグには『モリゲー通り』と書かれていた。

 なんだか混沌とした町だ。こんなことがなければ、一生立ち寄ることもない場所だっただろう。朱里は眉間に皺を刻み、黒コートのポケットに手を突っこんだまま駅名標を見上げた――『森之宮芸大前駅』


「生前贈与」

 生まれて二十四年、ついぞ関わりのなかった単語を口にしたのは、数週間前のことだ。事態が把握できずに三白眼を細める朱里をよそに、十数年ぶりに再会した祖父は、肩を落としながらそんな話を切りだしてきた。

「そう。婆さんは死んじゃったし、子供は真尋しかいなかったし、蒼冶君は事業が軌道に乗ってるみたいだし……一番苦労をかけた朱里ちゃんにあげたいと思ってね」

 母方の祖父……白井耕三に再会したのは、父の葬儀でのことだった。

 父と母は朱里が八歳の時に離婚していたので、物心ついてから会うのは初めてだった。実兄の蒼冶は葬儀に顔すら出さず……三年前に母が死んだ時は、朱里が無視を決めこんでいたのでお互い様だが……その代わりのように線香をあげに来たのが、齢七十半ばを過ぎた祖父だったのである。

「随分と大変だったみたいじゃない。大学も諦めなきゃいけなかったんだって?」

「まあ……それは、自分で決めたことですから」

 確かにほとんど定収入のない父との暮らしは裕福とは言えなかったが、進学を諦めたのは一刻も早くあのアトリエを出たかったからだ。そもそも自分に苦労をかけたのは、父親の一景である。責任を感じられても困るのだが、祖父の言葉は続いた。

「だからね。僕は都内にいくつか小さいアパートを持ってるんだけど……そのうちの一つを、朱里ちゃんにあげてもいいってことだよ」

 朱里は着慣れない喪服に体を拘束されたように、動きを止めた。

 アパート経営、それは夢の不労所得生活ということだろうか。将来の展望も目標もお金もない朱里からしてみれば、願ってもいないチャンスだ。だが、ただでさえ父の葬儀で疲れ果てている時に、朱里の小さな脳みそで冷静な判断ができるはずがない。すると、更に祖父は話を続ける。

「それに、一景君……お父さんは天涯孤独だったと聞いているよ。朱里ちゃんも身寄りがいなくなって、色々大変だと思うんだ。僕も心配だし、よければアパートの空き部屋に越してくるといいんじゃないかな。築五十年の木造アパートで住み心地は良くないけど、朱里ちゃんならタダでいいよ。いずれはあげる予定の物件だしね」

 朱里が住んでいる今の安普請も、似たり寄ったりの条件で三万円だ。フリーターにとって、タダより安いものはない。少ない参列者にお辞儀をしながら朱里が回らない頭を無理に動かしていると、祖父が首を傾げる。

「……それとも、お父さんのアトリエに戻るのかい?」

「あそこは都心から遠いし、なるべく近寄りたくないんで……」

 多摩の奥地にあるアトリエに、いい思い出はない。そもそも、父がカンバスに頭を突っこんで孤独死していた家に住みたいなどという、奇特な娘はいないだろう。時代に取り残された超写実主義の画家が遺した絵など、フィンセント・ファン・ゴッホのように、死後に作品が高騰するような奇跡も起きはしない。

 本来ならば朱里が片付けに行くべきだが、後回しにしている。大体、最寄駅から徒歩一時間という東京都とは思えない立地だ。高校卒業まで住んでいた朱里は、その不便さをよく知っている。耕三はそれ以上追及することなく、申し訳なさそうに言った。

「それならいいんだ。実は来月から、二か月ほどスペインに行くことになってね。僕が留守にしている期間、そのアパートの管理をしてくれると助かるんだけど」

「スペインってことは……マルタおばあさんの墓参りですか?」

 スペイン人である母方の祖母は、故郷で眠りたいという遺言によってマドリードに埋葬されている。朱里が生まれる前に亡くなってしまったので、写真でしか見たことがないが、小柄な祖父とは対照的な長身の女性だった。蚤の夫婦だと笑われていたようだが、祖父は随分と愛妻家だったそうである。少し寂しそうに呟く。

「そう。僕もこの歳だし、元気なうちに行っておきたいと思ってさ。そうしたら蒼冶君が、ヘルパーさんや通訳もつけて長期滞在の手配もしてくれるって言ってね。向こうのご家族にもしばらく会っていないから、最後の挨拶に行こうかと思って」

 両親の離婚後、母に引き取られた実兄の蒼冶は、ギャラリストとして成功していると聞いている。母の真尋……つまり耕三の娘も、シライマヒロという名前で活動していた現代アーティストだった。要するに朱里の両親は画家同士の夫婦だった訳だが、画壇における評価は雲泥の差だった。

 時代を切り開いたコンテンポラリーアートの寵児、シライマヒロ。かたや時代に取り残された超写実主義の残滓、黒峰一景。

 離婚の要因は、そこにもあったのだろう。母の作品は死後に価格が高騰し、ギャラリーを開いている実兄は母の遺した作品を転がして荒稼ぎをしているらしい。

 そんな環境の差もあって、兄はちゃんと大学にも行かせてもらえていたようだ。祖父孝行している兄と、逆に祖父に心配されている自分……こちらの立場も雲泥の差だ。羨んでも仕方ないが、釈然としない気持ちはずっと引きずっている。

 別に朱里は、望んで父の方に引き取られたわけではない。祖父が兄ではなく自分に財産を遺そうとしてくれているのも、そんな境遇を憐れんでのことだろう。

 だが、過去を恨んでも仕方ない。貰えるものは貰うし、利用できるものは祖父だって利用してやる。そう開き直って、朱里は意を決したように頷いた。

「じゃあ、落ち着いたら連絡します。留守番でもなんでもやりますから」

 そうして朱里は父の供養を一通り終えてから、住んでいたアパートを引き払った。

 仕事は家の近所で適当に探せばいい。十八の時にあのアトリエを飛びだしてから、今までそうやって生きてきたのだ。

 そうしてまだ寒さの厳しい三月に降り立った駅が、森之宮芸大前だったのである。


 モリゲー通りから一本入ると、古びた家屋が立ち並ぶ住宅街だった。駅前は若い学生たちの往来で騒がしかったが、道を逸れるだけで別世界のように閑寂としている。

 祖父が所有するアパートは、森之宮芸大前駅から徒歩一分。こんなに恵まれた立地だというのに家賃一万円とは、相当なボロ物件か、或いは事故物件に違いない。あの優しそうな祖父がそんなものを孫娘に押しつけようとしているとは思いたくないが。

 そんなことを考えながら歩いていると、「朱里ちゃーん」と、自分を呼ぶしわがれた声が聞こえた。視線を巡らせると、一棟のアパートの前で祖父が手を振っている。朱里はお辞儀した後、改めて祖父の後ろにあるボロアパートを眺めた。

 いわゆる羊羹型のアパートだ。二階建てで、今にも落ちそうな狭いベランダが各階に四つ並んでいる。風雨で錆びた鉄骨階段といい、経年劣化で薄汚れた壁といい、典型的ボロアパートといった風情だが、築五十年の木造アパートならば、こんなものだろう。釘が外れて傾いた看板にはこう書かれている……『森之宮芸大前アパート』

「このアパートは五十年前に僕の父……つまり、朱里ちゃんの曽祖父が建てたんだ。今年創立百年を迎える総合芸術大学、森之宮芸術大学の学生を受け入れるためにね」

 そう言って祖父は表通りの方向を示す。最寄りの駅名を聞いた時点で学生街だということは分かっていた。駅前の商店街を抜けると、妙に広い敷地の大学があるようだ。

「未来の芸術家を夢見るたくさんの若者たちが、このアパートで夢を語り合い、そして巣立っていったんだ。輩出した有名芸術家は数知れず、ここに住めば成功するというジンクスまでまことしやかに囁かれたものだよ」

「ということは、住んでる方はそこの芸大生なんですか?」

「……それが、最近は少子化の影響で、学生も減る一方でねえ。今住んでるのは、みんな卒業生。でも、そろそろリノベを考えてるんだよ。朱里ちゃんに贈与するにも、このままじゃ単なるお荷物でしょ? 綺麗になれば駅近物件だし、そこそこのお家賃も取れる。部屋数も多くはないから、朱里ちゃんでも管理できる規模だしね」

 なるほど、一応そこまで考えてくれているのか。朱里はボストンバッグを肩にかけ直し、ボロアパートを見上げた。どうやら本当に祖父は、自分の身を案じてくれているらしい。もしや夢にまで見た不労所得生活が、本当に降って湧いてきたのかもしれない……と、認識を改めかけた時だった。

