都市を眼下に置く夜景と、暗闇の空で瞬く光の群れ。

 それらを望むここは煌びやかに輝く、とあるレストラン。

 天井から吊されたシャンデリアは上品な光を調度へ投じ、表面のその木目に鏡のような艶めきを与えている。

 窓際のテーブル席に腰掛ける秋山圭介が待ち望んでいたのは、間違いなくこの光景。しかしテーブルの向こうに座る彼女は虚を突かれたように、表情へ激しい動転の色を示していた。

「嘘……。どうして……」

 彼女は辺りを見回してから、また圭介に視線を移した。しかしその黒目はまだうろうろと、まるで泳ぐようにせわしない。

「……どうして圭介、そこにいるの……?」

「どうしてって? 約束したろ? ここでディナーを」

「でも、でも、圭介……」

 圭介の答えにも彼女は納得しない。くちびるを震わせながら、華奢なその指先をこちらに向けた。

「――死んだんだよ?」



 唐突に響くクラクションの音。

 投じられた眩しい光。

 そして迫り来る車の影。

 意識の回復に従って散っていた記憶が集まり、それらが細切れの映像でフラッシュバックされると、圭介はなにもできないという諦めを吐き出す息に込めた。

 あれからどれくらい時間が経ったろう。

 ずいぶん長くこうして横たわっている気がするが、目を開ける勇気は未だに持てない。物音一つしない周囲の状況に、妙な不気味さを感じていた。

 いや、おかしいのは、この静寂だけじゃない。

 あれだけ大きな事故だったのに体はまるで痛まないし、流血した自分の体にしがみついた記憶もある。それにズブズブ暗闇に飲み込まれていく感覚も。

 リアリティを伴ったそれらの感覚的な体験は、自分の体に致命的ななにかが起こったことを圭介に確信させていた。

 俺、幽霊にでもなったんだろうか。

 どうだろう。分からないけど、そうかもしれない。って言うか、もしそうだったなら、たった二十八年で終わった俺の人生ってどう? 俺が他人なら、可哀想に、短い人生だったって思うだろうな。そりゃそうだよ。短い。生き足りない。普通に過ごしていた日常が、いきなりこんなことになるなんて。

 いまさら言っても仕方ないけど、君と特別な食事がしたかった。ああ……。

「……加奈子……」

 呼びかけるようにその名を口にすると、

「悪いが人違いだ」

「ぎょうわぁ!」

 見知らぬ野太い声が落ちてきて、圭介は弾かれたように飛び起き、後退った。

 無人と思って自分に酔っていたのに、いまのは恥ずかしい。顔が熱くなって頬が火を噴くようで、ああ、もう、これ、どう誤魔化す?

 せめて笑いにできれば、まだ救われるかも……。

 この場にピッタリの必殺ジョークを頭の中で探しつつ、圭介は自分が寝ていた場所へ視線を移した。するとそこにいるのはしゃがみ込む二人の男で、場所はどこかのこぢんまりとした白い部屋だ。

 二人は恐らく横たわる圭介を見下ろしていたのだろう。首をこちらに向け、いきなり飛び起きた自分を観察するようにじっと見つめていた。一人はヒゲのスーツ、もう一人は和服の長髪で、二人とも黙して圭介を凝視しているまま。

 うう……。ツッコんでくれたらせめて笑いになるのに……。どうしてそんな静かな佇まいで羞恥に悩む俺を眺める? 嫌がらせ? 視線が痛いんだけど。

「――大した反射神経だ。ビーチ・フラッグスなら金メダルだぜ」

 冷ややかな無言がしばらく続くと、ようやく片方のヒゲ……、四十絡みのその男が息をつき、服を払いながら立ち上がった。品の良いグレーのスーツを隙なく着熟した、男臭い二枚目。彫りの深い顔立ちと、口周りに整えた短いヒゲが印象的だった。

「えっと……、あの、ビーチ?」

 圭介は這々の体で問い返す。

「ビーチ・フラッグスってスポーツがあんだよ。知らねえのかよ」

「あ、はあ。すいません、不勉強で……」

 って、あんたが俺より先にスベってどうすんだ。と心の中で突っ込むが、もう取り返しはつかない。披露するギャグについて、いつも笑いどころを解説されている圭介では、この死んだ空気を笑いに変換することは絶対に不可能だ。

「――いや、あの。すいません。混乱してまして」

 圭介はオチの付かないまま話を切り上げ、逃げるように状況の整理を始める。

「えーっと……。ちょっと驚いちゃって。ごめんなさい。なんか事故に遭って死んだような気がしていて……。って、意味分かんないですよね、ハハハ……」

「ああ。そりゃ間違ってる訳じゃないが、ちょっと表現が良くねえな。お前さんは生きる世界が変わったんだよ」

 ヒゲは特に感情を込めるでもなく、ポケットに手を突っ込んでそう返してきた。

「え、いや、まさか……」

 圭介は反論しようとかまえるが、

「あ」

 再び頭へ浮かび上がる事故の情景。そして確かに触れた自分の遺体の生々しさや、闇に飲まれていく感覚。体が覚えているそれらは、事故が紛れもない事実であると裏付ける確かな証拠のように思えた。

 ――え? 本当に?

