プロローグ


「このレバーでフィルムを巻き上げる。カウンターが回ったら、シャッターが切れるようになる。ほら、透。やってみろ」

「えっと、ここを押せばいいの?」

 ――カシャン!

 電子シャッターにはないメカニカルカメラならではのシャッター音。

 その音を聞いた瞬間、俺はそのカメラの虜になった。

 小学五年生のときだった。

 勉強もスポーツも芸術も、学校で学ぶ何もかもが不得手で、その上、人と話すのも苦手だったから友達はほとんどいなくて。じいさんが「大丈夫だ。シャッターは誰にだって切れる」と言ってお古のカメラを譲ってくれたのは、そんな俺を見かねてのことだったに違いない。

 もらったのはニコンのフィルムカメラだった。

 露出計以外は機械式のマニュアルカメラだから適当にシャッターを切ってもピンボケ写真しか撮れない。ピント、絞り、シャッタースピード、ISO感度。カメラの基本用語と、それら相関関係をちゃんと理解していないといい写真が撮れない、フィルム全盛の時代に写真学校の生徒などが最初に持つようなカメラだった。

「一つ一つ、覚えていけばいい。今日はピント合わせを教えてやろう」

 地元で写真館を経営していた俺の祖父、伊角公慶はその日からたびたびカメラや写真の基礎を実際の撮影と合わせて出来の悪い孫に教えるようになった。時に優しく、時に厳しく――まあ口の悪いじいさんだったから優しさ二割、厳しさ八割って感じだったが。

 子供にはカメラの専門用語は難しく、何度も挫折しかかったが、カメラを持つことの喜び、シャッターを切ることの喜び、出来上がった写真を見ることの喜び。それらたくさんの喜びを知った俺にとって、少々の挫折はマイナスにはならなかった。そして、小学校を卒業するころには、カメラを手放すなんてこと、もはや考えられなくなっていた。

 口下手はなかなか改善しなかったが、友達は増えた。絵の得意なクラスメイトに自分が撮った写真を見せる機会があり、それが魚眼レンズで撮った写真だったことから「これ、どうやって撮ったの?」と興味を持ってもらえたのだ。それがクラス中に広がっていき、伊角透は写真が得意なやつ、という認識が生まれた。

 じいさんに手渡された一台のカメラがその後の人生を大きく変えた――というと大げさに聞こえるかもしれないが、俺にとっては大きな出来事だったし、人並みの人生を歩めるようになったのはじいさんのおかげだと今でも思っている。

 ただ――

 じいさんは俺にあまり多くを教えようとはしなかったし、進学した中学で写真部に入ったことを告げたときなど「下手の横好きだな」と辛辣な言葉が返ってきた。子供を子供扱いできない人だということは当時から理解していたが、優しく指導してくれたのはカメラの使い方を知らなかった最初のころだけで――写真にハマればハマるほど、俺はじいさんに写真を見せるのが恐くなった……。

 会話が減り、じいさんと少しずつ疎遠になっていく中、中学二年生のとき、父親の仕事の都合で遠方に引っ越すことになった。

 じいさんだけが東京に残り、俺は家族と福岡へ。

 離れて暮らすようになったことで、余計、じいさんと疎遠になったが、だからといって俺が写真を止めるようなことはなかった。

 いつかじいさんを見返してやろう――

 秘めたる思いを胸に、俺は転校先の中学でも、その先の高校でも写真を続け、その地にあるあらゆるものを対象に、何度も何度もシャッターを切った。

 高校卒業後は福岡にある写真の専門学校に進み、そこで二年間、写真の基礎を学んだあと、運良く福岡市内にある写真スタジオに就職することができた。最初は雑用ばかりだったが人手が足りなかったこともあってすぐにアシスタントに昇格。

 それから三年。

 一端のカメラマンを名乗れるようになったころ――

 夏の終わりにじいさんの訃報が届いた。



SCENE1 消えたカメラ


「それで? いすみ写真館はどうするの?」

 葬儀が終わり、親戚一同が集まった席で、幸子おばさんが誰に言うでもなく問いかけた。いかにも機嫌が悪そうだが、この人は普段からこんなふうだから、その点は誰も気にしていない。

「今からその話をしようと思っていた」

 最初に反応したのは俺の親父。

 この家の主でもある。

 三年前、俺が写真スタジオに就職するタイミングで、親父は勤めている会社の本店がある東京に母親と二人で舞い戻り、じいさんの写真館がある街に土地を買い、そして立派な家を建てた。まだ築二年ほどだから壁も床も真新しい。

「あんなオンボロ写真館、潰しちゃいましょうよ」

「おい……。いきなり何を言う」

 幸子おばさんの遠慮のない物言いに親父が顔をしかめる。

「だって将来性ないでしょ、あんなお店。潰しましょうよ。もちろん建物ごとってことね。で、駐車場でも作りましょ。月極の。多少は需要あるでしょ?」

「たしかに駐車場なら需要はあるだろうが……。しかし、まずは潰すか潰さないかを議論するべきじゃないのか?」

 親父は長男で親戚が集まったときのまとめ役だ。少し堅くるしいところがあるが言うことは理路整然としているので、みんな親父のことを頼りにしている。だが幸子おばさんだけは別。この人は何かっていうと親父に突っかかる。おばさんはじいさんとも極端に仲が悪かったのだが、それはじいさんが親父ばかり優遇していたからだと聞いたことがある。ただ次男の祐介おじさんが言うには「ただのやっかみだよ。兄さんは兄弟の中で一番優秀だったからね」とのこと。

「潰すしかないでしょ、あんなボロボロのお店。それとも兄さんが後を継いでくれるの?」

「……それは無理だ」

「じゃあ、潰すしかないじゃない」

「買い手を探すという手もある」

「誰が買ってくれるの? あんなボロい写真館を?」

 ボロいボロい言うなよ――

 俺は内心でイライラしながら二人の話を聞いていた。

 ……じいさんと不仲だったおばさんにとっては、いい思い出のない場所なのかもしれないけど、俺にとってはそうではない。今の俺があるのはじいさんと、じいさんの写真館のおかげといっても過言ではないのだから。

 じいさんは自分にも他人にも厳しい人で、俺のことも孫だからと甘やかすことは一切なかった。冷たいと感じることもあったけど、弱虫な上に泣き虫だった俺にはそれくらいでちょうどよかったんだ、と大人になった今はそう思える。甘やかされて育っていたら、決してプロのカメラマンにはなれなかったはずだ。

 今の自分の姿をじいさんに見せることができないのは残念だけど――

 でも、だからこそ、俺は……。

「あのさ」

 気づけば俺は口を開いていた。

 なんだ? と親父がこちらに顔を向ける。おばさんも同様に。

「俺が継いじゃダメかな?」

 その一言は、さざ波のように親戚の間に広がっていった。

 雑談に興じていた多くの親類たちの視線が俺に集まる。

「透君、何言ってるの。そんなの無理に決まってるでしょう?」

 真っ先に渋い顔をしたのは幸子おばさん。

 それに続いて他の親戚も……。

「透っていくつだっけ?」

「うちの子と二つ違いだから二十三か」

「まだ早いだろ……。後を継ぐにしても若すぎだ」

 反対意見が相次いだ。多くは、年齢を問題にしているようで。

「でも、透君は写真スタジオで働いてるんだろ? 素人ってわけじゃない」

「学生のころから写真一筋だったものね」

「だからって独り立ちするにはまだ早いって」

「そもそもあの写真館を継いだって、将来性ないだろ。だったら今の勤め先でキャリアを積んだほうが透のためになるんじゃないのか?」

 年の近いイトコたちの中には擁護してくれる人もいたが、それぞれの両親、年配者の意見に押され、そのうち口を閉ざしてしまった。

 ……幸子おばさんが反対するのはわかりきっていたけど。

 俺は味方になってくれる人のあまりの少なさにショックを隠し切れなかった。

 自分が未熟なのはたしかにそうだ。年齢のことを気にするのだって当然のこと。

 だけど誰かが後を継がなければ写真館はなくなってしまう……。

 みんなそれでもいいって言うのか?

