日本は、素晴らしい国です。

 たとえば、コンビニエンスストア。夜中に煌々と明かりを灯している店など、マドレーヌの生まれ育った町にはありません。フランスの田舎町の夜は、果てのない闇が続くだけ。夜は粛々として過ごすものだと思って生きてきたマドレーヌは、真夜中でも買い物ができる便利さに驚かずにはいられませんでした。

 それから電車。時間ぴったりにホームに電車が来るなんて、素晴らしいという想いを通り越して、気持ち悪いとすら感じます。きっと運転手さんはロボットなのだろうと、閃いたこともありました。けれども車掌室を覗き込んでみたところ、操縦していたのはごく普通のおじさんで、マドレーヌは少しだけがっかりしたのでした。

 サービスだって、申し分ありません。カフェに入っただけで、水とおしぼりが貰えるのですから。そのくせ、チップは渡さなくていいのです。無料奉仕なんて、フランスではまずあり得ません。日本人は、いったいどこまで気前がよいのでしょう?

 そんな風に日本での毎日はきらきらと輝いていて、マドレーヌにとっては驚きの連続なのです。それでも来日したてのマドレーヌには、一つだけ残念なことがあるのでした。

 幼い頃、マドレーヌはパリの地下鉄でとある旅行会社のポスターを目にしたことがありました。おそらく、日本のツアーを宣伝するものだったのでしょう。着物姿で古い街並みを往来している日本人の姿は薄暗い地下鉄内で一際輝いていて、マドレーヌの脳裏に鮮明に焼きついたのでした。そんなわけで、日本人は今でもその魅惑的な民族衣装を日常的に着ているものだとすっかり思い込み、マドレーヌはここまで来たのです。けれども実際のところ、着物を着ている人などほとんど――いや、全くといっていいほどいません。

 まさに、〝百聞は一見にシカズ〟。

 最近学んだ日本のコトワザです。日本は、言葉まで便利にできているのです。コトワザを巧みに使いこなすことこそが、日本好きの証だということをマドレーヌは心得ています。

 それでもマドレーヌは、日本に来たことを後悔などしていません。

 するはずなど、ないのです。



「マドレーヌ。あのさ、頼みがあるんだけど」

 ルームメイトの華が両掌を擦り合わせながら懇願してきたのは、マドレーヌが日本に来て一ヶ月が過ぎた頃のことでした。

「一緒に、杏子さんのところに行ってくれない?」

「キョウコさん?」

「あけぼの商店街で、洋菓子屋さんをやってる人のことだよ。フィナンシェが最高においしいの」

 マドレーヌと華がルームシェアをしている古民家は築八十年ほどの平屋で、キッチンの他に襖で仕切られた畳敷きの部屋が三つと納戸から成っています。二人の共有スペースである八畳間で、学校の課題である足袋の型紙を切り抜いていたマドレーヌは、手を止め首を傾げました。

「華ちゃん、もしかしてフィナンシェを知ってるの?」

「当たり前じゃない。フィナンシェくらい、知ってるわよ」

 華が、呆れたような顔を見せます。瓜実顔に切れ長の瞳、背中まで伸びた艶やかな黒髪。華は見た目こそ申し分のない和風美人なのですが、残念ながら〝やまとなでしこ〟という言葉からはほど遠い性分なのです。

 マドレーヌは青い瞳を見開きました。フィナンシェというのは、小さな長四角のフランスを代表する焼き菓子です。日本人は、デザートにお餅だとかお饅頭だとかの和菓子ばかり食べているのだと思っていたマドレーヌは、華の口から〝フィナンシェ〟という言葉が出てくるとは思ってもいなかったのです。

 実際の日本は、マドレーヌがイメージしていたジャポンとは大きく異なるのでした。着物女子もいないし、ニンジャが屋根を飛び越えている様子もありません。フランス料理のお店など本場よりおいしいところもあるし、おまけにフィナンシェまで当然のようにまかり通っているのですから。なんだか少しがっかりなのですが、でもとりあえずフィナンシェは食べときたい。マドレーヌは、そう思ったのでした。