 自分を疑ってみるが、出揃った記憶に反論は難しい。思い返せばそれだけ膝が震え、鳥肌が全身を覆い始める。頭の中が混乱しかけると、

「まあまあ」

 穏やかな口調が聞こえ、圭介の意識を拾い上げた。目を上げるとヒゲ男の隣にいる長髪が、柔らかい表情で圭介とヒゲを交互に見ている。

「竜児君。そんな恐い顔をするもんじゃありませんよ。ゲストが萎縮します」

「まだ客じゃないでしょう。それにこの顔は生まれつきですが」

「それは可愛らしい赤ん坊ですねえ。是非拝んでみたいものですが」

「……怒りますよ」

「おお、恐い。愛らしいお顔が台なしだ」

 長髪は肩を竦めると、こちらを向いて苦笑いを浮かべた。

 よく見ると輪郭の滑らかな、スッと通った鼻梁が印象的な顔立ちだった。中性的な雰囲気も穏やかで敵意も感じないが、しかし華奢な体に和服をだらりと着流していて、風体は非常に怪しい。

「すいませんね。お察ししますよ。分からないことだらけでご不安でしょう」

「い、いえ、まあ……。えっと、失礼ですが……」

「ああ。自己紹介が遅れました。私はこのレストラン『紫苑』のシェフで、閻魔と号を名乗っております。どうぞ宜しく」

「え……? ――ここ、レストランですか?」

 それに、えんま? 変わった苗字だけど……。いや、苗字? 号? まさか……。

「ま、いま、俺たちがいるここは、ウェイティングバーみたいなもんだけどな」

 考えていると、ヒゲが答えた。圭介はその言葉を確かめるように、辺りを見回す。

 店内はちょっと広めなコンビニくらいの空間で、薄暗く重厚。漂う雰囲気はかなりレトロなものだった。

 クロスの掛かった木製テーブル三卓には、それぞれぼんやりとした間接照明が当たっており、床には趣ある黒檀のような板が使われている。壁は石を積み上げたもので、全体的に瀟洒で落ち着いた佇まいだ。深いブラウンの調度類は綺麗に艶めいている。

 上を見ると高い天井では剥き出しの黒い天然木が梁になっており、そこには天窓も据えられていた。目を下ろして背中側を見ると、そこにはバーカウンターが設えられていて、中にはグラスや食器が所狭しと並べられている。

 レストランと呼ぶにはちょっと雰囲気が幻想的な気がするけど……。ただ、いまはそんなことどうでもいい。

「えっと、あの、僕、僕は秋山圭介と言います。それで、あの、えっと……」

「虎杖だ」

 ヒゲがよく通る声で、圭介の言葉に割り込んだ。

「え、え?」

「あんまりオドオドしなさんな。俺は虎杖竜児。紫苑でメートルをしている」

「メ、メートル?」

「ギャルソンっつったら分かりやすいか? 要するに給仕だ」

「い、いや……。ちょっと待ってください。そういうことじゃなくて……。僕、あの、あれ? どうしてレストランに? 来た覚えなんて……」

「ああ。……まあ、長くなる。座んなよ」

 虎杖と名乗ったヒゲは向こうのテーブル席を顎で示し、圭介に着席を促した。

 ――どうしようか。

 従っていいものか迷ってしまうが、しかし虎杖の言葉には逆らえないなにかを感じる。それにいま、自分がどういう状況に置かれているかも分からない。情報がいる。

 圭介は警戒しながらテーブルまで足を運ぶと、会釈をしてから焦げ茶の椅子へ腰掛けた。すると虎杖と閻魔も椅子を引き、圭介の対面に座る。

「で、なんだ?」

 足を組むと、虎杖が問いかけてきた。

「な、なんだ、とは……?」

 恐る恐る聞き返すと、虎杖はテーブルを指でトンと叩く。

「さっきのお前さんの質問だよ。なんか言いかけていただろ?」

「あ、そうだ、あの……。いいですか? 聞きたいことが山ほどあるんですけど……」

「だろうな。ここに来る人間は、みんな質問だらけさ」

「みんな……? いや、それより僕って、その……」

 ゴクリと唾を飲み込み、圭介は虎杖を見た。

「もしかして本当に……?」

 死んだ? 言外に言い辛いその言葉を潜ませると、

「往生際の悪い野郎だね、お前さんも」

 虎杖は感情を込めるでもなくそう言い放つ。しかし圭介には彼の口調など意に介する余裕はない。

 ――さっきは覚悟したのに……。

 圭介は血の気が失せていく中で、自我を保つように荒く自分の髪を掴んだ。

 さっきまでの朧気だった意識とは違い、いまのように確かな自覚がある中で現実を突き付けられると、やはり愕然とくる重いものがある。比喩ではなく、背中には凍りつくような感覚があった。

 そうだ。俺は確かに事故に遭った。自分の遺体も見た。

 なにより夢では有り得ないリアルなこの感覚に、このシチュエーション。全ての状況が、自分に一つの事実を突き付けている。

 圭介は震える手で口を押さえ、目を伏せた。

 ああ…………。

 後悔が立つ。あのときあの場所にいなければ。もっと慎重に左右を確認していれば。思い返せばそれだけ圭介のくちびるは震え、目の前は幕が下りたように暗くなった。

 頭の中には、これまでの思い出や経験がグルグル回っていく。そして大事な人との出会いを思い出し、とうとう目の縁に涙が溜まった。思い残したことがあった。

 ――加奈子は……、俺の死をどう思う?

