第一話 産女の怪


 明治九年も盆を過ぎ、ほんの少し前まで朝からジワジワと鳴いていた蝉の声は、ツクツクボウシにとってかわった。夏は盛りを終え、朝晩はすっかり涼しく過ごしやすくなっている。夏場の暑さには辟易していたので、嬉しいかぎりだ。

 香澄が銀座の片隅にある日陽新聞社で働き始めて早三ヶ月半。仕事は掃除やお茶くみなどの雑用がほとんどだが、それでも楽しく勤めている。

 女性に与えられる仕事といえば、奥向きや客相手の女中がほとんどで、雑用とは言っても女性が男性の職場で働くのはまれなことだ。男の職場に女が入り込むことを嫌う男性も多いというのに、日陽新聞社の社員たちは十六歳の香澄が一緒に働くことを、あまり気にしていないようだった。

「香澄ちゃんが掃除をしてくれるとぴかぴかになるな」

 顎鬚を撫でながら香澄の仕事ぶりをにこにこと褒めるのは、日陽新聞社の社長である。少々くたびれた洋装の、四十絡みの男性だ。元浪人だった彼は、江戸のころは傘張りで糊口を凌いでいたと聞く。

「ありがとうございます。そう言ってもらえると嬉しいです」

 週に四日、男性陣よりも遅い時間に出社する香澄の一番の仕事はお茶くみで、その次が掃除だ。まずは編集室、それから一階にあるサロン。そして廊下や階段の掃除まですると、午前中は終わってしまう。午後からは郵便や書類を整理したり、記事の清書を手伝ったりしている。

「サロンの掃除に行くのかい?」

「はい」

 編集室の掃除を終えて、ハタキと布巾を手に部屋を出ようとした香澄は、背中に声をかけられてふり返った。

 声の主は記者の内村で、社長と共に日陽新聞社を立ちあげた一人だ。社長と同じ年回りの男性で、彼もまた洋装を身に纏っている。

 内村は書物と書類が積みあがった向かいの机へちらりと目を向けた。仕事が溜まっているというのに、その席の主は不在である。

「悪いんだけど、下に行ったら、久馬に戻るように言ってくれるかい?」

 その席は日陽新聞社で働く三名の記者の一人、内藤久馬のものだ。

 その久馬こそ、香澄が日陽新聞社で働くきっかけとなった男なのである。

 香澄が新聞社で働き始めたのには、いろいろと事情があるのだが、表向きには香澄と久馬の父親同士が知り合いだった伝手を頼って、久馬の職場である日陽新聞社で働き始めたことになっている。

 そんなわけで、香澄に何かあれば久馬が呼ばれ、久馬に何かあれば香澄に声がかけられるのは致し方ない。致し方ないことなのだが――。

 久馬は、とにかく仕事をしないのである。

 彼はいつも勤務時間の半分をビルの一階にあるサロンで過ごしている。さらに残りの半分は取材に出かけているので、席に座っていることのほうがめずらしい。あまりにそれが当たり前になってしまい、香澄は彼が席にいなくても気にならなくなってしまったくらいだ。

 香澄は思い切り溜息をついた。

「もう、またごろごろしてるんですか」

「いい加減にしないと、仕事が雪崩を起こすぞと脅してやってくれ」

 呆れ半分で言う内村に、久馬の隣の席で筆を走らせていた青年が顔をあげる。

「久馬さんの怠け癖は、なんとかならないんですかねえ」

 こちらは二十代だが十代にしか見えない童顔の記者、弥太郎だ。小柄なせいでよけいに若く見え、香澄と同じ年頃と言われても違和感がないくらいである。社長と内村が洋装なのに対し、彼はまだ袴姿だった。

「あいつも早く嫁をもらって、毎日尻を叩かれればいいんだ」

 何やら実感のこもる内村の拗ねたような口調に、弥太郎が恐る恐る訊ねる。

「つまり内村さんは……」

 妻の尻に敷かれているのか――とまでは、賢明な彼は言わなかったが、おそらくそう訊きたかったのだろう。

 内村は弥太郎にうなずくと、遠い目をした。

「いいか、弥太郎。この世に嫁さんという生き物よりも怖いものがいると思うなよ」

「やめてくださいよ。結婚するのが怖くなるじゃないですか」

 内村と弥太郎はふるえあがっているが、母を早くに亡くした香澄には、夫婦の関係というものはあまりよくわからない。少なくとも記憶の中の母は、父に穏やかに従う人だった。世の中、内村のように妻に怯える夫ばかりでもなかろうが、少なくとも久馬にはそれくらい強い相手が必要なのかもしれない。けれど……。

「いつ辞めさせられても文句を言えないくらいの怠け者に、お嫁さんなんてきてくれるんでしょうか?」

「…………」

 香澄の素朴な疑問に、内村と弥太郎は顔を見合わせて視線で会話する。何かおかしなことを言っただろうかと不思議に思っていると、社長が口を挟んできた。

「まあ、怠け癖には困ったものだが、あいつの顔の広さには助けられているからな。辞めさせることは当分ないから安心していいよ」

 どうして自分が安心しなければいけないのかわからずに首をかしげる香澄へ、内村が付け加える。

「久馬の奴は元与力の息子だけあって、町方の知り合いが多いんだ」

 久馬の父はかつて北町奉行所の与力だったと聞いた。与力とは江戸の町の警察のようなもので、町人たちと関わることも多かったらしい。

「久馬さんでも役に立つことがあるんですね」

 そう言って編集室を出た香澄は、「相変わらず香澄ちゃんは、久馬に対しては手厳しいな」と一同がつぶやいたことには気づかなかった。



 銀座ではめずらしくなくなった洋風ビルの一階は、瀟洒なサロンになっている。曲線を描く窓枠などは、いかにも欧米に追いつこうとする今の時代らしい。テーブルセットや長椅子などの家具も海外に倣っており、そこで情報交換をする人々のために新聞や読み物などがそろえられていた。日陽新聞社が発行している小新聞はもちろん、他社の新聞も。