「……ただ、色々と問題があってねえ」

 急に祖父が声のトーンを落とし、朱里は眉間に皺を刻む。やはり、話の雲行きが怪しくなってきた。覚悟はしていたので冷静に祖父を見下ろすと、彼は眉尻を下げる。

「リノベするにも、今いる四人の居住者が出て行ってくれないんだよ」

「出て行ってくれないって……老朽化が進んでいるので住人の安全を確保するためだとか理由付けて、立ち退き命令出せないんですか?」

「だって家賃一万円すらろくに払えない子たちを、スズメの涙ほどの立ち退き料だけで外に放りだしたら、死んじゃうかもしれないじゃない」

 その理論に既視感を覚え、すぐに思い当たる。これは増えすぎたペットを捨てられない、一見情に厚いが単なる近所迷惑の住人と同じ思考だ。要するに祖父は困っている人間を見捨てられないが、その挙句に持てあます類いの善人なのだ。

「みんないい子たちなんだけど、芸大出身者はいかんせん変わり者が多くてねえ。以前も写真の現像液で水道管をボロボロにされたり、床に絵の具こぼされたり、壁に陶芸の釉薬飛び散らされたりで修繕費用は馬鹿にならないし、夜更けに謎の歌声が響くし、自殺未遂騒動まで起こされるし、ご近所からの目も冷ややかになるし……」

 だんだんと愚痴になってきた。しかし、どんな猛獣の収容所だ。更に眉間の皺を深くする朱里を、祖父はつぶらな瞳で見上げる。

「僕としては、みんなに円満に出て行ってもらいたいんだけど、そうもいかなくてねえ……朱里ちゃんの方が歳も近いし、話を聞いてもらいやすいと思うんだよ」

「……つまり私が、残っている四人の健全な生活を確保した上でアパートを退去させることができれば、リノベ後のアパート所有権を生前贈与して頂けると……そういうことですか?」

 その問いに祖父が深々と頷き、ようやく事態が呑みこめた。要するに自分はこのアパートの所有権と引き換えに、住人退去の交渉役を命じられたのだ。

 この人の良さそうな祖父は、居住者に対して強く退去勧告を出すことはいかにもできなさそうである。朱里は状況を整理するために、冬空を振り仰ぐ。

 確かに、本来なら学生が住むはずの物件にいつまでも居座って、近所にも迷惑をかけた挙句、家主である祖父の退去勧告にも応じないのは目に余る。そもそも父の影響で、朱里は芸術家志望という人種が嫌いなのだ。早く目覚めて正社員になれ、真っ当に働いて社会に貢献しろ。フリーターである自分を差し置いて、そう胸中で毒づく。

 せっかく夢の不労所得生活を享受しようとしていたのに、ダメな芸術家かぶれにその夢を阻まれてはたまらない。だが、そうそう簡単に引き受けていい話でもないだろう。沈黙する朱里だったが、祖父はその反応を予期していたように頷いた。

「まあ、いきなりそんな話をされても困るよね。まずは、荷物を置いてゆっくりしなさい。朱里ちゃんは三号室を使ってね。あと、これ」

 そう言いながら祖父はポケットをまさぐり、『3』というタグの付いた鍵を差しだす。その鍵と共に、彼は小さなプラスティックのプレートも渡してきた。ひっくり返してみるが、表にも裏にも何も書かれていない。思わず眉根を寄せる。

「なんですか、これ」

「うちのアパートのルールでね。自分で部屋名を決めるんだよ」

 言葉の意味が取れずに、朱里は祖父の顔を見返した。彼は続けて油性マジックを取り出し、こちらの手に無理矢理押しつける。

「ここのアパートは入居する時に、部屋に尊敬している芸術家の名前を付けるんだ。一号室は《ベートーベン》だから音楽学部のあの人、二号室は《ゴッホ》だから美術学部のあの人、みたいに。多分最初は、所属学部と顔を一致させるためだったんだろうけど、いつしか成功のジンクスになっちゃってね」

「いや……私は芸大生でも卒業生でもないし、尊敬してる芸術家もいませんから」

 いきなり謎の儀式を強要され、朱里は若干引きながら手を振った。やはり、芸術家の考えていることはよく分からない。すると祖父は残念そうに眉をハの字に下げる。

「でも、住んでる子たちとコミュニケーションを取るには大事なことだから……何か考えておいてよ。そうそう、僕がいない間に困ったことがあったら、八号室に住んでいる高羽登志也君に相談しなさい。一番の古株だから、力になってくれるよ」

 頑なに拒むこともできずに朱里が頭を下げると、祖父は「また連絡するね」と言って踵を返した。渡航準備も忙しいはずだ。彼はどうやら、同じ住宅街の中にある一軒家に住んでいるらしい。おそらく、この一角における地主なのだろう。

 ともあれ、朱里はボロアパートを見上げた。祖父は八号室の人間が協力してくれるなどと言っていたが、一番古株ということは、一番追い出しづらいということだ。無論のこと、相談する道理はない。

 まずは祖父の言う通り、荷物を置こうと裏手に回る。三号室は一階のようだ。二号室の扉横には骨董品のような二槽式洗濯機が鎮座しているが、埃を被っていて使用している様子もない。強い風が吹き、鉄骨階段の上に渡された雨よけのトタンが騒がしい音を立てる。廊下とも言い難い通路はお化け屋敷のように静まり返っていた。本当に人が住んでいるのだろうか。

 三号室にたどり着く。と、ドアの前にはツチノコのように膨れたハチワレ猫が陣取っていた。ふてぶてしい目つきでこちらを一瞥しただけで、逃げようともしない。仕方なく抱えてどかそうとするが、持ち上げた瞬間に腰を抜かしそうになる。

「……重っ!」

 なんだこれは、猫の重さではない。鉛でも食べてるんじゃなかろうか。抱えたデブ猫は重たい割にぐにゃぐにゃしているので、持ち上げるのが怖い。しかも「ぶぉー」という、猫らしからぬ鳴き声を不服そうに漏らしている。引きずるのも可哀想なのでそのまま固まっていると、不意に頭上から男の声が降ってきた。

「ガンちゃん、お嬢さんが入れないよ」

 中途半端な体勢で猫を抱えたまま、顔を上向かせる。二階の廊下からこちらを見下ろしていたのは、どてら姿の男だった。昭和からタイムスリップしてきた、一生合格できなさそうな浪人生といった風体だ。

 身も蓋もない言い方をすると、格好以外は驚くほど特徴のない男だった。歳は二十代後半か三十代だろうが、その年代の日本人男性を全員集めて平均化すると、彼という存在になるのかもしれない。特徴がないのが特徴というパラドクスすら生じている。

 おまけに微妙な塩梅で感情の読み取れないとぼけた面構えが、更にパーソナリティーをかき消している有様だ。多分、十人に聞いたら十人が「どこかで会ったことがある気がする」というタイプである。

 無個性男は、のろのろとした足取りで階段を下りてきた。と、朱里に抱えられていたデブ猫が見た目からは想像できない敏捷さで男の元へ駆け寄る。いつも餌でもやっているのだろう。どう見ても住人だ。しかし男は、挨拶しようとする朱里を制した。

「あ、ちょっと待って。当てるから」

 そう言ってこちらを無遠慮に眺めやると、やけに確信を込めた口調と共に頷く。

「……カラーリング的に、売れない嬢メタルバンドのベーシストだな。いいね、そういう経歴の子は大歓迎」

 その言葉に、朱里は反論もできずに自分の格好を見下ろした。赤のインナー以外黒づくめの格好は、確かにそういう類いの人間に見えなくもない。

 一応、朱里は日本とスペインのクォーターなのだが、どうやら父方の血を色濃く受け継いだらしい。もともとがコーカソイドとの混血なので、肌色も黄色に近く、癖のある髪も真っ黒だ。かろうじて祖母の血が垣間見えるのは、日本人の平均女性より少し背が高く、目だけが妙に大きいことぐらいか。もっとも、やけに白目が目立つ三白眼なので、どちらかというと人相は悪い方である。更に、長身女性にありがちな猫背が、やさぐれたイメージに拍車をかけている。社会に反抗しているような風貌に見られても仕方ない。

 だが、下手に否定しても墓穴を掘るだけだ。大家の孫娘だと知られたら、色々と面倒なことになるかもしれない。ここは嬢メタルバンドのベーシストで通すべきだろう。

「まあ……そんなところです。よろしくお願いします」

 適当に受け流して一礼する。先程の祖父の言葉を信じるなら、この男もはた迷惑な上にアパートを出て行こうとしない芸大関係者に違いない。将来的には追放しなければならない相手か……などと考える朱里の内心を読み取ったかのように、男はしゃがみこんでデブ猫をなでながら、飄々とした口調で告げた。

