教室を出た所で詰めていた息をふぅ、と吐き出した。

 何気なく見上げた秋晴れの空の青が両目に眩しい。しつこかった夏の名残の熱も和らいできて、ドアの外の空気が肌に心地良く感じられるようになってきた今日この頃。

 残念ながら実乃里の内心は清々しいとは言い難かった。

 既に他の学生たちは皆それぞれに、あるいはそのまま帰路につくためスクールバスの発着場へ、あるいは友人との待ち合わせ場所へ、あるいは小腹を満たしに食堂へと向かって歩き出しており、足取りも重く居座っているのは実乃里くらいのものだ。もう一度、溜息を吐く。

 講評会での評価があまり良くなかった。勿論、それが気を重くしている大きな要因であることに間違いはない。加えてもう一つ。

「白川さんはどうしてこの大学に入ろうと思ったの?」

 おそらく何気なく尋ねたのであろう教授の言葉が、棘のように突き刺さって抜けなかった。

 暗に責められているような気がした。

 念願だった美術大学に無事入学してから半年。合格の喜びと長い受験勉強からの解放感に浮かれたのも束の間。真っ先に学んだのは自分の技術の至らなさ。気付いたのは周囲と比べて欠ける熱意。

 どうしてこの大学に入ろうと思ったのか。当然理由はある。それなりに強い気持ちだった。

 それでも、こうして講評会で肩を落とすような評価を受ける度に思う。思ってしまう。

 ここは自分のいるべき場所ではないのではないか、と。

 ぼんやりと立ち尽くす実乃里の足元を、猫が一匹、何の警戒心もなさそうな態度で悠々と通り過ぎて行った。

 今日の空の雲を千切ってきたような、真っ白な猫だった。大学の敷地内を闊歩するすらりとした姿には見覚えがある。誰が飼っているというわけでもない、大学に住み着いている猫のうちの一匹だ。実乃里も何度か餌をやったことがある。

 白猫は学生たちが捌けて行った正面の階段の方ではなく、建物の裏手へ繋がる開口部の方へと向かって行く。その先はすぐ木々が生い繁る結構な急斜面になっているのだが、どうやら白猫はそこを登るつもりらしい。

「危ないよ」

 ついつい声を上げる。当然、白猫は気にも留めずに行ってしまった。

 何気なく白猫を追い掛けて外に出てみて、初めて気付いた。舗装こそされていないものの、土が剥き出しの斜面には獣道よりもう少ししっかりとした、人が通れるような道があった。今まで全く知らなかった。

 白猫が軽やかにそこを登っていく。

 半年経ってもまだ知らない場所は多く、気付けないでいることばかりだ。

 ここにいると更に気が滅入ってしまいそうで、かと言ってまだ家にも帰る気にはなれない。

 ちょっとした探究心が芽生え、実乃里はそのまま白猫の後をつけてみることにした。

 この大学は四方を山に囲まれている。というより、山林の中にぽつねんと、置き去りにされたかのように建っている。

 塀も柵もないものだから、どこまでが大学の敷地なのかもよくわからない。かつて面白がって散策をしているうちに山中で迷い、遭難しかけた新入生がいるなどという噂がまことしやかに語られたりもしていた。

 実際はそれほど深くない山林を歩いてほどなく、視界が開ける。木立が途切れた明るさに一瞬目を細め、再び開いたそこに広がっていた景色に思わず嘆息した。

「うわぁ……」

 小さいが綺麗な池だった。

 大学の正面側にも貯水池があるが、コンクリートで固められた味気ないそちらの池とは全く違う。情緒ある、自然の池だ。

 そこそこの深さがありそうなのに、覗き込むと底が見通せる。それだけ水が透明なのだ。小さな魚も泳いでいる。風でさざめく水面で木の葉がくるくると踊っていた。

 ふと、視線を感じて顔を上げると、先ほどの白猫が池の向こう側から色の薄い両目をじっとこちらに向けていた。その横に人がいる。

「あ」

 発見した池の美しさに見惚れて、気付くのが遅れた。

 その人は池の畔にイーゼルを立て、静かに、だが熱心に手を動かしている。

 相手の方はまだ実乃里に気付いていないのか、気付いた上で気にしていないのか、イーゼルに立て掛けたパネルから意識を逸らさない。

 人混みの中でもすぐに見付けられそうな長身と、櫛の通っていない頭。絵画学科生が作業中によく着るつなぎを、元の色がわからなくなるまで、これでもかと汚したまま着用している。

 全く周囲に溶け込まない、悪目立ちするその風貌には見覚えがあるような気がした。大学の人間だろう。

 不意に彼がこちらを向いた。鬱陶しげに伸ばされた前髪の下、その目の色の深さにどきりとする。

 目が合ったと思ったがそれは実乃里の気のせいで、彼がじっと見詰めているのは二人の間にある池の、その上。何があるのだろうと、つられるようにして実乃里もそちらに目を向ける。

 ぴちゃん、と水音を発て、一匹の魚が跳ね上がった。

 息を呑むような光景だった。

 先程見付けたのよりもずっと大きく、ずっと立派な魚が、雫を纏って宙を踊る。

 一瞬の出来事が、まるでスローモーションを見ているかのようだった。

 跳ね上げられた水飛沫の、その雫一つ一つの形さえなぞることが出来そうな。日の光を受けてきらきらと輝く、銀色にも、赤や、青や、緑や、紫にも見える鱗の数まで数えられそうな、長い一瞬。

 魚は身を捻りながら弧を描き、吸い込まれるように池の中へと戻って行った。

 魚が水に沈むどぼん、という音で我に返る。

 再び顔を上げると、どことなく焦点の合っていないぼぅっとした目つきではあるものの、今度こそ池の向こうから彼がこちらを見ていた。

「あ……えっと、その、こんにちは」

 実乃里が頭を下げると、目を背ける。素っ気ない態度に、そんなつもりではなかったけれど、覗き見を咎められたような、なんだか悪いことをしてしまったような気分になり、すごすごと退散しようとしたその時。

「あ」

「あ!」

 池の縁ぎりぎりで足元が泥濘んでいたのだろう。イーゼルが池に向かって大きく傾いだ。

 彼と同時に実乃里も反射的に手を伸ばすが、いくら小さな池とはいっても、向こう側まで届くはずがない。

 際どいところで彼がイーゼルと、その上のパネルを引き戻すのを見てほっとする。と、思えば今度はバランスを崩した彼の足が傍に置かれていた荷物を蹴飛ばして、留め具が嵌りきっていなかった道具箱の蓋が開き、中身が盛大にぶちまけられてしまった。