「なんにしろ続けるのは難しいよなぁ」

「私は幸子が言うように駐車場でもいいけど」

「それはそれで悪くないよな」

 いつもは親父の意見に賛同を示す親戚たちだが――

 写真館の存続については多くが幸子おばさん寄りの意見を持っているようだった。



 店……どうなるんだろう。本当に駐車場にしてしまうつもりなのかな?

「――透」

 ベランダで黄昏れていると、背後の扉が開き親父が姿を現した。

 扉を抜け、懐から取り出したタバコの先端に火を点ける。

「さっきのは本気か?」

 親父が煙を吐き出しつつ、俺の隣に並び、左手に持った携帯灰皿に灰を落とす。

「もし思いつきで口にしたことなら……」

「思いつきじゃないよ」と俺は言葉をかぶせた。「家族や親戚の中で写真をやってるの俺だけだろ? けっこう前から考えていたんだ。……後を継ぐことを。ただもう何年か先になると思ってたよ」

 じいさんの死因は急性心不全――

 突然の死だった。

 七十代にして現役で写真館を経営していたじいさん。急死した、と母親からの電話で聞かされたとき、「冗談だよな?」と俺は半笑いで返した。葬儀が終わっても、何かの間違いなんじゃないだろうか、とじいさんの死を実感できずにいたが……。幸子おばさんを始めとした親戚たちの冷たい態度に触れて、俺はようやくじいさんがこの世からいなくなってしまったことにリアリティを覚え――同時に静かな怒りを覚えた。

「でも、みんなに反対されたし……。どうせ親父も同じ意見なんだろ?」

「そんなことはない」

「……え?」

 思わぬ言葉。俺は親父の顔をまじまじと見つめてしまう。

「好きなようにやってみろ」

「い、いいの? マジで?」

「なんだ、そのマヌケ面は」

「や、だって……絶対に反対されると思ってたから……」

 気持ちを落ち着けるつもりでメガネのズレを直していると、隣にいる親父が前を向いたまま、ふぅ、とタバコの煙を勢いよく吐き出した。

「お前はまだ若いが、子供でもない。立派な大人だ。小学生のころから十年以上も写真に情熱を注ぎ……そして、今はプロのカメラマン。資格は十分にあるはずだ」

「俺なんてまだまだだよ。じいさんの足元にも及ばない。それにどれだけ技術があったとしても経営となると話は別だと思うし」

「なんだ自信がないのか?」

「あるわけないだろ」と俺は半笑いで答える。「でも、やれるだけやってみるよ。運のいいことに今の職場はうちの写真館と仕事内容が共通してるしね。経営のことはまったくわからないけど、先輩のカメラマンで去年独立した人がいるから話を聞いてみるつもり。あと専門学校時代の友達の中にも実家がスタジオ経営とかカメラ屋とか現像所とか、これがけっこういてさ」

「……どうやら俺が心配するまでもなかったようだな」

「いやいや、心配してよ」と俺は冗談半分で笑ったあと、「でも、本当にいいの? 親父以外はみんな反対するんじゃない?」と確認のために訊いた。

「気にする必要はない。うちの親戚筋はどいつもこいつもサラリーマンだ。経営のけの字すらわかっちゃいない。なんとなく反対しているだけだ。個別に話していけばきっとわかってくれる」

「幸子おばさんは? あの人が一番難関だと思うんだけど……」

「あいつは気分屋だからな。明日になれば忘れているだろう。そもそもあいつは普段は北海道だ。顔を合わせる機会なんてほとんどない」

「……それはそうだけど」

「大丈夫だ」と親父が俺の肩を叩く。「誰にもお前の邪魔はさせない。気にせず自分の道を進め。幸子には上手く言っておくさ」

「でも……」

 説得しなければならないのは幸子おばさんだけではない。親戚の多くは俺が後を継ぐことを不安視していたし、いくら親父がみんなから信頼されているとはいえ、全員を納得させるのは容易ではないはずだ。

「父さんは……どうしてそこまで俺の味方になってくれるの?」

「なんだ? 今日はやけに突っかかるな」

「だって、父さんってこういうとき『バカなことを言うな』って真っ先に反対するタイプじゃん。慎重派っていうかさ……」

「ああ」と親父が納得したように頷いた。「普段の俺なら……たしかにそうだな」

「もしかして今さらのように子煩悩に目覚めた?」

「まさか」

 親父が新しいタバコを口にくわえる。だが一向に火を点けようとしない。

 黙って横顔を眺めていると、親父がタバコを指で挟み、

「実は、俺も若いころ写真をやっていたんだ。……店を継ぐつもりでな」

 と言ってまだ吸ってもいないそれを携帯灰皿の中で潰した。

「だが俺には写真の才能はなかった。それは他の兄弟も同じで……。無理に継ぐことはない、とじいさんは実に淡々としたものだったが、それが本音だったとはとうてい思えない」

「俺が生まれる前……の話だよね?」

「今のお前よりもずっと若かった」

 親父はそれだけ言うと、口を閉ざしてしまった。ベランダの手すりに寄りかかり、静かに虚空を見つめる父親の顔はどことなく苦しげに見えた。

 自責の念……とでも言えばいいのか。もしかしたら親父は写真館を継がなかったことをずっと気に病んでいたのかもしれない。

「透、頑張れよ。……俺の分まで、な!」

 親父はそう言って俺の背中を思いっきり叩き、愉快そうに笑った。


+ +


 葬儀の翌日は風が冷たく、九月にしては肌寒かった。

 その日の午前中、俺はいすみ写真館から徒歩五分の場所にある一棟のアパートの前に立っていた。

 ここって単身者用のアパートだよな? ってことは五条さんって人は独身?