「キョウコさんのお店に、フィナンシェを食べに行くの?」

「ううん、そうじゃなくて。食べてもらいたいのは山々なんだけど、杏子さん、ここのところずっとお店を閉めてるから無理なのよ。そこで、マドレーヌの力を借りたいの」

 華が、困ったように眉尻を下げます。

「杏子さん、お店を閉めてる理由すら教えてくれないらしくてさ。いつ再開なのかって商店街の人が訊いても、話をはぐらかすんだって。もしかしたら、このまま一生杏子さんのフィナンシェが食べられないんじゃないかって不安なのよ」

 華が言うには、かつてフランスに住んでいたことのある杏子さんは、かなりのフランス通。話をすれば必ずフランスの話題が出るし、巧みにフランス語を織り交ぜるような人で、性格的に〝ちょっと面倒臭い〟ところがあるとのこと。亡くなったご主人もフランス人で、杏子さんが口を開けば、パリではどうだの、パリジェンヌはこうだの、そんな話ばかりが飛び出すそうです。

 フランス通の杏子さんのことだから、フランス人のマドレーヌの言うことなら聞くのではないか。そんな安直な想いから、華はマドレーヌに、お店を再開するよう杏子さんと話をして欲しいようなのです。

「そんなにフィナンシェが食べたいなら、他のお店で買えばいいのに」

「他のお店のフィナンシェじゃ、駄目なのよ」

 躊躇なく言い切る華は、杏子さんの作るフィナンシェにこだわりがあるようです。

「でも、もしかしたらなにかの病気で、キョウコさんはお店を閉めているのかも。だったらどうするの?」

「それが、毎日のように商店街で買い物してるところを見かけるらしいんだけど、どう見ても元気なんだって。むしろ、年の割に元気過ぎるくらい」

 そこで、華がにわかに語気を強めます。

「杏子さんの作るフィナンシェは、魔法のフィナンシェなの。食べると、どんなに落ち込んでいる時も、あっという間に元気になれるのよ」

「ほう」

 マドレーヌは、青い瞳をぱちぱちと瞬きました。魔法のフィナンシェ。なんて、素敵な響きなのでしょう。フィナンシェの本場フランスにすら、そんなものはないのに。さすが不思議の国ジャポン、と感心すると同時に、杏子さんの作るフィナンシェをなんとしても食べてみたいとマドレーヌは思ったのでした。子どもの頃から、甘いものには目がないのです。

「分かった。話、してみるね」

「本当? それなら助かるよ、ありがとう! このお礼は、いつか必ずするから」

 華の言葉に、マドレーヌはぱっと瞳を輝かせました。

「それなら、今度華ちゃんの着物姿を見せて」

 日本での生活には充分満足していますが、着物女子を間近で拝めていないことだけがマドレーヌは不満なのでした。着物好きのマドレーヌとしては、どうしても日本の女の子の着物姿を目に焼きつけたいのです。この機会を、利用しないわけにはいきません。

 すると、華が露骨に顔をしかめます。

「それだけは勘弁して。着物って、好きじゃないの。重いし、しんどいし」

 華は、マドレーヌが着物の話をする度に嫌な顔をします。まるでブルドッグの首輪のようなとげとげブレスレットに、ガイコツ柄のTシャツ。華が好んでいるのはパンク風味の格好で、着物など〝ゴンゴドウダン〟といった有り様なのです。また、覚えたばかりの日本語が役立ちました。それでも、マドレーヌはあきらめるつもりは全くありません。