 責任を感じるはずだ。立ち直れるのか? 責任感の強いあいつが?

「未練があるんだろ?」

 考えていると、虎杖の言葉が降ってくる。熱くなった目で見上げると、彼は一つ息を吐いて言葉を続けた。

「知ってるよ。あんたはそのためにここへ来た。俺たちもそのためにここにいる」

「そのために?」

「そうだ。秋山さんの頭の中にある、その未練のためだよ」

「……僕の……未練」

「どうしても断ち切れないものがある。違うか?」

「まあ……」

 確かにある。細かい未練を挙げればキリがないけど、大きいものでも両親や弟、友人知人、仕事のこと。それに、なによりも……。

「たぶん心に浮かんだそのために、秋山さんはここへ来たんだ」

「加奈子……の、ことですか?」

「お前さんがそう思うなら、恐らくその女に関連するなにかだろう。簡単に言うとウチには、食事に対して未練のある魂しか来ない。その加奈子さんも秋山さんにとって、食事と紐付いたなにかがあると思うが」

「…………」

 圭介は未練の元を思い出す。そしてコートのポケットに手を入れて、四角い箱の感触を確かめた。

 フラれてもいい。今日は、ありったけの勇気を振り絞ろうと思っていたのに……。しかしフラれるどころか、よりにもよって死んでしまうとは想定外にもほどがある。どうして俺のすることは、こういつもいつもロクでもない結果になっちまうんだ。

「もう、絶望だ……」

 死にたくなってくるが、もう死んでいる。呟いて頭を抱えると、

「まあ、お辛いでしょうが」

 閻魔の声が聞こえてきた。

「絶望的な状況なんて世界にはないのです。ただ人が状況に対して絶望的になることがあるだけで」

「……なんの慰めにもならないんですけど」

 圭介はジト目で閻魔を睨む。

「秋山さんよ、相手にすんな。この人はいつもこうだ」

「失礼ですね、竜児君」

 ため息交じりの虎杖の言葉に、閻魔は楽しそうに目を輝かせた。

「むしろ、こんななごみ系の私がいるからこそ、紫苑にはまだ潤いがあるとは思えませんか? 店にいるのが君とナオさんだけだと考えたら……、ああ、恐ろしい」

「もの笑いのタネがなくなってせいせいしますね。閻魔さんが抜けた冥庁、さぞ静かで平和でしょう」

「可哀想ですねえ。私がこのレストランを任されたばかりに」

「羨ましいです。あと、更迭って知ってますか?」

「ちょ、ちょっと待ってください」

 手をかざし、圭介は会話に割って入る。

「あの、さっきは言いませんでしたけど、閻魔さんって変わった苗字、号? だとは思ったんです。でもここが死後の世界で、それで閻魔さんなんて名前は……」

 まさかという思いで聞いてみる。しかしいま、やり取りの中で冥庁がどうとかって話に出ていたし……。

「お察しの通り」

 閻魔はまた柔和な笑みを浮かべた。

「恐らく私は、秋山さんの思う閻魔で間違いありませんよ。もっともいまは冥府の王ではなく、この紫苑のシェフですがね」

「え、閻魔大王が、……レストランのシェフ、ですか」

 圭介は閻魔を見つめる。

 いまさら驚きもないけど、でもこの温厚そうな若い男が、あの閻魔大王? 本当に? ステレオタイプのイメージしか持ってないけど、閻魔大王と言えば赤ら顔に牙の生えた強面じゃないの? 確かに見てくれはマトモじゃないけど……。

「――その胡散臭そうな目。なかなか正直な反応をされる方のようですよ、竜児君」

「ちっとは見習ったらどうですか」

 虎杖は椅子の肘掛けを土台に頬杖をつき、表情を変えずに言った。そして目だけを動かし、ギョロリとこちらを見つめる。

「で、質問は終わりかい? 山ほどあるんだろ?」

「いや……、はい……」

 死んだと分かったいま、あまり他のことを聞く気にはなれないけど……。いや、でもさっき、未練がどうとかって言っていた。なにかをしなければいけないのかも……。

「……僕はこれから、どうなるんでしょう?」

「それはお前さん次第だ」

「僕?」

 圭介は自分を指さす。

「そうだ。まず魂が死後に取る道は、主に二つある」

 虎杖はそう言って、指を二本立てた。

「まず一つは輪廻を彷徨う道。もう一つは浄土へ旅立つ道。だけど紫苑へ来る魂はその前のステップ。まだ二つの道の岐路に立っている段階だ」

「浄土と、輪廻……?」

 頭に湧いた疑問に、圭介の眉間にはシワが刻まれる。

「あの。浄土ってなんとなく分かりますが、輪廻って? 言葉は聞いたことある気がしますけど……。具体的になにかって分からない」

「輪廻の説明は難しい。個人が生きた文化や死生観によって変動するし、まあ、色々と習合している面もある。一概にどんな場所とは言えねえが、ただそこに入ると長い間転生を繰り返して、冥界や現世の厳しい旅路を歩むことになるだろうな。お勧めはしねえ」

「地獄……ってことですか?」

「ま、そういうニュアンスも含まれている」

「地獄に墜ちるほど悪いことって、してないんですけど……」

「真面目に生きてきたあんたにゃ悪いが、現世の倫理はほぼ無関係だ。冥庁は独自にルールを定めてる」

「はあ……」

 虎杖の言葉に、圭介はゴクリと喉を鳴らして唾を飲み込んだ。

「だからやっぱり浄土へ旅立つのが、魂にとって一番良い道だ。ただ現世に強い未練があると、浄土へは旅立てずに輪廻を彷徨うことになっちまう。ひどいときは地縛霊だ。それでまあ、そこを救済するのが紫苑の役割って訳さ」

「――救済?」

 未練が強い状態で浄土に行けないなら、いまの自分がそのケースに当たるのだろう。ただ、このレストランがそれを救ってくれる? どんな方法で?