「最初に言っておくけど、このアパートをもぬけの空にすることは無理だよ。なぜなら俺は、梃子でも動かないからね」

 朱里はドアに鍵を突っこんだまま、動きを止めた。掠れた声で呟く。

「……聞いてたんですか」

 確かにあんな所で立ち話をしていたら、いかにも壁の薄い室内から丸聞こえだったかもしれない。男はその質問には答えず、ひとしきりデブ猫を構ってから立ち上がる。

「八号室の高羽登志也だ、よろしくね」

 八号室の高羽……ということは、この男が祖父の言っていた古株か。なるほど、手強そうだ。祖父との会話を聞かれていたなら、既に敵と認定されているに違いない。微妙な距離を置いたまま、男を睨めつける。

「黒峰朱里です……聞いてたならご存知の通り、大家の白井は祖父です」

「ああ、白井さんにはお世話になってるよ。住人はみんな、仏の白井って呼んでる」

 分からないでもない呼び名だが、死んでいるみたいなのでやめてほしい。朱里は半ば開き直り、低い地声を絞りだした。

「話を聞く限り祖父も迷惑してるようなので退去を検討して頂けませんか? 学生のために建てたアパートに、いつまでも卒業生が居座っているのはどうかと思いますし」

「いやいや。今時このアパートに住もうと思うのは、とっくに大学を卒業した駄目人間だけだよ。このご時世、『医大並みの学費だが、医大と違い元手の回収率はゼロ』なんて揶揄される森之宮芸大に進もうとする物好きは、モラトリアムお坊ちゃまとお嬢ちゃまばっかりだしね。こんなアパートで苦学生を気取る子なんていやしないさ」

 そのあたりの事情は、訪れたばかりの朱里には皆目わからない。おまけにこの高羽という男、柳に風を地で行く様相で、何を言っても響かない人種のような気がする。他の住人のことは分からないが、予想通りこの男を追いだすのは長期戦になりそうだ。

「とりあえずガンちゃんもどいたことだし、まずは新居に荷物を置いたらどうだい?」

 動くのが面倒になったのか、高羽の足元でひっくり返っている猫を一瞥する。確かに三月上旬の風は冷たく、ここで立ち話をしているのも辛い気温だ。朱里は突っこんでいたままの鍵を回し、ふと気づく。

 扉には『3』と部屋番号が書かれていたが、その下に小さな金属の枠があった。横に隙間が開いており、プレートを差しこめるようになっている。

「そうそう、白井さんからここのルールを聞いただろ? 部屋名は決めたの?」

 やはり、先程祖父から貰ったプレートを入れる場所らしい。だが、朱里はそこに書くべき偉人の名など持ち合わせていなかった。高羽の言葉を無視して扉を開ける。

 長いこと開閉していなかったせいか蝶番が軋み、エアタイトゴムがバリバリと嫌な音を立てる。埃っぽい空気が流れだし、思わず咳きこむ。真向かいにある唯一の窓から夕刻の西日が差しこむ、最悪の間取りだ。反射的に目を伏せ、そして喉の奥で呻く。

「なに……ここ」

 蘇ったのは、あのアトリエの記憶だった。

 フランシス・ベーコンの仕事場もかくやという混沌の空間。折り重なるカンバス、絵の具まみれの床、散らばる筆とペインティングナイフ、壁にかけられた複製画。

 無論のこと、それは幻だ。実際の室内は、がらんどうの状態である。きっと瞬間的にそんな映像が蘇ったのは、匂いのせいだろう。嗅覚は記憶中枢と直結する。室内に充満したテレピン油と、木炭と、カンバス紙と、絵具の匂いが混然一体となった、懐かしくも苦々しい匂い。

 朱里は首を振り、ブーツを脱いだ。典型的な六畳程度のワンルームだ。一歩踏みだせば床は軋むし、空気も淀んでいる。だが、フローリングの床には拭き取ろうとして諦めたらしい絵の具が層を成し、壁には絵をかけたような穴の痕が幾つも開いている。換気のためか開け放たれた押入れの壁には、ダウンタウンのグラフィティのような落書きが残っている。そして染みついた画材の匂いは、風化することなく室内を永遠に漂っているようだった。

 部屋自体はもぬけの空なのに、ここまで以前の……いや、その前の、そして更にその前の住人の気配が感じ取れる物件は初めてだ。ここの部屋の住人たちはおそらく、四六時中絵を描いていた。あのアトリエに籠もっていた、父と同じように。

「森之宮芸大……通称モリゲーには、全部で七つの学部がある。写真、美術、音楽、文学、工芸、映画、演劇。この三号室には、よく美術学部の学生が住んでいたようだね。今までに、色々な部屋名が付けられたらしいよ。ダ・ヴィンチ、ジョット、ルソー、モネ、マティス、クリムト、北斎、魁夷……」

 淡々とした声に振り向くと、ドアの隙間から高羽が顔を覗かせていた。どうやら玄関より先に足を踏みこむ気はないらしく、こちらに向かって手を伸ばしてくる。

「思いつかないなら、俺が付けてあげようか。他の住人たちから怪しまれないためって考えなよ。誰がいい? モトリー・クルー? スリップノット?」

「なんでヘビメタ……いや、別に適当でいいです」

 朱里は逡巡したが、下手に抵抗するのも面倒だ。プレートと油性ペンを渡すと、高羽はすぐに表裏に何かを書きつけ、ドアにプレートを差しこんだようだった。

「芸術家は、時に狂気に囚われる。そんな奴らが代々住み続けてきた部屋だ。せいぜい怨念に呑まれないようにね」

 高羽の声に抑揚はなかったが、それ故に妙な迫力があった。男の足元で、太った猫が鳴き声をあげる。

 芸術家の狂気。その言葉を反芻し、朱里は部屋の真ん中で立ち尽くした。知っている……それに喰われた人間を、自分は間近で見てきたのだから。

 私は絶対に、父さんのようにはならない。そう言ってアトリエを飛びだした十八の冬。巡り巡ってたどり着いたのは、父と同じような人間の巣窟だとでも言うのか。朱里は幻を振り払うように頬を叩き、せめてもの抗いとして高羽を睨みつける。

「呑まれはしませんよ……あなたも含めて、綺麗に掃討しますから」

 もしかしたら自分は、とんでもない所に足を踏み入れてしまったのかもしれない。口の中だけで呟いた宣戦布告を、高羽が聞いていたかは分からない。ただ彼は異界の案内人のように、おどけた声で告げただけだった。

「ようこそ。駄目人間の巣窟、森之宮芸大前アパートへ」

 扉が閉まり、朱里は独り室内に取り残される。高羽が去ったであろうタイミングを見計らってから廊下へ出ると、差しこまれたプレートには殴り書きのような筆記体で、とある偉人の名が記されていた。

《PICCASO》――二十世紀美術界、最大の怪物。

「……なんで画家の名前を」

 苦々しく呟く。寒風が吹き抜ける廊下を見回すが、掴みどころのない男の姿は、既にどこにもなかった。それが本当に適当に書かれたものなのか、何か意図があるものなのかは分からない。

 ただ、自分はどうやってもこの匂いから逃れられないのかもしれないという、漠然とした予感があった――テレピン油と、木炭と、カンバス紙と、絵具の入り混じった、苦渋を呼び起こすアトリエの匂いから。




 第一章 ハミングバードを探して




 爽やかな小鳥のさえずりで目が覚めた。

 まるで森の中にいるようだ。どこからか涼しいそよ風が吹きこみ、眩しい木漏れ日が瞼を射抜く。それにしても元気な鳥たちだ。一体何羽……いや、何十羽いるのだろう。まどろんでいる頭を直接揺さぶる、もはやこれは騒音のレベル……

「……うるさい!」

 カッと目を見開き、朱里は叫びと共に覚醒した。根なし草の必須アイテムである寝袋に包まれたまま、芋虫のようにもぞもぞと床を転がる。

 当たり前だがここは森の中などではなく、ボロアパートの一室だった。そよ風は単なる隙間風だし、木漏れ日はカーテンすらない窓から差しこむ直射日光だ。

 そして薄い窓の外では、かしましい鳥の群れが大合唱していた。ようやく寝袋から這いでて、寝ぼけ眼で立てつけの悪いガラス戸を引き開ける。朱里の気配を感じて一斉に飛び立っていったのは、雀の群れだった。なぜ、こんな何もないアパートの前で雀が集会を開いているのだろうか。

 転がっていた便所サンダルをつっかけて、アパート前の庭に出る。すると、地面に大量の米が撒かれていた。食糧に困窮した住人が、狩りでも始めたのかもしれない。

 パジャマ代わりにしている赤ジャージの尻を掻きながら周囲を見回すと、背後から視線を感じた。振り返った瞬間、一階右端に位置する部屋の窓から光るものが見えた気がした。しゃがんで覗きこむ。

