第1章 再就職先はあやかしの会社でした。


 炎天下、蝉の声の大合唱を背中に聞き、ヒールを踏み外さないように気をつけながら、わたしはゆっくりと神社の石段を登っていく。

 あがりきったところで、流れる汗をハンカチで拭い、濃紺のリクルートスーツの襟元を整えると、小銭入れから五円玉を取り出してお賽銭箱に入れる。チャリンという乾いた音を聞きながら、わたしは一回大きく深呼吸をして、上からぶら下がっている紅白の鈴の紐を両手でしっかりと握る。

 ガラガラガラ。

 大きな鈴の音が境内に響き渡る。

 二礼して二拍手。


 ――無事に再就職が出来ますように。

   そして、今度こそ、真っ当な職場でありますように――


 最後に深々と一礼した後、わたしは急いで石段を降りて、木蔭の下へと逃げ込んだ。そしてそこに置かれた木製の縁台の上に、よいしょと座ると、バッグの中からペットボトルのお茶を取り出して半分くらいを一気に飲み干し、大きく溜息。

「はあー」

 木蔭に入ると幾分か暑さが和らぐ。風が穏やかに吹き、前髪を少しだけ揺らして通り過ぎていく。わたしはセミロングの髪を指でつまみ、なんとはなしに呟いた。

「ちょっと切った方がいいかな……」

 まだ八月初旬だし、これからますます暑くなりそうだし。

 残りのお茶を飲みながら、境内を見回す。

 古い住宅街の中にある、そう広いとは言えない小さな神社。とはいえ、朱色の鳥居の前、台座の上で向かい合って座っている二匹の狐は普通のお稲荷様よりちょっと大きくて立派だし、境内の所々に立てられた『涼音稲荷明神』と書かれた赤色の旗はどれも真新しい。加えて、周りは青々と葉を茂らせた木々に囲まれていて、それなりに雰囲気がある。

 人心地ついたところで、わたしは鞄の中から『地図』を取り出し、思わず顔をしかめる。

「相っ変わらず汚い字……」

 その地図は手書きで、フリーハンドの歪みまくった線に、子供が書いたのかと思うくらいのいびつな文字がのたくっていた。

 実はこれ、わたしのお父さんが書いたものなのだ。

 地図上の目印の位置関係や縮尺も滅茶苦茶で、駅からここに至るまでの間に何度も迷ってしまったし、目的地である九十九コールセンター株式会社も、ざっくりこのお稲荷様の先に続く道のりにあるとしか書かれていない。

 入社面接ということで、時間にかなりの余裕を持って家を出てこなければ、確実に遅刻していたと思う。勿論、お父さんの地図という点で、最初から警戒はしていたけど。

 お父さんは基本的に、ずぼらで非常識だ。それは面接先の会社に提出する『紹介状』がこの地図の裏に書かれていることを見てもわかる。

 わたしは地図をひっくり返して、あらためてその『紹介状』を読み直す。


『九十九コールセンター株式会社 センター長 稲野涼音 様

 拝啓 盛夏の候、貴社いよいよご盛栄のこととお慶び申し上げます。

 さて早速ではございますが、このたび、私の長女・萩原優奈をご紹介させていただきます。彼女は、決して器量が良いとは言えず、また、様々な面で不器用であり、新卒で入社した会社を僅か九ヶ月で退職するなど、我慢が足りないところがございます。我が娘ながらどうしてこのような子が生まれてしまったのかと不思議でなりません。しかしながら、「獅子の子落とし」といいますように、ここで心を鬼にし、グランドキャニオンから全力で突き落とし、心を入れ替えさせれば、きっと皆様のお役に立てる淑女に変ずることと存じます。つきましては、ご面接の上、何卒、ご採用についてご検討のほどよろしくお願い申し上げます』


「はあー」

 肩を落として、大きな溜息とぼやき一つ。

「『紹介状』を地図の裏側に書いた挙げ句、こんな書き方って無いと思う……」

 確かに、わたしも知り合いの会社を紹介して欲しい、と頼んだ立場ではある。けれど、正直言うと、今すぐ地球の反対の南米チリまで飛んでいき、いい年してビジネスだかバックパッカーだかよくわからないことをやっているお父さんを見つけるなり、襟首を掴んで前後に思いっきり揺すってやりたい気持ちになる。

 非常識なのはお父さんだけ。娘のわたしは常識人だって思われたい。

 それに、僅か九ヶ月で退職って言われても、入社したアパレルチェーンは典型的なブラック企業だったわけだし、むしろ同期の八割が半年以内に辞めた中、よく耐えた方だと思う。まあ、会社を見る目が無かったと言われたらそれまでなんだけど……。それに、食い扶持を稼ぐためには早く再就職しなくちゃいけないし……。

 ひとしきり落ち込んだところで、わたしは時計を見る。

 午前十時三十分。

 約束の面接時間まで三十分だから、ちょうど良いかな。

 よいしょ、と縁台から立ち上がり、パンツスーツについた砂を払うと、地図を手に木蔭から出る。真夏の太陽が容赦無く照りつける中、わたしは地図に書いてある拝殿の右奥にある道を探す。

 そして、それからわずか一分後、わたしは戸惑いに立ち尽くしてしまった。

「え……、ここ……?」

 目の前にある道は、どう見ても山道だった。舗装はされておらず、両側は木々に覆われ、しかも途中から階段になって山の上へと向かっていってしまっている。

 辺りを見回しても拝殿の右奥には普通の舗装された道は無いし、念のため拝殿の左側に回り込んで見たけど、そこにも道らしきものは無い。

 よくよく考えてみると、そもそもこの神社は谷の奥まったところにあって、来る途中には『この先、車両通行止め』の看板が立てかけられていた。

 わたしはもう一度、手元の地図を見る。

 神社の先に道が描かれ、『三階建ての建物が、九十九コールセンター株式会社』と書かれているけど……。さすがに違うよね……。多分、違う道があるんだ。一旦、この神社を出て、誰かに聞いてみた方がいいよね。

 そう思って、くるりと踵を返したときだった。

「あ……れ……?」

 不意に目眩がして、視界がぐにゃりと歪んだような気がした。

 慌てて傍の木の幹に手をついて体を支えたとき、目の前に大きな犬がいるのが目に入った。

 いや……、犬だろうか? 犬にしては鼻が長い気がするし、目も細くて切れ長だ。それに、なにより毛並みの色は、美しい黄金色をしている。

「えっ……、キ……、キツネ……?」

 と、そのとき、狐が琥珀色の瞳でわたしを見て小さく微笑んだかと思うと、目の前の山道を軽い足取りで上に向かって歩き出した。

「なんで、こんなところに……?」

 呆けたようにわたしがその場で突っ立っていると、狐は階段の途中で足を止めてこちらを振り返る。その様子はまるで……。

「ついてきて……、ってこと?」

 どうしてそんなことを思ったんだろう。自分でもわからなくて戸惑うものの、そればかりか、その狐が深く頷いたようにさえ見えてしまう。

 どうしよう。

 迷ったものの、でも、どうしてか抗い切れず、わたしの足は自然と狐の後を追い始める。狐はそれを確かめると、大きな黄金色の尻尾を振って、わたしを先導するかのように歩き出す。