 今の時代、新聞には二種類ある。小新聞と大新聞だ。小新聞とはかつての瓦版程度の大きさの紙に刷られた、娯楽新聞である。巷の出来事や読み物などをふり仮名をつけて掲載しており、女子どもを中心とした人々に人気だ。大新聞はそれよりも大きな紙に刷られ、政治や経済などお堅い記事が掲載される。読者は多くが学者や官僚である。

 そういった日陽新聞の内容に即し、そのサロンへやって来るのもだいたいが娯楽業を生業とする人々だった。芝居の宣伝に、己の書き物や画の売り込み、そして情報を収集しては帰っていくのだ。

「やあ、香澄ちゃん。おはよう」

「おはようございます」

「今日もたすき掛けにハタキが似合ってるね」

「所帯じみてるってことですか?」

「今日も可愛いって褒めてるんだよ」

「ありがとうございます」

 階段をおりてサロンへ踏み込んだ香澄に気づいた男たちが、次々とにこやかに声をかけてくるのに応えつつ、香澄は周囲をひととおり見まわした。そしてサロンの隅の長椅子に寝転んでいる男の姿を見つける。茶色いベストの洋装姿の彼は、長い脚を持て余すように組み、山高帽で顔を隠して横になっていた。

 香澄は早足で近づくと、手にしたハタキで彼の帽子をバサバサとはたく。

「久馬さん! 内村さんが、仕事が雪崩を起こす前に戻ってこいって言ってましたよ!」

「ああ?」

 帽子をふってハタキを払いのけた久馬は、面倒くさそうに身を起こした。年のころは二十代後半。長めの前髪を邪魔くさそうに掻きあげれば、端正な顔立ちが現れる。

「おまえ、ハタキはないだろう、ハタキは」

 顔をしかめて毒づいた久馬を、長椅子の近くでテーブルについている長髪の男が、煙管片手にふり返った。

「それは久馬さんが埃と同格ということでしょう」

「もう、艶煙さんも、久馬さんがぐうたらしてるのを見てるだけじゃなくて、追い返してくださいよ」

 長い黒髪を緩く結んだ彼は、小屋掛け芝居の一座の役者、芝浦艶煙だ。髑髏の画が染め抜かれた黒い着物に羽織姿で、無駄にあふれる妖しい色気のある彼は、細い目をさらに細めて笑う。

「いえいえ。あたしも久馬さんを追い返せるほど立派な人間ではないものですから」

 久馬と艶煙の関係をどう言い表すのが正確なのか、香澄にはわからない。久馬はよく「腐れ縁」だと言っているが。仲がいいのか悪いのか、彼らはいつもつるんでいる。それにもいろいろと、深い訳があるのだけれど。

 ぷかぷかと煙管をくゆらせる艶煙に、彼と同じテーブルに座っている男たちが同意する。

「そうだそうだ。内藤と艶煙は二人で一人の怠け者だよ」

「いつだって二人で、ぐうたらぐうたら」

「まったくお似合いだ」

 くっくと笑う彼らに、艶煙が嬉しそうにしなをつくる。

「いやですよう、みなさん。あたしと久馬さんがお似合いだなんて」

「嬉しそうに言うな、気持ち悪い」

 眉間に深い皺を寄せて吐き捨てるように言った久馬と、わざとらしい笑顔の艶煙を見比べて、香澄はうなずいた。なんて仲がいいのだろうか。

「ある意味お似合いですよ」

「やめろ」

 心底嫌そうに言った久馬が溜息をつき、面倒くさそうに立ちあがる。

「仕方がない、戻るか」

 足を踏みだそうとした彼は、しかしあくびを噛み殺しながらふり返った。

「そうだ、艶煙。夕方、忘れるなよ」

「あたしが久馬さんとのお約束を忘れるわけがないじゃないですか」

「なんだ、二人で悪い遊びか?」

 出かける約束を確認した艶煙は、同席の男に問いかけられて香澄を指さした。

「失礼ですねぇ。三人です」

 するとサロンの男たちが――艶煙と同じテーブルの二人だけでなく、他のテーブルの者たちまでが腰をあげて噛みついてくる。

「なんだと! 香澄ちゃんに何を教えるつもりだ!」

「うら若き娘さんに、おまえらのような遊び人が教えることなどないだろ!」

「いやだなぁ、大人の遊びを少々お教えするだけですよう」

「な……っ! 何言ってるんですか! 大人の遊びってなんですか!」

 今日はたしかに、久馬と艶煙と三人で夕方から出かけることになっている。けれど別に大人の遊びとやらに誘われたわけではない。

「艶煙はともかく、俺まで遊び人にしないでもらえませんかね」

「何を言っているんだ。まだ奉行所で修業中だったころ、ずいぶん遊びほうけていたことを、俺はちゃぁんと覚えてるぜ」

 煙管の灰を落としながら久馬の言葉を笑ったのは、浮世絵師の男だ。四十半ばくらいに見える彼は、久馬が十代のころを知っているようだった。思いだして欲しくないのであろう過去の話に、久馬は眉間の皺を深める。