「華ちゃんの着物姿、じっくり見たい」

「あんまりしつこいとキモいよ、マドレーヌ」

「キモくてもいいの。〝宝のおモチ腐れ〟なんだから」

「それを言うなら〝宝の持ち腐れ〟ね。どこで覚えたの、そんな言葉」

「みとこうもん」

「そんなの、見てるんだ」

 カラカラと、華が笑いました。

「いつか華ちゃんに、着物を作ってあげる。それが、私のユメなの」

「変な夢、持たないで」

 再び、しかめ面の華。そんなことはお構いなしに、焼きたてのマドレーヌの色に似たボブヘアを揺らして、マドレーヌは思いきりにんまりと笑ってみせるのでした。



 翌日の昼過ぎ。杏子さんのお店に行くために、マドレーヌは華とともに家を出ました。

 木枠の埋め込まれた豆腐色の壁に格子戸、それから重厚な鼠色の瓦屋根でできている二人の住む古民家は、いつ見てもどこかにニンジャが潜んでいそうな外観でクールなことこのうえなし。大家さんは人のいいおばあさんで、お金のない学生さんたちのためにと格安で物件を提供してくれています。一ヶ月ほど前、マドレーヌは不動産屋で華と出会い、ひょんなことからこの古民家でルームシェアをすることになったのでした。

 華曰く〝オンボロ〟らしいのですが、マドレーヌはこのオンボロ古民家を骨のズイまで気に入っていました。古い町とはいえ辺りは建て替えが進んでいて、売り出し中ののぼりを掲げたピカピカの家ばかりが目立つのですが、個性のない新築の家などよりも味のあるこの家の方が、マドレーヌにはよほど魅力的に思えるのです。

 歩いて数分、車の行き交う車道から一つ路地を曲がると、大きな鉄製のアーチ門が二人を出迎えます。〝あけぼの商店街〟と書かれたその門は紅白の花飾りで装飾されていて、その先には、白い石畳が真っ直ぐに伸びています。通りは車の往来が禁止されているため、足を踏み入れるや否やせわしないエンジン音が遠のき、代わりに立ち話をしている人々の声や、お店の人の威勢のいい掛け声が、思い出したかのように耳に届くのでした。

「この先に曙神社っていう神社があって、もとはその表参道として栄えた通りなの。昔は、毎日のように参拝客で溢れ返ってたんだって」

 隣を行く華が、説明してくれます。

 道の幅は狭くひっきりなしにお店が続いていて、ずらりと等間隔に飾られた色とりどりの提灯が活気に色を添えています。豆腐屋や駄菓子屋など、日本独特のお店に吸い込まれるように見入ってしまうマドレーヌ。売っているものこそ違いますが、まるでマルシェに来たかのようで、懐かしい気持ちにすらなるのでした。マルシェとは市場のことで、フランス人は日曜日になればマルシェに行って、お店の人と楽しく会話をしながら野菜やチーズを買いだめするものなのです。

「今はよそからの参拝客は減っちゃったけど、地元の人達には大事にされてる商店街なんだ。住んでる人達は、みんな気さくであったかいしね。有名な観光地みたいな派手さはないけど、歴史も古いし、知る人ぞ知る穴場スポットってとこかな」

 やがて華は〝かまぼこ〟と書かれた謎のお店から一つ筋を入り、メインストリートよりもさらに狭い路地を進んだところで足を止めます。小さな古本屋の真向かいに、南欧風のお店が佇んでいました。もぎたてのシチリアオレンジに似た色の瓦屋根に、オフホワイトの外壁。小窓には、木製の鎧戸。屋根のてっぺんでは、風見鶏が気持ち良さげにゆっくりと回っています。

 和風建築の建物が連なる中、突如ひょっこりと現れた洋装のお店にマドレーヌはいささか戸惑いを覚えました。この一角だけ、まるで地中海の日射しが燦々と降り注いでいるようで、纏う空気が辺りとは異なるのです。ドライフラワーでエレガントに飾られた木製の立て看板には、ひっそりと〝Repos〟という店名が刻まれています。

「ルポ(Repos)。ステキな名前、ね」

〝Repos〟はフランス語で、〝休息〟という意味です。誰しもがほっと休める場所、という意味合いが込められているのでしょう。

「ルポって読むんだ、知らなかった。ずっとルポスって呼んでたよ」

 華が、けらけらと笑いました。薔薇のアーチ門や石造りの花鉢で飾られた洋風ガーデンでは、春のうららかな陽気の中、パンジーやヒヤシンスが色鮮やかに咲き誇っています。その向こうに見える店舗入り口には、案の定〝Close〟と書かれた札がさがっていました。

