「ただいま戻りました」

 コート姿の火乃宮祈理が事務室に入った途端、眼鏡のレンズが真っ白に曇った。

 室内の暖房の温度は控えめなのだが、それでもやはり外との寒暖差は激しいようだ。祈理が慌ててバッグから眼鏡用のクロスを取り出していると、後ろから呆れた声が投げかけられた。

「不便なもの使ってやがるなあ」

 乱暴に言い放ちながら続いて入室したのは、スーツ姿の青年だ。年の頃は二十歳すぎ、身長百八十センチ強。ピンピンと撥ねた短い髪は銀色で、ワインレッドのシャツに白のネクタイをだらしなく締め、縦縞の入ったジャケットをボタンを留めずに羽織っている。祈理の同僚で上司で先輩、ついでに言えば同じ寮に住む隣人、五行春明である。

「おう、戻ったぞ」

「お疲れ様です」

 二人の部下の挨拶を受け、事務室で一人デスクワークをこなしていた課長の枕木政道が顔を上げた。痩せた体にワイシャツとニットのベストを重ね、ネクタイは地味なグレーで、頭は薄く眼鏡は銀縁、表情は温和。見るからにベテラン公務員らしい佇まいで、実質その通りの人物である枕木は、キーボードを叩いていた手を止めて祈理と春明を労った。

「外は寒かったでしょう?」

「ええ。ちょっと前から、雪もちらついてきましたし……。本降りになる前に戻ってこられて良かったです」

 窓の外では、灰色の空から細かな雪が静かに降り続き、京都の街をうっすらと白く染めている。その景色を曇ったガラス越しに一瞥した後、祈理はベージュのロングコートを脱ぎ、入り口近くのコートフックに掛けた。

 コートの下に着ていたのは紺の上着と紺のスカート。白のブラウスやアップにしたセミロングの髪、ブルーの眼鏡と相まって、いかにも新人公務員らしい出で立ちである。スーツとブラウスの襟をさっと整えながら、祈理は春明に問いかけた。

「今さらですけど、主任は寒くないんですか? もう十二月の下旬ですよ? 雪も降ってるのに、夏と同じ服ですし、コートも着ないで……」

「当たり前だろ。俺は人じゃないんだぞ」

「便利でいいですね……。そういうところは羨ましいです」

 自分の席に向かう春明に溜息を返した後、祈理は「人じゃない」という春明の発言をあっさり受け入れている自分に気付いた。一般的な常識人だったら戸惑ったり驚いたりすべき場面なのだろうけど……。

 この四月に京都市役所に採用され、ここに配属されてはや九か月。この状況に自分も随分慣れてきたなと祈理は思い、少し嬉しくなった。


 京都市環境福祉局いきいき生活安全課、通称陰陽課。

 平安朝の陰陽寮の流れを汲み、日本国憲法に謳われた「公務員は全体の奉仕者である」という理念に則って、京都の街で人に交じって生活する人ではない者達――妖怪達の生活の維持のために設けられている部署で、事務室は上京区の市役所別館の中にある。

 もっとも、市役所別館とは言うものの、外観はただのさびれた雑居ビルだ。一階二階は廃業した喫茶店とバーで、階段前の郵便受けの一つに「京都市役所別館」のシールが貼られている以外、市の施設であることを示すものはないが、関係者は皆その存在を知っているので問題はない、ということになっている。

 また「妖怪」という表現にはあまり良くないイメージがあるため、彼らのことは「異人」「異人さん」と呼ぶのが一般的だ。陰陽課の業務の根拠である規則「異人福祉施行規則」、通称「異人法」が、妖怪という言葉を使っていないのは、そういう理由による。

 陰陽課の仕事には、異人の起こす事件への対処の他、京都の霊的な治安維持のための各種儀式・行事も含まれる。それらをこなす上で欠かせないのが市の公認陰陽師、つまり春明の知識と技術であった。

 春明は見た目こそ二十歳そこそこの若者だが、その正体は平安時代の伝説の大陰陽師・安倍晴明が使役した式神「白獣」。人間としての名前を定期的に変えながらこの仕事を千年以上続けている大ベテランである。ガラも態度も悪いものの、京都の街と市民を守るという使命感だけはしっかり持ち合わせており、今日も部下の祈理とともに、この時期に欠かせない儀式の下準備をしてきたところだ。やれやれと溜息をこぼしながらデスクに長い脚を投げ出す春明に、枕木が問いかける。

「毎年この時期は公認陰陽師は忙しくて大変ですね。今日はどちらへ?」

「四条大宮に烏丸五条に……あとは錦市場あたりだな」

「ああ、それはそれは。本当にお疲れ様です」

 部下の横柄な態度を咎めるでもなく、枕木はしみじみと相槌を打った。寺町通と高倉通の間に伸びる錦市場は、食料品を扱う小売店が百軒以上も立ち並ぶ長大なアーケード街だ。普段から買い物客や観光客が多い場所ではあるが、年末にはなおさら人出が増える。柔和な笑みで春明を労わった後、枕木は自分の席でパソコンを立ち上げていた祈理へと顔を向けた。

「火乃宮さん、年の瀬の錦市場は初めてですよね。いかがでした?」

「人の数が凄かったです……。あんなに混んでるとは思いませんでした」

 疲れた声とともに首を振り、祈理は錦市場の喧騒を思い返した。一車線そこそこの幅の狭い道路を大勢の客が埋め尽くし、方々から響く呼び込みの声は反響しあって轟音と化す。とにかく人出が多いので移動するのも一苦労な上、春明はそんな中で堂々と立ち止まって印を結んで口中で呪文を唱えたりする。当然行き交う人達にとっては邪魔なことこの上ないわけで、図太い春明は全く気にしていなかったものの同行者の祈理はやはり申し訳なく思ってしまうわけで、心身ともにぐったりだ。「記録も全然取れませんでした」と言い足しながら、祈理が愛用のバインダー式手帳を取り出すと、向かいの席の春明は枕木と視線を交わして肩をすくめた。

「お前、あの状況でもメモ取るつもりだったのか? どんだけ記録が好きなんだよ。ほんと火乃宮メモリだな」

「わたしは祈理です、火乃宮祈理」

「知ってる。つうか、記録なんか要らねえだろ。陰陽課のメンバーはここにいる三人だけで、俺がどこで何をやってきたかは俺もお前も分かってるし、枕木のおっさんも知ってる。それで充分だろ」