 圭介は虎杖の続く言葉を待つ。しかし当の虎杖は「あ」と声を漏らすと、視線をテーブルの陰になっていた圭介の足元にずらし、そしてなにやら困惑の表情だ。

 ――どうしたんだ?

 圭介も虎杖の視線を追うように体を反らし、自分の足元に目をやった。すると……。

「……誰? 君」

 膝下に屈み込む、見覚えのない少女に気が付く。彼女は何故か自分の足元をまじまじと、小さな文字の本を読むように見入っていた。

「こういう靴……」

「靴?」

 少女の呟きを圭介はそのまま繰り返す。今日は奮発して買ったデザイナーズブランドの靴を履いているが……。

「そう、靴」

 そう答えると、少女は目を上げて圭介を見つめた。

 薄いブラウンの髪にショートパンツ。整った相貌には薄くメイクが施され、ほんのり残る幼さを上手く隠している。年は中学生くらいだろうか。清潔に映るショートカットが印象的で、典型的な現代っ子の容姿だが……。

「最近、紫苑に来るお客さんの靴ってこういうの多いんだ。つま先が、こう、グッて尖ってるやつ。流行ってるの?」

「え、ああ。どうだろう」

 話は適当に切り上げて虎杖の説明を聞きたかったが、閻魔も虎杖も、特になにを言うでもなくこちらの会話を見守っている。ならやはりこの子も、この店の関係者か。あまり邪険にするのはマズい。

「あの、ショップスタッフのお勧め通りに買ったんだけど、流行ってるかは分からないな。えっとさ、俺、疎くて。でもこのブランドの靴って、だいたいこんな感じだったと思うよ」

「ショップスタッフ?」

「店員さんのこと」

「へーえ」

 返事をすると彼女は、テーブルの外に出てきて立ち上がり、

「こんな感じかなあ」

 床をじっと見つめる。

 ――なにをするつもりだ? 視線はまるで、床を睨み付けるようだけど……。

「ナオさん」

 少女を見ていると明らかに年上の虎杖が、『さん』付けで注意する。しかし、

「かまいませんよ、竜児君。靴くらい好きにさせてあげなさい」

 隣から閻魔が楽しそうに煽った。虎杖は不満そうな表情を浮かべたが、それ以上の言葉を続けない。

 なにが始まるんだろう? 圭介は警戒するように二人を瞥見してから、再び少女が睨む先へ視線を移した。すると、

「な……」

 声を失い、思わず目をこする。

 自分の見たものが信じられなかった。まず幻覚を疑ったが、そうではない。

 何故なら空間だったはずのそこでは、まるで透明な型へ素材が注がれていくように、徐々になにかの断面がせり上がってきて……。なにか……? いや、あれは……。

 俺の、靴だ……。

「紹介が遅れたな。彼女は中村猶と言って……」

「あ、は、はあ……」

 虎杖が少女の紹介を始めるが、圭介には冷静にそれを聞く余裕がない。

 見ていると靴はまるでCGのようにつま先から踵へ、踵から履き口へとその形を整えていき、最後には自分の靴と……。いや、自分の靴から若干ディテールが変更され、よりデザインが洗練された見たことのない靴となって目の前に現れた。

 なにもなかった空間に。靴が。

 俺は、魔法でも見ていたのか?

「――見ての通り、ナオさんは閻魔さんから特別な力を授けられている。秋山さんがいま見たそれだ。イメージに従って無から有を構築できる」

 虎杖が紹介を続けた。しかし……。

「無から有を? そんなことが……」

「構造によるがな。形の実体化だけなら、だいたいのものが可能だ。硬さや細かさなんかは、ナオさんのイメージ次第になる」

「イメージで……」

 圭介は目の前に現れた靴を見た。

 艶めきを帯びるそれには、まるで光を放つような毅然とした風格が漂っている。例えるならまるで芸術品で、自分の靴と彼女が作った靴が店に並んでいた場合、恐らく圭介は後者を選ぶだろう。光沢や質感など、既に本物を凌駕している。

 ――人はこんなに細かく、ものを想像できるものなのか?