「大丈夫ですか?」

 実乃里は池の畔を半周して向こう岸へ駆け付けると、頭を掻きながら億劫そうに身を屈める彼を手伝い、散らばった鉛筆やらカッターナイフやらを拾い集めた。

 いつのまにやら、例の白猫はちゃっかりと離れた所に退避して災難から逃れていた。我関せずと言わんばかりの態度で耳を掻いている。

「濡れちゃいましたね」

 池に落ち、水面に浮かんでいた短い6Bの鉛筆を摘み上げ、ポケットから取り出したハンカチで拭って差し出す。彼は珍しいものでも見るかのようにまじまじとそれを見詰めた。

「どうかしましたか?」

「いや」

 どうも、と短く呟き、受け取った鉛筆を道具箱に仕舞う手は酷く荒れ、汚れていた。

 先程までは池に向かうように置かれていたため裏側しか見えなかったパネルの正面側、つまり絵が描かれている側を見て、実乃里はまたも感嘆の声を上げた。

「わぁ……」

 魚の絵。尋ねるまでもなく、先程の、あの美しい魚の絵だ。

 まだ下描きの段階らしく、少なく、粗い線だけであるというのに、一瞬の躍動感が、煌く生命力が感じられる、生き生きとした画面。鉛筆の黒の濃淡だけで、虹色に光る鱗まで再現出来ている。

「すごい」

 思わず呟く実乃里の横で、この素晴らしい絵の描き手は道具箱の蓋を閉め、しっかりと留め具を嵌めると、荷物を纏めて抱え上げた。一言もないままで、実乃里の前からパネルを取り上げる。

「あ、あの、ごめんなさい」

「何が?」

「私、邪魔しちゃいましたね」

「別に」

 言葉とは裏腹に作業を止めてしまった彼は、荷物を持ったのと反対の脇にイーゼルを抱え、実乃里が登って来た道をさっさと戻って行ってしまった。白猫が当たり前のようにその後に続いて行く。

 一人残った実乃里は、いつの間にか緊張し、肩に入ってしまっていた力を抜いた。

「すごい人がいるなぁ。さすが美大」

 入学して以来、たった半年で既に、自分より遥かに絵の上手い人間に山程出会ってきた。そんな彼、彼女らと比べても更に、彼の絵はずば抜けている。

 じっと画面を、描く対象を見詰めていた目の色。肌荒れも汚れもそのままにされた手。それだけで伝わる、彼の絵に対する姿勢。

 池の縁にしゃがみ込み、今日何度目になるのかわからない溜息を、青い空が映る水面に向けて吐き出した。

 なんだかここへ来る前よりももう一段落ち込んでしまったような気がする。

「あれ?」

 風で揺れる水草の陰にそれを見付け、身を乗り出した。彼のイーゼルの二の舞にならないよう十分足元に気を付けながら一歩前に出て、袖を捲って水の中に手を入れる。指先だけならまだしも、肘まで浸かると流石に水の冷たさが沁みるが、堪えた。精一杯腕を伸ばすとなんとか指先が届き、掻き寄せて、拾い上げたのは、絵描き用らしく芯を長く削られた、2Bの鉛筆だった。


「ああ、一色さんでしょ?」

 大学内に一箇所しかない食堂は不味いが安いで評判で、昼休みになると学生たちのみならず、教授や職員たちも加えて大変な賑わいを見せる。

 なんとか確保した一つのテーブルを共に囲んだ二人の友人に尋ねると、期待通り美沙子から答えが返ってきた。

「一色真澄さん、ね。割と有名人だよ。うちの大学では」

「絵画科の人?」

「絵画科だけど、学生じゃなくて助手の人。卒業生らしいよ」

「じゃぁ、美沙子はよく知ってるんだね」

「よく、ってほどじゃないかな。確かに授業で会いはするけど、喋ったことないし。すごい無口だもん、あの人」

 美沙子は同じ一回生だが、デザイン学科に所属する実乃里とは違い、絵画学科の学生だ。共通科目の講義の時にたまたま知り合い、なんとなく気が合って、以来、しょっちゅう一緒に食事をしたり、話をしたりしている。

 違う学科の友人を持つと、こうして自分の所属する学科だけでは知り得ない情報や知識を分け合うことが出来、見識が広まるから。などともっともらしい理由を託けなくとも、ただ単純に、実乃里はこの友人のことが好きだった。

「よく猫連れてる人だよね? 背が高くて、いつもつなぎの」

「そう。昨日も猫と一緒だった。白猫」

 もう一人の友人であるところの友梨が挙げた特徴は、全て昨日池で出会ったその人と一致している。

 実乃里と同じデザイン学科生である友梨も絵画学科の助手とは接点はないはずだが、情報通の彼女にかかれば学科の違いなど大した垣根ではないらしい。

 大学入学と同時に実家を離れ一人暮らしを始めた実乃里が、初めての土地に初めての大学、初めましての人たちばかりの環境に右往左往していた時、真っ先に声を掛けてくれたのがこの友人だった。必修科目が多い一回生のうちは大学内での行動パターンがほとんど同じのため、友梨とはそれこそ四六時中つるんでいる。勿論美沙子と出会った講義も一緒に受講していたので、自然と三人は仲良くなった。

 家に帰ってもひとりぼっち、孤立無援の実乃里にとって、何かあったら真っ先に頼りたいと思える、大切な二人の友人だ。

「妖怪画家らしいよ、一色さん。助手の仕事しながらプロの絵描きやってるんだって」

「妖怪画家ぁ?」

 美沙子の口から出た、唐突な、耳慣れない単語に、友梨が不信感を隠そうともしない声を上げる。友梨ほど明らさまではないが、実乃里もその奇妙な響きに興味を惹かれて首を傾げた。

「妖怪画家って?」

「鳥山石燕みたいな」

「誰?」

「江戸時代の妖怪画家だよ」

 流石絵画学科生と言うべきか、日常会話の中でもさらりと画家の名前が挙げられる。美沙子の博識に、友梨が「知らないし」とやや呆れ気味に返した。

「私も詳しくは知らないけど」

「鳥山さんについて?」

「いやいや、一色さんについてだよ。妖怪画家っていうのも聞いた話。絵、見たことないし」

「昨日描いてたのは普通の絵に見えたけどなぁ」

 ちらりと目にしただけの彼の絵を思い返して言うと、美沙子は「え!」と驚いた。

「見たの? 一色さんの絵を?」

「え? うん。まだ描いてる途中だったけど。すごく綺麗だったよ」

「一色さんが絵描いてるところを見た?」

 信じられないとでも言いたげに美沙子が首を振る。何をそんなに驚くことがあるのだろう。

「実乃里って、やっぱりすごいね」

「何が」

「だって、あんな近寄り難い空気全開の一色さんに、普通声掛けられないよ」

「そう、かな?」

 大袈裟過ぎる気はするが、美沙子の言い分もわからないではない。あの素っ気なさと画面に向いている時の張り詰めた空気には、人を寄せ付けないところがあった。きっかけさえなければ実乃里だってそれ以上近付けずに退散していたことだろう。

「で、その一色さんに、実乃里は一目惚れしたの?」

「待って! なんでそんな話になるの?」

「だってやけに熱心に情報収集してるみたいだから」

「ああ、確かに一色さん、顔はカッコイイもんね。隠れファンは多いんだよ。近付けないけど」

「だから」

 友梨の冗談に美沙子までが悪巫山戯を始め、苦い気分で二人を抑える。一緒にいて気の置けない友人たちであるのは嬉しいけれども、時折こうして実乃里を揶揄う癖があるのは如何なものか。楽しいのはいいが、話が進まない。

