ミナミコアリクイが、地面にせっせとビスケットを置いていく――。

 その店の名前を初めて目にしたとき、私はそんな光景を思い浮かべた。


 有久井印房


 瀟洒と表現したくなる、赤いレンガの店舗物件。店先にはちょこんと緑のオーニング――一般的に言えば「日よけ」が張りだしていて、件の五文字が白く染め抜かれている。おそらくは店主が「うくいさん」なのだろうけれど、一番しっくりくる読みかたは「ありくいいんぼう」だ。

 以前、こんな話を聞いたことがある。

 あるところに朝が弱い学生がいた。彼は少しでも朝寝坊したいため、通学に使うバス停を毎日少しずつ自宅へ近づけた。そうしてまんまと自宅前までバス停を運んだところ、毎朝家の前でバスを待つ女子高生が騒ぐため、かえって早起きするはめになったというオチ。

 きっと「アリクイの陰謀」もそれに似ている。アリクイも一日の半分を寝て過ごすため、蟻塚から自分の寝床までアリを導こうとするに違いない。しかし寝ている隙にビスケットを取られてはたまらないと、結局夜通し見張ってしまうのだ。

 そうしてアリがやってきた頃には、アリクイは幸せな夢の中――。

 信号待ちで「有久井印房」を見かけるたび、私はそんな子どもっぽい空想にふけっている。きっとこういうのを、現実逃避と言うのだろう。

 私は小さく首を振り、フラットシューズのかかとを軽く浮かせた。

 現実の私は江田真夜三十歳。仕事はオフィスビル賃貸の営業職。お客さんの業績がよければ事業拡大を説いて大きな事務所へ、業績が悪ければ経費節減を提案して小さな事務所へ。そんな引っ越しうながし業を、いつの間にやらもう八年。

 三十代は働き盛りとも言えるけれど、肉体的には無理が利かなくなってくる年齢でもあるという。それゆえ自分の将来に迷いを覚え始める年頃らしい。

 実際、歳の近い女子社員は婚活に本腰を入れだした。

 営業の仲間たちも、よりよい環境を求めて会社に内緒の面接で忙しい。

 三十歳は婚活でも転職でも「ラストチャンス」が始まる年齢で、先輩いわく「高校三年の夏休み並みに多感で騒がしい時期」――だそう。

 そう言われても私がピンとこないのは、現状に不満がないからだろう。

 もちろん仕事は楽じゃない。肉体的にも精神的にも、フルマラソンと同じくらいハードだ。でも営業は歩合がつくので、お金という見返りがある。それにじっと社内で座っているより、毎日くたくたになるまで外を歩くほうが自分の性に合っている。

 結婚もそう。学生以来まともな恋愛とは遠ざかっているけれど、実家暮らしゆえに独身の寂しさも感じない。そもそも休日にひとりで動物園に出かける私は、異性に癒やしを求めないタイプだ。

 まあ子どもは欲しい気がしないでもないけれど、その感覚は不思議と「結婚」の二文字と結びつかない。だってそういうのって、実際に「縁」があってから考えるべきことだと思うし。

「……ふう」

 小さく息を吐く。本当は、こういう自分に違和感を持つべきなのだろう。

 そう思ったきっかけは、会社の女子飲みで言われたこんなセリフだ。

『こんなブラックに片足突っ込んでる会社で、結婚も転職も考えず仕事に生きてる真夜はかっこいいよ、うん。そういう生き方ありだと思う、うん』

 そこに皮肉は込められていなかった。だからこそ、余計に心がざわついた。

 たとえるなら、『普段着でお越しください』という就職説明会に、私服で参加したあのときの感じ。うちの会社でまじめに働いている私は特異な存在だと、彼女の『うん』で初めて気づかされた。

 自分が仕事人間というつもりはない。いまの仕事が好きなだけだ。でもそれが「間違ってないけど正解じゃない」と言われると、やっぱりどこか不安になる。

 信号はまだ変わらない。

 私はふくらはぎのストレッチを続けつつ、もやもやした心から目をそらすように有久井印房を見た。

 店先にはチェックのクロスがかかった丸いテーブルがある。その上には小さな黒板が立てかけられていて、「本日の手作りケーキ」という文字が読み取れた。印刷された写真のサンプルは、おそらくミルフィーユだろう。

 いまから向かうクライアント――「カピバラ物流望口営業所」に通い始めて見つけたあのカフェに、私はまだ入ったことがない。

 というか、そもそもカフェかどうかも不明だ。

 道路をはさんだこちらからうかがえるのは、レンガ造りの建物と、おすすめメニューの黒板だけ。そのたたずまいはレトロなカフェにしか見えないけれど、店名がどうにも引っかかる。「印房」ってハンコ屋さんじゃなかったっけ?

 あ、こういうのはどうだろう。

 和風カフェには「○○茶房」という名前がよくあるけれど、チャイやラッシーも出すインド風茶房、略して「印房」という可能性だ。最近はシアトル系よりレトロな純喫茶風カフェが人気だというし、コンセプトとしてはありだと思う。

 なんてことを考えていたら、急に甘いものを食べたくなった。

 というより、全身が甘味を欲している気がする。

 日頃の私は川沙希内のオフィスビル賃貸を担当しているけれど、カピバラ物流が求めた物件は倉庫だった。おかげでこの一週間は港湾地区への長距離移動と、時間のかかる巨大な倉庫の下見で、毎日ぐったりしている。帰宅してドアに鍵を差し込んでも開かず、なぜかと手元を見たらSuicaだったりするくらい、へろへろ。