「盛り場に足を運んでいたのは父の勧めですよ。情報収集にあれ以上適した場所はないってね。修業のうちだったんですから、忘れてください」

 与力は世襲の役目ではなかったが、その跡継ぎは家督を譲られた後、新規召し抱えとして父親と同じ役目を与えられることが一般的だった。そのため、元服から家督を継ぐまでの間は、見習いとして無給で働いていたのだという。おそらく彼らが話しているのは、その時期のことだろう。

 香澄とて子どものころの話を持ちだされるのは嬉しくない。久馬がしかめっ面になる気持ちもわかるが、正直、いつも彼にからかわれている香澄としては、彼が冷やかされているのを見るのは楽しくもあった。

 あくまでも修業だったと言う久馬に、浮世絵師は愉快そうに続ける。

「矢場じゃあ、おまえさんのほうが人気の的だったじゃねぇか」

 矢場とは的や品物を狙って矢を射る遊びを提供する遊戯場のことだ。しかし矢を拾う若い娘が色を売る店も多かったと聞いたことがある。つまり、久馬はそういった娘に人気だったということか。

 香澄はむうと唇をとがらせる。

「久馬さんは昔からもてたんですねー」

「久馬さんは矢場では引っ張りだこでしたよ」

「へー」

「よけいなことを言うな、艶煙。十年も昔の話だ」

 艶煙は元々は久馬の父親と知り合いだったそうで、久馬とも長い付き合いらしい。

「それで、遊び人と元遊び人が、香澄ちゃんに何を教えるつもりだ?」

「楽しい夜遊びです」

「香澄ちゃんに夜遊びを教えるなんて、お父上と兄上に斬られても知らんぞ」

 男たちは恐ろしげに香澄を見た。

 香澄の父と兄は官僚で、それ以前――徳川の時代には武士だった。たしかに二人とも剣術は身につけていたが、廃刀令が発せらる前から帯刀をやめており、当然、今も刀を持ち歩いてはいない。もちろん、刀は屋敷の床の間に飾られているし、手入れも稽古も怠るようなことはないけれど。

 香澄は今朝方も父が庭で鍛錬していたことを思いだした。

「お父様は居合抜きの達人ですけど、人に向かって刀を抜くことはありませんよ」

「居合抜き……」

 久馬がぽつりとつぶやいた。

 久馬はどこの流派か知らないが、弥太郎が言うには免許皆伝だという。怠け者の彼が毎日鍛錬を積んでいるとは思えないので、今はどうだかわからない。

「ええ、今でも毎朝稽古をしてらっしゃいます」

「艶煙、斬られるのは代表でおまえが頼む。じゃあな」

 久馬はひらりと手をふりながらそう言って、サロンを出ていった。

「待ってくださいよう、久馬さんも一緒に斬られてくださいよう」

「お父様はそんなことしませんから!」

 久馬の背中に哀れっぽく呼びかける艶煙にぴしゃりと言って、香澄は溜息をついた。

「もう、艶煙さんも久馬さんも、もっと真面目に生きてください」

「ははは」

 愉快そうに笑う艶煙はぷかりと煙を吐き、男たちは呆れたように首をふる。

「無駄だよ、香澄ちゃん。艶煙はこれで精一杯真面目なんだ」

「そうそう、あたしはこれでも大真面目です」

「はいはい」

 真顔で応じた艶煙に仕方なくうなずいて、香澄はサロンの掃除を始めた。

 思ったより客が多かったので、ハタキがけはやめて拭き掃除にする。テーブルと椅子の肘掛けを拭き、次いで棚や窓枠の埃を拭った。

 窓の外には洋装や和装で行き交う人や、通り抜けていく馬車の姿がある。時代が変わっても、世の中はまだ東京が江戸と呼ばれていたころとさほど変わらない。けれどこの銀座に限って言えば、風景は様変わりしていた。四年前に起きた銀座大火の後、政府の方針で洋風の街につくり替えられたからだ。

 手を止めて外をながめていた香澄が、嗅ぎ慣れた煙草の臭いに気づいてふり返ると、艶煙が歩み寄ってきていた。香澄の隣に並んで窓の外に目を向ける。

「どうかしましたか?」

「やっぱり変わったんだなって思って」

「変わらないものなどありませんよ。物も人の心もね」

 街並みは洋風に変わり、夜道は瓦斯灯に照らされるようになった。今はまだ一部の地域だけだが、いずれはそんな風景もめずらしくなくなるのだろう。人の心については、香澄にはまだわからないことが多い。

 変わっていくことは楽しみであると同時に怖くもある。

「この煉瓦街は英吉利の倫敦の街を真似ているそうですよ」

「そうなんですか」

「煉瓦街と言うよりも漆喰街と呼ぶほうが正確かもしれませんけれど」

 本場の煉瓦建てのビルというのは、煉瓦や石で造られていると聞いたことがある。銀座に立ち並ぶ建物は、欧米を真似て造った木造の建物を漆喰で塗り固めているのだ。もちろん、土蔵と同様に防火には効果がある。

 本来ならば煉瓦や石から削りだす意匠も、左官が鏝絵の要領で、漆喰で模していると知ったときには驚いたものだった。

 しばらく香澄と外をながめていた艶煙だったが、思いだしたように話を変える。

「それで、夕方の約束のことですが、お父上にはちゃんとお話ししてきましたか?」

「はい。許可をいただいてきましたよ」

 先ほどから夜遊びだなんだと騒ぎたてられた約束とは、香澄の仕事が終わった後、柳橋の料亭へ行くというものだ。目的は久馬と艶煙の『裏稼業』の依頼人に会うことである。その裏稼業に香澄が本格的に仲間に入れてもらってから、今回が初めての依頼だった。だからどうしても一緒に行きたいのだ。