「変に思われないように、引っ越しの挨拶に来たってことにしておこうね。マドレーヌはこの町に来たばかりだから、そう言っておけば違和感ないと思う。そういえば、何か手土産を持って来ればよかったな」

「テミヤゲ?」

「うん。日本人はね、よその家に引っ越しなんかの挨拶に行く時は、手土産を用意するものなのよ。お蕎麦とか、ミニタオルみたいな小物とか」

「ほう……!」

 また、思いがけずクールなジャポネの情報を仕入れてしまいました。フランス人に、よその家に挨拶に行くだけで手土産を用意するという慣習はありません。ホームパーティーに呼ばれた時ならワインやタルトを持って行くのは常識ですが、そういうわけでもないのに。きっと、フランス人から見れば恐ろしいまでに気遣いのできる日本人だからこその暗黙のシステムなのでしょう。ぼんやりと鼻の下を伸ばし、マドレーヌはさっそく手土産なるものに憧れを抱くのでした。

〝Repos〟の入り口の真横には、一風変わった猫の置物が置かれていました。掌三つ分ほどの大きさで、ぎょろぎょろと目ばかりが大きく、奇怪なほどに大きなコインを抱えています。昨夜たまたまテレビで観たおどろおどろしい妖怪アニメを思い出し、ぎょっとして足を止めるマドレーヌ。

「華ちゃん、あれはなに? もしかして、バケ猫?」

「化け猫じゃない。〝招き猫〟だよ」

 妖怪カフェじゃあるまいし、と華が言葉を足します。

「昔から日本にある、おまじないの置物みたいなものかな。小判を片手に、こっちに手招きしてるでしょ? 商売繁盛を祈願してるの」

「マネキ猫? ……もしかして、知ってるかも」

 記憶の中の、祖父の書斎。マドレーヌを虜にしたモネの『ラ・ジャポネーズ』の脇で、これとそっくりな猫の置物が大きな瞳をじっとこちらに向けていたのをぼんやりと覚えています。『不思議の国のアリス』に出てくるチェシャ猫のようなギラギラとした瞳が、なんだか無性に怖かったっけ。幼い頃に亡くなった祖父は、日本のものをコレクションするのが趣味だったのです。

「招き猫まで置いているのに、どうして杏子さんはお店を閉めてるんだろ? 招き猫がお客さんを呼んでくれても、肝心のお店が閉まってたんじゃ、どうしようもないのにね」

 納得がいかないようにぼやきながら、華が裏口へと向かいました。



「Bonjour.Je m'appelle Madeleine(はじめまして、私の名前はマドレーヌです)」

 インターホンに向け、簡単な自己紹介を済ませるマドレーヌ。そのあと、近くに住みはじめたので挨拶に来たとフランス語で続ければ、しばらくの沈黙ののち「少し、お待ちになって」という品の良い声が返ってきました。

「マドレーヌって、フランス語話せたんだ」

 見当違いの驚き方をしている華。マドレーヌは、顔をしかめます。

「何言ってるの、華ちゃん。フランス人なんだから、あたりまえ」

「日本語が達者だから、ついフランス人だってこと忘れちゃうのよね。時々、変だけど」

「そういうもの?」

 そんなわけないでしょう、と思いつつも顔がにやけます。マドレーヌは日本が大好きだから、そう言われるのは嬉しいのです。

「古臭い日本の文化とか妙なことわざにも詳しいし、マドレーヌっておばあちゃんみたいって時々思っちゃうんだよね」

「華ちゃんの方がおばあちゃん。三つとしうえじゃない」

「それを言わないで。日本人が年を気にするのを知ってるくせに」

「かたじけない」

 そこで、ギィッと音をしならせて勝手口が大きく開かれます。

「Bienvenue chez moi(ようこそ)」

 太陽のような輝かしい笑顔で二人を出迎えてくれたのは、グレーヘアをアップスタイルにした、白のレースエプロン姿の清潔感溢れる老婦人でした。

「まさか、フランスからお客さんがいらっしゃるだなんて。ああなんて懐かしいの、フランス語。ささ、上がって上がって!」

 馴れた様子で、マドレーヌの頬に顔を近づけビズをする杏子さん。ビズとはフランス人特有の挨拶のし方で、ハグをしながら両頬に軽いキスをすることをいいます。一度華にしようとしたら真っ赤になって相撲技のように弾き飛ばされたのを機に、マドレーヌは日本人にビズをすることはやめていました。