「そうはいきませんよ。行政の仕事なんだからちゃんと記録を残さないと。主任だって情報公開制度はご存知ですよね?」

「存じちゃいるが、うちはあんまり関係ないと思うぞ。一般人に存在を知られてない課に、どこの誰が情報開示を求めるんだよ。異人だったら直接聞きに来るし」

「それはそうかもしれませんが、だからと言って手は抜けません。仕事ですから」

 きっぱりと春明に反論しながら、祈理はパソコンで報告書用の書式のファイルを開いた。普段はメモを見ながら書いているが、今日は直接打ち込むしかない。

「それで主任、今日のは何という儀式でしたっけ? 確か『大祓』とか言っておられましたが」

「それだ。『七瀬祓』とも言うがな。つうか、今日のは正確にはその下準備だ。街の穢れを集めて……ああもう、説明するのも面倒くせえ! 枕木のおっさん、解説任せた」

「任されました。と言っても火乃宮さん、七瀬祓はご存知ですよね?」

「はい、課長。偶数月の月末に鴨川の河原で主任が執り行っている儀式ですよね。街に漂う穢れ――つまり、悪い思念や気配を集め、川に流すことで浄化するという」

「そうです。いわば霊的な定期清掃ですね。それを年の瀬には規模を拡大して行うことになっているんです。いつもは川辺だけで実施していますが、年末は街中のあちこちで穢れを人形に吸収し、街を徹底的に綺麗にするわけです」

「人形ってのはこれな」

 人型に切り抜いた葉書サイズの和紙を内ポケットから取り出し、春明が枕木を補足した。

「穢れや呪詛や怨念みたいな陰の気は、扱う目的によって容れ物の形が変わってくる。呪詛を放ちたい時には皿や茶碗みたいな形が都合が良いんだが、逆に吸い込んで溜め込む器には、人の形がちょうどいいんだ」

「つまり、いつものが簡単な掃除だとすると、年末に行うのは大掃除のようなものということですか?」

「正しくそういうことです。今日と同じように、街の何箇所かで五行君に穢れを集めてもらって……」

「あとは週明けの月曜日に川に流せばお終いだ。ちゃんとついてこいよ、火乃宮」

 枕木の言葉を受けながら、指に挟んだ人形をくるくると回す春明。街の穢れを吸い込んだ呪物をそんなぞんざいに扱っていいものなのだろうか。祈理は思わず眉をひそめ、その直後、首を傾げて春明に問い返した。

「月曜にやるんですか?」

「それがどうかしたか。特に予定も入ってないだろ」

 人形を指で挟んだまま、春明が壁に吊るされたシンプルなカレンダーに目をやった。市内の異人の顔役の一人、天狗の大杉の経営するアウトドア用品店からもらったもので、来週の月曜日の日付の下には「忘年会」とだけ赤ペンで書き込まれていた。仕事納めにはまだ少し早いのだが、枕木の予定や翌日が祝日であることなどから、この日に決まったのである。それを確認した後、春明は目を細めて祈理に向き直った。

「まさかお前、朝から忘年会するつもりなのか? ……あのな、火乃宮。社会人一年目のお前は知らないかもしれないから教えてやるが、忘年会ってのは、仕事が終わった後、夜にやるもんだ。日中は普通に仕事するんだぞ」

「そんなことは分かってます。ただ、週末から週明けは天気が悪いって予報が出てましたから……川辺で儀式をやるなら、天気のいい日にした方がって思っただけで」

「俺だってそうしたいが、陰陽術には吉日ってものがあるんだよ。で、さっき占ってみたら今年の大祓は月曜の昼前って出ちまった。雨天順延ってわけにはいかねえんだ。なあおっさん?」

「ええ。……しかし、月曜日の午前ですか。それは少し困りましたね」

 今度は枕木が顔を曇らせた。どうかしたのだろうか。祈理が春明と顔を見合わせて理由を尋ねると、枕木は小さくうなずいた。

「お二人が帰ってくる少し前、市の文化財課から電話がありましてね。三条通の改築現場から平安時代の遺物が見つかったので、危なくないか陰陽課に鑑定してほしいとのことでして」

「へえ。うちってそういう仕事も来るんですね。遺物って具体的には?」

「土器や陶器や木簡の破片など、まあ、市内のどこからでも見つかるようなものだそうです。ただ、一見して無害でありふれたものであっても、危険なことがあるんですね。火乃宮さん、呪詛玉のことを覚えていますか? 春に私が呪詛を受けてしまった時の」

「はい。お茶碗みたいな土器を組み合わせて呪いを込めた道具ですよね。課長がお世話をされているプランターに埋められていて……」

 春先に起こった陰陽課解体騒動のことを思い出しながら答える祈理。そうです、と枕木はうなずいた。

「ああいうものが出土する可能性もあるわけです。呪詛は五行君が持っているような人形に込めることもできますし、何らかの危険な命令……例えば暗殺や施設の破壊などを命じられた使役神などが封じられている場合もあります。そういった取り扱いの難しい出土品が、この街の地下からは結構見つかるんですよね」

「とんでもない街ですね」

「歴史があるというのはそういうことですよ。というわけで、年末年始で博物館が無人になる前に確認しておきたいので、月曜の午前中に来て判定してほしいと」

「なるほど。でも、どうしてその日なんですか?」

「件の遺物は今、文化博物館の別館に預けてあるそうなんです。で、博物館の担当者が言うには、万一にも来館者に被害が及ぶといけないので、鑑定は休館日である月曜日に行ってほしいと言っているとのことで」

「担当者? あー、あの怖がりか」

 枕木と祈理の会話を聞き流していた春明が、いきなり悪態をついた。知ってる人ですか、と祈理が視線で問うと、春明はうんざりした顔でうなずいた。

「文博の遺物管理係は古株の異人なんだ。悪い奴じゃあないんだが、慎重すぎる性格でなあ。石橋を叩いて結局渡らない部類の奴だよ」

「へえ……。あれ、でも、異人法では異人さんは公職には就けなかったはずでは?」

「バーカ。文化博物館は公営じゃねえよ。あそこには昔から異人が何人か勤めてる。で、呪詛だ封印だって代物は市役所では扱いかねるだろ? だから、その手の出土品は文化財課が取りまとめてあの館に管理と判定を一旦委託して、鑑定した上で文化財課へ戻すって段取りが決まってるんだ」