 と、暗闇にぼうと浮かび上がる白い女の顔と目が合った。

 思わず驚愕の声をあげると、一瞬見えたボブカットの女はすぐにカーテンを閉ざした。今のは住人だろうか、なんて心臓に悪い。しゃがんだままの体勢で周囲を見回すと、米粒はその部屋を中心に撒き散らされているようだった。

「おはよう朱里ちゃん。いいねその格好、すごい田舎のヤンキー臭」

 と、頭上から降ってきた声に既視感を覚え、寝起きの顔を上向かせる。今にも落ちそうな狭いベランダで歯を磨いていたのは、相変わらずどてら姿の高羽だった。

 ちゃん付けを許した記憶はないのだが、指摘するのも面倒だ。昨日と同じような状況に辟易としながら、安眠を邪魔された苛立ちと共に口を開く。

「……一号室、雀を狙う女スナイパーが住んでるんですけど」

 ここで「一号室に人なんか住んでないよ」と言われたら、速やかにこのアパートとは関わるのをやめよう。すると高羽はベランダの手すりに寄りかかり、遠い目をした。

「戦場カメラマンの多くは、構えた望遠レンズを重火器と間違えられ射殺されるのだという……芸術家は常在戦場。練馬のボロアパートとて、戦場たりえるのだよ」

 言っていることが意味不明だ。朱里は早々に対話を諦め、高羽を睨め上げた。

「とにかく、勝手にアパート前に米撒かれるのは迷惑でしょう? うるさいし、洗濯物がフンで汚れますし」

「俺に言われても困るよ。他の住人は気にしてないから、やめてほしいなら朱里ちゃんが直接交渉するしかないね」

 そう言い残し、高羽は部屋の中に引っこんでしまう。朱里は再度カーテンの閉ざされたガラス戸を覗きこむが、先程感じた気配は幻のように消えてしまっていた。問題の部屋は、一部屋挟んで三号室の右隣にある一号室だ。

 同じ轍を踏むのは御免なので、いきなり注意しに行く勇気はない。だが、引っ越してきた身として挨拶ぐらいには行くべきだろう。いずれは退去させなければならない相手だし、こちらにはもう一つ重大な使命がある。

 朱里は寝袋だけが抜け殻のように残された室内に戻り、一枚のメモを確認する。つい先日、スペインに経った耕三から渡されたものだ。「1‐6」「6‐3」「7‐3」……これは競馬の予想ではない。住人の家賃滞納額だ。前の数字が部屋番号、後の数字が金額である。

 つまり一号室の住人は、六か月分の家賃滞納者だ。大家の孫として、まずはこちらを徴収する義務がある。現在の住人は四名と言っていたので、ちゃんと家賃を払っているのは八号室の高羽だけということになる。普通に考えると由々しき事態だが、あの人のいい祖父のことだ。泣きつかれるとすぐに許してしまったのだろう。

 しかし、自分はそうはいかない。朱里はボストンバックを開け、赤黒の着替えを引きずりだした。カーテンのない窓は外から着替えが丸見えのはずだが、こんなアパートを覗く物好きもいないだろう。縦横無尽に跳ね散らかった癖毛を直すことは諦め、外に出る。

 三号室から廊下を五歩も歩けば、一号室のドアである。この安普請に、チャイムなど気の利いたものはない。ノックをしようとしたところで、『1』の下に貼りついたプレートが気になった。豆粒のように小さな筆跡で書かれた名前は――《CAPA》

「……ロバート・キャパかな?」

 その名を冠した報道写真の賞も存在する、伝説の戦場カメラマンだ。確か高羽は、件の芸大には写真学部があると言っていた。だから先程、カメラマン云々などと言っていたのかもしれない。朱里は遠慮なく扉をガンガンとノックする。

「すいませーん。昨日、三号室に越してきた者なんですけど」

 だが、返事はない。平日の朝八時、確かに真っ当な社会人なら出かけていてもおかしくないが、ここの住人はおそらく真っ当ではないし、そもそも先程まで確実に人の気配がしていたのだ。居留守だろうか。再度ノックしようとした、その時だった。

「朱里ちゃんダメだよ、篠倉さん怯えちゃうじゃない」

 この男は、アパート内で起きているすべての事象を把握しているとでもいうのだろうか。いつの間にか二階から下りてきた高羽に向かって、朱里は深々と息をつく。

「高羽さんなら知ってるんでしょう。この一号室の住人、どんな人なんですか? 家賃を六万円滞納していることしか分かってないんですけど」

「去年、写真学部を卒業した篠倉花衣さん。ここ半年くらい、部屋から出てこない」

 その答えに、朱里は手をノックの形に握りしめたまま、《キャパ》の扉を凝視した。

「彼女の場合、モリゲーを卒業してからこのアパートに住み始めたんだ。カメラマンアシスタントとして働いてたらしいけど、アシスタントの給料なんて雀の涙みたいなもんだからね。機材も馬鹿にならないだろうし、卒業したから親の仕送りもなくなったんじゃないかな。ところが、半年前から仕事を辞めて、急に引きこもっちゃってね」

 高羽の声は淡々としている。深刻なのかふざけているのか全く分からないので、朱里はとりあえず引きつった顔で呻く。

「……女性フォトグラファーって、SNSに定期的に空の写真と新作フラペチーノの写真をアップしないと死んじゃう生き物のイメージなんですけど。引きこもってたらなんの写真も撮れないじゃないですか。生きてるんですか?」

「さあ……SNSには空や新作フラペチーノの代わりに、今日飲んだ精神安定剤の写真と銘柄をアップしているとかじゃないかな?」

「心配要素満載じゃないですか! まさか、手首に傷とかないでしょうね?」

「どうだろう……あったかもしれないような……」

「心配要素の満漢全席ですよ、それ!」

 祖父が自殺未遂云々などと言っていたのは、まさか《キャパ》の住人のことではないだろうか。急激に襲ってきた不安をよそに、目の前の高羽は肩をすくめる。

「ごめんごめん、薬と手首の傷は冗談だよ。それに、篠倉さんなんか序の口だ。他の住人のことも聞きたい? まずは借金が六百万ある……」

「待って! まだ聞きたくないです。私は着実に一つずつ攻略していくタイプなんで」

 反射的に耳を塞ぐ。思っていた以上に、敵は手強いようだ。単に無精で引っ越す金がないなら尻を叩いて追いだすこともできるが、いきなり引きこもりが立ちはだかってくるとは。思わず、とぼけた顔の高羽を責めるように睨む。

「大体、どうしてこんな状況の人を放っておくんですか。こういう長屋的なアパートの住人って、互いに支え合って生きてるものなんじゃないんですか? 日々、ほっこり人情話とかが繰り広げられてるんじゃないんですか?」

「そんな協調性のある奴らなら、とっくに人生を立て直してアパートを出て行ってるってば。そもそも芸術家なんて、個人主義が服着て歩いてるようなもんだしね」

 高羽は諦めたように首を振った。悔しいが、実に的を射た意見だ。朱里は固く閉ざされた《キャパ》の扉を見つめながら呟く。

「でも、いくらなんでも一人暮らしである以上、支援者でもいない限りは最低限の外出はしているはずです。そこを押さえられれば……」

 そう呟いた瞬間に寒風が吹き、朱里は盛大なくしゃみをした。いずれにしてもこんな話を、引きこもっている当人の部屋の前ですべきではないだろう。眉間に皺を寄せる朱里を見つめ、高羽が目をしばたたかせる。

「まさか朱里ちゃん、篠倉さんを部屋から引きずりだす気かい?」

「引きずりださなきゃ、退去させられないじゃないですか」

 夢の不労所得生活のため、戦わねばならない時がある。正直にそう言うと、高羽はどこか芝居がかった笑いを漏らした。

「何がおかしいんですか」

「いや、随分と俺たちは煙たがられているなあと思って」

「……私が世の中で一番嫌いなものは、人様に迷惑をかける芸術家かぶれ。次に嫌いなのは、親の金で大学行かせてもらいながら就職もせず遊んでる輩なので。それが見事に融合したハイブリッド人間たちが現れたら、そりゃ敵視もしますよ」

「複雑な家庭環境と学歴コンプレックスが見事に融合した、ハイブリッド理論だなあ」

 人を食ったようなこの男には多少棘のある言い方をしてもいいかと思ったが、高羽は更なる嫌味を平然と放ってきた。睨みつける朱里に、高羽はへらへらと手を振る。

「ああごめん。よく、言動には気を付けろって言われる。まあ、君もそういうタイプっぽいからお互い様だ。俺たちは上手くやっていけると思うよ」

 上手くやっていく気は毛頭ないが、ここで更に反論しても時間の無駄だ。深呼吸して気持ちを落ち着けるが、高羽は朱里の内心も気にせず通りの向こうを示した。

「俺はそこの喫茶店で朝ご飯食べてからモリゲー行くけど、朱里ちゃんも一緒に来る? どうせ無職で暇でしょ?」

「……無職だから、まずは仕事探しに行かなきゃならないんですけど」

「だと思ったから、ついでに仕事を斡旋してあげるよ」

 そう言うと、高羽はにやりと笑ってから通りに向かって歩きだした。朱里は立ち止まったまま、その背を胡散臭そうに一瞥する。得体の知れない男だ。ついて行く道理などなかったが、まったく当てのない仕事先の斡旋という言葉は気になる。