「まあ、俺たちも紫苑も、もちろん秋山さんも、もう形而上の存在だ。現世の理からは外れてる。閻魔さんだって追放はされたものの、冥界の王様だったしな。紫苑の店内なら、俺たちの能力で大概のことが実現可能だ」

 虎杖は冷静な口調で、ゆっくりと話した。

「能力って……」

「もっとも俺とナオさんは、能力を使えるだけ。消費するエネルギーみたいなのは閻魔さんの力だ。俺たちはコンセントで繋がった電化製品みたいなもんかな」

「じゃあ……。そのニュアンスだと、虎杖さんにもなにか特別な力が?」

 圭介が聞くと、虎杖は一呼吸置いてから答えた。

「……俺には人を連れて現世へ移動する力と、あとはお客から記憶を抜く力がある」

「記憶を?」

 圭介が自分の頭を指さすと、

「そう。記憶」

 虎杖も同じ動作でそう答えた。

「んっと、それでも分からないんですが……。ものを作る力にしても記憶を失わせる力にしても……。だってここレストランですよね? どうしてそんな力が……?」

 それに、さっきの救済の話もまだ途中だ。

「まあ、それも含め諸々をいまから説明する。だけどこれに関してのことは、聞く前に覚悟を固めておいてくれ」

 虎杖はそう言うと、自分の頭を指している指で、そこをトントンと叩いた。



「まさか自分の葬儀を見ることになるとは……」

「一生に一度の経験だからな」

「人生終了しちゃいましたけどね」

 当惑の気持ちを込めて虎杖に答えると、圭介は腕を組んだ。

 彼は紫苑について自分たちの能力も含めて説明すると、そろそろ現世で圭介の葬儀が執り行われると言い、こちらへの移動を促した。自分の葬儀という妙な響きに圭介の心には躊躇いが生じたが、

『未練の女も来るんだろ?』

 という虎杖の一言で、結局は来ることになってしまった。

 しかしやっぱり、自分の遺体が納められた棺を傍らにするのは変な気分だ。

 参列者と向き合う形で祭壇の前に立っているが、見知りの人間はみんな暗い顔をして俯いており、悲しまれている張本人としてはどうも据わりが悪い。なにより向こうが、こちらの姿を認知していないというのが気持ち悪かった。中学高校と女子の前では空気だったが、そのときとは訳が違う。

 圭介は少し気持ちを落としながら、参列者や室内を見回す。

 葬儀会場は白とグレーを基調にした内装で、清潔感があり厳かな雰囲気だった。中央の通路を挟んで席が並んでいる。圭介の家族が一番前に着席し、次に親戚一同。そのうしろに友人知人といった席順らしい。

 参列者は一様に頭を下げ、いまは司会者が読み上げる弔電に耳を傾けていた。両親や弟が時々、目を指で拭うのが目に入った。親しかった友人も目を真っ赤にしている。

「かなり集まったな、参列者。気弱な性格が人気の秘訣か?」

 背中から虎杖の声が聞こえてくる。

「気弱ですいませんね。これでも頑張って生きてたんです」

「貶してる訳じゃねえよ。俺の部下にも昔いてな、秋山さんみたいなタイプ。でもお前さんは素直な分だけ人に好かれてたんだろ」

「そりゃ……、どうも」

 圭介はそう返すと口を閉じ、もう一度前を見渡した。

 最後に全員の顔を目に焼き付けたかったからだが、しかし参列者たちの反応を見ると、いまになって寂しさや悲しさが満ち、それが心の中に潮のように押し寄せてくる。それは自分自身の死へのものと言うより、自責からくる感情のように思えた。言いようのない感情が、ざわざわと圭介の胸に膨らみ始める。

「……ま、お察しするよ」

 虎杖は最後にそう言うと、それ以上の言葉をあとに続けなかった。

 圭介は胸からせり上がるものをぐっとこらえると、前から三列目に座る女に視線を据えた。大きな瞳に背中まで伸びた黒髪が印象的な彼女。しかし圭介が愛した利発で活発なその顔立ちには、いまは暗い影が色濃く宿っていた。

 加奈子……。

 彼女を見ると、こらえたはずの感情がまた溢れてくる。日向のように生き生きとしていた加奈子が、いつも笑顔を絶やさなかったあの加奈子が、自分の死によってあれほど悄然としているのが圭介には耐えられなかった。

 その双眸は焦点を結ばず、くちびるは小刻みに震えていた。化粧もまるでしていないようだ。顔も青白い。膝に載せた手にはハンカチが強く握られ、必死に感情を抑え込んでいるのが分かる。

 加奈子……。

 圭介は心の中でもう一度呼びかけ、くちびるを噛んだ。

 今日までどれだけ自分を責めただろう。責任感の強いあいつのことだ。その度合いは想像に難くない。そこが圭介にとって彼女の愛すべき点であり、また、心配な点でもあった。

 ――あいつのために、してやれることが……。

 圭介の心に迷いが生じる。だが決断に必要な勇気は、まだ持てない。

 しばらく心に葛藤を抱えていると、

『これよりお別れの儀へとお進み頂きます』

 司会がそうアナウンスし、棺の中に花を手向けるよう、参列者へ案内した。式場には短く切った供花を籠に持つスタッフが既に待機している。

 圭介がじっと様子を眺めていると、両親や弟が棺へ歩み寄り、花を自分の顔の周りに添えた。そして次に友人が、会社の同僚が、仲の良かった仕入れ先の人間が、次々にそうしてくれた。

 しかし……。

 しかし、加奈子だけは棺を取り囲む輪を遠巻きに眺め、そこに入ろうとはしなかった。表情は既に生気が枯れ果て、二十五という年齢よりもだいぶ老けて見えた。

「加奈子……」

 今度は口に出して呟くと、見かねた自分の母親が加奈子を促した。そして彼女の手を引いて、圭介の遺体の元へ誘う。加奈子は抵抗するでもなく、なされるがままに圭介の遺体の側へ歩み寄った。