 そして、道の途中で赤い鳥居がいくつも重なるように続き、どことなく辺りが不思議な雰囲気になったときだった。不意に狐が歩みを速め、みるみるうちにわたしとの距離が開き始めた。

「え、ちょっと待ってよ……!」

 慌てて後を追うけれども、狐の足はますます速くなり、あっという間に曲がりくねった山道の奥に消えてしまう。それを追って更に十数段ばかり駆け上がった途端、急に視界が開けた。

 目の前に広がっていたのは、青々とした原っぱ。広さは小学校の校庭くらいだろうか。周囲を木々に囲まれた広場の上には、夏の青空が広がっている。道はこの先にも続いているのかな、と、戸惑いつつ、足を前に踏み出したときだった。

「わっ!?」

 ごう、と突然、強い風が吹いた。

 体ごと吹き飛ばされそうになり、わたしは顔を腕で庇いつつ、必死に踏ん張る。けれど、足はじりじりと後退していき、飛ばされる! と思った瞬間、不意に風が止んだ。

 戸惑いながら、恐る恐る目を開けて、そして、わたしは目を瞬かせる。両手で目をごしごしと擦り、眼前の光景を呆然と見つめる。

 そこにあったのは、古い建物。

 くすんだ鼠色の外壁に、緑色の蔦が這っている。とはいえ、窓の部分はきちんと避けられているし、ちゃんと手入れはされている印象だ。

 窓を数えると、建物の階数は三階あり、一階の真ん中に、押して開く形の古いガラス扉が備え付けられている。

 わたしは首を傾げる。

「さっきまで無かった、よね……?」

 街中にもありそうな雑居ビル。

 それが木々に囲まれた原っぱの中に唐突に立っている。

 わたしは鞄の中から、お父さんの地図をもう一度取り出す。

『三階建ての建物が、九十九コールセンター株式会社』

 階数は合っている。とすると、本当にここなの……?

 わたしは恐る恐る扉に近付き、黒いドアノブに手を掛ける。少し力を込めて押すと、蝶番が軋む音とともに扉が開いた。

 中に入るとそこは小さなロビーになっていて、正面の鼠色の壁に『九十九コールセンター株式会社』と書かれた銀色のプレートが掛けられ、受付用の電話機が置かれているのが目に入った。やはりここで合っているらしい。

 コンクリートの壁はところどころ補修の痕が見え、床のタイルも古びているが、一方で全体的にとても掃除が行き届いている印象。照明は若干薄暗いとはいえ、冷房はちゃんと効いていて涼しい。

 ちょっとだけ落ち着いてきた。

 少し変な場所にあるけれど、普通の会社みたいだし。

「ん……?」

 けれど、受付用の白い電話機の前に立った途端、わたしはふと違和感を覚える。それは、脇に置かれた小さなプレートに書かれた文字。

 目を擦ってもう一度見る。

『ご来社の方は内線4242番を押してください』

「……いやいや、『死に死に』って……、そんな縁起でも無い番号……」

 と、そのときだった。

「いらっしゃいませ、萩原優奈様ですね?」

 左側から涼やかな鈴の音を思わせる女性の声が聞こえて、わたしは飛び上がりそうになった。いや、実際、ヒールの踵は少し浮いたように思う。

「え、は……、はい……!」

 さび付いたように首をギギギと左に向けると、そこにはいつの間にか、紺色の制服を着た、わたしと同じくらいの背丈の女性が立っていた。

 けれど、更に驚いたのは、その目鼻立ちが異様に整っていたことだ。長い髪は漆を塗ったかのように黒く、顔は乳白色のミルクを溶かし込んだように白く、まるでショーケースに飾られていた日本人形が洋服に着替えて出て来たかのよう。

「お待ちしておりました。本日ご案内をさせていただく氷林雪乃です。どうぞよろしくお願いいたします」

 深々と頭を下げる彼女。

 綺麗な人だなあ、と思わず見とれていると、彼女はにっこりと微笑みを浮かべながら、掌を上に向けて扉の方を示す。

「こちらへどうぞ」

 彼女の案内で受付の左手にある扉をくぐると、その先は薄水色のカーペットが敷かれた長い廊下になっていた。こちらの廊下も、白い壁にはところどころひび割れを補修した痕が見えるものの、掃除はよく行き届いており、塵は全く落ちていない。

 それにしても、とわたしは両手で体を掻き抱く。

 冷房が効いているのはいいけど、ちょっと強すぎる気がする。しかもただ強いだけじゃなくて、夏だというのに底冷えするような、なんていうか冬を思わせる寒さというか……。

 と、女性がふと足を止めて、肩越しに少し困ったような顔を向けて言った。

「もしかして、寒いですか?」

「え、いえ……、まあ……」

 彼女は申し訳無さそうに頭を下げると、

「それでしたら恐れ入りますが、私から少し離れてお歩きください」

「…………え? 離れる……?」

 そう言うなり、自ら歩調を速めて先に行ってしまう。直後、何故か、ふと寒さが和らいだような気がした。

 わたしが首を傾げているうちに、彼女は扉の前で立ち止まり、壁に据え付けられたICカードリーダーに自分の社員証をかざして扉を押し開いた。奥はロッカールームになっていて、壁の両側には正方形のロッカーの扉が百個以上、ずらりと並んでいる。

「これより先、セキュリティエリアの入室に先立ちまして、お荷物をこの部屋でお預かりさせていただきます。携帯電話のお持ち込みも出来ませんのでご注意ください。お財布などの貴重品のみ、ビニル手提げに入れてお持ちいただくことが出来ます」

「あ、そうですよね。ここって、コールセンターですもんね」

「はい、ご理解ありがとうございます」

 コールセンターでは、個人情報を外に持ち出せないように、色々厳しい。最初に入ったブラック企業にあったコールセンター部門も確かこんな感じだった。研修で一度しか行ったことが無いけど。

 女性から水泳用品を入れるような透明バッグを渡され、お財布とハンカチ、それに紹介状や面接用の履歴書、職務経歴書といったものを入れると、持って来た鞄をロッカーに入れるべく、扉を開く――。