「鉛筆拾ったから返したいだけだよ」

「鉛筆?」

 実乃里は昨日拾った、一色の物と思しき鉛筆を取り出し、二人に見せた。

 あの後慌てて後を追い掛けたのだが、気怠げな所作の割に歩くのは速いらしく、彼の姿を見付けることは出来なかった。

 まだ描き始めであったあの絵を思えば、再び彼が同じ場所にやってくる可能性は高そうなものだが、野外に鉛筆一本をぽつりと置いておいても見付けてもらえるか怪しいし、風で転がされてまた池に落ちてしまうかもしれない。そう考えるとそのままにもしておけず、持って帰ってきてしまったのだ。

「届けに行くの? わざわざ?」

「うん」

「鉛筆一本のために律儀だねぇ」

「だってこれ、高いやつだよ?」

「真面目なんだから。ホント、そういうとこ実乃里は美大生らしくないね」

 美沙子の何気ない一言に、ちくり、と胸が痛んだ。

 こら、と友梨が美沙子の肩を小突く。

「美大生がみんな不真面目みたいな言い方しないでよ。自分だけでしょ」

「金沢の美術館に行くために必修の講義二日間サボって、実乃里にノート取らせた一回生がよく言うよ」

「あ! そうだ、ノート!」

 一色のことがあってすっかり忘れていた。鞄からクリアファイルに綴じたノートのコピーを取り出す。先週「どうしても見たい企画展がある」と言って、友梨が大学を自主休講していた二日間の講義の内容を纏めたものだ。

「ありがとう! 助かる!」

「実乃里が優しいのはわかるけど、あんまり友梨のサボりに手を貸しちゃ駄目だよ?」

「うーん……まぁ、たまにだから、ね」

 授業に欠席することを推奨するわけではないが、そうまでして興味あるものを追い掛ける友梨の行動力は素直に感心するところであるし、見ていて応援したくもなる。自分にはない友人の情熱が羨ましいのかもしれなかった。

「えっと、なんの話だっけ?」

「あ、そうだ。一色さんに鉛筆返しに行きたいんだけど、どうしよう? 美沙子、授業で会える?」

「え。私やだよ、一色さんに声掛けるの。多分旧号館にいるから行ってみれば。空き教室をアトリエに使ってるらしいよ」

「あそこって使っていい部屋あったっけ?」

「ううん。多分無許可」

 どうやら一色という人は相当に癖のある人物らしい。

 美沙子が強調する彼の近寄り難い雰囲気。妖怪画家という奇妙でありながら好奇心を刺激される響き。そして目を閉じれば思い返される彼の絵の美しさ。

 噛み合わないそれらがぐるぐると渦巻いて、今日の授業が終わったら鉛筆を届けに行こう、と軽く考えていた実乃里は、少し不安になった。


 大学のキャンパスはいくつかの建物に分かれており、建てられた順に番号が振られている。事務局などがある一番古い棟が一号館、講義室が並ぶ二号館、という具合だ。

 旧号館は老朽化のため現在は使われていない元絵画学科用の建物で、九の番号が振られていていたことから、九号館改め、音はそのままにそう呼ばれている。誰がともなく言い出した、洒落が利いているのかいないのか微妙な通称である。

 古い、汚い、危ないとあって、新入生、とくに学科の違う実乃里たちは足を踏み入れることのない建物も、少し前まではそこで制作活動に勤しんでいた三、四回生の絵画学科生には愛着があるらしい。教室としては現役でないものの、物置としての利用価値があるためか現在も取り壊されておらず、電気も水道も通ったままであることから、隠れ家的に利用している学生も少なくないのだと美沙子が教えてくれた。

 卒業生である一色もそのうちの一人らしい。

 使用されていない建物に足を踏み入れるのには、留守の家に無断で上がりこもうとしているような気まずさがある。だからと言って誰に許可を取れば良いのかもわからないので、少しの逡巡の後、

「失礼します」

 と、誰もいない空間に申し訳程度の声を掛けてから、中へと足を踏み入れた。

 建物自体は一直線に伸びた廊下の両側に教室が並ぶ単純な構造だったが、積み上げられたダンボール箱や壊れたイーゼル、布の張られていないキャンバス枠などが行く手を狭め、まるで迷路のような有様になっている。使用されなくなった今でも壁や床に染み付いたまま拭えない絵の具の匂いが漂う。

 美沙子の話によれば、一色がアトリエとして使用しているのは一番奥の教室とのこと。何のための物なのかわからない大きな空き缶の山を崩さないようにそろそろと進み、ようやく突き当たりまで辿り着いた。

 最初からそういう造りなのか、元々あったものを外してしまったのか、ドアのない入り口には代わりとばかりに暗幕のようなカーテンが下げられている。ネームプレートの類はないが、おそらくここだろう。

「こんにちは。あの、一色さん? いらっしゃいませんか?」

 反応はない。

 そっとカーテンを捲り、中を覗いて見る。返事が無いのに不躾ではないかだとか、返事を待つつもりがないのに声を掛ける必要はあったのかだとかには、この際目を瞑ってほしい。

 廊下の様相とは一転、部屋の中はがらんとしている。実技の授業用らしく、十数人が作業をするのに十分な広さがある床。その真ん中にぽつんと置かれた、一脚のイーゼルと絵描き道具が載った椅子。机や棚などの家具は無い。

 だが、目を奪われたのは、それしか物が無いからではなかった。

 イーゼルの上の、一枚の、魚の絵。

 昨日、池の畔で一色が描いていたあの絵。

 昨日より大分描き進められている画面に、実乃里は一瞬にして惹き付けられていた。

 線画の段階でも十分に存在感があったところに薄く色が乗せられて、厚みと深みがぐっと増し、圧倒的説得力を得た絵の中の魚。

 まるで本当にそこにいるような。手を伸ばせば触れられそうな。ぴちゃん、という水音まで聞こえてきそうな。

「ん?」

 いや、水音は実際に聞こえている。

 イーゼルの陰を覗き込むと、水を湛えたバケツがあった。一見すると筆洗用のように見えるが、水は汚れていない。中には。

「あ」

 魚が一匹、狭苦しそうに揺蕩っていた。

 昨日池で見掛けたあの魚に違いない。

「どうしてこんな所に……」

 一色が捕まえてきたのだろうか? それ以外ないだろうが、妙な感じがした。

 イーゼルの上の絵を見れば瞭然だ。この絵に描かれているのは決して、今こうしてバケツの中に無理やり収められた魚の姿ではない。日の光の下で七色に輝いていた鱗も、ここでは燻んでしまって見える。

 実乃里が美しいと思ったのは、おそらく一色が描こうとしているのも、あの池で、生き生きと踊る魚の姿だったはず。それなのに何故、一色は魚をここへ連れてきてしまったのか。

 昨日はわざわざあの池まで足を運んでいたのに、今日になってそれをしない理由もわからない。

 何故?