「圭介……」

 加奈子はそう呟くと、遺体の顔の側へ白い花を一輪、添えた。

 そして圭介は加奈子の真横で、じっとそれを見つめていた。

 その表情も動作も視線の動きまで、息がかかるほどの間近から、なに一つ見逃すまいと必死に力を込めて加奈子に見入っていた。しかしこの至近距離から彼女の視界に入れない歯がゆさが、どうしようもなく圭介の心を責め立てた。

 気付いて欲しい……。最後にせめてもう一度。

 圭介は悔しさで、砕けそうなほど歯を食いしばる。せめて、せめて……。いや、そもそもどうして死んだのが俺なんだ。どうして! どうして俺が!

「なんでだよっ!」

 胸に膨らむ想いが爆発する。圭介は千々に乱れた想いを拳に込め、思い切り振りかぶって自分の遺体へそれをぶつけた。すると、

「けいすけえっ!」

 大きな叫びが、隣から聞こえた。ハッとして目を移すと、加奈子は棺の縁を握り締め、自分の遺体に向かい必死の形相で声を絞っていた。

「かえってきてよお! ねえ!」

 加奈子は遺体に向かってまた叫び、それを見かねた彼女の友人が、心配そうにその背を撫でた。しかし加奈子はそれを意に介さず、圭介の名を絶叫に近い声量で呼び続けた。行為は明らかに式進行の妨げになっていたが、誰もなにも言わなかった。

 悲鳴のような嘆きの声は、しばらく続く。

 そしてそれを聞いている間、圭介の頭の中には色々な記憶が鮮明な映像と共に駈け抜けていた。初めて声をかけてくれた日。自分なんかに向けられた優しい笑顔。交際が始まった日……。しかしもう幸せなあの日々が帰って来ないと思うと憤りはすっと冷め、そして自分の胸が悪寒に撫でられたように冷たくなるのを感じた。鼻の奥もツンと痛む。

 やがて時間が経ち、加奈子の声が嗄れて発声できなくなると、彼女は崩れるように遺体にしがみつき、小刻みに震えて泣いた。泣き声は掠れたものだったが、浮かべる表情は慟哭と形容してもいいそれだった。涙には血が滲むようだ。

「加奈子さんも辛いんだろ。あんただけじゃない」

 膝をつき、圭介が加奈子の頭に手を置くと、うしろから虎杖が声をかけてきた。圭介は返事をせずにその髪を撫でるが、

「関係は恋人と見受けるが」

 彼は更に続ける。

「ええ」

 圭介は嘆息すると、彼女を撫でる行為に不毛さを感じて立ち上がった。

「加奈子、えっと高山加奈子って言うんですけど、僕が働いてる百円ショップの親会社の社員なんです。たまにウチの店にも仕事で来ていて。そのときに知り合いました」

「へえ。親会社の。そりゃ高嶺の花だ」

「……ですね。全くその通り。片やしがない百円ショップの雇われ店長。片やその親会社、上場企業の若きホープ。ホントなら実るはずがなかった関係なんですが、あいつは偏見も持たずに僕と付き合ってくれました。正直、僕にはでき過ぎた彼女だったんです」

 圭介はそう言うと虎杖と向き合い、ポケットの中のものを見せた。

「指輪、か……?」

 圭介が手に持つそれに、虎杖が顔を近付ける。

「ええ。プロポーズするつもりでした。あいつ、イタリアンが好きで。それであの日、『リストランテ・ラ・ベネディカ』ってレストランに予約を入れてたんです。実るかは分からなかったけど、事故の日はあいつの誕生日でもあったから」

 虎杖はなにも言わず、指で頬をかいた。

「でも、ベネディカには行けなかった。加奈子が仕事の接待をどうしても抜けられなくて。それを伝えてきたメールを見て歩き出したところを、たぶん車だと思いますけど、はねられて」

 聞くと虎杖は手をポケットに突っ込んだ。そして泣き続ける加奈子に視線を移す。彼女が必要以上に取り乱す理由が腑に落ちたのだろう。

「虎杖さん」

 圭介は一歩、虎杖に歩み寄る。

「僕が了承すれば、紫苑で加奈子と食事ができる。本当なんですね?」

「ああ。嘘は言わねえよ。最高の料理とシチュエーションで、あんたたちをもてなす。それが俺たちの仕事さ」

「……で、その了承を取りつけるために、僕を現世に連れて来てこういうものを見せる。それが虎杖さんの力の必要性ですか」

「そんなようなもんだ。魂を客にしなきゃならんからな」

「ズルいですよ、こんなの……」

「ズルい?」

 虎杖は圭介に視線を戻した。

「だって、そうでしょう? 食事の代金代わりに取られるもの、僕だっていまとなっては大切なものなのに……。こんなの見せられちゃ……」

 圭介は虎杖から目を外す。虚しい言いがかりだとは分かっていた。

「ま、そうかもな。否定はしねえよ。確かに俺はズルい人間かもしれねえ」

「…………」

 圭介は沈黙するが、虎杖はこちらを見たまま視線を外さない。

「だがよ、秋山さん。すべきことを分かっているのにそれをしないのは、俺は卑怯だと思う。俺はたとえズルくても、卑怯者じゃないつもりだ。心はいつも正しい場所に置いてある。あんたに見せたもの、言ったことには、なんの偽りもない」