「へ…………?」

 次の瞬間、わたしはぱたんと扉を閉めた。

「……なにか、いた……?」

 なんか、白いふわふわした毛だらけの物体が横たわっていたような……。いや、物体じゃなくて生き物? 目みたいなものが二つついていたような気がするし……。

「どうかしました?」

 固まっていると、女性が不思議そうにわたしの顔を覗き込んできた。

「い、いえ、別になんでも……!」

 わたしは深呼吸をし、意を決してもう一度扉を開く。

「…………!」

 そこには、やはり白い毛に覆われた物体。ぬいぐるみ、かな、と思った途端、それはむくりと起き上がり、ぱちぱち瞬きをして、わたしを見た。つぶらなうるうるした瞳のまま、不思議そうに首を傾げ、

「きゅ?」

 と小さく鳴いた。

「ええと……、これって……、フェレット? なんでこんなところに?」

 わたしが思わず手を伸ばしてその毛に触れた瞬間だった。

「きゅーっ!?」

 その生き物はぶわっ、と全身の毛を逆立て、背中に羽のようなものを生やしたかと思うと、いきなりわたしの顔に向かって飛びかかってきた。

「きゃっ!?」

 そいつは仰け反ったわたしの顔面に一旦着地し、額を踏み台に後ろに飛んでいってしまう。

「な、なに……、今のなになに!?」

 振り向くと、羽の生えたフェレットみたいな生き物がロッカーの上で脅えたように丸まっている。

「あの子は白イタチですね。狭いところが好きなんです。ちょっと臆病ですから、優しくしてあげてくださいね」

「ええ……と、イタチって、空飛ぶんだっけ?」

「はい、飛びますよ」

 女性がことも無げに言いながら、ICカードで更に奥にある扉を押し開く。

 そこに現れたのは、クリーム色の壁に囲まれた、畳二畳分ほどしかない、まるで刑事ドラマに出てくる取り調べ室のような狭い空間。真ん中には椅子と小さなデスクがあって、その上にデスクトップパソコンが置かれている。

「では、こちらにおかけください」

「えっ、で、でも……」

「今から入社試験を行いますので」

 女性は戸惑うわたしの背中を押して、無理矢理部屋に押し込もうとする。

「ひっ!?」

 その手は氷のように冷たく、わたしは思わず悲鳴を上げて、つんのめるように部屋の中に入ってしまった。

「それではお席に着いたら、ヘッドセットを頭に掛けてしばらくお待ちください」

「ちょ、ちょっと待ってください!」

 閉まりかけた扉に慌てて駆け寄るものの、

「大丈夫ですよ。別室で見ていますので」

 彼女はにこやかに笑いながら、無慈悲に扉を閉めてしまう。慌ててドアノブを掴んでがちゃがちゃ引っ張るが、ICカード無しで開くわけもない。

 わたしはしばらく呆然と閉められたままの扉を見つめる。

 一体どういうことなの? 入社試験って言われたけど、荷物も全部取り上げられて、密室から出られなくなったわけで、これって監禁されたって言うんじゃ……。

 とにかく、このままここに突っ立っていても仕方無いと思い直し、女性の言う通り席に着くものの、デスクを探してもヘッドセットがどこにも見当たらない。

 ヘッドセットとは、イヤホンとマイクが一体になっていて、自動車保険とかのテレビCMに出てくるオペレーターがよく頭に掛けているものだ。

 パソコンの裏側も見てみるけど、それらしきものは見つからず。

「ヘッドセットがあるって言ったのに……」

 そう言った途端、いきなりわたしの目の前に、ぬっと黒いなにかが降りてきた。

 ヘッドセット……?

 思わず手に取って、天井を見上げるけど、そこにはなにもない。

「えっと、今、どこから出て来たの……? これ?」

 訝しく思うものの、とりあえず頭に掛けることにする。

『それでは、目の前のモニターの画面をつけてください』

 いきなり、耳元から女性の声が聞こえたので、わたしはびっくりして椅子ごと後ろにひっくり返りそうになる。

「あ、あのっ……、いきなり入社試験って、一体、どういう……!」

『そうしましたら次にIDとパスワードを入れる画面が出ますから、今日は〝guest〟と二回入力してください』

 相手は聞く耳を持っていないようだ。

 ええい、どうにでもなれ、と半ば捨て鉢になったわたしは、彼女に言われたようにIDとパスワードを画面に入力する。

 しばらく中央で円状の図形が回転した後、画面表示が切り替わり、いくつかのウィンドウが立ち上がった。そのどれもが、沢山の入力窓やボタンなどがずらりと並んだもので、一体なにをどうすればいいかわからず戸惑ってしまう。

『萩原様、画面左上に電話のアイコンがあるのがわかりますか?』

「え、ええと……」

 スマホのアイコンによくあるような、受話器の形のボタンが二つ。恐らく一つは着信で、もう一つは切断を意味するのだろう。

『赤いランプが点滅したら、電話が入ってきたという意味ですので、すぐにクリックします。そうしますと、お客様からのお電話が繋がりますので、次のようにゆっくりとお話ししてください。

 ――お電話ありがとうございます。こちらはご注文受付センターです。ご希望の商品番号をお伺いさせていただきます』

「え、ええと……、ご注文、受付……?」

『トークスクリプト、つまり、台詞ですね。それをまとめたファイルがパソコンの脇に立てかけておりますので、手元に置いてご覧ください』

 パソコン本体の脇に視線を移すと、赤いファイルが立てられているのに気付いた。表紙には『ご注文受付マニュアル』という文字と、何故か一つ目小僧のイラストが描かれている。中身を捲ってみると、どうやらこれはテレビショッピングの注文電話のマニュアルらしく、電話を受けたオペレーターがお客様に尋ねる内容や、パソコンへの入力方法などが図入りで丁寧に解説されている。

 このテレビショッピング番組なら時々、自分でも目にすることがある有名なものだし、マニュアルを見る限りそれほど難しくなさそうだ。

「なるほど、そういうことね」

 わたしはちょっと安堵する。入社試験とは、この注文受付を一通りこなせばいいのだろう。勿論、電話を架けてくるのは、本当のお客様じゃなくて、お客様役の社員さんなんだろうけど。

『それでは、これから電話が入ってきます。いきなり本番ということで緊張なさっているかもしれませんが、落ち着いてやれば大丈夫です。それになにかあっても、私がこうやって萩原様にしか聞こえないようにお話し出来ますので』

 …………え?

 今、なんて言った?『いきなり本番』? どういうこと……?