〝ゴウに入ればゴウに従え〟。日本人は、たとえ友人だろうと気安く触れてはいけないものなのです。夫婦や恋人同士ですら、一定の距離を保って歩いているのですから。そういうわけで久々の杏子さんとのビズに、マドレーヌは新鮮な気持ちにすらなるのでした。幾度も交わした、祖母とのあたたかいビズを思い出してしまいます。

 呆気にとられていた華が、我に返ったあとでひそひそと耳打ちをしてきました。

「すごいよ、マドレーヌ。こんなに明るい杏子さんを見たの、久しぶり」

「そうなの?」

 すると、

「ちょっと、華ちゃん」

 間髪入れずに、杏子さんの鋭い声が飛んできます。華が、びくっと肩を跳ね上げました。

「内緒話なんて、失礼じゃない。女性なら、もっと凜としてなきゃ。それにあなた、そんな男みたいな恰好して。よその家にお邪魔する時は、スカートを穿いて行くものなのよ。マドレーヌちゃんを見習いなさい。清楚なクリーム色のワンピースなんて、訪問着のお手本だわ、Très bien(とっても素晴らしい)」

「はぁい」

 うんざりしたような顔で、しぶしぶ返事をする華。

「マドレーヌは、いつも同じワンピースを着てるだけなのに……」

 杏子さんには聴こえない声量で、不服そうに呟いています。

 マドレーヌは、杏子さんのことを〝ちょっと面倒臭い〟と華が言った意味がなんとなく分かりました。こういう口やかましいタイプの近所のおばさんは、フランスにもいます。


 二人が通されたのは、ひっそりと静まり返ったお店の中でした。ショーケースの中は空っぽで、陳列棚だけにギフトボックスが数個並んでいます。一番上の棚にぽつんと置かれた、表にあったものによく似た招き猫。杏子さんは、もしかすると招き猫が好きなのかもしれません。

「こちらへどうぞ。親しい人達はね、いつもここに案内するのよ」

 杏子さんが指し示したのは、テラス窓に面したイートインスペースでした。テーブルクロスのかかったアールデコ調のテーブルの周りには、椅子が円を描くように並べられています。照明の落ちた暗い店内では、陽の降り注ぐそこだけがぱっと華やいで見えるのでした。

「〝トワル・ド・ジュイ〟。懐かしいです」

 マドレーヌは、テーブルクロスをそっと撫でました。〝トワル・ド・ジュイ〟はフランスの伝統生地で、ロココ調の絵画を彷彿とさせる繊細なプリントが散りばめられているのが特徴です。祖母が好きで、祖母の家はクッションカバーや客室用のベッドカバーなど、〝トワル・ド・ジュイ〟で溢れ返っていたのでした。今マドレーヌの目の前にある〝トワル・ド・ジュイ〟は白と青のツートーンカラーで、川のほとりで談笑する農村の男達が描かれています。

「Merci(ありがとう)、マドレーヌ。そうなの。フランスにいた頃に買った生地でね、とても気に入っているのよ。もう全部使っちゃったのが残念だけどね、日本じゃすぐには手に入らないでしょ?」

 杏子さんの口調が、より明るくなります。

「私、〝トワル・ド・ジュイ〟って大好きなのよ。特に、こんな風に人がたくさんいる柄が好きだわ。楽しそうな声が、ここまで聴こえてくるみたいでしょ? 一人でいてもね、見ていたら愉快な気持ちになれるのよ」

 そう語る杏子さんは、とても幸せそうなのでした。

 促されるままに華とともに椅子に腰かけると、間もなくしてトレイを手にした杏子さんが戻って来ました。

「あなたは、フランスのどこのご出身なの?」

「プロヴァンスです」

「それはTrès bienだわ。主人の実家もプロヴァンスなのよ」

 話しながら、杏子さんがコーヒーカップとケーキ皿をマドレーヌと華の前に置いてくれます。木苺の模様をあしらったお皿の上には、こんがりと焼けた黄金色のフィナンシェがのっていました。甘くて香ばしい匂いに、マドレーヌは思わずひくひくと鼻を動かします。