 俺は昨夜の親父とのやり取りを思い出す――

「さすがに一人じゃ手が回らないだろう。五条さんに連絡してみろ」

「ん? 五条さん?」

「五条律香さん。いすみ写真館の元従業員……いや、今もそうか。葬儀が終わったら俺のほうから連絡を入れるつもりだったが、お前が写真館を再開するつもりなら、自分で電話してみろ。まだ退職の手続きはしていないから、戻ってきてくれるかもしれない」

「あれ? 幸村さんは?」

 俺が物心つくころにはいすみ写真館で働いていたじいさんと同年代の男性カメラマン。じいさんの相棒といって真っ先に思い浮かぶのはあの人なのだが。

「幸村さんはお前が就職するちょっと前に病気で退職されている。療養してだいぶ調子を取り戻したらしいが、今年の夏に入ってまた悪化したそうで、『葬儀には出られそうにないよ』と電話で悔やまれていた」

「病気で……そっか」

「五条さんは、そのあと入った人だ。もう三年。いや、四年近いか」

「そんなに長く? 全然知らなかった……」

 福岡に引っ越してからも年に一度は必ず写真館に顔を出していたが、就職してからは多忙を理由にまったく足を運んでいなかった。だから俺はその五条律香さんという人とは会ったことがなく、また存在も今まで知らなかった。

 親父によると、その五条さんという人、じいさんから仕事のほとんどを任せられていたらしい。要するに右腕だ。

 俺は写真館や写真スタジオという場所が、どのような仕事をするところなのかは経験を通して理解しているものの、店にどんな機材があるのかとか、お世話になっている取引先のこととか、いすみ写真館ならではの事情についてはほとんど知識がない。従業員ということなら当然そこら辺の事情には精通しているはずだ。もし引き続き働いてくれるのなら大変心強い。

「あれ? でも、その五条さんって人、葬式に来てた?」

「ああ」と親父が難しい顔をする。「来ていた……のだと思う」

「思う?」

「受付の記帳簿には名前があったんだが……俺も母さんも式場では顔を合わせていないんだ。受付を任せた幸雄さんたちは、顔を知らないから見ていたとしてもわからないだろう」

 幸雄さんというのは母方の親類だ。遠縁だが教師をやっていて信頼が置ける人だから今回受付をお願いしたのである。

「挨拶もないなんてちょっと変だね。実はじいさんと仲が悪かった……ってのはさすがにないよね?」

「二人で店を回していたんだ。ギスギスした関係でやっていけるはずがない。……仲は良かったはずだ。俺が知る限りでは」

「じゃあ、どうして姿を見せなかったの?」

「わからん」と親父が虚空を見つめる。「我々親族に気を遣ったのか、それとも他に何か事情があるのか……。とにかく明日、連絡してみろ。俺が口で説明するより、実際に顔を合わせたほうが手っ取り早いだろう」

「あ……うん。そうしてみるよ」

 と、そんなわけで――

 俺は今、五条律香さんが暮らしているアパートの前に立っている。

 ……のだが、こんな古ぼけたアパートに本当に五条さんが? じいさんの右腕だった人だから年齢は五、六十代。若くても四十代だろう。それくらいの歳となれば結婚していてもおかしくないはずだが、単身者向けのアパートで暮らしているということは独身の可能性が高い。……まあ年齢的にバツイチってこともありえるが。

 っといかんいかん。下衆の勘ぐりは止めよう。

 一階、角部屋。一〇四号室のチャイムを鳴らす。

 だが無反応。留守だろうか?

 迷惑だと思いながらも朝っぱらから電話をかけ、繋がらなかったからこうして直接家を訪ねたのだが、やはりアポなしはまずかったかもしれない。

 とはいえ早めに会っておかないと……。

 勤めている写真スタジオに無理を言って休ませてもらっているので、五条さんと顔を合わせるチャンスは今日か明日しかないのだ。

 再度、チャイムを鳴らす。

 すると――

「どちらさま……ですか?」

 中から声がした。扉は閉まったままだ。

「朝っぱらからすみません。私、いすみ写真館から来たものなんですけど、五条律香さんはご在宅でしょうか?」

「え」と驚きを含んだような声がドア越しに聞こえた。

「もしかしてご本人さんで?」

 そう尋ねると「……はい」と小さなつぶやきが返ってきた。

 年配の人だと思っていたけど、声はけっこう若いな。

「私はいすみ写真館を経営していた伊角公慶の孫、伊角透です。今は福岡にある写真スタジオに勤めているんですが、祖父が亡くなって写真館の経営者が不在になりましたので……。その、未熟ながら自分がその穴を埋めようと思っていまして」

 こう言えばだいたいの事情は伝わるだろう。そう思ったのだが、部屋の中の五条さんからはなんの返事もなく、また扉が開く気配もなかった。

「えっと、それでですね……。できることなら五条さんにまたお店で――」

「……お帰りください」

「え?」

 突然の拒絶――

 俺、何か気に障るようなこと言ったか?

 ただ普通に自己紹介しただけだと思うんだけど。

「ちょ、ちょっと待ってくださいよ。いきなり帰れだなんて……」

「お話しすることは……何もありません。どうか……お帰りを」

 まさか門前払いを食らうとは――

 もしかして俺が後を継ぐのが気に入らないとか? 孫だと名取ったし、年齢のことを気にしている可能性も……。まあこの人からすれば俺なんて子供みたいなものだろうし、一緒に働くことに抵抗があってもおかしくはないか。

 いや、だけど――

 ここで引き下がるわけにはいかない。

 じいさんのためにも、親父のためにも……そして自分自身のためにも。

「五条さん、私はカメラマンになったばかりで、撮影の経験も少なく、きっと技術的にも物足りない……。それは自覚しています。ですが、いすみ写真館を存続させるためには私が後を継ぐしか道がないんです」

 戸口に近づき、俺はさらに続ける。

「そして、写真館を立て直すためには、店のことをよく知っている五条さん……あなたの力が必要なんです。どうか、お願いです。私に力を貸してください。経営者としてもカメラマンとしてもまだまだ未熟な自分ではありますけど――写真にかける情熱と、いすみ写真館を思う気持ちなら誰にも負けないつもりです。だから……」

 一気に言葉を押し出したものの――

 部屋の中からはなんの反応もなかった。

「突然押しかけて……すみませんでした」と言って俺は戸口に背を向ける。「私は明日まで東京にいますので、もし気が変わったら連絡をください……。それでは」

 ドアの隙間から番号のメモをそっと入れ、扉に背を向ける。

 なんだか青臭いこと言っちゃったな。……バカみたいだ。

 何歩か前に進み、コンクリートの地面を見下ろし、はぁ、とため息をつく。

 と、次の瞬間――

「まっ……待ってください! 伊角さん!」

 ほとんど叫ぶような声が返ってきた。

 背後を振り返ると、戸口の前に黒い髪の女性の姿が。

「え?」

 街角で見かけていたら間違いなく目で追いかけていただろう。五条さんは俺の想像よりもずっと若く、白い肌と艶やかな黒髪が印象的な、ため息が出るような美人だった。ただ今はその顔を冷静に観察する余裕はない。だって目の前の彼女は泣き腫らしたような目でこちらを見つめていたから……。

 衝撃と戸惑いで言葉を失っていると、五条さんが口を開いた。

「ご、ごめんなさい……。違うんです……。悪いのは私のほうで、伊角さんは……何も悪くなくて……。ううっ……」

「ど、どういうことですか……?」

 俺は顔を両手で覆い隠す五条さんに駆け寄る。

「私はもう、あの店で働くことはできないんです。そんな資格ないから……」

 資格がない?