 でも疲労困憊な日々も今日まで。あとは契約書へハンコを押してもらえれば、私がカピバラ物流に通うこともなくなる。

 逆に言えば、有久井印房を訪れるなら今日が最後のチャンスということだ。

 この一週間、私はがんばった。甘ったるいチャイを飲みながら、ホームメイドのケーキを食べるくらいのごほうびはあげたっていい。

 いや、あげるべきだ。最近もやもやしているし、たまには気分転換しないとね。

 ようやく信号が青に変わる。

 私はささやかな野望を胸に、客先のビルへと足早に向かった。


「以上で契約手続きは完了です。なにかご不明な点がありましたら、いままで通り江田までご連絡ください」

 カピバラ物流の会議室で、私の隣の根津が言った。

 不動産契約の最終段階は、宅建資格を持つものが顧客に対して重要事項説明、略して重説を行わなければならない。早い話が契約書の読み合わせだ。

 根津は契約書の作成と重説、そしてなにより大事な仲介手数料の集金を行う契約管理課の人間で、先ほどビル一階の受付で合流した。

「江田真夜さんには本当にあちこち歩きまわっていただき、いい物件を紹介していただきました。根津さんの部下は実に優秀ですね」

 ほがらかに笑うカピバラ物流の所長。その言葉を受け、根津が苦笑する。

「いえ、私は課長代理ですが、江田の直接の上司というわけではありません。なにしろ同期入社ですしね」

 眼鏡の奥で根津がちらりとこちらを見た。そこに勝ち誇るような気配がある。

 人の出入りが激しいこの業界で、同期はほとんど戦友と言っていい。にもかかわらず、私が根津と客先で待ち合わせたのは、この男が苦手だからだ。

 知的な印象を受ける銀縁メガネ。清潔感のあるクレリックカラーシャツ。背は私より頭ひとつ高く、肩幅は広くもないけど華奢でもない。今期ドラマの主役に似たこざっぱりした顔立ちで、いまも嫌味のない笑顔で談話に興じている。

 見てくれだけなら根津は好男子と呼んでも差し支えない。しかしその性格がとにかく鼻につく。なにしろクライアントの勘違いを訂正するのに、わざわざ自分の役職をひけらかす底意地の悪さだ。事務職のくせに、「営業ってのはなあ」と後輩たちに説教している姿もよく見かける。

 ひとことで言えば、根津は「なにかとうっとうしい男」だ。

 ただ、同期のよしみでフォローするなら、根津も研修時代は熱っぽく夢を語る青年だった。役がついてから性根がひん曲がったのは間違いない。

 そんなわけで、「むげにもできないけれど、できる限り一緒にいたくない男」というのが、現在の根津に対する私の評価だった。

「江田は昔から愚直で不器用です。でも私にはそういうところが――」

「根津代理、そろそろお昼ですから」

 これ以上当て馬扱いされてたまるかと、私は強引に雑談を打ち切らせた。

「おお、もうそんな時間ですか。よろしければ、根津さんも江田真夜さんも、ご一緒に昼食をどうです?」

「ありがとうございます。しかし社のほうでランチセッションがありますので」

 もちろんそんな予定はない。片足ブラック企業にあるのは、せいぜい二十一時のカップ麺ミーティングだけだ。

 その後の見送りも丁寧に断り、私は足早に会議室を辞去する。

 無人のエレベーターに乗ったところで、隣の根津がふっと鼻で笑った。

「タダ飯の誘いを断るとは、さすが稼ぎ頭は違うな」

 自分だけなら受けてたよと、私は心で舌を出す。

「仲介手数料は賃料一ヶ月分だから百万の売り上げ。江田の給料にはその十パーの十万が歩合で上乗せ。まったくうらやましい話だな。帰りになにかおごってくれよ」

「稼ぎたかったら、根津くんも営業やれば?」

 歩合、ボーナス、社長賞。それらは必死に働いた人間への報酬であるのに、他人はまるであぶく銭かのようにやっかんでくる。私がギリギリフォーマルなぺたんこ靴を毎月買い足す理由を、根津は知りもしない。

「異動願いは出してるさ。お局課長が読まずにシュレッダーにかけてるんだよ」

「眉目秀麗な部下を手放したくないんでしょ。いっそのこと、結婚して家庭でもサポートしてあげたら?」

「……へえ。江田もそういうのを意識する年頃か」

 根津がやや間を置いて反応した。階数表示を見上げる横顔の目だけが、ちらとこちらに向く。

 しかし余計な勘繰りをされる前に、エレベーターが一階に着いてくれた。根津を置き去りにするつもりで素早く外へ出る。

「おい江田。なにイライラしてんだよ。残り少ない同期なんだから仲よくしようぜ」

「別に険悪にしてるつもりはないけど」

 親密にするつもりもないのは、顔を見られたらバレるだろう。

「あのなぁ。俺は江田のことを心配してるんだよ。おまえみたいに金だけ持ってる彼氏いない歴六年なんて、結婚詐欺師の格好の餌食だろ?」

 うざっと、喉まで出かかった言葉を飲み込む。うちがちゃんとした会社だったら即セクハラ認定できるのに。というか、なんで私の「いない歴」知ってるわけ?

「だからさ、俺が相談に乗ってやるよ」

「相談? なんの?」

「色々だよ。無駄な貯金の優良な投資先とか、男の見分け方とかさ。とりあえず、おまえのおごりで昼飯でも食いながら――」

 耐え切れず、振り返った。

「余計なお世話よ。投資先にはマンションを買うつもり。ついでに男の見分け方を知っているから、私はひとりでいるってわからない?」

 この大見得切りの返しには、ちょっとした理由がある。

 先日、友人と横浜のグルメフェスに遊びに行った際、琴葉野彩華というダジャレみたいな芸名の占い師に観てもらったのだ。

『結婚願望がないのに子どもだけ欲しいタイプ。あなた、男がみんな子どもに見えるでしょう? 下に見ているんじゃなく、どう接していいかわからないのよね。だから甘やかすだけ甘やかして相手をダメにする。あなたにとっての子どもは、理解できないものの象徴よ』

 軽いノリで観てもらったら、占い師の鑑定は恐ろしく当たっていた。少ない恋愛経験を振り返って、思い当たるあれこれで口の中がじわっと苦くなる。

『仕事はこの先も順調よ。お金、結構貯めたわね。またダメ男に貢いじゃう前に、マンション買っときなさい』

 そのときは友人たちの手前、「アドバイスが的確すぎて逆につらい」なんて肩を落としてみせた。ただ助言の後半は的を射ている気がしたので、こっそり投資先の情報を集めてもいたのだ。

「は? マンションだって? おまえ不動産屋のくせに、よくそんなもの買おうと思うな。あんなの購入金額以上で売れることのない負債だぞ」

 マンションを人に貸せば家賃収入を得られる。売価が思ったように上がらなければ自分で住めばいい。業者はそんなトークでたたみかけてくるけれど、現実はそれほど甘くない。そんなことは百も承知だ。