 わたしが混乱していると、耳元のヘッドセットから電話の着信するプルルル……、という音が聞こえてきた。

『萩原様、はやくお取りくださいませ!』

「は、はいっ!」

 画面左上の電話のボタンを押すと、プッ、という電話の繋がった音がした。

「お、お……、お電話、あ、ありがとうございます。こ、こちらはご注文受付センターです!」

 声が裏返ってしまったが、なんとか言えた。

 ええと、次の台詞は……。手元のファイルを指でなぞりながら言葉を発しようとしたそのときだった。

『あのさあ!!!』

 突然、耳元で大きな男性の怒鳴り声が聞こえた。

「…………!?」

『先週、おたくで買ったデジカメ! 壊れていたんだけど!』

 わたしは凍り付いてしまう。

 ええ……、と、もしかして、なんか、怒っている……?

『家族旅行に合わせて買ったんだけどさ、結局、使えなかったじゃねーか! どうしてくれるんだよ!』

 声からすると中年くらいだろうか。相当怒っているらしく、電話口の向こうで声はどんどん大きくなっていく。

 と、ヘッドフォンから合成音声で、『ウィスパーモードです。スーパーバイザーが入ります』と聞こえてきたのと同時に、先程の女性がどこかのんびりした口調で割り込んできた。

『あら大変。ご迷惑をお掛けしたお客様からね。萩原様、対応をお願い出来ますでしょうか。最後は上の者から折り返しさせます、という形で終わらせて結構ですので』

「へっ!? あの……、対応って、そんな無茶な……!」

『……へっ!? じゃねえよ!!』

 思わず女性に向かって話し掛けてしまい、電話口の男性が激昂する。女性の声は相手には聞こえないということを思い出したが、時既に遅し。相手はますますヒートアップ。

『客に向かって無茶な、とはどういうことだ!』

 ああああ! どうしよう! わたしはパニック状態。

『おまえ、一体、どういうつもりだ! 説明しろ説明! デジカメが壊れていたことと、その無礼な対応についてだ!』

「え、ええと……」

 なおも電話口で怒鳴り散らすお客様の声がヘッドセットを通して頭の中に響く中、わたしは狼狽えながら部屋の中を見回す。あの女性が助けに来てくれないか、と思うものの扉が開く様子もなく、ヘッドセットを通しての助け船も無い。

 膝の上に置いた手がじっとりと汗をかく中、わたしは不意に前職の嫌な記憶を思い出す。たった二週間の新入社員研修を終えた後、店舗にマネージャーとして配属されたわたしは、一日に一回以上はクレーム客の対応をしていた。そのときはどうやって対応したか……。

 わたしは頭の中を必死に回転させて当時の記憶を思い出しながら、電話の向こうにいるお客様に向かって頭を下げる。

「お、お客様! も、申し訳ございません! 折角お買い上げいただいたデジタルカメラが壊れていたとのこと、深くお詫び申し上げます。また、先程のわたくしの不適切な発言についても取り消しの上、お詫び申し上げます」

『ん……』

 向こう側の温度が少し変わったような気がした。

 クレーム対応の基本、その一。お客様への共感と心からのお詫び。

「対応策を検討させていただきますので、お手数をおかけしますが、どのように壊れていたかお教えいただけますでしょうか?」

 クレーム対応の基本、その二。原因と事実の確認。

 お客様が戸惑いつつ、答える。

『そ……、そうだなあ……。電源が入らないんだよ。いくらボタンを押してもさ』

「さようでございますか。電源が入らないのですね」

 クレーム対応の基本、その三。相手の言葉の鸚鵡返し。

 次第に男性の声がトーンダウンしていくのがわかる。基本に忠実な対応の成果が出ているのか。

 わたしは最後に、上席の者からすぐに折り返すので、連絡先の電話番号を教えて欲しいと伝え、相手が電話を切ったのを確かめると、震える手でモニター上の通話終了ボタンを押す。

「ふわーっ!」

 ヘッドセットを外すと、背もたれに体を預け、わたしは大きく息を吐き出した。

 やっと終わった。

 掌は汗でべとべと。緊張して喋っていたせいか、頭は酸欠状態で視界がぐらぐらする。

 ややあって、すぐ傍でパチパチパチと拍手の音が聞こえてきた。顔を上げると、目の前にあの女性が立っていた。

「お疲れさまでした。少し予想外の入電でしたが、臨機応変にご対応いただき本当にありがとうございました」

 日本人形のような整った顔を少し傾け、微笑みかける。

「そして、おめでとうございます。試験は合格です」

「はあ……、ありがとうございます。でも……、いきなり本番なんてちょっとひどくないですか……?」

 試験に合格したという喜びよりも前に、文句の方が先に口から出てしまう。

「大変申し訳ございません。これもセンター長の方針でして。萩原様ならきっとこれくらい簡単にこなしてくださるだろう、と申しておりましたので」

「センター長?」

「はい。とても聡明なお方ですよ。この後、一緒にご挨拶に行きましょう」

 確か紹介状の宛先がセンター長だったっけ。すごく綺麗な名前だったような気がする。一体どんな人なんだろう。と、そこでわたしはふと、前の会社のパワハラ部長の顔を思い出す。ビールの飲みすぎでお腹が出ていて、脂ぎった顔はいつもてかてかしていて、なにか喋るたびにきつい口臭が辺りに臭っていた。

 うげ……。

 頭を横に振って、嫌な記憶を外に追い出そうとする。今度の会社は大丈夫だ。イヤな奴じゃない。そう願いたい。

 わたしは気持ちを切り替えるべく、ちょっと気になっていたことを女性に尋ねる。

「ところで先程のお客様への折り返し対応はどうしましょう?」

「そうですね。今、リーダーが対応しているのですが……」

 と、彼女はふと考える顔をした後、両手を合わせて小さく微笑むと、

「折角ですから、萩原様、後ろをご覧いただけますか?」

「後ろ、ですか……?」

 背中には壁しか無かったような……。

 おもむろに振り返ったその途端、壁が自動ドアのように横滑りして視界が開け、わたしは予想外の光景に固まる。

 高校の教室ほどの広さの部屋に、奇妙な生き物たちがずらりと並び、ヘッドセットを被ってモニターに向かっていた。

 顔に目玉が一つしかない人間みたいな生き物とか。

 全身、体が緑色で、頭にお皿みたいなものを被った、手足に水かきがついている生き物とか。

 赤い和傘を頭に被って、口から長いベロを出した生き物とか。

「へっ……!?」

 わたしは両手で目をごしごしと擦る。

 けれど、目の前の光景は変わらない。

 ずらりと四列に配置されたデスクと、その上に整然と並べられた沢山のパソコンのモニターと電話機、そして、その前に居並ぶ、人じゃない生き物たち。

 それらが、電話口の向こうの『お客様』に柔らかい口調で話し掛けている。

 ――お電話ありがとうございます。注文受付センターでございます。

 ――三番の商品、神戸牛カレーの詰め合わせセットでございますね。お会計は五千円となります。

 ――商品が届かない、ということですね。誠に申し訳ございません。至急確認いたしますので、恐れ入りますがお客様のお名前をフルネームでおっしゃっていただけますでしょうか。

 な、なに……、なんなの……、これっ……!?