「君」

 絵の前で呆然と立ち尽くしていた実乃里は、最初、一色が戻って来たと思ってどきりとした。が、改めて見回してみなくても、部屋の中には相変わらず実乃里の他には誰もいない。

 強いて言うならばバケツの中に魚がいるくらいのもので。

 そういえば、声はバケツの方から聞こえたような気がする。

「そう、ここだよ」

 バケツを覗き込むと、水面から顔を出した魚とがっちり目が合った。実乃里は硬直する。

「やぁ」

 一旦顔を背け、瞠目。両手で顳顬を押さえて三つ数える。深呼吸。それから視線をバケツに戻すと、やはり魚ははっきりとこちらを見上げていた。

「君、ちょっと助けてくれないか?」

「魚が喋った!」

「喋ったくらいでそんなに驚かないでくれ。君だって喋っているだろう?」

 反論したい部分は多大にあったが、言葉が出てこなかった。

「君は昨日、あの池を訪ねて来た子だな?」

 実乃里の動転とは対照的に、魚は落ち着いた様子で実乃里に尋ねる。

「は、はい」

 まさか魚が覚えていた、それ以前に自分を認識していたとは思っていなかったので驚いた。といっても、魚が喋ったという驚愕と比べれば驚いたうちに入らない程度の驚きだったが。

「名はなんという?」

「白川実乃里です」

「ほう。棲み易そうな名前だな」

「初めて言われました」

「白い川だからな」

 川が白いということはつまり水が濁っているということで、あまり棲み易そうではない気がするが。

「って、私のことはどうでもいいんです。魚さんは一体何者なんですか?」

「その魚さんというのはやめてくれないか? これでも、竜鯉といって、いずれは竜に変化するアヤカシなのだぞ」

「アヤカシ……竜?」

 次々と飛び出してくる突拍子もない単語に眩暈がしそうだ。

 アヤカシ。耳慣れない響きだが、全く聞いたことが無いわけでもない。

「あの、魚さ……竜鯉、さんは妖怪なんですか?」

「妖怪という呼び名は好きではないな。怪という字はあまり縁起が良くない。だが、人間にとってはそちらの方が馴染みがある言葉なのかもしれないな。つまり、まぁ、そういうことだ」

 この魚が、妖怪だって?

 実乃里にとってそれは、昔話、御伽噺、空想の中の産物でしかない。それが今こんなバケツの中に存在しているなど、実際こうして目にしていても俄かには信じられない。

 だが目の前の魚は疑いようもなく人の言葉を喋っている。普通の魚のわけがない。

 目の前の現象とアヤカシというものの存在。どちらを信じたらいい?

 アヤカシ。物の怪。妖怪。妖怪画家の、一色。

「じゃぁ、一色さんが妖怪画家だっていう話も本当なんですか?」

「わかっているのなら話が早いな」

「わかっているってわけでもないですけど……」

 釈然としない、というより、実乃里にはまだ事態が呑み込めていなかった。

 自らをアヤカシと称する喋る魚に出会った時、取るべき正しい行動とは。

 悲鳴を上げて跳び退くか。見なかったことにして立ち去るか。一歩離れて様子を窺うか。そんなところだろうか。

 しかし、実乃里は自分でも首を傾げてしまうことに、魚が人語を喋っているという何にも勝るはずの驚愕の事実よりも、その魚の口から出た言葉の方が引っ掛かってしまった。

「助けてくれ、って言いました?」

 助けてくれ。どうも、その一言には弱い。例え相手が魚だろうがアヤカシだろうが、そう言われては無視出来ないのが実乃里だった。

 バケツの前にしゃがみ込んだ実乃里を見上げ、魚は「ふむ」と深刻な様子で頷いた。

「このままでは、私は一色に消されてしまう」

「消される?」

「一色は私を消すために私を描こうとしているのだ」

 どうだと言わんばかりに竜鯉が顎を上げるが、残念ながら何一つわからなかった。

「消すために、描く?」

 消す。描く。相反する行為のどこをどうすれば話が繋がるのか。

 実乃里の理解の悪さに焦れるように、竜鯉が尾をばたつかせた。水飛沫が散る。

「君は一色が妖怪画家であると知っていると言ったではないか」

「妖怪画家って、妖怪……アヤカシの絵を描く人のことじゃないんですか?」

 それ以上の意味を実乃里は知らない。美沙子が挙げていた昔の妖怪画家の名前すら忘れてしまった。

「一色はな、アヤカシ専門の絵描きの中でも『消師』と呼ばれる、描いたアヤカシを消してしまうことの出来る描き手なのだよ」

「ちょっと待ってください」

 実乃里は掌を前に突き出して竜鯉を制した。

 今目の前で人語を喋っている魚の存在を受け入れるだけでいっぱいいっぱいだというのに、これ以上理解に苦しむ非日常的な話を持ち出さないでほしい。

「つまり一色さんは妖怪退治屋さんなんですか?」

「だから、妖怪と呼ぶなと言うに。それに、退治屋というとまた語弊があるのだが……まぁ、消師と言ってわからないのなら、それくらいの認識でも構わんか」

 平安時代の陰陽師や、西洋のエクソシストのようなものを想像してみる。それだって小説や映画、漫画で齧った程度の知識でしかなく、参考になりそうもない。

 今度は昨日池で見た一色の姿を思い浮かべてみた。確かに浮世離れした雰囲気ではあったが、まさか。

 考え込んでいた実乃里は、何気なくイーゼルの上を見た。

 竜鯉が言う通りならば、この絵には摩訶不思議な力が宿っているということだ。

 それだけは、そうかもしれない、と思えてしまった。

 竜鯉の話より、一色の姿より、この絵から伝わってくる何かの方が説得力がある。

「それで、竜鯉さんはどんな悪さをしたんですか?」

「何もするものか!」

 ともかく最後まで話を聞こう、とした実乃里に、心外だったのか、竜鯉はバケツから跳ね上がって抗議した。水が溢れ、バケツが倒れそうになるのを慌てて両手で支えた。

「まったく、人間という生き物は思い込みが激しくて困る。アヤカシといえば悪さをするものだと決め付け、こちらの言い分も聞かずに追い払おうとするのだからな」

「じゃぁ、竜鯉さんは何も悪いことをしていないのに消されそうになっている、と?」

「うむ」

 アヤカシというものがどういった存在なのか、実乃里にはまだ全くわからない。だが少なくともこうして相対している限りでは、目の前の竜鯉からは害意が感じられなかった。

 それを一方的に退治してしまうのは、確かに理不尽なような気はする。

「どうする? 助けてくれるのか、くれないのか。早くしないと一色が戻って来てしまうぞ」

「……わかりました」

 人に物を頼む割に不遜な態度には目を瞑るとして、竜鯉というこの魚が助けを求めるのは当然だ。アヤカシ云々を抜きにしても、こんな小さなバケツの中ではどんな魚だって長くは生きられない。