 こんなふうに言うってことはもしかしてこの人……。

「五条さん。じいさんと……うちの祖父と何かあったんですか?」

 俺は直感した。

 葬儀には出たものの親族への挨拶はなかった――

 親父の疑問――その答えは彼女が抱える事情の中にあるのだと。

 そして、そこには間違いなくじいさんが絡んでいる。

「伊角さん……。私……私は取り返しのつかないことを……」

「一体、何があったんですか?」

 優しく問いかけると、五条さんは震えた声でこう答えた。

「失くして……しまったんです……。カメラを――師匠の大事なカメラを失くしてしまったんです……」



「師匠が亡くなる前日のことでした。M3を貸してもらったのは……」

 小さなテーブルを挟んだ向こう側に座る黒髪の女性――

 五条律香さんは場所を部屋の中に移しても、冴えない表情を浮かべていた。

「M3というと、ライカですか?」

「はい……」

 五条さんが失くしたカメラ……正確には盗まれたらしいが。

 そのカメラとはじいさんが若いころに買ったライカ。それも一九五四年に発売されたM型ライカの初代モデルにしてカメラ史に残る最高傑作との呼び声も高いM3。M3なしにライカは語れないと言われるほど人気のあるモデルである。

 今、仮にちゃんと動くものを中古で手に入れようと思ったら安くても十万前後、状態のいいものなら十五万円以上するだろう。もともとライカはカメラの中ではぶっちぎりに高価で現行のものは百万円近い値がつけられている。新品で軽自動車が買えるくらいの値段だし、若者には高すぎて手が出せない。じいさんもそうとう無理して買ったはずだ。

「私、以前からライカに興味があって、師匠がライカのシャッターを切るたびに間近で見つめてしまうほどで……。でも、師匠のライカは亡くなられた奥様との思い出の品だと聞いていたので、触らせてください、とは言い出せなくて……」

 五条さんが目を赤くしたまま語り出した。彼女の言う『師匠』が誰を指しているのか一瞬わからなかったが、すぐにじいさんのことだと気づく。おそらく二人の間には明確な師弟関係があったのだろう。

「ところがあの日……なんだか師匠の機嫌がよくて。どうしたんですか? って訊いたら、珍しく私の仕事を褒めてくれたんです。そして、週明けに返せよ、って。そう言って私にM3を差し出して……。驚きました。褒められたこともそうですし、大切なカメラを私に貸してくれたことも」

 じいさんは滅多なことでは人を褒めない。年に一度あるかどうか――いや、もっとレアだな。それだけ五条さんの仕事振りに感心するようなところがあったのだろう。カメラを貸す気になったのはご褒美代わりといったところか。

「それで……。カメラはどのようにして?」

 俺は慎重に言葉を選びつつ、話の先を促す。

「夕方……近所の公園で写真を撮っていたんです。その……師匠から貸してもらったライカを持ち出して。それでもうすぐ日が沈む、というころに一本の電話がかかってきて……」

「もしかしてじいさんの……」

「はい……」と言って五条さんが目をこする。「その後の記憶は曖昧で……。気づいたときにはもう……カメラはどこにもありませんでした……」

「え? 電話に出る直前、カメラはどこに?」

「えっと、フィルムを交換するためにベンチに座って……。電話がかかってきたのはそのときで。だから……カメラはベンチの上に……」

 電話の内容があまりにもショックで、前後の記憶がはっきりしないみたいだが、電話に出た直後、ベンチから腰を上げたのは覚えていると言う。仕事上の慣習か、電話に出るとき、その場から立ち上がる癖があるらしい。その後、ベンチを離れたわけではないようだが、けっこうな時間、カメラからは目を離していたようで……。

 迂闊と言えば迂闊――

 だが俺は五条さんを責める気にはなれなかった。

 普段はきっと真面目な人。じいさんからの信頼が厚かったことも、大事なカメラを借り受けたことからもうかがえる。フィルムの交換中に電話がかかってきたこと、電話の内容がじいさんの死を伝えるものだったこと――いくつかの不運が重なって起きた不幸な盗難事件……。

「では、犯人の姿などは……」

「……すみません。盗まれたことすら……しばらく気づけなかったので……」

「そうですか……」

「あ、あの、伊角さん。本当に申し訳ありませんでした」と五条さんがテーブルに額が触れるような低さで頭を下げた。「本来であればご家族に真っ先にお伝えしなければならないことなのに……。すみません、私、頭が真っ白になって……何も考えられなくなって……。警察に届けることすら……思いつかなくて……」

「いや、でも、目の前の葬儀でごたついていましたし、どのみち対応できなかったんじゃないかな……。親族はみんな身動きが取れない状況でしたし……。あ、でも、警察には届けておいたほうがいいですよね」

 えーと、この場合、五条さんが被害届を出すのかな?

 借り物の場合、どうなるんだっけ……。

 しかも本来の持ち主であるじいさんはもうこの世にいない。

 ……まあ連絡を入れれば警察が教えてくれるか。

 俺は荷物の中からスマホを取り出す。

 っと、待てよ。肝心のあれを聞いていなかった。

「五条さん、カメラの製造番号――シリアルナンバーは覚えていますか?」

「すみません……借り物だったので」と五条さんがまた頭を下げる。「あ、あの、ナンバーがわからないとまずいですよね……? 警察に届けて、仮にそれらしいカメラが見つかったとしても、それが師匠のカメラだと証明する手段がなければ……」

「……ですね」

 これは財布などを落とした場合も同じ。本人確認ができないと警察は返却に応じてくれない。財布の場合、免許証などのように身分を証明するものがもともと財布に入っていることが多いので、本人確認はそれほど難しくないのだが……。

「うちのじいさんのライカって、たしか中古で手に入れたものですよね? だとするとナンバーが明記された元箱とか保証書なんかは……」

「たぶん、そういったものは残っていないと思います。あ、でも、師匠がどこかにシリアルナンバーをメモしているかも……?」

「ありそうな話です」と言って俺は素早く腰を上げる。「五条さん。俺、これからじいさんの家で遺品をあさってみます。えっと……お店のことについてはこの件が片付いてからまた改めて、ということで」

「あ……はい……」

 消え入りそうな声でぼそり。彼女の視線は相変わらず下を向いている。

「五条さん、元気を出してください。まだ希望はあります」

「希望……?」

「ライカは高価なカメラです。となれば犯人が中古市場に流している可能性は十分ありえるはずです。以前、先輩のカメラマンから聞いたことがあって……。犯人がカメラに固有のナンバーが振られていることを知らず、盗品をカメラ屋に売り飛ばして足がついた、という話を」