「不動産屋だから買うんだよ。私には物件を見る目がある。ずっとデスクワークの根津くんと違って、毎日何十棟も下見してるからね。誰もが地価や立地だけで売買契約をするわけじゃないって知ってる?」

 口元には笑みを保っていたけれど、目には嘲りが浮かんでいたかもしれない。

 しかしそんな私を見て、根津は例のごとくに鼻で笑った。

「いいだろう。そこまで言うんなら買ってみればいい」

「あとで吠え面かくなよって言わないの?」

「もうかいてるからな。江田、おまえ実印持ってないだろ?」

「え、実印?」

 いきなり飛び出たその単語に、思わずきょとんとしてしまう。

「ほらみろ。不動産の売買契約には、慣例的に実印が必要なんだよ。実印ってわかるか? おまえがいつもぽんぽん押してる認め印じゃない。銀行口座を開くのに使った銀行印でもない。きちんと役所に登録して、印鑑証明を発行できるハンコだ」

「そんなの、いま持ってるハンコを登録すればいいだけでしょ」

「バカだな。おまえの姓は見るからに偽造しやすそうな『江田』だぞ。賃貸借契約と違って、おまえの立場は『買い主』になる。投資ローンを組むなら購入予定物件がそのまま担保、つまり抵当に入るわけだ。これに百均で売ってるようなハンコで押印してみろ。知らんうちに登記変更されてたなんてザラだぞ」

 思わずうっとたじろいだ。それと似たような話を、朝礼で配布された新聞のコピーで読んだ記憶がある。

「そもそも著しく字体が似た印鑑、つまり三文判は偽造防止の観点から実印登録できないことが多い。おまえが社内文書の回覧で押してるあれなんかまず無理だ」

「こ、これから作ろうと思ってたし」

「へえ。じゃあ名前をどうするか決めたのか?」

「名前? 江田じゃないの?」

「結婚して姓が変わったら印鑑登録はやり直しだ。だから女は下の名前だけで実印を作ったりするんだよ」

 頭の中で「真夜」だけの印鑑を思い浮かべた。姓と比べて個性がある気もするけれど、名前だけのハンコはスタンプ的というか……ちょっと子どもっぽい。

「江田はそういうこと全然知らないだろ。だから教えてやるって言ってるんだ。まあ今回も俺のおごりでいいから、とりあえず飯でも食おうぜ」

 そこで根津はふっと表情を緩めた。休戦だ、とでも言いたげに。

 確かに私はなにも知らない。加えて根津は仕事柄かハンコに詳しい。いまから一緒に食事をすれば、嫌味と一緒に有益な情報をたっぷり得られるだろう。

「ごめん。行くとこあるから」

 私はくるりと踵を返し、駅へ向かって歩きだした。

「おい、どこ行くんだよ。昼休みに相手してくれる会社なんてどこにもないぞ」

「物件の下見だよ。愚直な営業は、悠長にお昼食べてる時間なんてないの」

 駅からの距離を実測し、ビル外観の写真を撮り、入れ替わりの激しい他テナントを把握して、図面と異なる現況を確認する。

 歩いて歩いて歩いて歩いて、毎月靴を履きつぶす。

 そうした見えない努力が数字につながるのがオフィスビル賃貸の営業であり、私が愛している仕事だ。

「ついでに、私は課長代理さまにおごってもらったことなんてないから」

 じゃあねと背中で手を振って、たったと靴音を鳴らす。

 根津がついてくる気配はない。

 それでも念のために大通りを避け、路地に入って何度か道を曲がった。

 雑居ビルの非常階段の陰で待ち、根津が駅へ着いたであろう頃を見計らって再び歩きだす。

 もちろん仕事をする気はさらさらない。でも行くべき場所があるのは本当だ。

「いざ、有久井印房へ」

 このとき私の頭の中ではすでに、両手にミルフィーユを持ったアリクイがインドっぽいBGMで踊っていた。



 さてと念願の有久井印房にきたものの、私は店の前でためらっていた。

 というのも、入り口が真鍮製のノブがついたドアなのだ。窓はと見れば、これも大きな水玉模様が入っていて、中の様子がうかがえない。

 こうやってドアを開けて入るような店は、敷居の高さを感じてしまう。仕事がら強気な性格と思われがちだけれど、本来は物怖じするたちだ。

 そもそも仕事で物件の下見に余念がないのも、あらかじめなんでも知っておきたいからだし、趣味の動物園だって最初にざっと一周歩き、混み具合や動物の活動時間を把握してからゆっくりと二周目を楽しむ。私はいつもそうしている。

 だから、こういう店は尻込みしてしまうのだ。中に入ってもしヒンディー語で話しかけられたらと思うと、ほかの安全パイ的なカフェでお茶をにごしたくなる。

 そんな風に店の前で躊躇していると、ドアのほうがひとりでに開いた。

「うわあ」

 叫んだのは私ではなく、店から出てきた女の子だ。

 白いブラウスに黒スカート。見たところは十八歳くらいで、ぱっちり開いた大きな瞳と、黒髪のショートボブが活発な性格をうかがわせる少女。

「あー、びっくりしたなー。まさか人がいるだなんてー」

 女の子はほうきを持った手を胸に当て、大きく息を吐いた。セリフがやけに棒読みっぽく感じるのは気のせいだろうか。

「で、いらっしゃいませですか?」

 驚きで固まっている私を見て、女の子が不思議な日本語で尋ねてくる。

「え、ええ。たぶん」

「お食事ですか? ご印鑑ですか?」

 思わず「えっ」と聞き返した。女の子がにっこりと微笑む。

「ケーキやコーヒーなどの軽食を召し上がりますか? それとも象牙やチタンなどの印材を彫られますか?」

 いやちょっとなに言ってるんだこの子。

「ちなみに本日のケーキはミルフィーユです。店長のミルフィーユは甘さ控えめなんで、あまーいチャイによく合いますよ」

「あ、やっぱりチャイあるんだ」

 つられてつい言ってしまった。女の子が「はいっ」と元気よく笑う。

「じゃ、じゃあ、食事で」

「はーい。カウンターのお席にどうぞー」

 軽食と印材という謎の二択に不安を覚えつつも、私は女の子に続いて店に入った。

 コーヒーの香りがふわりと鼻をなでる。周りを見ると、店内にはドアと同じ落ち着いた色合いのテーブルが並んでいた。壁には白黒の風景写真や、泳ぐカモノハシの絵が飾られている。BGMはかすかな音量でインド歌謡……ではなく、ごく普通のJポップだった。たぶん有線放送だろう。