 更に、昨日寒々しい安普請の固い床に転がりながら、一晩かけて考えていたことがある。朱里は大きな溜息をついてから、渋々高羽を追いかけた。

「まあ、私も高羽さんに相談したいことがあったんで、ちょうどいいんですけど……というか、その格好で大学に行く気ですか?」

「大学と商店街は、あのアパートの庭みたいなもんだよ。朱里ちゃんも遠慮なく、素敵な赤ジャージで歩き回ればいいじゃないか」

 高羽は一本道を逸れ、商店街と大学があるモリゲー通りに入った。この時間は人通りもまばらだ。まだ開いていない店も多い……単にシャッター街なのかもしれないが。

「モリゲーのことを万国珍獣博覧会のように言う人間もいるけど、決してそんなことはない。あの学校にいる、大多数は凡人だからね。この界隈で『俺、変人だから~』『私、変わってるから~』と言う奴は、総じて欠伸が出るほど平凡なんだ。一番危険なのは、自分を普通だと言い張っている奴だね」

 高羽の芸大豆知識を話半分に聞きながら、色褪せた幟が寒風にはためく通りをのろのろと歩く。駅の方向から、巨大な画板のようなものを肩にかけた学生が、いかにも徹夜明けの顔で大学に向かって行った。

「その点、あのアパートの住人達はみんな変人を自称しているから、無害な凡人だ。安心するといいよ」

 つまりそれば、高羽が自分を普通だと言い張っているということではないか。要するに、この男は一番危険な人種なのではないか。なんだか思考のループに突入しそうだったので、朱里は深く考えることをやめた。と、急に高羽が立ち止まる。

 目の前にあるのは、古びた木枠のドアだった。あまり手入れされていない植えこみの奥にあるガラス窓の向こうは妙に暗くて、店内が窺えない。いかにも手作りといった小さな看板には、読みづらい字で『純喫茶フォレスト』と書いてある。一見さんお断りな佇まいは、まさに一昔前の喫茶店だ。

 仕事を斡旋してくれると言っていたが、喫茶店のホールだろうか。お世辞にも人手が必要だとは思えないが。高羽に続いて店内に入ると、頭上ではノスタルジックなドアベルが鳴り、店内は薄暗く、予想通り客は一人もいなかった。

 カウンター内では、口髭に蝶ネクタイの壮年紳士がコーヒー豆を挽いていた。まさに完璧な喫茶店のマスターだ。むしろ完璧すぎて、コスプレ感すら漂っている。高羽は常連らしくカウンター席に座り、慣れた様子で注文する。

「マスター、モーニング二つ。あと、このお嬢さんに何か仕事ない? カラーリングはこんなんだけど、普通の子だから。ちなみに朱里ちゃん、希望職種は?」

「えっ……ここ、ハローワークなんですか?」

 冗談のつもりでコスプレマスターに視線を投げかけるが、彼は至極真面目な表情で頷いた。この町に来てからずっと、狐につままれている感じがする。仕方なく、朱里は面接でもされているような気分で答える。

「こちとらフリーターのプロなんで、なんでもやりますけど……職歴は事務員から、山小屋管理人、メイド喫茶、着ぐるみの中の人、交通量調査、特殊清掃、治験……」

「……本当になんでもやるね」

「仕事選んでちゃ生きていけないんですよ」

 言葉を濁す朱里に、高羽は釈然としない顔をする。だがカウンター内のマスターは顔色一つ変えずに頷き、奥に引っこんでしまった。音量を絞ったオペラのアリアらしき歌声が怨霊のように響いており、異界に迷いこんだ心持ちである。

 しばしして、モーニングセットが運ばれてきた。薫り高いコーヒーに、大きなバターがのった厚切りトースト。ちょうどいい半熟加減のオムレツに、オレンジが一欠片。昨日からまともな食事にありついていなかった朱里の腹が派手に鳴る。と、ソーサーの下に、機密文書のようにメモが挟まっていた。眉根を寄せて開き、読み上げる。

「『桐の湯』清掃業務」

 そこにはマスターのものらしい達筆でそう書かれており、下には勤務時間帯と時給も記載されていた。一体、どういうシステムなのだ。疑問符を飛ばしながら横目で高羽を見やると、彼は背中を丸めてトーストを齧りながら答えた。

「マスター、こうやってモリゲー通りの短期バイトを斡旋してくれるから。『桐の湯』っていうのは、そこにある銭湯ね。番台の婆さんがもう八十近くて、いつも風呂掃除要員を探してるんだよ。うちのアパートは頻繁に給湯器が壊れてお世話になるから、今のうちに顔見知りになっておいた方がいいね」

 当然のように解説される。問いかけるようにマスターを見やるが、彼は再びキッチンに引っこんでしまった。高羽の声は続く。

「モリゲー通りの店は常に人手不足だから、ここに来れば仕事には困らないよ。学生は都内のバイトに行っちゃうし、若い労働力は重要なんだ。学生街の無口なマスターが、謎の仕事を斡旋する……どうだ、今流行りのコージーミステリっぽいだろ?」

「何を推理することがあるんですか。謎の仕事も何も、風呂掃除ですし」

 とはいえ、仕事があるのは有難い。朱里はメモをポケットに入れ、とりあえず腹ごしらえをすることにした。厚切りトーストを齧ると、外は香ばしく中はふんわりとした、最高の焼き具合だ。柔らかい中まで染みたバターは手作りらしく、甘い風味が鼻に抜ける。オムレツも黒胡椒の加減が絶妙で、ちょうどいい半熟だ。

 これは美味しい。なんだか、初めて高羽のことを信用できた気がする。この古めかしい内装も優雅に思えてきて、コーヒーを口に含んだ、瞬間。

「まっずっ!」

 思わず熱いコーヒーを吹きだしかける。極限まで凝縮された、酸味と苦みのハーモニー。果たしてこれはコーヒーという飲み物なのだろうか。マスターがいないことを確認し、高羽に向かって小声で抗議する。

「……なんですかこれ、泥水? そのへんの雑草煎じたやつ? こんなまずい物口に含んだの、子供の頃に石鹸齧った時以来なんですけど!」

「マスターに失礼だぞ。確かに不味いけど」

 どうやら不味いという認識はあるらしい。高羽は息を止めながら無理矢理コーヒーを飲み干し、口直しらしい水を流しこんでから言った。

「ここのモーニングは通常四百円だけど、コーヒー残すと千円になるから注意してね」

「なんで倍以上になるルールなんですか!」

「マスターはコーヒー淹れるのが趣味で喫茶店を開いたんだけど、好きこそものの上手なれとはいかないんだよ。コーヒー以外は絶品だから、逆にタチが悪い。みんな食事しか頼まなくなったもんだから、無理矢理バンドル販売してるんだ」

 やはり普通の喫茶店ではなかった。ハローワークを兼任している時点で普通ではないのだが。六百円が惜しい朱里が我慢してコーヒーをちびちび飲んでいると、奥から出てきたマスターが高羽の前に銀色の保温ポットを置いた。

「毎年ありがとうございます。マスターのコーヒーは学生に大人気ですからね」

 それを受け取る高羽に、半分以上残ったコーヒーを持て余していた朱里は目を点にする。無言の問いかけに、高羽は小声で答えた。

「学生が追いコンの罰ゲームで使うんだ。三月の風物詩だね」

 もはや劇物扱いである。マスターは自慢のコーヒーがそんな扱いをされていることを知ってか知らずか、渋い声音で呟いた。

「三月から四月にかけては、高羽さんたち職員の方もお忙しいでしょう……よろしければ、皆様にもポットで差し入れいたしますが……」

「いや、遠慮しておきます」

 マスターの申し出に即答する高羽を、朱里は面食らったように見返した。

「……高羽さん、学生じゃなくて職員だったんですか?」

「そうだよ、助手職」

 あっさり肯定される。大学に通っていると聞いた時点で、てっきり何浪かの挙句に入学した上に留年を繰り返し、学内の伝説的なヌシになっている類いの人物かと思っていた。だが確かに祖父はアパートの住人を全員卒業生だと言っていたし、年齢的にもそちらの方が正常だ。しかし、それはそれで理不尽な疑問が湧いてくる。

「ちゃんと職があるなら、家賃一万円のアパートじゃなくて、もっといい物件に引っ越してくださいよ。いくら近くて便利だからって」

「君が想像してるような立場じゃないんだよ。いつまでも卒業せずにふらふらしていた俺を見かねて教授が拾ってくれたようなもんだし、単なる実習助手だからね。研究助手や特任助手と違って、要するに雑用係さ」