「何だかまだるっこしいような……」

「そろそろ学習しろ。それがここのやり方だ」

 呆れる祈理を春明が睨む。この街に根付いた非効率的な慣例については思うところは色々あるが、ここで反論しても仕方ない。祈理はやや憮然とした顔でうなずき、「ともかく」と課長と春明を見回した。

「そういうことなら博物館に行かないと。課長は駄目なんですか? 課長、陰陽術にも詳しいですよね」

「私はその日、御霊委員会の方達と会う予定が入ったんですよ。皆さん年の瀬はお忙しいですし、そんな中で予定を合わせてもらった以上、動かすわけにもいきません。そもそも私の知識はあくまで付け焼刃ですからね」

「だよなあ。俺だって大祓の日程は変えられねえ。次の吉日は年明けになっちまうからなあ。仕方ない、火乃宮、お前一人で行ってこい。博物館の別館は分かるな?」

「はい。行ったことはないですが位置は把握して――って、えっ?」

 反射的に首を縦に振った直後、祈理の声が裏返った。急に何を言い出すんだこの公認陰陽師は。

「主任? あの、わたし、出土品の鑑定なんかできないですよ……? 全く自慢ではありませんし、何とかしないとと思ってはいますが、そういう知識も技術も全然」

「そんなことは知ってるから安心しろ。鑑定用の札を書いてやる。かざすだけで霊的な危険性を確認できるから、それを持っていけばいい。大祓は俺一人いれば間に合うからな」

「なるほど、そういうことなら……。いや、でも、万一博物館で何か起きたらどうするんです? 呪いが発動したり、封印されていた危険なものが出てきたら、わたし何の役にも立ちませんよ」

「そっちについても安心しろ。博物館の担当者は、腕っ節も強いし調伏の術の達人だ。よっぽどの化け物が相手じゃない限り大丈夫だし、そもそも京都の街は何度も何度も掘り返されてるんだから、今さらそんなのが出てくることはまず有り得ない。それに、だ」

 そこで言葉を一旦区切り、春明は祈理をじっと見た。チンピラじみた言動に似合わない少年のようなまっすぐな瞳で見据えられると、つい気恥ずかしくなってしまう。押し黙る祈理を見据えたまま、春明は言葉を重ねた。

「お前、入ってそろそろ一年……は経たないが、もう九か月だろ。で、その間に色々あったろ」

「ええ、まあ……。春にも夏にも秋にも、色々と」

 春明の言葉の真意が掴めないまま、祈理は素直に首肯した。ちなみに、この「色々」の中には、式神である春明の主に祈理が収まってしまったという一件も含まれるが、それは当事者二人だけの秘密である。祈理としては枕木くらいには話していいと思うのだが、春明が未だに拒むのだ。その場の勢いで未熟な新人と主従契約を結ぶというのは、式神的には相当恥ずかしいことらしい。

「確かに色々ありましたけど、だから何なんです?」

「もうそろそろ一人で動いてもいい頃だって話だよ。いくら頭の固いお前でも、さすがに慣れて来ただろ。いつまでも俺やおっさんに頼るな」

「――え」

 春明の意外な提案に、祈理は思わず目を丸くした。ガラが悪くて人を人とも思わず、祈理のことを知識も経験も実力も全く足りていない頭でっかちの堅物と常日頃から公言している、この公認陰陽師の言葉とは思えない。祈理がきょとんと絶句する隣で、ははあ、と枕木が嬉しそうにうなずいた。

「つまり五行君はようやく火乃宮さんを一人前と認めたわけですか」

「……何?」

「違うのですか? 火乃宮さんを一人で送り出すように五行君が提案したということは、上司として先輩として、後輩の成長を認めたということでしょう」

「そう言われると――いや違う。違うぞ」

 釣り込まれて納得しかけた春明が、慌てて首を横に振った。違うからな、と繰り返しながら、春明は祈理をまっすぐ指差した。

「こいつは、知識も経験も実力も全く足りてない、頭でっかちで堅物のメモ魔だぞ? 一人前扱いなんかできるわけないだろう。そりゃあ春先よりは少しは使えるようにはなってるが、千二百年やってきた俺からしたら全然まだまだで……」

 ぶつぶつと悪態を重ねる春明だったが、その顔は薄赤く染まっていた。春明は地肌が白いので、赤くなるとすぐ分かる。どうやら自分で気付いていなかった真意を枕木に言い当てられて動揺しているようだ。

 千二百年やってきたベテランにしてはあまりに大人げないリアクションだったが、春明がそういう人であることを祈理はよく知っていたし、何より、認めてもらえたことは嬉しい。なので祈理は素直にお礼を言うことにした。

「ありがとうございます主任! わたし、主任の期待に応えられるよう、頑張ってきます!」

「お、おう……。つうか別に頑張るような仕事じゃねえし、そもそも期待してるわけでもねえからな?」

「五行君は、しっかりやってください、と言いたいようですね」

「はい、それは分かります。頑張ってきますね、主任!」

「勝手に訳して勝手に分かるな」


☆☆☆


 そして週が明けた月曜日、午前十時少し前。烏丸通り脇の歩道を、祈理は一人で文化博物館に向かっていた。

 右手には傘を差し、左手に提げたバッグの中には春明が書いてくれた鑑定用の呪符が入っている。先週の天気予報の通り、灰色の空からはちらちらと雪が舞い、車の行き交う広い道路や歩道をうっすら白く染めていた。

 陰陽課の事務所の入っている市役所別館は京都市の北側、上京区の堀川通近くにある。文化博物館のある烏丸三条へは充分歩いていける近さだ。

 京都では雪が積もることはそうそうないとは聞いており、実際、降ってきた雪も地面に着くなり消えてはいるが、寒さだけはどうしようもない。底冷えした空気にぶるっと体が震え、祈理は次の休みにでも帽子を買おうと思った。

「マフラーも欲しいんだけど、どこで買おうかな……」

 主任、女子向けのお店には詳しくなさそうだけど、駄目もとで聞いてみようかな。そんなことをぼんやり考えながら、一定のペースで歩き続ける。通りに交わる細い路地を覗けば、大掃除で出たゴミらしき古い家具や家電が軒先に積まれているのが目に入り、祈理は年の瀬をしみじみと実感した。