「あ、そっか。買い取りの場合、身分証の提示を求められるから……」

「はい。それとシリアルナンバーを照合すれば盗品かどうかわかるはずなんです」

 ただそのためにはナンバーを知っていなければならないし、それと合わせて警察に被害届を提出しなければならない。

「メモが見つかったらすぐに連絡を入れますので」

「……お手を煩わせてしまって、本当にすみません」

「そんな顔しないでください。うちのじいさんが今の五条さんを見たら、そんなことで悩んでいる暇があったら写真の一枚でも撮れ、って怒り出すと思いますよ?」

「はは……いかにも師匠が言いそうです……」

 五条さんはかすかに微笑んだが、すぐにまた暗い顔でうつむいてしまった。


+ +


 ――ない。ここにもない。

 同じ言葉を何度つぶやいたことだろう。

 カーテンの閉め切られたじいさんの私室は、俺が段ボールから現像済みのフィルムを出したり戻したりしたこともあって酸っぱい匂いが充満していた。

 床には大量のフォトブックが積み重ねられている。じいさんの部屋をあさって出てくるのは当然ながら写真に関するものばかり。だが肝心のシリアルナンバーのメモは一向に出てこなかった。

 まいったな。ナンバーがわからないとなると――

 たとえ警察がそれらしいカメラを見つけたとしても、それがじいさんのライカだと証明する手段がなければ、引き取ることはできない。

 五条さんがカメラを紛失したのはじいさんが亡くなった日と重なる。

 三日前のことだ。

 犯人が金銭目的で盗んだのだとすればすでにどこかのお店に売却されていてもおかしくはない。もしコレクション目的で盗みを働いたのならシリアルナンバーを警察に伝えても無意味だが、状況から考えて犯行は衝動的なもの。金目当てと考えたほうがしっくりくる。犯人が公園を通りかかったのだってたまたまだろうし。

 なんにしろシリアルナンバーがわからなければ話にならない。

 ……でも、これだけ探してないってことは、じいさんはメモを残していない?

 はぁ、と俺はため息をつき、フィルム臭い空気をほんの少し吸い込んだ。

 じいさんの私室……か。昔、勝手に入って怒られたことがあったっけ。思えばここを訪れた記憶はほとんどない。ま、それも当然と言えば当然。貴重なカメラがこれだけあるんだから。入れたくないよな、子供は。

「ん?」

 そのときポケットの中のスマホが震えた。メールだ。相手は母親から。いつまでこっちにいるの? という内容で、今晩の夕食の献立とかも書いてあった。

 明日の夕方の飛行機で帰るつもりだけど――

 そう返信のメールを打ち込む。だが送信ボタンを押すのは躊躇われた。

 このまま……。このままシリアルナンバーのメモが見つからなかったら、じいさんのカメラは永久に戻ってこない。五条さんの悲しみも同様だ。絶対に癒えることはなく、この先ずっと悔やみ続けることになる。

 だってカメラの持ち主である伊角公慶という人物はもうこの世にいないのだから。

 ……五条さんは謝りたいはずだ。じいさんに直接。

 だけどそれはもはや叶わぬ夢。

 カメラが返ってこなければ五条さんの気持ちが晴れることはないのだ。

 ……酷だよな。それじゃああまりにも辛い。

 なんとかカメラを取り戻したいところだが猶予は明日まで。時間がない。

 こうなったら家族総出でメモを探そうか?

 いや――

 もっと確実な方法がある。

 切り札を使うのだ。

 普段は封印し、よほどのことがなければ使わないようにしている俺の切り札。

 あれを使えば確実にシリアルナンバーを知ることができる。

 あの力にはデメリットがあるが、五条さんが一生の傷を負うことに比べれば――

 うん、全然大したことじゃない……。

 今こそ、使うべきだ。

 俺は決意を胸に、床に置いておいたメッセンジャーバッグの中から愛用のカメラを取り出した。昔、じいさんから譲り受けた思い出深いニコンのマニュアルカメラ。FM2だ。当然、デジタルではなくフィルムである。

 俺はストラップを首から提げると、かけていたフレームのメガネを外した。裸眼での視力は〇・三ほどしかないので、このままでは撮影に支障が出る。なのでファインダーに視度調整用の接眼補助レンズを装着する。

 あとは設定をいじるだけだ……。

 カメラが盗まれたのは三日前の夕方だから――となると絞りはこれくらいか。

 セッティング後、カメラを防湿庫の一つに向けた。

 四段仕様の棚にはじいさんが趣味で集めたクラシックカメラが並んでいるが、一番上の段の右端だけが空いている。ここにM3が置いてあったのだろう。奥のスペースにM3用の交換レンズが見えるのでおそらく間違いない。

 俺はM3が保管されていた場所にカメラのレンズを向け……。

 恐る恐る丸型のファインダーを覗き込んだ。

 すると――

「……くっ」

 突如、目が――両目が疼き出した。

 そのうち疼きは痛みに変わった。涙が溢れ、床にポロポロとこぼれ落ちる。

 同時に視界が狭まり、光が遠のいていく。

 最初は薄暗いだけだったが、徐々に暗さは増し、闇に近づいていった。そんな中、両目を突き刺すような痛みは治まるどころか激しさを増していく。闇の中で痛みと不安がひたすら増幅していくような感覚は、死を連想させる。

 ぶるっ――

 痛みに恐れが加わり、物理的にも精神的にも大きなダメージが俺を襲う。

 ぎり、っと俺は奥歯を噛み締めた。

 もう少しの……辛抱だ。

 カメラをかまえたままじっと耐え忍ぶ。

 しばらくするとカーテンでも開いたかのように急に視界が明るくなった。痛みも消え去り、何ごともなかったかのように平常時の自分が戻ってきた。

 いや――

 いつもと同じではない。

 痛みを乗り越えた今の俺には、通常なら見えないものが見える。

 防湿庫の最上段の右端に向けたカメラ――

 そのファインダーの中央にはじいさんのM3が……。

 そこにあるはずのないものがファインダーには映っていた。

 カメラから目を外せば、当然、M3はどこにもない。

 では俺が見ているものはなんなのかと言えば……。

 ――それは過去。

 俺には見えるのだ。

 裸眼でファインダーを覗き込むと今ではない過去の光景が。

 目の痛みや、視界の狭まり――この事実に気づいたのは小学校高学年のときだったと思う。そのときは過去が見えるとは知らず、その後、視力が極端に落ちたため、裸眼でファインダーを覗くことがなくなり、だから痛みのことはすっかり忘れていたのだが……。

 写真の専門学校に通っているころ、うっかりメガネを床に落としてしまい、しかも自らの足で踏んづけてしまったことがあった。予備のメガネはなし。もちろんコンタクトも。まいったなぁ、と思いながら俺は、迂闊にも愛用のカメラのファインダーを裸眼で覗き込み――情けないことにひと目のある実習室で悲鳴を上げてしまった。

 それがきっかけで裸眼での撮影の危険性を思い出したのだが、同時に昔は気づかなかった自分の特異な能力に気づいた。

 ――誰もいなかったのだ。

 ファインダーを通して見た実習室、その中に人っ子一人。人がいないだけではなく明かりも消えていて、代わりに窓から夕日が差し込んでいた。その光景が過去だとわかったのは実習室の壁に飾られている写真が前の週のものだったからだ(週替わりで講師からの評価が高かった生徒の写真が飾られるようになっていた)。

 俺はその日以来、時間をかけて自分に備わったカメラを介して過去を見る能力の検証を行った。たぶん一年くらいかかったと思う。

 調べてわかったのは、この能力はスマホやコンパクトデジタルカメラ、デジタル一眼レフカメラなど、デジタル仕様のカメラでは使えないということ。

 フィルムカメラでなければ過去を見ることはできないのだ。

 あと大事なのは裸眼であること。メガネをかけていても、ファインダーに同じ度の接眼レンズを取りつけても、同じことのように思えるが、なぜか接眼レンズはオーケーでメガネやコンタクトではダメ。理由は今も不明だ。

 そして――

 現在のところもっとも高い精度で過去が見えるのはじいさんから譲り受けたカメラで、他のフィルムカメラではあまり大きな過去が見えない上に、映像もぼんやりしていることが多い。

 他にも細かいルールはあるが大雑把に言うとこんな感じ。

 さて……。もう少し上から覗いて、ピントもしっかり合わせないと。

 M型ライカの製造番号はだいたい軍艦部、つまりトッププレートに記されている。

 M3‐816×××

 ……見えた。

 上下逆さまだがこれだけ寄れば数字は問題なく目視できる。

 ――カシャン!