 それに加えて、個人的な理由も一つ。やはりこの美しい魚がこんな所に閉じ込められているのは嫌だ。

 躊躇い、戸惑い、辺りを窺いながら、バケツの取っ手を持った。


 全ての授業が終わった後でも、サークル活動や自主的居残り、友人との談笑に勤しむ学生たちで構内は騒がしい。

 取っ手を持つとどうしても揺らしてしまうので、途中で抱える形に持ち直したバケツを両腕で隠してこそこそと歩く。もっともそんな気を回すまでもなく、擦れ違う彼や彼女らはいちいち実乃里に注意を払ってきたりなどしない。アヤカシを名乗る奇妙な魚を抱えていたところで、誰も気が付きはしないだろう。

「君は変わった人間だな」

 建物の裏手に回り、ようやく人の目が完全に気にならなくなった辺りで、竜鯉が不意に呟いた。

「そう、ですか?」

「君たち人間にとって、私のようなアヤカシの存在はなかなか信じ難いものなのだろう? それをまぁ、随分すんなりと受け入れてくれたものだ」

「自分から声を掛けてきたんじゃないですか」

「正直、一か八かだったのだ。逃げられる可能性の方が高いと思っていたからな」

「それは、まぁ、普通そうですよね」

 実乃里自身、こうも自然に魚と言葉を交わし、その頼み事を聞き入れている現状が不思議でならない。どうして自分はこんなことをしている?

「でも、『助けてくれ』って言われたから」

 その相手が竜鯉ではない妖怪、アヤカシでも、例え幽霊でも、実乃里はきっと今と同じことをしていただろう。

 実乃里はその一言に弱いのだ。

「そこだ。突然『助けてくれ』と言われて『はい』と答えられる者はそうはいないぞ」

「そんなことないと思いますけど」

「まして、まぁ、これは私の偏見かもしれないが、絵描きというのは中でも他人に無頓着な人間のように思うのだが」

「それは本当に偏見ですよ」

「少なくとも一色はそういう人間だった」

「一色さん……」

 碌に話したこともない人に対して失礼ながら、竜鯉の話にさもありなん、と思ってしまった。

 池に辿り着くと、木立で遮られていた風と日の光が吹き抜けた。そろそろ日が低くなってきたためか、水場が近いせいか、少し肌寒い。

 昨日ここで絵を描いていた一色の姿を思い出す。実乃里のことなど微塵も意識にない様子で、描く対象と、描いている手元だけに没頭していたあの姿。

 あれこそが実乃里の思う、正しい絵描きの姿勢だ。こうなりたいと憧れた姿そのものだ。

 全身全霊を絵を描くことだけに捧げ、汗も、血の一滴までも己の作品のために絞り尽くす。そんな壮絶な生き様には惹かれるものがある。

 百年以上も前に生まれ、現代まで名を残した絵画の名匠たちのうち、一体幾人が制作に没頭するあまり心を病んだことだろう。孤独に耐え忍び、大局に屈せず、死ぬまで評価されず、それでも己の内から溢れるものを描き続けた彼らの作品だったからこそ、今日まで人々の心を捉えて放さない。

 自分を名だたる名匠たちと比べるなどおこがましいとは思うが、同じ年代の、教室で隣に座った彼や彼女と比べたって、自分には熱意が足りない。

「だから私は駄目なんです」

 水面が揺れ、僅かに溢れた水でバケツを抱える胸が濡れる。それと一緒に、自然と内心も吐露されていた。

「自分を貫ける強さがなくて。すぐ他人の言うことを聞いちゃうんです」

「それは人間にとって美徳とされる精神なのではないのか? 君たちはそれを『協調性』だとか『優しさ』だとかと呼ぶのだろう?」

「ただ意思が弱いだけですよ」

 美沙子に言われた。友梨が講義を休むのに手を貸してはいけないと。友梨のためを思うなら、きっと美沙子の言うことの方が正しい。しかし実乃里は友人に「お願い」と言われたら、正しい正しくないに関わらず、それを叶えてしまう。

 誰かのためだと言いながら、全て、自分の弱さの言い訳だ。

「そもそも、本当に人のために何かしたいなら、もっと別の進路を選ぶべきだったんです」

 そう。例えば教育関係、看護、介護。直接的に社会の役に立てる仕事は沢山ある。世のため人のためになりたいのなら、そういう勉強が出来る道を選ぶべきだった。

 もし世界が滅びそうになって、人類が滅亡しないように生き残るべき人が十人だけ選ばれるとなったなら、多分その中に絵描きは入らない。

「少し卑屈過ぎはしないか?」

「勿論、芸術家を否定してるわけじゃないんです。そこを目指すなら、それくらい強い意思が必要ってだけで」

 自分にはそれがないというだけの話。

「私、この大学にいていいんでしょうか?」

 何が何でも、という必死さに欠ける自分が絵描きを目指すなんて、強い意志を持って絵を学びに来た他の学生たちにも失礼になるのではないだろうか。

 ぽつり、ぽつり、と。

 まるで容量を超えた水がバケツから溢れ出るように、ここ数日、いや、この大学に入学してからの半年間、抱え続けていた思いが零れ落ちた。

 離れた所からいつも実乃里のことを心配してくれている家族や、ずっと側で笑い合ってくれている美沙子や友梨にも打ち明けたことがない悩み。それを出会ったばかりの、それも人間の事情に聡くもないであろうアヤカシに話している。

 いや、だからこそ。

 受験の間もずっと励まし、協力し続け、今も決して安くはない学費を捻出してくれている両親には今更申し訳なくて口には出せない。同じ環境、同じ立場で、同じように悩んだり、苦しんだりしているはずなのに、卑屈な言葉など一つも吐かない友人たちには、情けなくて相談も出来ない。

 何も知らない、異質な存在である竜鯉にだからこそ、遠慮も見栄もなく、本音が漏れた。

 人が誰かに悩みを相談するのは、本気で解決策を得たいからの場合と、ただ話を聞いて欲しいだけの場合とがあるという。今の実乃里は間違いなく後者。

「君」

「あ、ごめんなさい」

 竜鯉がじっと耳を――魚のどこに耳があるのかは知らないが――傾けてくれたことで気をよくしてしまったが、それにしても長話が過ぎた。

 狭いバケツの中で息苦しさに喘いでいる相手にこちらの悩み事を訥々と語り続けるなど、考えてみればひどい話だ。

「すぐにそこから出しますから」

 そのままの持ち方では今度は水を空けにくいので、一旦バケツを地面に下ろし、縁に両手をかけて持ち上げたその時。

「待て」

 竜鯉の鋭い制止に、びくっとなる。

 すぐに実乃里にも聞こえた。足音と、話し声。ここへ上がってくる道は実乃里も通ってきたあの一本道だけなので、誰かやってくるならそちら側からしかない。

「一色だ。隠れろ」

 押し殺された声に急かされ、慌ててバケツを持ち上げる。盛大に水が溢れたが、小さいことは気にしていられない。

 木立の中にまで駆け込む時間はないと判断して、すぐ近くの葦のような背の高い草の茂みに埋もれるようにして身を屈めた。枯れかけでかさついた細い葉は案外鋭く、屈んだ拍子に頬が少し切れるのがわかったが堪える。