 父は夜であれ香澄が出かけることを禁じるようなことはない。もちろん一人では駄目だろうが、久馬と一緒であれば大丈夫だと、彼のことを信用しているらしい。彼らが顔を合わせたのは二度くらいのはずだが、以前、香澄のことを案じた久馬が事前に父へ話を通した対応がよかったようだ。

「今日はなんでも、兄様もお出かけらしくて、お父様ったら『こうやって子どもは独り立ちしていくのか』なんてつぶやいてましたよ」

「それはお父上もさぞお寂しいことでしょうねぇ」

「そういうものでしょうか?」

 父はわりと放任で、子どもたちの自立を喜びそうだけれど。香澄にはまだ親心というものはぴんとこなかった。

「お子思いのお父上です。大事になさってくださいね」

「もちろんです」

 艶煙の言葉に香澄は深くうなずいた。

 母を早くに亡くした香澄にとって、父はたった一人の親なのだ。大事に育ててくれたと思うし、親孝行だってしたいと思っている。

 家族のことを考えていた香澄はふいに、艶煙の家族については何も知らないことに気がついた。久馬の父親がかつて与力であり戊辰の戦のころに亡くなったこと、母方の叔母と従兄妹がいることは知っているのに。

 飄々として腹の底が読めない艶煙を香澄は見つめる。

「なんですか? そんなに見つめられると照れてしまいますよ?」

「艶煙さんのご家族について聞いたことがないなぁって思って」

「あたしのことが気になりますか?」

 色めいたまなざしで問いかけられ、香澄は慌てて目をそらした。艶煙はくすくす笑って答える。

「親兄弟はおりませんが、あたしにとっては縁魔座の仲間が家族です」

 縁魔座とは艶煙が役者を務めている芝居の一座のことだ。季節を問わず、怪談奇談ばかり公演する、妖怪好きの集まりらしい。九段の招魂社に小屋を掛けていたときに、一度だけ久馬に連れていってもらったことがある。けれどそのときは芝居を見ただけで帰ったのだった。

 縁魔座について語る艶煙の表情は穏やかだ。よい仲間に恵まれているのだろう。

「芝居見物じゃなく、今度は遊びにいらっしゃい」

「いいんですか? 明日はお仕事お休みですし、本当に行っちゃいますよ?」

「もちろんです。香澄さんならいつでも大歓迎です」

 そう言ってもらえると仲間として認められたようで、なんだかとても嬉しかった。



 その夕のこと、香澄たちが向かったのは柳橋の料亭『たに垣』だった。今日会う予定の依頼人は柳橋の芸者なのだ。もちろん、表向きは取材としてやってきた。

 香澄もこれまでに個室で食事ができる料亭に来たことはある。しかし当然のことながら芸者を呼ぶのは初めてだ。世の男たちを虜にする女性とは、どんなに魅力的なのだろうか。こんな機会でもなければ話のできない相手に会えるのは楽しみだった。

 二階の座敷へ案内された香澄たちは、席について食事をつまみつつ取材相手――いや、本来の目的からすれば依頼人がやってくるのを待った。

「久馬さんや艶煙さんは、こういうお店はよく来るんですか?」

「仕事の付き合いで来ることもあるが、そこまで生活に余裕はないな」

「あたしもないですよ。小料理屋でちょいと飲むくらいがせいぜいです」

 料亭は値段が高く、一般市民がちょっと食事をするために寄れる店ではない。祝い事でもない限り、そうそう利用しないだろう。官僚や商人ならば、日常的に通うこともあるかもしれないが。

「こういう店は、おまえの清廉潔白なお兄様とやらのほうが使うんじゃないか?」

「それは兄様だって、芸者のお姐さんとお酒を飲むくらいありますよ」

 手酌で酒を飲んでいた久馬が、呆れたような奇妙な表情を浮かべた。

「なんですか?」

「いや」

 視線をさまよわせて口ごもった久馬の代わりに艶煙が応じる。

「香澄さんの綺麗な心が、汚れた大人にはまぶしいんですよ」

 よくわからないがおそらく、彼らにとってこうした店は、芸と酒を楽しむ場所ではなく、夜遊びをするところなのだろう。

「兄様も最近は以前よりもお酒を召されて帰ってくることが増えましたけど」

「ほう?」

 興味深げに相づちを打った久馬に、慌てて香澄は言い訳する。

「あ、別に遊んで帰ってきているとか、そういうわけじゃないですからね! お付き合いがあるんです!」

「おまえにはそう言っているだけで、仕事以上の大人のお楽しみがあるんだろうよ。そのうち、紅をつけて帰ってくるぞ」

「きません!」

 香澄はぷくりとふくらませた両頬を、久馬に片手でつかんで押され、「ぶぶっ」と噴きだした。

「不細工になるからやめておけ」

「よけいなお世話です」

 ぷんすかしながら食事を再開した香澄は、襖の向こうからかけられた声に手を止める。

「失礼致します」

 落ち着いた声音の主に視線を向けて、香澄は目を見張った。

 静かに襖を開けて顔をだしたのは、白く塗った顔に柳のような眉、切れ長の目が色っぽく、真っ赤な唇の美しい女性だった。島田に結った髪には銀ビラと鼈甲のかんざし。裾に桔梗があしらわれた黒い着物が艶やかでよく似合う。年のころは、香澄よりもいくつか上、二十を過ぎたくらいだろう。