 思ったよりも普通の雰囲気だと安堵しつつ、案内された席に座る。

 しかしカウンターで顔を上げた瞬間、私は「ひっ」と息をのんだ。

 目線の先には天井まで届く木製の棚がある。中に重ねられているのは、カップやソーサー、それにティーポットといった白い茶器類。

 そんな茶と白の背景に溶け込んでいた「なにか」が、じっと私を見つめている。

「いらっしゃいませ」

 なにかが落ち着いた男の声を発し、再び「ひっ」と息をのむ。

 その瞳は黒くつぶらで、顔は細面というよりやや面長。身につけているこげ茶色のエプロンは、いかにもカフェのマスターといった風情がある。

 いや違う。これは模様だ。全身を覆うクリームがかった白い体毛に、まるでエプロンをしているような、茶の配色が施されているのだ。

 もしやと目をこらして見れば、「なにか」の鼻先は黒っぽく、指先にはこれまた黒い鉤爪が、しゅりんと反り返っている。

「あ、アリクイ!」

 ちょっと太めな気もするけれど、この生き物はどう見てもアリクイだ。それも世間一般がアリクイと聞いてイメージするオオアリクイではなく、私が朝から脳内でビスケットをばらまかせたり、インドっぽいダンスを踊らせていた、ふわふわかわいいミナミコアリクイだ。

「はい。店長の有久井です」

 なにか不備でもありましたかと、こちらを気づかうように見上げる黒目。

「どっ、どうも。私は江田と申します」

 職業的な条件反射で、自己紹介を返してしまう。するとアリクイはふっと表情を和らげ(そう見えたのだ)、カウンターにメニューを置いてくれた。

「では江田さま。ご注文が決まりましたらお呼びください」

 静かな声でそう言うと、アリクイの姿がしゅっと縮んだ。

 どうやらカウンターの向こうで台に乗っていたらしい。アリクイは背後の棚の前でまた台に乗ると、うんと背伸びしてカップに手を伸ばしている。ちょっとふらふらしているけれど、尻尾でバランスを取っているのか転げ落ちそうにはない。

 なんてじっくり見入ってしまったけれど、これはいったいどういうことか。なんでアリクイが人の言葉をしゃべって、カフェで働いているの?

 様々に考えた結果、私の頭に「ドッキリ」という単語が浮かぶ。

 ご時世のせいか、素人にいたずらを仕掛けてリアクションを楽しむ番組は減っている。しかし動画投稿サイトではいまだに人気のコンテンツだ。無駄に高度な技術で一般人を驚かし、再生数を稼ごうとする輩がいても不思議ではない。

 ならばとカメラを探して店内を見まわすと、さらに驚くべき生物がいた。

「カピバラっ!?」

 店の一番奥であるカウンターの端に、パソコンやプリンターが乗っている。その正面に座り、半分しか開いていないような目でマウスを操作しているのは、なんの冗談か、はしばみ色の大ネズミだった。

「かわいい……」

 鼻先をふくふく動かすげっ歯類の愛らしさに、思わず声が出る。

 すると異議ありとでも言うように、チーンとベルの音が鳴った。

 振り返ると奥のテーブル席にハトがいる。ハトはテーブルの上で、くるっく、くるっくと首を振りながら、一心不乱に古めかしいタイプライターをつついていた。

 さっきの音は、打鍵者に改行間近であることを報せるベルだったらしい。

「なんだハトか」

 私は再びカピバラのほうを向き、ふくふくしている鼻先に見とれた。

 そして見とれつつも、「いやハトが文章を書くのはやっぱりおかしいんじゃ……」と、頭の隅に疑念がわいてくる。というか絶対におかしい。

「ケーキセットは六百八十円ですよ。お飲み物はチャイにもできます」

 混乱する私の前に、ことりと水のコップが置かれた。この店で唯一自分以外の人間である、ウェイトレスの女の子が微笑んでいる。

「あの、この店なんなんですか?」

 恐る恐る尋ねると、女の子は「ご覧の通りです」とメニューを指さした。

 コーヒー、紅茶、レモンスカッシュのような飲み物に、ナポリタンやミックスサンドといった軽食が並ぶレトロなラインナップ。

 しかしページを一枚めくると、黒水牛やチタンといった素材と、その価格が表記されていた。ほかに歴史の教科書で見るような、ハンコの字体も掲載されている。

「有久井印房はオーダーメイドのハンコ屋さんです。でもそれだけだと経営が成り立たないので、甘いものでお客さんを釣ってるんですよ」

 女の子は身も蓋もないことを笑顔で言ってのけた。いい性格をしている。

 さておき「印房」という名称は、従来通りの意味だったらしい。おかしな組み合わせの業態だけれど、それはひとまず許容範囲だ。しかし問題はそこではない。

「そういうことじゃなくて、なんでこんなに動物がいるんですか?」

「動物?」

 女の子がきょとんとして小首をかしげる。

「だってアリクイが」

「店長ですか? 店長は料理上手でハンコ好きなおじさんですよ? 甘いものばっかり食べてるから、ちょっとふっくらですけど」

 確かにそんな感じがするけれど、別に店長の個性を聞きたかったわけではない。

「あっちにはカピバラもいるし」

「かぴおくんは職人さんです。主に名刺やスタンプのデザイン担当ですね。かぴおくん、気が向いたときにしかしゃべってくれないから、最初は『こっくりさん』で名前を聞きだしたんですよ」

 いやそんなおもしろエピソードを尋ねたわけではなく。

「ちなみに実家はお金持ちらしいです。ご一緒に玉の輿はいかがですか?」

 サイドメニューのように言われても困る。私にはカピバラ属にしか見えないし。

「そっちの隅にはハトも」

「あの人は……ええと、名前ど忘れしちゃったけど、常連の鳩なんとかさんです。小説を書く人らしいですよ。いっつもコーヒー一杯で粘られますけど、売れっ子になったら黒檀で実印を作るって、店長と約束してるそうです」