 俺はすかさずシャッターを切った。

 この能力の優れているところは、ただ過去を見通せるだけではなく、ファインダーに映った光景を写真として記録できるところにある。報道カメラマンが喉から手が出るほど欲しい能力だろうが、俺は目の前の人や物を撮るのが専門だから仕事の上ではまったく役に立たない。まあ……能力を活用すればいくらでもお金稼ぎができるんじゃないかと思うが、俺の人生にとって写真というものはそういうことのために存在しているのではない。道義的に許しがたい、というのもあるけど、目の前の現実をいかにして切り取るか……そこで思い悩むのが俺にとっての写真であり、すでに確定した過去を能力で覗き見るのはただの確認作業でしかないのである。そんなのはプロの現場でやることではない。ズルいし、セコいし、何よりカッコ悪い。

 俺はシャッターを切ったあと、その六桁の番号をスマホにメモった。

 ふぅ、これで目的は達成できたな。

 ファインダーから目を外し、額の汗を拭いつつ盛大なため息。

 やっぱりこれをやると疲れる。

 ……今の俺の目、たぶん真っ赤に充血しているはずだ。

 何はともあれシリアルナンバーはわかった。五条さんに電話しよう。

 通話中はスマホの画面が見られないので、じいさんの部屋にあったメモ用紙に先ほどの六桁の数字を書き込み、それから五条さんにコールした。

『はい……五条です』

「伊角透です」

 一応フルネームを口にし、その後、用件を告げる。

『え? シリアルナンバーのメモが?』

「はい。じいさんの私室にありました」

『……よかったです。えっと、では警察のほうにもすでに連絡を……?』

「それはまだです」と言って俺は耳に当てたスマホの位置を調整する。「あの……思ったんですけど、被害届は五条さんが出すのが筋ではないかなって。カメラの持ち主はじいさんですが、実際に被害に遭ったのは五条さんですし……」

『そう……ですね。盗まれたときのことも説明しないといけませんし』

「身内の誰かが対応する必要があるのであればそのときは俺を呼んでください」

『わかりました』

「じゃあ、ナンバー、口頭で伝えますので、メモの用意いいですか?」

『え、あ、はい。ちょ……ちょっとお待ちを』

 バタバタと足音が聞こえる。慌てているみたいだ。

「シリアルナンバーは816×××です」

『えっと……816×××……と』

「念のためもう一度言いますね」

 霞む目を擦りながらメモの数字を二度、繰り返す。五条さんのほうからも確認があり、こちらでも照合。うん、合ってる。正確に伝えないとまずいからな、こういうのは。

『では私はこれから警察のほうへ』

「よろしくお願いします。見つかるといいですね……じいさんのカメラ」

『はい……』

 気のない返事。それも仕方のない話だ。だってまだカメラの行方はわかっていないのだから。

 それでは、と言って電話を切る。

 できることはやった。……やったよな?

 しん、と静まり返ったじいさんの私室でフィルムの匂いをかぐ。

 そして、気づく。

 シリアルナンバーがわかればカメラは返ってくる――

 ……そんな保証など、どこにもないということに。

 犯人がカメラコレクターだとしたら中古市場にはまず出てこないだろうし、仮に転売していたとしてもシリアルナンバーから犯人を割り出すには時間がかかるはずで、その間にカメラが売れてしまい、別の人間の手に渡る可能性は十分ありえる。そうなれば犯人は特定できても肝心のカメラは返ってこない。新品だろうと中古品だろうと、購入する側は身分証の提示を求められないからだ。

 たとえ犯人が捕まったとしても――

 じいさんのカメラが戻ってこなければなんの意味もない……。

 それではダメなのだ。

 ならば……。ならば俺がやるべきことはただ一つ。

 カメラを盗んだ犯人を特定し、その足取りを追うのだ。



 俺は五条さんに再度電話をかけ、じいさんの死を知らせる電話がかかってきた時間を聞き出すことで、カメラが盗まれた時間を推定した。幸い、着信履歴が残っていたため「午後四時五十一分」という具体的な時間がわかった。

 時間がはっきりしないと総当たりになってしまうからな……。

 正確な時間を知ることができたのは大きいぞ。

 電話後、俺は急いで現場に向かった。

「……見えた」

 その小さな公園でファインダーを覗くと犯人らしき人物がすぐに映し出された。

 もちろん見えているのは過去――三日前の夕方の光景である。

 パーカーのフードを目深にかぶった青年はじいさんのカメラをベンチから取り上げると、さっさと公園を出て、ひと気のない道を駆け出した。駆け出した、と言ってもファインダーに映る過去の光景は全て止まって見える。俺の能力はカメラやレンズの設定に応じて過去のある一瞬を捉えるものでしかないのだ。

 俺は現実と過去の光景を交互に見ながら犯人のあとを追った。

 ちょっと前に進むたびに、カメラやレンズの設定をいじって時間を前に進める必要があるので、追跡にはかなりの時間を要したが、犯人の足取りを追うこと自体はそれほど難しくなかった。

 ところが――

 ……まいったな。

 途中で問題が発生した。

 パーカー男が電車に乗ってしまったのである。

 だったらお前も電車に乗って追いかければいいだろ、と思うかもしれないが、あいにくとパーカー男が乗り込んだのは過去の電車であってリアルタイムで運行している電車ではない。

 過去の電車に乗れと言われてもそれは無理な話。もちろんファインダーを覗きながら幻影を追いかけることはできるけど、電車の場合、人が立ち入ることのできない線路上を通るし、移動距離も徒歩とは段違いだ。理論上は可能かもしれないが、あまり現実的とは言えない。

 せめて犯人が切符を買っていたら行き先がわかったんだけど……。

 パーカー男は改札口を抜けるときパスケースをかざしていた。電子マネーの場合、乗車時に改札口で確認できるのは残高だけだ。

 二番線に向かったのは遠目に確認できたけど――

 ……これ以上の追跡は難しいか。

「っく……」

 ファインダーから目を離した瞬間、立ち眩みのようなものが俺を襲った。能力を連続で使用したからか、気づけば目の痛みと乾きが酷いことになっていた。

 ……しばらく休めば治るかな。

 改札口の前でカメラを片手に前屈みの姿勢で立ち眩みが去るのを待っていると、駅構内を行き交う人の視線が複数、俺に集まった。古いカメラを持ち歩いていると物珍しさからかジロジロ見られることがたまにあるが、この視線はそういう類のものではないだろう。こんな場所で頻繁にファインダーを覗きながら歩いていたら怪しすぎる。

 俺は無力感に苛まれながら駅を出た。

 ファインダーを通して過去を見る能力――

 十人に訊けば例外などなく十人全員がその力を欲するだろう。

 しかし、この力も万能ではない。撮影可能な場所であればいくらでも過去を覗けるが、立ち入れない場所、たとえば個人や団体が所有する建物や敷地の中までは撮影できない。そして、人が本当に見たいものはそういった場所にある。また今回のように乗り物の中を撮影するのは非常に困難だ。

 万事休す、か。

 このまま……諦めるしかないのだろうか? 俺の力ではここが限度なのか?