「お初にお目にかかります。菊丸と申します」

 正座をして深々と頭をさげたその仕草に香澄は見とれた。たおやかな女らしさを残しつつも、格好よさを感じさせる。

 柳橋芸者といえば、かつて岡場所であった深川から生まれた、辰巳芸者の流れを汲んでいる。辰巳芸者は芸は売っても色は売らぬ心意気が、いきで侠気と人気を呼んでいたそうだ。柳橋芸者も男名前で気風のいい姐さんがそろっているらしい。

 猪口を手に、艶煙が満足そうに目を細めた。

「噂に違わぬお美しさですね」

 その言葉は、けっしてお世辞ではないだろう。同じ女である香澄でさえ、思わず見とれてしまうくらいだ。

「香澄さん、こちらの菊丸姐さんは美しさばかりでなく、三味線と唄も評判なんですよ」

 菊丸は香澄に目を向けて艶やかに笑った。

「これは、可愛らしいお客様だこと。夜遊びをしてお父上様に叱られたりしないのかい?」

「ち、父にはちゃんと許可をいただいてきました」

 香澄は熱くなった頬を両手で押さえる。菊丸に笑みを向けられたときめきと、己が子ども扱いされた悔しさと、両方がない交ぜになった羞恥のせいだ。

 そんな香澄を、隣に座った久馬が鼻で笑う。

「どうせ帰りが遅くなる許可しかもらってないんだろう?」

「お仕事だからいいんです!」

「芸者の姐さんに見惚れる仕事か?」

「だって、綺麗なんだもの」

 香澄は素直にそう告げて、菊丸の白い面を見た。切れた目尻と唇にさされた紅が色気をかもしだしているが、やはり元の造作が整っているからこその美しさだ。いかに憧れようと、化粧をしたところで香澄ではとても敵わない。

 菊丸に見惚れる香澄へ久馬が問いかける。

「おまえの兄様なら、妹の芸者遊びをなんて言うだろうな?」

「お姐さんの芸を見せていただくことの、何がいけないことなんですか? みなさん、遊び遊びって言いますけど、接待をしてくださるお姐さんたちに失礼ですよ」

 彼女たちは日夜芸事の稽古に励んでいるのだ。その芸で客を楽しませるのは彼女たちの仕事である。

 菊丸は口元に手を当ててころころと笑った。

「嬉しいことを言ってくれるねぇ。きっとお父上様の教育がよいのだろうね」

「彼女の父上は嫁入り前の娘が、夕から男と出かけることを許すような変わった方ですからね」

「変わった方ってなんですか」

 久馬の口調は父を貶しているわけではないが、それでもやはり不満で、香澄は唇をとがらせる。すると菊丸がやんわりと香澄をなだめた。

「でもねえ、お嬢ちゃん。お嬢ちゃんのお父上様のような方はめずらしいんだってことを忘れてはいけないよ。いくら芸を磨いたとて、芸者など金で売り買いされるものだと思っているお人は多いのだから」

「……はい」

 おそらく菊丸の言うことが正しいのだろう。香澄はしょんぼりと口をつぐんだ。彼女たちは、世間知らずの香澄には想像もつかないような悔しい思いをしたことだってあるはずだ。

 黙った香澄の隣から、久馬が菊丸に話しかける。

「実は今夜お呼びしたのは取材ではなく、こちらの書状の件なのですが。見覚えはありますか?」

 菊丸は広げて差しだされた書状を見て目を細めた。久馬と艶煙、それぞれに目を向け、納得したようにうなずく。

「ええ。これはたしかにあたしが届けさせたものですよ。ちぃっとおもしろい噂を耳にしたのでね」

 それは数日前、縁魔座の木戸に投げ込まれていた書状――悩みを解決して欲しいとの依頼の文だった。久馬と艶煙、そして香澄の裏稼業とは、罪のない人々のにっちもさっちもいかぬ悩みを解決することなのである。

「あんたの妹分を捨てた男を懲らしめて欲しいとのことだが、少し調べさせてもらった。この妹分は、市若さんで間違いないかい?」

「はい。ひどい話でございますよ。市若はまた野暮な男にひっかかりましてねぇ。その野暮、俺にはおまえしかいないだのなんだのと調子のいいことばかり言っておいて、市若が身ごもったと知ったとたんに手のひらを返しやがったのさ」

「市若さんに旦那さんは?」

 芸者にとって旦那と呼ばれるのは、配偶者ではなく支援者のことだ。見習い時分から生涯に亘り金銭面の援助をしてくれる男のことである。芸を売る彼女たちでも、そこには身体の関係が含まれることもあるため、久馬は市若の身ごもった子の父が、彼女の支援者である可能性がないのかたしかめたかったのだろう。

 菊丸はひどく残念そうに目を伏せた。

「市若の旦那さんは事業に失敗されてからすっかりお見限りで。市若が言うには腹の子は野暮の子に間違いないと。本当に運の悪い子です」

 金持ちがいつまでも金持ちでいられるとは限らない。しかも今は政治も経済も不安定な時代だ。支援者を失うこともめずらしくないのかもしれない。

「失礼しますよ」

 一言断り、菊丸は煙管を取りだした。艶煙が手元の煙草盆を彼女に押しやる。吸わねばやっていられないと言いたげな表情で、彼女は吸い口をくわえた。

「金蔓と思ってりゃ、捨てられてもまだ諦めもつこうものですが、市若はその野暮に惚れちまってたんでしょうね。身重だってのに世をはかなんで、川に身を投げちまったんです。しかも男はその場にいたはずだってのに、自分で助けるでもなく、助けを呼ぶでもなく逃げだしやがった」