 大学職員の待遇や階級など分からないが、どうやら下っ端ということらしい。だが、職員ということは未だに堂々と学内に出入りできる立場であるはずだ。

「そういえばさっき、俺に相談したいことがあるって言っていたけど、なんだい?」

 朱里が思案していると、高羽の方から話を振ってきてくれた。朱里は考えをまとめるほどの沈黙を置いた後、声を潜めて高羽に顔を近づける。

「高羽さん……私と手を組みませんか?」

 高羽がこちらを見返す。それにしても、生気が感じられない目をした男だ。無個性に見えるのは外見の問題ではなく、妙に感情が読み取れない表情のせいなのかもしれない。朱里は神妙な顔で、組んだ両手に顎を乗せた。昨晩、冷たい床に転がりながら考えていたことを整理しながら口を開く。

「ぶっちゃけ、仕事も将来の展望もない私は、夢の不労所得生活を享受したい」

「なるほど。君のそういう正直なところには好感が持てる。それで?」

 まだ口に苦味が残っているのか、高羽は水をがぶ飲みしながら続きを促す。話の早い男だ、朱里は古びたカウンターの木目に視線を落としながら呟く。

「でも、私はモリゲーの卒業生でもないし、このアパートの住人とは全く面識がない。滞納家賃の回収と退去には、内部事情に詳しい協力者が必要です」

「それでモリゲーの関係者であり、アパートの居住歴の長い俺に、協力を要請したいと。でも、退去させなきゃいけないアパートの住人には、他ならない俺自身が含まれてるんだよ? 協力するメリットがないじゃないか」

 もっともな言い分だ。しかし朱里はその問いかけを待っていた。軽く手を打ち合わせ、人差し指を高羽に突きつける。

「もちろん、タダとは言いません。無事にあのアパートが私のものになったら、リノベ後のアパートの一室、今のお家賃据え置きで貸すことをお約束しましょう」

 この便利な駅前立地、更に大学の近くとあれば、祖父の言っていた通りリノベ後の家賃は跳ね上がるに違いない。高羽がこのボロアパートを出て行かない理由は、もちろん通勤に便利な立地と格安の家賃だろう。その条件を満たしたまま綺麗になった部屋に住み続けられるなら、拒否する理由はないはずだ。

 我ながら名案だ。困ったことがあったら高羽に相談しろという祖父の言葉は、あながち的外れではなかった。しかし高羽は表情を変えないまま、緩慢に天井を振り仰いだ。何かを考えるような間を置いてから、唐突に聞いてくる。

「……それは、別の条件に変更も可能かい?」

 朱里は動きを止めた。一体、この男は何を言っているのだ。しかし、相変わらず高羽の顔からは明確な表情が読み取れない。眉間に皺を刻みながら口を開く。

「そんなの、条件次第ですよ。代わりに十円チョコ奢ってくれって言われれば喜んでそうしますし、アパートの所有権くれと言われたら断固拒否しますよ」

「それもそうだ。まあ、君の話が確かなら、俺にとってはデメリットがない。いいよ、他の住人三名の掃討作戦に協力しようじゃないか」

 あっさりと返され、朱里は動きを止めた。店の奥から地を這うように流れてくるオペラのアリアが、一際大きく聞こえてくる。微妙に釈然としない契約だが、アパートさえ手に入ればこっちのものだ。朱里は気を取り直すように、両手を握りしめる。

「じゃあ、これで同盟成立ですね。じゃあ高羽さん、写真学部の誰かに、一号室の篠倉さんに何があったのか聞いてきてください。卒業して間もなく引きこもったなら、まだ学内の後輩とか、事情を知ってる人がいるはずですから」

「いきなりこき使うね、君は」

「夢の不労所得生活のためなら、なんだって利用しますよ」

「そこまで開き直られると、いっそ清々しいな……別に学内に入れなくても、正門で聞きこみでもしてみたら? カメラぶら下げた若者なら、まず写真学部で間違いないよ。あとは、茶色の染みが点々と付いた白衣を着た子ね」

「なんで白衣なんですか?」

「現像液を扱うからさ。一時期は現像液で水道管が痛むって理由で、写真学部の学生を入居拒否するアパートもあったらしいよ。今は知っての通りデジタル化が進んでるから、パソコンを使った画像処理の授業が主になってるけどね。もちろん、まだアナログ撮影やプリントの実習ゼミはあるから、白衣の子がいたら十中八九写真学部」

 まるで野生動物の見分け方のように解説され、朱里は生返事をしながら頷いた。どうやら芸大内では、独自の生態系が構築されているようだ。と、高羽が店内のアンティーク時計を一瞥し、緩慢な動作で立ち上がる。

「ああ、もうこんな時間だ。取りあえず、お互い仕事に行こうじゃないか。マスター、これから朱里ちゃんのことよろしく。なんでもやるみたいだから」

 朱里も根性で残りのコーヒーを飲み干し、一礼する。もしかして、仕事を斡旋してもらうのにもコーヒーの完飲が必要なのだろうか。だがそれを聞くことは躊躇われ、重たい胃を押さえながら喫茶店の外に出るしかなかった。高羽が通りの向こうを示す。

「あの曲がり角にあるのが『桐の湯』さんだよ。ちなみに仕事はいつからだって?」

「……即時だそうです」

 コートのポケットに入れたメモを開く。つまり、すぐ来いということなのだろう。すると高羽はどてらのポケットを探り、朱里に何かを差しだした。

「じゃあ、これお弁当。初仕事、頑張ってね」

 渡されたのは駄菓子界のキング、デリシャス棒のてりやき味だった。見覚えのあるパッケージを受け取ると、高羽は大学の方へ消えていった。まさか、あの格好のまま仕事をするのだろうか。そして、なぜここで駄菓子が出てくるのだろうか。

 数々の疑問が湧いてきたが、追及は無駄だろうと諦める。高羽の言う通り、とりあえずは仕事だ、先立つものがなければ生きていけない。駅舎から次々と吐きだされる学生の波と逆行するように、朱里は『桐の湯』に向かって歩きだした。


『桐の湯』清掃業務は、時給につられて特殊清掃業務に従事したことのある朱里にとっては慣れた仕事だった。酸性洗剤とアルカリ性洗剤の使い分けも完璧である。定期的に清掃業者は入っているのだろうが、細かい汚れを掃除しているときりがない。

 ようやく湯をはったのは開店直前の夕刻だったが、常連客の爺さんたちは多少開店時間が遅れたところで気にもせず、慣れた様子で無人の番台に入浴料を置いていく。朱里は腰を叩きながら、脱衣所の方へ戻る。

「朱里ちゃん! そろそろ休憩しな! あんた働きっぱなしからに!」

 と、店の奥から地面と平行に腰を曲げた老婆が歩いてきた。その後を、愛犬のポメラニアンが吼えながらついてくる。せっかく掃除したのに、また毛が散らばる。

 拡声器でも搭載しているかのような老婆の声は銭湯中に響き渡るが、常連客はいつものことなので全く気にしていない。名前だけはアイドル顔負けの『桐の湯』店主、桐野すみれである。朱里は足を拭いながら首を振った。

「いえ、桐野のばあちゃん一人だと大変でしょう」

「あん?」

「大丈夫、ですよ!」

 聞き返されたので耳元で簡潔に叫び直すと、呼応するようにポメラニアンがギャン鳴きする。飼い主の耳が遠い上に甘やかされて育ったらしく、半端なくやかましい。

 桐野はしばらく口をモゴモゴさせた後、「あーそーかい!」と納得し、吼え続ける愛犬を引きつれて店の奥へ戻っていった。鼓膜が疲れる雇い主だ。

 少し電車に乗って都内に出ればおしゃれなスパがあるような立地だ、いくら学生街とはいえ、若い客は少ない。常連の爺さんが番台に撒き散らした小銭を集めていると、スーツ姿の男が暖簾をくぐり、店内に入ってきた。珍しく若い客だと思っていると、男は店の奥を覗きこみながら呆れたように呟く。

「やあ、頑張ってるね。しかし相変わらず、ポリーのおっさんはやかましいなあ」

 どこか聞き覚えのある間延びした声に、朱里は眉根を寄せる。スーツの男をよくよく見てみると、高羽だった。今までどてら姿で判別していたので、全く分からなかった。朱里は眉根を寄せ、高羽の視線を追う。

「……ポリーのおっさん?」

「あのポメラニアンだよ。あいつ、リボンなんかしてるけど正真正銘十歳のオスで、若い女性客が来るとやけに興奮して脱衣所を駆け回る立派なスケベ親父だから、朱里ちゃんも気を付けなよ。ここに若い女性客なんか、滅多に来ないんだけどね」