「うちの自慢のフィナンシェよ。お店は長い間お休みしてるんですけどね。フィナンシェを焼かないとどうも落ち着かなくて、少しだけど時々焼いてるのよ。たまたま今朝焼いたばかりだから、ちょうどよかったわ」

「これ、ずっと食べたかったの。杏子さん、ありがとう!」

 目の色を変えて、華が一目散にフィナンシェを頬張っています。

 魔法のフィナンシェを前に、マドレーヌの心も弾みます。口に運べば、しっとりとした食感のあとに広がる、品のよい甘さ。〝ホッペタが落ちそう〟とは、きっとこういうことをいうのでしょう。マドレーヌは口をもぐもぐさせながら、にゅんと鼻の下を伸ばします。

「C'est bon……」

「Ah pon?(そう?)おいしいなら、良かったわ」

 向かいに腰かけた杏子さんが、嬉しそうな顔を見せます。

「フランスにいた頃にね、主人と一緒に方々を旅して、ありとあらゆる人からフィナンシェの作り方を学んで腕を磨いたのよ。このフィナンシェは、私と主人の努力の結晶なの」

「おばあちゃんの焼いてくれた、フィナンシェに似てます。おばあちゃんのこと、思い出しちゃった」

 マドレーヌが幼い頃、祖母はよくフィナンシェを焼いてくれたものでした。自然と、プロヴァンスにいる祖母の笑顔が脳裏を過ります。日本行きを反対されてから、祖母とは会って話をするどころか電話すらしていません。

「私もそうよ。フィナンシェを焼くたびに、主人のことを思い出すの。フィナンシェの香りがすると彼が近くにいるような気がして、どこかからひょっこり姿を現すんじゃないかって、今でも期待しちゃうのよ」

 皴の寄った目もとを、ゆるりと細める杏子さん。

「そうそう、主人の写真でもご覧になる?」

 杏子さんが、店の奥の飾り棚から年季の入った写真立てを持ってきました。

「チャーミングでしょ?」

 色褪せた写真の中では、若かりし頃の杏子さんの隣で、体格のいい外国人男性が微笑んでいました。きっちりと整えられた口髭に、穏やかな目もと。マドレーヌに身を寄せるようにして写真を覗き込んでいた華が、大仰に声を上げます。

「杏子さん、若い! これ、いつ頃の写真なの?」

「三十年くらい前かしら。ちょうど、このお店をオープンしたての頃に撮ってもらったものよ」

 写真の中の〝Repos〟は、今と少しも変わっていませんでした。南欧風のアーチ窓に、風見鶏のいる屋根、入り口の招き猫。まるで時の流れが止まってしまったかのように、ほとんどがそのままです。

「このお店は、私達のTrèsor(宝物)なの」

 そこで杏子さんは、遠い昔に想いを馳せるかのように言葉を閉ざしてしまいます。束の間の静寂が訪れました。すると、折を見計らったように華がマドレーヌに目配せをしてきます。そろそろ、本題に入るべし。おそらく、そういう合図なのでしょう。

「キョウコさん」

「何かしら?」

 マドレーヌが声をかければ、我に返ったように杏子さんは笑顔に戻りました。

「ずっと、このお店を閉めてると聞きました。お店は、いつ再開する予定なの?」

 フランス人は、もったいぶるのが嫌いです。そういうわけで、マドレーヌは迷わず単刀直入に問いかけました。けれども、それがいけなかったのかもしれません。言い終えた直後、それまでは終始ご機嫌だった杏子さんの顔に、突如さっと影が差したのです。

「決めてないの。いっそのこと、このまま閉店しちゃおうかなって思っているのよ」

 先ほどまでとは打って変わった、抑揚のない声。

「ええっ、そんな!」

 思いがけない返事に、華が動揺しています。

「どうして? せっかくステキなお店なのに。また、お店をして欲しいです」

 きょとん、とマドレーヌは降って湧いた疑問を口にしました。けれども、どうやらそれは〝火にアブラ〟を注いだことになってしまったようです。不本意なところで、最近覚えた日本語がまた役に立ちました。