 そのうちに「三条通」の標識が見えたので、角を左に、つまり東に折れる。烏丸通りが京都の市街地の中心部を南北に貫いているのに対し、三条通は街を東西に貫いている。縦横の無数の通りが碁盤の目状に行き交う京都市の構造は、最初こそ似たような景色ばかりで困惑したが、慣れてしまえば把握しやすい。

 春には戸惑いながら迷っていた街を、今では一人の社会人として公務員として、行き先もしっかり把握して歩いている。その事実に改めて嬉しさを覚え、祈理は歩調を少し速めた。

 程なくして、ビルの向こうにモダンな建物がぬうっと現れた。ゴシック式の屋根を担いだ赤い煉瓦造りの二階建てで、白い花崗岩の横線がアクセントになっている。京都の文化博物館だ。博物館というものは大通りに面しているか、交通の便が良い郊外に建っていると祈理は思っていたのだが、この館は市街地のブロックのど真ん中に位置しており、地図で調べた時は驚いた。

 初の一人での仕事であるから、祈理はいつも以上に下調べに力を入れていた。この建物はそもそも明治時代に建てられた日本銀行の京都支店であったことも、十九世紀後半にイギリスで流行った建築様式を取り入れていることも、東京駅を手掛けた建築家の作品であることも、この別館の隣には新築された本館があることもしっかり予習済みだった。だったのだが。

「……あれ? どこから入るんだろう」

 休館日なのでもちろん正面玄関は閉じているし、公開されている情報には職員用玄関の場所は記載されていない。別館の周りを二、三周した後、ようやく通用口が見つかったのでインターホンを鳴らす。陰陽課の者と名乗ると、「お待ちください」と野太い声が響き、ややあって大柄な五分刈りの男性が現れた。

「学芸員の田巻です」


「いや、わざわざご足労いただき申し訳ありません。陰陽課さんがこの時期にお忙しいのは分かっていたのですが、やはり大事を取りたく思いまして。普段なら私どもだけで判定を済ませるのですが、うちの顧問がどうも嫌な予感がすると言い出し、私も同じような不安を感じたもので……」

 田巻と名乗った男が、地下に通じる階段を下りながら丁寧に祈理に説明する。外観やここに来るまでに通った玄関同様、地下も年季の入った造りで、壁は白い漆喰で覆われ、木製の階段の手摺には精緻な彫刻が刻まれていた。祈理は「万全を期すのは大事なことだと思います」と言葉を返し、先を行く田巻の後ろ姿を見下ろした。

 見たところ年齢は三十代半ば、ワイシャツにグレーのベストにスラックスという出で立ちで、所属を示す名札を胸ポケットに差し込んでいる。がっちりした筋肉質の体格に浅黒い肌、刈り込んだ短髪に太く落ち着いた声。博物館の学芸員と言うよりも、経験豊富なボディガードかSPのように見える。

 確かに主任の言っていた通り、慎重そうで、なおかつ強そうな人だな。

 なるほどと納得した後、祈理は小さく首を傾げた。初めて会う異人だが、種族は何だろう。立派な体つきからすると、鬼か天狗あたりだろうか?

「あの……田巻さんも、異人さんですよね」

「はい。ですから、この時期はどうしても捨てられた頃を思い出してしまい、気分が沈みがちです」

「『捨てられた』?」

「ああ、ご存知ではなかったですか。私は付喪神なんですよ」

 軽く振り向いて田巻が言う。その言葉に、祈理は素直に驚いた。付喪神という種族のことは知ってはいるし、軽く挨拶を交わしたことくらいはあるが、仕事でしっかり関わるのはこれが初めてだ。

「付喪神って、古い道具の妖怪……じゃない、異人さんですよね。百年経った器物が化けられるようになって、それで生まれたのが付喪神で、『つくも』という名前は、九十九、つまり、百に一だけ足りないくらいの長い期間を意味するとか……」

「ええ、それです。古道具の化身として、博物館は居心地が良いんです。古いものを扱い重んじる場所ですからね。ここには私以外にも何人かの付喪神が働いています。しかし、お若いのにお詳しいですね」

「いえ、そんな。まだまだ勉強中の身ですから……。それで、捨てられたと言われましたが、やっぱり大掃除で……?」

「そうです。立春前の煤払いで捨てられた器物の変化なんです」

「ふむふむ、なるほど。器物というのは、具体的に」

「数珠です。木製の球を連ねたあれですね。付喪神について書かれたものの中で一番古いのが『付喪神記』という中世の物語なんですが、私はそこに登場する数珠の化身です。付喪神としての名前は『一連入道』というのですが、ご存知ないですか?」

「え? す、すみません……。存じておらず……」

 素直に祈理は頭を下げた。「付喪神記」の名前くらいは知っていたが、その具体的な内容や登場人物まではさすがに把握していない。恐縮する祈理を見て、田巻は盛り上がった肩をすくめて苦笑した。

「お気になさらず。狐や鬼や天狗のような錚々たる方達に比べると、付喪神はどうしたってマイナーで目立たないグループですからね。頭数も少ないし、個々の能力も大したことはない」

「そうなんですか? うちの主任は、こちらにいらっしゃる異人さんは力も強いし術も使えるから、何かあっても大丈夫だ、って……。田巻さんのことですよね」

「あの五行さんがそんなことを? 光栄ですね。まあ確かに、人並み以上の力はありますが、これくらいは異人としてはありふれた資質です。多少の術もたしなんではいるものの、先天的な能力ではありません」

「と言うと」

「学んで身に着けたんですよ。『付喪神記』では、捨てられた道具達が団結して人を襲うわけですが、数珠が変じた一連入道だけはそんな仲間達と対立し、一人、仏門に入って修行するんです。このあたりのいきさつもご存知ない……ようですね」

「……すみません」

 再度頭を下げる祈理。ちゃんと読んでおこう、と祈理が心の中でメモを取ったのと同時に、田巻は地下二階に到着し、「第二作業室」と記されたドアの前で足を止めた。「関係者以外立ち入り禁止」のシールが貼られた、丈夫そうなスチールのドアである。鍵は掛かっていなかったようで、田巻は無造作に中に入って照明を点け、どうぞ、と祈理を促した。