 どうでもいい情報に生返事をして、朱里は高羽に向き直った。こう見るとその辺にウヨウヨいる量産型のサラリーマンで、無個性ぶりに拍車がかかっている。流石に仕事先でもどてらはないのだろう。

「どうも。高羽さんも、ちゃんとスーツ着るんですね。仕事帰りですか?」

「そう、朱里ちゃんに伝言があってさ。毎度のことなんだけど、アパートの給湯器が壊れちゃってね」

「給湯器って……私の部屋のですか?」

「いや、凍結したらしくて全滅。全室日陰にある屋外給湯器で、半端なく古い型だから仕方ないんだよ。冬場にはよくあることだね」

「どれだけ脆いんですか、あのアパート……」

 やはり、早急にリノベに着手するのが正しい判断だ。先が思いやられる生活である。

「だから、バイトが終わったらそのままここでお風呂入ってきちゃったほうがいいよ。俺はこれから知り合いの見舞いに行って、二日ぐらい留守にするから」

「はあ、わざわざありがとうございます」

 素直に頭を下げる。二日も空けると言うことは、遠方に入院している知人でもいるのだろうか。全体的に胡散臭い男だが、色々と気にかけてくれているようである。そういえばこの男、音信不通状態の実兄と同じ年ぐらいだな、と漠然と思う。

「それから、これ」

 と、高羽はいかにもついでのように、ポストカードほどの大きさの紙を番台に置いた。眉根を寄せて手に取ると、それは一枚の写真だった。

 モノクロでプリントされているが、明暗がはっきりしており、もともと白と黒だけで構成された光景なのではないかと思わせる。映っているのは、錆びた鉄格子。そして右端の柵には、動物の小さな前脚がかかっている。前脚以外の姿は写っていないが、おそらく猫ぐらいの大きさだろう。ピントは前脚にだけ合っていて、左側の鉄柵は滲んだようにぼけている。

 ただそれだけの、不穏な写真だ。一体何を暗示しているのかも分からない。不気味さすら覚え、朱里は喉の奥で呻く。

「……なんですか、これ?」

「篠倉さんが撮った写真だよ」

 平然と返されたその言葉に、朱里は顔を跳ね上げた。高羽は給湯器が壊れたという報告と全く変わらない口調で、淡々と続ける。

「彼女が所属していたゼミの教授から貰ったんだ。タイトルは『CAGE』。卒業制作作品で、昨年度の最優秀賞を取っている」

「優秀な生徒だったんですね……これはどういう写真なんですか?」

 写真の芸術性など朱里には分からないが、何がしかの闇を感じると言うか、引きこもりの片鱗が見える作品でもある……先入観で判断して申し訳ないが。

「どうやら彼女は、将来有望な動物写真家の卵だったらしいね。父親が獣医師で、小さい時から動物に興味があったみたいだ。この卒業制作は、保健所で撮影したんだそうだ。動物保護の運動とかにも参加してたみたいだよ」

 なるほど。つまり殺処分されようとしている猫を表現したということか。猫の姿ではなく、鉄格子にかけられた前脚だけというのが寂寥感と無力感を示している。

「あと、教授から一つ気になることを聞いたよ。篠倉さんは卒業後半年ぐらいしてから、急にこの最優秀賞を取り下げてほしいと言ってきたそうだ」

「卒業後半年って……もしかして、アパートに引きこもり始めた頃ですか?」

 高羽の言葉に朱里が聞き返すと、彼は頷いた。

「そうだね。賞の取り消しは受理されなかったけど、篠倉さんの希望で大学のサイトに上がっていたこの写真は削除されている。その理由は、教授も分からないと言っていた。後の情報は、俺たちが知っていることとそう変わらない。賞の取り下げの連絡と同時期にアシスタントの仕事を辞めて、外出すら滅多にしなくなったらしい」

 朱里は高羽の言葉を耳に入れながら、モノクロの暗い写真を見つめた。弱々しい動物の気配だけしか伝わってこない風景からは、何も読み取れない。

「まあ、俺が聞けたのはそれぐらいかな。後のことは朱里ちゃんに任せるよ」

「いえ、十分です……ありがとうございます」

 なんやかんやで協力してくれた高羽に、朱里は頭を下げた。男はひらひらと手を振りながら暖簾をくぐって外へ出て行く。まあ、彼とてすぐに給湯器が壊れるようなアパートより、リノベ後の部屋に早く住み替えたいのだろう。

 高羽と入れ替わりで客が入ってきたので、朱里は慌てて写真をポケットにねじこんだ。やはり常連らしいお喋りなおばちゃんは、見慣れない朱里に興味津々といった様子で話しかけてくる。それを上手いこと流しながら、朱里は胸中で決意を固める。

 なんにしても、篠倉と直接話すことが先決だ……そしてどんな理由があろうと家賃の徴収と、アパートからの退去を要請せねばなるまい、と。


 朱里がアパートに越してきて四日目。

 篠倉は、一向に姿を見せない。毎日のように《キャパ》のベランダには米が撒かれているので人がいるのは確かなようだが、篠倉などとっくにおらず、代わりに妖怪米撒き女でも棲みついているのではないだろうか。

 午前九時半。今日も朱里は自分の部屋を出て、《キャパ》の前に立った。ノックは怯えさせるだけなので、初日の一回だけにとどめている。そして、《キャパ》の屋外給湯器にも『修理中』の札が貼ってあることを確認し、朱里は『桐の湯』に向かった。

 朱里の清掃技術は早々に評価され、桐野もご満悦である。気に入られ過ぎて、全面的に番台まで任される始末だ。大体顔ぶれの決まった地元の年配客が出て行くのを見送っていると、奥から拡声器でも搭載しているような桐野の声が響く。

「あんたはまあ、よう働くねえ! 家の風呂は、まだ直んないのかい!」

「そうなんですよ。ですから、今日も最後に入らせてもらいますんで」

「あん?」

「今日も! 入って帰るよ!」

 桐野の耳元で声を張り上げると、負けじとポリーも騒ぐ。男湯には数人の客がいるが、全員耳が遠いご老人の常連なので、こちらの騒ぎなど一切気にしていない。

 どうやら『桐の湯』は主に桐野の娘夫婦が営んでいるらしいのだが、法事で二週間店を空けなければならず、朱里が派遣されてきた次第らしい。たったこれだけのことを桐野の断片的な会話から推測するのに、数日もかかってしまった。

 客が来ないのは楽なのだが、これで経営は大丈夫なのだろうか。コロコロでポリーのおっさんが散らかした毛を掃除し、番台に上がったその時だった。

 音もなく暖簾をくぐり、小柄な女性が入ってきた。ダウンジャケットのフードを目深に被り、マスクをしているので顔までは窺えないが、『桐の湯』では珍しい若い女性だ。彼女は俯いたまま入浴料を番台に置き、脱衣所を見回している。閉店間近なので、女湯に客の姿はもうない。

 朱里は平静を装いながら、端の方でもそもそと服を脱ぐ女性を一瞥した。ボブカットの黒髪に色白の肌。町ですれ違ってもあまり印象に残らなそうな風貌だが、窓越しに一瞬だけ遭遇した一号室の女性と、特徴は一致している……気がする。

 高速で大浴場に向かう白い背を見送り、番台の上で腕を組む。篠倉もうら若き乙女。冬場とはいえ、さすがに三日入浴できないのはきついだろう。天性の引きこもりならともかく、半年前までは普通に生活していた娘だ。今日あたりここに来る可能性が高いとは踏んでいたのだが、どう声をかけるべきか。

 考えあぐねていると、予想以上に篠倉が出てくるのが早かった。五分も経っていない、まさに烏の行水だ。さらに髪も乾かさず、ものすごいスピードで着替えを済ませる。最低限の汚れだけ落としに来たらしい。

「……篠倉花衣さん?」

 このチャンスを逃してはなるまい。朱里はダウンジャケットのフードを被り、足早に出て行こうとする女性に、そう声をかけた。

 すると彼女の肩が大きく震え、フードとマスクの僅かな隙間から、小動物のように怯えた目が覗く。朱里は胸中で、故障した給湯器に感謝した。人違いではないことを確認してから、朱里は怪しまれないように自己紹介から始める。

「私、森之宮芸大前アパート管理人の孫なんですけど……」

 が、朱里の言葉に被さるように、店の奥からポリーのギャン鳴きが店内中に響き渡った。滅多に来ない若い女の匂いを嗅ぎつけたのだろうか。

 その刹那だった、篠倉は脱兎のごとく店を飛びだした。朱里は虚を突かれて動きを止めたが、すぐに店の奥に向かって叫ぶ。

「待っ……桐野のばあちゃん! ちょっと私、外します!」

「あん?」

 まあ、聞こえないだろうとは思った。朱里は脱衣所の方に駆けこんでくるポリーにつまずきながら店の奥に駆け上がり、地蔵のように座布団に座った桐野の耳元で叫ぶ。

「今日は! もう帰ります!」

 バイトとしては無茶苦茶な宣言だが、桐野はあっさりと「はいな」と返して茶をすすっただけだった。今はその適当さに感謝しながら、朱里は暖簾をくぐって外に飛びだす。どこに行ったのだろうかと思うが、考えずとも答えは出た。引きこもりが逃げ帰る場所など、自分の家しかあるまい。