 間一髪、入れ替わるようにして現れたのは竜鯉が言う通り、汚れたつなぎ姿の長身。一色だった。

「本当にここにいるのか?」

「他に当てがない」

「だとしても、あいつが一人で逃げ出せるわけがないだろうが」

「竜鯉さんならその気になれば空でも飛べるだろう」

「バケツごと? 愉快な未確認飛行物体だな」

 二つの声のうち、抑揚のない方が一色だということはわかったが、もう一つは誰のものだろう? 草の隙間から声の方を見遣る。人影はやはり一色の分しかない。

「どうしましょう?」

「このまま隠れて待つしかないな」

 竜鯉と囁きを交わし、頷き合うと、音を発てないようにそっとバケツを地面に下ろした。

 かさかさと草を踏む音が近付き、遠ざかり、また近付く。

 場違いに、子供の頃、弟や妹とかくれんぼをした時を思い出した。ただ遊んでいただけのあの頃より今の方がはるかに状況は切迫しているはずだが、あの頃はあの頃で心臓がはち切れそうな程に緊張しながら隠れていたものだ。実乃里はあまり隠れるのが上手くなくてすぐ見付かってしまった。

 がさり、と間近で音がして、息が止まる。

 みぃつけた、という声は掛からない。それもそのはず、茂みを掻き分けて実乃里を見付けたのは、真っ白な猫だった。

 実乃里はほっと胸を撫で下ろすが、竜鯉は呻き声を上げた。

「あれ? オマエ」

「え?」

「おい、マスミ。見付けたぞ」

 もう一つの声の正体。それは、この猫だった。

 魚に続き、猫まで喋り出すとは、実乃里が知らない間に生き物は急激な進化を遂げたらしい。そんなわけがない。

「え、っと……」

「あ、おい」

 怖気付き、後ずさってしまったのが悪かった。

 昨日の一色と全く同じ。かん、と踵で蹴飛ばしたバケツは倒れ、枯れかけて脆くなっていた草を呆気なく薙ぎ倒し、池に向かって下る緩やかな傾斜を、中の水を撒き散らしながら転がって行く。

「あっ」

 冷静に考えれば、そのまま上手い具合に池に落ちてくれれば竜鯉は無事バケツから解放されるわけで、無事にとは言えずとも取り敢えずの目的は達成出来たのだ。だから実乃里が必死に立ち上がり、足を縺れさせながら追い掛け、バランスを崩して手を伸ばす必要などなかった。そう、必要なかったのだ。

 竜鯉を助けなければなどと、お門違いの必死さを発揮しなくてもよかった。

 だが実乃里は、転がるバケツの中で、

「うわっ」

 と悲鳴を上げる竜鯉を無視出来ない。そんな性格なのだ。

 突然、地面を踏む感触が変わった。いや、ずるり、と頼りないこの感じは滑ったというのが正しい。

 背の高い草が生い繁っているために、地面と水面の境目が見えなくて。泥濘んだ土に靴の底を取られた足は池の縁を踏み外し、バケツを掴もうと伸ばした手は縋れる物のない空を切った。

 身体が水面に向かって投げ出される。

 落ちる!

 鉛筆を拾おうと肘まで水に浸けた時は冷たかった。あの中に沈んだら笑いごとでは済まないかもしれない。

 などと頭では冷静に考えられてもどうしようもなく、ぎゅっと目を瞑る。

 が、覚悟したような痛みや冷たさは、いくら待ってもやってはこなかった。

「大丈夫か?」

 何故か頭上から聞こえる竜鯉の声に、恐る恐る目を開ける。

 その衝撃は、ある意味冷たい池に放り落とされる以上だった。

 竜がいた。

 実乃里が両腕を精一杯伸ばしても抱えられそうにない太い胴が長く伸び、頭は遥か仰ぎ見る先にある。尾の先はくるりと蜷局を巻いて実乃里を捕まえていた。

 鰐のような大きな顎にぎざぎざとした歯が並ぶ。馬や獅子のそれと違う、長く、植物を思わせる鬣が背中から生えていた。

 中華料理屋の食器や、辰年の年賀状に描かれている、まさにその通りの姿。空想上の生き物の代表格。それが実物として目の前に存在している。

 今日一日で、自分の人生には起こり得ないと思っていた驚愕に何度出会ったろう。その度いちいち驚いて、もう何年寿命が縮んだかわからない。そのとどめの衝撃。今までのあれこれが前座に思えてくる大事件に、いよいよ実乃里の精神も限界だった。

 目の前がふっと暗くなる。

「おい」

 気遣わしげに覗き込んでくる硝子玉のような目と、日の光を浴びて銀色にも、七色に輝いて見える鱗。ふと、笑みが漏れた。

 姿はこんなに変わっても、これはあの魚だ。そう思うと恐怖はなくなった。

「竜鯉さん……」

 助けてくれてありがとうございます。

 それが声になったかどうかもわからないまま、実乃里は気を失った。


「まったく、余計な騒ぎを起こしやがって」

「あの子が池に落ちたのはおまえが驚かせたからだろう。私は寧ろ助けた側だ」

 遠くで言い合う声が聞こえ、ゆっくりと、意識が浮かび上がってきた。

「そもそもオマエが逃げ出したりしなければ、こんな面倒なことにはならなかったんだ」

「あんなバケツの中に閉じ込められたら逃げ出したくもなるさ」

「依頼主だろ。ちょっとは協力しろ」

 瞼を上げ、頭がはっきりしてくると、声は思ったより近くから聞こえていることがわかる。

 上半身を起こすと、体に掛けられていた毛布が床に落ちた。床、ということは室内だ。あの池の近くではない。どうやら気を失っている間に運ばれて来たらしい。

「おお、目が覚めたか」

「竜鯉さん」

 実乃里が寝かされていたすぐ横には例のバケツがあり、その中から竜鯉が顔を出していた。

 そうか、と僅かに苦い気持ちになる。竜鯉は逃げることが出来なかったのか。

「怪我は?」

 冷たく感じられるほどぶっきら棒な声。言い争っていた二つのどちらでもない。

 イーゼルの前に腰を下ろした一色が、鬱陶しげな前髪越しに実乃里を見下ろしている。

 自分の体をペタペタと触って確かめ、ついでに肩も回してみた。

「大丈夫、みたいです」

 少し体が重い気がするのは寝起きのせいだろう。痛む箇所もない。ダンボールやら布切れやらを重ねたクッションのお陰で床に寝かされていた割には背中も軋まない。思い出して頬に触れると、草で切ったところに絆創膏が貼られていた。