 だから、そういう「ちょっといい話」を求めているわけでもないのだ。

「ここがハンコ屋さんなのはわかりました。私が聞きたいのは、なぜみんな動物なのかってことです!」

 少々語気を強めて言うと、女の子は驚いたように目を丸くした。

「えっ、お客さんには、わたしが動物に見えるんですか?」

「あなたは……人間に見えるけど」

 そう言われると、自分のほうがおかしい気がしてしまう。

「なーんだ残念。自分がなにに見えるか聞いてみたかったのに。あ、すみません。ずっとしゃべってたら注文選べないですよね」

 女の子がくるりとこちらに背を向けた。邪魔はしませんという配慮らしい。

 しかしそれは逆効果だった。彼女のスカートのお尻には、薄茶色の丸い尻尾がひょこひょこ動いている。よく見ると、頭の横にもホーランドロップ種のようなウサギの耳がてろんと垂れていた。

 翻ってカウンターの中のアリクイを見る。その背中にファスナーはない。

 いや、アリクイにせよカピバラにせよ、毛並みは間違いなく本物のそれだ。動物園に通い慣れた私にはそれがわかる。

 しかし女の子の口ぶりからすると、彼らが動物に見えているのは私だけらしい。

 となれば、おかしいのは私自身ということになる。

 まさか自分がこれをやるとはと思いつつ、私は頬をつねった。

 痛い。でもアリクイはまだいる。これは夢じゃなくて幻覚? けどいままでそんなの見たことなかった。まさか三十歳を過ぎると幻覚を見るなんてこと――。

 あるかもしれない。思い返せば、今日の私は頭の中でアリクイにビスケットをばらまかせたり、インド歌謡で踊らせたりしていた。ここのところ忙しくて動物園にも行けていない。脳と体が休息を求めるサインとして、こんな幻を見せている可能性はある。『肉体的に無理が利かない年齢』になった自覚が、私にはまだないから。

「お疲れでしたら、がっつり甘いものがおすすめですよー」

 迷っていると判断されたのか、ウサギの彼女がメニューのケーキセットを指さす。

 その通りだ。そもそも私がこの店にきたのは、甘いものを食べたかったからだ。すなわち私は疲れている。疲れているから幻覚を見る。

 あれこれ考えるのはあとにして、ここは初志を貫徹すべきだろう。

「じゃあ、本日のケーキセットで」

「オーダーでーす。ケーキセット、チャイでお願いしまーす」

 ウサギの女の子がカウンターに告げると、アリクイが「はい」と静かに応じた。

 やっぱりこれは妄想だと思う。もともとミナミコアリクイにエプロンのような模様があるから、脳が都合よくマスターを置き換えたのだろう。ウサギの彼女が半分人間であるのもそうだ。まるきりウサギの姿のままでは、水のコップも運べない。

 それならいまのうちに楽しんでおこうと、私は厨房のアリクイを眺めた。

 カウンターの内側をひょこひょこと行き来する、ふわふわとした生き物。本人はいたって真剣に働いているのだろうけれど、その仕草はどうにも人を和ませる。

「眼福……」

 世間の人々がアイドルを追いかけるのは、彼もしくは彼女の姿を見るだけで癒やしを得られるからだ。花や猫を愛でるのも同じく。

 私の場合は、コアリクイやカピバラのようなふわふわした生き物を見ると、すっと心が軽くなる。ああ、その全身ファーのような体をふぁさふぁさしてみたい――と。

「なにかおっしゃいましたか?」

 ふいに聞こえた男の声で、私は現実に引き戻された。うっかり伸ばしかけていた手も慌てて引っ込める。

「い、いえ、なんでもありません」

 あぶないところだった。こんなにふわふわしているけれど、本物の有久井さんはたぶん普通の中年男性だ。気をつけないと、『犯人の女(三十)は不動産会社に勤務しており、喫茶店の厨房内で作業する男性(四十一)の尻をなでて幸せそうに微笑んでいたとされ――』などと、必要以上に恥ずかしいニュースになってしまう。

「お待たせしました。手作りケーキセットです」

 爪の生えた指をくりっと丸め、アリクイ店長がケーキの皿をカウンターに置く。

 続けて、チャイ用のカップとティーポットが並んだ。

「すごい。本格的なんですね」

 チャイは茶葉を煮出して作るため、普通の紅茶よりも手間がかかる。ゆえに店によっては作り置きを温めたものだったり、単なる砂糖大盛りのミルクティーだったりしがちだ。

 しかし有久井印房のチャイはティーポットも本場同様の金属製で、しっかりと煮出していることがうかがえる。それでいてカップまで金属にしないこだわり具合は、かなり私の好みだ。

「江田さんは、インドに行かれたことがあるんですか?」

 アリクイ店長がカップに注いでくれたチャイが、ふわりと甘く香り立つ。

「学生の頃に一度だけ。ほとんど一文無しの貧乏旅行でしたけど」

 あれは卒業旅行というより、無計画な友人たちの引率役だった。私はガイドブックと首っ引きで、思いだすのは現地の景色よりも活字の記事ばかり。体よりも頭を使った旅で、疲れた脳にチャイの甘さがありがたかったのを覚えている。

「でしたら懐かしいかもしれませんね。インドの知人に習って同じ淹れ方をしていますので。茶葉も現地のものを分けてもらいました」

 それは朗報だと感じる一方、さびしくもあった。その理路整然とした会話で、やっぱりこの人はアリクイではなく有久井さんだと思い知ったから。

 なんだか名残惜しいので、心の中では「アリクイさん」と呼ぶことにしよう。

 私はひとりうなずきつつ、アリクイさんが入れてくれたチャイを一口をすすった。

「……おいしい」

 滑らかなミルクのコクと、舌が痺れそうなほどの暴力的な甘さ。そこにほどよい渋みを効かせる、茶葉の香ばしさ。自分の吐息から香る、再びの甘い匂い。

 これこそ疲れた体が求めていた甘味だ。あのしんどかった旅行でさえも、いまならほろ苦い青春の思い出のように感じられる。

「ごゆっくりお召し上がりください」

 アリクイさんが目礼して背を向けた。自然、ミルフィーユの皿に目がいく。

 近頃のデジカメくらいに小ぶりなケーキは、パイ生地の層が三段あった。

 間にはさまれたカスタードは厚みがおよそ一.五センチ。てっぺんには半切りにしたイチゴがひとつだけ乗っていて、全体的にホームメイドの素朴さがある。

 よしとパイ生地にフォークを当てた瞬間、私は違和感を覚えた。

 サクッとした感触がない。どちらかと言えば生地がしっとりとしている?