「すべきこと……」

「そうだ。秋山さんよ」

 虎杖は毅然と引き締まった表情でこちらを正視する。その目は更に強くなっていた。

「お前さん、レストランの語源って知ってるかい」

 目を上げ虎杖を見ながら、圭介は首を横に振った。

「レストランって言葉は、フランス語のレトーランってのが語源になってる。回復する食事って意味だ。要するに、癒しがレストランの基本理念と言える」

「癒し、ですか」

「ああ。だから紫苑はレストランなのさ。だけど、客がいなきゃ仕事ができねえ。俺たちが誰かを癒せるのは、客になるべき人の決断次第だ」

「それが僕……、ってことですよね?」

「そうだ」

 虎杖はきっぱりと言った。その眼差しは、自分になにかを訴えかけるような、諭すような、教えるような、色んな意味を持っているように思えた。

「秋山さん。確かに失うことは辛いだろう。だけど、いいか。あんたしか、あの子の未来の空白を埋められない。たとえそれがあんたにとって、どれほど残酷なことであっても、だ。決断の前に、それだけは心得ておいてくれ」

「……分かってますよ。そんなこと、言われなくても大丈夫ですよ」

 圭介は指輪をポケットに仕舞って答えた。

「決断なんてとっくにしてます。僕は彼女に言い残したことがあるから。虎杖さん」

「ん」

「紫苑で加奈子との食事を、オーダーします」

「お代に俺たちがもらうもの、理解しているな?」

 虎杖が確認する口調で言った。圭介はそれに黙って首肯する。加奈子の未来と引き替えなら、なにを代償にしても安いものだ。

 ――俺には、すべきことがある。

 傍らでまだパニックになっている加奈子を横目に、圭介は特別な意味を持つ指輪の箱を、ポケットの中でぎゅっと握った。――すべきことがあるんだ……。

「けっこうです」

 覚悟を自分の中で確かめていると、傍らから虎杖の声が聞こえる。だが口調は聞き慣れない。

 耳を疑い視線を戻すと、そこでは虎杖が穏やかに破顔し、こちらを見つめていた。

 別人? いや、違う。違わないけど違う。本人だけど、……別人のようだ。

「えーっと……」

 圭介は確かめるように、虎杖の頭から足先まで視線を往復させた。

 間違えてしまいそうだが、しかし本人で間違いない。ぶっきらぼうな彼の顔はいつの間にか緩まり、眉が晴れ、その表情は洗われたように温和だ。正された姿勢には世慣れた頼りがいすら感じる。

「……虎杖、さん……?」

 呆気に取られて見ていると、虎杖は更に頬を緩めて目尻のシワを深くした。

「それでは、秋山様。これより天へ昇る味わいで、あなたの別れを祝福致します。ご堪能くださいませ」



 わたしのせいで圭介が死んだ。

 わたしがきちんと約束を守っていれば、こんなことにはならなかったのに。雑誌で見たイタリア料理店に行ってみたいとさえ言わなければ、こんなことにはならなかったのに……。

 直接の原因はドライバーの信号無視だったけど、引き金を引いたのはわたしだ。誰もが、圭介の両親までもがわたしのせいじゃないと言ってくれたけど、とてもそうとは思えない。思いたくない。

 彼と付き合って二年。圭介の次の誕生日には、あの計画を楽しみにしていたのに。でも、いまとなっては、それを思い出すだけで心が黒くなるようだ。彼のいない世の中を生きるのに、もう意味が見出せない。

 ああ、何日か前はあんなに楽しかったのに。この上ないほど幸せだったのに。いまはもう、取り返しのつかない悲しみが、ひっきりなしにわたしの心を襲ってくる。生きていることが申し訳なかった。

 でも、仕方がない。

 これは罰だ。

 ごめんね、圭介。一生かけて懺悔するけど、どうかわたしを許さないで。


 葬儀では、ひどく取り乱してしまった。

 迷惑かけちゃいけないと思ってこらえていたけど、圭介を見てしまうとやっぱりダメだった。抑えられなかった。

 わたしは納骨まで一緒にさせてもらって、そのあとで自分のアパートに帰った。部屋に入るとドアを閉めて、靴を脱いで、洗面台に向かって……。

 そこまでは覚えているけど、そこからの記憶がない。しばらく寝ていなかったし、もしかしたら葬儀で疲れ果てて、気絶でもしてしまったのかもしれない。

 気が付くとわたしは不思議なくらい煌びやかな場所で、豪奢な椅子にゆったりと腰掛けていた。床には足が沈むほど深いカーペットが敷かれていて、目の前にはクロスを掛けられたテーブルがある。その中央の長い蝋燭には、ぼんやりと火が灯されていた。

 わたしはしばらくぼうっとそれを眺めたあと、ようやく有り得ない事態に肩を跳ねさせ、そのまま顔を横に向ける。

 するとそこは一面の大きな窓が壁代わりになっていて、息を飲むような都会の夜景がパノラマで見渡せるようになっていた。夜空には無数の星々が不規則に輝き、眼下には模型のような都市が明かりを滲ませている。

 ――ここ、どこ?