 わたしは半ばパニックになりながら、首をぶるぶると横に振る。

 い、いや……。こんな光景、おかしいよね。あるわけないよね……?

「コ、コスプレ……、ですよね、これ……。仮装大会とかやっているんですよね……?」

「――もっ!」

 右側から聞こえた奇妙な鳴き声に視線を向けたところで、更にわたしは凍り付いた。

 そこには先程まで視界を遮っていたはずの壁。

 そして、そこに目があった。

 クリーム色の壁に埋まった大きな二つの目がぎょろりとわたしを見て、壁からちょこんと生えた小さな手が『違う違う』と言わんばかりに左右に振られている。

「コスプレなんかじゃありませんよ」

 氷林さんの声に今度は反対側を振り向く。

「えっ……、き、着物……?」

 濃紺の制服が、いつの間にか真っ白な着物に替わっていた。

 一瞬、着替えたのかと思ったけど、でも、つい三十秒前までは確かに制服姿だったような。

「なにをおっしゃっているんですか。萩原様もご存じの通り、ここにいるのは人間ではなく、みんな、正真正銘のあやかしたちです。私もご覧の通り雪女ですし」

 そう言って、氷林さんが着物の袖で口元を覆って微笑みを浮かべる。

「あ、あやかし……?」

 頭の処理が追いつかず、馬鹿みたいにぽかんとした顔をしているわたし。

「あら、先程のお客様のフォロー、終わったみたいですね」

 彼女がそう言ったときだった。部屋の奥の方から、デスクの上を飛び越える形で、なにかがこちらに伸びてくる。

 太い棒のような……、いや、蛇のような……。

 そして、その先っちょについているのは……、青年の顔!

「初めまして。スーパーバイザーの首藤と申します。あなたが萩原様でいらっしゃいますね。先程のお客様は、私の方で無事対応を終えましたのでご安心ください」

 その顔は首を伸ばしてわたしの真正面まで来ると、爽やかな笑顔で言った。

「それと、そのお客様から、先程のオペレーターさんに怒ってしまって悪かった、と伝えてください、とお言づけをいただきました」

 白無垢を着た氷林さんも両手を合わせて嬉しそうに言う。

「萩原様の最初の対応が素晴しかったんだと思いますよ。良かったです。これならセンター長も即戦力として安心されると思います」

 わたしは口をぱくぱく開け閉めするだけで、なにも言うことが出来ない。

 そして、目眩とともに急に目の前が暗くなったかと思った次の瞬間、わたしは意識を失っていた。



 幼いわたしが熱を出したとき、お母さんはよく氷枕を作ってくれた。

 天然ゴムの中にたっぷり詰められた氷水と、冷たくなりすぎないように枕を包んだタオルの感触は、熱を冷ます冷たさとともに、どこか肉親のぬくもりを感じさせた。冷たいのに温かいなんて、すごく不思議。

「……わら……、……られますか……?」

 夢現の中、後頭部を冷やす氷枕の感触と、頭をずらすたびに聞こえるちゃぷちゃぷという音に、わたしの心が落ち着いていく。羊水の中に浸かっている赤ちゃんって、こんな気分なんだろうか、などと柄にも無いことを考える一方で、ふと、氷枕なんて一体誰が作ってくれたんだろう、と不思議に思う。

 まあ、そんなことどうでもいいか……、気持ちいいし……。

 さっきまで変な生き物たちが横一列に並んで電話を架けている、すごく変な、そして怖い夢を見ていた気がするけど、この氷枕のお陰で心が癒されていく気がする。

「はぎ…………さま……、じょうぶ……すか?」

 さっきからずっと誰かがわたしを呼んでいる声が聞こえる。

 うるさいなあ。もう少し寝かせて欲しいんだけど……。

 と、そのときだった。

「…………!?」

 突然、わたしの唇になにかが押し当てられた。

 その感触は、とても柔らかくて、温かく、そして、どこか甘い味がする。

 驚いて目を開くと、そこには男の人の顔があった。

 目が合う。

「………………ふえっ!?」

 琥珀色の瞳がわたしを見透かすかのように見つめている。

 それと同時にゆっくりと柔らかい感触が離れていく。

「萩原様、お目覚めですか?」

 相手はそう言って微笑みを浮かべる。

 男の人なのに、ハッとするほど美しい顔。陶器のような白い肌に、すっと通った鼻筋。少しだけ茶色がかった髪の毛は、稲穂のように光り輝いて見える。

「…………!?」

 わたしは何度か瞬きした後、慌てて上半身を起こし、両手で自分の唇を押さえた。

「えっ、えっ、えっ…………!?」

 一体、今、わたし、なにされたの……!?

 わたしは目の前の男性を見て、何度も目を瞬かせる。紺色のスーツを着た細身の男性。

 と、相手は優しそうな微笑みを浮かべて言う。

「危ないところでした。もう少しで気が離れてしまうところでしたから」

「危ない……? 気が……、離れる……?」

 ぽかんとした様子で言うわたしに、男性は小さく頷いて言う。

「はい。こういうあやかしが集まっているところで気を失うと、場合によっては妖気に吸い寄せられてきた悪霊に取り憑かれてしまうことがあるのです」

「あやかし……? 悪霊……?」

 聞き慣れない言葉のオンパレードにわたしは目を瞬かせる。全く意味が理解出来ない。

「ですから、大変失礼ながら気付けをさせていただきました。ご無礼をお許しください」

 そう言って、唇に指を当てて、相手は微笑んでみせる。その表情はどこか妖艶でもあり、わたしは混乱しつつも思わずどきりとする。

 いや、で、でも……、ちょっと待って! この人、いきなりわたしの唇を奪ってきたわけで……!