 レトロな外灯が柔らかい光を灯す表通りを曲がり、小走りでアパートの方へ向かう。すると闇の中を、もたもたと走る女性の姿が見えた。篠倉だ、妙に走るのが遅い。傍から見ると怪しい光景だと思いながらも、朱里は叫びながら篠倉と距離を詰める。

「篠倉さん、待ってください!」

 大家の孫と名乗ったのは失敗だったのかもしれないが、悠長にお友達から始めている暇はないのだ。篠倉は肩越しにこちらを振り向き、逃げ切れないことが分かったのだろう。急に足を止め、ポケットから財布を取りだした。目の前で足を止めた朱里に向かって、千円札を突きだす。

「こ、これが私の全財産です……! 勘弁してください、大家さん……」

 切れかけて瞬く街灯の下で、篠倉は俯いたまま小柄な体を縮こまらせた。すぐ横を過ぎ去っていく自転車の男が、朱里に怪訝そうな顔を向けるのが分かった。確かにこれでは、完全なカツアゲの現場である。

「し、白井のおじいさんが、お家賃はいつでもいいよって言ってくれて……それに甘えちゃって……本当にごめんなさい……勘弁してください……許してください……」

「あの、篠倉さん、落ち着いてください」

 最初は無理にでも家賃を徴収してやろうという気概だったが、これではこちらが悪者のようではないか。しかし篠倉は朱里の声など届いていないように、ぶつぶつと独り言を呟いている。

「どうしよう……そろそろ貯金もなくなるし……あとはもう、カメラを売るしか……」

「それは駄目! 一番駄目ですから!」

 なんだか今、大事なものを売り飛ばそうしていなかったか。思わず声をあげる朱里に、篠倉はすがるような視線を向ける。

「そしたらもう、内臓しか売るものがないです……風俗だけは勘弁してください……」

 借金取りを通り越し、もはや女衒扱いだ。今にも道路に這いつくばりそうな篠倉の肩に手をかけ、朱里はゆっくりと口を開く。

「ええと……篠倉さん。祖父も私も心配してるんです。お仕事も辞められて、あまり外にも出ていないって聞いたもので……」

 確かに当初は家賃の取立てと部屋の退去のことしか頭になかったが、この状況は一人の人間として心配である。去年大学を卒業したということは、自分と歳もそう変わらないはずだ。顔を上げようとしない篠倉に、殊更明るい口調で続ける。

「せめてバイトしてみるとか……私もそこの喫茶店で、銭湯のバイトを紹介してもらったんです。食事は美味しいんですけど、すっごく不味いコーヒーを出す……行ったことあります? あっ、篠倉さんは四年間もそこの芸大に通ってたんだから、もちろん知ってますよね。私、ここに越してきたばかりで。今度、案内してくださいよ……」

 間断なく喋り続けるが、俯いた篠倉の反応はない。その場の空気がどんよりと曇ってくるようだ。もはや、コミュニケーションの入り口から躓いている。

 寒空の下、朱里は頭をフル回転させる。こういう時は、相手の興味がある話題を振った方がいい。とはいえ自分が把握している篠倉の個人情報などたかが知れている。写真のことなど、全然分からない。後は……

 逡巡していると、道の向こうに光る二つの目が見えた。思わずぎょっとするが、よく見ると夜闇にまぎれたツチノコ……ではなく、巨大なハチワレ猫だった。あんなに膨れた猫など、この近所に二匹といるまい。

「あっ、アパートに住んでるデブ猫! 篠倉さん、確か動物お好きでしたよね!」

 会話の糸口を見つけ、夜の散歩中らしいデブ猫を示す。動物写真家を目指しているというなら、猫も好きだろう。いきなり大声をかけられてもデブ猫は逃げることもなく、あまつさえ餌でも貰えると思ったのか、のしのしと二人に近寄ってきた、その時。

 今までうなだれたまま動かなかった篠倉が、弾かれたように顔を上げた。デブ猫に対して明らかな怯えの表情を見せた瞬間、急にアパートの方へ駆けだしてしまう。

「ちょっ……篠倉さん?」

 朱里は呆然と口を開けた。走れば先程と同じく追いつくことは可能だったはずだが、それよりも疑問の方が先に立った。朱里の足元にすり寄ってくるデブ猫を見下ろす。

 篠倉は今、明らかにデブ猫に怯えて逃げていった。先程銭湯から飛びだしたのは、朱里が家賃の徴収に来たと思ったからだろうが……いや、思い返せばあの時、篠倉はポリーの吼え声の方に反応していたのではないか?

「あれ、今変な走り方で逃げてったの、もしかして篠倉さん? 朱里ちゃん、もう彼女の懐に入りこんだなんて流石じゃないか」

 と、背後から急に間延びした声が響き、朱里は顔をしかめて振り向いた。真っ暗な闇の中に、どてらの男がぬっと立っている。コンビニのビニール袋を下げているので、買い物か何かの帰りだろう。実に神出鬼没な男だ。

「高羽さん、いつの間に帰ってきたんですか……」

「ついさっき。ほらガンちゃん、偉大なるガンダルヴァ四世よ。女子会の邪魔はやめたまえ、オスたちは共にお家に帰ろう」

「今のが女子会に見えますか……というか巨大ロボみたいな名前ですね、そのデブ猫」

「インドの芸術神らしいよ。数十年前の住人が拾ってきた猫に付けた名前でね。以来、アパートに入り浸る猫にはこの名前を付けるのが慣例なんだ。一世を拾ってきた名付け親はその後インド舞踊で大成功を遂げて、本場インドでは超有名人なんだってさ」

「はあ……って、猫の名前はどうでもいいです。篠倉さんが……」

 顔を跳ね上げるが、既に篠倉の背中は見えなくなっていた。姿が確認できたところで、一度ならず二度までも追いかけるのは流石に良心がとがめる。朱里は深々と溜息をつき、アパートに向かって歩き始めた。その後ろを、高羽とデブ猫がついてくる。

「で、篠倉さんはどうしたの?」

「銭湯で声かけて、一度逃走されたところを捕まえたんです。そしたら次は、このデブ猫に怯えた様子で逃げていきました。彼女、この猫と過去に何かあったんですか?」

「うーん、俺も別にガンちゃんの飼い主って訳じゃないし、分からないなあ」

 足元のデブ猫も「ぶおー」と不服そうに鳴いている。アパートの前にたどり着くと、《キャパ》の電気が点いてるのが見えた。どうやら無事に逃げ帰ったようだ。

「まあ、一応コンタクトは取れたみたいで良かったじゃないか。じゃあ、これ夜食。女子会の続きで食べてよ」

 まだ会話すら成立していないと苦々しく思いながら高羽を振り返ると、またも彼はデリシャス棒を二本差しだしてきた。今度はバーベキュー味だ。義務的に受け取ると、高羽はデブ猫を引きつれて階段の方へ踵を返した。多分、あのコンビニの袋の中に猫缶でも入っているのだろう。

 朱里はデリシャス棒を所在なく弄びながら、《キャパ》の前に立った。ここで引き返したらまた一からやり直しのような気がして、小さくノックする。

 すると、予想外なことに扉が細く開いた。チェーンをかけたまま、しかも開けたのは数センチという状況だが、無視されるよりは格段にマシだ。慌てて口を開く。

「あの、篠倉さん……ガンダーラ三世は、八号室の高羽さんに引き取らせたんで……」

「……ガンダルヴァ四世です……」

 消え入りそうな声で、冷静に訂正される。しかしこの様子では、本当に篠倉は深刻な状況なのかもしれない。精神的なものに関しては朱里が慮れる領域ではないし、こちらの行動で状況を悪化させてしまったかもしれないと自己嫌悪に陥る。

「ごめんなさい、お節介でしたね……とりあえず、何かあったら相談してください。私は三号室なんで」

 これ以上は、下手に追及しない方がいいだろう。今日のところは家賃の話は出さず、朱里は高羽から貰ったデリシャス棒を一本隙間から差し入れた。妙な沈黙の後、音もなく篠倉がそれを受け取る。寂しいことこの上ない女子会だ。

 朱里は踵を返す。その一瞬、ドアの隙間から強い視線を感じた気がしたが、すぐに扉を閉める音が聞こえてきた。寒さに身を震わせながら、朱里はふと思う。今向けられた視線は、まるで対象を観察する、カメラレンズのようだったな、と。