 いや……。なんとなく、見覚えがある。もしかして……。

 リストランテ・ラ・ベネディカ?

 わたしが雑誌を見て行きたいとワガママを言い、圭介が無理して予約を取ってくれたところだ。ホールの内装は、確かに雑誌で見たあの店の通り。ううん……。掲載されていた写真よりも、更に綺麗な気がする……。

 店内を見渡すと、内装はシャンデリアの照明を帯びてキラキラと輝き、店が丸ごと夜景に溶け込んでいるようだった。艶めく木製の調度も統一感を演出していて、まるで中世ヨーロッパの絵画へ飛び込んだような感覚になる。

 でも、どうして? ここには結局来られなかったし、最悪の思い出に二度と来ることもなかったはずだけど……。

 わたしは首をひねりながら、自分の体を確認する。

 すると、着ていたはずの礼服はいつの間にかシックな紫のドレスに変わっていて、しかも窓に映る自分を確認すると、髪型までが華やかに整えられていた。化粧も施されている。

 覚えのない展開に面食らい、顔を上げると……。

「やあ」

 いつの間にか、向かい側の席には圭介が座っていた。

 死んだはずの圭介が、座っていた。そこへ、確かに座っていた。

「嘘……。どうして……」

 驚きからくるものか衝撃からくるものか分からないけど、わたしは自分の体がフワフワ浮くような感覚に陥った。それでもなんとか息を飲んで、

「……どうして圭介、そこにいるの……?」

 彼に残りの言葉を言った。言ってから答えを待つ僅かな間にも徐々に心音が大きくなっていって、自分の心臓の正確な位置が分かりそうなほどだった。

「どうしてって? 約束したろ? ここでディナーを」

「でも、でも、圭介……。死んだんだよ? え? 死んだんだよね?」

 自分の目が大きく見開いていくのが分かる。わたしは手で口を覆い、ただただ彼を指さして驚くことしかできない。

「確かに死んだ。でもここにいるのは嘘じゃない」

「じゃあ……」

「夢でもない。こんなリアリティのある夢が、いままであったか?」

「それなら……」

「会いに来た」

 彼は目を細める。その仕草は確かに彼のもので、言われた通り、それは夢では有り得ない現実感を伴っていた。

「……圭介……」

 わたしは彼の名を呟き、席を立った。たぶん表情はしわくちゃになっていたと思う。でもなんとか溢れそうなものをこらえて歩み寄ると、彼の前に跪いて、その胸に自分の顔を埋めた。

「ごめんね……」

「いいんだ。加奈子のせいじゃない」

「でも」

 顔を上げ、圭介の言葉に反論しかけたとき、

「お時間が限られております。お席へ」

 タキシードを着た男性の給仕が、そこへ現れた。丁寧な物腰で、整ったヒゲを蓄えた男性的な人だった。

「あ、あの……」

「加奈子。いまは言うことを聞いて」

 圭介も彼に同調した。事情は飲み込めないけど、彼が言うならそうしておいた方がいいんだと思う。わたしはなにも言わずに頷くと、目元を拭って席に戻った。

「ありがとうございます」

 礼を述べるカメリエーレに、

「しかし虎杖さん……」

 圭介が話しかけた。そしてタキシードに身を包む彼の頭から足先まで、珍しいものを見るように視線を往復させる。

「いくらなんでも、雰囲気変わり過ぎでしょう。会ったときは、あんなに素っ気なかったのに」

「仕事人間とよくからかわれます」

「いや……、しかしまた極端な……」

「良い仕事を心がけ、オンオフははっきりさせておりますので」

「はっきりし過ぎでしょう。電球みたいだ」

「お上手な喩えでございます。しかし私のことはこれくらいで」

 彼は頬に笑みを漂わせると、

「それでは気を取り直しまして」

 そう言ってサービスカートに置かれたシャンパンクーラーから、一本のボトルを抱えた。とても丁寧な動作で、まるで壊れものを扱うように。

「こちら、アペリティーヴォのスプマンテでございます。秋山様より加奈子様のお好みを伺い、自然な甘さのものを選定致しました」

 彼は安心感のある流暢な口調で話すと、それを音も立てずにそっと抜栓し、手元の細いワイングラスに注いでくれた。動作はとても洗練されていて、それだけでこのレストランの格式を感じさせた。

 ――プロだなあ。

 状況も忘れ、去りゆく彼の背中を眺めていると、

「なあ、加奈子」

 圭介がわたしの名前を呼ぶ。目を戻すと彼はグラスを持ち、それをわたしの方へ掲げていた。

「さっきみたいに抱き合うのも悪くないけど、いまは再会を祝って食事をしよう。これで最後だから。色々と話したい」

「最後?」

 聞き返すと、

「……ああ」

 圭介は眉を下げて笑う。それなら再会と言うより別れの食事じゃない。心の中ではそう思ったけど、――困らせちゃいけない。

「――分かった」

 わたしは感情を飲み込むとグラスを掲げ、そしてそれに口を付けた。

 注がれていたスパークリングワインは品が良く、喉の通りも爽やかだった。突然訪れたこの大事な食事だったけど、気持ちに覚悟と勢いを得るには最適のお酒だった。

 わたしは笑顔を作り、彼にそれを向けた。この食事が、せめて圭介にとって楽しいものになるように。