 そのままフォークを下ろしてみたけれど、カスタードもはみ出ないし、パイのかけらも飛び散らない。私の知っているミルフィーユとは違う。

 大丈夫かなと困惑しつつ、そろりとひと切れをほおばってみた。

「……もふっ」

 笑ってしまった。

「もふふっ」

 もぐもぐしながらニヤニヤしてしまった。

 ミルフィーユはある意味見た目通りのケーキというか、口の中に入れると、「パイ生地とカスタードを一緒に食べている」という食感になる。もちろんそれは悪いことではなく、ミルフィーユとはそういうケーキだ。最初から横倒しにして、一枚一枚パイの層を剥がして食べる人もいる。

 けれど有久井印房のミルフィーユは、口の中でもミルフィーユのままだった。しっとりしつつもサクサクした食感を残したパイ生地と、甘さは控えめだけれど濃厚なカスタードが、まさに渾然一体となって口の中でとろけていく。

 なんてことない素朴な味が頼もしい。私はこういうのが食べたかったんだと、体中がミルフィーユの来訪を歓迎していた。

「あの、お口に合わなかったでしょうか」

 にやける私に、アリクイさんが不安そうに尋ねてくる。

「いえ、すごくおいしいです。もふふ。このケーキって、アリクイさんが作ってるんですか?」

「ええ。毎朝ぼくがパイ生地をこねています」

 アリクイさんは人間だとわかっているけれど、いまの姿で一生懸命ケーキを作っていると想像するとやっぱりおかしい。もふ。

「おかわりお持ちしますか? ケーキはふたつ目から百円引きです」

 ウサギの彼女が空になった皿を見て微笑んでいる。これは頼むしかないだろう。でもランチ代わりにケーキをふたつは、女子のたしなみとしていかがなものか。

 などと思ったのは一瞬で、私は「お願いします」と即答していた。

 いまの私は女子ではなく、英気を養いにきた労働者だから。

「お待たせしました」

 アリクイさんのふさっとした手が、二個目のミルフィーユをカウンターに置く。

 すると、「店長、なにか忘れてませんか?」と、ウサギの女の子がじっとりした目で上司をたしなめた。

「あ、そうか。ごめん、宇佐ちゃん」

 アリクイさんが、ほとんどない肩を心持ちきゅっと丸める。

「すみません、江田さま。ただいま当店ではキャンペーンを行っておりまして、ケーキをふたつ以上ご注文いただいたお客さまには、印章彫刻を五パーセント引きにさせていただいているのですが……」

 すっかり忘却の彼方だったけれど、そう言えばここはハンコ屋さんだった。

「印章って、ハンコのことですよね? 私、ちょうど実印を作りたかったんです」

「実印ですか!」

 大きな蟻塚でも見つけたみたいに、アリクイさんの目がきらりと輝く。

「え、ええ。マンションの購入を検討しているんですけど、いまのハンコを実印にすると結婚してから面倒だぞと、面倒な同僚に脅されまして」

 カウンターを拭いていた宇佐ちゃんが、ぷっと笑ってくれた。

「なるほど。確かに姓が変わってしまうと、以前の印鑑登録を抹消してやり直す必要があります。うちでも女性には下の名前で作ることをお勧めしていますね」

「でも私、あ、名前は真夜で、真ん中の夜って書くんですけど」

「江田真夜さん……ですか。おいしそうですね」

 アリクイさんの目がきらと輝いた。これは本当によく言われる。多くの人は私のフルネームから、枝豆のサラダ、あるいはエビマヨの枝豆版を連想するらしい。

「す、すみません。マヨネーズが好きなもので」

 カウンターの端を爪でこりこりと削るアリクイさん。これは恥ずかしいときの仕草だろうか。貴重なものを見たかもしれない。

「いえいえ。名前を覚えてもらうのが仕事なので、そう思ってもらえるとうれしいです。実際フルネームで呼ばれることも多いですし」

 カピバラ物流の所長さんは、きっと私の隣にビールが見えている。

「だからというわけじゃないんですけど、名前だけのハンコって、ちょっと子どもっぽい印象があるんですよね」

「印章だけに」

 ぼそりと聞こえたつぶやきは、店主とは別の男の声だった。

 店内を振り返っても、そこにはカピバラとハトしかいない。どっちだ?

「なるほど。でも実際に印稿を見てみると、感じかたが違うかもしれませんよ」

 私がカピバラとハトの間で視線を往復させていると、アリクイさんが手元の紙にさらさらとなにかを書いた。実際にハンコっぽい字を見せてくれるらしい。

 でもどうなんだろう。会社のメールアドレスでも、@より前を下の名前で登録している女の子を見ると、やっぱり子どもっぽさを感じてしまう。苗字かぶりという理由があっても、私ならフルネームにするし。見た目は関係ないんじゃないかな。

「いかがでしょう。ポピュラーな印相体で、『真夜』と描いてみました。お名前だけでも姓のように見えますし、決して子どもっぽくない印影だと思います」

 午前中にカピバラ物流の所長さんが契約書に押したのと同じ、円の中にみっちりと詰まった葉脈のような文字。最初はまったく読めなかったけれど、辛抱強く見ていると、それが右から左に向けて「真夜」と書いてあるとわかった。