「あなたまで、そんなことを言うの?」

 敵対心を露わに、杏子さんが語気を荒げます。杏子さんが怒っている意味が分からないマドレーヌは、ポカンとするより他にありませんでした。とにかく、今の杏子さんは、逃げ出したいくらいにコワイです。これがきっと、〝鬼のギョウソウ〟というやつなのでしょう。

「華ちゃん、もしかしてあなたがけしかけたの?」

 杏子さんの剣幕に、亀の子のように縮こまる華。

「ええと、そういうわけじゃ……」

 必死に言い訳を考えているようですが、オロオロと慌てる華の様子は逆効果でした。

 すくっと背筋を伸ばし、有無を言わさぬ口調で、杏子さんは二人に向かって言い放ちます。

「すぐに、お帰りになって。私は、お店を再開するつもりはありませんから」


 先ほどよりも日射しの和らいだ〝Repos〟の前の小路を、マドレーヌと華は浮かない足どりで歩いていました。クールな水色の〝ランドセル〟を背負った小学生が、そんな二人の脇を元気に駆け抜けていきます。

「杏子さん、すごく怒ってたね……。ごめんね、マドレーヌ。私が、余計なお願いしたばかりに。傷ついたでしょ?」

「すごくこわかった。華ちゃんの言うことなんか、聞かなきゃよかった」

 別に、傷ついてなどいません。ただ、マドレーヌは怒られたことに納得がいかないだけです。

「そこは気を遣って、『そんなことないよ。華ちゃんだって、悪気はなかったんだから』って言うところよ」

「そんな、日本人みたいな気遣いはムリ。日本人ムズカシイ」

「急に、外国人ぶらないでよ」

「フランス人は、わかりやすいんだから」

 日本人は、本当に分かりにくいです。杏子さんにしろ、どうしてお店をお休みしているのかはっきりと言えばいいのです。

「でもおかしいの、華ちゃん」

「何が?」

「わたし、魔法のフィナンシェを食べたはずなのに、元気になってない」

 杏子さんと一悶着あったせいもありますが、元気になるどころか、気分は曇り空のように冴えません。すると華が、言いにくそうに口を開きました。

「……お母さんが言ってたの。杏子さんの作るフィナンシェには、魔法がかかってるって」

「華ちゃんの、お母さん?」

 うん、と華が頷きます。

「私が落ち込んでる時にね、お母さんはいつも杏子さんのフィナンシェを買ってきてくれたの。『食べてごらん。食べたら嫌なことは忘れて、あっという間に元気な気持ちになれるから』って。そう言われたら、不思議とほんとにそんな気になったのよ」

 どこか、遠くを見つめている華。

「そうなんだ。いいお母さんだね」

 つまり、杏子さんのフィナンシェには、本当に魔法がかかっているわけではないようです。それでも今の話が気に入ったので、マドレーヌは華を責めようなどとは思いませんでした。杏子さんの焼くフィナンシェには、杏子さんの想いだけでなく、華のお母さんの娘への愛情も宿っているのです。なんてスバラシイのでしょう。

「お、華ちゃんじゃないか」

 その時、どこからか威勢のいい声が飛んできました。いつの間にか路地を抜けていた二人は、あけぼの商店街のメインストリートに戻っていました。買い物客の行き交う通りを挟んで、二人のちょうど真向かいにある〝天ぷら はしもと〟から、Tシャツに白いエプロン姿のおじさんがニコニコと手を振っています。

「橋本のおじさん、こんにちは!」

 にかっと笑って、石畳の道を横切る華。

「どうだい、天ぷら買って行かないかい? エビとさつまいもが、ちょうど揚げたてだよ」

「本当? 買って帰ろうかな」

〝天ぷら はしもと〟の小さなカウンターには、ずらりと出来立ての天ぷらが並んでいました。エビ、イカ、とり天、大葉、ごぼうと人参のかき揚げ。

 初めて天ぷらを目の当たりにして、マドレーヌは感激します。日本食といえば、フランス人にとってはスシか天ぷらなのです。黄金色のさっくりとした美しい衣は焦げなど一切なく芸術的な仕上がりで、こんなところにも日本人の繊細さを感じてしまいます。