 わたしが首をぶんぶんと横に振ってなんとか理性を保とうとしていると、男の人はふと思い出したように言った。

「ああ、これは大変、失礼しました。自己紹介がまだでした」

 そして姿勢を正すと、まるでドラマで見る執事のように右手を胸の下に当て、上半身を折り曲げると、

「僕はここ九十九コールセンターにおいてセンター長を務めている稲野涼音と申します。萩原様、これからどうぞよろしくお願いいたします」

「あ……、え……、はい……!?」

 ファーストキスの件に気を取られていたわたしは、予想外の言葉に一瞬ぽかんとしてしまう。

「センター……長?」

 わたしは慌ててお父さんの書いた紹介状を取り出し、目を皿のようにして冒頭部分を見返す。

『九十九コールセンター株式会社 センター長 稲野涼音 様』

 そして、わたしは呆けたように紹介状と目の前の男性の間で、視線を往復させる。

 間違い無い。この宛名のセンター長というのが、今、この目の前に立っている男性だ。でも、こんなに若いなんて……。

 男性は相好を崩し、紹介状を覗き込んで言う。

「ああ、懐かしい字ですね。青磁君らしい個性的な字です」

 そのときだった。

 扉が勢い良く開かれる音がして、白無垢の女性――氷林さんが足早に部屋に入ってきた。元から白かった顔が更に青白くなっている。そして、わたしを見るなり深々と頭を下げ、震える声で言った。

「萩原様、大変、申し訳ございませんでした」

「…………え?」

「なんとお詫びしたら良いか……」

「えっと、あの……。か、顔を上げてください! わたし、そんな、謝られることなんてなにも……」

 もう、さっきから立て続けになにがなんだかわからない。

「いいえ。これは私の失態です。てっきりご事情は全てお父様から聞かれているものだと早合点していたので……」

「お父さん……? 事情……?」

「驚かすつもりは毛頭ありませんでしたが、結果として萩原様にショックを与えてしまったことは事実。九十九コールセンターに所属するあやかしが理由も無く人間を脅かすなど御法度中の御法度。本当に申し訳ございません」

 まただ。さっきも、あやかしって単語が出ていたけど……。

 わたしは氷林さんと稲野さんを交互に見る。

「……ええと、あやかしって、あの、妖怪とか、そういう意味の……?」

 わたしの問いに稲野さんがにこやかに答えた。

「ええ。その通りです。ここはあやかしたちの仕事場。人の世でひっそりと生きるあやかしたちが、生活の糧を得るために、日々、勤労に励む場所なのです」

 なにがなんだかわからない。

「ええと、じゃあ、さっき見た化け物たちみたいなのが電話を受けている光景って、夢じゃなくて本当に……?」

 と、氷林さんは小さく頷いて、部屋の端にあるブラインドが下ろされた大きな窓の近くに寄っていき、端にある紐を引っ張った。

 そして、かちゃんと音がして、ブラインドが開けられた瞬間、わたしはあんぐりと口を開けてしまう。

 嵌め殺しのガラス戸の向こう側では、ヘッドセットを被った沢山のあやかしたちがずらりと並んだモニターの前で電話を架けていた。

 再び卒倒しそうになったわたしを、稲野さんがそっと支えてくれる。

「大丈夫ですか?」

「なんとか……」

 わたしの様子を見た氷林さんが慌ててブラインドを降ろし、

「あっ! ……も、申し訳ありませんっ! またしても、気が回らず……!」

 何度も頭を下げてくる。

「氷林君が気に病む必要は無いですよ。これに関しては彼女の父親――青磁君に問題があります。彼の共同創業者として、僕の方こそお詫びしなければいけません」

 稲野さんはそう言うと氷林さんに向かって頭を下げた。

 彼女が目を真ん丸く見開き、おろおろする。

「そ、そんな、センター長こそ頭を上げてください! 私なんかに……!」

 ええと、話の流れからすると、お父さんと稲野さんが共同創業者? ……どういうこと?

 頭から煙が出そうになっていると、稲野さんと目が合い、小さく微笑みかけられる。わたしはまたもさっきのキスを思い出し、気恥ずかしくなって目を逸らす。

 それと同時にふと思う。話の流れからすると、稲野さんもあやかしなんだろうけど、一体、どういうあやかしなんだろうか。ぱっと見た目、普通の人間にしか見えないのだけれど……。

 わたしが変な顔をしていたせいだろう、稲野さんが言った。

「ああ、失礼しました。こちらだけで勝手に話をしてしまいまして。コーヒーでもお持ちしましょう」

 稲野さんがわたしにソファに座るように促すと、自分も向かい側に腰掛け、その隣に落ち込んだ顔の氷林さんが座った。

 そして、稲野さんが二回手を叩いた途端、入口の扉がかちゃりと開いたかと思うと、数匹の白いイタチが「きゅー」「きゅー」言いながら、まるで御神輿のようにコーヒーを載せたトレイを運んで入って来た。

 ……この子たちって、さっきロッカールームにいた子の仲間……?

「なんか増殖しているような……」

 そして、イタチたちは応接テーブルの上にコーヒーを置くと、「きゅっ」と一礼して退室。わたしは目眩がして思わず額を手で押さえる。

「さて、萩原様にはきちんとご説明をしたいと思います」

 稲野さんが膝の上で手を組んで言った。

「まず、前提として、ここは現代に生きるあやかしたちが生活の糧を得るために働くコールセンター、というところまではよろしいでしょうか?」

「は、はい……」

 わたしは色々なことを一旦、脇に置いておくことに決めた。色々、不思議な現象を目にしてしまったわけだし。あやかしのことも、お父さんのことも、そして、キスの件も……。いや……、最後のは、そう簡単には割り切れないけれど。

「でも……、なんでコールセンターなんですか? お仕事は他にも色々あると思うんですが……」

「良いご質問ですね」

 稲野さんが嬉しそうに言った。

「そうですね。それでは、コールセンターの特徴とあやかしの姿を同時に考えていただけますでしょうか? なにかわかりませんか?」

「ええと、コールセンターは電話を通じて声だけでお客様とやりとりをするところで……、あやかしさんたちは恐ろしい姿をしていて……、って……、あ……!」

 合点が行って思わず両手をぱちんと合わせてしまった。

「電話なら、あやかしさんの姿を見せなくてもお仕事が出来るから!?」

「その通りです。さすが青磁君の娘さん。良い勘をしていらっしゃいます」

 お父さんのことを高く評価しているのはちょっと微妙だったけど、褒められて悪い気はしない。

「ここは一般の企業様などから、電話でのお客様対応を行うお仕事を請け負っています。萩原様が入社試験で対応してくださったテレビ通販の受付もその一つです」

「はあ……」

 そういえば、とわたしは思い出す。

 確か、ついこの前まで勤めていたブラック企業も、お客様センターは外の企業にまるごと委託していた。研修でコールセンターに行ったとき、そこに全く別の会社の看板が掛かっていて戸惑ったことを覚えている。

 氷林さんが会社案内と思しきリーフレットをテーブルの上に広げて言った。

「当社の従業員数は約五百匹、席数は二百席あります。従業員はシフトに従って出社した後、空いている席に座って電話対応を行います」

 リーフレットでは、会社概要や設備紹介、サービス内容といったものが、ふんだんな写真を使って紹介されている。なお、写真にはあやかしの姿は無く、代わりに人間の姿が写っているのは、これが人間の企業向けの会社案内だからなのだろう。なんか釈然としないけど……。

 続いて、氷林さんがぺらりと一ページ捲ると、人の名前がずらりと並んでいるページが出て来た。上から代表取締役社長、代表取締役副社長、常務取締役執行役員、……といった具合。

 …………って!?