「失礼します」

 おずおずと祈理は作業室に足を踏み入れた。四畳半の部屋を二つ並べたほどの、細長い部屋だ。階段や玄関と同じく壁は白漆喰で、木製の床は黒みがかった褐色。入ってまず目についたのは、縦横二メートルほどの大きなテーブルだった。

 作業台なのだろう、その広いテーブルの上には、これまた大きなプラスチックのケースが三つ積み上げられている。衣装ケースを押し潰したような、面積が広く高さの低いケースの中には、土器の破片や土のついた木片などが雑然と並んでいた。

「田巻さん、調べる出土品ってこれですか?」

「はい。そこに積んであるのが全部、今回鑑定をお願いしたい遺物です。いずれも東洞院通沿いの古い民家の改築で見つかったものです。土台を補強するために掘り返したら出てきたとか」

「東洞院沿い? そこってもしかして、何か曰く付きの場所だったりしますか? 京都ってそういう場所多いですし……」

「ああ、そこはご心配なく。確かに、不吉な謂れのあるポイントは市内に幾らでもありますが、今回の遺物の発掘場所はそのいずれとも異なります。なら何が不安なんだと言われると、そういう気がするとしか申し上げられないのですが……。ああ、コートはそちらの椅子にでもおかけください」

「あっ、はい。ありがとうございます」

 脱いだコートをパイプ椅子に掛け、祈理は改めて作業室を見回した。部屋の奥の棚には金属製の定規や刷毛など使い込まれた道具類が、あるいは遺跡の発掘報告書やファイルなどが整然と並び、隅のデスクには使い込んだ感のあるノートパソコンやプリンターが置かれている。いかにも博物館のバックヤードらしい実務的な部屋だったが、ただ一点、場違いに見えるものがあった。

 入って左手の壁の前に置かれた、高さ一メートルほどの小さな展示台である。台の上には色褪せた茶褐色の巻物が一つ、まるで祀るように安置されていた。博物館なのだから展示台や巻物があるのは不思議ではないが、他の備品や史料とは扱いが違うように感じられ、祈理は小さく眉根を寄せた。

「あの巻物は何なんですか? すごく大事そうですけど」

「大事ですよ。何しろ、ここで一番古くて一番貴重な史料です」

「へえ……。だから特別扱いなんですね」

「ええ。何より、私の仲間でもありますからね。適当な扱いはできません。どうぞ。こちらが今日鑑定をお願いする遺物のリストです」

 そう言いながら、田巻がデスクから取ってきたクリップボードを差し出す。巻物が仲間? 祈理は一瞬訝しんだが、理由を尋ねるまでもなく納得した。

 古道具の化身である田巻にしてみれば、たとえ人間の姿に化けて話すことはできなくても、古い器物は自分の同類ということなのだろう。なるほど、とうなずき、祈理はクリップボードを受け取った。

 ボードに挟まれていたリストは五枚。出土品の名称や番号、サイズなどが事細かに記入されており、最後のページには安全確認者がサインする欄が設けられている。

「土器の欠片、陶器の欠片、木簡の欠片……。どれも破片ばかりなんですね」

「遺物がまともな形で出土することは稀ですからね。今回だと、形を保っていたのはこの皿くらいです」

 遺物を机に並べ始めていた田巻が笑い、ヒビの入った茶色い丸皿を掲げてみせた。直径約二十センチ、模様も色もないシンプルな素焼きの皿だ。それを含めた出土品を慣れた手つきで並べ終えると、田巻は「では」と祈理に振り返った。

「さっそくですが、鑑定の方をお願いします」

「は――はい!」

 思っていたより大きな声が出てしまい、祈理は赤面した。一人での初仕事とあって緊張してしまっているらしい。しっかりなさい、難しい仕事じゃないんだから。自分で自分に言い聞かせ、祈理はバッグからお札を取り出した。

 文庫本を縦に二冊並べたくらいのサイズの和紙に、字とも絵ともつかない文様が朱砂混じりの墨で描かれている。春明が面倒くさがりながらも用意してくれたものだ。

 ――使い方? 心配するな、めちゃくちゃ簡単だ。つうかお前が使えるように簡単なのを作ったんだよ。枕木のおっさんだったらもうちょっとシンプルな奴でも使いこなせるんだが、お前は心底ど素人だからなあ。何が悲しくてこんなのを主に選ん……何? 苦言はいいから使い方を教えろ? 持ってかざせばいいんだよ。下にまずいものがあったら、持ち主にそれを教えてくれる。呪文も印も不要だから、どんな馬鹿でも使えるぞ。良かったな。

 これを渡してくれた時の春明の言葉と表情が、祈理の脳裏に蘇る。そこまで馬鹿にしますか、とは思ったが、何だかんだ言いつつも素人向けにアレンジしたものを作ってくれたのはかなりありがたい。今頃は鴨川沿いで大祓を始めているであろう春明に心の中で感謝し、祈理は呪符を持ったまま隣の田巻を見た。

「じゃ、じゃあ、始めますが……。あの、田巻さん」

「何か?」

「もし、もしですよ? 万一、悪いものが見つかった場合は、その時は対応をお願いしていいんですよね? 市民を守るべき陰陽課の職員がこんなことを言うのはほんとに心苦しくて申し訳ないんですが、さっきもお伝えしましたように、わたし、主任と違って、陰陽師でも何でもないので……」

「そこはご安心を。五行主任の使われる陰陽術が正邪の気配の感知や鬼神の具現化に長けた技術体系であるように、私が仏門で修めた修験系の術は降魔調伏に特化しています。要するに、私、良いか悪いかの判断は苦手ですが、悪いものを追い払うのは得意なんですよ。判定だけしていただければ結構ですから」

 頼もしげにうなずいた田巻が、浅黒く武骨な指を組み合わせて複雑な印を組んでみせる。その形の意味は不勉強な祈理には分からなかったが、本人がこう言っているわけだし、春明も太鼓判を押した人物なのだから、信用して大丈夫だろう。そのはずだ。「よろしくお願いしますね」と重ねて念を押した後、祈理は並べられた遺物の上に恐る恐る札をかざした。

「こ、これでいいのかな……? うーん……」

「どうですか?」

「今のところ、何も反応ないです……と思います」

 田巻の問いかけに、祈理は札をかざしたまま応じた。危険なものを発見した時、お札がどうやって教えてくれるのかはよく分からないのだが、何も反応がないということは安全という意味だろう。たぶん。