 がらんとした広い部屋に、イーゼルが一脚とバケツが一つ。遅ればせながらここが旧号館の、一色の部屋であることに気が付いた。

「さて、と。どうしたもんかねぇ?」

 一色とは対照的に、気取った口調の声の主を探して辺りを見回すと、竜鯉が入ったバケツの横で、白猫が面白がるような目をこちらに向けていた。

「猫が喋ってる……」

「喋ったくらいでなんだ。オマエだって喋っているだろう」

 だからその理屈には納得出来ないのだと、言い返す度胸はない。

「えっと……どうしたものか、というのは、どういう意味でしょう?」

「秘密を知られた以上は生かして帰すわけにはいかないよなぁ」

 ひくっ、と実乃里の頬が引き攣るのを見て、白猫は噴き出した。

「冗談だ。生かして帰すつもりのない奴をご丁寧に連れ帰って寝かしてやるもんか」

「おい、猫。いい加減にしろよ」

「オマエが言うな。この人騒がせなおサカナが」

 猫と魚というやり合う前から勝敗が決まっていそうな両者が言い争い始めるのを横目に、一色がひどく気怠げな仕草で頭を掻いた。

「白川実乃里さん」

「は、はい。あれ? 私の名前」

 彼の前で名乗った覚えはない。助手とはいえ、学科の違う学生の名前まで覚えているわけもない。

「竜鯉さんから聞いた」

「はぁ」

 何故だろう。先程から一色と竜鯉の間に敵愾心を感じない。一色は竜鯉を退治しようとしていて、竜鯉は一色から逃げようとしていたのではなかったか。

「何もなかったことにして、このまま帰るつもりはない?」

 明らかに説明を面倒臭がっている。

「ええと……ちょっと忘れられそうにはないです」

「だろうさ。巻き込んだ責任はきちんと取れよ、マスミ」

「巻き込んだのは僕じゃなくて竜鯉さんだと思うんだけど」

 一色が心底面倒臭そうに溜息を吐く。

「何から話せばいい?」

「私に聞かれても」

「説明は得意じゃないんだ。聞きたいことをそっちから質問してくれた方が早い」

 投げやりな態度には困ったものだが、そうでもしないと話を進めてくれる気がなさそうだと判断し、「なら」と実乃里はそろそろと挙手をする。

「一色さんはどうして竜鯉さんを退治しようとしているんですか? 竜鯉さんは何もしていないんでしょう? 助けてあげることは出来ないんですか?」

「最初に聞いてくるのがそれなのか」

「い、いけませんか?」

 質問しろと言われたから思い切って口を開いたのに。猫にまでくすくすと笑われては居た堪れない。竜鯉は何故か素知らぬ顔でそっぽを向いている。

「何故? と聞かれたら、頼まれたから、と答えるしかないのだけれど」

「誰に?」

「竜鯉さんに」

「えぇ?」

「消師は基本的に請負で仕事をする。自分の意思はあまり関係ない。今回の依頼人は竜鯉さん自身だ」

 白猫がバケツを小突いた。竜鯉の姿がちゃぽんと水の中に消える。

「そんな。どうして自分自身を退治してくれなんて依頼するんです?」

 話が見えてこない。

 それでは自滅、自殺ではないか。

 大体、竜鯉は実乃里に「助けてくれ」と言ったのだ。自ら一色に依頼をした上でそれでは話が繋がらない。

 何か自分を惑わそうとして適当なことを言っているのではないか、と実乃里が身構えていると、一色はいよいよ顔を顰めた。

「そこからなのか」

「オマエ、このおサカナからなんて言われたんだ?」

「一色さんに消されそうになっているから助けてくれって……」

「ああ、それで勘違いしたってわけか。ってか、勘違いさせられたんだな」

「どういうことですか?」

 竜鯉相手でも同じことが言えるが、こんなに目線を下げて相手と対する機会は滅多になく、猫の姿と向き合うとどうしても落ち着かない。

「消師が消すのはアヤカシの姿、それも、人間の目に映る姿だけだ。存在そのものを抹消することなんて出来ないし、しない。それは別の人達の仕事だから」

「つまり、マスミに絵を描かれたアヤカシは人間からは見えなくなるだけってことさ。描かれたアヤカシ自身は痛くも痒くもならない」

 退治屋と呼ぶには語弊がある、と竜鯉が言葉を濁した意味。

 一色は竜鯉を退治しようとしていたのではなく、人間から見えないように「消して」しまおうとしていただけ。

「要するに、オマエはこのおサカナに騙されたわけだな」

 当の本人である竜鯉はと言えば、バケツの底に隠れたまま出てこない。その態度からして、一色や白猫の言うことが正しくて、竜鯉が嘘を吐いていたことは明白だった。

「そんな、だって、あんな切羽詰まった感じで言われたら勘違いしちゃいますよ」

 頭を抱えたくなる。

「助けてくれ」といかにも哀切な懇願に動かされ、まんまと竜鯉の逃亡に手を貸してしまったわけか。

 そもそも冷静に考えてみれば何が何だかもよくわからないアヤカシより、一度言葉を交わしただけとは言え人間である一色の方を悪者と決め付けるなんて、どうかしていた。

 昔話を紐解けば、物の怪、妖怪、異形の類は人を騙すものと相場が決まっているではないか。

 アヤカシといえば悪さをするものと決め付けるな、と竜鯉は言っていたが、実乃里を騙そうとする本人の言葉では説得力の欠片もない。

「あれ? でも待ってください。じゃぁ、自分から依頼をしておいて、どうして竜鯉さんは逃げ出そうとしたんですか?」

 バケツの奥から「うぅ」と呻く声が聞こえた。

「そもそも、なんで人間から見えなくなりたいなんて思ったんです?」

 人間には見えない姿で、透明人間よろしく悪事を働こうとするつもりなのか。だとして、一色がそれに手を貸す理由がわからない。まさか、やはり一色もアヤカシに手を貸す悪い人間なのか。

「参拝客が五月蝿くなったから、という話だったけれど」

「参拝客って、竜鯉さんは神様なんですか?」

 すっかり竜鯉のことを人を騙す悪戯妖怪のように思い始めていた実乃里だが、実乃里を助けてくれたあの竜の姿を見れば、なるほどそれも頷けない話ではない。日の光で七色に輝く鱗。魚のままでも十二分に美しかったが、気を失う前にほんの僅か目にしたあの姿は、神々しかった。

 だとすれば、自分は神様に対してとんでもない不敬を働いていたのではないか。恥ずかしさのあまり一瞬かっと頬が火照り、すぐさまその熱は全身の血の気と共に引いていった。

 だが、そんな実乃里の熱くなったり冷たくなったりと忙しい内心をよそに、ふるふると水面を震わせていた竜鯉が、ついに堪り兼ねたように跳ね上がった。

「だから人間は鬱陶しいというのだ! 私はただのアヤカシだ! 神社の池に棲んでいるというだけで、神様なわけがないだろう!」

「そうなんですか?」

 ことの次第はこうだった。

 竜鯉が住処としていたのは、小さいが清らかな、神社の境内にある池らしい。とくに観光名所というわけでもなく、初詣や七五三の時期でもなければ地元民すらほとんど訪れないような閑散とした神社で、その静けさを竜鯉は好んでいたという。

 それがある時を境に急激に参拝客が増え始めた。その理由が竜鯉であった。

「私の姿を見た人間が無責任に言い始めたのだ。『あの魚にはご利益がある』と。ぱわーすぽとが何やら、とかな」

「パワースポット、ですか?」

「そう、それだ」

 あの神社の池はパワースポットらしい。あの池には七色の鯉が棲んでいて、願いを叶えてくれるらしい。光る魚の写真を待ち受け画面にすると良いことがあるらしい。

 誰が言い出したのかもわからない根も葉もない噂は、魚の話だけに尾鰭背鰭がついて瞬く間に広がり、それまで人気のなかった境内が俄かに賑わい始めた。それだけならまだ良かった。