 そこで、わたしは思わずぎょっとして身を乗り出す。

「お、お父さん……!?」

 代表取締役社長という文字の横に、萩原青磁という名前が記載されている。

「しゃ、社長……!? お父さんが……?」

 目眩がした。

 稲野さんと共同創業者というくらいなんだから、そこに名前が書かれていてもおかしくないんだけど……。

「ええと、一体どういう経緯で、こんなことに……」

 稲野さんが両手を膝の上で組み、穏やかに言った。

「そんなに難しいお話ではありません。青磁君と僕は幼なじみでして、よくここのお社で一緒に遊んだ仲なのです。青磁君はときどき人間にいらっしゃる、あやかしの見える方なんですよ」

「へ……?」

「青磁君は昔から我々あやかしに心を寄せてくださる方で、大人になられて様々なビジネスを手がけられるようになった後も、常にあやかしたちの厳しい暮らしぶりを気にされていました」

「厳しい暮らし……?」

「ええ。今の日本はあやかしたちにとって決して住みやすい場所とはいえませんからね。特に高度経済成長期以降の大規模な国土開発を境にあやかしの住処はぐっと減ってしまいましたから」

 氷林さんがどこか懐かしそうな表情になって話を引き継ぐ。

「それでも、私たちは不器用ながらも人間社会に紛れて生活をして参りました。人間に化けられるあやかしは人間の会社に交じって、化けることの出来ないあやかしは下町の古い家屋などで内職の仕事をすることで、生計を立ててきたのです」

「はあ……」

 なんだか、ピンとこない。人間の会社にあやかしが交じっているなんて言われても……。

「ですが、一九九〇年代のバブル経済の崩壊と、それをきっかけにした長引く不況によって、我々はのっぴきならない状況に追い込まれました。主な就業先であった農林水産業はもとより、製造業の大幅な縮小によって、職にあぶれるあやかしが続出する事態となったのです。人間様でもリストラされる方が続出したわけですから、いわんや、世間に疎いあやかしをや、といったところでしょうか」

 と、氷林さんが目を輝かせながら、ずい、と体を前に乗り出した。

「そんな中、その厳しい状況を打破すべく立ち上がられたのが、稲野様と青磁様なのです。生活に困窮したあやかしたちを助けるべく、当時、業界として伸びていたコールセンターアウトソーシング業務に目をつけ、あやかし専門の会社として興したのです。顔を見せずに出来るお仕事は、人間に化けることが出来ないあやかしにとっても大きな救いとなったのです。これも全て稲野様と青磁様のご慧眼あってのこと! お二方は、我々この地に住むあやかしたちにとって命の恩人と言っても過言ではありません!」

 そう言って氷林さんは握った拳でどんとテーブルを叩き、途端、ガラス製の天板がお茶うけのお菓子やコーヒーカップごと凍り付いてしまった。

 稲野さんが苦笑しつつ続ける。

「いやいや、コールセンターが良いと考え出したのは青磁君で、僕はそのお手伝いをしただけですよ。あのときの青磁君は、我々あやかしのことをとても心配してくれましてね。会社設立のために文字通り駆け回ってくれたんです」

「はあ……」

 なんだかあのちゃらんぽらんなお父さんが必死になっているところなんて、信じられない。

「営業は二人で手分けしつつ、青磁君が、法人登記をはじめとした人間社会における手続きを行う一方で、僕は従業員たるあやかしたちの募集や業務に関わる研修を行いました。そのとき、やはり社長は人間の方が良いだろう、とのことで、青磁君に社長になっていただいたのです」

「で、でも、お父さん、日本にはここ数年帰ってきていませんけど……」

 そんなのが社長で大丈夫なんですか? というわたしの疑問を見越したのか、稲野さんは笑って言った。

「大丈夫ですよ。だいたいのことは僕たちでなんとかなりますから。それに本当に重要なことを決めるときにはネットを使えばいいのです。便利な時代になったものですね」

「はあ……」

 改めて凍り付いてぱりぱりになってしまった会社案内に視線を落とし、副社長のところに記載された稲野さんの名前を見る。不在の社長に代わってこの会社を切り盛りしているというわけだ。そう思うと急に申し訳無い気持ちになる。出来ればこの場でお父さんに代わって謝りたい。

 と、稲野さんが改めて姿勢を正して言った。

「さて、萩原様には明日からこちらで働いていただくことになるわけですが、ここからは初期配属についてご相談したいと思います。まず始めに履歴書と職務経歴書を拝見してもよろしいでしょうか?」

 え……、と一瞬固まる。

 いや、入社試験を受けたわけだから、そういう流れになるのは当然だと思うけど、でも、あやかしの会社だなんてことは当然、全く想定していなかったわけで。

「どうかなさいましたか?」

 わたしが戸惑いに身動きが取れないでいると、稲野さんが訝しげに尋ねてきた。

「あの……、わたし、本当にここで働くことになるんでしょうか? いや、その……、ありがたいお話なんですが、正直、今、色々混乱していて……」

 もし仮にこれが夢じゃないとして、あの妖怪たちの中で仕事をするのがどういうことかなんて、全く想像が出来ない。というか、食べられちゃったりするようなことは無いのだろうか。いや、十分にあり得る。

「他にも同時に検討されている企業様があるのでしょうか?」

「いえ、特にそういうわけではないのですけれど……」

 と、目の前の二人が顔を見合わせた後、稲野さんが顎に手をやって言った。

「それは困りましたね。僕たちとしては、萩原様にはゆくゆくは現社長の後継者として、この九十九コールセンターを率いていただくべく、準備をしていたところなんですが」

 ……………………へ?

 現社長の……、後継者? 誰が……?

「青磁君とはかねてから、ゆくゆくは萩原様に跡を継いでいただきたいという話をしていたんですよ。ある程度のビジネス経験を積まれたら、この九十九コールセンターに入社いただき、次期社長として辣腕を揮っていただこうと。予定より二、三年早まってしまいましたが」

「あ、いえ、その……!」

 もはや、わたしの頭の中はパニック状態だ。次期社長とか、本当にわけがわからないんだけど! ……というか、お父さん! 一体、わたしをどうしようとしていたわけ!?