 不安げに首を傾げつつ、霊符を少しずつ移動させる。祈理はそのまましばらく鑑定を続けたが、割れた陶器や土器の上でも、唯一破損していなかった皿にも、霊符は全く反応しなかった。

 ――そもそも京都の街は何度も何度も掘り返されてるんだから、今さらそんなのが出てくることはまず有り得ない。

 春明の呆れた声が自然と思い起こされる。あの言葉通り、田巻さんが慎重すぎただけで、危険なものはないようだ。まあ、それならそれでいいんだけれど。ほっと安堵しかけた祈理だったが、木簡の破片の上に札をかざした時、札を握る手がふいにびくんと震えた。

「え。えっ?」

 思わず漏れる戸惑いの声。右手で掴んだ札から警告が電流のように伝わり――実際に電気が流れたわけではないのだが、そういう風にしか説明できないのだ――同時に、木片がふわりと浮いた。

 土の汚れが染みついたままの無数の木片は、磁力でも帯びているかのように高速で引き合い、何らかの形状を作っていき、程なくして、元の木簡に――いや、手と足を備えた人の形に組み合わさった。まずい、と田巻が叫ぶ。

「トラップです!」

「と、トラップ?」

「ええ! 陰陽術に反応して発動する呪詛が仕掛けられていたんです! ここまで完全に気配を遮断するなんて、術者は相当の手練れだ! 下がって!」

「え? じゃあ調べたのがまずかったってことですか? で、呪詛ってどういう」

「分かりません! ですがおそらく、近くにいる者を片っ端から呪うか、あるいは適当な相手を操って暴れさせるタイプかと――グワーッ!」

 祈理を庇うように手を伸ばした田巻が、唐突に絶叫した。え? 急にどうしたんですか? 怯えながら眼を瞬いた祈理の前で、田巻は一度大きく痙攣し、そして猛獣のように咆哮した。

「ガアアアアアアアアッ!」

「えっ? ちょ、ちょっと田巻さん? どうし――ひゃああああああっ!」

「ガアアッ!」

 意味をなさない雄叫びとともに、田巻が力任せに腕を振るう。ひっ、と短く叫びながら反射的に身を屈める祈理。田巻の太い腕は机の上に並んでいた出土品を豪快に薙ぎ払い、土器や陶器が床に落ちて散らばり、砕けた。唯一未破損だった皿も真っ二つになってしまったが、木片が組み合わさってできた人形だけは壊れなかった。

 ――吸い込んで溜め込む器には、人の形がちょうどいいんだ。

 春明の言葉が再度祈理の脳裏に蘇る。今しがたの田巻の言葉や目の前で起こったことを合わせて考えると、どうやら出土した木片は木簡ではなく呪詛用の人形だったようだ。陰陽術を感知すると発動する呪いが仕掛けられていて、その呪いとは手近な誰かをめちゃくちゃに暴れさせるというものであり、田巻はそれに乗っ取られてしまったということらしい。

「そういうことか――って、どうしよう!」

 状況を把握するのと同時に、祈理の背筋がいっそう冷えた。危ないものが出てくるケースは想定していたが、頼りにしていた担当者が暴れ出すパターンはさすがに想定外である。

「え、えーと、この場合、異人法ではどう対応を」

「ガアアアアアッ!」

「きゃあっ!」

 へたり込みながら祈理が漏らした自問の声に田巻が反応し、再度腕を振り下ろした。

 それをどうにかとっさにかわすと、祈理は椅子に置いたバッグを掴み、部屋の奥に並ぶ棚の裏へと回り込んだ。

「ガ……ガアアアアッ!」

 祈理が隠れた棚の向こうから、大きな音と声が響く。荒れ狂った田巻がデスクをひっくり返しているのだ。完全に理性を失っているのだろう、とりあえず目に付いたものを反射的に壊しているらしい。

 追いかけてこないのは助かったが、このまま放っておくわけにはいかない。棚の陰からそっと様子を伺いつつ、祈理はバッグから携帯電話を取り出して電話を掛けた。発信先はもちろん春明だ。

「早く出てください主任……! あっ、出た! 主任、あの」

「現在電話に出ることができません」

 初期設定のままの留守電メッセージが無情に響く。ああもう! こんな時に限って! 思いっきり歯噛みした後、祈理は「出土品に仕掛けられてた呪いで、田巻さんが暴れています! 今、文化博物館の地下で襲われています! 助けてください!」と小声で告げて電話を切った。

 田巻は今、ガウガウと低く唸りながら作業用の机をガンガン殴りつけている。持ち前の怪力をフルに発揮しているようで、机はどんどん原型を失っていった。

 頑丈な机を力任せに破壊する、言葉も理性も失った屈強な男。

 言葉にしてみると相当に非常識で異様で恐ろしい光景だ。にもかかわらず意外に落ち着いている自分に祈理は気付き、驚いた。入庁して九か月、それなりに色々あったおかげで、思った以上に荒事や想定外の事態に慣れてしまっているようだ。

 ともあれ、パニックにならないのはありがたい。自分で自分に感謝しつつ、祈理は部屋の様子を確認した。今いる棚の陰からドアに向かってまっすぐ走り、階段を上れば、とりあえずこの場からは逃げられる。そのはずだ!

「っと、そうだ、あれを――!」

 思い切って飛び出した直後、祈理は慌てて部屋の奥へと向かい、台に置かれていた巻物を握った。それを握りしめながら踵を返し、今度こそドアへと走る。

 この古い巻物のことを、田巻は一番古くて貴重な史料で仲間でもあると言っていた。たとえ人格や知性がないただの器物であっても、市民が尊重している事物はできる限り守るのが公務員の責務である。

 馬鹿なことをしたかも、とは思ったし、春明がここにいたら間違いなく怒鳴りつけられていたろうが、祈理の選択は結果的には功を奏した。

 理性を奪われた田巻は機敏なリアクションが取れないようで、回れ右する祈理を追おうとして、足をもつれさせて派手に転んだのだ。

「助かった! って、喜んじゃ駄目ですよね、すみません! お大事に!」

 もんどりうった田巻の体を労わりつつ、祈理はドアを開けて飛び込み、階段を駆け上った。施錠できればベストだったが、あいにく鍵は室内だ。だが、すぐ追ってくるかと思いきや、スチールのドアをガンガン叩く音がするばかりで、田巻は姿を現さなかった。