「エビ天ととり天を、二つずつちょうだい」

「まいどあり。サービスで、大葉も二枚入れとくよ。小さい頃からの、華ちゃんの大好物だもんな」

「さすが橋本のおじさん、ありがとう」

 親しげに会話を繰り広げている、華とおじさん。どうやら、子どもの頃からの仲のようです。

「華ちゃんの実家は、この近くなの?」

 マドレーヌがきょとんと問えば、赤と紫の悪趣味な財布を取り出していた華があからさまに表情を強張らせます。

「うん、そうだけど……」

「どこ? こんど、遊びに行っていい?」

 華は実家が近所なのに、どうしてマドレーヌとルームシェアなどしているのでしょう? ステキなお母さんも、家で華を待っているでしょうに。ところが華は、気まずそうにマドレーヌから視線を逸らしたまま何も答えようとはしません。ぬ? とマドレーヌは眉間に力を入れます。無視とは、〝ふとどき千万〟なのです。

「あんた、知らないのかい? この通りを真っ直ぐに行った先にあるご……」

「おじさん、言わなくていいから」

 親切に教えてくれようとした橋本のおじさんの声を、あろうことかぴしゃりと遮る華。なんだか、とても感じが悪いです。

「もしかして、清と喧嘩でもしたのかい?」

「………」

「なんだ、図星か。他人の家のことに口出しするつもりはないけどよ、まあ仲良くやりなよ。お互い、たった一人の兄妹なんだから。この辺ぶらぶらしてたらそのうち会うだろうから、いくらでも仲直りの機会はあるだろ?」

「それは、まあ、そうなんだけど……」

 どこまでも、歯切れの悪い華。どうやら清というのは、華のFrère(兄弟)のことのようです。いったいどうして、喧嘩などしたのでしょう?

「ところで華ちゃん。その子が、この間話してたルームメイトってやつかい?」

「そうそう、マドレーヌっていうの」

 話題が変わるなり、ホッとしたように笑顔を見せる華。

「いやあ、お人形さんみたいにかわいい子だねえ。ウェルカム、ジャパン」

「おじさん、マドレーヌはフランス人だよ」

「おお、そうだった。フランス語って、どうだったっけ。ボンジュール?」

「マドレーヌは日本語ペラペラだから」

「なんだよ、それを早く言えよ。かかなくていい恥かいちゃったじゃないか。――そういえば華ちゃん、その子と一緒にもう杏子さんのところには行ったのかい?」

 華が、ゆっくりと首を振りました。

「さっきマドレーヌを連れて行って来たんだけど、余計に怒らせちゃったみたい。『あなたがけしかけたの?』って、鬼みたいな顔で言われた」

「あちゃー。ダメだったか」

 額に手を当て、がっくりと肩を落とす橋本のおじさん。どうやら〝Repos〟の再開を待ち望んでいるのは、華だけではないようです。

「こりゃあ、源吉さんも田中さんもがっかりするだろうなあ。フランス通の杏子さんのことだから、フランス人の女の子が話をすれば気持ちも動くんじゃないかって、期待してたからさ」

 そんなことを言われても、マドレーヌだって困ります。マドレーヌにしろ、華の望みを叶えてあげられなかったことは、残念で仕方がないのですから。

 日本が大好きなマドレーヌは、どうにかして自分自身を日本の人々に必要としてもらいたいのでした。自分から求めるばかりなのは、嫌なのです。

 ――マドレーヌ。日本に来てくれて、ありがとう。

 そんな風に、たくさんの人に言われてみたいのです。

 そしてできれば、〝みとこうもん〟のように『はは~っ』って群衆に土下座されてみたい。少しだけ、そんなことも妄想してしまいます。

 やがてマドレーヌは、心に決めたのでした。

 自分の力で、どうにかして杏子さんのお店を再開させようと。