 気まずい沈黙が一分程度続いた後、思案顔だった稲野さんが顔を上げて言った。

「そうですね、そうしますと、これはご提案なのですが、お試し期間を設けるというのはいかがでしょうか?」

「お試し……期間……?」

「はい」

 こちらを安心させるように微笑みを浮かべる。

「あやかしの会社ということで不安をお持ちでしたら、お試しで勤務されてみては、と考えております。期間は萩原様がご納得されるまで。勿論、途中で弊社との相性が合わないとご判断されるなら、そこで終わりにしても結構です。退職されたからといってなにも不利益はありませんし、その後の再就職についても、あやかしのネットワークを使って、萩原様がちゃんとした人間の企業……俗に言うホワイトな企業に決まるまでお世話させていただきたいと考えております」

 そして、一呼吸を置くと、真顔になって続けた。

「とはいえ、僕らとしては、萩原様がそんなご選択をなさらないよう、全力でご支援させていただくとともに、愛想を尽かされないように日々の業務に取り組む所存です」

「え、ええと……、その……」

 わたしは口籠もってしまう。

 正直言って、人間の会社ですら一年も持たなかった自分が、あやかしたちの運営するこの会社でやっていけるとは到底思えない。

 とはいえ……、悲しいかな、今の自分は無職だ。このまま再就職出来なかったら、ニート人生まっしぐらだ。

 それに、稲野さんの出してくれた条件は、正直、破格すぎるほど良いものだった。なにせ、もし合わなければ他社への就職まで面倒を見てくれるというのだ。

 だけど、ここは、人間の会社じゃないし。でも、条件は良いし……。

 思考が堂々巡りし、頭の中がぐちゃぐちゃになる。

 ……ええい、もう、どうにでもなれ!

 わたしは半ば自棄になって顔を上げると、目の前の二人を見て言った。

「わ、わかりました! それでは、お試しということではありますが、是非、こちらで働かせていただけませんでしょうか」

 途端、稲野さんの顔が和らぎ、氷林さんの顔がパッと明るくなった。

「……良かったです!」

 氷林さんがわたしの傍にやってくると、冷たい両手でわたしの手を握ってきて、上下に振った。

「明日からよろしくお願いしますね、萩原様!」

「は……、はい……。こちらこそ、お願いいたします……!」

 稲野さんが言った。

「では、明日の出社は事務手続きの関係で通常より少し早いですが、辰の刻、午前八時にお願いいたします。それと、朝礼で簡単な自己紹介をしていただきますので、そちらの準備をお願いします」

「えっと、自己紹介、ですか……?」

 一瞬、気が重たくなったけど、こればかりは仕方無い。

「この建物へいらっしゃるには、今日と同じように手前の稲荷社にお参りしていただいた上で、参道を上がっていただければ良いですよ。そうそう、それには……」

 そう言いながら稲野さんは、テーブルの上に置かれたままの紹介状をおもむろに左手で持ち上げると、右の掌を天井に向ける。何をするんだろうと思った次の瞬間だった。

 その掌の上にぼうっ、と青い炎が生まれた。炎の形は丸く、掌の上から数センチのところをふわふわと浮いている。

「…………!?」

 続いて、稲野さんが紹介状をその炎の中にくべ、紙はたちまちのうちに燃え始める。ただし、炎の色は青色のまま。

「あ、あの、なにをされて……」

 問い掛けようとしてわたしは再びぎょっとして言葉を失う。

 稲野さんの姿が少し変わっているように見えたからだ。

 輪郭はぼやけているが、頭にはピンと三角に尖った耳のようなものが生えていて、髪は稲穂色に光っているようにも見える。そして、その後ろにはふさふさの獣の尻尾のようなものが沢山生えている。

 一瞬、頭の中に、狐、という言葉が浮かぶ。

 そして、稲野さんがまるで蓋をするかのように左手を炎の上に被せると、しゅっ、という音がして炎が消え、その右手には燃えたはずの紹介状が、焦げ目一つ無く、そのまま残っていた。

 それに加え、目の前には先程と変わらない、スーツ姿の稲野さん。狐のような耳も、大きな尻尾も無い。

 えっと、今のなに……?

 わたしはあんぐりと口を開けたまま、なにも言えずにただ目の前の光景を見つめているほか無い。

「さあ、出来ました」

 稲野さんがテーブルの上に紹介状を広げると、わたしはますます困惑した。

 紙の上に描かれていたはずの地図が消え、代わりに蛇がのたくったような奇妙な文字が書かれていたからだ。それは、墓地とかに立てられている長い板……、卒塔婆の文字に似ている。

「この紹介状が、建物に入るためのお札になっているのですよ。人間の方は、これを身につけていないと、この建物自体にたどり着けないようになっています」

 稲野さんはそう説明しながら、紙を手元に引き寄せ、切手くらいのサイズまで小さく折りたたむと、小さな布製の黄金色の袋に入れた。そして、赤い紐で巾着状に縛り、わたしの前に差し出してくれる。

「明日からはこれを身につけてきてください」

「は、はあ……」

 じゃあ、わたしがこの建物にたどり着けたのは、お父さんのふざけた紹介状を持っていたから、ということ……?

 狐につままれたような顔をしてお守りを受け取ったそのとき、部屋の中からぼーん、ぼーん、という鐘が鳴る音が聞こえた。音のする方に視線を向けると、そこには午後五時を示す柱時計。

「ああ、もうこんな時間ですね。萩原様、随分お疲れになったことでしょう。明日に備えて今日はゆっくり休んでください」

 そして、稲野さんは少し微笑んで続けた。

「それではまた明日」


 ――そのときだった。


 不意に目眩がして、視界が白い靄のようなものに包まれた。

 え……?

 転ばないようにとっさに右手を前に出すと、石のざらついた感覚。恐る恐る目を開くと、そこには石造りの階段があった。

 耳にヒグラシの鳴く声が盛大に飛び込んでくる。

 立ち上がって顔を上げると、そこにはお社があった。振り返ると夕焼け空を背景に、お稲荷様がじっとわたしを見下ろしている。

「ここって……」

 今日の昼前に、お参りした社だった。

 わたしは呆然とその場に立ち尽くす。さっきまでわたしは九十九コールセンターというあやかしたちが働く会社にいたはずなのに。

 それは全部夢だったというのだろうか?

 一歩も動けないでいるわたしの頬を、微温い風が撫でていく。ヒグラシの声に混じって、遠くから豆腐屋さんのラッパの音が聞こえてくる。