 どうやら今の田巻には、ノブを掴んで回すという行為が思いつかないらしい。ほっと小さな安堵の息を漏らしながら、祈理は必死に階段を駆け上がり一階に出た。

「えーと、この後は……」

 立ち止まって逡巡する祈理。入ってきた通用口はすぐそこだ。このまま外に逃げることは可能だが、万一、田巻が後を追ってきた場合、街中に今の状態の彼を解き放つことになる。公務員として陰陽課として、騒ぎを拡大させるわけには絶対にいかない! 祈理は瞬時に判断し、館内に通じるガラス戸を開けた。

 ドアを抜けた先は、広い吹き抜けのホールであった。冷え切った静謐な広間を漆喰の壁が取り囲んでいる。壁は見事な純白で、黒い回廊とのコントラストが映えていた。美しい部屋ではあったが、見とれている場合ではない。

「えーと、どうしよう……。とりあえず主任にもう一度」

「まあまあ、そう慌てずに。落ち着きましょう」

「は、はい! そうですね、すみません……え? 今のは」

「私です。私」

「私って――えっ? ま――巻物?」

 握ったままの巻物を見つめ、祈理はぎょっと驚いた。信じられないことだが、確かに今の声はこれから――つまり、軸木に紙を巻いて茶褐色の装飾を施したこの古い器物から――聞こえた。思わず眉根を寄せる祈理の視線の先で、巻物はそれはもう穏やかな壮年男性の声を発した。

「いやあ、驚かせてしまってすみませんね。持ってきてくれて助かりましたよ。あのままでは私の身も危なかった」

「い、いえ、どういたしまして……。と言うか……喋れるんですか……?」

「はい。田巻君が私のことを何か話していませんでしたか?」

「仲間って言っておられてましたけど……あれって、思い入れがあるという意味ではなくて、本当に仲間ということだったんですか?」

「そういうことになりますね。私は見ての通り、古文書の転じた付喪神なんです。年老いて力が衰え、化けることができませんから、人としての名前はありませんが、仲間からはずっと『古文先生』と呼ばれております」

「こぶんせんせい……ですか。あっ、わたしは陰陽課の火乃宮祈理です」

 教えられたばかりの名前を繰り返した後、祈理は慌てて自己紹介した。確かに口調は教師っぽい……と言うか、引退したベテランの先生っぽくはあるけれど。そんなことを考えた祈理の手元で、古文先生が「はい」と答える。

「火乃宮さん、『付喪神記』はご存知ですよね。付喪神の名が登場した最古の記録です。あの話の冒頭で、古道具達に化け物になる方法を教えたのが、私なんですよ。季節が切り替わる時に、陰と陽が反転し万物の形が改まる。その瞬間に身を委ねることで、ただの器物でも魂を得ることができる、とねえ」

 穏やかに語る古びた巻物。地下で凶暴化した同族が暴れ回っているとは思えない落ち着きぶりである。それどころではないのではと祈理は焦ったが、古文先生はマイペースに言葉を重ねていった。

「付喪神だって年は取りますし寿命もあります。昔は古物の管理に勤しんでおりましたが、この姿のままでは働くこともできませんし、今では顧問としてたまにアドバイスするくらいです。そうそう、博物館のデータベースの管理もしているんですよ」

「データベースの管理? 失礼ですが、どうやって」

「私は器物由来の妖怪ですからね、道具との連携は得意なんですよ。今風に言えば、気合で電波を飛ばして無線でリンクするんですねえ。記憶している記述を任意の端末に送ることもできますし……論より証拠。一つやってみましょうか。スマホを見てごらんなさい」

「はあ……。え? うわっ! 物凄い量のデータの受信が始まってるんですが!」

「とりあえず今昔物語の全編のデータを送ってみました。諸事情で欠落した章も全て補完した完全版ですよ。欠落エピソードの一つ、巻第二十四の『保憲晴明共占覆物語』は、かの安倍晴明さんが自身の術をひっくり返されてしまうという特異な話でして」

「そんな話があるんですか」

「ええ。何しろ余談も逸話も多い方ですからねえ。ちなみに本来の安倍晴明さんは『晴れ』に『明るい』で『晴明』と書きますが、中世以降の物語本などでは『清い』に『明るい』で『清明』と表記されることもあるんですねえ。伝説上の大陰陽師として神格化されたキャラクターの場合、この名前が用いられるケースが多いです。さらに余談ですが大阪の茨木には」

「へえ……って、いや、その話も気になりますけど、今はちょっとそれどころでは!」

 我に返った祈理が、慌てて古文先生を遮る。興味深い話題だったので思わず聞き入ってしまったが、今はのんびり蘊蓄を聞いていられる状況ではないし、この付喪神は放っておくと際限なく余談を続けそうな勢いだ。

「とりあえず送信を一旦止めていただいていいですか?」

「構いませんよ。えい」

「あ、止まった。良かった……! それより田巻さんですよ! 古文先生さん」

「さん付けか先生のでどちらかでいいですよ」

「じゃあええと古文先生、付喪神になる方法を知っておられたということはつまり、異人さんについてお詳しいんですよね」

「それほどでもありませんよ。精々、京都と平安朝にまつわるあらゆる文献を記憶しているだけですから」

「充分です! だったら、田巻さんを元に戻す方法って――」

 祈理がそう巻物に問いかけた時、地下からドガーンと派手な破砕音が響いた。続いて獣じみた雄叫びが轟き、乱暴な足音が徐々に近づいてくる。絶句する祈理の手元で、古文先生がのんびりと言う。

「おや、田巻君がドアを破ったようですね。さすがは一連入道、心身を鍛えているだけのことはある。羨ましいことです」

「感心してる場合じゃないですよ! 止めないと」

「ふわああ……。ああ、また眠くなってきました。この時間はいつも寝ているもので……というわけで、後はよろしくお願いします」

「え? はい? いや、よろしくと言われましても、どうしたら」

「簡単ですよ。彼を操る呪詛の元を絶てばいいんです。では、おやすみなさい」

 その落ち着き払った一言を最後に、巻物は再び静かになった。え、と思わず固まる祈理。このタイミングで寝ることはないだろう!