「横書き、なんですね」

「実印ですと、男性はフルネームで収まりのいい縦書き、女性はお名前のみで横書きというのがもっとも美しく見えます」

 確かにその印影には威厳があった。子どもっぽいどころか、こちらが気後れしてしまうくらい堂々と立派に見える。

「自分の名前なのに、なんだかかっこよく見えます」

「それは真夜さんがかっこいいからですよ。スーツ姿も似合ってるし、バリバリ働くキャリアウーマンって感じ」

 控えめな店長を援護したいのだろうけれど、宇佐ちゃんの露骨な持ち上げは少々むずがゆい。話題変更。

「その……偽造防止という点ではどうなんでしょうか」

「より偽造されにくいものをお求めなら、字体は『篆書体』もおすすめです」

 アリクイさんが再びさらさらと印稿を描く。先ほどの印相体と似たような雰囲気だけれど、今度のものは『真夜』の字がハンコの縁についていないので読みやすい。しかし素人目には、むしろ偽造しやすそうに思えた。

「店長店長。わたし、この字体どっかで見た気がします」

「うん。宇佐ちゃんは毎日見てると思うよ。もちろん真夜さんも」

 はてと首をかしげたところで、アリクイさんが「お財布の中の……」と追加のヒントをくれた。

「あ、もしかして、お札に押されているハンコですか?」

 財布から一万円札を出して確かめる。おそらく同じ字体だ。

「ご名答です。お札の表には篆書体で『総裁之印』、裏には『発券局長』と書かれています。印章の起源と言える書体ですね」

 技術的なことはわからないけれど、日本銀行券に押されているとなれば、偽造の面での心配はなさそうだ。

「お金と言えば、代金はおいくらくらいなんでしょう?」

「印材の値段にもよりますが、うちは手彫りなので一番安いもので五千円からになります。実印ですと相場は一万円から三万円くらいと幅が広めで……」

 アリクイさんは申し訳なさそうにしているけれど、思ったよりもずっと安いと感じた。職人の手彫りと聞くと、もう少し高くてもいい気がする。ケーキセットだってもっと高くするべきだ。こんなにおいしいのだから。

「こちらが印材のサンプルです。楓や黒檀といった木材の場合は、基本的に家具と同じです。耐久性にやや難がありますが、そのぶん経年の味わいを楽しめます。チタンやクロムはとにかく頑丈で、男性に人気ですね。象牙や牛角のような角牙素材は、年配のかたがよくお求めになられます」

 直方体のサンプルを見比べるのは意外や楽しかった。アリクイさんが短い手をふりふり熱弁するのが微笑ましいだけではなく、琥珀はまるで美麗なアクセサリーのようだし、象牙はほとんど「芋ようかん」で、見ていてなかなか飽きがこない。

 しかし悲しいかな、労働者の昼休みはそろそろ終わりが近づいている。

「別の日にいらっしゃっても、五パーセント引きは有効ですので」

 結局、この日はメニューと同じものが印刷されたチラシを持ち帰ることにした。

 駅までの道を歩きながら、私は幸せを反芻する。

 ケーキはおいしい。ふわふわの店長もそこにいるだけで癒やしをくれる。もう望口にくる用事はなくなったけれど、有久井印房にはぜひまた行きたい。

 ただ、次はさすがにアリクイさんが普通の男性に見えてしまうだろう。私を癒やしてくれた店長の姿は、疲労が見せた一時の魔法にすぎない。

 そう思うと残念だけれど、実際おじさんだったら文字通り目をつぶればいいか。

 我ながらひどいと笑いつつ、私は午後の仕事を気分よくこなした。



 有久井印房で元気をもらってから、しばらくは普通の日々だった。

 私に変化が訪れたのは、三日後の仕事終わりのこと。

「江田、今夜は時間あるか?」

 いままで顔を見たら挨拶する程度だったのに、あの日以来、根津がやたらと話しかけてくる。内容は主に『ハンコは作ったのか?』、『早くハンコを作れ』。

 ああうざったいと適当に流していたら、昨日は飲みに誘われた。そこまでして私に助言をしてなんになるのか。誰かに自分の優位性を誇示しないと死ぬの?

「時間は……あると言えばあるし、ないと言えばないけど」

 要は気が乗らない。しかし残業を言い訳に断った昨日と違い、今日はこれといって追い返す理由がなかった。一応友だちに近い立場なので、あしらい加減が難しい。

「別に俺のことが嫌いでもいいから、一晩だけつきあえ」

 ここまで開き直られたらどうしようもなかった。渋々ふたりで会社を出る。

「お店、どこに行くの? この時間だと駅前混んでるよ」

「行けばわかるさ」

 根津は確固たる足取りで駅へと向かっている。

 こういうのはいたずらに不安をあおられるだけで、たとえサプライズのパーティだったとしてもうれしくない。私は事前になんでも知っていたい。おまけに誕生日が先月とくれば、余計にイライラするだけだ。

「飲みにいくのは構わないけど、私にダメ出しするのはやめてよね」

「ダメ出しじゃない。俺は江田を心配してやってるんだ」

 上から物を言う態度にまたカチンとくる。

「私は根津くんに心配されるような覚えはないけど」

「もう実印は作ったのか?」

「なんでいまその話? 根津くんに関係ないでしょ」

「まだなら早く作れ。実印を作ればすべてわかる。俺もそうだった」

 意味がわからない。完全に頭にきた。

「なんなのさっきから。根津くんは私の保護者にでもなったつもり?」

「いいや。江田は誰が見ても一人前の立派な大人だ」

「当たり前でしょ! 同期のよしみで私が怒らないからって、いいかげんにして!」

 根津が振り返った。その顔に、いつもの人を小馬鹿にしたような笑みがない。

「……同期のよしみ? それはこっちのセリフだ。戦友だから前もって言ってやろうと思ったが、俺が間違ってたみたいだな」

「前もってって……なんの話してるの?」

「もう関係ない。いまこの瞬間から俺とおまえは赤の他人だ。俺とおまえはまったくなんの関係もない、人生において出会わなかった人間だ。じゃあな」

 根津は捨てゼリフを吐き、ひとりで駅へと歩いていった。

 私は雑踏の中でぽかんと立ち尽くす。

 間を置いて怒りがこみ上げてきた。自分から誘ったくせになんなの? 『出会わなかった』とか意味わかんない。ああもう本当にうざったい!