「そんな……!」

 香澄は、腹の子を道連れにするほどに思い詰めてしまった市若の気持ちを思って言葉に詰まった。

 身を投げねばならないほどの恋心を香澄は知らない。市若は裏切られたことに死を選ぶほど傷ついたのか。それとも将来への不安に耐えられなかったのだろうか。

 菊丸が細く煙を吐く。

「身を投げたとは聞いていますが、何やら言い争っていたようですから、あたしは野暮天に突き落とされでもしたんじゃないかと思ってるんですよ。妻子があろうと、面倒をみてくれる甲斐性がなかろうとかまいやしませんが、手ひどく捨てることはないじゃありませんか。あたしらはしょせん日陰の身。嘘でも一言やさしい言葉をかけてくれれば、それで十分だったろうに」

 艶煙がひょいと眉をあげた。

「ひどい言葉をかけて逃げだしたんですかい?」

「ええ。『おまえのような遊び女に本気になるはずがない。勘違いをするな』なんて。本物の野暮天ですよ。なんでも、奥方がよい家柄で、不始末を知られて機嫌を損ねるわけにはいかないのだと聞きましたが。だったら他の女に手をだすなって話でしょう?」

 艶煙の問いかけに吐き捨てるように応じた菊丸は、煙管の雁首を苛立たしげに灰吹きへ叩きつけた。それでは煙管が傷んでしまう。

「文部省で働いていると言ってたけど、官僚なんてのはそんな男ばかりなのかねえ」

「文部省?」

 ハラハラしながら菊丸を見守っていた香澄ははっとして、彼女の言葉を繰り返した。

「どうかしたのかい?」

「私の兄も文部省に勤めているので……」

「おや、これは失言だったね。そこで働いている男すべてが野暮たぁ言わないよ」

 申し訳なさそうにほほえんで前言を撤回した菊丸が、じっと香澄の顔を見つめる。

「でも、お嬢ちゃん、私の知ってる方によく似ておいでだね」

「え?」

 思いがけない言葉に、香澄はきょとんとして彼女を見返した。

「おいおい、まさか、くだんの野暮ってのは、おまえの兄貴じゃないだろうな?」

「兄様は独り身ですし、そんな方じゃありません!」

 そんなことは絶対にありえないと力一杯否定した香澄に、菊丸は穏やかなまなざしを向ける。

「ふふ。兄上様のことが大好きなのだねえ。安心をしよ、お嬢ちゃん。市若を捨てたのは浅井って男だよ。お嬢ちゃんに似ているのは、浅井の連れで、井上様といったかしらね」

「井上……」

 香澄は菊丸が口にした姓をつぶやき、恐る恐る問いかける。

「井上主計、ですか?」

「そうだね」

「兄様です」

 文部省の井上主計はおそらく香澄の兄しかいないだろう。まさか依頼に兄が関わってくるとは思わなかった。

「その浅井某は、いつもどこの店に市若さんを呼んでいたんだ?」

「ここですよ」

「おい、厄介な話だな」

 主計と香澄が鉢合わせしては面倒なことになると思ったか、久馬がついと眉を寄せる。

「まさか顔を合わせたりなんてしませんよ。兄様は……」

 夜の外食など付き合いでたまにするだけなのだから、と言おうとした香澄だったが、今朝方兄と交わした言葉を思いだした。

「今夜は同僚の浅井様と夕食をとるので、帰りが遅くなると……」

 朝は同僚の名前を気にしていなかったが、思い返してみればたしか兄は『浅井』と言っていた。

 まさに今夜がたまの夜だった。

 艶煙が煙管の煙をくゆらせながら、くくっと喉を鳴らして笑う。

「ばったり会ったら、吃驚ですねぇ」

「吃驚じゃすみませんよ! 兄様は私が外で働くことをあまりよく思ってらっしゃらないのに。だから今日だって、兄様には内緒で……」

「おや、そうなのですか?」

「兄様は私をちゃんとお嫁にだすと、母さまと約束したんだって、いつも言っているんです。だから外で働いて悪い噂が立ったら困るって。それに私だってさすがに、家族でもない男の人と夜に出かけることが、外聞が悪いことくらいわかります」

「わかってたのか?」

「わかってますよ!」

 至極驚いたように久馬に言われ、香澄はついつい大きな声をだしてしまった。にやにや笑っている彼が本気で言っているのではないと気づいていても、どうしても我慢できない。きっと馬が合わないのだ。

 菊丸が煙管の吸い口を舐めながらふふっと噴きだす。

「大丈夫だよ、お嬢ちゃん。市若のことがあってから、浅井の足は遠のいているし、会いやしないよ」

 この柳橋は兄の勤める湯島から近い。だが一緒に酒を飲む浅井は、いわくのあるこの町を避けるだろう。

 まさか、そんなことも考えられないような厚顔な男ではないと思いたい。

「井上様はあなたのことが可愛くて仕方がないのだろうねえ。市若もどうせ惚れるなら、浅井ではなく、真面目でおやさしそうな井上様にしておけばよかったものを」

 たしかに市若が惚れたのが主計であったら、こんなことにはならなかっただろう。しかし主計はやさしい以上に真面目な人なので、芸者の姐さんに惚れられては本気で困ってしまいそうだ。