「神とアヤカシの区別もつかない人間たちだ。元より信仰心などあるはずもない。神聖な場所に足を踏み入れているという自覚もなく、五月蝿くて敵わん」

 有名になり多くの人が訪れるようになった観光地ではままあるように、騒ぐ人、境内を汚す人、立ち入ってはいけない場所に踏み込む人が現れ始め、ついに。

「はしゃいだ子供が池に落ちるという始末だ」

 目に余る状況に辟易した竜鯉は考えた末、騒動の発端そのものを取り除いてしまうことにした。つまり。

「私が人間の前から姿を消せばいい」

「それじゃぁ、竜鯉さんは人間のために?」

「ため、ではない。前々から人間は煩わしいと思っていたのだ。丁度いい機会だからすっぱりと縁を切ってやることにしただけのことさ」

 消師とはそんな風に、人間とアヤカシの間に起こるいざこざを解消するための仕事、なのだそうだ。

 古来から生き様の異なる人間とアヤカシは度々衝突し、お互いを傷付け合ってきた。人間は自分達に仇なすアヤカシを恐れて追い払おうとし、抵抗を試みるアヤカシがまた人間に仇をなす。そんな悪循環を解消する手っ取り早い方法が、いわゆる棲み分けだった。

 人間とアヤカシがお互いに傷付け合わずに済むように、互いの領分を侵さないように。

 人間の目に映らなくなったアヤカシは、人間に直接干渉することも出来なくなる。そうして両者の間に明確な境界線を引く。

 それが消師。

 文明が発達し、誰もがアヤカシなど夢物語としか捉えなくなった現代でも尚、いや、大半の人間がアヤカシの存在を受け入れられなくなった今だからこそ、そういう仕事が必要だということだった。

 実乃里が欠片も耳にしたことがないのも当然。実乃里のような普通の人間がアヤカシに関わらないようするのが、一色たち消師の役割なのだから。

 人間に辟易した竜鯉もまた、人間との縁を断つために消師の力を借りに来た。

「あれ? でも、それならどうして一色さんから逃げ出したりしたんですか?」

「それは……」

「オマエ、まさかまだ腹が決まってないのか?」

 竜鯉が気まずそうに口篭ると、白猫が呆れたように横目でバケツを覗いた。

「う、うるさい! 一色の絵が完成したら私はあそこに帰らなければならないのだぞ! ならば今だけでも鰭を伸ばさせてくれてもよいではないか!」

「竜鯉さんは元いた池に帰りたくないんですか?」

「むぅ……」

 実乃里は話の流れから、てっきり竜鯉が今の住処を気に入っているからこそ、姿を消してでも帰りたいのだろうと思った。しかし今の言い分では、棲んでいる場所そのものに不満があるように聞こえる。

「帰りたくないのなら別にいいんじゃないですか? あの池に棲んだって」

 あそこなら水も綺麗で、好奇心で探索していた実乃里が言えたことではないが、人間の出入りも多くない。竜鯉自身も気持ち良さそうにしていたし、そこに放して欲しいと頼んできたくらいだからそれなりに気に入ってもいるのだろう。

「それにしたって絵は完成させないといけないんだから、少しは我慢して協力して欲しいところだけれど」

 いつのまにか話の輪から離れ、描きかけの絵の出来を確かめていた一色が口を挟む。

「人目に付かない所に棲むなら、姿を消す必要はないんじゃないですか?」

「今回みたいなことがないとは限らないし、姿を消しておいた方が余計な気を遣わずに暮らしていける。人間と縁を切りたいなら、竜鯉さんだってそっちの方がいいだろう」

「それは、まぁ、そうなのだが」

「大体、ここに移動しないといけなくなったのだって、竜鯉さんが白川さんに見付かったせいなんだから」

「あ」

 昨日は池まで道具を運んで絵を描いていたのに、今日になってわざわざこのアトリエに竜鯉を連れてきた理由。不思議には思っていたが、他ならぬ実乃里がその理由だったのか。

 結果、一色が絵を描いているところを覗き見てしまったのも、竜鯉を逃がそうと一人相撲をしたことも、足を滑らせて池に落ちそうになり、あまつさえ気を失ってここまで運んでもらうことになったのも、一連の騒動の全てが実乃里のせいということになる。そう考えると、一色を悪い人間だと決め付け、正義の味方気取りのお節介を焼いてしまった自分が恥ずかしかった。

 バケツの奥に、とはいかないが、穴があったら入りたい。

「私が人間のためにそこまでしてやらなければならないというのがな。どうにも釈然としないんだ」

 まだ気持ちが収まらないのか、竜鯉がぶつぶつと愚痴を零す。

「それはオマエのワガママだろ」

「なんだと?」

「あのっ」

 噛み付き合いでも始まりそうな竜鯉と白猫にびくびくしつつ、実乃里は思い切って竜鯉と白猫の間に割って入った。

「私に何か出来ませんか?」

「むっ?」

「あ?」

 魚と猫の目が同時に実乃里に向く。

「竜鯉さんがまだ一色さんに姿を消してもらうことに納得出来ていないなら、なんとかしましょうよ。絶対に人間の目に付かない池や川だってあるかもしれないし……私、探します。手伝いますから」

 そう提案したのは、大騒ぎを起こしてしまった後ろめたさからではあったが、それ以外に、いや、もしかしたらそれ以上に、まだ気に掛かっていたからかもしれない。

 助けてくれ。

 そう竜鯉に言われたことが。

 実乃里はその言葉に弱い。

「オマエなぁ。このサカナはオマエを騙くらかして利用しようとしたんだぞ。そんな奴にそこまで世話を焼いてやる義理なんかないだろ」

「でも、私だって迷惑掛けてしまいましたし。お仕事の邪魔をしてしまったお詫びに、じゃないですけれど、私に出来ることがあれば」

「君がここにいてもどうにもならない。帰った方がいい」

 いっそ気持ちの良いくらいにばっさりとした、微塵の隙もない否定だった。

 一色の言葉はどこまでも淡々としていて、だがそれは冷たいわけではなく、徹底された関心の無さによるものだと感じられた。

 本当に、その通りなのだろうと思う。

 アヤカシの存在も消師という言葉もたった今知ったばかりの実乃里に何も出来るはずがない。また余計な首を突っ込んで事態をややこしくするよりは、大人しく退散した方がきっと竜鯉のためにも一色のためにもなる。

 自分はここにいるべきではない。

 またそれだ。

 何度、思い知らされれば気が済むのだろう?

 しゅん、と項垂れた実乃里を見て、何故か竜鯉が突然声を張り上げた。

「いや、ある。君にしてもらいたいこと、あるぞ!」

 俯いた顔を上げる。竜鯉の硝子玉のような両目が、まっすぐにこちらを見詰めていた。