 そこでふと視線を感じた。振り向くと、植え込みの陰でハトが首も振らずに、じいっとこちらを見つめている。

 腹立ちまぎれにきっとにらむと、ハトはまさしく豆鉄砲を食ったように、慌ててバサバサ飛び去っていった。


 明けて翌日。

 出社して席に着くやいなや、後輩女子の一寸ちゃんが駆け寄ってきた。一寸ちゃんはその名の通りに小柄な体で、私以上に営業向きの本名で得をしている子だ。

「真夜先輩! 管理課の根津さん、辞表出したそうですよ!」

 あまりのことに反応できずにいると、近場にいた先輩社員も寄ってきた。

「俺さ、根津が社長と話してるの聞いたんだけど、あいつ『ジョナサン不動産』へ行くらしいぞ。ガチ土下座でめちゃめちゃ謝ってた」

「ジョナサン不動産って、規模ちっちゃいけどライバル会社じゃないですか。真夜先輩は知ってたんですか?」

 慌ててぶんぶん首を振る。

「同期の江田が知らないとなると、あいつ誰にも言わなかったんだろうな」

 ありえる話だった。根津と親しかった人間はもうほとんどいない。

「うちの会社やばいかも。なんかまともな人、どんどん辞めてません?」

「まともじゃなくて悪かったな。だが根津が辞めたのは正直痛いぜ」

 驚きで声を出せない私をよそに、おしゃべり好きのふたりが話を続ける。

「イケメンだったから、女子の間に『根津ロス』が起こりますね」

「それは知らんが、根津って営業の面倒見よかっただろ? 売り上げ悪いとボロクソに言ってくるが、あとできっちりケアしてくるっつーか」

「あー。我が子を崖から突き落とすんだけど、あとで心配になって自分で降りて見にいく親ライオンみたいな?」

「そうそう。そんで飲みにいくと、『先輩が崖から落とされた十の理由』みたいなまわりくどい言いかたで、朝まで延々励ましてくれるんだよ。ああいうやつが会社からいなくなると、じわじわ数字も下がるぞ」

「わたしはお局課長のメンタルが心配ですよ」

 先輩と一寸ちゃんが去ったあとも、私はしばらく呆然としていた。

 寝耳に水というだけでなく、根津が会社を辞めた意味がわからない。

 同期の中でも早くから役職に就き、上司にも必要以上に好かれていた。私は知らなかったけれど、意外にも営業の同僚たちからは頼られている。もしも給与面で不満があるなら、いまより待遇の悪い会社へ行くのはおかしい。

 では、ほかの理由があるのだろうか。まさか最近しきりに誘ってきたのは、同期の私に転職の理由を話したかったから?

 だとしたら、ちょっと申し訳ないことをしてしまったかもしれない。

 気まずさを感じつつ、根津に電話をかけてみる。

「もしもし――」

 つながった瞬間、切れた。というか切られた。

 その後も折を見て何度かかけたものの、根津は電話に出る気がないらしい。メッセージを送っても既読スルー。やはり昨日のことに腹を立てているのだろう。

 私はうしろめたさを感じながら、粛々と仕事をこなした。日頃はいがみ合ってばかりでも、戦友が去ればそれなりに喪失感はある。

「根津さん、なんで会社やめちゃったんですかねー」

 帰り際に一寸ちゃんに言われ、私は言葉に詰まった。今日一日ずっと同じことを考えていたけれど、理由がまったく思い浮かばない。

「真夜先輩も、会社やめたりしますか?」

「私は……やめないかな。現状に不満もないし、結婚相手もいないし」

 冗談めかして答えたけれど、それは根津も同じだったと思う。

「先輩って、将来やりたいことがあるんですか?」

「将来って、老後とか?」

「うーん。もう少し目先のことというか。言葉は悪いですけど、結婚や転職の腰掛けで働いていた人は、ほかに『なりたい自分』があったってことですよね? つまりその人たちは現状に不満があった」

 まあ、結果的にはそうなるのかな。

「ほかには『家族を養う』という目的のために、手段として働いている人たちがいます。辞めたいけれど辞められない、死んだ魚みたいな目をした人たちが」

 確かにそういう人もいるけれど。

「でも真夜先輩は、いっつも生き生き働いてるから、なにか目標があるのかなーって思ったわけです。たとえば会社を興すとか。スキルを身につけて人脈を作るぞーみたいな目的があれば、この仕事も楽しいでしょうし」

「別に、そんなんじゃないけど……」

 そこで空き物件情報のファックスが入り、会話は途中で終わってしまった。

 電車に揺られて帰りながら、私はぼんやりと考える。

 一寸ちゃんとのやりとりは、以前の女子会で言われたことに近い。この会社でなんの不満もなく仕事をしている私は、宇宙人というあれだ。

 繰り返しになるけれど、うちはそんなにいい会社じゃない。労基がたたけばホコリがトラック二台分は出る。飲みにいけば私だって会社の愚痴がそのくらい出る。

 でも仕事は楽しいし、主にお金の面で努力に見合った評価を受けている。みんなもそういう会社だとわかった上で、面接やら試験に臨んだはずだ。少なくとも私は念入りに調べて、ある程度のことには目をつぶってでもやりたい仕事と思えた。

「みんなは違ったってこと? それとも入社してから目的が変わった?」

 帰宅して、湯船につかりながらまだ考える。

 変わったと言えば根津だ。青年が熱く語らなくなり、性格がねじれていったかと思えば、唐突に会社を辞めてしまった。

 私と同じで、根津も仕事に不満はなかったと思う。それとも誰にも言わなかっただけで、根津にも課長代理とは違う『なりたい自分』があったのだろうか。

「みんな、夢があるってことなのかな?」

 ベッドに入りながら、枕元のぬいぐるみたちに聞いてみる。

「……夢?」

 自分が口にした言葉で、ふいに心がざわついた。

 たとえ毎日楽しく働いていても、仕事はあくまで仕事でしかない。

 みんなは結婚や転職という、「なりたい自分」を目標に働いている。家族のために死んだように働く人も、会社を興す野心を持つ人だってそうだ。仕事は手段であって目的ではない。

 人はみな、なにがしかの夢をかなえるための「通過点」として労働している。

 だから現状に不満を持つのだ。ここは自分がいるべき場所ではないと。

 自分が仕事に不満を持っていない理由に、私はようやく気づいた。

「私には、夢がないんだ」