 でも――

 俺がここで諦めてしまったら……。

 犯人は捕まらず、カメラも返ってこない。

 そういう最悪の結末だって十分起こり得る。

 もしそうなれば五条さんは――

 ……ん? 雨?

 駅を出ると、空には暗雲が立ち込めていた。パラパラと小雨が降っている。

「もぉー、最悪ー……っ」

 そのとき一人の女子高生が俺のすぐ側で立ち止まった。派手な茶髪だ。ハンドタオルで髪や制服についた水滴を拭い取っている。少女は左手でカメラを握っていた。それも最近あまり見なくなった使い捨てカメラである。

「これでよしっと」茶髪の女子高生がハンドタオルをしまう。「さーて。いつものお店に行きますかー」

 元気よく改札を抜け、階段を駆け上がっていく少女。

 久しぶりに見たな、使い捨てカメラなんて。……うん? あれは?

 女子高生を目で追いかけていると、彼女が駆け上がっていった階段の壁に「カメラ、レンズ、高価買取!」という中古カメラ店の看板が目に入った。

 そういえば二駅ほど先にカメラ街があったっけ。まあカメラ街というか小さな電器店や工具店なんかが集まったような場所で、中古カメラ店なんかもあるにはあるけど数えるほどしかなかったはずだ。転校する前、何度か友人と一緒に足を運んだことがある。懐かしいな――

 ……ん、ちょっと待てよ? パーカー男が乗り込んだ電車って二番線だったよな?

 もしかして――

 パーカー男が公園で盗みを働いたあと、すぐに電車に乗ったのはカメラを売却するためではないだろうか? それも二駅先に向かっていたとしたら……。



 俺の推測通り、パーカー男はカメラ街で下車していた。

 ……さっきの女子高生に感謝しないとな。

 電車内での追跡はできなかったが、時刻表を確認することで、目的の駅に何分で到着するのか、ということは簡単に計算できたし、それさえわかれば犯人の捕捉は難しいことではなかった。

 それにしても盗みを働いたその足で、カメラの売却に向かうとは。

 パーカー男はそうとう金に困っているのだろう。もしかしたら借金の返済が目前に迫っているとかそういうことかもしれない。

 そういえばずっと暗い顔をしているな……。ん? よく見ると頬に青いあざが。けっこう大きい。こんなの自然にできる傷じゃないよな。喧嘩でもしたのだろうか? あまりそういうことをするようなタイプには見えないけど。

 ともかくここまで追跡できれば――

 あとはパーカー男がどこのお店に入ったのか確認するだけだ。

 犯人が電車に乗り込んだときは肝を冷やしたが……。

 気がつけばゴールは目前。じいさんのカメラの所在が、もうすぐわかる。

「……あそこか」

 パーカー男が姿を消したのは、路地の奥にある古めかしい雰囲気の中古カメラ店だった。中に入って様子を撮影するのは難しいので、お店を出てくる姿を捉えることにする。男が出てきたのは数十分後(もちろん過去の話)のこと。

 手ぶらだ。カメラは持っていない。つまり売却できたということ。

 このお店にじいさんのカメラはまだあるだろうか? 第三者に買い取られていないだろうか? いや……普通、買い取ったカメラをメンテもなしにそのまま売ることはしないはずだ。とすればまだ店頭に並んでいない可能性だってありえる。

 踏み込むなら今。カメラを取り戻すチャンスだ。

 しかし――

 俺は店頭でしばし思案したあと、万全を期するため、ある「仕込み」を行うことにした。まず目的のカメラ店を離れ、同じような形態のカメラ店を回った。ただ訪れただけではなく全てのお店で「あること」をした。そして、三十分後、俺は改めてパーカー男がカメラを売却したお店に向かった。

「いらっしゃいませ」

 中に入ると、顎髭をたくわえた中年の男性が落ち着いた声で俺を迎えてくれた。

 店内には俺以外のお客はおらず、静かなものだった。

 当たり前だがカメラがたくさん置いてある。

 お、ハッセルブラッド。しかもこれ、アポロ計画のとき月面の撮影で使われたモデルだ。んー、やっぱりいいなぁ。中判カメラといったらやっぱこれだよな。いつかは欲しいと思っているカメラなんだけど……って何をやってんだ、俺は。

「何かお探しですか?」

 ダンディな店員さんがカウンター越しに話しかけてきた。

 俺は気を取り直し、「実は……」と事情を簡単に告げた。

「盗難ですか。それは災難でしたね」と男性店員は名簿のようなものを確認し、「盗まれたのはライカM3ですか……」と言って顔をしかめた。

「高価なカメラですし、盗んだ人がどこかのお店に売却したんじゃないかと思って、こうしてカメラ店を回っているんです。今日はここで三軒目になります」

「なるほど。カメラ店の多いこの街なら、何か情報が得られるのではないかと」

「はい……」

 俺はため息を漏らす。もちろん演技だ。

 だが発言自体は嘘ではない。たとえば「三軒目」というのは本当のことである。

 なぜこんな回りくどいことをしたのかと言えば――

 それは俺が自分の「カメラのファインダーを通して過去を見る能力」を誰にも教えず墓場まで持っていくと決めているからだ。そう簡単に人に悟られるようなことはないと思うが、万が一ということもある。特に今回は犯罪絡みで警察とも関わらなければならない。「一軒目」だと偶然がすぎるが「三軒目」ならそう思われずにすむはずだ。妙な疑いを持たれないようにするためにも必要な「仕込み」なのである。

「実はちょうど三日前に一人のお客様がライカM3を売却されております」

「……三日前?」

「時期的には一致しますね……」

 店員さんが顎髭を触りながらまた名簿のようなものに目を落とす。

 うーん、と唸っている。渋い顔をしているのは、盗品を買い取ったとなれば店の信用に関わるからだろう。

「お客様、警察のほうには連絡を?」

「あ、はい。つい先ほど」と俺は頷く。「ただ……以前、知り合いが似たような目に遭って、そのとき犯人は捕まったけど、カメラは戻ってこなかったらしくて」

「ああ。そういったケースはよくあるみたいですね」

「その話を聞いたらいてもたってもいられなくなりまして……」

「事情はわかりました」と店員さんが神妙な顔でカウンターに両手をつき、「ところでお客様、カメラの製造番号――シリアルナンバーは把握しておられますか?」と訊いてきた。