「ちょ、ちょっと先生ー? 具体的にどうやるんですかそれ!」

「ガアアアアアアアアッ!」

 狼狽える祈理の呼びかけに答えたのは、古文先生ではなく田巻だった。吹き抜けのホールに通じるガラス戸を蹴破った田巻が、荒い呼吸とともにホールへ足を踏み入れる。体が相当頑丈なのだろう、ドアや机を叩き壊してきたはずなのに、ボロボロなのは服だけだ。完全に理性も知性もない瞳を向けられ、祈理の呼吸が止まった。

「ひっ……!」

「ガアッ!」

 祈理を次の獲物に定めた田巻が、一声唸って床を蹴る。祈理はとっさに巻物と自分とを庇ったが、その時、第三者の声が割り入った。

「――朱雀、玄武、白虎、勾陣、南斗、北斗、三台、玉女、青龍ッ!」

 張りのある凜とした声がホールに響く。

 瞬間、祈理の周囲に不可視の防壁が出現し、飛びかかってきていた田巻の体を弾き飛ばした。ぐわっ、と短い悲鳴を漏らして転がる田巻。その身を思わず案じつつ、祈理は深く安堵していた。

 今自分を囲んでいる透明な立方体は「九字の印」。春明の得意とする術の一つだ。使い手の姿は見えなかったが、駆けつけてくれたに違いない。

「助かりました主任! 携帯の留守電聞いてくださったんですよね? わたし、もうどうしたらいいかと――」

「あいにく僕は君の『主任』じゃないよ。声が違うだろ?」

 感極まった祈理の呼びかけを、階上からの苦笑が断ち切った。

 若々しい男性の声が、祈理の耳に滑り込む。言われてみれば初めて聞くその声に、祈理は戸惑い、視線を上げる。

 はっと見つめた先、二階の回廊の手すりに腰掛けていたのは、見たことのない若者だった。

 年の頃は二十歳前後、身長は百七十センチ強。手足の長いすらりとした痩身で、赤いタートルネックに白のジャケットを重ねている。髪形は前髪を下ろしたミディアムヘアで、整った顔に浮かぶのは爽やかな笑み。祈理は「どなたです」と尋ねようとしたが、それより一瞬早く田巻が飛び起きた。

「ガアァアアアァアッ!」

「田巻さん?」

「へえ。九字で弾かれたくらいじゃ抜けないのか。相当嫌らしい呪詛だね。でも」

 若者がふいに手を叩くと、手の間に、人の形をした小さな何かが現れた。それが何かに気付いた祈理が「あ!」と声をあげる。

 木片が集まって完成した人形、田巻を操って暴れさせた張本人だ。地下二階の床に転がっていたはずのそれを、若者はどうやってか瞬時に手元に引き寄せたのだ。祈理が凝視する先で、若者は人形を両手でつまみ、事もなげにベキッとへし折った。

「はい。これでよし」

「……ガウ」

 若者のさっぱりとした声とともに、田巻はまるで糸を切られた操り人形のように仰向けに倒れ、そのまま動かなくなった。胸板が上下しているところを見ると、ただ気を失っているだけのようで、それはそれで一安心だ。なのだけど。

 あまりに急展開過ぎて、状況が上手く把握できない。おろおろと困惑する祈理に笑みを返すと、若者は回廊の手摺から一階の床へ――祈理の眼前へと華麗に飛び降り、壊した人形を投げ捨てた。

「憑依操作型の呪詛は、発信源を砕けば簡単に解除できる。知らなかったかな」

「す、すみません、不勉強なもので……。どなたか存じませんが助かりました。ありがとうございます!」

「いいさ。君を傷つけさせるわけにはいかないからね」

 フランクに語りながら、若者が祈理に歩み寄る。え、と祈理は再び戸惑った。

 わたしを傷つけさせるわけにはいかない? どういう意味? と言うかえらくフランクですが初対面ですよね? それに、距離が近くないですか……?

 尋ねたいことは幾つもあるが、文字通り目と鼻の先で爽やかな笑みを浮かべられると、どれも上手く言葉になってくれない。自分と同じくらいの年齢の男子とこんなに近づいたことはないのだ。困惑と照れで固まる祈理を若者はもう一度笑顔で見下ろし、「じゃあ、今日はこれで」と告げようとしたが、そこに激しい足音とガラの悪い大声とが割り込んだ。

「遅くなった! おい火乃宮生きてるな! 死んでたら承知しね――え?」

「はい? あ、しゅ、主任? いやこれはそのええと」

 ホールに駆け込んできた春明が、祈理と若者を見て静止する。祈理は慌てて状況を説明しようとしたが、春明はそんな主人兼部下には目もくれず、白ジャケットの若者をただ凝視し――ややあって、震える声を発した。

「あ――主?」

「え。主任、今、何と――」

 自分に問いかけられているわけではないと知りつつも、祈理は思わず問い返した。

「あるじ」と呼んだように聞こえましたが、それって、わたしのことじゃないですよね。ということは、もしかして、この若者は……?

 驚く祈理の傍らで、春明は片膝を突いて首を垂れ、祈理が今まで聞いたことのない声を――心底、真摯で誠実な声を発した。

「――ご無沙汰しております、主」

「久しぶりだね、白獣。でも僕は主じゃないよ。強いて言うなら『元主』かな」

「は、はい……! 主――じゃねえ、元主におかれましては、お変わりなく……」

「うん、おかげさまでね。君も、可愛くて新しい主と上手くやっているようで、何よりだ。僕が頼んだ通り、ちゃんと街を守ってくれていることに礼を言うよ」

「え。も――もったいないお言葉を――ありがとうございます……!」

 青年の気さくな言葉に、春明が感極まった声を漏らし、ありがとうございます、と繰り返す。こんな春明の姿を、つまり、他人に心からの敬意を示す姿を見るのは、知り合って以来初めてだ。祈理は驚き、そして青年の正体を確信した。同時に、青年が祈理へと向き直る。その瞳が黒みがかった赤であることを、祈理はこの時知った。

「火乃宮祈理さん、初めまして」

「は、はい……。初めまして。あなたは――」

「もう気付いてるだろう? そう。白獣のかつての主、安倍晴明と申します」

 邪気のまるでない涼やかな笑みが、目を丸くする祈理に、そしてその隣でかしこまったままの春明へと向けられる。二人の様子が面白かったのだろう、「安倍晴明」と名乗った若者は口元を押さえてくすくすと微笑し、「少し気が早いけど、良いお年を」と言い足したかと思うと、フッと姿を消したのだった。