 ひとしきりあり得たかもしれない未来を想像していた香澄の隣から、久馬が菊丸に問いかける。

「それで、あんたは、浅井某をどうして欲しいんだ?」

「ちぃっと懲らしめてやりたいんですよ。そうでもしないと市若と腹の子が可哀相じゃありませんか」

「懲らしめる、ねえ。例えば?」

「社会的に抹殺してやらないと、あたしも、置屋のおっかさんも気がすみませんよ」

「そりゃそうでしょうね」

 艶煙が同意し、久馬は顎をつまんで考え込む。浅井をどのようにして懲らしめるか。その方法の糸口を探しているのか。

「それなら、その浅井某について、もう少し話を聞かせていただきましょうか」

 久馬の希望にうなずいた菊丸は、浅井について話し始めた。



 菊丸が座敷へやってきてから、早一時半ばかりが経過した。菊丸の浅井への恨み言はまだまだ続きそうだったのだが、艶煙がふいにあげた声でそれは途切れた。

「おや、暗くなり始めてしまいましたよ」

「えっ?」

 香澄は窓の外へ目を向けた。いつの間にか薄暗くなっている。そういえば少し前に行灯に火を入れたのだった。

 暗くならないうちには帰れるようにと、香澄の仕事が終わる時間から出かけたのだが、話をしているうちに日が傾き始めてしまった。家に帰るころには真っ暗になってしまいそうだ。

「いけない。早く帰らないと」

 香澄が巾着をつかんで慌てて立ちあがると、久馬も煙草の火を揉み消して腰をあげた。もとより帰りは彼が家の近くまで送ってくれる約束なのだ。家の前まででないのは、外聞を気にしてのことである。

「久馬さんがいるから大丈夫でしょうけど、気をつけて帰ってくださいね」

「はい。ありがとうございます」

 菊丸ともう少し話をするという艶煙に挨拶し、香澄は久馬と店を出た。夜が近づき、ひんやりとした風が吹き抜ける。空にはぽつぽつと星が輝き始めていた。

 たに垣の前には水路があり、帰りは家の近くまで猪牙舟を使うつもりだった。猪牙舟は小型の舟で、狭い水路でもよく走る。値段は高いが、速くて便利な乗り物である。

 呼んでもらった舟に乗り込もうとした香澄だったが、突然かけられた声に肩を跳ねさせて足を止めた。

「香澄!?」

「兄様!?」

 聞き間違えるはずのない兄の声に、香澄は勢いよくふり返る。

 たに垣へ向かってくる人影はふたつ。香澄の兄・主計と、彼よりもいくらか年上に見える男性だ。二人とも洋装である。

 一緒にいるのが浅井某だろうか。日に焼けた精悍な顔だちの、がっしりした体躯の男だ。表情は明るく、いかにも裏表がなさそうだが、おそらくそれは見た目だけなのだろう。対する主計は色白で、ほっそりとしている。浅井の隣に立つと、少々神経質さを感じるほどに真面目そうに見えた。

 政府の仕事は始まりが遅く、終わるのは早い。早々に仕事を終えて、どこかの店に入っているものだと思っていたのに、まさか運悪く出会ってしまうとは。しかも浅井はそうとうに図太い男のようだ。目の前で身投げされたにもかかわらず見棄てた芸者をしばしば呼んでいたという店の前に、よく顔をだせるものだ。

 通過するだけのつもりが、彼にとっても運の悪いことに、ここで足を止めることになってしまっただけかもしれないが。

「すまん、浅井」

 連れの男に短く詫びると、久馬には目もくれず香澄に詰め寄った主計は、妹の両肩をつかんだ。

「こんな時間に何をしてるんだ!」

 普段は穏やかな目を険しくした兄に顔を覗き込まれ、香澄はうろたえた。兄に怒鳴られることなどめったにないのだ。あまりの剣幕におろおろと応じる。

「えっと、その……、仕事です」

「仕事? いつも夕刻には帰っているだろうが」

 今夜は主計も遅くなると言っていたし、いつもより少し遅く帰っても気づかれないと思っていたのがよくなかった。ちゃんと出かけることを伝えておけば、兄を怒らせることもなかっただろう。

 懸命に言い訳を考える香澄をかばうように、久馬が一歩踏みだした。

「申し訳ありません。今日はこちらの料亭へ、芸者の姐さんに話を聞きに来たのです。彼女には、同じ女性の目線で話を聞けるといいだろうと、同行してもらいました」

「どなたですか?」

 いぶかしげに眉を寄せた主計に、久馬は帽子を脱いで丁寧に頭をさげる。

「日陽新聞社の内藤久馬と申します」

「あなたが……」

「妹さんにはお世話になっております」

「……井上主計。香澄の兄です」

 香澄がときおり口にする名を覚えていたのだろう主計は、よけいに不機嫌そうな表情になったが、それでも名を名乗って礼を返した。しかし、厳しい顔つきのまま久馬に話しかける。