 盗品かどうか確定していない状況でお客から買い取ったカメラを見せたり、お客の個人情報を勝手に出すわけにはいかないから、店側の対応としては必然「シリアルナンバーの提示を」となる。もちろんナンバーが合致しただけでカメラが返ってくることはないだろうけど。警察への連絡を含め、諸々の確認が必要なはずだ。

「ちょっと待ってください……」

 俺はポケットを探り、メモ用紙を取り出した。

「ナンバーは816×××です」

 そう言ってメモをお店の人に手渡す。

「――確認します。しばらくお待ちを」

「はい……」

 俺が頷きを返すと、店員さんは急々と店の奥に引っ込んでいった。

 ふぅ、この感じだとまだカメラはお店にありそうだな……。

 ――ギィ。

 店内に飾られているカメラを眺めていると、入り口の扉が開く音が聞こえた。

 お客さんかな、と思って俺は反射的に後ろを振り返る。

 店内に入ってきたのは痩せ型の男性で型落ちのデジタル一眼レフカメラを両手で抱えていた。挙動不審でやたらキョロキョロと店の中を見回している。服装が違うので一瞬わからなかったが、頬の青あざが先ほどまでファインダーを通して見ていたパーカー男とすぐに一致した。

 ハッとし、俺は思わず身構えてしまう。

 と、次の瞬間――

「あ――っ。お客さん、その人ですよ! 三日前にライカを売りに来たのは!」

 店の奥から出てきた店主が大声で叫んだ。

「や、やばっ」

 青年が身を翻す。身軽な猫のような反応だった。

 遅れて俺も地面を蹴り、カメラを片手に扉を開けようとする青年の背中に手を伸ばす。だがその前に扉が開き、青年が外に飛び出していく。

「待て――っ」

 しかし、勢いがついていた俺のほうがスピードで勝っていた。

 店を出てすぐのところで小柄な青年の腕に手が届き――

「――逃がすか!」

 そのまま青年の腕を力任せに引っ張った。

 すると思いのほか簡単に抵抗が弱まり、「……あ、ああ」と青年がカメラを持ったままその場に崩れ落ちた。どうやら観念したようである。

「三日前に……公園でライカを盗んだのは君だね?」

 俺は抵抗を止めた青年に向かって厳しい口調で問いかけた。

 だが――

「……あ、あ、あ……僕は……僕はただ……」

 怯えたような声を発するばかりで、まともな答えは返ってこなかった。

「おい、行くぞ!」

「いいのかよ、あれ?」

「……あいつはもう終わりだ。置いてけ」

 そのとき路地の奥で話し声が――

 直後、複数の足音が遠ざかっていった。

 もしかして仲間がいたのか? 姿は確認できなかったけど、逃げた複数の気配がこの青年となんらかの関わりがあるのは間違いなさそうだった。

「違うんです……僕は……僕はただ……」

 それにしても酷い怯えようだ――

 ここだけ見たら俺が加害者でこの青年が被害者であるかのようである。

 もちろん被害者はこちらなのだが。

 ん? 額に傷が増えてる? 青年の顔はファインダーを通して何度も目にしているけど、こんなところに傷なんてなかったと思うんだけど……。

 まさか、さっきの連中が――

 俺は警察がやってくるまでの間、怯えるパーカー男の顔を静かに見下ろし、逃げていった男たちとこの青年の関係に思考を巡らせた。


+ +


 自供によると――

 やはりカメラを盗んだのは俺がカメラで過去を見通した通り、パーカー男の仕業だった。だけどそれは青年の意思ではなく……彼を強請っていた男たちに命令されてのことだった。

 本人にも男たちにもカメラの知識はなく、また転売によって足がつくことも、ライカが高価なカメラだということも知らなかったようだ。

 青年があのときカメラ店に現れたのは、M3が思わぬ高値で売れたことで味をしめた男たちが「適当なリサイクルショップでカメラを盗んで転売しろ」と再び犯罪行為を強要してのことだった。

「本当に……すみませんでした……」

 青年は警察署で何度も何度も俺と五条さんに向かって頭を下げた。だが事情を知ってしまうと、とても青年を非難する気にはなれず……。

 それは同席した五条さんも同じのようで、

「こうしてカメラも戻ってきましたし……そんなに自分を責めないでください」

 と逆に青年を気遣っていた。

 さらに彼女は被害届を取り下げ、青年が罪を背負うことがないよう取り成したのだった。もちろんそれはカメラが戻ってきたからこそできたことなのだと思う。



「伊角さん……。カメラのこと、本当にありがとうございました」

 警察署からの帰り道――

 五条さんが夕日を背にして律儀に頭を垂れた。

「師匠にも……ちゃんと報告しなければいけませんね」

「だったら五条さん、これを」

 俺はそう言ってじいさんのM3を差し出した。

「えっと……?」

「これから店に行きましょう。もうじいさんはこの世にはいませんけど……せめて五条さんの手でじいさんのデスクにこれを返してあげてください」

「……そうですね。せめてそれくらいは」

 五条さんはカメラを受け取ると、すぐさまストラップを首から提げ、カメラ本体を両手でしっかりホールドした。決して離すまいと、両手で抱きしめるように……。

 カメラを手に持ち橙色の世界に佇む五条さんはとても印象的で、ずっと眺めていたい、と思わせる魅力で溢れていた。

「行きましょうか」

 二人で川沿いの道を歩く。

 緩やかな流れの川に夕日が反射し、眩いほどの光を放っていた。

「……あの」

 しばらく会話もなく歩いていたのだが、蜂蜜を思わせるオレンジ色の夕日が燃えるような赤に変わってきたころに、隣の五条さんが口を開いた。

「うん? どうしました?」

 足を止めた五条さんに合わせて俺も歩みを止める。

「……お訊きしたいことがあります」

 五条さんが俺の目を正面から見据える。彼女の目は真剣そのものだった。

「伊角さんはどのようにしてカメラの行方を――突き止めたのですか?」

「え? いや、それは警察署で話した通りで……」

 シリアルナンバーのメモを持って近場の中古カメラ店を総当たりで訪ねて回った、と。警察にも五条さんにもそう説明している。

「それは本当ですか?」

 五条さんが夕日を背にしたままこちらに近づいてきた。

「私にはそうは思えません……。だって伊角さんのやっていることは、師匠とどこか似ていますし……。きっと、そうなんだろう、って。そう思わずには……」

「じいさんと同じ……?」

「……はい」

 目の前で立ち止まった五条さんがおもむろにカメラをかまえ、ファインダーを覗き込んだ。フランジバックが短い小振りなレンジファインダーカメラのレンズが俺を捉える。

「――過去を見る能力」

 そう言葉を発したのは俺ではなく五条さんのほうで――

「伊角さん。……透さんもお持ちなのでしょう?」

「……なっ」

 あまりに突然の問いかけに俺は言葉を失ってしまう。

 燃えるような夕日が世界を包み込む中……。

 俺は五条さんをただ黙って見つめ返すことしかできなかった。