「ご存知かと思いますが、香澄は嫁入り前の大事な妹です。このような時間に連れまわされては困ります」

 今日、香澄がここまで一緒に来たのは、久馬に言われてのことではない。仲間外れにされるのが嫌で、自分から行くと言ったのだ。だから久馬が責められるいわれはない。

「兄様。久馬さんは悪くありません。私が芸者さんのお話を聞きたいとわがままを言って、ご一緒させてもらったんです」

 香澄の言葉に、主計の頬がぴくりと引きつった。何故か兄の機嫌が、なおいっそう悪くなったような気がする。

「そ、それに、お父様にはちゃんと許可をいただいてきました」

「父上がいくら許してくださっても、近所の誰もが許すとは限らないだろうが。悪い噂がたっては、いい家に嫁にいけなくなるぞ」

「そんな噂に左右される家なんて、いい家じゃありません」

「香澄!」

 ぴしゃりと名を呼ばれ、香澄は首をすくめた。兄は父と違って厳しいのだ。けれど、彼だって、香澄が新聞社で働くことについては渋々ながらも認めてくれていた。

 香澄は小さな声で反論する。

「兄様だって、働くことについては許してくださったじゃないですか」

「もちろんだ。仕事の能力に男女の差などない。福澤先生もそうおっしゃっている」

 福澤先生とは、啓蒙思想家の福澤諭吉のことだ。欧米に渡航した経験もあり、蘭学塾を開いた蘭学者で教育者である。四年ほど前から「学問のすゝめ」なる啓発書を出版して話題となっていた。主計も「学問のすゝめ」を熱心に読み込んでいる一人だ。

 香澄は聞きかじっただけだが、日本という国が独立を守るためには、知識人が先頭に立ち、市民の意識を改革せねばならないと書かれているらしい。その中に、男女の差は腕力にあるのみである云々……とあるのだ。男女の差がそれだけとは思えないが、女性であれ外で働くことを主計が認めてくれたのは、福澤の思想のおかげだろう。

「それなら……」

「それとこれとは話が違う。若い娘に夜道は危険だ」

「それは久馬さんと一緒だから大丈夫です」

「この男にどんな責任が取れるというんだ?」

 主計が久馬へ不満げなまなざしを向ける。久馬は親類縁者でも許婚でもない。何かあったときに迷惑をこうむるのはむしろ責任を問われる久馬のほうかもしれない。

 久馬は香澄を見ると、ほんのわずかに眉をあげた。口を開いても揉めるだけだと、反論しないでいるようだ。すると、兄妹のやりとりを黙って見ていられなくなったのか、浅井が口を挟んできた。

「おい、井上。そう怒るなよ。妹さんが心配なのはわかるが、そう叱っては可哀相じゃないか。お転婆なのも可愛いものだ。なあ?」

 浅井に同意を求められるが、ここでうなずいては兄の怒りに油を注ぎそうで、香澄はあいまいに視線をさまよわせて誤魔化した。

 主計が溜息をつく。

「お転婆がすぎるというものだ。香澄は私の妹であって弟ではないのだから」

「おまえは頭が固いな」

「私は妹の身を案じているのだ」

 店の前でそんな言い合いをしていると、戸口から菊丸が顔をだした。

「これは旦那方。どうなさいました?」

「菊丸……」

 驚いたようにつぶやいたのは浅井だ。視線をさまよわせているところを見ると、まさか菊丸が出てくるとは思っていなかったのだろう。

「あら、浅井様。近頃お見限りで寂しく思っておりましたのよ? まあ、市若があんなことになって、お声をかけづらいのもわかりますけれど」

 菊丸にやんわりとなじられた浅井は表情を強ばらせた。暗くてはっきり見えないが、青ざめているようだ。

 彼女は嫣然とした笑みを浮かべ、視線を浅井から主計に向けた。

「井上様も、お久しぶりでございます。まさかこちらの可愛らしいお嬢さんが井上様の妹御とは思いませんでしたよ」

 菊丸のほほえみに、主計がばつの悪そうな表情を浮かべた。

「騒がしくしてすまんな」

「いいえ。井上様が妹御の身を心配なさるお気持ちは十分理解できます」

 彼女は主計をなだめるように、穏やかな口調で続ける。

「でも、妹御をあまり叱らないであげてくださいな。あたしの都合でこんな時間にお会いすることになってしまいましたのでね。もっと早くに都合をつけられればよかったんですが」

「いや、すまん。妹のことになると、私は冷静ではいられぬようだ。亡くなった母からくれぐれもと頼まれているのでな。無事に嫁にだすまで安心できんのだよ」

「はっきりしたよい娘さんですから、心配はご無用でしょう」

「だが、気が強すぎる」

「おやまあ。気風のいいところが、あたしは好きですけれどねえ」

 くすくす笑う菊丸に目を向けられた香澄は、嬉しくなって笑みを返した。美しい菊丸に褒めてもらえるのは気分がいい。

 怒りを収めたらしい主計が香澄の肩を抱いた。

「浅井。すまないが今日は帰る。妹を連れて帰らなければならないからな」

「そうか」

 浅井が少々残念そうに応じた。約束を反故にさせるのが申し訳なくて、香澄は兄へ告げる。

「久馬さんに送ってもらうから大丈夫ですよ?」

「それが駄目だと言っているんだ」

 どうしても主計は香澄が久馬と一緒にいることが許せないらしい。久馬は助けを求めて目を向けた香澄に、軽くうなずく。

「そうしてもらえ。兄上のほうが何かと安心だろう」

「……はい。ごめんなさい」

 やけに含みのある言い方をした久馬に主計の眉が寄る。

「父上があなたの何を信用したのか知らないが、私にとっては見知らぬ男も同然だからな」

「承知しておりますよ」

 ひらりと手をあげた久馬に、香澄は深く頭をさげた。それから菊丸へも挨拶して舟へ乗り込んだ香澄は、主計とともに帰路についたのだった。